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2016-06-24

ロバの夢のチラシとティケットができた朝に思う。

夏至も過ぎ梅雨の合間の夜、朧月が垣間見えた。昨日は雨が上がってからは、青空がまぶしく、一気に夏の到来を思わせたが、今夜からは再び雨の予報が出ているので、梅雨明けにはまだ時間がかかりそうな様子である。

あまりブログを書かなくなっても、私の日々はほとんど変わりないかのように、淡々と日々を過ごしている。平均週一回のロバの夢の稽古(稽古のない日も必ず、声は出している)、カルチャーと遊声塾のレッスン、それから竹韻庵での時間。

それから、シネマクレールの会員になり、(6月1日から) 週に何度か映画館でフィルムを見るようになった。なぜ会員になったのかは、またゆっくり書きたいと思っている。FAKEも観ました。(お勧めします、多義的にいろんなことを考えさせられた)

それから、これはずっとルーティンのように続けている早朝か、夕方の運動公園通い。それに日々折々の暮らしの雑事。(これが最近私のとても大切な時間になってきている)

ブログを書いていた時間は、ほとんどをこの雑事に費やしている。いわゆる掃除や犬の散歩や洗濯物星や買い物他、あらゆる生きてゆくことの中での暮らしの中で雑事。
大先輩お二人の対談には小生考えさせられました

身体がだんだんとゆったリズムになってきたので、それに合わせるかのようにゆっくりとこなしてゆく。

気分次第で、時間を見つけ図書館にいったり、映画の帰りに本屋さんに立ち寄ったりと、まあそんなこんなで、今年も半年が過ぎようとしている。

世は参議院選挙戦に突入、世相も何かとあわただしさが増しているが、五十鈴川はただただ静かに時の流れを見守るといった塩梅。自分という川は流れる方にしか流れない。
母と妻と3人で竹韻庵に作ったトマト畑

がしかし、どのような国であれば平静に暮らしてゆけるのかをようく考えて、私個人はただ一票を投ずるつもりである。ひたひたと厳しき時代の到来がすぐそこまで来ているなか、いかように知恵を絞れるか、私自身も問われる選挙である。

世の中のかなりの情報が、FAKE(偽装、隠蔽、無責任、おれおれ詐欺、不条理な犯罪の多発他)なのではないかという認識が日々深まるご時世、五十鈴川に棲む山椒魚のようにじっと世の行く末を眺めている。

とまあ、ここまで書いていきなりいつものように話は変わる。今日、ロバの夢のチラシとティケットが出来上がる。何とか50枚のティケットを行商にゆくつもりである。

33年ぶり、お恥ずかしくもなりふり構わぬ 64歳の姿をさらします。ティケットを買ってくださる奇特なお方にお会いしたく、絶対矛盾を抱えながら、五十鈴川の小さな山椒魚はしばし穴から出て動き回りますのでどうかよろしく、といったところで本日はお開き。


2016-06-19

福島隆彦・佐藤優対談集、崩れゆく世界生き延びる知恵をゆっくり読み進む。

晴耕雨読とはよく言ったものだ。予定変更、雨のおかげで体を休ませ静かな時間が訪れる有難さかな。

ちょっと何か書きたくなった。福島隆彦、佐藤優お二人の対談集をほぼ今半分ほど読み終えたところ。

博学識者のお二人の対談は舌鋒鋭く、無知なるわが頭にはご教示が余すところなく知らないことばかりで、ページを繰るごとに、うーむと 唸ってしまう。

まさに、知らないということは恐ろしいことだと、いくら能天気の一庶民である私も時折ゾッとする。可能ならそういう感覚をキープするためにも、なるべくニュートラルな読書を心かけたいと、あらためて思う。

お二人の対談を読み進めてゆくと、世界の中で現在の我々が置かれている状況が、じんわりと伝わってくる。

私のような一庶民にも、この世界の非常な容赦なきからくりの真実が浮かび上がってくる、白熱の対談集である。

一言でいえば、現在の世界の危機的な状況分析が知的に展開される。無知なる私にはこういう本で間接的に知らされることがあまりに多い。

パナマ文書もそうだが、命がけで何かを知らせてくれるジャーナリストや気骨反骨のある人間がいないことには、一方向の流れの中に大方の人間は染まってゆく。
親戚から届いた見事な琵琶を4個届けてくれた母竹韻庵から帰っていただく。

私もその例がいたり得ない。そういうことに対してのニュートラルな感覚を普段から養っておかないとまずいなあと、あらためて思わせられる対談集である。

と、話は突然変わる。昨日竹韻庵に妻と母とメルと出かけ、竹韻庵でお昼をして午後3時まで草刈りや小さな畑の草を抜いて過ごした。

平和というしかない穏やかな竹韻庵での浄土的な 時間を噛みしめた。雨の後のぬかるむ地面を母は杖を突いて歩く。その姿はなぜか神々しく私に迫ってきた。



2016-06-16

メルと共に過ごす梅雨の雨の日の午後に想う。

あまりブログを書かなくなってから、よく言えば自分が無意識にしがみついていたものから、何か解きはなされたかのような感じが深まってきているのを最近感じ始めている。

あれほど何かに突き動かされて、せっかちに動き回る自分がいたのだが、何かそういう自分からの変化の兆しが、体のどこかに 芽生え始めているのだ。

動き回るよりもじっとしていることの方が心地いいとでもいったような感覚が、体の中に生じ始めている。
ブログを書く私のそばを離れないメル(愛おしい)

ただ単純にこれが老いてきたことの、幸徳の単なる一現象であるとすれば、私は素直にこれを受け入れたいという気持ちである。

ゆったりと歩いてゆくことしかできなくなっている、己が姿をあるがままに受け入れながら、

走っているときには見えなかった、感じなかったことを、一つ一つ大切に愛おしく、狂おしく丁寧に一日一日を過ごしてゆきたいと、まあこんなことを想う日々なのだ。

手の届く範囲の日々の暮らしの、世界のすべてを有難く受け入れる。妻の母の何気ない影響が、この数年、特に土に親しみ始めてから 、水滴が一滴一滴とわが体にたまってきているかのように感じる。
歩くのは苦手だが自転車は得意、母はお茶目である

土に触り、目線を低くして作物の生育に一喜一憂している童女のような83歳の母を見ていると、深く琴線に触れるかのように、わが心も不思議な幸福感に満たされるのである。

一人で住む母の家の小さなに菜園場の見事さには打たれる。これまでの彼女の生きてきたすべてが、彼女の菜園場には反映されている。

いまだ若干の煩悩を抱えつつも、やがては彼女のように土の世界から、お日様や雨を眺めながら 、生命の摩訶不思議さ、存在していることの有難さを感じながら、この世の曼陀羅、厳しくも美しき世界をいとおしめたら、と私は願望する。

とはいうものの、いまだ私はつるはしも振るえるし、声も十分に出る煩悩の塊肉体を生きているので、今しばらくは絶対矛盾的にやれるうちにに右往左往するつもりである。(だって悩むことの中からしか創造性は生まれてこないのだから)

母との土いじり作業は、私と妻との共生感覚も育む、循環再生、命を生む、土はまさに偉大である。

2016-06-11

宮本輝、吉本ばなな、お二人の素晴らしい対談集を読み、草を抜き考える。

小説を読んだこともないのに、泥の河という映画の原作者が宮本輝という作家であることは知っていた。

また、小説を読んだこともないのに、吉本ばななの父親があの吉本隆明であることもしってはいた。

たまたま、図書館で昨年秋出版された、この世代の異なるお二人の対談集が目に入り手にし、借りて穏やかな時間を見つけて、読み終えた。

2013年の1月から対談が始まり、2014年9月までの間に、7回にわたって行われた対談が収録されている。実に読み応えのある対談集である。五十鈴川だよりで書き留めておきたいと思う。
見づらくてごめんなさい

私のブログを読み続けていらっしゃる方がもしいらしたらご存じだと思うが、もし私にいくばくかの今を生きる情熱の根拠が奈変に在るかと問われたら、一言無知であるからだと答えたい私である。

18歳で田舎から上京していやというほど自分の無知蒙昧さをたびたび満座の中で中で思い知らされたが、いまだに、いい意味でのトラウマのようなものが、くすぶっているのを感じている。

いつの世も生きてゆくのは困難苛酷の連鎖である。このお二人の優れた小説家も例外なく、その苛烈な渦中の人生を生きながら作品を紡ぎ続けておられる。

大変さを全身で引き受け、まさに天職としての小説家の道を犀のように歩んでおられる姿がほうふつとしてくる素晴らしい対談集である。

世代を超え、両者がお互いを尊敬していることが、言葉の端々から感じられる。読んでいて実に気持ちがいい。

是非お二人の本をきちんと読んでみたくなった。怠惰横着を絵に書いたような少年時代を送った南国生まれの、能天気人である私だが、ようやくにして少し真面目に自分と向かい始めている。

人生を消費的に送るのではなく、自分なりの胃袋で消化しつつ気づきを深めてゆく、自分を可能な限り対象化、相対化する感覚を磨くとでもいうような。

いきなり話は変わる、昨日は梅雨の晴れ間暑い一日だったが、3時間近く竹韻庵で休み休み、手で草を刈ったり、抜いたりした。むせかえるような草の匂いがわが体に染み入ってきた、草の持つエネルギーが乗り移り、身体から心地いい汗が流れた。

帰ってシャワーを浴び着かえたら、わが体は しばし生き返った。

2016-06-07

梅雨に入った雨の朝におもう。

雨の朝。にわかに梅雨に入ったのだと思わせられる雨音が車の屋根を打っている。このような日にはさすがに運動公園にもゆけないので、しばしブログ時間とあいなった。

昨日はロバの夢の稽古があった。これを終えるまでは、しばしロバの夢を芯にして私の生活は組み立てられてゆくことになる。2時間から3時間の稽古、くたくたになるが充実した疲労感である。

何しろ33年ぶりの舞踏と劇言語による舞台作品である。私がこれまでの人生では経験したことがない世界に挑んでいるので、はなはだもって不安は大きい、だがこの不安は希望の持てる、絶対矛盾的やりがいのある不安なのである。
母が育てた見事な百合の花

不安を打ち消すためには、稽古するしかないのである。64歳の今やれることをわが体でジャンプする。(きっと33年後はないのだから)

我ながら何をやっているのだろうと、四苦八苦の体をさらしての稽古場だ。

一時間程度の舞台作品の私の言葉の部分は15分程度あるか無いかなのだが、セリフを記憶し役の台詞に血を通わせるのは至難である。

とまあ、ここまで書いてきてこれ以上ロバの夢に関して書くのは控えることにする。ただただ現在の自分のあるがままをさらし、稽古を積み重ねたい。

ところで、にわかに集ったロバの夢チームはみんなほとんどがボランティアによるスタッフである。チラシもチケットもまだできていない、きっとこの分では今月の中旬くらいになるはずである。

このチームの一員として、出演するものとして何とか満員にするべく私はささやかに微力を全力でするつもりだ。

何とか50枚のチケットをさばきたく思っている。前売り2千円ですので、この場を借りて是非チケットを買ってくださいと、五十鈴川だよりで書かずにはいられない私である。

今のところ、妻と娘が買うといってくれている。チケットができたら一日一枚の気持ちで久しぶり行商に 出かけるつもりでいる。

ネギを売りにゆくのも、チケットを売りにゆくのも私の中では、何かが基本的には同じような通底するものがあるのだ。

2016-06-05

時代遅れを軽々と生きる山藤章二さんにはまいりました、脱帽しました。

【老いては自分に従う】という山藤章二さんの御本をちびりちびりと時間を見つけて読み終えた。最近これほどまでにふむふむそうだそうだと、共感を持って愉しく読み終えた本の筆頭となった。

ホーバーではなく、含蓄もうんちくもまったくもって遠く及ばないユーモアと笑いのセンスの巨人の八〇歳目前の御本。老いてなお粋健康な頭脳明晰さには脱帽という言葉しか思い浮かばない。

仰ぎ見るたぐいの処世の術というしかない見事極まるその生き方には、今後の私の生きてゆくお手本の数々が、無数にちりばめられていて憧れる。人生の大先輩は大いなる我が味方、このような御仁がいてくださることははなはだ心強い。

山藤さんは、現在もハイテクとは無縁の方である。ロウ(老)テクの神髄的な素晴らしさを余すところなく、御本の中で披歴しておられる。外見とは異なるその頭脳の若々しさには、畏敬の念すら覚える。

何やらいまだじたばたしている私だが、じたばたのエネルギーはやがて山藤大先輩のように爪の垢でも煎じて歩みたいと、今更ながらのようにページを繰りながら何度も唸った。時折読むのをやめて、書き写したりもした。

 山藤氏は、まったくのアナログ生活を自由自在に楽しんでいて、パソコンやスマホには無縁(そんなものはなくても十分に愉しいことは日々の暮らしの中に見つけられるのである)な生き方を実践されている稀な稀な凛とした方である。

世の中の流れとは一線をひいて、ご隠居をしながら現役でご自分の好きな世界を、私の知らないあれやこれやの愉しい、いわば江戸庶民の知恵の宝庫、哲学的雑学落語文化の粋を余すところなく、無知な私に楽しく語ってくださる。
畳に座って、しゃがんで深呼吸して立ち上がるのです。  

絵描きとしての一流は知ってはいたが、氏独特の話芸文体も素晴らしく一流であることを遅まきながら知った。決して主流にはならない傍流の時代に迎合しない美学。

時間がないのでこれ以上書くことは控えるが、老テクノ楽しみを今後私も一層見つけたく、

時代の流行や、あらゆる表層からはずれてゆきながら、裏路地あたりでちょっとした寄り道時間を生きながら、

表街道ではなく、裏道のゆったりアナログ時間の生きやすさこそ私がこれから求める世界であるとあらためて確信した。(少し頑固な自信が付いた)

夢が原退職後、畑で土とまみれながら、私はたぶんこれまでの人生時間のかなりを自省しているのだが、その自省はこれからを生きることにつながる、何かの豊かさを与えてくれるような気がしている。

反省できる時間があるうちに反省し続けないと、何か悔いが残るような気がするのである。考え続けながら反省、自省し思い浮かぶことを実践する。

これ以上書く と野暮がすけて見えるので、本日はおしまい。