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2017-01-31

図書館で素敵な本を見つける喜び。

以前は自分が書いたブログはほとんど読み返すことがなかったが、このところ前回書いたものを先ず読んでから、今日のブログに向かうようになってきた。

パソコンに向かうまで半分以上書くことを決めていないだが、正座をして画面に相対していると、おのずと文章が紡ぎだされてくる。(動き、掃除し、耕し、声出し、読み、書き、見る、散歩し、時折旅をする)

どんなにつたなくても、一編の文章が生まれてくるのは、自己満足的にやはり苦楽的にうれしい。夢が原退職後、一番変わったことの一つに図書館通いがある。

西大寺には大きな本屋さんがないし、歩いて行けるところに図書館があるのは本当にありがたい。 平均週いちくらいで通っている。

思いがけない知らない著者の書いた本を、30分くらいかけて数冊選んだらすぐに図書館を後にする。当たり前だが、図書館には古い本が多い。古本屋もそうである。

読み継がれている名著ではなく、数年前とかせいぜい10年くらい前の本で、読んでみたかったおもえるよな本、今私の年齢で糧になりそうな本を見つけるのが大きな日々の楽しみの一つだ。

一昨日の日曜日(に行くことが多い)、書棚に【よく生きるとは、よく動くこと】という本が私の眼にとまった。著者は91歳になる現代舞踊家、石井みどりさん。2004年発行のほんである



すぐに読み終えたが、75年間 もの間踊り一筋、体を動かし続けた方の言葉は、お上手がなく含蓄に富んでいてなるほどという説得力に満ちていて、読みごたえがあった。

【膝は 腰とかかとを結ぶ接続詞】、なんて言葉を始め十数の言葉を万年筆で書き写した。

話は変わる。一度現役をリタイア宣言した、宮崎駿監督のドキュメンタリーを先日NHKでたまたま見たのだが、アニメーターが人工知能でアニメーションに取り組む姿に、(AIを否定するのではなく)あくまで宮崎監督の手が生み出す、魔法の線にこだわる苦悩が映し出されていた。

 91歳と、75歳の肉体の妙、摩訶不思議さ、その素晴らしさに、心底こだわるその姿に私は感動した。いくら少数者であれ、間違いなく自分は あちら側に棲みたいと思ったのだ。

デジタルでブログを書きながら、という絶対矛盾を生きる私だが。AIが逆立ちしてもできない世界を、見つけたいと思う初老の私だ。

宮崎駿監督や、石井みどり先生(このような素敵な方の存在をいままで私は知らなかった)のような真の意味で生きている人間性の持ち主の言葉には魂と血が流れている。






2017-01-29

3月25日・第4回シェイクスピア遊声塾【恋の骨折り損】の発表会をします。

3月25日(土曜日)午後(時間は未定だが、1時半からの予定)、シンフォニーホールのイベントホールでシェイクスピア遊声塾の第4回発表会を行うことにした。

61歳、夢が原退職後、すぐに立ちあげたシェイクスピア遊声塾。これも書いた記憶があるのだが、正直30年本格的に声を出していなかったので、まったくゼロからの出発の気持ちで(過去を振り返らず)不安を抱えてスタートした塾である。

40歳で岡山に移住した時も、背水の陣で心機一転出発した。振り返ると田舎から上京したときが、第一回目だとすると、遊声塾を立ち上げた時が5回目の転機であったのだという気がしている。

それは生きることにせわしなかった私の人生で、思いもかけずインタビュー本の(される側の)5人の中の一人になったことで、(現時点で) いやでも応でも振り返らざるをえない羽目に陥ったからである。

話を遊声塾の発表会に戻す。もう4回目の発表会なのである。立ち上げた私が言うのだから間違いない、このご時世に、私のはなはだ個人的な私塾が続いていることは、私にとってははなはだ奇蹟的な出来事である。

この塾は退職後のヴォランティアの塾ではない。ちょっとでも声をだしてみればわかるが、あの膨大な言葉をきちんと声に出すことは、半端な努力ではなかなかなに困難を極めることなのだ。

今はまだ振り返らないが、遊声塾6名とカルチャーセンター2名の生徒さんがいる。塾費を払ってくださってまで、シェイクスピアの言葉を声に出すことを続ける塾生とともに、今を生きている声を発したいと思わずにはいられない。

確実に老いてゆき声が出せなくなるからこそ、出るときに可能な限りの声をだし、(あかんと思ったら、潔くやめるだけである)終わりがあるから素晴らしいと考える側に私は立つ。だが今は、まだじたばた声が出る。出る声にしがみつく老春の私だ。
ピーターブルック演出・テンペストのポスター


今年の 遊声塾の発表会は【恋の骨折り損】である。セリフの量が多いので、少しテキストをカットして休憩をはさんで、なんとか2時間半で収まるようにしたいと考えている。

主な登場人物だけで17人出てくるのだが、これを私も入れて7人で読んでも、ひとりが2~3人のパートを読まなければならない。

聴いている方は、ひとりの人がいろんな登場人物の声を出して読むことになるので、こんがらかるのは必定なのだが、なんとかそこのところを知恵を絞って 乗り切りたいと考える。

いそがしく働きながら、毎週水曜日必死で稽古にやってくる塾生たと声を出しながら過ごせる現在の私は、私にしかわからない充実感につつまれる。

人数の多寡では量れない、生み出しえない、お互い情熱をぶつけ合っての赤裸々な声だしは、絵にかいたような内実のうすい会議的な儀礼的声とは対極の、まさに生きている声なのである。共にシェイクスピアという山に登る仲間との関係性は深まる。

当たり前だが、400年前シェイクスピアが生きていた当時の時代の人々は、 当時の名優たちが発する言葉に一喜一憂したに違いない。

死と生が、今とは違って隣り合わせのような時代のなか、限りなく今を生きることに燃焼していたに違いないと、私は想像する。それは日本だって同じではなかったろうか。(いま、一体全体私たちの生命の源の肉声はどこをさまよっているのであろうか)

限りなく無謀な塾の発表会であることは、重々承知しながら、限られた仲間と声を出し、シェイクスピアの言葉遊びの世界がほんの少しでも伝わり楽しんでいただけるように、塾生と共に 精進しますので、ご寛恕のお気持ちで足をお運びくださいますように、と祈らずにはいられない。



2017-01-28

【とうもろこしの島】という素晴らしいフィルムを先週に続いて、見ました。

先週に続いて、めったに見るチャンスのない邦の映画をシネマクレールで見た。映画のタイトルは【とうもろこしの島】。

私はリアルな(何をしてリアルという定義は主観的にして)映像作品の映画が好きである。それと自分の性格とははなはだ異なるが静かな作品に惹かれる。

とくにこのところの魑魅魍魎的な、予断を許さない時代の趨勢のさなかの、うわっついた人心にいたずらに刺激を与え続けるような、映像トリック満載のハリウッド的映画 には、まったく食指がうごかない。

映像言語でしか表現できない、その監督ならではの信念に裏打ちされた、ワンカット、ワンカット、シーン、シーンに魂がこもっている映画にひかれる。

何度も書いているが、言葉による説明の少ない。想像力を限りなく刺激する作品が私は好きである。そういう意味で、【みかんの丘】【とうもろこしの島】の両作品は、素晴らしく見ごたえがあり、限りなく無駄がなく、映像が染み入ってきた。

両作品ともグルジア(ジョウージア)という国が舞台。日本人の私の感覚では、理解するのが不可能というくらい民族や宗教が歴史的に複雑に絡まる国の映画である。

くどくどと書くことは控えるが、初老の私の心を揺さぶる、このような素晴らしい映画を創る人間が存在する国がグルジアなのだということが、こころに刻まれた。

ラスト、老人と孫である思春期の少女 がゼロから創り上げた、(どこの国にも属さない、自然が創り上げた川の中に浮かぶ中洲の島)とうもろこし畑の島が流される。すごいラストシーン。(チャンスがあったぜひみてほしい)

今朝竹韻庵で採ったタケノコの赤ちゃん8センチくらい
世界の終わりをも、想像してしまう黙示録。遠い国の心ある人間、チームスタッフ、が創り上げた稀な作品。

老人と少女の演技を超えた演技というか、存在感が素晴らしい。世界には何と表現力に満ちたすごい俳優がいるものであるかと、驚嘆する。

省みて日本人俳優の・・・。これ以上書くと変なことになるので止す。いい映画を見たり心から感動する芸術作品にふれると私はひとりになりたくなる。

映画館を出るとそとは冷たい雨、駅まで歩いた。世界には冷たい雨や、苛酷さの極みや困難を今も生きざるをえない、天文学的な人々が存在する、想像力を磨かなくては。

このようなお金にならない映画を上映してくれる映画館に足を運ぶくらいのことしかできないが、実感的に理解するには遠い邦の映画であれ、何はともあれ見て考え続ける、気力、体力を普段から養わないと、知らず知らずのうちに、私自身もわけもわからぬ大きな力に流されてしまう危機感に襲われる。

2017-01-25

妻のお誕生日の翌朝におもう。


昨日は妻の生誕の日だった。母もやってきて、娘も含め4人でささやかに我が家で夕食をともにした。

夕食後、こたつの周りに4人集まり、ケーキとお茶の団欒タイム。一時間以上、珍しく4人で話に花が咲き、寒いので母はお正月以来そのまま泊まった。

妻と私には性差も含め、年齢も8歳年下であり、生れ落ちた環境、性格も含めほとんど 共通するような部分が少ないのだが、出遭って31年、今も無事に暮らしている。

出逢いの、たまたまの妙というしかないものに導かれて、現在も同じ屋根の下で暮らしていられるありがたさというものを、節目節目に感じる。

このような極めて個人的なことを、臆面もなく五十鈴川だよりに書けるようになってきたのは、まぎれもなく、私が老いてきつつある証左だと思える。
このような方がおられると救われる

妻と私は東京の吉祥寺という街の、とある場所で出会ったのだが、その日のことは今もはっきりと記憶している。

(もっと老いたら書きたいという気持ちになるかもしれないが、今はまだ気恥ずかしい)

その日を境にして、私の人生はまさに大転回した、ということが覚る。オーバーではなく、その後から、私の人生にほのかな希望の光が灯り始めたのである。全身に生きるエネルギーが満ちてきた。

劇的という言葉があるが、演劇的に出会いが私を変えたというしかない。18歳から、私のような 人生を歩んできたものを理解し、伴侶として認めてくれる人は、そうはいないと思い込んでいた。

人間とは不可思議な器である。たった一人 認めてくれる伴侶の出現でこうも変化するのだから。

ところで話を変えるが、妻との数少ない共通性として感じるのは、お互い寒い季節に生まれていることと、戦後の貧しき暮らし向きの中でも、親の情愛に満ちた幼少期を送ったということくらいである。

昨夜も戦後の母の子育ての苦労話を、社会人なりたての娘も ともに聴けたことで、とてもいいお誕生会になった。

物質的に豊かさしか知らない世代が大部になり、(皮肉にも精神があまりにも脆弱になった)共通感覚が持ちえない家族が増えると、家族の情愛という根幹がなかなかに育みえないように思える。

話ていると、東京の長女からも妻にお祝いの電話が入った。(たまたま家族を持てた私だが、社会の最小の単位である家族というものが、このように揺らいでいる時代が訪れ ようとは思いもしなかった)

共働き核家族化の中での、親と子のいい意味での普遍的な情愛の深まる関係性を築いてゆくにはどうしたらいいのか。

それは私を含めた親の側が、真摯に己と向き合って各々千差万別の家庭を時間をかけて、築いてゆくほかに安易な方法など在るはずもない。

両親が寒風の中、辛抱する樹に花が咲くといっていたが、辛抱せよ、などと怒られた幼少期の記憶が生々しく今も残っている。怒っている両親が辛抱しているのだから、これに勝る教育はないのではないか。

親の姿を見て子は育つというが、けだし名言だろう。どのような時代に生れ落ちるにもせよ 。自分の足で歩いて、全身で居場所を、ささやかな手ごたえのある生活を見つけるしかないのだ。

いくらでも、言葉では書けるが、あとは実行できるかできないかで道は大きく分かれるというしかない。


2017-01-23

稀勢の里関の初優勝に思う。

五十鈴川だよりにはほとんど書いた記憶がないのだが、私は大相撲のファンである。TV観戦で大相撲を年に6場所も観ることができるのは、観る側としては実にうれしい。

とくに最近は大相撲人気が復活し、満員御礼が続き、若い魅力のある力士の活躍が目覚ましい今場所は、土俵が充実している。

昨日、私の好きな力士の一人、大関の稀勢の里が、悲願の初優勝と横綱の地位とを同時に手にした。ここは何としても、五十鈴川だよりに書いておかねばという気持ちなのだ。
高校生の時に見たロミオとジュリエットの映画のパンフレットがあった。

おもえば、我が家に小学4年生の時、白黒チャンネルガタガタのビクターのテレビが来た時から、
55年、栃若時代から現在に至るまでを可能な限り見続けている。

相撲に惹かれる魅力はなんだろうか 、と時折考える。それはきっと人間性というものが、丸裸で
如実に表れるということが在る、と私は考えている。

厳しいといえば、こんなにも厳しい稽古の、細部に至る様式化された美しい格闘技は、他国には類を見ない、国技といわれるゆえんである。

中学卒業と同時に相撲の世界に入り、15年かかって手中にした横綱の地位、もうあとのない最高位、キープしてゆくのは半端ではない。

男泣きという言葉が、日本語にはある。稀勢の里の涙には私も思わず涙してしまった。稀勢の里の愚直なまでの人間性に私は打たれたのである。

想えば、一途、愚直、いじらしさ、等々、古いのかもしれないが、私は絶滅危惧種的な、損得に限りなく遠い、すっきりとした雰囲気を持った人に惹かれる。

稀勢の里は、限りなくそんなぶきっちょで潔い性格を、いまだこの時代の中で持ち合わせている、強くて優しい稀な力士である。

私は彼の相撲に何度地団駄踏んだかわからないが、その果てだからこそ感動もひとしおであった。無事是名馬というが、親からいただいた頑健な体と、ひとえに腐らず稽古を重ね続けることで、手にした賜物というしかない。試練を乗り越えない限り人間は、やはり磨かれないのだ。

稀勢の里のご両親の姿が、何度も映し出されたが、ご両親の人格も映し出されていた。母の涙、父親の威厳、まさに古き良き昭和の面影をはっきりと視た。

このご両親あればこそなのだ。私は稀勢の里が最後の仕切りのあとの、すっくと立ちあがる姿の美しさに驚く。175キロの体を両足のつま先で支えて、天に向かって立ち上がり相手とまみえる。

相撲は勝負ばかりではまったくない。心の強さ美しさが土俵に顕れる。序ノ口から汗まみれ土まみれになって修行を重ねて、地位が上がるにしたがって、顔に品格風格が備わってゆく。

平等、自由、正義、愛、等々、血や汗の通わない空虚で軽い政治家や経済人教育者、の言葉が、跳梁跋扈してやまないご時世だが、民主主義とは何なのか?大人の発する言葉には責任が伴うのが当たり前であるはずだが、この世の関節が外れた、タガがゆるんだご時世に、明かりを灯す。

稀勢の里の姿は、私自身の生活をも照らし出す。男同士が裸でぶつかり合う潔さ、文字を書いていると時折むなしくなる。

体を動かし、おいしくご飯を頂き、疲れたら眠る。限りなく上下(かみしも)なくシンプルに生活したいものだ。



2017-01-21

【みかんの丘】【アルジェの戦いを】シネマクレールで視る。

今年に入ってどういうわけか、映画館に足を運ぶ回数が増えている。

観たばかりでまだなんとも言えない、シーンシーンの余韻が、いまだからだにとどまっている。その作品は2013年、エストニア・グルジア合作、ザザ・ウルシャゼ監督【みかんの丘】。

昨日は朝一回だけ上映されている、【アルジェの戦い】を見に行った。1966年に封切られた作品の50年ぶりの、リバイバル上映。

私はたまたま、アルジェの戦いを高校生の時、田舎で見ている。 その時の白黒の映像の残像が記憶にかすかに残っているが、48年ぶりくらいにきちんと見ることができて本当によかった。

(群衆シーンの映像はまったく古びていなくて、まるで現実の映像のようなリアルさに満ちていた、エンニオ・モリコーネの音楽がすごい)

アルジェの戦い・という作品がまったく古びていなくて、今も世界で不条理的なまでに解決 不可能な問題として不死鳥のようによみがえって私の胸に迫ってきた。

岡山にシネマクレールという映画館があり、今この時代の空気感の中、わずか一週間の、朝一回の上映ではあれ、このような作品を選んで上映してくれるということは、すごいことである。

両作品とも、10名前後の観客しかいなかったがこのような集客が困難な作品を選んで、映画を見るのにふさわしい設備の整った映画館で観ることができるということの、何たる在り難さを、改めて痛感した。

来週は【とうもろこしの島】が上映される、是非ゆこうと思っている。

特に日本人である私にとって、宗教や民族的に、また地政学的に遠い 国々の複雑に入り組んだ、一筋縄ではゆかない、気の遠くなるほどのテーマを、映画という芸術でしかなしえない取り組みで迫る、良心がたぎっている監督作品に、初老の私の心は震え慄く。(感覚的に理解することが程遠くても、まずはほんの少しでも知ることが肝要だ)

おそらく、こういう感覚がある間は、作品によって自分自身を照らす鏡としてシネマクレールに足を運ぶことになるだろう。

人生の晩年を迎え、再び映画館に足を運べる余裕時間が私にめぐってきたのである。在り難いことだ。身体が多面的に刺激を受け活性化しているのを感じる。

内容やくどくどとした感想は書かないが、自分の琴線に触れる作品なんかに巡り合ったときは、折々五十鈴川だよりに書いてゆきたいと(今年から特に)思っている。

今朝の新聞の一面トップは、もちろんアメリカトランプ大統領就任記事一色だ。我々はいったいどのような時代性の中を生きているのか、映画という芸術作品を暗闇の中で静かに堪能しながら、揺れ動く己の心を整理思考しつつ、日々を生きねばと自戒する。(まったく予断を許さない時代がすぐそこに来ている)

シネマクレールでの闇の中でのひとときは、自分という闇の部分とも向かい合う時間として貴重になってきた。

近々、私の好きなルキノヴィスコンティ監督の作品もリバイバル上映される。

2017-01-17

一匹オオカミの推敲原稿、なんとか書き上げる。

早一月も半ばを過ぎた。
竹韻庵には相棒メルは欠かせない(S氏が撮ってくれた)

昨年5月禁酒会館で行われた一匹オオカミ(私はオオカミには程遠い、迷える子羊程度の存在である)のインタビュー本の推敲、自分で発言した部分の話し言葉の、(書き起こす作業)推敲を、この10日近く時間を見つけて進め、ようやく最後までたどり着くことができた。

なにせ、わたくしごときの64年間の人生であれ、1時間45分で、駆け足で語ったものを、文章として書き起こすのは、やったことがないし、はなはだ時間のかかる根気のいる作業であったが、何はともあれ表層的な表現であれ、何とか
A4の用紙22枚書くことができて、正直ほっとしている。

正直、もういやになりそうな時も何回かあったのだが、そのことに関してはブログで書くことは控える。

どのような形であれこのような機会が訪れない限り、65歳を前にして、まとまった文章を書く機会はなかなかに持てることはなかったであろうから、私としては私自身の書いた拙文を(限られたスペースに) 何としてもかきあげたかった。

見出しもなんとかつけ、要所要所にいれるポスター資料や、写真資料を選ぶ作業にもゆっくりと入っているが、一月中には片をつけたいと思っている。(5月には出版される予定)

昨年から、自分にしかわからない大きな節目の年を迎えているのを、身体で感じている。時間が有限である、そのことを可能な限り意識して(なかなかにかなわないにもせよ)、なるべく一日時間を大切にしながら、優先順位を決めて、今年からは以前にもましての日々を送っている。

 とはいうものの、何十回も書いている通り、人間は絶対矛盾の塊、私などはその最たるものである。真面目と横着をいったり来たりしているのが、わが人生なのだと答えるしかない。

歳と共に、なにごともゆっくりにしか事が運べないのである。これは畑の作業からあらゆることに言えるのであるが、文章を紡いだり畑の草を抜いたりするのは、走ったり跳んだりするのとは違って、老いつつあるなかでもさほど体力はなくても、つまりは若くはなくてもできるので、今の私には重宝なのである。

いまという現在が、自分の人生で一番若いのだという意識でもって、日々を過ごすように努めれば、何やら冬の日差しが若やいで暖かく感じられようというものだ。

そう、言葉では何とでも日々を彩ることができるのだ。言葉は魔法だ、だから私は人生の師、言葉の魔術師シェイクスピアに惹かれるのだ。

2017-01-12

プロの舞台写真家II氏とたまたま天神山文化プラザで出遭う。

昨夜が今年初めての遊声塾の初めてのレッスンだった。レッスンの前に、所用で天神山の事務所に立ち寄った折、思いもかけない人に出会った。

その方I氏とは会うのが2回目、一度は忘れもしない昨年の春、竹韻庵でのこと。 その日は竹韻庵で、ロバの夢のチラシ用の撮影が行われたのだが、其の時のカメラマンがI氏であったのだ。

縁というものはまさに不思議なものだ。私と妻との出会いだって、考えてみると不思議というしかない偶然性の賜物である。話がそれるから戻すが、I氏とも何かそのようなたまたまが起こったのである。

偶然の再会で、私がこれからレッスンがあるというと、見学してもいいですかという思わぬ展開。しなやかなカメラマンらしい素直な好奇心に、私はどうぞと同意した。

昨夜は新年茶話会も兼ねていたので早めにレッスンを終えたのだが、氏はそのレッスンが終わるころに再び姿を現し、結果昨夜は私と塾生4人の中に、I氏もゲストとして飛び入りで加わり 、思いもかけぬ愉しい新年会となった。

氏の本業は舞台写真家である。プロとしてのキャリアは30年。あさって14日、天神山文化プラザで午前10時から午後5時まで、【舞台と写真のビジュアルコミュニケーション術】というワークショップがI氏が講師となり開かれる。そのための打ち合わせに天神山に来られていたのである。
人生で初めてプロの舞台写真家と知己を得る

縁というものは、年々深まっていったり、逆に疎遠になっていったり薄くなっていったり、はなはだ微妙奇天烈なものだが、氏のようなタイプのまったく私とは異なる感性の持ち主とは、なんといっても岡山ではそうは出会えないので、お正月気分の中で、こいつは春から 縁起がいいや、と思わずブログを書いている次第。

感動したのは、いったんお別れし、再びレッスンしている場所に来られた時に、昨年夏に撮ってくださった上半身のポートレートのDVDと焼いた写真を、わざわざ家に帰って準備
し、持参してくださったことである。

たった一度しか出会っていないのにだ。その早業に、恐縮至極慄いたのである。とまれ、まあそのようなわけで、昨夜は人数は 少なかったものの5人で心地のいいスタート声出しとなった。

氏は最後に私と塾生4人の写真を撮ってくださり、お開きとなったのだが、我々4人のその場の空気感が横溢していた 。プロである。氏とは縁を育みたいと願う私だ。

2017-01-11

最近出会った珠玉の御本、篠田桃紅著【人生は一本の線】

一昨日あたりからお正月気分も抜け、今夜からは遊声塾のレッスンが始まる朝である。

いっとき中断していたインタビュー本の推敲も、今年5月の出版に向けて緩やかに再開、この本の要所要所に、私が中世夢が原で主に企画したポスターや、写真を入れることになり、これからしばらく時間を見つけて、膨大な写真のなかから選ぶという煩雑な作業をすることになった。
 
私みたいな横着で、生来の日向人(ラテン的気質が多分に在る)は整理したり、取捨選択がほとほと苦手で、なかなかにはかゆかないのですが、数日前から時間を作って取り組んでいる。

こんなことでもないと、なかなか本腰を入れて取捨選択整理整頓はできないので、この際節目の年でもあるし、前に進むために、過去の(もうすでに時効となった)手紙やはがき、名刺、アンケートほかの、雑多な企画に関する資料なども思い切って処分することにした。

見入ったりしていると、ついつい時間が過ぎるので、エイッとばかり目をつぶって、私から離れて行ってもらうことにした。

過去は過去、いま今日という日をいかに生きるかということが、やはり一番肝要なことである、と思うからだ。現時点で、どうしても捨てられないものだけを残して、という気持ちで遅々とではあるが、進めている。

そんな中、わずかだが劇団シェイクスピアシアター時代の、今となっては貴重な写真やパンフレットなんかも思いもかけず出てきたりして、あの無我夢中の青春時代があればこそ今があるのだと思い知る。

とにもかくにも、思いもかけないインタビュー本を作る5人のなかの一人にお声掛けしてもらったおかげで、なにがしかの私のこれまでの人生のお恥ずかしき歩みと、 企画者としての仕事がいくばくか形として残るのだから、ここはひとつ頭のスイッチを入れ替えて頑張ろうと、動いている。

面白いものだ、動いていると動きが動きを呼び、意識の流れがスムースになってきて、このように気分転換にブログでも書こうという気になるのだから、我ながらいい加減不思議なものだ。

そのような年末年始の暮らしの中で、シェイクスピア以外、趣味、楽しみとしての読み物 の中で、もっとも感銘を受けた本が、104歳で現役の日本画家【篠田桃紅】さんの【人生は一本の線】という御本。


たまたま図書館で目にし、妻も感銘しすぐに買った。今手元にある。すぐに読めるが、すこしでも理解するためには、おそらく一生かかるだろう。

全部書き写したいほど、珠玉の言葉が目に入る。今朝は御本の中の一編だけ書き写す。

【道草】    なにが大切かということ        を 常に探しながら生き        ていると、
        
        それは目標を決める生き方ではなくて、とらわれない生き方だと思う。

        横にいいものがったら、ちょっと寄った方がいいですよ。道草は大切です。

2017-01-07

年末年始に届いた思いもかけない贈り物。

起きたばかりで外はまだ暗く、もう何十回も書いているかとは思いますが、この夜明け前の静かニューウトラルな体の状態が私はことのほか好きである。

書いているうちに休んでいた脳が徐々に動き始め、時間が経つと何やらつづれているというのが、いいのである。

だがそういう場合だけではなく、寝る前とかに大まかに明日は何を書こうかと考えることは多々ある。すべてのことはそうだと思うのだが、何事も続けているとなにがしかの結果が必ずともなうということである。

持続的に意識を集中することは、訓練が伴う。世の中に出てから私が気づいたことは、私にはそのことが欠けているという気付きがあって、そのことがあらゆるトラウマのように覆っていた ように思えるが、かなりのトラウマが、妻と出合って30年の暮らしの中で、すべてとは言わないがかなり消えつつある。

(そういうことがようやく65歳を迎えるにあたって、臆面もなくつづれる年齢になってきたということ、要するに歳をとってきたということだろうと思う)

それはある種の目標を(どんなに些細なことであれいいのだ)たて、一つ一つクリアしてゆく中で、少しずつ消えつつあり今現在も、ささやかな目標を今年も立てているのだが、それをここに書くことは控える。

それは、自分の内なる世界のことであるのでまったく他者には関係ないことだからである。ところで話題を変える。


昨年末と元旦に、とてもうれしいプレゼントが私宛に届いた。一つは私が生前、美星町で大で大変お世話になった世界的な尺八奏者であられた横山勝也先生のお嬢さんのMさんから、生前先生が使われていたというドイツ製のペリカンの万年筆。

元旦に 届いたのは、藤原新谷さんからの本で、最新作の御本(魚のおひょう、漢字変換が でない)。

もうものすごくうれしかった。くどくどとは書かない。横山先生は7年前に他界されているが、お二人とも私が尊敬している方がたからの65歳を迎える歳の偶然のプレゼントだったので、ひとしおの感激が私を襲ったのである。

 いつの日にか、お二人のことをきちんと一文を綴れたらとは思っている。20代の終わりから30代初め悩み多き時代に読んだ藤原新也さんの東京漂流ほかの著作。

美星町で悩んだときに、いつも私のやっていることを励ましてくれた横山勝也先生のことは、生涯 私の中から消えることはない。

出会いとはまさに奇蹟的である。今年も自分なりにきちんと生きようと思う。

2017-01-05

今年初めての五十鈴川だより。

あけましておめでとうございます。いよいよ五十鈴川だよりも五年目に入ります。

夢が原退職後、囲炉裏通信はスパッとおわり、オーバではなく、穏やかに今年初めての五十鈴川だよりを綴れることを天に向かって感謝しています。

今は昔 、門川での小学5年生までのお正月の記憶はいまだに鮮明です。元旦が姉兄弟五人のお誕生日でしたので、お正月にまとめて祝ったあのお正月で毎年みんな歳を重ねました。

私の生誕日は2月ですが、すでに私は65歳になった気でおります。社会的にはシルバーカード世代のお仲間入りということになります。

今やまさに超という字がつく高齢化社会といわれていますが、私は統計とか、一般的な社会通念とかには、とんと左右されないで、わがか細き途を 何とか生き延びてきました。

これまでの人生を振り返り思うことは、今後も自分自身が可能な限り気持ちよく過ごせる時間を大切に過ごしてゆこうというこというくらいの、きわめて平凡極まりな思いしかありません。
昨年夏初めて母が私の故郷を訪ね五十鈴川でハエを釣る。左から母、妻、姉、義兄

とはいうものの、時代は激動してゆく最中、か弱き人の心というものは木の葉のように揺れ動くもの。

私とて日々目には見えぬもののその影響下から免れるわけにはまいりませんが、そのような暮らしの中で、五十鈴川だよりを書きながら、なるべく自分自身と向かい合う、しずかなひと時を持続したいという念頭にあたっての、今の思いです。

さて、年末年始健康に家族全員がそろい、穏やかなとてもいいお正月を過ごすことができました。今年84歳になる母も一週間我が家で過ごし、娘夫婦も帰京し、我が家はいつも通りの3人での普段の暮らしに戻りました。

夕方娘夫婦を駅に送りの帰り道、妻が突然自分が幼少期を過ごした砂川の向こうの生家のあたりを散歩しようというのです。妻は57歳ですから、おおよそ半世紀前の記憶が彼女の中にはしっかりと未だ焼き付いています。

当たり前ですが、人生50年もたてば人も社会もまるで変ってしまいます。ただただ変わってしまった風景の中を、一時間近く愛犬メルと共に散策しながら歩きました。



昨年母が初めて両親のお墓を参ってくれました。昨年はいろんなことが間に合いました。



考えると山歩きは別にして、妻と共に平坦な道を妻と共に散策したことはほとんど記憶に在りません。初めてのことのように思えます。

妻と二人での家の近所散歩は思ったよりも楽しく、これからも折を見てともに歩こうということになりました。私も記憶の中にしか生家がないのに、いまだ記憶の中の生家(故郷)を探して、彷徨える初老の晩年男を今年も生きてゆく覚悟であります。

ともあれ、五十鈴川だよりは静かに流れます。本年もどうぞよろしくお願いします。