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2014-12-30

五十鈴川だより、を読んでくださった皆様、今年一年大変お世話になりました。

30日の朝です。昨日で年内の仕事が終わりました。27日から人間6人犬猫各一匹の暮らしとなり、にわかに我が家はににぎやかな声が飛び交っています。

それもこれも、やはり一家の影の大黒柱、母がしっかりと見守ってくれているからなのだということが、身にしみてわかる年齢をようやくにして私も迎えています。

寄る歳波は、いかんともしがたいと母はのたまいます。ガタがあちこちに来ているとも。でも私から見ると、こんな風に歳を重ねられたら、いうことはないと思えるほどにいまだしっかりとしています。

昨夜も、夕食後全員でカードをして遊んだのですが、ばっちりと遊べるのには感心してしまいました。きっと幼少のころから体を動かし続けてきたからなのでしょう、いまだ体と意識がしっかりと動くことには驚かされます。

まさに、どんなことでも続けてきたからこそだ、と私には思われます。物事すべて、どんな些細なことであれ、継続あらばこそ、小さき花も咲かせることができるのでしょう。

そういうわけで、我が家はつましきなかに、全員がおかげさまで健康な年の瀬を迎えています。今日は全員で午前中お墓参りにゆき、お正月のお飾りを手作りし、それからは、おのおの個人的な用事を済ませることになっています。

私は、新しいパソコンを買うことにしているのですが、心強き怜君が付き合ってくれるそうです。多分年明けから、写真入りのブログが書けるようになると思います。

私は、文章が書きたくてパソコンを始めました。インターネットができて、写真が入れられて、文章が書ければ、ほとんど私にはほかの必要はないとさえ言えるくらいの、簡素なパソコンで十分なので、きっと怜君が私に合ったパソコンを選んでくれるでしょう。

長年使ってきたこのパソコンには、十分愛着があるのですが、いかんせん写真が載せられないのが。でも長きにわたって、写真がない我が文字だけのブログを読んでくださった方達には感謝の言葉しかありません。

慌ただしき日々の中で、私が毎日のように開いて読みたくなるのは藤原新也さんのブログくらいしかありません。ことほど左様に、私にとっての現実時間は有限なのだという思いを意識せざるを得ない年齢、可能な時間を自分らしく過ごせればと思います。

もっと書けば、藤原さんの文章を読むと、その意識の若々しさにこちらもすごくみずみずしくなる(なれるような)のです。

ともあれ、明日は大みそか、おそらく今日が年内最後のブログになるかも知れません。五十鈴川だよりを、読んでくださった方々、本当に心からありがたく思っています、ありがとうございました。良いお年を。

2014-12-27

師走の寒い朝、気づくことの感覚を深めてゆく。

私ごときでも何かと忙しい師走を送っていますが、先日の上京師走旅は、世間とは間逆の時間が過ごせた、まさに忙中閑ありの気ままな旅を送り、ことのほか充実したいつもとは異なる時間が流れました。

そのことに関しては、また大みそかまでに書きたいと今は考えています。実は今日先日会ったばかりの娘夫婦が飛行機で帰省してくるので、岡山空港まで迎えに行かなくてはならないのです。

ところで4日休んで、おとといから仕事をしています。仕事から帰って干し柿や、海の牡蠣を夕方友人知人に送ったりしているのですが、まさに流れるように時間が流れてゆきます。

干し柿は、母や妻のおかげでそれなりの干し柿をつくることができました。これまでの人生でいろんな方々にお世話になり、今の自分があるのを感謝し、これからは何か自分で手をくわえて送る楽しみみたいなことを、普段から深めてゆきたいと思う私です。

今年もあとわずかとなりました。本当は私も今日からお正月休みの予定だったのですが、急な仕事(ありがたいことです)が入り、休日返上でもう数日仕事に出ることになりました。

そういうわけで今日は、お休みに入った妻や家族とともに終日過ごそうと思います。母がお正月だけは我が家で過ごすので、普段3人で過ごすには広い家なのですが、大みそかからしばし6人での生活になるので、にぎやかになります。

母は柿と牡蠣が好物なのです。昨夜は夕飯時、薪ストーブで牡蠣を蒸して食したのですが、大変喜んで(82歳ですが)、しっかりと健啖家ぶりをいまだ発揮し、お酒も少し飲んで結局泊まりまして、今上でやすんでいます。

毎年思うことですが、なにはともあれ家族が健康に生活でき、仲良く日々が送れることのなんたる平凡の極みというしかない当たり前なことが、実はまったく当たり前ではないのだということへの深遠なる気づきは、歳とともに深まってゆく私です。

気づきが深まれば、感謝する気持ちもおのずと深まり、物事は良き方向へと好転してゆくのだという気が、最近ことのほかにします。そういう方向に自分で自分を運んでゆくと言いますか、自分で自分をのせてゆくという感覚。

言葉にすれば、遊ぶという感覚が私にはいちばんしっくりきます。整理整頓、掃除やお料理あらゆる手間のかかる年末雑事の数々を、感謝の気づきで遊んでこなしてゆくことが、肝心だと小生思います。

すっきりした部屋に(花一輪)いると、心がおだやかになります。そういう気持ちになれるのは、すべて身体が健やかに動けるからなのです。一事が万事、そうなのだと確信します。十分寝て朝起きて、すっきりとブログが書ける、仕事に行ける、アクションが起こせる。

ということが、私の場合今の暮らしで一番大切にしていることです。最近珈琲も(大好きなので)少し控えるようになってきましたし、玄米(8割くらい)と野菜中心の食生活に替えたこともあるかもしれないのですが、ことのほかに体が軽く調子がいいのです。

食べ物は、命の源、いのちについての考えを(これまであまりにも考えが足りなかった、考えてこなかった)これからは深めてゆきたいと思います。気づく感覚を深めれば、もっともっとこれからが面白くなるそんな予感がします、、後は気づいたら実践する。(そこがちょっとむつかしいかな)




2014-12-20

一度部屋を暖め、ストーブを消し、厚着をし昔ヒトになった気持ちで、なんとか書きました。

こんなにも落ち着いた静かな歳のせは、岡山にやってきて初めてではないかという気がしている。

それから、企画をするということを一度もしなかったということにおいても、やはり何かが終わって自分の人生の中での何かが変わり始めたのだということが、実感として表れ始めた年、という気もしている。

企画をするということは、自分の時間が限りなくなくなる。くどく書くことは控える。ようするに手間暇、お金がかかるということに尽きる。そのような中、40歳から61歳まで、大中小(企画の)良くも悪くも、家族には多くの迷惑を書けながらも続けられたことには、まことに幸福なことであった。

過去形にしたのは、一つの区切り。今はまだ何の実績もないし、農業も初めてようやく一年をわずかに過ぎたばかりだから、夢は広がっても今しばらくは静かに土に親しむ時間が、私には必要なのである。

話は変わるが、このところのたて続きの寒波で、サンナンの畑が大きな打撃をこうむった。詳細は省く。専務も気象のことだけになすすべがない。それでも、ユーモアをもって、我々に接してくれているのは突き抜けた、神経の持ち主というしかない。

使われいる側の我が身としては、その心中は察するに余りある。ヒトはいざとなった時に、その真価が問われる。サンナンのわずかな人数の農のチームは素人にけがはえたようなメンバーだが、皆心やさしき人たちばかりである。

アベノミクスの恩恵を被らない、(ニュースではほとんど報じられないが)中小企業の円安による資材の高騰は、金属部門には大きな負担らしい。大きな会社のベースアップなどが報じられるが、真実の実態はほとんど報じられない現実には、多くの庶民が年の瀬の寒さとともに、嘘寒さを感じているのではないかという気がする。

さて、そこでどうするかである。短き朝ブログでは伝えきらないものの、最小のお金をうまく使い、企画を続けてきた経験から思うことは、何をするにも無理は禁物という、鉄則である。

そういう時は、時は金なり、静かに学ぶ時間にあてる、それしかない。18歳から、夢的時間を追求する人生を送ってきたがために、仇やおろそかには無駄遣いをしなかったからこそ、私は今を何とか生きていられる、という実感がある。

ここはしのいで、なんとかギリギリのところでと、専務はもちろん、私もほかの面々も考えている。しばし、会社の労働時間を削りながら(自分の農の時間はへらさない)サンナンの農の灯をと考る。

安全な空気、水や食べ物在っての、経済(人生)ではないかと愚直に私は考える。何より家族が安心して暮せ、そして、その上での文化的な暮らしが、ささやかに営める社会こそが豊かなのだ。根のない暮らしは空しい。

ともあれ、身の丈に合った暮らしを持続しながら、希望の持てる農や文化的な暮らしが、可能かどうか、今しばらく身体が動く限り私は考え続ける。

来年のことを考えると鬼が笑うというけれど、土があれば作物は育つ、自由な時間、サンナンの日高畑で修行しながらいろんな根菜類なんかをメインに植えて、無農薬、無化学肥料で育てた(少々やせていびつでも)作物を、、直接買ってくださる方々に販売するつもりである。

そうやって、もし利潤が出たら、私はその利潤で再出発企画を打ちたく思っている、お百姓企画。お野菜のおまけがある、相互交流映画会とか、何かつつましく暮らしている方が、元気になるような企画が育めれば、私は楽しい。

小さくとも、暮らしに根を張る消費文化ではないものを、老春企画したいものです。

ところで、明日から水曜日まで上京、老春旅します。親友に会い、畑から飛び出し、未知の人に会います。

2014-12-18

最近野菜そばにはまっています。

師走半ば、北海道を中心になにやらすごい寒気団が日本列島をすっぽりと覆っています。今朝は我が部屋もかなり冷えて、頭髪が限りなく薄い我が頭が冷えて目が覚め、いつもより一時間早く床を抜け出して、台所でおやつの玄米お結びを仕込んだりしながら、一通り身支度を済ませ、おもむろにパソコンに向かっています。

ところで、最近と言ってもまだ一月にも満たないのですが、家族との兼ね合いの中で、おもに主食を玄米に切り替え、食事も限りなく野菜に替え、脂っこいものは遠ざけるように心懸けています。

この内的な変化は、ドレスデンから帰ってきてからなのですが、風邪はひいたもののきわめて体調が良くなってきているのを、実感しています。体重も数十年ぶりに60キロを切り、現在59キロと、60キロを行ったり来たり繰り返しています。

このくらいの体重が、私にはベストという感じが最近しています。農の仕事を始める前までは、64キロくらいありましたから、明らかに身体が軽くなってきた実感があります。

和食が最近限りなく見直されてくる前から、私は日本食が大好きなので、基本的には事もなしなのですが、やはりこの半世紀の限りなき、歯止めな洋風化の食生活が我が家の食卓にも押し寄せてきていたのです。

農の仕事を始めてから、食べ物に関して一層心を配るようになってきました。スーパーの買い物も
注意深くするよになりました。田中愛子先生(91歳、お元気です)の本を読んでからの影響がじんわりと私の中で起こってきつつあります。やはり、その年齢にならないと分からないことがあるのですね。

歳とともに体は変化しますから、おのずと食生活も変化してゆくのが当たり前、何よりもあらゆる動植物の命を頂き、人間は生きているのですから、私自身もっともっと食べ物に関して学ばなければいけないと、反省しているのです。

やはり寄る歳波のせいもあるかと思いますが、限りなく小さいころに食べていたものがあれば、もうほかに要らないというくらい、急に体が変化してきたのを感じています。

意識が変われば、やはり体が変わるということだと思います。小さいころの、粗食の影響かもしれないのですが、痩せの多食い的なところがあったのですが、何事も過ぎたるは、ということではと反省しきりの、このころなのです。

何回か、リセットをしているということを、書いたかと思うのですが、反省する、見直す、あらためる、そのことを、実践する。言うは易しですが、実践しないことには意味がないのですから、何事も気づきから。

生きていればこその気づきなのですから、これはと感じる体心(からだこころ)があれば、こともなげに、最近はやれる自分が育ってきました。

ところで、最近私は昼食は乾麺のそばを湯で、野菜そばを自己流でつくることが多いのですが、これがおいしいのです。サンナンの畑の空き地で、専務が植えた無農薬のにんじんをたくさん入れた、シンブルそのものの野菜そば。

日によって我が家の春菊や、母に頂いた小松菜、大根、いろんな在り合わせの野菜を、最低3種類は組み合わせます。

出汁は市販のものを半分、半分は先日高知で買ってきたカツオぶし。自分でちょっと工夫すれば驚くほどおいしい年齢にあった昼食をつくることができます。おまけに食費が安上がりになりますし、いうことなしです。仕事で冷えたからだも温まります。

料理というほど、改まったものではなく、めざしを焼いたり、のりをまいたり、冷蔵庫にあるものを、手早く、さっと一工夫するだけの、まったくの手抜き昔風小さいころの母のやっていたのを、そのままやっています。

ぐるぐるめが回るような料理ではなく、限りなくシンプル安上がり、同じようなものを中心にちょっと変化をつければ、毎日おいしく、私は頂けます。一番大切なことは、感謝して頂く、これに尽きます。

2014-12-15

冬の朝、のらりくらりと、ブログ書き。

春の海、ひねもすのたり、のたりかな、というあまりにも有名な句があるが、冬やすみ、ひねもすのたり、のたりかな、といった心持ちの今朝の気分。

冬の朝、身がきりりと引き締まり、意識がしゃんとしているのが確認できると、にわかに何か書きつづりたくなるのが、休日の一日の事始めという感じに最近なりつつある。

寒い中、その寒さの感覚をどこか遠くに感じながら、珈琲をいれ、いの一番リビングの薪ストーブに火を入れる。火が起きたのを確認して、パソコンの部屋に戻り、ちいさな灯油ストーブにも火をともし、部屋が暖まったら、そのストーブを消し、静かな中で意識を徐々に集中しながら、頭に浮かぶよしなしごとを、書きつづる。

書きながら、さあ今日はどのような一日を過ごそうかと、書きつつ考えているしばしの時間が、事のほかに大好きになってきた。(ようにおもう)

ゆらりゆらりとたゆたう意識が、何やらとしっかりと定着してくる感じで、つまりは気持ちが安定し夕方までにやることが、おのずと決まってくるのである。

月曜日は、カルチャーでのレッスンが(生徒さんは一人ですがこれが楽しいのです。生徒さん次第です)あるので午前中は決まっているのですが、午後は何をしようかなんてことを、考えるのは、本当にこの年齢なればこその,いわくいいがたい悦楽的な余裕時間なのです。

何事かに追いかけられることのない一日。まったく一日を思うがままに不安なく過ごせるなんて、ありがたきかな、というしかないのです。母曰く、健康なればこそなのだ、との重みが、身にしみて分かります。

身体が動き、ブログが書け、家族が元気である安心感。やりたいことが、次々に湧きおこってくる今の暮らし向き。地に足をつけて充足しながらの静かな生活。

あんなにも若いころ右往左往していたのが、我がことながら嘘のようです。これが歳を重ねるということなのかもしれません。世はまさに、インターネット、グローバル化大変動時代の(私もその恩恵を頂いています、絶対矛盾を生きながら)まっただ中。

高みの見物という言葉があります。私にはとてもそのようなことができませんが、限りなく土に近い、低みの見物で、時代の推移を見守るしかない、といった心持ち。

地下水のように流れ、地下生活者的気分で、普遍的な根のある暮らしを見つめ続けるいとなみを、継続する。

ということで、総選挙翌日のあさブログは、これでお開き。みなさん年の瀬風邪にご注意、私もようやく回復してきましが、身体がだるく喉に来てしつこいですから。

2014-12-14

久しぶりの体調回復、師走半ばの朝ブログです。

先週の水曜日の夜、父の弟、つまり私の伯父が亡くなったという知らせが届き、急きょ宮崎の故郷にお葬式に帰ることになり、かなりハードな日々を過ごし、それと寒波が重なり、体調を崩していたのだが、なんとか、身体がブログを書くところまで回復してきた。

小さいころの元気なころの伯父さんの記憶しかないのですが、これまでの生きてきた中で、最も余裕がある私の今の暮らしなので、お別れに足を運べたことがつくずくよかったと、今私は思っています。

父が亡くなった時にも思ったのですが、確実にやってくるこの最後の時、という時間にたどり着くまで、(とくに私の場合ですが、還暦を過ぎて後)いかように生きていったらいいのかということを、時折ヒトは元気に生きているうちに、しっかりと確認する、そのことの大切さを改めて思い知らされました。

お葬式のお別れの時間の儀式というものは、死者と対話をするという意味で、この旅の思わぬ帰省時間は、慌ただしき師走の最中に、何か重要ないい時間が私の中で流れました。

何十年振りかで、いとこや親せきの顔に接したりすることもできた。諸行無常の感の中に、皆おのおのしっかりと生きてきたのだという、思わぬ再会の喜びなんかもあったりして、ヒトはやはりいざという時の、態度や振る舞いに、その人なりの生きて歩んできた何かが、如実に表れるものだということも再確認しました。

初めて独りで車で、四国は八幡浜から大分の臼杵にフェリーで渡り、そこから兄の家まで、木曜日西大寺を午後一時半に出て、夜の十時過ぎに着きました。金曜日がお葬式、翌土曜日逆コースをたどり西大寺に帰ってきたのですが、土曜日何と八幡浜に着いたら雪でこれには参りました。

時間があったのでもうこんなことはなかなかないということもあり、車でのお遍路気分がてら反対方向に車をむけ、宇和島から高知周りで倍の時間をかけて、独り車旅をすることができました。

まだ師走も半ば、一年を振り返るにはまだ早すぎますが、本当に一瞬先は何事が起こるかはまったく予期できません。これだけのハイテクノロジーの時代ではありますが、ヒトは未だ彷徨い歩くしかない哀しき器、というのが偽らざる私の認識です。だからこそ面白く生きる。

逆説めきますが、ヒトはその悲しき器を、精一杯生きることが悦びにつながるような生き方を、探すしかないというのが、現時点での私の認識です。以前も書いたと思います。世の中に絶望したりするまえに、自分に絶望せず自分の中に希望を見つけてゆく。

そこにこそ、生きてゆく妙味が無限に展開される、突き抜けた者にのみ新たな景色が広がっているのではないかという気が、私は最近します。昔はいろんなすぐれた人に憧れたりしたものですが、還暦を過ぎてからこちらは、そのようなことは日増しに(なくなりはしないのですが)少なくなってきました。

私自身、何度も希望を見失いかけたのですが、(運が良かったというしかないのですが)いろんな方々のお導きの上に、ささやかに現在を生きています。おそらく全人類のすべての方々が、きっとすれすれのところを、自覚無自覚はともあれ、生きているのではないかと。

霜に覆われた葱畑、寒気団のなか、朝陽が刺し貫いてきます。夜が明け、私もまた再生する。その永久の繰り返し。永遠に一日を、ヒトは生きるしかない。私の姓名には日が高いという文字が入っていまして、地名や町名、川の名前なんかもあるのですが、私はお陽様を信じています。どんな雨や嵐の日も、お陽様は出ています。

お陽様と私は、一喜一憂しながら、つながっているこの安心感は、私の中では絶対的なものです。だからなのだと思います、私がほんのちょっぴリノー天気なのは。

ともあれ、久しぶりのブログ、指の動く通り、ここらあたりでお開きですが、今日は選挙の日。もうなにがあっても驚かない年齢です、が、ああ、この国民の選択が大きな歴史の禍根にならないように祈りながら、私は選挙にゆき、自分自身の希望は自分で見つけようと思案します。



2014-12-02

師走、最初の真冬の寒波の朝に思う。

昨日から、早師走、選挙戦も本格的に始まり,何かとせわしなき感が漂うが、どんな日も一日は一日である。自分の一日の暮らしをまずはしっかりと過ごす、その点畑は一日一日微妙に変化するのでいやでも、いろんな意味で新鮮に向かいあうことを余儀なくされる。

だから私は、地のヒトとなって、働く日はあらゆるお天気(同じ日は二度とはない、毎日が歴史的に初めての日)に左右されながら、一喜一憂しながら畑時間を、自分なりのリズムで過ごす。その天とつながったアウトドアライフが、私には事のほかにあっている。

よもやまさか、晩年にこのような時間が過ごせる職場に巡り合うとは思いもしなかった。これで家族がおだやかに、つましく糊口をしのげれば、もうなにもいらない、といったいささか達観したような心持にもなろうかという風情。

が現実は、ますますもって厳しい農の仕事なのだが、五十鈴川だよりは、自分の中にささやかな希望を探し、見つけてゆくことを第一義にしている、個人的なわがまま(あるがまま)ブログなので、自分が大変な状況に遭った場合は速やかに、一時中断し、七転び八起きの体でまた再開したいと考える。

18歳から世の中に出て、つまずきながらも、なんとか生き延びられたのは、いろんな巡り合いの中で、あらゆる方々のお世話になったからだ。そのことは夢夢忘れてはならない。

さて、話は変わる。陽の出が遅くなってきたのにつれて、今日から出勤時間が30分遅くなった。だからいささか余裕のある朝時間なのである。季節に合わせて出勤タイムが変化する、なんて農の仕事だからこそである。夏と違って体力も消耗しないし、ブログを書く回数が冬場は増えるような予感がする。まあ、力まず騒がず流れのままに。

ところで、今日から一転真冬のような寒波がやってきているとのこと。今日の畑はきっと冷えることだろう、だから私は昨夜のうちに、軽くて暖かい手足対策、日高式防寒具を身につけて、畑に向かおうと考えている。どんな状況でも遊び心で、立ち向かう。

どんな嵐も、時間とともに過ぎてゆき終わり、又始まる。その往復運動のはざまに、いわばオーバーに言えば、人生が横たわっているのだ、と私は考えている。まさに物は考えようである、というしかない。

またもや話は変わる。今度の選挙の結果で、国の行く末がおそらく大転換するように思う。老若男女選挙権のある方々は、ぜひともなんとか足を運んでほしいと、思わずにはいられない。私自身のことですが、ボケるまではごまめの歯ぎしりであれ何であれ、選挙に足を運びたい。

そうしないと、あらゆるご先祖様に顔向けができないのである。だって、死者たち(歴史の上の、報われなかった無数の方々の、現代もだが)のおかげで、現在の平和な時代がやっと訪れているのだから。

私なんかの世代は、日本の歴史始まって以来の、平和で贅沢な時代を生きさせてもらっていると言っても過言ではない、といった認識が私にはある。

ときおり、両親と姉兄弟5人で幼かりしころの食卓を思い出す。思えば、なんとまあ、変化したことか。精神のぜい肉をそぎ落とし、考えることを遊びながらやりながら、選挙にゆくくらいで、投票する人が増えれば、とまあ再びごまめの歯ぎしり。

あきらめたり、絶望するのは、やはりおろか者であるとのとの立場に私は立つ。愚者ではあるが、選挙にはゆける。暴力ではなく、民主選挙を私は願う、というところで今朝はお開き。



2014-12-01

先週、日高怜君が里帰りしました。

先週末二日間、正式に我が家の一員となった娘婿、怜君が日高怜となって岡山仕事のついでに、里帰りした。娘は逆に札幌仕事で、怜君は単身で帰ってきた。怜君は、水質や土壌の専門家なのである。

今年は、フィリピンに何度も仕事で出かけていて、先月は3週間も滞在していた。世界が水をめぐって、経済闘争に入っているこの時代。企業にとって、安全で潤沢な水の確保は死活問題なのである。

私は初めて外国に出た25歳の時、パリで、一番安いワインが水よりも安かったことに驚いたが、日本でも自動販売機で、やがて水が買われることになる時代が来ようとは、当時は思いも及ばなかった。

日本では、飲める水をトイレでも流しているが、そのような極楽とんぼの国は日本を置いてほかにはないのではないかと思う。大陸、コンチネンタルと島国の相違、というにとどまらず、日本の多様な風土、地理的特殊性はいかんともしがたく、良し悪しは置くとして、日本人の精神性に多大な影響を与え続けている、と言わざるえない。

とまれ、なにやら深い話題に入ってゆきそうな我がブログだが、今日は午前中レッスンがあるので深入りしている時間がない。ごめんなさい。

さて怜君、すっかり我が家の一員になってきた感あり。そのことは、私にとっても、家族にとっても大きな悦びをもたらしてくれる存在となった。とくに、下の娘が怜君を初めてできた兄のように慕っていて、その影響のせいのようにも思えるが、この10月から、岡山は弓の町にある、怜君と同じ徳山道場の門下生となり、学び始めたのである。

これは父親の私にとって、事のほかに嬉しい最近の出来事なのである。次女はあらゆることに、のんびりした穏やかな性格なので、厳しい世の中に出て、きちんと世の荒波を乗り越えてゆくことができるのか、親としてははなはだ心配をしていたのだが、怜君をいろんな意味で頼りにしているのがうれしい。世代が近いのがいいのだ。

我が家に、私以外の頼りになる、若き男性が加わると、かくも我が家の女性陣が生き生きとしてくるものかと、私は驚く。おばあちゃんも生き生きしている。東京の怜君たちに食べてほしいのだと、新米をはじめ荷物になるのも構わず、持たせていた。

ともあれ、娘が異国の男性と新生活を始めたおかげで、我が家にも本格的に新しい風が吹き始めた。私の中にもなにやら言うに言えぬ、ありがたきかな、というしかない感情が芽生え始めていている。

時間の流れとともに、いやでも暮らしは変わってゆく。その中で、最も大切な愛情や、こまやかな思いやりを見失わない生活を心懸けたいと、母を見倣いながらおもう。ようようにして、一めぐり若い人たちの新しき生活のお役にたてるような、晩年ライフが送りたいものだと思う。

そのためには、これから何に重きを置いて日々を新たに送ってゆけばいいのか、ということを五十鈴川だよりで、迷いながらも書きつづりたい。

2014-11-30

雨上がり、畑での紅葉感覚を慈しむ。

昨日の朝の雨の中のネギ刈りのことなども含め、少し書きたい。

家を出るときは雨が上がっていたので、普段通り出かけ、k君(10月から、半年研修にきている19歳の青年)とともに畑に向かうころから、にわかに雨が降り始めたので、まず倉庫で雨合羽に着変えネギを刈り始めたのだが、雨が激しくなりぬかるみ、思うように手足が動かせなくなるなか、まるで修業僧のような気分で、黙々と身体を動かした。

K君も苦労しているのがわかる。このようなことは年に数回はかならずあるのだが、しんどい作業の時にこそ、人間の底力が問われるし、試される。私とてもなかなかに辛い状況ではあるのだが、とりあえず今日出荷する分のネギはどんなことがあっても刈らねばならない。

若いK君には私が刈ったネギを、ひたすらかごに入れ車に運んでもらい、私は刈ることに専念した。その間約一時間半、なんとか10かご刈り、8時には工場まで運ぶことができた。刈り終わるころには雨が上がっていた。

幸い終日降ることがなく、事なきを得たのだが、若いK君との思わぬ共同作業が私には楽しかった。これが一人ならしんどさは倍加したかもしれないのだが、研修中、悪戦苦闘する彼がいたおかげで、無心で刈れた。

こんな作業を、この年齢で苦もなくできる自分の現在の体は、やはり若いころからのあらゆる体験が、根底にあるからこそなのだと、つくずくありがたく思う。もっと書けば、今やれるうちに、どれだけのことが可能かというチャレンジの精神が、年齢を忘れさせて湧いてくるのだ。ネギ刈りトレーニング。

雨水が合羽から沁み、肌着が濡れて気持ちが悪かったが、着変えてさっぱりするとひと汗かいた身体が軽くなり、なんとも気持ちがよく、その後は雨上がりの青空のもと、気持ちよく仕事ができた。

ところで、紅葉の季節もほぼ終わりだが、私は畑へのゆき帰りや、畑から望める周辺の樹木の紅葉を今も楽しんでいる。畑に通じる農道には落ち葉がたまる。ひらひら舞い降りる落ち葉を、車から眺めながら走るのは、いとおかしき風情の極みである。

雨の後陽光に照らされた樹木の葉の美しさは、まさに沁みる。鮮やかさの極み、それも長くは続かず、神の摂理地面に還る。まさに日本の風土は循環芸術とさえ思える。

雨あがりの中腰を伸ばしながら、青空と雲の流れを望みながら、時折雑草も含めた周辺j樹木の色合いの変化を、足元、天空、日ごと愛で慈しむ。心に感じ入ることが多く味わえる職場である。

ことさらに、有名な景勝地にゆかずとも(ゆけなくとも)紅葉の晩秋は足元のそこかしこに在る。すぐ足もとに微妙な味わいとともに多元的豊穣な、豊かというしかない植物世界が広がっている。

ようようにして、それら畑周辺の植物世界と私自身の生がつながっていることが、かそけきなかにも感じられる歳になってきた。

生きていればこその、世界を見つける秋。畑の近くの家に大きな銀杏の樹があり、その家の小屋の屋根に一面びっしりと銀杏の葉が敷き詰められていたのを、先日見た。自然の織りなす美。

人間がこざかしくアートだなんだと(ごめんなさい、言葉が過ぎました)かまびしきご時世だが、じっとしていても、世界は実に多様で千変万化動いている、そのことを感知する感性を、元気な間は修行し、磨かなくてはと自戒する。

2014-11-24

小春日和の、初冬の朝に思う。

眼が覚め、さきほど運動公園にゆき、星空のもと、ほんの少し体を動かし、深呼吸し帰ってきた。西の空にはオリオンが瞬いていて、恒例のささやか懸垂は天空を見上げながらした。この歳で、懸垂を続けているのは(わずかな回数です)私なりにいつまで可能かという意味合いがあるだけだ。

以前も書いた気もするが、還暦前、数十年ぶりくらいに、鉄棒にぶら下がった時、まったくできなかったのには、少しショックを受けた。小さいころからどちらかと言えば、虚弱体質で痩せていた私は、懸垂が苦手だった。

そんなやわな私が、初めて懸垂に挑戦したのは、富良野塾に在籍していたあいだ、だ。卒塾してからはまたもや、慌ただしき日々に流されやっていなかった。

富良野で初めて、途方もなくあらゆるすごい肉体労働経験(やわな私にとってです)をすることで、私の精神と肉体は、まさしくかなり鍛えられたのだということを、実感する。

そのことが(やわな自分自身といやでも向かい合わないといけない状況)、富良野塾に参加して一番よかった。その体験は、生きてゆく上での、かなりの自信となり今に至っている。

困難な状況の中で、かすかに自分の中に希望の活路を見出しながら、薄皮をむいてゆくかのように、細心の注意で自己を対象化し、変化するおのれの心と体を確認しながら(時に停滞しながらも)なんとか一日一日、あきらめず、あきらめる、絶対矛盾を繰り返す青春の終わりの日々(今もである)。

この歳で、静かに思うことなのだが、自分にとって最も幸せな日々とは何かということを、いまだ考え続けながら生きている。まだまだ、、訳知り顔的なことはかきたくはない自分がいるし、右往左往しながら生きてゆくだけで、十分ではないかという気もすごくする。

話を懸垂に戻す、できなかったことができる悦びというものを、若いころに経験していると、この歳になってもそのささやかな経験は、肉体的には下り坂ではあれ、老春の悦びを再びもたらしてくれるということを、つくずく感じる。

何事にも3日坊主、根気が続かなかった私の前半の人生は、後半からちょっぴりと根を伸ばし始めた、ように思う。そしてようやくにして生きていることが面白くなり始めた、ように思う。チャップリンがいうように、ささやかな勇気をもって、無謀ではなく、元気な間はまず身体を動かしてから、考える。

若い時にこそ、やれるときにこそやっておかなければならないことが、もちろんあるが、それは本質的には老いてゆくにつれても変わらず、もっといえば、より深めて生きるところにこそ、その妙味があるような気さえ、最近はする。人生至るところに青山あり、なのだ。

今を生きている、自分の自由になる独り時間(大切な他者との時間も)をいかに気持ちよく過ごせるかということこそが、私にとってのこのところの肝要なことだとの、認識。

だから、そのささやかで貴重な時間を、愉快に過ごしたいので、できるだけ私はこれまでの時間の使い方を自省、反省し、静かに土の上にそっと立つ暮らしを意識して心懸けている。

(個人的に時代との乖離は深まるが、若い方々の中に素晴らしい感性の方々が育ってきているのを感じる。どちらかと言えば、自分も含めた同世代の情けなさはいかんともしがたいくらいだ)

土や自然は厳しいが、その中で作物を育て、艱難辛苦を生きてきた無名の、無数の我がご先祖をはじめとする、声なきこえを感知する側に、身を置いて考えてゆきたいとの思いが、まったく柄にもなく深まりつつある初冬の朝である。

2014-11-23

可能な限り、アンテナを立て、熱き血の流れる間は、五感を研ぎ澄ませたい、と考える朝。

週に5日働きながら、なおかつ自分のやりたいことを2日やりながら、限られた一日の時間をそれなりに大事に生きるようになってから、日々の暮らし方が以前にもましてシンプルになってきた(ように思う)。何か雲が流れるように日々が過ぎてゆきながら、も。

お休みの朝にしか、ゆったりとブログを書かなくなってきた。これは、良きことなのかどうかは、判然としないが、無理なく流れる五十鈴川、といった趣。

そんな中、数年前マイコプラズマ肺炎にかかってから、ずいぶん自分の体に留意する生活を送っている、(つもりの)私である。

とくに農の仕事をするようになってからは、身体の手入れをするようになってきたことは、以前も書いた記憶がある。週に3日は夕方や、早朝運動公園にゆき、最低30分近く身体を動かすということをこの3年間なんとか継続している。

そのせいかどうかは分からないが、歳を重ねながらも、還暦を過ぎてから、50代よりもはるかに体調がいい。あらゆるしがらみから解放されたことも大きい。

以前は、企画をしたりすることに、生きがい的な時間の使い方をしていたがために、動いて人に会うことに多くの時間を割いていたが、まったくそのようなことがなくなってしまい、世の中にでてから、初めてといってもいいくらいの静かな暮らしを、私はこの1年以上続けている。

そして、そのことが緩やかにまた、生活の変化をもたらしている。かといって私は人に会うことを避けているのではなく、会いたい人には会い、見たいフィルムは見、聴きたい音楽には足を運び、旅をしたくなったら旅をする、いわゆる自己正直自然体暮らしを、つまり一段と深めつつある。

考えてみると、軽薄この上ない性格の上に、不勉強でよくもまあ、この歳まで生きてこられたものだと冷や汗ものの感無きにしも非ず。しかもいまだ、ブログなどを書きつづって、ひや汗の上塗りを続けているのだから、雀100まで踊り忘れず、ということなのかもしれない。

だが、父が好んだ歌のように、【小さきは・小さきままに花もちぬ・庭の小(花)草の・静けさを見よ】自分もだんだんと、かく在りたいとの比重が増してきた、気がする。

がしかし、世の中の動きに目を転ずると、そうは安寛とはしていられないという思いにも強くかられる。師走の選挙、これまで世の中に出てから何度選挙に足を運んだことだろう。

突然、香港の選挙のことに思いだ至る。若者たち中心の公道を占拠しての異議申し立てのデモンストレーション。藤原新也さんの、WMでの現地からの写真報告は、ニュ―スではまったく伝わらない雰囲気を伝えていて、ものすごく素晴らしい。個人メディア。

70歳、命がけで伝える熱き心情には感服する。こういう、信頼できる方のWM情報を持っているだけで、畑にいながらも、私は世界とどこかでつながっている感覚をかろうじてキープしている。

私もまた、限界までは熱き老人のままに、つまりは人間としての自由や、なくしてはならないことに関しての、矜持をあまたの素晴らしき諸先輩から見習って、とささやかに思う。

自分たちの暮してゆく国の行く末は、自分たちが行動し(文字であれ、絵であれ、音楽であれ、あらゆる表現で)選挙に足を運び、議論を尽くし大事を決めてゆく。責任ある一人ひとりの民としての自覚を深めてゆくことがつくずく肝要だと思う。

投票しないということは、あまりにも物悲しい。戦後生まれとして、当たり前のように民主主義を享受してきたものとして、私ごときのブログでさえ、言論の自由が保障されなかったfら、書けないのだ。

歩きたいところを歩き、言いたいことがいえる、個人の自由と尊厳は、やはり一人ひとりが自分の頭、全身を使って考えてゆく力を身につけないと、またもやおおきな眼に見えない力に押し流され、歴史は繰り返す、なんて気のきいた言葉を自分は安全なところにいて、ほざいてしまう、そのような大人では、自分はありたくない。

香港の若者たちを見倣い、自由な発想で、ユーモアを忘れず、大事なことは、我がこととして受け止め、考える力を止めないためにも五十鈴川だよりで冷や汗をかきつつ、アンテナを立て素直に学びたい。

2014-11-19

高倉健さんが、おお亡くなりになりました。

高倉健さんがお亡くなりになりました。18歳で上京したころ、健さん(と呼ばせてください)のフィルムを、新宿や、池袋の映画館でオールナイトでよく見させていただきました。

短い時間では、とても書けない。ひとことお疲れさまでした、お安らかに、と我が五十鈴川だよりで書き記します。

あの時代の空気感が,切なく私の中に生々しく蘇ります。間接的であれ、大先輩と、昭和という時代の大部分を共有できたことは、かえすがえすもうれしく、今、思います。

なにがしかの思いを伝えることに、フィルムを通じて腐心されるお姿は、まさに感性の世界の住人にふさわしい生き方を全うされたように感じます。

時代に流されず、出演作品は少なくなるにもかかわらず、出る出ないとか、そういう次元を超えてかくも人生を賭して、映画俳優の道を全うされたことに関して、言葉がありません。

個人的に、い一度だけ私は健さんを見たことがあります。私が25歳の時、生まれて初めて有楽町の交通会館に、パスポートの申請に行った時、たまたま健さんがそこにおられました。上下のジーンズに黒い帽子、ひとこと、そのかっこよさに驚きました。雑踏の中で異彩を放っていました。

健さんは、撮影現場では座らないとの伝説を知りましたが、立ち姿があんなにかっこいい人は、後にも先にも見たことがありません。

私は女性ではないのでわからないのですが、男は(私は)どこかかっこつけるしか、ないという想いの中を、生きているような気がしています。

どこまで立っている姿が、しゃんとしているか、可能ならそのいくばくかを、健さんを見習って畑であれ、どこであれ立っていたいものだと、今あらためておもいます。

【あなたにほめられたくて】という健さんの本が書棚にあります。初版本、今となっては宝の本です。

昭和の大スター、夢を売る仕事に殉じた、高倉健さんのあの日の立ち姿は、これからはますます私の中で、生き続けるような気がします。

健さんの声が、いまだ頭の中を、駆け巡ります。これから畑にゆきます。可能な限り、男は立ち続けるしかない、とおもいます。

2014-11-17

時折、畑で王兵(ワンビン)監督のフィルムのシーンが回ります。

先日、王兵(ワンビン)監督の、三姉妹~雲南の子供、を見たことを書きました。以来、畑で働いていると、時折、フィルムのシーンシーンが脳裡の片隅で蘇ります。一度しか見ていなくても(一度で十分という気もします)です。(すぐれたフィルムはシーンが心に刻まれます)

ひたすら、理屈ではなく生きて食ってゆくために、かくも過酷な労働を、子供たちが支え合って、現代中国の、広い雲南地方の高度3200メートルの小さな村で生きているという事実、現実が、62歳の今を生きる私の暮らしを、みつめなおす、力を持つ、ということ。

手元にあるパンフレットの中に書かれている監督の言葉を、今初めてじっくりと読んでブログを書き始めました。

監督は、初めてこの村で暮らす、生きる子供たちが育ってきた信じがたいほどの困難な状況に胸を打たれ、貧しい農村の、この子供たちの現実を証言したいと思った、とあります。(きっと、ワンビン監督の中に、琴線の響き合う灯がともったのだと思います)

フィルムを見たもの(私が見た日は、20名くらいの方がみていたと思います)として、私自身普段の暮らしの中で、(流されながらも)ふと考えるのです。

利便性のモノにあふれた現代人の一人としての私の暮らしは、はたして心を豊かにするのかについては、はなはだ懐疑的であるという認識です。

経済発展という、美辞麗句や、消費活動に火をつける、あらゆるCM,コピーの裏で、かくも貧しき暮らしを強いられている、幼い子供たちの現実と、年収何億円という、言葉にいならないくらいの、ますますひどくなる経済格差は、どういった構造からなされるのかということについて、考える力(想像力)のない大人にはなりたくないものです。

労働の尊さとか、人間の尊厳とか、あらゆる美辞麗句が、新聞や多くのメディアで報じられます。あるいは政治家の言葉で。言葉に血が通わない、浮いた痩せた言葉が主にTVから垂れ流しのように氾濫する時代(今も変わらない)の渦中をこの40年生きてきた実感が、私にはあります。

その功罪を含めて、画面を眺め続けてているうちに、肉体(精神の血が流れるような企画にこそ、出会いたい)を見失ったのではないかという、哀しき思い、に至ります。

私がこの歳になって、畑で土(地面)に惹かれるのは、その失いつつある感覚を、ほんの少しでも取り戻したいという情動かも知れません。逆説ですが、雲南のワンビン監督の映像画面からは、あらゆる音(主に風)や、ジャガイモの土の匂い、血の通った寒さ、真実の思いやりが、ふつふつと伝わってきました。

じっと、漏れる光の中、土間にしゃがんでいる少女、かごいっぱい収穫した松の実を、背中にしょい大地をゆく少女、妹たちの虱を潰してやる少女、たたずんでいる風の中の少女は、次元の違う崇高な世界にぽっかりと浮かんでいるかのようでした。

私の記憶の中の、小さいころの貧しさの比ではありません、衣食足りて礼節を知る、と言いますが、そうはすんなりとゆかないところが人間の悲しい性、とも言えるかもしれません。

監督は、人間性とは何でしょうと、フィルムの向こう側から、問いを投げかけています。その答えは、フィルムを見た一人ひとりが考えるしかないと思います。

私も、畑で体を動かしながら、元気な間は私自身の哀しい性についても考え続けたいと思います。

ところで、王兵監督のプロフィールを読んでいたら、今日11月7日が(1967年)お誕生日とあります、街で生まれたのですが、飢饉のため幼少期を農村で過ごしたとも。14歳で父親をなくされ、父が働いていた職場で、14歳から24歳まで働き、魯迅美術学院写真学科に入ります。(後は省略)

こんな監督の略歴だからこそ、このようなフィルムが撮れたのだと【奇跡的な出会いというしかない】思います。




2014-11-16

ふと気づけえば、ブログを書き始めて5年が経ちました、そして思う休日の朝。

数ではなく、読んでくださる方がいるからこその五十鈴川だより、なんですがドレスデンへの旅しかり、きわめて個人的な思い入れの強い(いささかナルススティックなほどに)我がブログ、この歳になると、日常記録的な気配が濃厚な塩梅で、流れてゆきつつあるといった趣です。

気がつくと、とうに5年の歳月が、毎日ではないにもせよ過ぎています。以前は何か、毎日のように書くのが、苦しいなかにも愉しかったのですが、今は今のペースで書くのが、流れてゆくのが自分にはいい感じです。

無理せず、しかし可能な限り、日々の暮らしの中でのままならない、自分自身と向かい合う時間を持ちつつ、だれにも邪魔されず、書きつづってゆく朝のひとときを大切にしてゆきたいとの、思いです。

何度も書いているかとは思うのですが、農の仕事を始めてから自分で言うのもなんですが、いい意味で、限りなく煩悩が少なくなり、オーバーーではなく、世の中に出てから初めてと言っていいくらいに、気持ちがおだやかに生活、働いています。

これは、長女が結婚し次女も大学4年になり、限りなく親としての役目が減ってきているそのことも、おそらくは起因しているのだとは思いますが、いまはまだそう自己分析せず、眼の前の仕事や、やりたいことを、しっかりとやってゆきたいと、考える私です。

これまでもそうでしたが、ある程度無心にやり続けていると、次なる展開がおのずと開けてきたような気のする我がこれまでの人生、今でいうところのセレンディピティが起こったというしかないような。

その都度、なにがしかの転機や、節目を経験するたびに、また一から始めるしかないというような事を繰り返しながら、なんとか身過ぎ良すぎの果ての、今の暮らし。

夢が原退職後は、静かに隠居暮らしにあこがれていたりしたのですが、津波災害で遠野から大槌町にゆき、瓦礫の撤去作業をわずか2日体験してから、やはり何かが自分の中でかすかに変化し続けているのだ、という自覚があります。

ささやかに、自分も原点に還ろうと思ったのです。可能な限りのあらゆるリセットを自分に課すということを。還暦は遠野で迎えましたから、来年の2月でまる3年になります。早いというか、ついこの間という気もいたします。

冬は、限りなく精神的に冬眠したくなる私です。内性的な時間が持ちたくなるというのか、季節に添い寝するかのように。雪がしんしんと降りつもる遠野に、丸3年ぶりに出かけようかといま考えています。

共に2日間、瓦礫の撤去をした、今は故郷の山形に棲むKさんから、勤務地が変わったというお葉書をいただきました。わずかの出逢いの中で育まれた、kさんとの無私の関係性。無性にKさんにも会いたくなっている自分がいます。

あれから3年、大槌や箱崎の瓦礫の現場がどのように変化しているのか見たくなりました。元気で行ける間は、繰り返しあの現場をkさんとともに、訪れてみたいと思います。

2014-11-14

ネギを借りながら、できるだけ体に負担がこないように身体を動かす。

冬の本格的な訪れを告げるかのような今朝です。いつもより早く起きました。陽がだんだんと短くなり、お星様が瞬いていたり、先日はフルムーンが西の空に瞬いていて、じっくりと余裕を持って眺められる暮らしが気に入っている、私ライフです。

冬の朝は、歌なんかにもいろいろと書かれていたりしますから、やはり人の気持ちの中で、いろんな切り変わりの感情や、小さき思い出なんかが、私の場合にも蘇ったりして、私は嫌いではありません。

というよりも、日々是好日を生きることの中から、何かを感じつつ生きてゆきたい、生きてゆくのだという、ささやかな私の生き方に由来するのかもしれません。まさにお天気は人生そのものという気がいたします。

どんなときにも人間は、あらゆる瞬間、機会に自分自身が試されているのかもしれない、のだなあ、なんてことを私は思います。要は気の持ち方、心懸け次第で、状況はいかようにも転がってゆくということを感じるのです。

寒さを感じる中で、今生きている一日の始まりの中で、今日はどのように過ごそうかなんてちょっとの事を、トマトスープ(妻の作り置きです)を飲みながら考えるなんてことも、今を生きておればこその、ささやかな悦びと私は考えます。

仕事から帰ってからの、昼食を含めた大切な時間の使い方の、あれやこれやを考えるのも、一興です。

今仕事場では、朝一番ネギを手で刈ることで始まるのですが、かがむ、しゃがむ、座る、片足を建てる、膝だけで立つ、横座り、時折正座、つまり身体にかなりの負担を強いられますので、私は身体に負担がかからず、なるべく根気よく無駄なく作業が続けられるように、それらの動きを循環して続けています。

おかげさまで、この作業を苦も無くできる現在の自分をありがたく感じて日々を過ごしています。働く中での動きを、できるだけトレーニング的な動きに転化しているのです。だから、農の仕事は私にはとてもありがたいのです。

こんなにもストレスなく有酸素運動が、この歳でできる職場なんてそうはありません。ひと仕事していると、日が昇ってきます。お天気のいい日は、日の出をN氏とともにしばし眺めます。

日はまた昇り、日はまた沈む、畑で望める初冬の冬の日ノ出は格別です。さて今朝はどのような太陽が望めるのか、今から楽しみです

2014-11-10

11月10日の朝ブログ。

昨日のブログで書いたように、途中お昼ご飯を挟んで、母と妻と3人で午後3時までかかって、吊るし柿をつくった。全部で20列も吊るすことができた。今までで最も多い。

外は雨の降る中、家の中での3人作業はたのしかった。きっと、思いでの柿むき作業、母の老いた指の動きが、わたしの脳裏に刻まれた。

実は、その前の土曜日の夕方、仕事を終えてから、これまた3人で玉ねぎの苗を買いにゆき、サンナンの畑に玉ねぎを植えにもいったので、やることは異なるが、ずっと3人でこの週末は過ごしたことになる。

夕食も共にしたので、結局母は泊まることになり今上でやすんでいる。昨日は雨で肌寒かったので、初めて本格的に終日薪ストーブをたいた。温かい部屋での作業は言うことなし。

ところで薪ストーブは、薪の調達が悩みだったのだが、これまた母の家の近所の造園業者の方が、たくさんの不要の樹木をくださることになり、私は雨が上がったので、サンナンの軽トラックを借りて取りに行ってきた。

身体が動き、気が働く間は間は無理のない範囲で、つとめて身体を動かす、持ったり運んだりという、基本的な動きが自然なトレーニングになる。この樹木を切ってわって積んでと、薪作りの作業は続くのだが、積み上げてゆくのも愉しい。

年末、怜君が帰ってきたら共に薪作りをするのが今からたのしみだ。母の娘である妻を見ていると、これまた実によく動く。緩やかなのだが、何かしている、とくに最近は小さいころ娘たちが着ていた衣服の整理なんかも時間を見つけてやっている。

ガーデニングはもちろんのことだ、感心する。母がよく言う、健康だからこその動けるありがたさ、なのだと。おおげさだが、ささやかに生活の美というものを見つけてゆく暮らしが、ことのほか最近私は楽しい。感じて動く、ささやかライフかな。

やがてできなくなったときに、その事実をしっかりと受け入れられるように、やれる今をせいいっぱい感じて生きたいと、私は願っている。いろんなことを知る楽しみ、穏やかな時間が流れる今、言うことなし。

新聞ひとつ、きちんと読む時間があれば、世界には素晴らしき人の、何と多いことかと驚くばかりだ。驚き、自分の暮らしに活かす事ができれば、うすい皮がかすかに、かすかにむけてゆくように新しき何かが、自分に紡げるかもしれない。

よしんば、紡げなくともよし、ただ転がるように流れ、よどまないようにする、そのことを心懸ける。今日は、これからUさんとのレッスンに備え、シェイクスピアの【十二夜】の三幕を読みます。夜が明けました。

2014-11-09

晩秋、吊るし柿を吊るす、そして思う。

雨の日曜日の休日である。起きてからすでに数時間たっている。眼の前には先週のお休みの日につるした干し柿が見える。ほぼ一週間でかなり水分が抜け色が変化している。とあるところから思いもかけずいただいた渋柿。

昨年は思いかなわず、つるすことはできなかったのだが、今年は十分な量が吊るせそうである。夢が原で働いていたときに、よく吊るし柿をむいたので、そのせいか、すっかり私はその晩秋の日本の家々にかってはつるされていたであろう、風物詩的風情に惹かれてしまった。

元気な間は可能な限り、吊るし柿を趣味としたいという願いが、還暦を過ぎいよいよもって深まってきた。バリバリ働いていたときには、そんな余裕はしたくてもなかなか持てなかったが、ようやくにして、そのような精神的余裕の人生時間が訪れたのだから嬉しいのだ。

抜けるような秋の空のもと、むいたばかりの柿がつるされた時のう美しさはなんとも言えない。手間暇がかかるのだが、その手間をかけるというところに、いわば妙味があるのだ。古人達は飽きず倦まず、継続していたのに違いない。

そのような地道な暮らしを慈しみながら、日々の暮らしをささやかに彩ることが、にわかに最近愉しくなってきた。年末、友人知人にささやかに配布するのが今から楽しみである。

さて、吊るし柿は母と妻との3人での共同作業で続けている。もちろん先生は母であるが、この事に関してはしっかりと我々が受け継いだので、怜君や、娘たちにも伝えたく思う。実は今日もこれから午前中母が来てから、吊るし柿第二弾をつくる予定なのだ。

幸い母がとても元気なので、3人での柿むき作業はとても楽しい。今やれる、眼の前のことを、3人できっちりと楽しむ時間を限りなく大切にしたいのだ。妻は週末のほとんどの時間を母と過ごしていて、私も時折参加させてもらうのだが、母は週末のお昼ご飯や、夕飯を我々とともにするのをとても楽しみにしている。

ちょっとした、散歩や買い物や、ガーデニング、あれやこれ他を共にすることがとても楽しく嬉しそうなのである。いまだ自転車でやってきて、時折は泊まるのだが、一人で気丈夫に生きている姿を見るにつけ、自分もかくありたく今から見倣っておこうと思う。

何をするにつけても、いきなりはできないのだから、ゆっくりゆっくりと自問自答しながら歩むしかない。穏やかな雨の静かな朝は、思索するのにふさわしい。

あれやこれや、生きていると様々な瑣事をこなさねばならないが、時折は無為に何もしないひとときがことのほか重要である。それでなくても現代は、途方方もなく神経消耗の過酷な時代なのだから。

ゆっくり書いて、ゆっくり読んで、ゆっくリズムでの晩年ライフは、私の場合、まいまいカタツムリのように進むのが、事のほかに楽しめそうな気配なのである。12月に入ったら、在来線でまたK氏に会いに上京しようかと考えたりしてる、本を持って。

ささやかにK氏の退職祝いもしたいのだ。ともあれ、無心でバカなことを言い合いながら、柿をむいていると、不思議といろんなアイデアが浮かぶ。脳が完全リラックス、シナプスが紡がれるのではないかと、言う気がする。

読むことも、書くことも、あらゆることがリラックスしていないと、シナプスは活性化しないようなきが私はする。完全にお休みした脳は、また緩やかに動き始める。だから熟睡した朝にしか、私は文章が書けない。

2014-11-03

岡山映画祭で王兵(ワンビン)監督作品・三姉妹~雲南の子を見ました。

昨夜・岡山映画祭で(10月31日から11月24日まで普段映画館には見ることのできない作品がラインアップされています)王兵監督作品・三姉妹~雲南の子を見ることができました。

ちょっと衝撃的な作品で、いまはまだ見たばかりで、私のつたなき一文では、正直なにも書く気にはならないのですが【五十鈴川だより】を読まれている方には、【6日(木)午後一時】から、天神山文化プラザでもう一度上映されますので、お時間がある方は、是非見ていただきたく思います。

夢が原で働いていたときには、土日、祭日はほとんど働いていたために、岡山映画祭、気にはしていたのですが、ほとんど見ることがかないませんでしたが、今年からは日曜日がお休みなので、少しゆけます。

これは私にとってとてもうれしいことです。岡山映画祭実行委員会のO氏は、私にとってとても信頼できる仕事をされている方です。このような作品を遠くの都市までゆかずとも、岡山で見ることができるのは、ありがたいです。

私も数十年、ささやかに企画の仕事を、無手勝流でやってきた経験から、ほんの少しその大変さが理解できる(ような)気がします。

O氏も語っていますが、映画は観客が見ることによって完成すると。足を運ぶ観客が多くなる、そのうちの一人になるくらいのことしかできないのですが、そのことは肝要なことであると、私は思います。

これから、超高齢化社会に突入しますが、高齢者になってゆく私にとって、これからは、昨夜見たような作品に出会うべく、信頼できる友人知人たちが推薦するフィルムには、可能な限り足を運びたく、その思いを新たにしました。

若いころすぐれた映画(に止まらず)をみたからこそ、今までなんとか生きられたとさえ思える私にとっては、インプットとアウトプットのバランス良く、生きて生活してゆくために欠かせない精神のビタミンフィルムが必要です。

昨夜、見たようなフィルムに出会うと、小さき頃の個人的原風景の記憶が盛んに刺激されて、言葉がなくなりました。そして、現在のおのれの姿があぶり出されてきたのです。

王兵(ワンビン)監督・私よりも15歳若い、1967年生まれの名前は私の脳裏にびしっと刻まれました。

2014-11-02

休日は、サンナンのネギの行商を、との思い深まる秋。

頻度的に、以前のようにはブログを書かなくなってから、なにやら、よりゆったりと五十鈴川だよりは、流れているという感じです。

ともあれ、毎日ではありませんが、書き始めてから5年の歳月が流れ、五十鈴川だよりになってからも、自分なりの右往左往ぶりが、お恥ずかしながら、映っているように書いている私には感じられます。

人生の締め切りを、かなり意識するようになってから、よりシンプルに自分の日常ライフに重きを置いて、身近なきわめて個人的ライフを記しておきたいという風な感じに微妙に変化しながら、流れつつある、なあという認識です。

これは、いい意味で年を重ねている妙とも言えますし、身体が老いてきつつある証左である、という認識も持っています。

途中、夢が原の仕事を辞した時点で一区切りとも考えましたが、怜君があっという間に五十鈴川だよりを、立ち上げてくれたおかげで、のらりくらり流れています。川は蛇行しながら流れてゆきます。

私自身毛細血管のように、小さき流れを可能な限り、ままよ、あるがままにという感じでこの先も流れてゆければ、との思いです。

さて、ドレスデンの旅を書いている間も、平日は畑で働き、週二回シェイクスピアを読むといった暮らしを、継続しています。自分で言うのもなんですが、充実した日々があっという間にながれてゆきます。

おかげさまで、書きたい出来事、思いつくよしなし事には事欠きません。生命の連鎖は一瞬のお休みもなく最後まで続いてゆきます。おりおりの日々を深く意識すると、生きてゆくことの愉しき発見は、枚挙にいとまがないほどに、見つけられるということなのです。

できるだけ、余分な情報は斜めで見ながら、身体を素通りさせ(世の中のいちいちに、神経過敏になっていたら、身が持ちません)、かといって最低のアンテナは立てながら、穏やかで静かな暮らしを心がけています。

ところで、サンナンの農部門、相撲でいえば得俵にかかった状態が続いています。限られたメンバーで背水の陣で働いています。なるようにしかならないというのは、あるのですが、A専務のもと、一丸となってこの難局を乗り切りたく、一働く人間として動いています、というに今はとどめます。

私が働き始めて一年、開墾から始めた畑で収穫した、完全無農薬のネギの出荷が10月中旬から始まっています。サンナンのホームページもできましたので、ご覧になってください。

日本の農薬漬け(世界の)農業の実態を知るにつけ、あまりのおぞましさにゾッとします。このような命を無視した、経済優先農業は、きっと将来禍根を残すと確信します。大上段に憂えるのではなく、一人ひとり気づいたときから、身の回りの土をいじり、安全な食物をつくりネットワークしてゆかないと、と小生にわかに思います。

まず自分から、アクションを起こし、生活を見直すしかありません。幸い私の場合、母がいるので今のうちにいろんなことを、教わっておきたく思います。一番肝要なことは、子育ても同じですが、作物に対する愛情だと思います。

サンナンのネギ、いまは取次に卸していますが、なんとか直販売もしたいものです。もし必要な方いらしたら、ぜひご一報ください。何としても、サンナンの農を継続したく、微力を尽くします。

休日、ネギの行商でもしたいくらいです。還暦を過ぎ小生の時間は、過去にさかのぼること、はなはだしき感無きにしも非ずですが、小生の記憶の原風景は、行商のおじさんおばさんたちなのですから、あの日に還りたい私としては、なんとか身体が元気なうちにと、思うのです。

2014-10-27

ドレスデンへの旅を書き終え、思うこと。

読み返してみると、誤字や、日にちの間違い、変換ミスが多くなんともお恥ずかしくはあれど、ほぼひと月以上かかって、お休みの日に体調を整え集中してなんとか終えることができた・ドレスデンへの旅。読み返すともっと書いておきたいことが、次々に起こってくるのだが、その時に即興的に浮かんできた、ライブブログ文章なので、そのままでいい、と思う。

書き終えて思うことは、あらためて体力気力、それにやはりこれが一番肝心なことなのだが、素直に、無心になれる時間がないと、つたなくはあれ、文章は紡げないということである。でも、今回は何としても書いておきたいという、内なる思いが強く、正直書き終えてほっとしている。

人間同時に二つのことは、とくに私のような単細胞はなかなかにできない。頭のスイッチを切り替えることが、なかなかに難しいのである。仕事をしながら、日々なにがしかのことを抱えながら、でも個人にとっての大切なことを、きちんと整理しておくことは、やはり肝要なことではないかと思う。

人間は忘れゆく生き物である。だからこそ新鮮に生きられる、とも思う。だが、瞬間どうしても忘れたくはないというような切実な出来事は、書いておくにこしたことはないと、最近歳を重ねるに従って思うようになってきつつある。

人生には締め切りがあるということ、このことだけは元気なあいだ、考えることができる間は、夢夢忘れてはならないことだと思う。だから、今日も私は書いているのかもしれない。若い時にはそんなことは考えもしなかったが、若い時には若い時にしかできないことを、やればいいのだから。

実は今朝眼が覚めて、夜明け前の暗い中、所々昨夜の雨で水たまりができている運動公園にゆき、散歩がてら軽い運動をして、もどって残り湯を沸かし、さっぱりしてから書き始めたのだが、体調がいい。気分がいい、前向きになれる。

これまで、ブログは起きて間もない時間に書くことがほとんどだったのだが、それを止め、休日のブログは朝の散歩の後に書くことにした。休日の朝をメインに週に2,3回貝つづることができたら、と考える。平日は畑仕事と、わずかな読書タイムでほとんどが過ぎてゆくので、そうは書けない。

これからは、書くための体力の維持が(なにをするにおいてもなのだが)、ことのほか重要、との自覚が私の中に、目覚めてきた。特にドレスデンから帰ってきてからは。食生活も含めて、何かを変えたいという、にわかな思いが強まってきたのである。

若い時には体力に無自覚だが、この歳になると足が上がらなくなったり、筋力の衰えなんかをあちらこちら自覚するようになる。だから、自覚があるうちに、なんとか衰えゆく、我が肉体を少しでも刺激し、そのための工夫に対してより自覚を深めないと、といわば考え始めたのである。

でもつらいことはしたくはないし、無理もしたくはないので、愉しい範囲での無理を、いわば心懸ける、といったたぐいの努力を自分に課すことにした。努力ということをほとんどしない人生を自分は歩んできたし、今更できないことは承知しているので、遊ぶ程度の。

遊ぶということが、人間にとって最も大切なことだという認識が私にはある。自分が遊ぶためには少々のおカネが必要、だから、知恵を絞る。私の旅は最低限のお金がいる。だが、旅をしない時、私が遊ぶのにはほとん度お金が不要である。

古いぼろい服を着てても、清潔に洗濯してあれば、、十分にトレーニングできるし、普段の暮らしは、次の旅への愉しい節約ライフでもある。目的があれば、日々の暮らしが、必然的に充実してくる。工夫を凝らすことで、脳のシナプスも活性化するようなライフうスタイルを、心懸けたい。

つつましやかに暮らしながら、時折ちょっぴりの自分らしいぜいたくを実行する。人と比較しない、しえない、なぜなら人は、それぞれ異なる固有の個体だからである。参考にはなっても(しても)、自分はあくまでも自分でしかない、自分というくびきからは逃れようもない。

だから私は還暦退職を機に、可能な限りのあらゆるリセットをこの数年遅々と進めている、つもり(あまりはかどってはいませんが)なのだが、娘が嫁いだことでなにやら、ゆるやかな自覚的変化がより訪れてきたように思える。


























2014-10-26

ドレスデンへの旅・8・【最終回】

プラハの空港を発つのは午後4時半だったので、ホテルで目覚めてすぐ朝のホテル界隈を3人で散歩した。最高の場所にホテルは位置していた。。昨夜の小雨は上がっていて抜けるような青空。娘がおいしいコーヒーを飲みたいというので、すぐ近くのプラハのスターバックスに入った。

ケバい看板がなく、石畳の街並みにまったく違和感なく、溶け込んでるお店づくりで、その点はまったく感心した。かなり高めの値段なのだが、それなりにはやっていたのは、やはり観光客が多いからなのだろう。

早朝はさすがに人気も少なく、昨夜はあんなににぎわっていた、レストランやお土産売りのお店なんかはまだ閉まっていて、のんびりと散策するにはもってこいだった。娘は一足早くホテルに戻ったが、ひんやり秋の気温が心地いい。私と妻は中心市街をそぞろ歩いた。

ホテルの小窓から、人が昇っている姿が望めた、きっと有名な時計台がある塔が、9時からエレベーターが動き登れたので、中心部の高いところから、これもプラハの思い出にと、二人で上った。もちろん入場料がいる。

上って本当によかった。朝日に照らされた、快晴の市の中心部からの旧市街の眺めは、今も眼底に焼き付いている。オレンジの色の屋根また屋根が、なんとも見事にひしめいていて、カレル橋や昨日散策した、教会も対岸に見える。

塔は四角形で、360度歩け、すべて見渡せる。遠くにしかビルディングが見えない。見知らぬ若いアジア系の女性に写真を撮ってくださいと頼まれたので、もちろん撮ってあげたのだが、欧米系始め中国や台湾、韓国、日本の観光客が多い。

わずかの滞在だったが、あらためてプラハという街の人気がうかがえた、その人気の秘密は何かにわかに知りたくなったが、ドレスデンにしかないなにか、プラハにしかない何か、ベルリンにしかない何か、がきっと旅人をひきつけるのだろう。

妻とヨーロッパの街を二人して歩いたのは、34歳の新婚旅行以来、もちろん東欧の街を旅したのは初めて、繰り返すが娘が異国の男性と結ばれなかったら、おそらくこのような番外の旅は我々には訪れなかったかもしれない。

たんなる観光の旅はできたかもしれないが、今回のような意外性の連続の旅は、まず不可能ではないかと思う。人知の及ばぬ、何かのお導きというしかない、生涯にそうは何度も訪れない類の旅だというしかない。

話は変わるが、父は晩年、散々苦労をかけた母と、国内外どこへゆくにも二人で出かけた。昔気質丸出しの、無骨極まりない、大正男児そのものというしかないくらい、生き方が直線的な父だったが、最近感じるのはその父に自分が限りなく近づきつつあるという、ちょっと困ったなあ、というほろ苦い認識である。

だがしかし、あの両親のDNAを色濃く受け継ぎ、この世に生を受け、その後の時代環境の中で育まれた厄介な自分の性格を引きずりながら、生き恥さらして今後も生きるほかはないことは、自明の理なれど、今回の思わぬ旅は、晩年のこれからをいかに生きてゆくかの、大きなターニングポイントの旅であったことは、間違いない。

だからなのかもしれない、ドレスデンへの旅を、このようなかたちで綴りたくなるなんてことは考えもしなかったが、とにもかくにも、なんとか8回書くことができたことは、何とはなしにうれしい。

最後、プラハの塔から眺めた時、今回の旅はこれで終わりという感慨がにわかにわき起こってきた。頭の切り替えができ日本に帰るぞと思った。最後のクローネの小銭で、思い出に数枚の絵ハガキを買った。その塔の絵ハガキは妻が我が家の階段に飾った、懐かしい。

話は戻り、古い螺旋階段ホテルに戻って荷造りしチェックアウト、苦労して何とかたどり着いたこのホテルのことは忘れない。チャンスがあったら次回は一階に泊まってみたい。ワゴンタクシーでほかの客と乗り合わせ、一週間前着いたプラハの空港に余裕を持って向かった。

空港では待ち時間がたっぷり合ったので、この一週間の印象的な出来事をメモしているうちに、帰国のフライトタイムとなった。プラハの空港は広々としていて清潔で、余計なお店が少なくさっぱりしていて落ち着けたた。

入管検査では、入国も出国も一切手荷持元検査がなかったことにも驚いた。ソウル・インチョンとのあまりの違い。時代は変わるのだということの認識を新たにした。

行きはインチョンから大韓空港でプラハへ。帰りはチェコの航空会社でインチョンに向かった。インチョンから関西空港へ、旅は終わった。


2014-10-22

ドレスデンへの旅・7

いよいよ帰国する朝を迎えた。昨日の結婚式の余韻が続いているが、頭を切り替え、帰国の荷造り、冷蔵庫の中の食べ物をすべて確認し、食べきれないものは、プラハまでの旅の道中で食べることにした。(パンやハムやチーズなど)

昨夜はとても遅かったはずの怜君と娘が、8時にはやってきて共に朝食、滞りなく無事に式を終えほっとしている様子がうかがえた。私たちも、眼に見えない何か大きな力に支えられて、この二人の門出をしっかりと見届けられた安ど感で、ただひたすらほっとした。娘たちは我々よりも2日長く滞在するので帰国は3人での旅。

午前11時、キッチンや部屋を片付け、一週間過ごしいたホテルをチェックアウト。ペーターさんとアンケさんが見送りに来てくれる。ペーターさんとは、そこでお別れ、ドレスデンの地図をくださった(帰国後妻が階段の壁ににはった)。寡黙だが、素敵なお父さん、この人とは友達になれる、日本での再会を約束した。

ドレスデンンの駅までは、アンケさんが車でおくってくれた。駅までは20分くらい、アンケさんはドイツ語しか話せないので、車中沈黙が続いたが、表情やしぐさで思いが伝わってきた。駅で最後のお別れ、アンケさんの目がこころなしか潤んでいた。

私たちは、とてもアンケさんに好感をもった。余計なことではあったが、親友K氏に頂いた気に入っていたナウいジャケットを持参していたので、それを息子さんに急にあげたくなった。彼の15歳の今の体格なら、私が着るよりも、きっと彼がきる方が似合うと思ったのだ。アンケさんは、微笑みながら受取ってくれた。

午後1時06分発のハンガリー・ブタペスト行き(プラハは途中である)に乗って、私たちはプラハに向かった。汽車はなんと、ひたすらエルベ川をさかのぼってプラハまで走る。ドレスデンに着いた日以外は、すべてお天気に恵まれた今回の旅、プラハまでの2時間11分、車窓からの眺めを存分に満喫しながら、昨日の結婚式の余韻に私は浸った。

妻と娘はさすがに疲れているのだろう、すやすやと寝入っていた。私は冷蔵庫に余っていたパンやチーズやハムを取り出し、ビールを飲んだ。ドイツのビールは、安くてしかもうまい。つまみのチーズやハムがこれまた最高。そうこうしているうちにあっという間に汽車はプラハに着いた。

怜君が、せっかくプラハ経由なのだから、最後にプラハに一泊するようにホテルを予約してくれていた。おんぶにだっこの今回の旅。すべて、怜君がこまやかにあれやこれやの気遣いを我々に対してしてくれていた。

一昔前のように、パスポートのチェックもなく単に移動した感覚だったが、やはりプラハは似てはいるが、異国であった。一日だけの滞在だったので、駅で円をクローネというチェコの通貨に替えた。

両替をしてくれた男性にたずねると、ホテルまでは乗り換えて地下鉄で行けると教えてくれた。タクシーで行けば、両替したお金のほとんどが消えてしまう。考えた末、重い荷物を3人引きずりながらプラハの地下鉄を体感すべく、乗り場を探してクローネの小銭で(券売機)切符を買った。

プラハの地下鉄の料金は時間制で、一時間ごとに料金が異なる。ところ変わればで、面白い。なんとか地下鉄に乗った。さてどこで乗り換えるか、車内の高校生くらいの女の子2人にたずねると、親切に教えてくれた。

驚いたことに、かなり年配の男性が自転車持参で乗り込んでくる、これまた、ところ変わればで、面白い。乗り換える駅に到着、次に乗る地下鉄を、今度は30代の男性に確認すると、これまた親切に教えてくれる。人間困ったら、よく人を見て、あらゆることにすがるのだ。いい意味で旅の恥はかき捨て。

さてなんとか、ホテルのある旧市街中心部の駅に着いた。後で考えるとそこからホテルまでの距離は大したことはないのだが、重い荷物を引きずるのには、でこぼこの石畳は誠に持って負担が大きい、がしかし、何人かの人にこれまた訊ねながら、目指すようやくホテルにたどり着いた。

タクシーに乗るのは簡単だが、好奇心と体力が許す限りは、できる限り五感をフルに動かした方が、記憶が頭ではなく身体に刻まれる。ただ、無謀なことはしないほうがいい。夜だったら、タクシーを使ったと思う。

その時はたいへんなのだが、やはり旅は苦労したほど印象深く脳裏に刻まれる。怜君が予約したホテルは、本当に古い古い中世の建物を改装したなんとも味わいのあるホテルだった。雰囲気はいいのだが、エレベーターがない。

我々の部屋は一番上の屋根裏部屋、向こうの数え方では3階に当たるが、0階があるので、3階と言っても4回、その迷路のような曲がりくねった階段を重い荷物を運び上げるのは、いささかの難行苦行であった。

最後、無理やり部屋にした屋根裏に通じる、ヒト一人がようやく歩ける細い階段をおもい荷物を抱えてすりぬけるのは、今思い出しても二度とはしたくないくらいだ。

だがその細い階段をを登りきると、広い空間にベッドが3つゆったりと置かれていて、3星ホテルの意味が納得できた。重い荷物から解放され、ともあれほっとし、すぐに小窓から望めると、プラハの街並みの一部が、かすかに望めた。うーむ、古い遺産的建物が密集している。

午後五時ころ、少し休憩した後せっかくのプラハ、妻と私と娘の3人で歩いて、かの有名なカレル橋を目指した。ホテルの人があるいて行けるというので、いつものように、曲がりくねった、ここは中世そのまま、時の流れにが止まったままというか、違う時代に彷徨いこんだかのような、石畳の路地を歩いた。

最短距離を歩けば15分もかからないところに、カレル橋はあったが、我々はその倍くらいの時間を費やして念願の橋にたどり着いた。陽はまだ高く、秋を迎えたプラハ、カレル橋周辺は観光客ごったがえしていた。人の波で穏やかな気分で橋を渡るなんてとんでもない。

スリに気をつけて、バッグをしっかり持ちながらの記念撮影、早々に橋を渡り、対岸の小高い教会を目指して、3人で気の赴くままに、ぶらぶら散策。次女は2年前の冬、怜君たちと来たことがあるので、盛んにここは来たことがある、来たことがあると、口にしていた。

それにしても、妻も娘もよく歩いた。3人でカレル橋周辺を歩いた記憶は、おそらく次女の中では、長きにわたって記憶に残るだろう。特におそらく有名な教会なのだろう、そこに通じる長い石畳の階段はさすがに疲れた。(娘がのどが渇き、その場で絞って飲ませてくれるオレンジジュースで、なんとかしのいだことも、今書いていて思い出した)

教会にたどり着いた。そこからの、プラハの街の眺めは、これまた格別というほかなかった。やすんでは眺めた。ホテルへの帰り路は、カレル橋ではなく、観光客のいない普通の橋を歩くことにした。

橋の手前のベンチで休んでいると、何やら急に小雨が降ってきたので、夕闇せまるなか急ぎ足でホテルに向かう。3人で相談し、夕飯はホテルでしようということになり、ホテルの近くのケバブとピザの店でテイクアウト、小さな雑貨屋で、飲み物も調達した。

ホテルで、つつましく夕飯をすませた後、シャワーをを浴びさっぱりして、今度は私と妻の二人きりで、夜のカレル橋を眺めに出かけた。手前の橋から、美しくライトアップされたカレル橋を二人して眺めた。

わずかな滞在のプラハであったが、異邦人の私にとってはまったく別世界、映画でみた素朴な中世が丸ごと残っている古都という印象、(ローマなんかとはまるで違う)華美ではなく、堅牢な中世の建物が、カレル橋をはさん両岸にひしめき合っている。ドレスデンと似ているが、路が狭くまるで迷路のような都。(無知な私は、プラハの歴史を俄然知りたくなりました)

夜の都はことのほか闇が濃く、路地裏を一人で歩くのは、あまりにも明るい日本の都市から来るとちょっと怖い。厳しい夜の長い冬を想像すると、明るい日差しの宮崎育ちの私にはいささか暗すぎる。小雨のなか、街灯やレストランからこぼれるかすかな明かりで黒く光る石畳は、時折不気味に感じるほどだった。

大国に絶えず脅かされながら、苦難の歴史を抱えた多くの東欧諸国の中の一つ、チェコ、ひと昔前だったらゆくことさえ叶わなかった邦なのだ。そこに偶然立っている我が身が、何か名状しがたい感覚に襲われた。

ホテルに戻って、ベッドに横になっても何か落ち着かず、一人では広い屋根裏部屋はちょっと怖い。日本の本でもないと過ごせない。またいつの日にか是非プラハを訪れたい。その時まで、ほんのわずかであれ、東欧の歴史を学んでおきたい。













2014-10-19

ドレスデンへの旅・6・【結婚式当日に思ったこと】

今日は10月18日、ちょうど娘の結婚式から一月がたったが、未だあの日の出来事は、鮮やかに記憶の中で蘇る。

式は公的機関の、村の役所が持つ古い由緒ある建物で、つつましやかに行われた。参加者は、親族と友人のみで厳粛に進み行われた。

娘のドレスアップした、花嫁姿を見たときには率直に美しいと思った、友人のチェンバロ奏者、新谷さんのCDの曲で入場してきた二人を見たときには、ジーン胸が熱くなった。

式進行をつかさどる女性が美しいドイツ語で語る言葉の数々を、怜君の大学時代の友人のT氏が見事に通訳してくれるので、すべてが理解できたし、簡素で充実この上ない儀式を私も妻もしっかりと眼に焼き付けた。

式を終え外に出ると、この地方での結婚式には欠かせない、手なずけられた白いハト(7羽くらい)が花嫁花婿を祝福する、いわば幸せの伝道師的芸の名人が待機していた。思いもかけぬ余興を全員で楽しんだ後、近くのカフェレストランに移動して、かるいランチをしながら、初めて会う方達とご挨拶款談。通訳のT氏がついていてくれたので、、まったく問題なく嬉しく。そして助かった。

午後2時半、場所を移動。エルベ川が眼の前の素敵なレストランで総勢60名に及ぶ結婚披露パーティが始まった。、それはそれは、用意周到に準備され、楽しく構成演出されたパーティで、あらためて、怜君の人間力が多面的に発揮された見事なパーティでした。

パーティは、それぞれの両親のお祝いの言葉で粛々と始まり、(私もスピーチをしました)参加者全員の人柄がわかるゲーム、自由に席を行き来しながらの、ケーキのティータイム款談、夕方1時間半のエルベ川散策オフタイム。

このオフタイムが、ことのほか印象深く残っています。おのおのビールやワインを抱えて、初めて会う方達と、記念写真を撮ったり、言葉を交わしたのですが、私は最年長の怜君のおばあさんと款談しました。

若いころからの、たいへんな時代を生きたお話に聞き入りました。ドレスデンの最も激しい空爆が、2月の13日だったのを聴いたときには思わず驚きました。私の誕生日だったからです。ますます、私はドレスデンに、何やらわからない近しさを覚えました。通訳はすべてT氏がしてくれました。

話は余談ですが、3月10日、母の命日ですが、東京大空襲の日です。今もシリアや、イラクや、パレスチナやアフガニスタンで、空爆が行われ、ややもすると遠い異国の出来事と、無関心になりがちですが、落とす側と、落とされる側では、天国と地獄です。(最低の世界の非常時に耳を澄ます想像力は、元気な間は見失いたくはないものです)

話を戻して、それを終えてから、ディナータイム、子供たちへのプレゼントタイム、そしてケーキカットへと続き、ごご10時過ぎからは、多国籍参加者の若者たちで選抜された奇抜な椅子取りゲーム。

司会進行、曲の選択は弟のマーカスが担当、兄貴のお祝いの式を存分に盛り上げていました。そしていよいよは、最後は子供、(この子供たちが日本に来たら、我が家にホームステイしてもらいます)老いも若きも入り乱れてのダンスタイムへと、時は流れてゆきました。

夜も更けたパーティ会場には、外に焚火が灯されていました。私は踊らずに、しばし火のそばで夢のようなパーティ時間の余韻にひたりながら、娘が異国の男性と結ばれることで、このような未知の時間が流れることの不思議さに思いをはせました。

午前〇時過ぎ、パーティはまだ続いていましたが、お母さんやお父さんたちとハグして別れ、椎谷の曲がりくねったドレスデンの街を、タクシーでホテルに向かいました。

娘が生まれて25年の歳月。私の人生再出発は、37歳、娘の誕生とともに始まりました。そして今娘とのいい意味でのお別れの日がやってきたのです。私は焚火を眺めながら、いよいよもって自律した晩年を、元気な間は深く意識して生きることに、決めました。

ドレスデンへの旅は、いくらつたなくても何らかの形で、今の思いを記しておかねばという想いが書かせています。この結婚式は、怜君と娘が私たち夫婦にプレゼントしてくれた旅です。この場を借りて、娘が選んだ男性、そして日本名まで名乗ってくれる日高怜君に心から、義理の父親として感謝します。



2014-10-12

ドレスデンへの旅・5

9月17日(水)もまた、忘れられない一日となった。娘の結婚式への旅は、久方ぶりの遠くへの旅であり、一日一日の密度が、濃かったのと、初めての旧社会主義国圏への旅でもあったがために、すべてが新鮮でおりおりの記憶の映像が記憶にくっきりと残っている。

この日私と妻は、ベルリンへ日帰りで出かけることが叶った。1989年はベルリンの壁が壊れ、娘が生まれた年である。第二次大戦後同じ民族が西側と、東側に分断されていた。東西の冷戦、その象徴的な都市、ベルリン。映画でも幾度も描かれた未だ伝説の都市。

訳知りなことを書くつもりは全然ない。1952年生まれの私には、ようやくにして、この歳になって、両親たちが生きてきた時代、祖父母が生きてきた時代が、どのような時代であったのかを、きわめて個人的に、知りたいという欲求が歳とともに高まってきている。

おりしも娘たちが、結ばれる今年は第一次大戦から100年、歴史を学ぶ、現代史を一庶民の側から学ぶということの重要性が、私の中で日増しに強くなってきているのである。

さてその日、メモを見ると7時50分のバスでホテルをホテルを出発、怜君と娘が中央駅まで一緒に来てくれた。両替ののち、怜君が自動券売機で往復の自由席券を買ってくれ、自由席に座るところまで見届けてくれた。

往復、160ユーロ(1ユーロ150円くらい)。ドレスでデンからベルリンまで約2時間10分。9時05分発で11時15分に着いた。この間、車窓からの異国の丘陵風景に、飽かず私はただただ見入った。意外に松林なんかもたくさんあった。

はるか遠くや、あちらこちらに風力発電のプロペラの回っていた。脱原子力発電に舵を切ったドイツ、数千か所も水力発電があるという。異国では、完全に意識が解放される。ことさらにゆっくりと物事が考えられる。だから、青春時代から今に至るも私は時折、私は日本を離れる。

ベルリンに着いた私たちは、とにかく頑張ればブランデンブルク門まで歩いてゆけそうな距離だということが分かったので、地図のない旅、当たりをつけ歩き始めた。歩いたからこそ、これを書いている今も記憶がよみがえってくる。

歩くけるうちは、ひたすら歩く、これが私にとっての旅の醍醐味と言っても過言ではない。歩いていると、昔のガイドブックなどがない時代の旅人の気分に何とはなしにひたれるのである。限りなく荷物は少なく、手ブラで歩く。

情報は、第一次情報、自分で見つける。気配を読み、人から直接得る。お昼、ベルリンを象徴するブランデンブルク門にたどり着いた。観光客が引きも切らない。我々もその一人だ。壁が壊れて25年、当たり前だがおそらく旧東側のベルリンは大変貌を遂げたのだろう、周辺は、旧西ドイツ的なモダ―ンな都市にに今も再開発の流れが、止まないような印象を持った。

ブランデンブルク門からポツダム広場は、そう遠くはない。最もゆきたかったのはポツダム広場の壁のあった場所だったので、向かう途中の中華の店でランチ。チャーハンと肉野菜炒めライスとビールで、21ユーロ。(量がとても多く食べきれなかったので、テイクアウト、夜ホテルで食べた)

食後我々は、ポツダム広場の交差点の、壁の跡に立った。壁には無数の落書きがしてあり、迷ったがボールペンで私は日付を記した。ベルリン駅に降り立ったときにモダンな都市に変貌しているという第一印象があったが、ポツダム広場周辺も跡だけを、象徴として残しいているにすぎないといった風情。再び激変している印象。

開発という、全世界を席巻するお化けのような資本が、ベルリンにも吹き荒れているというのが率直な感慨。こうして歴史は塗り替えられてゆくのかも知れない。

もうすぐに、ドレスデンに帰ってもよかったのだが、せっかくなので標識なんかを見ながら今しばらく散策していると、ベルリンフィルの本拠地や予期しなかったゆきたかった美術館に当たったので、そこでしばらく時間を過ごした。

ものすごい数の宗教画に、気圧されてしまった。迷路に迷い込んだというしかないくらいの部屋数があって、キリスト教素養のない私には、なんとも頭が痛くなるくらいの質量分量。ただ、フェルメールの作品があることは、入管前確認していたので何とかお目当ての作品だけは見ることが叶った。

美術館を出てもしばし、ゆきあたりばったり歩いた。運河に水上船を見かけたのでそれで駅に戻ろうと思ったのだが、船着き場が見つからず、さすがにすっかり疲れ果て、結局タクシーで駅に。【10ユーロ)

予定より、早い汽車でドレスデンへ。車中販売でビールを買い、飲みながら夕暮れまじかの車窓からの景色を愉しいんでいると、いきなりエルベ川が眼に飛び込んできた。午後7時過ぎにホームに着いた。

駅構内の、スーパーで食料品を買い、66番と、86番のバスを乗り継いでホテルに帰った。バスにも少し慣れた。ホテルで、簡単に夕食を済ませたころ、いよいよ明日は結婚式の怜君と娘がやってきてしばし雑談。

式前夜、二人はこころなしか興奮を隠せないようだった。妻と次女もしかり。私は明日着る服の確認を済ませ、早々にベッドに横になった。

2014-10-06

ドレスデンへの旅・4

9月14日(火)は、エルベ川という大河が、私の脳裏にはっきりと刻まれた日となった。ドレスデンはこの河畔に栄えた、そしていまもこの川とともにある街なのである。

怜君がドレスデンに行ったら、是非ともに案内したいところがあると、かねがね私たちに話をしていて、写真も見せてもらったところがあるのだが、そこがエルベ川の上流にあるところだとは、知らなかった。

この日も快晴、全員ハイキングにゆく格好、そのために妻は歩きやすい靴を昨日買ってそれを履いている。いい年を忘れ、遠足気分で何とはなしに最高にうれしい。8時前にホテルを出て、ちょっぴりなれた86番で駅に向かう。

駅の近くの、個人でやっている小さなパン屋さんに怜君が連れて行ってくれる。そこで、いろんなおいしいパンを買い汽車が来る前、ホームで、みんなで食べる。その日の朝焼いたばかりのパンは格別にうまい。

ヒマワリの種がパンの表面を覆っている、まず日本では売っていないパンを私は求め、食べ始めたのだが、なんともはや、噛みごたえがあって、しっくはっくしながら食べたが、おそらくもっと歳を重ねたら、歯が立たないかもしれないと思いながら、慎重に噛み砕いた。

やはり挑戦してみる価値のあるパンの味であった。ゆっくりゆっくりかみ続けているとなんとも言えない味が口の中に広がってうまい。ただただ、食べるのに時間がかかるパンだった。(又必ずドレスデンにやってきて、もう一度このパンにあやかりたい,そのためには丈夫な歯をキープしなくては)

食べ終えるころ、お父さんの、ピーターさんと伴侶のアンケさんも一緒にゆくためにやってきて、ともあれ総勢7人車窓の人に。郊外から30分くらい、汽車はエルベ川を上流に向かって、沿って走る。この車窓からの景色が素晴らしかった。

川沿いから見える、人々の暮らすカラフルな家のたたずまいが、まるで日本の家々とは異なるので、われわれの異国情緒をいやがうえにもかきたてるのである。またもや歳を忘れ、私は小学生のように車窓からの眺めに魅入ってしまった。

そうこうするうちに田舎の小さな駅に着いて、歩いて船着き場へ。そこから渡し船で対岸に渡る。こんなところに観光に来ている日本人は我々くらいだろうと思っていたら、30歳くらいの男性が休暇で来ていて驚いた。分かる人にはわかるのだ。

船が出る前、その彼に我々全員の写真を撮ってもらった。ドレスデンの幼稚園の子供たちも先生に引率されてきていて、朝の陽光に照らされているエルベ川をともに船で渡ったのだが、なんだか今書いていても、おとぎ話のような光景だった。

ドレスデンでも有数の観光地なのだろう、平日の朝早くなのにすでに観光客が訪れていた。汽車から見えた、川沿いのそそり立つ奇岩の岸壁の頂上目指してわれわれは、怜君を先頭にゆっくりと歩き始めた。対岸のレストランや、お土産物売りショップはまだしまっていた)。

歩き始めて、10分もしないうちに森のなかへと山路は続き、手ごろな散策が楽しめる最高の森林浴のコースが、きちんと手入れされていた。ドレスデンからわずかな距離のところに、こんなにも深い森があるとは、思いもしなかった。

時間が経つにつれ、次々に軽装でや山歩きを楽しむ、老若男女が増えてきた。我々7人は怜君をガイドに、途中休み休み進みながら、高くなるにつれ眼下に広がるエルベ川の両岸に広がるドレスデンの景観を存分に眼に焼き付けた。

怜君がロッククライミングを何度もやったという岩場も知らされた。10代のときから、何度も何度もここに来たという。時候のいい時だけではなく、冬場もきて遊んだという。昨年のクリスマスは、雪の中娘や友人たちとも来たというから、きっと怜君にとっては、私にとっての故郷の山のような、大切な精神の居場所なのだろう。

妻が思ったよりも元気に山歩きを楽しんでいたのが嬉しかった。普段から愛犬メルとの散歩での効果が出ているとおもった。怜君は頂上で昼食の予定でいたのだが、思ったよりも早く着いたので、飲み物とアンケさんが持参した、ソーセージや野菜(小さなキューリを丸かじり、これがうまい)を頂きながら、ゆっくりと休息タイム。

私とピーターさんと怜君はもちろんビールで乾杯。頂上の山荘売店はは、もちろん山小屋値段なので高いが、その味は格別だった。じっとしていると肌寒くなるので早々に下山する。

下りは反対側を下る。のぼりとは、又まったく雰囲気が変わりもっと樹木が増え、下るに従って沢の水の流れが見えてきて、再び途中の山荘でトイレタイム休憩。

ここには面白い仕掛けがしてあって、水をせき止めあふれそうになると、滝のように流すのだが、その時間が来ると、その臨時の滝を背景に、観光客が一斉に写真を撮るといった按配。もちろ我々も撮った。怜君が記念の絵葉書を買ってくれた。

ピーターさんと私は気分がいいのでここでもビールを飲んだ。ピーターさんと私は男同士、多くを語らずとも、ビールで会話ができるのである。おだやか、というしかない、閑雅なひとときが、ドレスデンの森の中で流れ、新しき出逢いの関係性がたおやかに深まってゆく。

山をかなり下りてきたところに、突然小さな湖が現れボートを楽しんでいる人たちが見えた。悠然と大きなニジマスが泳いでいる。お昼、ぐるっと一周回る形での、我々の奇岩をめぐる変化に富んだ山歩きを、全員無事に終えることができた。

眼の前の、エルベ川を望みながら、ゆっくりと贅沢な気分のランチ。それぞれ好きなものを頼み、わけあってたべた。ペーターさんアンケさんとすっかり打ち解けてゆくのが、自分のなかでよくわかった。

午後は、そこからドレスデンまでの川下りを怜君が計画していた。昼食後、3時発の船の時間まで少し間があったので、川岸の緑の上でしばし横になって骨休めタイムを、川風と陽を浴びながら過ごした。至福のひととき。

時間が来て船に乗り込むとすでに満員、川下りの人気に驚く。仕方なく船のデッキに腰をおろして、いよいよエルベ川の川下りが始まった。

途中何回か止まり、そのたびに人々が乗船下船を繰り返す。一時間もすると、椅子に座ってゆっくりと川下りを楽しめた。対岸の路を自転車でゆきかう人たち。手漕ぎボートの練習をする人たち、カヌーの練習をする女の子のチーム。行き交う大小に船。

乗馬を楽しむ人たち、上半身裸で日光浴を楽しむ人、犬を泳がせる人、たくさんの羊たちの群れ。川沿いに緑地が豊かに広がるなか、地に足のついた人々の生活が望める。

時候が良く、緑一色といった印象がずっと続く、すっかり私はドレスデンが気に入ってしまった。ドレスデンの人々がこよなく、エルベ川に親しんでいるのがよくわかった。

川から離れた少し小高い所にに棲んでいる家々も点在している、生活には多々不便なことも多いだろうと思うのだが、そこは文化の違い、考え方の違い。不便さを快適に作り替える大人の余裕のようなものを、私はドレスデンの人たちの暮らしから、わずかな時間の中で感じ取った。

このようなかたちでの約2時間の船旅を、生まれて初めて私は体験したが、このような旅をアレンジしてくれた怜君に、私は心から感謝した。

夕食は、船着き場から歩いてすぐの、その昔ドイツを代表する文学者の一人、シラーが住んでいたことがあるという、由緒ある古いカフェレストランにつれてゆかれた。夕食には少し早かったので、怜君たちは、ちょっとものを包む色紙を買いにゆき、その間は私と妻とペーターさんとアンケさんの4人で彼らの帰りを待った。

もちろん、私とペーターさんはビールを飲みながら。4人で、片言の言葉でやり取りしながらなんとか、意思の疎通を図る。窮すれば通ずの例え通り、面白おかしく過ごしていると、学校を終えたリヒャルト君15歳もやってきたし、怜君たちも帰ってきて、再びにぎやかに全員での夕食タイムとなった。

それぞれまた、思い思いのものを頼んだ。私はポテトのグラタン風のモノを、これがおいしかった。怜君がチーズのもり合わせを頼んだのだが、日本で頼んだらすっごく高くつくのだろうがここはドレスデン、当たり前そんなに高くない。頼んだものすべて、全員で平らげた。幸せな時間というしかなかった。

一日の旅の終わりの、エルベ川のそばのレストランでの新しい家族との夕食は、事のほかの感慨を私の中にもたらした。私の中に、まるで夢のような一日を過ごさせてもらった感動が広がった。

お昼代は、私たちが支払い。船賃と夜の夕食代は、ペーターさんがなんと言っても支払ってくださった。甘えることにした、ドイツ男子なのだ。

日がとっぷりと暮れ、異国の石畳の街を少し歩きバス停へ、家路へのバスに乗り途中で下車。ぺターさん家族とハグして(ぎこちなかったハグにもすっかり慣れた)別れ、そこからはいつもの86番でホテルへ向かった。

シャワーを浴び、白ワインを飲みながら、この日の出来事を反芻した。睡魔がやってきてベッドで横になり、漆黒の静けさの中で家族とは何かと考えているうちに、深い眠りに落ちた。

(帰国して2週間しかたたないが、怜君によると、すでにペーターさんアンケさんが、来年5月日本に来たいと言っているそうだ。こうして、予期せぬ愉しいことが起こるのは、きっとあの日の山歩きとエルベ川下りでの愉しい思い出が、何か後押ししてくれているのではないかという気がする)








































































































2014-10-05

ドレスデンへの旅・3

9月15日(月)、ドレスデン3日目、夜中何回か目覚め六時半に起きたとたとメモに在る。この日は初めての快晴、ほんの少しドレスデンにも慣れ、涼やかな気候が、なんとも肌に気持ちがいい。

この日、怜君たちは式の準備で忙しく別行動、我々3人は自力で市内観光へと繰り出した。お恥ずかしいくらい何の予備知識もなく、ただ両替をして少し市内を散策しようよ、くらいの軽い気もちでただ出かけただけなのである。

式に参加するための旅あり、終日我々だけの時間が持てるのどうかさえ分からなかったし、だいたい旅には、あまり余計な予備知識は持たずにゆく方なので、いつもの通りのゆきあたりばったりの行動。

出かけるの当たっては、用意周到な怜君が、事前に一日乗り放題の、バスとトラム(市内電車)のチケットを買ってくれていた。それに乗って(ホテルの前にバス停がある)86番のバスで8時過ぎホテルを出る。

途中、バスの降りる場所を間違えたが、なんとか歩いて、トラムに乗り換え、トラムの中で、ちょっと勇気がいったが、少し顔の固い30代の男性に、ドレスデンの駅にゆきたい旨なんとか伝えると、あにはからんやとても親切で、乗り換えのトラムまできちんと教えてくれた。旅はハプニング。

いい意味で旅の恥はかき捨てである。何事もアクションを起こさないと始まらない。ただきちんと訊くべく、判断する相手を選ぶには何事にも、試練修行が必要であることはもちろんである。

ドイツ人は、一見気難しく感じるがそんなことはない、いかめしそうに見えた人が、柔和な顔になるのを見るのは、実に楽しい。向こうだってそこはかなく、異邦人に関心を持っていたりする場合もなくはないからだ。

ところでバスの中には、自転車も持ち込めるし、歩道と自転車道が厳しく区別されていて、歩道への自転車の侵入は罰せられると聞いた。人間優先社会である。

さて、駅に着いたのが9時ころ、我々は朝食がまだだったので、日本ではほとんどゆかないマクドナルドで軽くすませ(日本でのイメージとは違って、街の景観を壊さないような店舗になっていた)、ドレスデン中央駅でユーロに両替。

両替率は、手数料を取られるので分が良くない。次回からは日本で事前に両替してゆくことに決めた。何事も経験することによってしかわからないことが、旅の授業料である。特に未知の国を旅する場合は。非日常なのだから、日常の金銭感覚はしばし忘れて旅を楽しむことが肝要。

旅番組なんかでは、いいところや美しいところしかやらないので、以前も書いた気がするが、若いうちの未知の国への旅を、とくに私はこれからの若い方には薦めたい。若い時間は二度と来ないのだから。経験という宝を体に詰め込んでほしい、お金は取り戻せる。

ちょっぴり、懐に余裕のできた我々は、立派な駅(ヨーロッパの駅が私は大好きである、映画の舞台になるのもうなずける)からおもむろに旧市街の方角に向かって、人にたずねながら歩き始めた。トラムでゆこうかとも思ったのだが、意外や娘が歩きたいというのでそういうことに。

空間がたっぷり、古都にふさわしい落ち着いた街並みに、あの未曾有の爆撃から70年、ドレスデンの町並みはかっての面影を見事に取り戻していた、すごい執念と誇り。

30分近く歩くと、教会をはじめ、復元された広場、王宮後などが次々と我々の眼前に現れてきて、すっかり旅人に変身、あまりの普段の暮らしの街との違いに、気分は異次元に。(最後のプラハで再びこのような気分になった)

旧市街は、秋の訪れとともに観光客でにぎわっていた。美術館にゆこうということいなり、なんとか美術館にたどり着いたのだが、あいにくの休館日で残念だった。書いているといろんなことが思いい出される。

歩く速度で視界が変化するので、健康で歩けるということはまさに旅の醍醐味、贅沢。世界遺産ではなく、自分遺産。妻も娘もあの固い石畳を良く歩いたと思う。疲れて私と妻は、広場のカフェで生ビールを飲んでやすんだりしながら新婚旅行以来の、ヨーロッパの石畳の街のドレスデンを満喫した。

さすがに歩き疲れお腹がすいた。肉は食べたくないということで、探し回った挙句、結局手軽なパスタの店に入った。が、これが期待外れ、お腹が空いていたし、お金も払ったので、私はなんとか平らげたが、妻は残した。今も3人での笑える話題になるほどにまずかったが、今は良き思い出。

パックのパスタを電子レンジで温めて出すだけなのだから、あきれる。それでもそこそ客が入っているのだから又あきれる。おまけに外にいる雀が店内のテーブルの上に鎮座していたりするのだから、あきれ果て、世界の多様な真実に首を垂れる。

食後は、気分を変えてショッピングタイム。私と妻と娘では買うものが違うので、待ち合わせ場所を決めて別行動。旧市街に隣接して、建物は落ち着いた大きなビルディングなのだが、なかはモダンなショッピングモールが地下一階地上3階まであったので、そこで2時間近くを過ごした。

私にはドイツで買いたいものが一つあった。それはパーカーの万年筆である。この機を逸したら買うチャンスはないと思ったので、私は広い店内をひたすら万年筆を捜して歩き回ったがこれがどこを探しても万年筆を売っていないのである。

もう半ばあきらめかけていたときに、メガネショップの親切な男性がひょっとしたら、あそこの文房具やさんにはあるかもしれないというので、私はただちにそこに向かった、在った。3つの会社の万年筆が各2本ずつ置いてあり、同じ種類のパーカーが2本のみ鍵のかかったガラスケースに収まっていた。

私としては、たくさんの種類のパーカーの中から選びたかったのだが、それしかないのだからこれも運命と諦め、その2本を買った。ドレスデンで買ったパーカーは旧市街とともに思い出の一品になった。(もう一本は親友K氏への退職祝い)

買い物を終えた妻と娘と落合い早めにトラムで帰る。街での外食に懲りたのと節約も兼ねて、せっかく自炊設備があるのだから、ホテルの近くのスーパーで食料品を買ってホテルで夕食をしようということになり、86番のバスが止まる大きなスーパーで再び買い物。

ワイン、ビールやハムやチーズ紅茶などを滞在中困らない程度に買いこんで部屋の冷蔵庫にしまったのだが、食い物があるというだけで、どこかほっとし気が休まる。

ドイツのスーパーは、い入り口と出口が異なる。いったんは行ったら、レジのある出口から出ないといけないのである。お金は戻るのだが、ショッピングカートもお金がいるし、置き場所が決まっていて、鍵がかかる仕組みになっている。もちろんショッピングバッグ持参である。

たくさん買い物をしてバッグを持っていなかったのが、たまたま段ボールがあったので、それを失敬、着ていたセーターでなんとかくるみ、担いで急場をしのいでホテルまで持ち帰った。

ドイツ人の暮らしは、無駄がなく合理的、学ぶことが随所にある。というわけでドレスデン三日の夕食は、ホテルでシンプルに済ませた。

歩き、見て、食べ、飲み、石畳を走る馬車の音を聴き、肌で、街の匂い、風を感じ、異邦での久方ぶりでの旅の実感が3日目にして、私の中に湧きおこってきた。









2014-10-01

サンナンで働き始めて一年が経ちました。

すっかり日が短くなり、朝と昼の寒暖の差がかなり激しく感じられる。未だ昼の畑はかなりの暑さを感じるのだが、朝夕はこれ以上望めないほどに私には快適な季節である。

灯火親しむ最高の季節が、訪れている。ところで今日は10月1日、私がサンナンで働き始めた日である。だから今日は、朝早く起きて、何かしら綴らずにはいられない。

夢が原退職後2年7カ月。瞬く間に過ぎたというところだが、いよいよ還暦を過ぎてからが何かしら本当にいろいろと味わい深く、ささやかな幸福感に満たされながら、日々を生きられる充実感が展開されていることに、嬉しさを禁じ得ない。

とくにこの一年は、公私ともに忘れられない一年になることは間違いない。話は唐突だが、私の父は80過ぎまで生きたが、よもやもし先のことは全くわからないにもせよ。もし父と同じくらいの時間が、私に与えられていると仮定すると、これから20年近い時間を生きることになる。

40歳の時には、20年後のことは考えもしなかったが、今の私は考える余裕のようなものが、心のどこかに芽生え始めている。娘の結婚式でもいろんなことが、私の脳裏をよぎった。

まさに生きているということは、オーバーだが一瞬一瞬のつながり、一日一日の積み重ね、そのことの重みを、ようやくにして恥ずかしながら、私は実感し始めている。だから自分で書くのも気恥ずかしいのだが、この一年の充実感は、再びオ―バーだが、人生で初めて経験する色合いのものなのである。

のうのうとこんなことを、我がブログで書ける脳天気さも、きっと面の皮が厚くなってきたからだろう。ところで、サンナンの農の仕事を初めてわずか一年だが、なにかが緩やかに私の中で変わり始めている。

農の仕事は、とてつもなく自分の思い通りにはならない。自然の声に耳を澄ます、謙虚な気遣いがないと、如実に結果が畑に現れてくる。それは恐ろしいほどにである。

たかだかたった一年でしかないが、農の仕事に出会ったことは幸運という以外ない。先のことはあらためてわからないのではあるけれど、ともあれ現時点で、畑で働きながら、今をささやかに面白おかしく、生きられることに感謝する。

畑で、日々土と触れながら、身体を動かしながら、老いてゆきながら、時折別次元でシェイクスピアを声にだしながら、読み書きしながら、我が精神の変化を見つめて行ければと、思う。




2014-09-29

ドレスデンへの旅・2

ドレスデン2日目、9月14日(日曜)、見ず知らずの国で目覚め、昨夜は見えなかった窓からの景色にここがドレスデンであることを確認、車道の小川の向こうの林が見える。外は雨が降っている。

朝食は、8時半ころ、怜君の兄のトーマスさん夫妻が、ホテルまで迎えに来てくれ、怜君の母のシルビアさんとおばあさんが住む家で、おばあさんのヘルガさんが準備してくださった。

ヘルガさんは、西大寺の母を思い出させた。家の前庭は花々で満たされ、裏庭は家庭菜園、質実でおだやかな暮らしぶりがよく伝わってきた。80歳を過ぎておられたが、実にユーモアがあり、激動の時代を生き抜いてきた、芯が強く、お国は違うが苦労人といった赴き。怜君がこよなく愛しているのがわかる。

ヘルガさんの朝食は、きわめてドイツらしい伝統的なもの、多種類のおいしいパン、(怜君が向かう途中の村のパン屋さんでたくさん買ってきた)ハムにチーズに、生肉、コーヒー紅茶、ジュース、果物、とてもではないが食べきれないほどの、ボリュームでテーブルが満たされていた。

孫が連れてきた遠来の新しく家族になる、初めて会う我々を、心をこめて迎えてくださっていることが伝わってきた。異邦人を温かくもてなす気遣いは、怜君にしっかりと受け継がれていることが私にはよくわかった

怜君のお母さんとも初めてご挨拶、共に朝食を頂いた。怜君の母が住む実家と、我々のホテルは車で10分くらいのところに在りそんなに遠くはない。

ところで、怜君は5人兄弟の真ん中、朝食には母と共に暮らしている一番下の妹のティナさん、近所に住む長男のトーマスさん夫婦と一歳半の息子さんも参加。総勢11人での、にぎやかこの上ない朝食となった。私も5人姉兄弟、小さいころの食卓を思い出した。

ゆっくりと和やかな朝食タイムを終え、リビングに移動、妻が用意した日本からのささやかなプレゼントをそれぞれに手渡して、その場で開けてもらった。封を開くたびにみなさんの表情がほころぶのがよくわかって、我が妻の心づくしが、伝わったのがわかり嬉しかった。

ヘルガさんが、シャンパンを開けてくださりみんなで乾杯した。ビールとワインとシャンパンの国なので、それぞれの飲み物に似合うグラスが棚にはたくさん並んでいる。

しばし再び款談の後、お兄さん家族は帰られ、我々は小雨の中、ヘルガさんの温室菜園場を見学、妻は庭と菜園に関心があるので、好奇心が抑えられないようだった。怜君の植物好きもきっと、ヘルガさんの影響にちがいない。

その後雨が上がったので、妹のティナさんも一緒に、近所を約一時間以上散策、怜君が道案内役、この6人での散歩は実に楽しかった。初めてのドレスデン郊外の森、所々に大きな木があって、樹が高い。

雨でぬれたその大きな木に、大きなカタツムリが這っていたりする。歩いていると二頭馬が放牧されていて草をとってみんなで食べさせたりした。しばし歩いていると、今度は二頭の豚がこれまた広い敷地に放たれていて、柵のそばにリンゴの木があったので、その実を豚さんにあげることに皆で興じた。

小学生のころ、近所で豚を飼っていた農家があり、その豚が実においしそうに餌を食べるのを飽かず眺めた記憶がよみがえってきた。怜君がリンゴの木を揺さぶると、実がバラバラと落ちてくると同時に、雨のしずくも落ちてきて、ワーワーキャーキャーしばし我々は子供に還った。

舗装されていない小路の散策は、今書いていてもくっきりと印象が刻まれている。散策を終えると、シルビアさんお手製の昼食タイム、これまた伝統的なソースをかけたステーキ、付け合わせはポテトと赤キャベツ、飲み物はもちろんビールと赤ワイン。

やはり肉には赤ワイン、グラスが大きくて贅沢なランチ。シルビアさんが住む3階のリビングの大きなテーブルでゆっくりと頂いた。シルビアさんは学校の先生をされているとのこと、猫を8匹くらい飼っていて、猫好きの妻と娘は盛んに猫たちとじゃれていたが、同じ猫でもやはり洋風の猫という感じが私にはした。

午後3時、お父さんのピーターが車でお迎えに来て、今度は現在お父さんが住むマンションに移動。伴侶のアンケさんと、リィヒャルト君がお出迎え。ここでもプレゼントを手渡したのち、ティータイム。ごく一般的な、ドイツ人の住まいを見せていただいたが、とにもかくにもきちんとしているというのが、私の印象。

もちろん住んでいる方の個性が、とくに家の内部には出ると思うが、アンケさんの趣味のいいセンスが随所に感じられた。間接照明でキャンドルがテーブルの上には欠かせない。息子さんの部屋、寝室まで見せていただいたが、やはり畳民族とは、風土環境の違い、そもそもの文化的な土壌が異なることをあらためて認識した。

私の年齢もあるのだろうが、いろんな細部に若いころとは違って眼がいってしまうのである。夕食は雨上がりのガーデンで、バーベキュー。ペーターさんとアンケさんのおもてなしが沁みた。バーベキューに下の弟のマーカスさんとその恋人も参加した。ビールとワイン、ソーセージサラダ他。

おいしいフードを朝昼夜と食べ続けた事と、時差の疲れが押し寄せ、食後焚火のそばで気がつくと睡魔に襲われ、こっくりこっくり。

9時過ぎ、86番のバスと徒歩でホテルへ。さすがに疲れがどっと出て、バタンキュー。ドレスデン二日目は、新しい家族との交流に一日が過ぎたが、徐々に私の中に怜君の家族構成が、しっかりと私の中で、整理されてきた。






2014-09-28

ドレスデンへの旅・1

旧東ドイツドレスデンを、よもやまさか旅することが我が人生に訪れようとは思いもしなかった。日本は島国だから、陸続き民族の国々の感覚が、途方もなく私にはピンとこない。

さて、娘が生涯の伴侶に選んだ男性が、ドレスデンで育った方であったがため、その結婚式に参加すべく、私と妻と次女の3人で、9月13日(土曜)午前9時30分の大韓航空でチェコスロバキアのプラハに向かった。ソウルで(ここで東京からの娘と怜君と合流)乗り換え、プラハに着いたのが、現地時間の夕方5時。時差は7時間。

空港には、怜君(日本国籍も取得、彼は日高怜となりました)のお父さん家族(ペーターさんと伴侶のアンケさん息子さんのリヒャルト君15歳)が、迎えに来てくれていた。

荷物を受け取り、なんとも静かな異国の空港で、ペーターさん家族と初対面のご挨拶、何せ初めて会ったばかり、ボーっとしているし、何が何だかよくわからないうちに,ぎこちなく挨拶を終え、娘たちはアンケさんの車に、私と妻と怜君はペーターさんの車に乗って、ともあれプラハからドレスデンに向かって、車は動き出した。

プラハからドレスデンまで、ペーターさんの車で夕やみ迫る中、アップダウンの丘陵地帯の日本とはまるで異なる風景の中をはしった。ドイツのドレスデンにゆくのに、チェコのプラハ経由でゆくなんてことも考えもしなかった。ただただ陸地は続いている真実。

ドレスデンへ向かう車窓からの眺めは、当たり前だが異国に来たのだということが、時差の体にもゆっくりとはっきり沁み渡ってきた。徐々にうす暗くなり、時折小雨も舞う中、それでも十分に外がまだ見える。窓からの初めてみる景色に私は眼を凝らし続けた。

プラハからドレスデンへと向かう中で、一番印象的だったのはリンゴの木の鈴なりの畑が、途方もなく続いていたことだった。路傍にリンゴの実が落ちていた。日本の日常から、しばし解き放たれ、いきなりリンゴの大地の邦にさまよいこんだかのような。人の姿が見えないので、余計に見知らぬ国にやってきたのだという感覚に私は包まれた。

ペーターさんの計らいで、高速はつとめて走らず、チェコの曲がりくねった田舎道を走ってくださったのが、とてもうれしかった。田舎育ちの私には、田舎こそが私の原点、どんな国を訪ねても、私は田舎にゆく。かっては馬車が歩いたであろう細く曲がりくねった道。ああ、田舎道に日が暮れる。

外がすっかり暗くなり、すこしねむくなりかけた時ドレスデンに着いた。ドレスデンは小雨が降っていた。ホテルの前にかるく夜食、怜君がイタリアレストランに案内してくれ、お父さん家族と落ち着いて、面と向かい合った。

初めて飲む、ドイツビールとワインで、出逢いの乾杯。ピザとパスタをつまみながら、しばし歓談。通訳は怜君がいるので、すべてはスムースに進む。お父さんはビールが大好き、口数は少ないが、一気に私は好感をもった。もちろんアンケさんにもご子息にも。

とにもかくにも、無事にドレスデンに着き、時差と疲れで早々にお開き。ドレスデン郊外の、料理もできるフラットタイプのホテルを怜君がとってくれていた。

娘たちと、二部屋。我々3人10時近くチェックイン。我々の部屋は3階の屋根裏部屋、リビングもあって広くて快適、落ち着ける。すぐそばを小川が流れ、初めて体感する、郊外のの森の近くの静かな宿。

荷をほどき、妻と娘と私、それぞれしばし滞在する居場所に落ち着きほっとする。いよいよ明日からどのような日々が、なんて思う余裕すらなく、ともあれ着変えて早々に身体を横たえ、ドレスデンに着いた安ど感にひたった。





2014-09-27

秋の空のもと、ひたすら身体を動かし土に向かう。

ほとんど仕事のことは、このところブログには書いていない。まいにちではないにもせよ、よたよたとではあるけれど、5年近くブログを書き続けてみて思うことはなかなかにつらいことは書けないということである。

まして私のブログは、どちらかと言えば自己激励型というか、当たり障りのない、もっと書けば日々の暮らしの中での、思いつき記録型、やんわりほのぼの感が漂うような気分のときでないと、書けない。

お休みの日は、時折かなりまじめなことも、自分が(にとって)どうしても書いていおきたいことなんかも書いている。農の仕事は身体のコンディションをキープしないといけないので、とにもかくにも書くのは後回し、肉体を休ませることをこの一年最優先してきた。

以前も書いた気がするが、農の仕事はというか、A専務の目指す農は、この時代無農薬で利潤を出すというのは、わずか一年やってみての難しさがかなりの程度身にしみつつある。

こんなことを書くと、何やら悲観的だが、ブログに書くくらいだから、私自身の中ではそんなことはないのである。少なくともA専務はどんな形ではあれ、農を継続されようとしているので、その志とともに、私も何らかの形で専務とともに、農に関わりながらの生活をやりたくなってきている。

空の下での農の仕事、肉体的にはかなりのしんどさが伴うことは、我が身が一番自覚している。だが同じような心持の仲間とジョークを飛ばしあい、和気あいあい無心に働けるということの、言葉にならない充実感、これもまた我が身が一番自覚している。

要は、気持ちよく身体と精神が風通し動くということが、この歳になると一番肝要なことなのである。そのうえで、生活が成り立てば、方丈記的感覚の世界にさまよいこんでも、まったくいいのではないかという気が最近はしてきているくらいなのである。

なんとか開墾から関わってきた畑のネギが、10月の半ばから出荷できそうなところまでこぎつけてきた。そして今また、開墾から始めた新しい畑にチシャトウという野菜を植え始めているのだが、順調に育てば、年内には出荷ができる。

この一年近くの試行錯誤は、苦楽というしかないほどに、様々なことを今も経験しつつ歩んでいるのだが、一ことそれは私にとっては未知の世界で、そのことがとても、私自身をこの歳になっても活性化させているように思えるのである。

だから、楽しいのである。だから、ブログが書けるのである。ふとくてき多数の方の眼に触れる一文は、我が身の楽しさ的気分がほんわか立ちあがってくるような、ものが書けたらなあと、年齢を忘れ、枯れつつも修行を今しばらく続けたいのだ。

いま青空のもと、秋の風に揺れる葱畑は事のほかに美しい。それを眺めながら今を働けることの、嬉しさ楽しさは格別というほかはない。明日は明日の風が吹く。

さあ、今日も一日畑で昼の時間身体を動かそう、N氏が待っている。

2014-09-25

チシャトウを植え、畑で時差ぼけが解消されました。

岡さんからゆく前と、帰ってきてから、いってらっしゃいと、お帰りなさいの言葉を頂いている。一方、親友のK氏からはケータイに、長めのお祝いの言葉を同じように、ゆく前と帰ってきてから頂いた。

この場を借りて、深く感謝いたします。私は自分が考えているよりも、ずっとずっと不器用な性格なので、すぐに返事を書いたり、すぐに返信をうったりすることがどういうわけなのか、なかなかにできない。

これは今の時代では、なかなかに通用しないことなのではないかとは思うのだが、うーむ、いかんせんこんな自分を、いまだ時折持て余してしまう。だから、申し訳ないとおもいつつ、ブログにてご容赦を。

短いとか長いとかは関係なく、頂いた言葉を繰り返し読んで、じっくりと受け止める時間のようなものに耽っているうちに、機を逸してしまうのである。(K氏へ、お食事会のお誘いは、むすめたち夫婦にも伝えておきますので、上京の節はなんとか実現させましょう)

話変わり、ようやく昨日あたりから時差も消え、昨夜の遊声塾のレッスンあたりから普段の自分のリズムを何とか取り戻しつつあります。昨日畑で、N氏と二人でひたすら時差ボケ解消のため、チシャトウという野菜をコンビで植え続けたのですが、ショック療法のような感じで消えてしまいました。

ところで、今回の旅は単なる観光旅行ではなかったせいもあってのことかもしれないのですが、未だ旅の余韻が続いていて、ドレスデンへの旅、という文章を、何回か書いて残しておこうという気持ちになっているので、休日にでも落ち着いて、つたなき一文を綴るつもりです。岡さん、K氏にお伝えするつもりで。

またもや話は変わりますが、ブログではほとんど触れてはおりませんが、昨日からアメリカがまたもや、シリアを爆撃開始。イラク、ウクライナ、海の向こうでは、見知らぬ世界の果たてでは、日々無辜の人々の上に過酷な現実が起きていることを、否応なく知らされます。

日々の安穏と、静かに暮らせることの何という在り難さを、感じずにはいられない私です。庶民の大多数を脅かす、戦争というものの愚はいかにして引き起こされるのか、おびただしい死者の上に築かれる平和とは、いったい何なのかと、愚者の一人として考えずには居られません。

ドレスデンへの旅で、城山三郎さんの【日本人への遺言】という本を読みました。ずしりと、胸にきました。読み書き、考えないといかんと思います。ドレスデンもものすごい空爆から、見違えるような古都に蘇がえっていました。

人生の門出を、おだやかに祝福するなんてことは、平和なればこそでしかありません。瓦礫の廃墟から、見事に立ち直った街で、悠然と流れるエルベ川のほとりでの我が娘たちの結婚式は、あらためて、当たり前の何げない平和というしかない眼前の厳粛な儀式の前で、私は時折粛然とした思いにとらわれ、胸の中で今は亡き両親に手を合わせました。







2014-09-24

未だ時差を感じつつ、旅の重さの余韻にひたる。

今回の結婚式の旅では、また新たな何かが、自分の中に起きてくるのではないかという予感が、ゆく前からしていたのだが、そのことはうすらぼんやりと、いい意味での旅の重さのようなことを、未だ時差のなか感じている。

とはいえ、昨日からにわかに現実の中に、いい意味で引き戻され、畑では働いている。畑で働きながらも、時折今回の旅景色や、お世話になった新しい家族の顔が、浮かんでくる。

人は何かしらに出会うことによって、自分の中に新しき自分と出逢う、いわばそのような存在なのかもしれないと、素直に腑に落ちる。

これからの自分の人生の時間の中で、本当に自分が大切にしてゆきたい事柄の、なんたるかが、何を基本的に見つめながら生きてゆけばいいのかが、いわば当たり前のことが、にわかに輪郭を持って、はっきりしてきたかのような気がしてきている。

おりしも、スコットランドやカタルーニャの民族問題が紙面の一部を占めているが、広い意味でのヨーロッパに親戚ができたために、せめて最低ラインのドイツの歴史を学ばなければという気持ちになった。

そういう気持ちになったのは、やはり新しい家族の顔が私の中にしっかりと刻まれたからだと感じている。にわかなブログ時間では整理しきれない感情なのだが、何やら書くことで自然にわき起こってくる感情を見つめ続けてゆきたいと、今はただただ思う。

それにしても、わずか一週間ではあったが、なんと実り多き旅であったかと、書きながら思う。今しばらくは、静かに旅の余韻に浸りつつ畑に向かいたい、今朝の私である。

2014-09-22

レイ君と娘の結婚式から、昨日無事に帰りました。

昨日の夕方ドレスデンから帰ってきました。時差といい意味での疲れがいまだ身体に充満しています、がともかく無事に帰ってきました。

妻も私も、今はただ安堵感に包まれています。ことさらに何の先入観、予備知識、一切持たず直前まで働きドレスデンに向かい、いきなりレイ君のお父さん夫妻のお迎えで(チェコのプラハの空港まで車で約2時間)この結婚式の旅は始まりました。

着いたのが、13日の現地時間の夕方の5時、式は18日、それまで4日間、向こうの家族と交流の時間がもてたのが、あらゆる意味で助かりました。レイ君のアレンジですべてが進行したのですがよくスケジュールが練られていることに感心しました。

この間体験した出来事を、つぶさにお伝えすること、今朝はちょっと無理ですが、一ことすべてにおいて、普段とは異なる時間が流れました。あらためて人は時折文化的土壌がまったく異なる環境に身を置く旅をすることが肝要だと再認識しました。

ドレスデン、エルベ川とともにある歴史的な古都に生まれた、レイ君の故郷で行われた結婚式は、まったく私の知らない、想像力の及ばない、期待を超えた素晴らしいものでした。

式は、昔からの村の地区の行事として親族友人の参加のもとにごぜん10時半から厳粛に行われ、近くのカフェで軽い昼食ののち、場所をエルベ川のすぐほとりに立つレストランで午後2時半から、60名以上の方たちが参加しての、楽しいというしかない結婚披露パーティが新也まで続きました。

親ばか丸出しですが、働きながら忙しいさなかに、よくこれほどの準備をしたものだと感心しました。おそらくはレイ君の人柄がすべてだと思いますが、集まった方々すべてが二人の前途を心から祝福する雰囲気で満ち満ちていました。

長時間の進行の中、参加者全員の人柄がわかるゲームなども織り込みながらの飽の来ない展開で、最後のダンスパーティまで私はしっかりと二人の結婚式を楽しみ見届けました。

わずかな滞在時間の中で、レイ君の家族ともすっかり打ち解けました。お互いに新しい家族ができたことを共通認識しました。レイ君のお父さんが必ず日本にゆくと言ってくれました。

レイ君のおばあさんが、私の母と同じようにとても元気で人柄が義理の母と似ていて、やはりこの方あっての家族なのだということが分かりましたし、そのおばあさんをレイ君がことのほか大切にしているのも伝わってきました。

ともあれ、今朝はこれくらいにしますが、エルベ川と五十鈴川、私にとってとても大切な川ができました。レイ君と娘がこれからどのような家族を築いてゆくのかを可能な限り見届けながら、新しく異国にできた、向こうの家族とも関係を深めてゆきたいとの、今は思いです。



2014-09-12

明日の朝、娘の結婚式のため、チェコ経由ドレスデンに向かいます。

いきなり朝から、個人的なことで恐縮次第ながら、個人的我がままブログですので、ご容赦を。

明日の朝の飛行機が早いので、今夜は大阪に泊まるがために、妻も私も今日まで仕事をしてから大阪に向かいます。

21日には戻ってきますが、しばらくは不在となるため、私のブログを読んでくださる方には、ごめんなさい。ブログはしばしお休みしますので、ご容赦ください。

ところで、いつも実名でコメントをくださる岡さんから温かいコメントが、入っていました。ありがとうとこの場を借りて、お伝えします。ドレスデンの第一印象はじめ、何か感じたことをノートで記してこようと思っています。

何かと慌ただしく時が流れると思います、今回は娘の結婚式ですので。が今後は青春時代のように、きりつめた生活をしながら、再び元気な間は旅を再開しようかと思っている私です。本を持っての、お、爺さん旅。

これが私には、似あっています。ギリギリで、無駄を省いた暮らしの中から、何かを見つけてゆく運動を可能な限り、やってみようかというような心持が、畑で働くことで生まれてきたような、最近のきわめて、禁欲的牧歌的な日々の暮らしなのです。

そんな暮らしの中から、ほっとするような文章を紡ぎ出せたらなあ、なんてことを、いまだ夢想する初老の私です。

もう間もなく、サンナンで働き始めて一年がやってきます。書くのが少々気恥ずかしいのですが、こんなにも無心で働いたのは、(働いているのは)初めてのような気がします。きっと世の中に出て初めて、何かに追われることなく、悪いストレスがなく、自分が今最もやりたいことができているからなのだと、思います。

それと面白い人に出会えたこと、それに尽きます。面白い人とともに働けるというのは、男の私のこれまでの人生では、初めてのような気がします。A専務は農を青春している、具現化しようとして、まさに苦楽しています。

おそらく思うのです、苦をいかに面白く転(展開)じられるかにこそ、人生の妙味があるのだということを感じます。しかしことが、実感して感じられるのは、子育てなどの第一次的社会的な責任を終えたからこそなのではないかと。

いまだ、子育て真っ最中の方々は、とてもそんな余裕はないでしょう、私もそうでしたから。しかし人生は続いていきます、まして超高齢化社会を。

そんなこんな、初めて62歳を体感しながら、いまだの右往左往を楽しんでいる私の現在です。ともあれ、畑に向かう時間が迫ってきました。今朝はこれにて、しばらく留守します。

2014-09-10

畑で二日続けてスーパームーンを見る幸せを思う。

疲れているはずなのに、眼が覚めたので思い切って起きた。昨夜から煌々と輝く月をまず眺め、珍しく自分でお味噌汁を作り、コーヒーを入れパソコンに向かっている。

ほとんどの世の中の人が眠っている時間帯に起きているというのは、なにやら妙な感じもしないではないが、ともあれぐっすりとやすんだ身体は、意識がニュ―トラルで、ことのほか邪心がない。

すっかり朝にしか、物事や文章が思考できない身体になってしまったような我が身である。さて又また月の話で恐縮だが、昨日も運動公園で月の出を待った。雲が在ったがためにすぐには顔を出さなかったが、7時10分前くらいに、雲間からスーパームーンが姿を現した。

ところで話変わり、昨日の朝畑から西の空に消えゆく赤い満月を見ることができた、朝日が昇り、代わりに消えてゆく月を眺める事ができたのは、幸運だった。昇る太陽と、消えゆく月に自分自身がその中間にいる、ある、瞬間の幸福感を緩やかに感じた。

単細胞の私だ、今日も一日動き働けるという悦びが身体の奥底から、ほんのり静かにいつもより強く湧きあがってきたのである。こんな希少な感覚に身体が研ぎ澄まされるのも、畑で働けるからだと、何かに感謝する。

生き物が、生き延びてゆくために、絶対要素、酸素と水、をことごとく脅かす、現代消費所有物質文明に対して、あらためて自分自身は今後どのように生きてゆけばいいのかを、ぼんやり月を眺めながら、おじさんは静かに物思い考える。

ときおり、詮無い思い、徒労感にとらわれることも、正直なくはないのだが、そのような思いを打ち消す、何やら無数のおびただしい今はなきご先祖の声なき声が、かすかに私のうちに歳とともに響くようになってきたのである。

ともあれ、今朝も昨日に続いて西に消えゆくスーパームーンを眺められるかと思うと、元気が湧いてくる。まさにお天気次第ではあるのだが、こんなにも安心して、月を眺められたのは久しぶりのことだ。

時折、浮世の渦のなかから、身も心も解き放ち、大いなるものに身をゆだねながら、物思う感性を取り戻さないと、私の場合はどうにも駄目である。

裸足で土に触れ、多様な植物の生命力にじかに触れないと、私自身の命が先枯れてゆくかのような不安な心持になる。だから私は今しばらく畑から世界を眺めたいと、つよくおもう。








2014-09-09

中秋の名月の朝に、思う。

すっかり朝夕は涼しくなり、虫のすだきが今もかまびすしい。昨夜は下の娘も不在で、夫婦二人での時間を夕方から夜にかけて過ごした。

妻は犬のメルとの散歩をほとんど欠かさない、時折私がゆく運動公園に一緒にゆくことが最近増えてきた。

メルは、怖がりで人見知り、独りでの散歩は極端に嫌がる繊細な犬である。私には妻のようにあれほどまでに、犬を思いやれる繊細な感覚が欠落していて、妻のメルに対するこまやかな愛情を見ていると、時折不思議な心持におちいる。

だが、やはり長く共に一つ屋根で生活を共にしていると、自分のなかにもゆるやかに愛情のような感覚が育ってきているのが、わかる。人間はかすかに微妙に変化し続ける。

話は変わるが、西の空に今も煌々と月が輝いている。昨日も月の出を、運動公園で眺めるためもあって、いつもより遅く出かけたのだが、ささやかに身体を動かしながら、陽が落ちてゆくと一段と輝きを増す月を、ただただ眺めた。

いよいよ今夜は最高の月を拝むことになる。さいわい、お天気がいいので今から楽しみである。二階のベランダかもしくは近くの小高い所から、月の出を眺めに行こうかと考えている。

月の満ち欠けに、あやしく私の心はざわめく。現代に生きている私であるが、時折どうしようもなく今という時代との、祖語のようなものを感じる。

そのいたしかたない何かをおだやかにしてくれるものが、月の輝きのなかに私はかんじる。大いなる宇宙的感覚の中に、身を任せているときのなんとも言えない安ど感は、言葉にはできないものである。

その原初的大いなる感覚は、これから向かう夜明け前の畑でもいかんともしがたく感じる。特に今の季節の、夜明け前は謙虚このうえもない感覚に身体が研ぎ澄まされる。

お陽様が昇ってくる直前の、神々しいというしかない、ほんのわずかな時間の推移の、刻一刻と移り変わる様に身を置いていると、しばし古代人的な感覚が、にわか現代人の私の中にも蘇る気がする。

N氏と二人、その感覚を共有しながら始動するのだが、今を生きる悦びというしかない。

2014-09-08

やがて日高の姓を名乗ってくれるレイ君が帰ってきました。

虫の音を聴きながらのらの朝まだ早きブログタイム、とくに今朝は肌寒いくらいである。さっそくコーヒーを入れ、ああ秋だなあという、穏やかな気分にひたれる我が身の幸せを静かに感謝する。

明日は中秋の名月だが、昨夜も煌々とした月を二階の窓から何度も眺めた。何度も書いているが私は月がことのほか好きで、まんまるい月を眺めていると、我が身が宇宙空間に漂っているような感覚に時として襲われ、しばし人間界から、解き放たれる。

きっと、太平洋の真ん中や、数千メートルの山の頂や、どこか人間の作ったものが、見当たらないところで、中秋の名月(特に出始め)を眺めたら、きっと霊感が一段とさえわたり、私は年齢を忘れ、子供に回帰してしまうような気が、未だする。

こんなことは、この歳になると人前ではとても話せないが、ブログなら何とはなしに書けるから
ありがたい。絶えず流れ、揺れる自分の心の在り様確認の五十鈴川だよりなのだから。

ところで、今日岡山で仕事があり、もうすぐ正式に我が家族の一員になる、義理の息子のレイ君が昨日の夕方からから帰省していて、昨夜は久しぶり夕飯を共にした。

レイ君が夕食後、娘とレイ君が2010年に出会うまでの、これまでのお互いの誕生からの写真を、やく10分間に見事に編集した(時折動画もある)ものを、見せてくれた。新幹線の中で作ったとのことで、結婚式で参加してくださった方々に当日披露するそうだ。

両家の親族、友人諸氏含め60人くらいが参加し、日本からも20人以上の、レイ君と娘の日本人の友達も(二人が出会ってからできた、共通の友人、弓道の先生含め)わざわざドレスデンまで駆けつけるらしい。

まったく、どのような式になるのか、かいもく見当もつかないが、きっと温かい式になるのは間違いない。友達が多いのは、二人の人柄がそうさせるのだろう、すでに親ばかの私としては、参加してくださる方々には感謝の言葉しかない。

なにやら、我が家にとっての一大事の儀式が、10日後となった。人生まさに一寸先のことはわからない。人は出逢いで大きく人生の事ごとが決まる。特に人生の伴侶は何かのお導きのようなことがないとなかなかに、出逢えるものではない。そのように私には思える。

親としてはただひたすら、つましく人間としての法を踏まえ、穏やかな家庭を二人して築いてほしいくらいの、平凡の極みのようなことしか思い浮かばない。

レイ君は、岡山の徳山道場で、弓道を本格的に学び始め、東京でも続けながら、時折徳山道場に還ってくる。娘と出会ってから日本語も急速に進歩、日本語でメールも送ってくる。最近日本語の2級試験にも合格し、その地道で一途な生き方は、私を感動させる。

バイリンガルで、バイカルチャーな青年を娘が伴侶として選んだ未来は、未知との遭遇のおそらくは連続になるだろう、二人で生きる未知との出逢いを、苦楽を共に楽しんでほしい。我々もそれを眺めながら、老いつつ愉しく見守りたい。

2014-09-07

ひょうひょうと風のように、A専務はみたらし団子とともに畑に現れる。

8月3日から9月4日まで、ロシア人の19歳の娘さんカーチャが昨年に続いて二年連続ホームステイしていたた。私が普段使っている一階の部屋をカーチャが使っていたために、私はこの間2階の書斎で寝起きしていた。

2階はインターネットがの電波が弱く、ブログをかくことがほとんどできなかったが、書斎は西日が当たるので、もし使えたとしても、夏はまずほとんど書く気がおきなっかったと思う。

ようやくにして、昨日から又普段通りになり、すっかりカーチャの気配がなくなり、がらんとした元通りになった部屋で、落ち着いてブログを書いている。

なにやら暑い夏は、ブログも夏休みといった按配で、ひたすら農の仕事に従事し、声を出し、あいた時間は、図書館に行って過ごすといった私の夏だった。

夕方は7割くらいを図書館で過ごした夏だったように思う。本を読んでいると、何やかにやらと、脳が刺激を受け気分がおだやかになっている。図書館を出ると、今日も一日を無事に終えた安ど感に包まれ、一日の悦びの、ゆうげのひとときでささやかに明日の英気を養う日々。

夕飯を終えると、まったく私の頭は動かなくなる。ひたすら身体を休め、ゴロンゴロん。夜中に目が覚めた時には、また眠たくなるまで本を読んだり、ストレッチをしたり、気の向くままに。基本的に仕事の日は、朝4時に起きる。

もう少し立ったら、少し出勤タイムが遅くなるかもしれないが、そうなると朝の時間が使えるので、もう少しブログが書けるかもしれない。

ところで、今はネギの定植を主にやりながら、畑でほとんどの時間をN氏と過ごしている。実は今日はお休みなのだが、午前中3時間ほど畑で仕事をしてきた。

来週末から、9日間仕事をお休みするので、ほんのわずかではあれ、きりのいいところまでの仕事をやっておきたいとの思い、なのである。

もう何度も書いているが、農の仕事で利潤を生むのは、生半可の心懸けで為せるわけのものではない。しかし、A専務は全身全霊で果敢に挑戦している。人間の魅力とは何か。私はそこに惹かれる。農に関してはまだ始めて一年にも満たないど素人だが、働いていて実に気持ちがすがすがしく楽しい職場なのである。

私とN氏が働いていると、A専務がみたらし団子や、シュ―クリームをもってきて、休みましょうと声をかけてくださる。A専務は大の甘党である。独りで食べるのが嫌で、すぐにみんなにふるまう。

臨機応変、自由自在、柳に風、私が入ってからもあらゆる困難が次々に、ひっきりなしに現れるのだがけっして事を荒立てない。何かしらの対策をこうずる。その途方もない根気強さは、かなりの絶望感を乗り越えてきたものでないと、務まらない類の何かである。

普通の人間ではこうはいかない。ひょうひょうと事を進めてゆく精神の柔軟さは学ぶところ大である。

最近は、A専務やN氏と共に働くのが楽しいから、いそいそと職場に向かう自分がいる。少々しんどい作業でも、楽しい仲間がいて笑いながらやっていると、苦もなく作業がはかどるといった言った按配。時間が苦もなく過ぎてゆく。

まったくこのような無用なストレスのない職場は、私のこれまでの人生では初めてのことである。サンナンの農の灯をなんとしても消したくはない。汗が出て、身体が動く間は、サンナンの農の仲間とともになんとか利潤を生みだしたい。

2014-09-01

早9月、いよいよドレスデン行きが近づいてきました。

もう9月が来ました。昨日8月31日は、私が34歳の時、初めて妻と出会った日です。あれから、28年の歳月が流れたということで、いささかの感慨にやはりどうしても、ふけってしまう私です。

妻とは、振り返ると、やはり劇的に出逢ったのだという気が、今します。今朝は、巡り合いの妙というくらいに、とどめますが、今月18日、娘がドレスデンで式を挙げる儀式を目前にして、夫婦というものの在り様を、いよいよもってこれから深めてゆく時が、われわれに訪れているのだという、実感が最近します。

話は変わり、朝夕かなり涼しくなり、私にとってはありがたいのですが、今年の夏はなにやら異変続きの夏というしかない思いの私です。こんなに蝉が鳴かなかった夏というものは、私の経験では初めてのような気がしています。

お天気が、かくも人間の精神に影響を与えるのかを、実感します。こういうときは、浮足立たず、地に足をつけて静かに暮らすのが一番だというのが、目下の私の自己確認暮らしです。

とはいうものの、娘のドレスデンでの式の儀式を控え、きわめて個人的なことながら、何やらそこはかとなく、気がそぞろ立つ、妙な初めて経験する心持の最近の私です。

だから、つとめて余計なことは考えず、ひたすら眼の前の仕事を中心に据えながら、いまはただ、つつがなく式を見届け、我が家にとっての一大事を無事に終えたいという心境です。

チェコスロバキアのプラハを経由して、ドレスデンにゆくのですが、ドレスデンは先の大戦で、東京のように大爆撃を受け焦土と化し、戦後は東ドイツに組み込まれ、統一されてから25年、ようやくにして、以前のような都市に蘇ったドイツの歴史ある古都です。

我が娘は、ベルリンの壁が壊れた歳に生まれ、レイ君はその数年前に旧東ドイツ生まれました。その二人が成長し、縁あって結ばれるというのもなにやら歴史的な時代性というものを感じてしまいます。

娘が選んだ伴侶がドイツの男性であったことは、これからの私たちの人生に、またしても予期せぬいろんな出来事が起きてくる予感が、いたします。

ともあれ、案ずるより産むがやすし、二人の前途を些少なりとも見守るくらいのことしかできませんが、こんなことがない限り、プラハに立つこともなければ、ドレスデンの空気を吸うこともなかったかもしれません。

すべては二人からのプレゼントくらいの気持ちで、祝福の旅ということにしようと夫婦して話あっています。行きはレイ君娘たち我々5人、帰りは3人で9日間のドレスデンへの挙式の旅ということになります。

時間を一日だけもらって、壊れたベルリンの壁の後に、可能なら立ってみたいと思っています。それ以外はレイ君にすべてお任せの今回の旅です。何よりも向こうの両親がホテルをはじめ、いろいろとお気づかいしてくださっているので、身をゆだねることにしています。

ドイツに親戚ができる、なにやら妙な気分もしますが、すべてを楽しむことにしたく思います。さてどんな旅になるのか、皆目見当もつきませんが、出発まで静かに普段通り暮しながら、ほんの少しでもドレスデンおよび、ドイツの今を学びたく思っています。

2014-08-25

一週間に一度まとめてゆっくりと新聞に眼を通す時間を持つ。

この夏は、なにやら天候がおかしいと感じるのは私だけではないだろう。急な雨が多く、画面を通して眼にはいる、過酷というしかない状況には、言葉がない。

もし自分があのような状況下におかれたら、いったいどのような心理状況になるのか、全く覚足ない。

映像はどこかで、人間の感覚を麻痺もするし、覚醒もさせる、もろ刃的なところを私は感じてしまう。

ある種の無力感にとらわれることが多いので、歳とともにだらだらとは見なくなった。どちらかと言えば私は映像人間だった、緩やかに緩やかに活字に人間に私は変化してきたように、自分では思える。

一方的な時間の流れの映像に対して、活字は自分の時間の流れで、ゆっくりと受け止めながら、想像力を働かせながら、読むことができるという利点があるからだ。

こうも忙しい時代を、あらゆる情報に取り囲まれながら生きていると、受信する力が確実に弱くなっていくことを、私自身はどこか恐れている。

人間は、というのか私自身は、ごく普通の最初に出会った我が両親から教わった、社会的な常識を、いまだ支えにして生きているかのような、社会的に見れば極めて大多数の、いわば庶民を生きる一人の人間だという自覚がある。

人間は、かすかにではあれ、なにがしかの希望や、生きがい、精神的な支えがないと、どこかしら精神が破綻をきたす、か弱い存在ではないかと思う。

少なくとも、私自身はそうである。だからなのかもしれないのだが、つとめて私は最近眼の前の些細な日常の細部、日々の生活を大切にすることを、なるべく意識的にするように心がけている。(大所高所から、物事を考えるのではなく、まずは自分の生活の足元を見据える)

言うは易く、行うは難しではあるが、なるべく自分の意識をそちら側に、持って行くようにしているのだ。ただ、気が進まなかったり、身体がしんどい時は、無理はしない。

このブログひとつもそうだが、あるがまま、自分と相談しながら流れてゆく。ただささやかに、日々を確認、自分に正直に、謙虚に在りたい。あらゆることが奥手で、気づきの遅い私である。

歳とともに、ようやくにして、知ることの楽しさが増してきた。落ち着いて新聞を読んだり、本を読んだりする時間を、一日30分でも一時間でも持つことで、静かに自分と向かい合うひとときが、私には必須である。

昨日の夕方一週間分まとめて新聞に眼を通し、ゆっくり読みたい記事は切り抜き、図書館にもってゆき、そこでゆっくりと読んだ。私の場合、読むところがだんだん限られてきているが知的、悦楽は、ありがたいことに深まりつつある。

日本語の文字を読むことは、私にとっては知的遊び瞑想時間だ。なにやら精神にたまった澱のようなものが洗い流されてゆく感じ、とくに知らなかったこと知った時は、身体がさわやかな気分に満たされる。

つまり、何やら元気になるのだから不思議だ。言葉、文字はどこにもゆかなくても、私を旅的感覚時間にいざなってくれる。浮世を生きるための知恵を授けてくれる。

【パソコンの調子が悪く、写真がアップできません。娘の結婚式を終えたら、新しいパソコンにします。それまでは、長年親しんだこのパソコンでの、文字だけブログになるかもしれません。どうかご寛容を】

2014-08-18

今にして思えば、長女の誕生で私の生活は一変しました。

昨日は、長女の生まれた日だった。ささやかに家族で、プレゼントを贈り祝った。娘からもお礼の電話があった。

来月下旬には、ドレスデンで結婚式を挙げる我が娘は、25歳になった。私は62歳、きわめて個人的なことながら、とくに私の場合はどうしてもある種の感慨にとらわれる。

私が父親になったのは(娘に恵まれたのは)、37歳の時のことである。以来何かが自分の中で変化し子育て中心の生活へ、となって、大東京から岡山へと移住し、またたく間に2十数年がすぎ、気がつくと娘は大きく成長していた。

私ごときでも、人生はヒトとの出逢いで、まったくあらゆる局面が変化し、世界は一変する。妻との出逢い、娘の誕生が、やはりまったく私の人生を、よりよいほうに導いてくれたことを、素直に何かに感謝したい思いに私はとらわれる。

とくに娘の誕生は、単細胞の私をして、決定的に変えた。夢想的な生き方を選択していた私のこれまでの生き方のことごとくを、打ちこわし、私を限りなく地に着いた暮らしへと引きずり降ろしたのである。

成人した娘は、もうすでに目の届くところから遠く離れ、自分の足で歩き、よき伴侶を見つけ、家庭を持つまでに成長した。

若いころの自分を振り返ると、悩み多き青春時代だったと思う。まさか人並の暮らしができ、娘に恵まれるなどとは、思いも考えもしなかった。

足腰を鍛えることなく、頭だけで物事を考える、都市型世界を浮遊していたような、青春時代を送っていた感が、今思うとする。

生まれたばかりの娘を見たとき・触れた時の肌触り、やがてぐんぐん大きくなってゆく生命の力は私を圧倒した。その力は、私のそれまでの生き方を、根底から変えたと今思う。

いま静かに五十鈴川だよりを書きながら、二人の娘に出会えた我が人生の幸運を思う。そして玉のような娘二人を生んで育ててくれた妻には、感謝しかない。

この数十年の、世界の変化多様化は目まぐるしさをの極みの情況を呈していて、いつ何時、何が起こるかわかり得ないほどに、複雑面妖な時代に突入してゆく感があるが、私は娘たちを見ていると、さほど心配していない。

自分たちの世代よりも、明らかにいい方向に、歩んでゆくのではないかという希望が持てる。いい意味での、グローバル化をしなやかに受け止めて、いろんな国の人たちとも、余計な偏見なく、交流している姿を見ていると、新しき世代の日本人の姿を我が娘の中に感じる。

そして私は思うのだ、未来の家族を、ささやかに応援するには何をしたらいいのかを、とくと自分の胸に手を当てて考え続けながら老いてゆきたいと。

なにも難しく考える必要は全然ない、本質、根本的な生活さえ見失わなければいい、畑で安全な野菜を育て、新しい命たちに食べてもらいたいくらいしか、今は思いつかないが、身体が元気な間は可能な限り、新しい家族を見守り、新しい命の役に立つ存在で、ありたいと思う。

【ごめんなさい、今日は写真のアップが、かないません】




2014-08-17

サンナンの農業部門の仕事場の整理整頓をA専務とN氏の3人でしました。



サンナンの農業部門の仕事場は、金属工場の隣に併設されている。職場もそうだが、家の中や、庭には、その場に棲む人たちの生活ぶりが、赤裸々に反映されている。

夢が原退職後、私の家での気分転換の一つに掃除をするということがあるということは、以前書いた記憶がある。

とくに、まったく電気掃除機を使わなくなり、昔にかえったかのように、ほうきで履いたのち、雑巾がけを、トレーニングも兼ねて、楽しむようにしている。

犬も歩けばとか、ちりも積もればとか、のことわざをいたく私は信じていることも、以前書いた記憶がある。

掃除してさっぱりした部屋で、ブログを書いたり、墨をすって文字を書いたりするのは、実に気持ちがいい。草刈りとか、草むしりも、何か共通する感覚があるようにも私には思える。

家には何とはなしに棲んでいる人の人柄が、かもし出されてくるから、面白いし恐ろしくもある。

見る人が見たら、いくら隠そうと、満天下にヒトは自分をさらけ出して、生きているのだと、私は思う。

掃除は、おっくう、たいぎなことも、多々あるのだが、緩やかにやり始めると、徐々にエンジンがかかってくる。だいたいその自分のパターンがわかっているので、気分が重い時はあえて掃除をするように、自分では心懸けているのだ。(どうしてもやがてできなくなる、最後は・・・・・。野暮なことを書くのは、今しばらく後にしましょう)


ところで、昨日外は激しい雨の中、A専務とN氏の3人で仕事場の整理整頓をした。専務の頭の中に描く、今後仕事がしやすい形に、配置しなおしたのだ。すっきりと落ち着いた。

どこに何があるかが、きっちりと整理整頓してあるのは、実に気持ちがいい。実は私は掃除は好きだが、整理整頓は苦手である。本もなかなか捨てられない。たまってゆく、でも何とかしたい。

還暦後、写真なんかも、どうしてもという写真以外は、眼を開けてよく見たのち、眼をつぶって断捨離した。過去に決別しなければ、からめとられて前に進めないからである。

思い出の詰まったものは、なかなかに数てられないが、これもまた時が流れれば、考えも変わり、老いとともに、意外と執着しなくなる自分が生まれてくるかも知れないし、気軽に考えてゆくようにしたい。

【昨日家に帰ったら、妻がドレスデンに新しくできる、レイ君の父母はじめ、家族一人一人に厳選したプレゼント15人分を、9時間くらいかけて、鶴を折ったり、色紙や、きれいなひもで結び、心のこもった一品を見事に創りあげていた。そのラッピングのセンス、我が連れ合いに、私は脱帽した。その写真です】



2014-08-16

8月15日、事務所でA専務の農に賭ける想いをうかがう。

今年のお盆は宮崎に帰省することもなく、と言ってお休みをとることもなく、ふつうに働いている。昨日8月15日は敗戦の日であった。

いつも通り職場に出かけたのだが、やはり出勤して働いている人間は少ない、がA専務は普段通り、出勤しいている。

私は毎日、最近は言われなくても、一人であれ、その日やれそうなことは自分で考えて愉しくやるように心懸けている。

幸いなことに、A専務からお盆だから休んでくださいとも言われていない。ほぼ娘たちを育て終えた今、生活に困っているわけでもない。ただ何とはなしに私の足は畑のほうに向かう夏なのである。

来月娘の結婚式をドイツのドレスデンで控え、十数年ぶりにヨーロッパに向かうので、なんとなく静かな夏をただ過ごしたいのである。

畑に向かおうとしていると、A専務に声をかけられ、事務所の小さい部屋で話を聞くことになった。A専務の目指す農の世界の展望や、想いを私に対して話してくださったのだ。何故サンナンでかなりの投資を今も続けながら、継続しているのかの想いを。

まだ入って一年にも満たない私に、虚心坦懐にその念いを、吐露してくださったのだ。かなり長時間のお話になったので、私の理解が遠く及ばないことも多岐にわたって展開された。

がしかし、私がはっきりと受け止めることができたのは、その農に向かいあう真剣な姿勢の背後に、現代競争(狂騒)世界の構造から、離れた視点での、安全な野菜を作り、なおかつそれで安心して質素であれ生計を立てられるような、心の通い合いを中心とした、A専務の想いえがく農の未来像である。

誰か一人が富を独占するのではなく、結果収益を限りなく公平に分配してゆきながら、人間が農を中心に据えながら生きる楽しみを分かち合えるような仕組み、仲間作りをしたいとの思いを、A専務は私に熱く語り続けた。

短い朝ブログでは、とても伝えきれるものではないが、私は年齢を忘れしばし時折感動した。それは、あまりに赤裸々に自分のこれまでの人生をも、知り合ったばかりといってもいいわたしに吐露されたからである。

ああ、だから、A専務は農をやりたいのだという想いが、ストレートに私の胸に響いてきたのである。今朝はそのことだけでも五十鈴川だよりに書いておきたいのである。

そんな熱き思いを私ごときに吐露されても、いささか正直面食らう面がなきにしもあらずだが、ありがたきことと私は受け止めている。私が限りなく信頼できるのは、独学で科学的に土壌のことから、農に関することを、わずか数年で今もなお、しっかりと謙虚に学び続けて、実践していることである。

私にやれることは限られているが、なんとかその想いを実現するためには何をしたらいいのかを、自分の動く体に相談しながら、今日もまた畑にゆこうと思う。

【写真は、妻が丹精したポーチュラカという、なんとも可憐な花、今最も美しく私の眼を喜ばす】

2014-08-12

職場の相棒N氏から、釣り上げたばかりのチヌを頂く。

昨日畑で共に働く、あい棒N氏から、牛窓で釣り上げたばかりの、チヌをあげるとの電話を頂いたのは、私がカルチャープラザのレッスンを終えて家に帰り、ちょっと遅めの昼食を済ませたばかりだった。

N氏は、大きいチヌをつったら、あげるけえ、と職場で再三私に行ってくださっていたのだが、ようやくにしてそれが実現の運びとなったのだ。

この間も電話をくれたのだが、その時私は岡山不在だったりして、間が悪かったのだが、今回は実にまがよかった。

N氏はチヌを釣るのが、生きがいのような人なのである。魚の話をするときは、眼の輝きが違う。まさに童心に還っている。人間生きがいがあるということは、大切なことだと思う。

それさえあれば、かなりのことには耐えて頑張れるし、まして釣った魚をおしみなくヒトに与えて喜べるというのは、やはり人柄だと思う。

サンナンで、ほぼ同期に働き始めたN氏は、私がこれまで生きてきた世界では、ほとんど会うことがなかったタイプの人である。まったく異なった世界を歩み、いろんな言葉にならない経験をしてきたことが、何とはなしに感じられる。

感じるだけなのであるが、それでいいのだ。お互い異なるからなのだろう、仕事をしていても相棒としては、申し分なし。だからなのだと思う、お互い畑時間が楽しく過ごせる。私もN氏も農に取り組む姿勢が、このところ自然に深まってきつつあるのを感じる。

私にとっては面白い人である。苦労をすると、それが裏目に出るタイプがいるが、氏の場合は本質的に、人柄がいいからなのだろう。結果現在は、愛があり、お穏やかに生活できている、幸せほのぼの感が、言葉の端端に感じられる。

人間は、ようするに、今がもっとも大切なのだと思う。ところで頂いたチヌ、母がきれいにお刺身にし、あらは私がたいて、それだけで十二分の我が家の豪華な夕飯となった。

つたなき我がブログ、この場を借りてN氏に心からの謝意を伝えます。さあ、今日もN氏とともに畑に行こう。

2014-08-11

台風の余波雨のお休み、斎藤明美著【高峰秀子の言葉】を読みました。

私がいきなりこのような書きだしで書いても、読み続けてくださっておられる方は、又かと思うくらいで、まあ、読んでくださるのでしょうが、もしはじめて読まれる方がいたら、どう思うのだろうか、なんてことも、たまには思ったりする私です。

ともあれ、台風一過、なんともはや穏やかな、西大寺(昨日は変換ミスですみません)の我が家です。家人はまだ、休んでいます。妻はお盆のお休みに入り、普段落ち着いてやれないことをあれやこれやと、やっておりまして、夫婦ともどもお互いのことには深入りせず、共存しています。

基本的に、今のところ私は、日曜と月曜日が農の仕事がお休み、月曜の午前中と、水曜日の夜が、シェイクスピアのレッスンです。昨年の10月1日から、ずっとこのペースで生活していますからもう間もなく、一年になります。

自分で書くのもなんですが、あっという間に時が流れたようにも思いますが、忙しきなかにも、これまでの人生の中で、最も幸福感に包まれた日々を送っているような気がしています。何をさして幸福と呼ぶのかは、各人千差万別でしょうが、私の場合はそうなのです。

夢が原で情熱を傾けた企画の仕事は、やはり40代、50代だから充実してやれたのだと思います。今思い返すと、かえすがえすもやっておいてよかったと、心底思います。過去形でいいのです。

過去がるからこそ、今があるのは、人生のゆるぎない真理のように思えます。今も明日は過去になる。だからこそ、今を可能な限り、悔いなく生きてゆくことを、それなりに積み重ねてゆく以外、私の場合、他に方法がない、見当たらないといったところなのです。

ある種の限界を、ヒトは生きる、その限界の中で、いかほどに自由感を保てるか、保てないのかが、私の場合重要なのではないかという気がしています。

なんというのでしょうか、ようやくにして、あらゆるリセットが進みつつある最近の私の暮らしです。交友関係も含め、すべてを新しく、深く反省しながら見直したいという気持ちになっているのです。

農の仕事を始めてから、特にそのような思いが強くなってきたのは何故なのか、そのことは、今後これからの日々の中で、ブログを書きながら、今もそうなのですが、揺らぐ自分自身を見つめてゆければとかんがえています。

唐突ですが、私の尊敬する、そして畏怖する、数年前お亡くなりになった高峰秀子さんの養女である、斎藤明美さんが、お書きになった、高峰秀子の言葉、という本を昨日一気に読みました。斎藤さんの書かれた、高峰秀子さんに関する本は、ほぼ全部読んでいると思います。重複している話も、何度も読んでいますが、何故かいつも新鮮に読めます。感動する自分がいます。私にとっての手放せない本として、死ぬまでそばに置いておきたい本です。

ヒトは、やはり出逢う人とは、出逢うのですね。お金ではかなわぬものに、出逢うためには、何をしたらいいのかを、つたない頭で、あきらめず日々を送りたいものです。





2014-08-10

台風の通り過ぎるのを待ちながら、静かに過ごす休日の朝。

昨日から台風の影響が、私の住む歳代時でも断続的に続き、今朝も雨がかなり激しい朝です。四国をはじめ、我が故郷の宮崎、他県の被害は、言葉がありません。

今のところ、住民の避難勧告も発令されていない、我が家の周りは、ただじっと台風が過ぎ去るのを静かに待つしかないといった様子です。

私は18歳まで、宮崎で過ごしましたから、いくばくかは台風の恐ろしさを知っていますが、災害の少ない岡山生まれの妻や娘には、深い実感がないのは、いたしかたないとは思いますが、ヒトはおそらく、長い一生には、何らかの骨身にしみる体験があった方が、他者の痛みを共有する、感覚が育つと思います。

がこればかりは、私も含め経験しないことには、わかりえぬ感覚なので、いざという時のために、普段からなるべく備えあればの例えを、忘れないようにするといった、対処くらいしかありません。

ところで、昨日も午前中かなり激しい雨だったのですが、いつも通り仕事に出ました。というのは、雨だと暑くないので、涼しさの中で、普段やれない倉庫の周りの草を刈りたいという思いが、私の中に在ったので、なにはともあれ畑の様子も気になるし、出かけたのです。

畑は川のそばではなく、35メートルくらいの高さにあるので、風さえなければ雨でも合羽を着て、草をかることはできます。結果午前中休み休み、3時間くらいかなりの草をかることができました。同じ時間、炎天下で草を刈ったら、まずダウン寸前になるでしょう。

危険なことをするのは愚かですが、仕事はどんな仕事であれ、ベストを尽くす中でなにがしかの妙味を見つるといった感覚が、私には在ります。特に亡き父が、ヒトがやりたがらないようなことを、進んでしなさいと言った言葉が歳を重ねるほどに蘇ってきて、弱い私の心を叱咤激励するのです。

とくに始めて一年にも満たない農の仕事、とくにA専務の目指す農の志は、痛く私の心をつき動かすのです。なんとか安全なネギを育て、その収入で生計の自立を目指す。言うは易きことなのですが、半端な情熱では実現するはずがありません。

そのためにはどうしたらいいのか、ない頭で考えます。考えついたことを、実行に移す。移すには健康な動く身体が必要です。動く体をなるべく持続するためにはどうしたらいいのか、又考えます。

そんなことから、最近私は食生活をかなり見直すようになってきました。思いついたら実行する。すこしずつですが、玄米を食べ始めました。それから野菜中心の献立、早い話日本人が昔から食べてきたような伝統食を食べるように心がけることにしました。

後は続けていって、自分の身体がどのような按配になってゆくのかを、感じてみようと思っています。できるだけ、精製したものをたべず、あるがままのモノをあるがままに頂けるような食生活にシフトしてゆきたいと考え始めたのです。

若いころから、身体のことはあまり考えず、好きなものを中心に採っていた自分の食生活を反省し
ているのです。とくに農の仕事を始めてから、トータルに命のもとである食べ物に関心がとみに移ってきました。

もう十分に若くなく、完全に下り坂の、これからの限りなく貴重な命を養う食材に、留意しようという思いが、俄然強まってきたのです。外に出かけての飲食も限りなく少なくなってきました。

とくに母や妻が育ててくれた、滋養野菜をこの数十年食べ続けていますが、おそらく私が今もってすごく健康なのは、そのおかげだと思っています。医食同源、身土不二といいますが、これは真理と思います。

身体は近くの土と、そこでできた野菜、食材とつながっているのです。おそらく日本人の体は、日本列島の土や気候風土とは、切り離せないのです。そんなことを、しきりに最近思います。

当たり前に、健康に、穏やかに、日々命をつなげられることのなんというありがたき幸福感。そのことにさえ、思いが至れるようになれば、あとは蛇足というものでしょう。

衣、食、足りて礼節を知ると言います。ちょっと書くのが恥ずかしいのですが、これに各人各様の愛のある暮らしを、見つけることができたなら、、。これ以上書くのは、野暮というものでしょう。

【本日は、小泉武夫先生の、いのちと心のごはん学、NHK出版、という本の写真をアップしようかと試みたのですが、できないので、又にします】

2014-08-04

動ける身体を意識して気持ちよく動かし、今を楽しむ。

この数日雨のために近くの運動公園にゆけない日が続いているが、図書館もあるし、夢が原退職後は、平均すると週に3日くらいは行っている。

特にサンナンで働くようになってからは、身体のコンディションを整えるために、目的を持って通うようになってきている。

夏は暑いので、夕方6時すぎから行って、3~40分位を過ごしている。だいたいやることは決まっているが、その日の気分で、4パターンくらい、身体を動かす。欠かさないのは、片足でやる座っては立つ繰り返しと、鉄棒にぶら下がることと、その日の体調で最低3回の懸垂を、3セット繰り返す、くらいである。

後、裸足で3週くらいグランドをかるく速歩することが、最近加わった。まあこれも、遊び感覚でやっている。何事ももうこの歳になると、遊び心、という感じで余裕を持って、やれる自分がいる。

それはやはり、親としての最低のつとめを果たした後の、ご褒美のようなもの、ではないかと考えている。

話を戻す。私は腰痛持ちで、何度もぎっくり腰を若いころから繰り返してきたが、40歳代の終わりのころ、かなりの腰痛に見舞われてから、私は腹筋を鍛えることを続けている。最初は全然できなかった。

膝を曲げ、丹田を意識してかるく上半身を上げる程度のきわめて、負荷のかからない腹筋体操である。以来この歳になるまで、ほとんど毎日これだけは、病気の時以外欠かしたことがない。

いらい、私はぎっくり腰になったことがない。骨は筋肉が支えているから、ある程度の筋肉がないと身体が、まず思うように動かなくなってくる。特に私の場合は、若いころに身体をいたわってこなかったので、そのことに対する気づきが遅かったのだが、かろうじてギリギリのところで今のところ間にあったのではないかと思っている。

何事も3日坊主、小さいころから根気が続かず、そのくせ夢見がちなことの多い、いわばちゃらんぽらんな性格をなんとかしたいという、今の言葉で言えば、トラウマを抱えた人生を、送ってきた。(過去形なのは、少しは改善されたという自覚があるからである)

思春期から世の中に出て、このままではいけないと、自分自身を叱咤激励してきたかのような、個人的我がお恥ずかしき人生のいまだまだ途中である。

私のようなとりたててぬきんでた能力のない輩は、人並に努力することくらいにしか、生き延びる方法が、今も私にはないのである。唯一の宝である我が体を、なんとかして活かして耕す中で、何かが育ってくる実感を、持てたからこそ、生き延びることができたのではないかと思うのだ。

つらい努力も若いころはして、やはり自信をつけるしかないのではないかと、私は思う。またつらくとも若いからこそできるのではないかと、今となっては思う。もうこの歳になると、したいとも思わないし、第一そんなことはする必要もない、愉しい努力のできる、余裕の持てる今が嬉しい。

ところで、私が生まれて初めて懸垂に挑戦したのは、富良野時代だから31歳だ。卒塾していらい30年近くやっていなかったのだから、当初まったくできなかった。でも昔、やったことがあるという、身体の記憶は、かすかに残っていたのである。挑戦して出来た時は、天を仰いだ。

懸垂は、私の最も苦手な運動の一つだったのだが、回数ではなく、それができた時の喜びは、やればできる(やらなければできない)、いわば再び自信のような光が身体に差し込んだのである。

ヒトと比較するのではなく、自分を見つめてゆく中での、弱点のようなものを自覚し、遊び心で克服してゆくことにこそ、いわば生きてゆく面白さがあるのではないかと、最近は思うくらいだ。(人それぞれなのだから、無理してやるのは、愚かだと思う)

老いてゆく中で無理をするのではなく、下ってゆく中での楽しみの方法ようなものがあるのなら、一回こっきりの人生を深めてゆく味わいを、私は先人たちの歩みの中に見つけてゆきたいと思う。

ともあれ今日もまた、午前中Uさんと、シェイクスピアのオセロを二人きりで読める幸福な時間が持てる。意識が動く身体が存在していればこそである。

2014-08-03

雑草との対話の中で、自分自身の原風景がにわかに立ち上る畑時間。

雨音を聴きながら書いている。昨日も雨であったが午前中なんとか仕事ができたので畑に行った。器具の点検を始め、農の仕事は普段なかなか目が行き届かないことを確認実行するためにも、畑にとっても恵みの雨となった。

幸いN氏が機械をいじったリすることに強く、相棒としては誠に持って頼もしい。氏とは別に私は雨が激しくなる前まで、ネギの補植と雑草取りの仕事を繰り返した。

更地の1号地の葱畑にとっては、なんといっても手ごわいのは雑草である。ネギが伸びるに従って、それを追い越すように伸びてくる。しかもこの草は棘のある、一筋縄ではゆかない、私が出会った中の雑草で最も手ごわい草である。

おそらく、私がサンナンでん農の仕事を続ける限り、この草となんとかして、農薬を使用せず共存しなければならない。そのためにはどうしたらいいのか、このところない頭で考えている。

結論はとてもではないが、根まで取っている時間はないので、手がつけられなくなる前になんとか、あらゆる道具を使って削り取る、根気のいる作業を自分に課すしかないということに落ち着いた。

時間を見つけて、とにもかくにも雑草をやれる限り削り取る作業を、繰り返すしかない。こういう風に書くと、なにやら悲壮感が漂うが、書いている本人はなるべく楽しんで雑草と格闘している。

身体が動くからこそ、雑草と格闘することがきるわけで、雑草の前で降参ではなく、格闘する気力体力が、一日でも長く持続するようにはどうしたらいいのかを、歳とともに以前にもまして考えるようになってきた。

以前から何度も書いているように、私は雑草取りを心身のトレーニングのために、つとめて楽しんでやれるように心懸けている。草が伸びる、それを刈る。又伸びる、それの繰り返しなのだが、一時ではあれ、手入れが行き届ききれいになった畑は、見ていて実に気持ちがいい。

部屋の掃除や洗濯、おさんどんも同じである。時の流れの中で、ヒトは日々の暮らしの中でのほとんどの事を、繰り返す。

その繰り返す行為を、いかほどに意識し楽しめるか、楽しめないかで、オーバーではなくその人の人生は、大きく変わってくるに違いない。

自分で書くのもなんだが、私はいま畑で働くのがじつに気持ちがよく楽しい。なぜなのか、自分ではなんとはなしに理解できるような気がしている。それは限りなく、畑では自分に正直に生きられるからである。

まっとうに生きる、自分に嘘や言い訳をしないで、無心に生きる、遊ぶということは、実に気持ちがいい。複雑な思考が苦手な単細胞の私には、まさに小さいころの泥んこ遊びをほうふつとさせる畑時間なのである。

いい歳をしばし忘れさせ、こんなことを書くのはいささか恥ずかしき感無きにしも非ずだが、幼き黄金時代にタイムスリップしたかのような心持になり、久方記憶のかなたに置き忘れていた、心象風景や原風景が蘇ってくる。

蒼穹のもと、鍬を振りかざし、草と格闘しながら汗を流し、私は動ける自分自身と遊べる幸福感に包まれる。

【N氏が持っているのが、私を鍛える草、既にとげがあり人間の背丈くらいになる。その生命力はたとえようもない。せめて10センチくらいで削り取らないと、たいへんなことになる】

2014-08-01

ささやかに畑で幸福感について思う。

網戸からようやく涼しい風が流れてくるのが感じられる。それでもおそらく熱帯夜だ、夏独特のまとわりつくような暑さは、日付が変わっても続いている。夕食後、ぶっ倒れるように、横になって休んでいたのだが眼が覚めたので、いつものように本を読むのではなく、ブログタイムとなった。

とりたてて書きたいこともないのだが、やはり書きたいという絶対矛盾の私だ。この一月間のサンナンの農業システムは、A専務主導となり、もっぱら私とN氏は、その主導のもと一号地の畑で働いている。

A専務自らトラクターをかけ、率先垂範動いてくださり、のうに賭ける情熱がじかに伝わってくるので、猛暑ではあるが、私自身はそれをしばし忘れるくらい、楽しく働かせて頂いている。まったく無知蒙昧で飛び込んだ農の世界だが、ようやく入り口に立ったかのような、実感が私を襲っている。

いま、更地になった一号地にネギを新たに植え始めているのだが、A専務の指導のもとでの、初めてのネギ栽培は、気分一新すべて新鮮に取り組めている。N氏と私の二人にかなり任されているので、一段と責任を持って取り組む姿勢が自分の中に生まれてきているのである。

とくに植えたネギが、大地にきちんと根付くまでは水やりが重要なので、このところ夕方再び、散歩がてら水やりにゆきたくなる自分がいる。生き物を育てるのには、人間であれ何であれ、愛情が最も大切であるというこは、論を待たないという気が、私はする。

話は変わる、ゆうべ夕食時に見ていたNHKで、働き盛りの日本人男性の7割以上が幸福感を持てないまま、日々を働いているという特集をやっていたが、(女性は6割5分)私はそのデータにしばし、唖然とした。

どこかそうだろうとは思いもしたが、こうまで高い数字には正直あきれ果てた。幸福感を持てないまま、何故人はかくも働くのか、今一度であれ、何度であれ、ヒトはなぜ働くのかという根本を、問い詰めて考えないと、消費文明で働く男女は幸福感を持てぬまま、廃人かしてゆくのではないかという危惧を持ってしまった。

幸福感を持てない夫婦のもとに、生まれた子供はどうなるのか、教育の再生とかまことしやかな議論飛び交うが、その実態はなんともはや嘘寒いというしかない。薄気味の悪い事件も、この数十年あとを絶たないが、すべては人間の心を、お金の論理が支配してしまったからのような気が、個人的にはしてならない。(お金は、幸福追求にこそつかうべきではないか)

だからどうしたらいいのか、ということを、ない頭でこの数十年子育てをしながら考えてきたが、考えなかったら、どうなっていたか、想うだにゾッとする。このブログでも何度も書いているが、人間は考える葦である。どんなにささやかではあれ、人間は考えないとそこで止まってしまう。

枯れながらも持続する。持続する志の中にこそ、時折なんかが降りてくる気が私はする。

本を読んだり、ヒトと話したり、旅をしたり、芸術や、あらゆる美や音、まあとにかくいろんな人間の素晴らしさに触れる時間を何とか見つけ、自分自身を磨く意識を持続しないと、気が付いたら何が何だかわからない世界に放り込まれてしまうのではないかという危機感が私にはかろうじてある。

そのかろうじて感じる感覚に、なんとかしがみついて、よたよたと今も日々を生きているというのが正直なところである。この歳になると加速度的に、自分の体に正直に生きたいという気持ちを私の場合抑えることができない。

話は畑に戻る。畑にいると、なにもない、なにもいらない幸福感に包まれる。大地の恵みを頂き、家族が幸福感を持って生きられれば、それで十分ではないかと、夏の雲を眺めながら五十鈴川だよりは考える。

【左がA専務、右がN氏、3人畑時間は限りなく愉快に時が流れます】

2014-07-28

真夏の真夜中、ささやかに五十鈴川だよりは思案します。

もうすぐ日付が変わりそうな真夜中の時間帯、この数日では最も涼しい夜です。だからなのでしょう目が覚めて気分がいいので、なにやら綴りたくなりました。

もう間もなく、ブログを書き始めてから、5年近くなるのですが、この間に書いたつたなき我がブログには、ほんのかすかにではあれ、時代の空気感のようなものが、映っているかもしれない、なんてことを、思います。

国内外、この5年間で起こったこと、そして今も日々起こるあらゆる、事故事件、天変地異。自然災害は置くとして、もはや言葉なき感や、ある種のやるせなき無力感に襲われることの、なんとまあ、多き時代を生きていることかと、暗澹とします。

いちいちのことに関しては、私自身もうかなり鈍感になってきていて、小市民的な自己保身的な生き方を、否応なく生きているのではないかという感、無きにしも非ずです。なにしろ、こうもあらゆる情報が錯綜すると、真実は藪の中、大多数の私をはじめとする庶民は、途方に暮れてしまいます。

しかし、あらゆる絶対矛盾を抱え込みながら、出来ることなら時代の行く末を、可能な限り自分の眼で見届ける、気力のようなものは見失いたくはないと、おもう私です。

そのためには、日々をどのように生きればいいのか、五十鈴川だよりは思案するのです。もちろん私ごときの頭では、いかんともしがたいことは重々承知しながらも、知らないでは済まされない世界の真実を知る努力は、蟻の歩みのように継続しないことには、思考は停止してしまいます。

娘が秋には結婚します。孫が生まれたら、私はお爺さんになります。ピンとは来ないのですが、そうなります。シリアでも、ガザでも、眼をそむけたくなるような、子供たちの映像や、写真、文章が、私の眼に飛び込んできます。

もしこれが、私の孫であったらと想像すると、阿鼻叫喚、気も狂わんばかりの感情におちいるでしょう。自分とは関係ない、という一言では済まされないと、私は思います。無関心ということが、一番いけないことではないかと、思います。

おぞましき出来事に、無関心でいると、それはやがて、巡り巡って、やがては自分たちの世界ににも、対岸の火事ではなくなってくる、というのが、このグローバル時代の末恐ろしさではないかという気が私個人はしてしまいます。

弱者が、弱者を陥れ、強者がのうのうと生き延びる、このような構造の真実がどうもあまねく世界を覆いつつあるよな時代の匂いを感じます。

ガザやシリアで使われる、武器弾薬は、いったい誰が作ってどこのだれが提供しているのでしょうか、そのようなニュ―スには、お目にかかった記憶がありません。

第一次大戦から100年、先の大戦の敗戦から来年で70年、強者は生き延び、弱者は絶えず世界でなくなる。この構造は、どこのだれが仕組んでいるのでしょうか。もし神様がいらっしゃるのなら、伺いたいものです。

2014-07-27

熱中症対策は、何かに熱中することで乗り切る。

猛暑が続いていますね。私の場合とにかく朝早く起きて涼しいうちにやれるだけのことをやり、午後から夜にかけては、つとめてなにもせず、怠け者のようにすごしながら、体調を管理しなんとかこの暑さを乗り切りたく、休日の今朝も午前3時半から、あれやこれやを済ませてから、おもむろにブログを書いています。

一階の和室を主に私は使っているのですが、妻が日よけに朝がおを育ててくれていまして、気分が実に涼やかになります。蝉もようやくガンガンと鳴き出し、ようやく夏らしくなってきました。

暑さはこの歳になるとたしかにこたえますが、これも自然の摂理、なんとか知恵を絞って乗り切りたいと、あれやこれやと考えるのが、頭にはいいのではないかと思う私です。

私の夏の乗り切り方を少し書いてみましょうか。

仕事は別にして、日中はなるべく外に出ない。夏野菜を十分にとり、とにかく睡眠を良くとる。朝、昼夜を問わず、気持ち悪い汗をかいたら、すぐ水を浴びる。

暑さをしばし忘れるくらい、熱中して過ごし、好きなことに没我する。本を読んだり、声を出したり、日没後裸足で、グラウンドを散歩したり、新聞を切り抜いたり、などなど。

仕事から帰った後、午後一番風が流れる部屋で昼寝をする。その前に時折、家で採れた夏野菜、トマト、ナス、おくら、ゴーや、ししとう、ピーマン、キューリ、などをふんだんに使って、スパゲッティや、炒め物や、スープを作ったりの料理をたまにする。

なあんてことくらいでしょうか、私はクーラーの冷気は、あまり気持ちよくないので、可能な限り家族と過ごすとき以外は、使わないようにしています。吹き出てくる汗と上手に付き合うように、心懸けています。

話は忽然と変わりますが、仕事の日は午後一時まで畑で過ごすことが多いのですが、申すまでもなく連日の暑さは、我が年齢の肉体に容赦なく迫り、この数年来、熱中症という言葉を耳にしない日はないという感じです。

昨日も、畑でネギを植えたり、植えたネギを補植したり、草を刈ったり、トラクターに乗ったりしたのですが、仕事中の暑さ対策は、水分をまめにとることと、休憩の度にトマトをたべたり、糖分を少し食べたりするくらいです。

それから、私の場合ですが、何よりも楽しく熱中して眼の前の仕事に集中する。それが一番の暑さ対策になっているように思えます。

要は、なるべく自然に逆らわず、上手に付き合う方法を各人が知恵を絞って、お金を使わず先人たちの、過ぎし来し方に学ぶのが一番です。

生きているからこそ、感じる夏を過ごせるわけで、62歳の夏を楽しまない手はありません。動かず騒がずじっと夏を楽しむくらいの余裕を持ちたいものです。

アサガオに・心涼やか・今朝の夏。

2014-07-25

クレイジーケンバンドの・スパークだ・という歌が気に入りました。

少し時間があるので、畑に向かう前になにかさあ綴ろう、なんて気もちになったので、妻の作り置きの温かいお味噌汁を(これが夏バテを防ぐ)をのみながら、パソコンを開きました。

ところで、パソコンの調子が時折悪いなか、なんとかブログを書いているのですが、近いうちに新しいのに買い替えるつもりです。その間はブログがしばし中断しますが、ご容赦ください。

さて、いきなりですが、NHKのみんなの歌で流れている、クレイジーケンバンドの【スパークだ】という歌をご存じでしょうか。まだ2回ほどしか聴いたことがないのですが、最近この歌にはまっています。

こんなことは、数十年間なかったことなので、自分でもちょっと驚いているのですが、歌詞の内容と、メロディが今の自分の心境にぴったりとくるのです。何とはなしに口ずさみたくなってくるのです。

声を出すということにはかなり熱心なわたしですが、歌を歌うということには、どこかしらひいてしまうところがあるのですが、自分でもよくは分からないのですが、この歌は歌いたい、といまかなり本気で思っています。

還暦を過ぎた今、何でもリセットという心境が、一段と加速しているのかもしれません。スパークだ、は昭和の少年期を過ごした自分には、限りなくジャストフィット、だがただ、なつかしんでいるのではなく、今を歌っているところが、素晴らしいのです。

ともあれ、クレイジーケンバンド、初めてその名前を知りましたが、クレイジーというのが、いいですね。今の時代は、ある面クレイジーでないと、正気を保てないという、逆説的な時代だという認識が私にはとてもします。

言葉遊びではなく、クレイジーに正気な農業をやらないと、農薬漬けの見かけだけいい野菜なんかとても売れるものではありません。知らぬが仏で、マクドナルドのナゲットなどをほうばっている方々に、なんとか安全な食物を見分ける眼力を身につけて、ほしいものだと、仏にも祈りたい私です。

だます方が悪い、だまされる方が悪い、というへんてこりんな議論がありますが、悪の論理に騙される暇はありません。かけがえのない自分の身体は、哀しいのですが、自分で守るしかありません。

食べ物だけではなく、あらゆる精神に害を及ぼすような、製品や情報が、日々満載の垂れ流し時代です。ここはひとつ、地に足をつけて、自分の眼力を地道に養うしかありません。幸い若い世代に、賢くタフで、まともな人たちが現れているのが救いです。

なにやら、みんなの歌から、話があらぬ方向に飛んでしまいましたが、畑にゆかなければないませんので、今朝はこれくらいで。クレイジーに夏を乗り切りましょう。

2014-07-24

A専務の金属溶接姿に、男心を感じました。

本格的な夏の到来です。今まだ午前6時前ですが、すでに蝉の声が我が家の近所では鳴り響いています。

暑さには、いよいよもってこたえる年齢の渦中を生きているのですが、夏はせわしなく蝉の声が響かないと、私の場合日本の夏という気がしないのです。

ところで今日は、仕事に出かける時間が遅くなり急にブログを書く余裕ができたので書いてます。こうも暑いと、とてもではないのですが、とくに私の場合は朝以外の時間には、書く気持ちにならないのです。

だから、やはり今朝は嬉しいですね。ブログ書き、心整え、さあ畑にい行こう、ってな感じがいいのはもちろんなのですが、農作業はそうはゆかないのです。

夏は、午前中くらいしかとてもではないのですが、午後は畑には居られません。ブログでは、あまり畑のことには触れていませんが、A専務のもとわずかなスタッフで、思考錯誤の農を過ごしています。

ひとことで言えば、限りなく良心的な農を目指しながら、なおかつそれで生計を立てるというのは、限りなく難しいという一言です。

でも、A専務は、一路不退転の覚悟で、がんじがらめの現代農のおかしさに、異を唱えるのではなく、安心して食べていただける、野菜作りを単純に目指しています。

その、限りなき遊び心を失わない、高貴な精神性に、私はいたく共鳴してしまうのです。お互いの中に似たような波動を感じてしまうのです。

このような人物に出会えたことは、私のこれからの晩年ライフがどのようになるのか、新たな未知との遭遇の連続になる予感がして、毎日が年齢を忘れてとても楽しき日々を過ごさせて頂いています。

ギリギリのところで踏ん張って、新たな途を模索するそのあきらめない姿勢は、男心に響いてくるのです。

よもやまさか、夢が原退職後、このようなドンキホーテ的傑物に出会うことになろうとは、思いもしませんでした。だからこそ人生は面白いというしかありません。

A専務の中には、このような夢も希望も限りなく乏しくなりつつ現代人の暮らしの中に、畑で農作物を育てる中で、本来人間が持っていた豊かな精神性を再発見してゆきたいという、見果てぬ夢が感じられるのです。

昨日も、古いトラクターに日よけをつけるために、自ら金属を溶接して私を驚かせましたが、私が苦手な世界の人生経験をふんだんに積んでこられているので、おそらく面白いのだと、自分では感じています。

ともあれ、今日もこれから畑に向かうのですが、これまでの人生で仕事に向かうのが、こんなにも苦にならない職場は初めてです。中高年が生き生きと働けないような社会は、きっと日本の将来を限りなく暗くすることになる、そんな気がしてなりません。

老いも若きも、笑みがこぼれる社会こそが望ましいのに、なぜそうはならないのか、とくと思案に値するテーマであると、私個人は思います。

蝉の声に耳をすまし、そのエネルギーを甘受し、今日も一日汗を流し、畑時間を過ごすことこそが、今のところ、昼の時間の醍醐味です。

【今日の写真は、先日横浜でK氏に連れてゆかれた、古い古い食堂の壁に掛けられていた、爬虫類、横浜に行ったら、必ず立ち寄りたいと思わせる素敵なお店でした】


2014-07-22

横浜、ジャック&ベティという映画館で親友K氏の出演するフィルムを見ました。

親友K氏の短編映画を見に上京してきました。

横浜のジャック&ベティという、世界の個性的なあまり上映されないフィルムを普段から上映している映画館で行われた、横浜キネマ・カーにバルの全24作品(19日から8月1日までの夜に日替わりで上映される)の中の一編で、谷坪明英監督のONE・NIGHTという作品にK氏が出演していました。

普段は普通に働いているK氏が仲間うちで出資しながらも映画作りに参加した、還暦直前の一念発起の心意気に、私はある種の感動を覚えながら画面に見入りました。

氏とは26歳からの古い付き合い、私の青春時代を知る今となっては貴重な友人の一人です。ファンタジックな大人の童話のようなフィルムで、映画として十分私は楽しめました。

氏はこれからの人生を映画俳優として、新たな人生をこの作品を機に出発してゆくのではないかとさえ思えるほどに、健闘しながら役作りをしている様が、十分に伝わってきました。

ともあれ、K氏の勇気のある人生の選択をこの目でしっかりと確認することができたこと、五十鈴川だよりにしっかりと書きとめておきたく思います。

これまで、私が企画した野外での大きなイベントには、欠かさず手弁当でぼランティアしてくれたK氏の映画初出演を、友としてお祝いすることができたこと、誠に持って慶賀すべき、ある夜の出来事となりました。

持つべきは友、なんてことを言いますが、私と違って用意周到冷静沈着な氏の思わぬ大胆な、一発大逆転的な行動には、大いなる心地いい刺激を受けました。

このような友人に我が人生で出会えたことは、限りなく我が人生の救いです。そしてまた人生は流れてゆくのですが、お互い良き最後まで、人生をプレイしようとその夜は午前2時過ぎまで、映画館の近くの日ノ出町のホテルの部屋で語り合いました。

ヒトは人生でどれだけの大切な友に巡り合えるのでしょうか、ロンドンのユースホステルで出会って以来の時間の流れの中で、お恥ずかしきことの数々も含めて、共有しながら、何故か縁が切れることなく続いている我が良き友の快挙を心から祝福せずには居られません。

我々の、一回こっきりの人生旅も、そしてまたこれから緩やかに流れてゆきます。お互い緩やかに枯れてゆくなかで、きらりと光る何かを見つけてゆきたいものだと、思うのです。




2014-07-19

親友が初めて出演した短編フィルムを見にお祝いを兼ねて上京します。

蝉が鳴き出し、しばらくブログを書いていない間に、夏が一気にやってきた感じです。

親友のK氏が、短編映画に初めて出るので、退職祝いを兼ねて、急きょ上京することにしました。

目的は、K氏のフィルムを見ることだけです。のんびり汽車の旅、車中は静かな独り時間をすごします。

3連休を利用しての旅、このような時間は、はなはだ気ままな読書旅が、自分には一番合っています。

このところ、暑いさなかの農の仕事が続いていましたので、お盆を迎える前のぶらり旅、K氏のおかげで、思わぬいつもと違う時間が過ごせるのは、ありがたいことです。

出かける前の、久しぶりの朝早起きブログ、旅支度を整えた後、車中で読む本を、3冊バッグに詰めました。

旅には本が欠かせません。あと何回このような旅が可能なのかは、誰にもわかりません。K氏と今回も、一期一会の時間を気楽に楽しむこと、以外何も望まない私です。

浮世のあらゆる俗世しがらみからの解放感が旅のだいご味ですが、普段の充実生活ががあればこそです。

世の中は相も変わらず、次々に大事が起こる世相ですが、こんな時は静かに地に足をつけて、日本の風景を眺めながら、静かに過ごすべく五十鈴川だよりは流れたく思います。

五十鈴川だよりを読んでくださる方々に、心から暑中お見舞い申し上げます。又書きます。




2014-07-13

A専務の農に賭ける夢を共有できる幸せを思う日々。

二日間、かなりの暑さの中、この年齢の自分としては、ギリギリまで身体を動かした。農の仕事に必要な、苗の置き場を確保するために借りた、荒れた土地の整地と、そこに在った樹齢30年以上の大きな桐の樹を切り倒し、その木の枝葉をかたずけたのだ。

A専務が率先垂範動いた。上司というものは、こうでなくてはいけない。部下をやる気にさせる能力なくしてはとてもではないが、上司は務まらない。

切り倒した後は、N氏と二人でもくもくとかたずけた。正直かなり肉体が悲鳴をあげそうに何回かなったが、そんな今現在の自分の身体の動きのチェックも兼ねて気合を入れた。

このように書くと、何やら、悲壮感が漂いますが、十二分に楽しんで仕事ができる環境を、A専務が与えてくださっているので、私はささやかに役に立っている充実感もあって、ことのほか作業を楽しめてやれる、自分の体を楽しんでいる。

何度も書いているが、生きていることの一番の嬉しきことの一つは、意識と身体がそれなりの年齢なりに、自由自在に動けるということだと思うからである。この感覚は若い時にはわからなかったが、今は身にしみてわかる。

使った道具は、鎌、鍬、草刈り機、ほうき、フォーク、ジョレン、チェーンソウ、バンジなど。限られた仲間と、これだけの道具で、わずか3日で見違えるほどに、荒れ地が整地された。人間は、やる気になると、信じられないほどのことが可能である。

要は、いかに一回こっきりの、老いてゆく晩年、何を持って情熱を持続させることが可能なのかということが、定年退職後の、私にとっての大きな課題であったが、A専務の掲げる農の世界は、私に年齢を忘れさせるくらいに、情熱の持続を今のところ私に与えてくれている。

一日、今日も心から働いたという気持ちのいい充実感が在る職場など、そうはあるものではない。現実は厳しい。赤字続きの中、A専務は限りなき悩みの中、ひょうひょうと農の夢の実現に向かっている。

このような、見果てぬかのような夢を持続するヒトと出会えたこと、そんな上司とともに働ける幸せを感じながら、今現在の日々を過ごせることのなんたる幸運。その深い自覚は、感じる私にしか分からないものである。

夕方妻とともに、再び頂いた桐の木の枝や幹を薪にする作業をした。考えてみると、子供に恵まれてからは、家と職場でほとんどの時間を過ごし人生は過ぎてゆく。

このほとんどを過ごす時間が、限りなく充実して愉しく過ごせれば、これに勝る幸せはないと思う。自分の人生は、自分で考えて切り開いてゆくところにこそ、そのだいご味があるのではないかという気が、私はする。

【今日は、カメラとパソコンのコネクションが悪く、写真アップすることができません、ご容赦ください、娘の婚約者のレイ君が仕事で、たまたま帰ってきていたので、なんとかしてくれそうです】





















2014-07-10

晴耕雨読の晩年ライフの渦中、親友K氏よりメロン届く。

台風のため急きょ仕事がお休みになり(私の住むエリアではほとんど影響がなかった)、私は終日本を読んで静かに過ごした。

各地ではいろんなところで、人災も含めた被害が起きていることが報じられている。この歳になると、何事もなく日々平安のうちに過ごせることの、ありがたさがしみる。

朝、多少風と雨が台風の影響を感じさせたが、ほとんど雨も降らなかった。夕方図書館にゆき2時間ほどすごしたのち、閉館後となりの公園でしばし、なまった体を動かし、空を眺めながら広場を歩いた。

最近私は、裸足で歩くことをこころかけている。というのは、足の裏がひ弱になっているのをとみに感じたからだ。当たり前だと思う。靴をはき始めてから、外で裸足になることはほとんどないのだから。

裸足で歩いたのち、家に帰って足の裏をきれいに洗ったらなんとも言えず気持ちがいいのだ。本を読んだり、文章を書いたりする習慣が長いので、いかんせん私は肩がこる、だから肩こり対策も兼ねての。裸足歩きと、我流ストレッチとを心懸けているのだ。

その成果は簡単には出ないが、少しでも和らげる意味で、持続してみたい。若返ることもないし、酷使してきた我が体を、少しでもいたわってなるべく心身の風通しを良くしたいとの、切なる思いの発露なのである。

体調が良くないと、とてもブログは書けない。今日は思わぬ時間のおかげで、夜なのにゆったりとした気分で書ける、うれしい。そうだ、ささやかとてもにうれしいことが、昨日あった。仕事から帰ると、親友のK氏からなんと、三浦特産の見事なメロンが届いていたのだ。

こんな高価な果物を私に送ってくれる友のありがたさ、まさに再びしみる。

26日には氏の出演している、短編フィルムを見るために上京予定、会いたいと思っている。

その前に私のつたなきブログを欠かさず読んでくれているので、この場を借りてお礼を伝えたい。(13日、よく冷やしていただきます、母にもあげました、多謝)

ところで私、肩こり以外は実に健康、充実した日々を送っています。本を買うお金が多少あれば、もうほかにはほとんどなにも不要な、我が晩年ライフ、後は騒がず、静かに流れてゆきたい五十鈴川だより。

だが、我がそんな思いとは裏腹の絶対矛盾、日本のこれからはなどと考えると、自分の無知を謙虚に省み青息吐息、生きているのも正直なところ。でも以前の暮らしに比べたら落ち着いて、不安なく本を読める時間が増えただけでも、ありがたき日々。

つましき日々の中に、書物を通して人間を見つめる時間を平日は大切に送る、晴耕雨読の日々である。