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2016-08-31

10月15日、日曜日我が家で桑江良健氏の絵葉書サイズの絵画展をやります。

うんざりするほどの暑さも朝夕は、この数日めっきりと涼しくなり、虫の音など聞くと感性型にんげんの私としては、ススキの穂のようにわが移ろいやすき心情は揺れてさまよう。

ところで、いきなり本題、五十鈴川だよりを目にとめてくださる方にいち早くお知らせしたいことが、出来した。

【10月15日、日曜日】我が家で一日だけ沖縄の宝のような画家桑江良健さんの個展をすることになった。【11時から~17時まで】

ロバの夢の稽古の渦中、桑江さんからお葉書をいただいていて、気にはしていたのだがロバの夢が終わるまではなんとも動けず、終えてからも何かと個人的なこまごまとした夏の大切な雑事をこなしながら、桑江さんと連絡を取り合いながら、結局妻の了解を得我が家で一日だけという、きわめてユニーク贅沢な個展をする運びとなった。

桑江良健、純子さんご夫妻のことは、是非インターネットで検索してほしい。キジムナーでおなじみ純子さんは沖縄の指人形師(自分で素晴らしい人形を作り、お二人で作演出、全国津々浦々を巡業)である。

もう20年近くなるが中世夢が原で働いていた時に、キジムナーを企画したことが夫桑江良健さんとの出会い。

絵のことは全くの門外漢の私であるが、氏のなんとも言えない沖縄人としての風格そのたたずまいに魅せられ今に至るも私の中で、ヒト科の中でとても気になる芸術家(私が面識のある芸術家で交友がある方はそうはいない)なのである。

そのようないわば畏敬するに足る方から、我が家で一日だけでいいから個展をしたいという申し出に、駐車場もなき我が家で、果たして絵の個展ができるのかとの一抹の不安に襲われ、二転三転したのち腹をくくった。

桑江さんの絵画の素晴らしさは、絵のことに造詣が深くなくても、私の心に届く。何よりも企画者のはしくれとして数十年突っ走って得た教訓は、企画者は何よりも心が揺さぶられた何かを企画をするものである、といういわば当たり前ということでしかない。企画をするのに資格なんかいらない。

ママディ、ケイタであれ、なんであれ同じである。桑江さんご夫妻は私のたった二人の沖縄の友人であるが、このお二人の存在はは沖縄に対する私の認識を変えた。歳と共にいくばくかを学びつつある現在の私だが、桑江さんご夫妻に遭うまでは沖縄の歴史、芸術、芸能文化にまったくといっていいほど無知蒙昧、無関心であった。

今も大して変わりはないのだが、桑江さんご夫妻と知己を得たことで、私の沖縄に対するスタンスは全くといっていいほどに変化しつつ緩やかにだがふかまりつつある。

長くなるので端折るが、とにかく我が家で秋の一日だけ 個展をする、是非お越しいただきたいと私は心からお願いをする。

(なお、今回の絵の大きさは絵葉書サイズの大きさのみ、ですから我が家でも可能、数年前そのサイズの絵を一枚2万円で個人的に私は買いました。たぶん今回もその値段での販売になるかと思います)

ともあれ、桑江良健という沖縄の歴史に遺る画業をなしつつある希代の画家の個展を我が家でやれることは、望外の喜びというしかない。一人でも多くの方に、良健さんの絵の存在を知ってもらいたいのである。

企画者の喜びは、人と人が出逢う場をセットすること、動きアクションを起こさないことには、ささやかであれ空気はよどみ、ささやかな風は起きないのである。









2016-08-29

夏の終わりを告げる雨音を聞きながらの久しぶりの五十鈴川だより。

夜半から降り始めた雨の日の朝、久しぶりのブログである。先ほど部屋の中に洗濯物を干し家人は仕事に出かけひとり静かにパソコンに向かっている。

頻繁にブログを書かなくなってから、やはり何やら微妙な変化がわが体に訪れているのを感じる。それを言葉にするのは野暮な気がしていて、変化し続けてゆく中でおのずと終わりの時がやってくるのだという気がいまはしている。

そのことに在るがままでありたいというのが最近の五十鈴川だよりである。つまり無理をしてまで流れたくはないという在るがままなのである。

だが雨の効用でこうやって時折、体に雨水がしみこむかのように、忽然と五十鈴川が流れ始める。

何度も書いているが、年齢を重ねないと感じることができない、見えてこない景色のようなものがあって、そのことを受け止めながら一日一日を何やらオーバーではなくかみしめるかのように、過ごすことが増えてきたように思える。

このようなことを書くと何やら、いかにも初老男のつぶやきのようで我ながらちょっとまずいかなあ、という気もするが、私はわが体と意識に忠実でありたいと思うだけである。

とはいうものの、私のきわめて個人的あるがまま、わがままライフは、いよいよ世の流れのおおよその部分では、無縁 の様相を呈してきているのは自覚している。

人工知能ロボット、AI殺りく兵器や、日々伝えられる出口亡き出来事、あらゆる山積する世界の諸問題の行く末のあれやこれやには、かすかに遠くからではあるが、性急な答えはなくともささやかに関心は持っている。

いつものように話を変える。頻繁にブログを書かなくなった私は、その時間を自分の体と向き合う時間に割いている。

それは早朝の竹韻庵時間と竹韻庵にゆかない場合は、運動公園での時間、竹韻庵に行った時には、わずかでああれ夕方運動公園にゆくように努めて心がけている。

この夏はわが体が何度も悲鳴を上げたくらいに暑い夏で(ようやくこの数日涼しくなってはきたが )なんども挫折しそうになったのだが、無理をしない程度に体を動かして何とか継続できている。

そのような日々の暮らしの中で、最近特にはまっているとまではいわないが、楽しんでやっていることの一つが竹韻庵での手鎌での草刈りである。

中世夢が原で働いていた時山城の斜面だけは機械で刈ることがかなわず、かなりの部分を手で刈っていたので、その経験がいま生きているのである。

機械には及ぶべきもないスピードだが、その見事に刈られたわずかな面積の美しさは、刈ったものにしかわからないひそやかな喜びなのである。

あとどれくらいの時間わが体が動き、どれくらいの間手鎌 での草刈りが可能であるのかとかには、まったく関心がない、とりあえず今日できればいいのだ。明日できなくなっても。

運動公園の懸垂もそうである。昨日できたことが今日もできるという平凡この上なきささやかな喜びこそ、最も大切なひと時といえるわがささやかライフの今なのである。

また話を変える。相棒、わが妻は私がこれまで出会った女性で最もつつましき異性である。職場の近くで不要になっていた新品のまだ香りのする板切れを持ち帰り二階の洗濯物干場に敷く、すのこを時間を見つけて週末作っていて、見事な出来栄えである。

私はくぎを打つのを手伝っているのだが、手や足やつまりは体を使って何かをなすということはいわば基本中の基本である。

基本、土台のない暮らしというものは何かむなしい。私たちの置かれている私も含めた現代人の 暮らしは、消費生活といういわば幻想にがんじがらめになっている気がして、初老男は不安なのである。

時折ふっと川底から顔を出し、五十鈴川だよりを書きながら 、平生は土や雑草の香りを嗅ぎ、形を眺め、虫に触れ、胎呼吸をしながら声を出し、汗を書き自分という移ろいやすき実在との対話を繰り返しながら、枯れてゆきたいとの思いが増す夏の終わりである。



2016-08-22

親子3人旅無事に終えて岡山に帰郷しました。

おととい四国経由で帰省先の宮崎から帰ってきました。結果的に宮崎の姉の家で3泊し、海と五十鈴川で、少年時代とまったく同じ時間を過ごすというまたとない時間を過ごすことができた。

この数十年、私は故郷に帰っては精神と体をリフレッシュして区切りをつけながらの人生を歩んできた。今回もまたかろうじて最高の思い出というか、いい意味での一区切りの気分転換の里帰りができた。

人間の命の有限さの中での里帰り、もうこの先きっとこのような幸福感につつまれた里帰りはそうは叶わぬにしても、(でもまだまだ私は里帰りを続けます)なんだか今年はいろんなことが、ギリギリ間に在ったという、いろんな思い出が刻まれた私にとっては、もういうことがないくらいに良き思い出ができた里帰りの歳であったと思える。

そしてその現時点での幸福感は、これからを生きてゆく上で、限りなくどんなことがあっても希望をもって生き延びるのだという、エネルギーを垂らしてくれる予感が湧き上がってくる体のものなのである。

9歳上の姉の存在は私にとってとても大きい、姉との思いでは私の少年時代の良き思い出に彩られている。3歳で北朝鮮から引き揚げてきた姉はほとんど思い出せることがないというが、私には姉の受けた過酷な体験が彼女のなかに刻まれているのを感じる。

大陸生まれのあの天真爛漫さは、日本人にはないものだ。私は姉といると母なる大地といるようなおおらか気分になり安心して甘えられバカなことができるのである。

その姉と海で泳ぎ、川で泳ぎ魚釣りができたことは一生の思い出だ。その海と川に西大寺の母が同行してくれ、私がなぜこんなにも故郷回帰を繰り返すわけが分かったといってくれたことが、とてつもなく嬉しかった。

そんなこんなあまりに肉親との、おバカ文章をつづると、おつむが暑さでいかれたかと思われる向きもあるかもしれないのでここいらでやめる。

今年はまだあと4か月も残してはいるが、その残りも含めこの先もこのように健康であれば、きっとまたもや、後年節目の年として新たに刻まれるに違いない。

世はオリンピックでメディアは過熱している(私もたびたびそっと個人的には感動している)が、五十鈴川で私は静かなひと時をもて、お墓参りに3度通い、しみじみと故郷に帰れる肉体のいまに感謝したことである。

それにしても,故郷の私が泳ぎを覚え(人生で自力で何かをなした手ごたえを得た川)た五十鈴川の人気の少ない、そのあまりの素晴らしさ、変わらぬ美しさを私はただただ天に向かって感謝した。

このまま、ただただ流れてほしき五十鈴川、我は老いても、五十鈴川は流れる。ほんのわずかな時間であれ、この川で泳ぎたく、泳げる身体をキープしたいと思わずにはいられない。



2016-08-16

今日から母との3人旅、帰省します。

お盆休み娘夫婦が帰省していて、今日東京に帰ったので急に我が家はもとにかえりしずかになった。

明日から、私が宮崎の実家に帰省することのなっている。 同行するのは妻と妻の母との3人旅である。妻が思いもかけず長い休みが取れ、一緒にゆくといってくれたのである。

そんなら母も誘おうということで何度も誘ったら、ほとんど あきらめていたのだが一緒に行ってくれることになった。母が宮崎の実家にゆくのは初めてである。

こんなうれしいことはない、私にしかわからない喜び、私の両親の眠るお墓まいりに同行してくれるというのである。

ロバの夢といい、母の同行といい今年はまさに思いもかけないことが起こる年である。やはりきっと何かの節目ということがあるのではないかと思う。

もう一つうれしいことがある。この夏兄の娘に40歳で初めて子供がまれたのである。それも七夕の日に。そんなわけで兄夫婦はいまこの夏は兵庫県の娘のところにいて宮崎にはいないのだが、姉と次兄が私たちの帰りを待ってくれている。

母は83歳なのでおそらく今回が最初で最後の同行ということになるが、私が生まれた故郷をちょっとでも感じてもらえたら、もう私にはいうことは何もないのである。
お風呂場の風に抜けるところで自在なはな

母の年齢もあるので、車で帰るのだが明日は山口で一泊し、宮崎には2泊、戻りは四国にわたり高知で一泊の予定の、思わぬ母との4泊5日の旅となる。

このようなことはめったにないから、やはり素晴らしいのではないかという気が私はするのである。

あの母、どこにもあまりゆきたがらない母がゆくといってくれたことに関して正直私は驚いているが、私としてはうれしいの一言である。

妻も母も水着を用意してくれていて、何やら子供に還ったかのような、修学旅行前夜のような塩梅なのである。

さてどのような旅になることやら、貴重な旅なのだから、あまり写真を撮らない私だが、今回はきちんと写真を撮ってこようと 思っている。


というわけで、最近とんとブログを書かない私ですが、次回のブログは宮崎から帰ってからにならるかと思います。

まったくのアナログ男が、時折ブログを書くときだけデジタルに頼るそんな昭和男子の五十鈴川だよりなのです。

話は変わりロバの夢に来ていただいた方に、暑中お見舞いを書かせていただいたのですが、やはり私は文字を書いたり、声を出したり、土にまみれたりするのが自分らしいとあらためて感じております。要はバーチャルであれリアルであれ、その人らしく流れてゆくのが一番いいのではと私は思うのです。(人間の体は血が流れているのです)

母はもちろん典型的アナログ昭和人ですが、デジタル人が逆立ちしてもできないようなことがきちんとできる人です。そのような母に刺激を受けます。何が人間にとって素晴らしいことなのかを私は乏しい頭で考えたく思うのです。

私という存在は、命はどこから来ているのか、そしてどこへ向かって流れてゆくのか、年に数回お墓参りをし両親と話をし、五十鈴川のほとりで沈思黙考しないと、どこへ流されてゆくのか私は不安を覚えます。



2016-08-10

本当に久しぶりの真夜中ブログ。

梅雨が明けてから夕立を除いて竹韻庵も含めてほとんど雨らしきものが降っていない。その夕立も心なしか、私の幼少の頃の夏の思いでに比べ近年本当に減ってきているような気がしてならない。

さて、わたしの竹韻庵通いはロバの夢稽古期間中も、終えてからも、ささやかに続いている。ブログにはほとんど書いていないが、私の普段の日々の暮らしは、ほとんどルーティン化しているといったくらいに、同じようなことをほぼ繰り返しながら過ごしている。

この年齢だから、さすがに30度を超すと竹韻庵での肉体労働はきついので、早朝の正味2時間くらいを作業に充てている。目が覚め洗面を済ませすぐに出かける。

ほとんど私ひとりでの作業なので(犬のメルがお供に来てくれる)なかなかに、はかゆかないのだが、若い時の苦労は買ってでもせよ、富良野での徹底的な大地との労働体験が今の私を助けている。

いまだ繰り返し繰り返し、単調な動きに耐えられるのは(30度近くなったら作業はやめる)あの時体得した何かが生きているからだと思える。

無心に一生懸命に何かをなす喜びといったものが いくばくか私の体に沁みついているのである。若いころは、人が嫌がるようなことは私も嫌だった(特に肉体労働的なことが)のだが、富良野での体験は、根底から私のものの見方や考え方を変えたのだということが、いまはっきりと分かる。

人間は自分を変えられる。しかし、それは急には変えられない、うすい薄い皮を一枚一枚剥いでゆくような営為を、繰り返す中でゆっくりゆっくりと自信を育ててゆく中でしか見えてこないような気がする。
妻が心から大切にしている、はな

砂を握りしめても、指から落ちてゆくように、ちょっと油断すると自分という生きた肉体の血が流れる器は、安易に滞ってしまうように思える。

いやでも老いてゆく中で体は動かなくなってくるのだろうとは思うものの、動く間は、動ける間はあまり身体を甘やかさない方がいいというのが、現在の私の考えである。

ささやかに土に触れる暮らしを心かけるようになってから、自分と向かい合う時間が増えたように思う。手鎌でものの30分も草を刈ると体から汗がいまだ滴り落ちる。

呼吸を意識し息を整えつつ草を刈る。気が付くと随分はかどっている。この喜びはやったもののみが感じる喜びである。ポケモンGOならぬヒダカGOである。

帰って家で水を浴びた時の爽快感はたとえようもない。水を浴びた後のかき氷(たまに缶ビール)は、至福の夏時間である。昼食を済ませ,しばしの午睡ののちは午前中とはまったく別のことをする。

昼食はありあわせのものでで作る。これがまた毎回楽しく作れているし面白いのである。何事も工夫次第面白がることに尽きるのである。夏はスタミナスパイシーなものがいい。とにかく母や妻の育てた野菜をふんだんに使う。

夢が原で働いていたころは、スーパーなんかに買い物になんかほとんどゆかなかったのに、この数年ほんとによく出かけるようになって、いろんな食品を観察する楽しみのようなものが生まれてきている。

状況が変われば、変化対応していかに今日を生きるのか知恵を絞るのである。そのためにはいくつになっても、現役感覚がある間はハングリーさがないと小生はまずいと、自戒して生きている(つもりである)。

一寸先何が起こっても不思議ではない 、一大カオス時代。まず何はともあれ自分の体に頼るしかない。

2016-08-04

アサヒビールの塾生I氏と君子の交わり、お酒語らい、至福のひとときを過ごしました。

昨夜遊声塾のレッスンはなかった。高松から平均すれば月に一度通ってくれている塾生のI氏を逆に私が訪ねた。

ロバの夢が終わったら一度高松で飲もうと以前から約束していたのである。その約束がかない、ちょっと地軸を外した高松での男二人の飲み会は心から愉しく話も弾み、おいしいお酒となった。

I氏と出合ったのは1996年のこと、あれから20年の歳月が流れているが私と1氏の関係はまさに君子の交わりの、いい塩梅の幸運を今もキープすることができている。

その理由は私にもわからない。夫婦関係もそうだが長続きをする秘策などというものは、この世には存在しない気が私はする。

心からくつろげ、遠方まで何としても会(愛)いにゆきたいとおもう交友関係を築くのには、それ相応の時間の蓄積がやはり必要だと私には思える。

そのやうな朋が、現在両手くらい私には存在する。私は果報者である、と臆面もなく五十鈴川だよりに書いておきたい。

利害関係なく、ただあっていてくつろげる 友との一杯なんて、これぞまさに至福の時間というしかない。
暑さでぐったりしている相棒のメル

だがそれもこれもお互いが、いまをしっかりと生きているという暗黙の阿吽の息が感じ取れる相手でないと、私の場合どうも長くはお付き合いがかなわない。もちろん相性もある。

やはり似たもの同士の匂いのようなものを私は感じてしまうのだが、裡に何かを抱えながらひたむきに生きている、男女とも私はそのようなタイプと相性があう。つつましくけなげな人に私は惹かれる。

私がひたむきであるといっているのではない、誤解なきよう。自分にはまったく持ち合わせていないような繊細な感覚のひたむきさが、私を引き付けるのだ。

そしてたまに会い、近況を語り合う。まるで小津安二郎の晩年フィルムがようだ。まさに人生の奥は微妙な味わいと共に深いとしか言いようがない。

一年でも長くこれらの友との語らいを持続するためにも、どのように生きてゆけばいいのかを、自問自答しながら、一日一日を大切に過ごしたいと思うのだ。

今これを書いている我が家の室内温度は34度、汗が流れるがクーラーはつけていない。時折網戸から涼やかな風が流れてくるから、何とか昨夜のI氏との玉響の幸福お酒タイムを五十鈴川だよりに
書くことができた。

アサヒビール管理職のI氏、慰労してくださいましてありがとうございました。ごちそうさまでした。この場を借りて感謝します。

2016-08-02

ロバの夢が終わりました、そして思う。

ロバの夢を終えて3日が過ぎた。いまだ整理しきれな
人生で初めていただいた家族からの花束
い思いが体にみちているが、ようやく何か書いておきたい感情がもたげてきた。

34歳で現在の妻と出合い、家庭を持ち子供に恵まれ、私は私の青春に別れを告げ平凡に生きる道を選択した。

40歳で岡山に移住し、中世夢が原で主に企画者として21年間を充実して働くことができた。子供たちが育ち、私は定年を迎えた。

さあ、これから何をして晩年生活をと考えた時に、ただ漫然ととシェイクスピアを声に出して読む暮らしをしたいという思いが、忽然とだが熱くこみ上げてきた。それと同時に土に触れる暮らしを。

わけのわからぬ内なる情熱を根拠に、無謀だとはおもったが、シェイクスピア遊声塾なるものを立ち上げた。

あれから瞬く間に3年が過ぎ、昨年暮れ一人の素敵な女性の舞踏家に出会い、一緒に舞台をやろうというまったくもって予想をしない申し出を受けた。
生徒さんからいただいた花束

しばし躊躇したが、私はそのオファーを受けることにした。青春の終わり演劇的世界から足を洗った私が、なぜ再び減劇的世界に回帰したのか、主な理由は3つある、気がする。

一つは妻と娘たちは、企画者としての私しか知らず、私が青春時代どのようなことをやっていたのかまるで知らないので、一度舞台姿を見てもらいたいという煩悩が突き動かしたということ。

二つ目は今の私の暮らしで、家族的なまでに大切な仲間、シェイクスピア遊声塾の面々や数少ない山陽カルチャーの生徒さんに 私の舞台姿をみてもらいたいと思ったこと。

最後は、すぐれた才能の持ち主で稀な感性の持ち主であるSさんとの協働で、何か未知なる自分が現れるかもしれないという可能性にかけてみようとの思いがにわかに立ち上がってきたのである。





 終えて今思うことはやってよかったという以外にない。充実した思いもかけない豊かな稽古時間と本番時間をすごすことができた、悔いなく金字塔的な私の夏となった。

正直、やはり33年のブランクは随所に顔を出したが、 この33年間の私の人生が決して無駄ではなかったことの証左も自分なりに確認できた。

ロバの夢に愚直なまでに真っ向勝負できたおかげで、また何やら遅まきながらも新しき可能性が自分の中に芽生えてきたような予感さえ今はしている。

ロバの夢が、ささやかに自分の中に新たな夢へのエネルギーを吹き込んでくれたような気がしている。人は何かと出会うことによって新たな自分と、出会うのは真実のように思える。

あの夜の自分には時折夢の化身が、33年ぶりにとりついていたかのような。ドリーム・オブ・パッション、夢への情熱はどこからやってくるのかは皆目謎だが、ヒトは集合的無意識に夢を見る。

ともあれ、この夏私はとてつもない夢を、一夜ルネスの空間と場で見ることができた、ような気がしている。そしてそのような夢は稀だからこそ素晴らしいのだと私には思える。