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2017-03-31

晴耕雨読、外山滋比古先生の御本を読む、そして思う。

朝が来た。今日はオフ、まったく予定がないがルーティンのようにほぼ毎日やっていることは、よほどぐわいが悪くはない限り、続けているが。

やはり聖なる日ではないが、ボーっとする日を週一くらい持った方が、私みたいな貧乏性には必要だ。ブログを書く前、湯を沸かしなおし朝湯につかった、最高である。

どなたかが書いていたが、一歩踏み出せるのは、片方の足が休んで いるからだと。まったくその通りで、目から鱗が落ちるかのように記憶化された。

さて、3月も今日で最後だ。自分でいうのもなんだが、65歳になってつきものが落ちたわけでもないのだが、気分が軽い日が続いている。何をしていても楽しいのである。

いいことかどうかはわからないが、以前にもまして生活がシンプルになって、同じことの繰り返し的な日々をたんたんと送っている。それができることがうれしい。

以前はいろんな出来事に、もっと敏感に反応していたようなことも、減ってきた感がある。(怒らなくなってきたというより、表に出さなくなってきた、老獪になりつつある)すぐに反応しないのである。がしかし、その分、ゆったりと、まてよと、考える自分は、以前よりも増えてきている、ように感じている。

生まれてきてからの永遠の謎、自分とは何かという、永遠の命題には、 ささやかにささやかに、思考を持続したいものだと考える、最近の私である。
気づいた時に学ぶのだ

そこで、人生の達人であられると、かってに敬愛している外山滋比古先生の本を、頭がつかれているときには読む。(先生から教わって横になって読む)

先生が自分の体を通して見つけられた言葉の数々は、目からうろこ的に腑に落ちる。1923年のお生まれで、いまだ、読みやすい御本を出され続けておられるのには、驚嘆する。(驚かなくなったら終わりだ)

今私が読んでいるのは、87歳の時に書かれた御本だが、素晴らしい。実践に裏打ちされた果ての思考洞察言葉であるから、論理に弱い私なんかでも、フムフムと納得する。文体が独特で何しろわかりやすい。独学小学は楽しい。

どうしたら 、このような頭の柔らかさが持続できるのかを、一ミリでも学ばせていただきたいものだという思いが深まる。思考を整理し今日を生きる。

考える、思考する、書く、読む、動く、見る、触る、感じる、繰り返す、日々の切れ目のない、生命の連動 の中で、何かを思い続けるということは、老いてゆきつつある中での、大いなる一つの楽しみのであるとの認識が深まりつつある春である。

2017-03-30

4月から遊声塾でリア王を読みます。

年明けから、毎週一回山陽カルチャーで、35年ぶりにW・シェイクスピア作、リア王を読んでいる。若い時に読んだのとは、まったくといっていいくらいに、まるで違って、今を生きる私に染み入ってくる。

それは何故なのかを、今朝のブログで詳しく書くことは控えるが、それはきっといい意味で私が老いてきているからだろうと思う。昔よりもいろんな登場人物が深く読める自分がいる。
全集に掲載されていたリオ王のカット

作品でのリア王の年齢は80歳である。シェイクスピアの生きた時代としては、きっと高齢に違いない。だから、リアは国の統治を娘たちにゆだね、土地を分割し、自分は引退を決意する。

そこのところから物語は始まる。そこからリアの悲劇的転落が始まる。これまでの4年間、遊声塾では喜劇ばかりを取り上げてきたが、大きな決心をもって4月からリア王を精読することにした。

あまりにも大きな巌のような、4大悲劇の傑作である。私も含めた塾生7名でこの戯曲に立ち向かうのは、あまりにもおおごとであるのは承知の上で、あえて挑んでみたいのだ。

いつまでも読めると思うな、わが体といった心境なのである。それにしても400年以上も前に書かれた作品であるのに、今全世界を覆うような不条理感が横溢する時代状況を鑑みるとき、リア王は今もまったく古びていないことを、痛感させる。

私は、シェイクスピアが好きであるが、すべての作品が好きというわけではない。時としてシェイクスピアは私の理解力の遠く及ばぬところに 、大きな嶮しい山としてそびえ立っている。

リア王は、好き嫌いの範疇でとらえられるような作品ではない。人間存在の美しさ、残酷さ、悲しさ、人間性の多面性が、言葉で余すところなく肉薄する、比類のない作品である。

だからといって、そんなに深刻に考えているわけではない、これまで4年間声を出し続けて 、巡り合えた塾生と、まじめに遊声したいのだ。

65歳にして、ようやく挑戦できる 面々と出遭えた、記念の作品として、悲劇・リア王を声に出してよむことにした。

2017-03-29

丸2年シェイクスピアを声に出し、面白くなってきたと語るIさんに励まされる。

夕食後、まったくといっていいほどに頭が働かない時間帯だが、そこはかとない春の気配に、いい歳をして浮き浮きしてくるじぶんがいまだいる。

今夜は夕飯に、珍しく野菜カレーを私が作り、母も誘って食卓を囲み、先ほどメルの散歩もかねて妻が送っていった。(母が育てた、菜花、ホウレン草、小松菜がふんだんに入っている)

竹韻庵の山桜(曇り空で残念)

さて、今日はささやかに 嬉しいことがあった。朝一番塾生のIさんからお話があるとのメールが入り、お昼前、弓之町で弓の自主稽古を終えて、約一時間程度二人きりでお話時間をもった。

Iさんと二人だけで、話をしたのは初めてのこと、詳細は省くが、とても私にとっては前向きで、希望が湧いてくるお話だったので、有り難いお話だった。

遊声塾を始めて、こんなに嬉しいことは初めてのことである。 中でも一番うれしかったことは、2回発表会に出て、なにかようやくシェイクスピアが面白くななってきたといわれたことである。

黙読しただけでは、ちっともその面白さがわからないのだが、声に出して読み続ける中で、漸くにしてシェイクスピアをもっともっと、声に出してみたいという気持ちになった発表会であったとのこと。

オーバーではなく、何度も書いているが、このような無謀極まる塾に参加してくださる塾生は、ともにそびえる山に挑む同志的情熱で結ばれていないと、とてもではないが、まず無理なのである。

有史始まって以来といってもいいくらい、全身を使う第一次労働がへり、私を含めて現代人は胎から声を出すという感覚をすでになくしてしまいつつある。(身体よどこへ行った)

そんな都市化した現代人が、400年前の血沸き肉躍るシェイクスピアの劇的言語、言葉言葉世界に、身体で丸ごとぶつかり稽古のように声を出すのは、最低3年死にもの狂いで声を出さないと、まず無理なのである。

でも、絶望はやはり愚か者の結論 である。なんとか4年続けてきて、このような塾生が出てきたのがその証左である。だから、65歳で、またギアをもう一段シフトアップ、4月から輪読ワークショップも始めるし、このような可能性を秘めた塾生との出会いを、今しばらく探求することにした。

そのためには、まずは私が心身ともに健康でないと、遊声塾は始まらない。ということで夜は、できるだけ 余計なことはせず、ひたすらわが唯一の財産である体をいたわり、闇に抱かれて眠りにつくことにする。





2017-03-28

発表会の翌日、イタリア歌曲の数々を堪能し疲れが流れてゆきました。

25日は発表会、翌26日はㇽネスホールで行われた、イタリア歌曲の歌の数かずを長時間聞くという、めったにはない経験をした。一部二部の構成、午後3時半に始まり、終えたのが8時を回るという長丁場。

こういう経験ができたのは、山陽カルチャーで、私と共にシェイクスピアを読んでくださっている、数少ない貴重な生徒さんであるMさんが 、私たち夫婦をご招待くださったからである。

日本の昔のことや、日本文化、日本語に興味をもって、この数十年を生きている私にとって、岡山でなくとも、オペラの名曲も含めたイタリアの歌曲を一度にこんなに聞いたのは、初めてのことでいろいろと考えさせられることも多く、出かけて本当に良かった。

発表会の翌日でもあったし、正直気分転換にはちょうどいいくらいの軽いノリで出かけたのだが、歌を聴いているうちに、疲労が心地よく癒されてゆくのがよくわかった。

妻も急きょ誘ったKさんもとても楽しんでいた。キャリアのある方から、おそらくは歌い始めて月日の浅い方までが総出演。長時間にもかかわらず、イタリア歌曲に魅せられた方々の個性が鮮やかで、私には歌っておられる方々のあれやこれやが、想像力を痛く刺激し楽しめた。

まったく、イタリア人は歌を歌う民族なのであることがよく腑に落ちた。愛すること、歌を歌うことと、台詞を語ることは異なるが、共通することはかなりあるなあ、と改めて認識した。

 堅い話を綴るのはよすが、声を出す器としての肉体を、極限まで鍛えて発声するイタリア歌曲は、好みの問題があるなしを超えて、楽器としての肉声を極端なまでにコントロールする歌わずにはいられない芸術として、見事なまでに完成されている。

もし、Mさんがご招待くださらなかったら、と考えると、これもまたなにかの非日常的お導きと、私は能天気に考える。

ややもすると、われわれの暮らしは紋切型にからめとられがちであるが、地に足をつけた暮らしの中で、時折ジャンプするくらいの余裕は、限りなくなくしたくはないものであると自戒した。

イタリア歌曲の夕べは、苦悩を生きざるを得ない人間存在に対して、神が与えた人間賛歌、歌うことで苦しみが喜びに、(愛に)昇華されることを伝えていた。

ささやかな塾を主催する私には、何が人を動かし 感動させるのかの、上手下手を超えた何かを示唆してくれた、イタリア歌曲の夕べとなった。

無事に、少数応援団のおかげでシェイクスピア遊声塾第4回発表会を終えることができました、そして思う。

遊声塾の4回目の発表会が終わった。塾生と私の6名で何とか長い喜劇【恋の骨折り損】を人様の前で読み終えることができた。

37名の方が足を運んでくださった。この場を借りてきてくださった皆様に心から感謝します。

実はまだ五十鈴川だよりを書く気分には、ちょっと遠いのだが、とにもかくにも何とか塾生と、私の4年間の悪戦苦闘の発表会を終えたことを、五十鈴川だよりにきちんと書いておきたいのだ。

当日、シェイクスピア遊声塾を一度見学に来られたた、カメラマンのI氏が、まるでスタッフののようにこまごまと気を使ってくださり、大変に助かった。また塾生の友人が昨年に続いて受付を一人で仕切ってくださり、これまた大いに助かった。それから、舞台に竹韻庵の山桜を運んでくださったS氏に、この場を借りてお礼を申し上げます。

終えた後、I氏のお世話で近くの居酒屋で7人で打ち上げ、こんなに嬉しい宴は初めての経験で、その余韻はこれを書いている今も続いている。

自分でこのように告白的感覚で文を綴るのは、前期高齢者になっても気恥ずかしいのだが、このような発表会が、4回も続いているのはすべて塾生のおかげなのである。

この歳になっても、人間的な青臭さが抜けず、塾生の方々に塾長と呼ばれるのが、たた恥ずかしい限りの私なのである。がしかし、この夜私は初めて4年目にして、自分は塾長なのであることの嬉しさを深く自覚した。

チラシでも、ブログでも何度も書いているが、シェイクスピア遊声塾は無謀な塾である。初心者が日本語ではあれ、あの韻をふんだんに用いた長い文体を、ある程度のレベルで声に出して読むのは、かなりの胎からの声出し訓練がないと難しいのである。(なにせ30年以上声を出していなかったのだから)

4月からリア王読みます。
でも誰に何を言われようといいのだ。上手いとかへたとかの次元ではなく、恥も外聞もなく、この年でもシェイクスピアを声に出して読めることの、不自由さの中での自由を、今しばらくの間追求する晩年時間を塾生と共に生きたいのだ。前例がなくとも挑戦してみたいのだ。

このような私のわがまま時間に寄り添ってくれる仲間がいるということが、にわかには信じられないことに居てくださるということに対する、言いようのない嬉しさが私の体を満たすのである。

これまでのお恥ずかしきわが人生時間が、無駄ではなかったという喜びが、私にしかわからない感覚が。

だからなのだ、この4年間の積み重ねの上に、なにやら新しい展開がまた自分の中に生まれてきそうな気がする春なのである。

積み重ねの上で何やらがはじけて見えて きたような、4月から月2回の輪読ワークショップも始める。遊声塾も悩みの中から生まれたのだし、道は未知の中に潜んでいて、無意識に動かされるのだ。

限りある奇跡的人生今しばらくは、シェイクスピアを声に出して、新しい人と出合い人生を送りたいとと私は夢見る。いい意味で過去とはお別れしたい。

シェイクスピア遊声塾の皆様、至らない塾長ではありますが、なにとぞ広き心でお付き合いくださいませ。

2017-03-24

四月からシェイクスピアの輪読、群読ワークショップを始めます。

        【4月からスタート・ヒダカトモフミのW・シェイクスピア輪読ワークショップ】
あいにく曇り空だが昨日運動公園で咲き始めたモクレン

  W・シェイクスピアの魅惑的作品群の言葉を、ヒダカトモフミと一緒に声に出してみませんか。

【内容】   ➊  シェイクスピアの全作品(37作品・小田島雄志訳・白水社版)を順次声に出して参           加者で輪読します。
           テキストは【ロミオとジュリエット】から始めます。初回は本がなくても大丈夫です、可           能ならご持参ください。

        ➊  第一回は4月9           日・第二回は4月23日、いずれも日曜日の午前中、9基から12時までです。

        ➊  定員は毎回10名程度、その都度フリーでどなたでも参加できます。

        ➊  基本的に月に二回、日曜います日の午前中に天神山文化プラザで行います 。
           (教室が取れ次第、私の個人ブログ、五十鈴川だよりに日にちをアップします)

        ➊  参加費は毎回1000 円です。

【設立趣意】 現在私は65歳ですが、61歳の時にシェイクスピア遊声塾を立ち上げ、早4年が経ちま         した。設立した時、30年シェイクスピアを声に出して読むことから遠ざかっていた私で         すが、昨年あたりから随分と胎から声が出るようになってきた自分を感じています。そし         て改めてシェイクスピア作品の素晴らしさを体感しています。

         そして、年齢と共にシェイクスピア作品を声に出して読めることの幸福感が深まってい         ます。それは遊声塾生との声出しを毎週欠かさず続けてきたからなのだと気づきまし          た。そこでふっと思いつきました。時間よ止まれ、仲間を募ろう、もっと気楽にだれでも          参加しやすく、フリーに声を出しあい、意味もなく翻訳日本語による愉しい群読・輪読が         できないかと。

         我々の人生時間は有限です。恥をかいて、ともに声を出しあえる仲間を求めます。気          楽にご参加くださいますように。

今日の五十鈴川だよりは、4月から始めることにした、W・シェイクスピア群読・輪読ワークショップの要綱です。関心のある方は是非ご参加をお持ちしています。

2017-03-22

春を寿ぐお便りと、思わぬ山ウドの贈り物。

東京では桜も開花、これから日本列島は、さくらさくらの春爛漫へと向かう。この歳になると柄にもなく、あと何回桜が愛でられるかという、ちょっとセンチな気分にもなるから、今春も、あちらこちらでそっと気楽に、桜を愛でたいと思う。

ところで昨日横長の箱が送られてきたので、何かと思って開けてみると、なんとそれは野菜のウドであった。送り主は栃木県の那須塩原に住む34年来の友人I氏。氏は獣医師である。

氏とは富良野塾、開塾の前年の夏、北の国からの撮影で使われた丸太小屋で 、私が一週間近く電気もガスもない暮らしをしていたところに、当時北大生であった氏が訪ねてきて以来のお付き合い。

めったに会うことがお互いかなわないのだが、何かの折にふと思い出すし、おととし大槌に行った際には、久しぶりに再会し、二人で那須塩原温泉郷で(川が望める露天風呂で最高でした)旧交を温めた。

 朋遠方より来たりまた楽しからずや、なんてことを言うが、まさにたまに会うからこそ、愉しい。そしてお互い健康で、充実した暮らしをしていての再会というものこそが、本当にいいのだ。たまさかの非日常的再会。

この年齢で、青春時代のあれやこれやを思い出し、語り合える 友なんてのは同時代を生きたればこその、嘉禄というほかはない。

そのような友人が日本列島の各地に10人以上いるというのは、まさに人生の宝であるということを実感する。これらの友人とは、一生の交友をと願わずにはいられない。

わけてもうれしかったのは、愉快なお手紙が、氏らしいおおらかな文字で書かれ同封してあり、過分なお褒めの言葉が記されていたことである。

これまでの人生で、そうほめられたことのない私は(不徳の致すところです)素直にうれしかった。いくつになっても、やはり褒められるのはうれしい。

遊声塾の発表会を間近に控え、さすがに落ち着いて ブログを書けるような気分ではないのだが、あえて忙中閑あり、I氏のにやりと笑う姿やしぐさを思い浮かべながら、五十鈴川だよりは静かに流れる。


2017-03-20

教室が確保できれば、4月から2回程度、シェイクスピア作品輪読声出しワークショップを始めます。

ブログをこの時間帯に書くなんてことはほとんど記憶にないが、今夜は我ながらどうしたものかとの思いだ。朝書いて、夜も書くとは。

書く、つづることでどこか精神が、安寧を得るようなところがあるのかもしれない、この歳になってもますます、穏やかならざるをえないような心持になるような心境に、いまだ時折なる私だが、いまは何とか制御できる、自分がいるので有難い。

日が徐々に長くなってきているので、夕方大好きな相撲を見届けると、それから正一時間運動公園夕方の部に出掛けるようになってきた。

それでも、6時半も過ぎると暗くなるが、街灯がともり7時近くまで、歩いて声を出したり鉄棒にぶら下がったりしながら、朝早くからの今日一日の終わりをいとおしみながら、ほとんど人気のなくなった運動公園のベンチで、裸足の足をタオルで拭いていると、なんとも心が浄化されるのが自分でわかる。

日が昇り、日が暮れる。その何の変哲のないきわめて当たり前の日常の何という非凡さ、今日は曇っていたので日没は拝めなかったけれども、このところの日の出と日没の美しさといったらない。

それを毎日のように、全身で体感するために早起きしているともいえるし、夕方出かける自分がいるのだ、という気がする。人間はつくづく謙虚であらねばならない。

今日は午前中竹韻庵でも、春の日差しの中雑草取りにいそしんだし、とにかく私は典型的なアウトドア思考派である。
声に出してシェイクスピア作品を読んで脳トレしたい

地球の自転、宇宙律動的な波動の中に身を置いていないと、どこか体の調子がおかしくなってくるのである。

前頭葉があまりにも肥大し、人間的な情操に潤いがあまりになくなってきつつある、精神が砂漠化してきている都市型文明生活には、意識的に距離を持ちたいと思う。

愚者、大いに結構、とにかくわが体が、ひたすら喜ぶようなシンプルライフを 持続したいのだ。

ところでいきなり話はいつものように変わるが、長いセリフを記憶するためには反復繰り返しをするほかには方法がないが、歳と共に記憶する能力が低下するのは、致し方がないにもせよ。

シェイクスピア遊声塾を始めたことで、いやでも応でも繰り返し文体を声に出すことで、この年でもいまだ、ずいぶん長いセリフを記憶できる自分の体を、自覚することができている。

今や、脳トレという言葉を頻繁に目にするが、体を動かし繰り返し腹から意識的に集中して声を出すということは、限りなく脳トレにとてもいいということが、61歳から再び声をだし早4年、自分の体を通して体感しているのだ。本当にこれは体には最高の脳トレであると、自覚が深まっている。

そのようなわけで、教室が確保できれば4月から月に2回程度、土曜日か日曜日の午前中、天神山文化プラザで、フリーの参加自由の、シェイクスピア作品の輪読ワークショップを始めることにした。

参加はその都度の自由。毎回参加費として1000円徴収する、気楽にシェイクスピア作品を声に出す場を設けたいと、思いついたのだ。塾生のYさんに話したらそれはいいということになったので決めた。

一人でも多くの方にシェイクスピア作品を声に出して読んでもらい、その魅力を共有できる仲間を一人でも、増やしたいのである。 限りある私の人生時間を意識的に過ごしたいのである。


シリア、アレッポの病院の断末魔の声を伝えた、NHKスペシャルを見て。

もう私は、生き物としての役割をほとんど終えたような認識がある、なんてことを書くと、またどこかに語弊があるので、五十鈴川だよりの中だけにとどめる。

今の時代の趨勢や、流れに、我がどこか田舎者的、どんくささを自認する私としては、ずるいのかもしれないが、醒めた感覚で、どこにも属せずただ眺めている感覚を持続している。

可能な範囲で文明の利器的恩恵にあずかりながらも、どこかでその文明的な利器に頼りたくはないというか、わがまま的な絶対矛盾を生きている。

だから、午後九時以降はなるべくテレビなども視ず、お天道様と共に動き、早寝早起きできるだけ、自分の体と対話をするかのように、還れないものの、可能な範囲で、映像などなかったころの、昔人的な暮らしを、いよいよもって心かけたいと思っているこの頃なのである。

昨夜もその予定であったのだが 、シリアのアレッポのいわば最後の砦の市民の聖なる病院の、断末魔の様子を伝えるNHKスペシャルを、妻と二人で見入った。

少しずつ時間を見つけて読み続けている。黒川創氏の本を読むのは初めてである
読んではいないが、 昔、同じ年の村上龍氏が、海の向こうで戦争が始まるという小説を書いていた。

この100年は、戦争の世紀、映像の世紀といわれる。映像がなかったはるか昔から、殺りくは続き、今もやむことはない。昨夜のあまりにも惨たらしい現場の音、映像に、平和ボケの私も、身体の奥深くがざわついた。

戦争と平和、勝者と敗者、白黒、善悪、強者と弱者、絶対矛盾を生きながら、ささやかに個人レベルで、五十鈴川だよりを書きつつ考えたい。

もうすでに、第3次世界大戦が始まっていると伝える識者もいる。海の向こうの戦争に日本も巻き込まれる時代が、ひたひたとそこまでやってきていると、認識せざるを得ないような不気味な時代の足音を、私も感じてしまう。

昨夜のNHKスペシャルは、巨悪の政治的駆け引き、愚かしさの中に、命を懸けて次々に運び込まれる負傷者の手当に自らをささげる人間の、(医師やスタッフの)崇高さを伝えていた。その方々たちの顔つきの素晴らしさに打たれた。かたや、シリアの首相がゾンビ、悪魔の顔に見えた。

見て見ぬふり、無関心はいかんが、父の教え。何かこころが動かされたなら、何かを五十鈴川だよりで個人的に書き綴りたい。破壊された4000年の古都、アレッポの惨状と、子供たちの姿には言葉がなかった。国際社会は動いてくれなかった訴えられると、私の65歳の小さな胸は、きりりとかすかに傷んだ。

 くどくどと書くことは控えるが、自国の平和さの中で、遠い他国の過酷な状況に関心を寄せる、せめてものアンテナだけは、今しばらく錆びさせたくはない。なにかに申し訳がないのである。

他者の痛みに鈍感であると、それはやがて我が身にやってくるとは、詩人の言葉である。

2017-03-18

恋の骨折り損発表会、Y氏の努力奮闘ぶりに頭が下がる私。

早く床に就いただけ、やはり早く目覚める。窓か月がらは半月の月が夜明け前の空に輝いている。

さて、いよいよシェイクスピア遊声塾の第4回の発表会が一週間後である。70人くらいの方には告知を郵送したのだが、何人くらいの方が足を運んでくださるのかは、当日にしかわからない。

昔(といってしまうが)、仕事としてというか、企画をしていたころはとにかく告知して、お客を集めることに奔走していたのだが、そういうことをまったくではないが、ほとんどしなくなった自分がいる。

それはいろんな意味で、自分が歳を重ね変容してきているからだと思う。それをブログで書くと長くなるので控えるが、縁があってというか、私のことをまったく知らないような、シェイクスピアに関心があるような方に出会えたらなあという、かすかな思いが私にはある。

昨年の発表会に来られた方が、一人だが山陽カルチャーで、私もシェイクスピア作品を声に出して読みたいとやってこられ 、今も続いていて、4月からは遊声塾にも参加したいといってくださっている。

新しい出会いの中でも、これは私にとって特筆に値する。シェイクスピアを通しての出会い、なのだから。企画したものを通じてのこれまでの出会いとは、まったくといっていいほど異なる、かなり本質的な蜜なる出会いなのだ。
写真が横でごめんなさい

日本人には感性的に遠い、(言わぬが花的な)結構難しい、恥ずかしい言葉の数々を体を通して発することになるので、いやでも自分の自分の内的な姿をさらしてしまうようなことになるから、はなはだ勇気がいるのである。

そのほか、あの長い言葉を息も絶え絶えに ただ声を出すだけでも、出したものだけがわかる大変さ、それを50歳過ぎてからでも、続けている3名の方の勇気には、こちらの頭が下がる思いなのである。

その中でもおそらく70歳近い、Yさんの頑張りには敬服している。これまでの人生で、シェイクスピアなんかまったく知らなかったし、関心もなかったそうなのだが、ただ単に声を出したいと参加されてから早4年、 あえて一番言葉遊びが大変な、奇想天外的キャラクターに挑戦している。

その悪戦苦闘の努力ぶりに寄り添い、私もどうしたらもっと生きているかのように言葉が出てくるのか、もがきながらともに稽古している。

これは、自分も声を出しているからわかるのだが、自分に遠いキャラクターを読むのははなはだもって難しいのだ。(きっといつの日にか、もっと老いて、二人での懐かしき稽古を思い出すだろう)

だが、Yさんはあきらめない。だから私もあきらめない。稽古がすべてである。発表会はいわば稽古のお披露目、私を含めた遊声塾生の、未熟ではありますが奮闘ぶりをご覧になっていただきたいとねがうのみ、足をお運ぶくださいますように。

うまい下手、という次元ではなく、恋の骨折り損というお芝居に、息を吹き込もうとする塾生の情熱の発露がつたわるように、昨日も天神山で午前中、Y氏とチラシを作ってくださったIさんと3人で稽古を重ねた。

夜が明けた ので、これから運動公園に一人声出しにでかけます、今朝のブログはこれにて。


2017-03-16

恋の骨折り損の発表会のチラシを塾生が創ってくれました、そして思う。

恋の骨折り損の発表会のチラシを、塾生のM君とIさんがあっという間に作ってくださったので、そのチラシをアップします。
後年大切な記録になるはずです、IさんMくんありがとう。

昨夜も熱き稽古が天神山の一室で行われた。みんなそれぞれに仕事を抱えながら、懸命に長い長い突拍子のない、シェイクスピアにしか思いつかない恋の骨折り損の言葉と格闘している。

あらためて無謀なる塾をやっているなあと、時折痛感するのだが、もし今現在の私にとってシェイクスピアを声に出して読むという時間がなかったら、私は干からびてしまうのではないかとさえ最近思える。

ちっとやそっとでは、シェイクスピアの言葉は、腑に落ちない。

だから無謀を承知で、あえて奇特な塾生と共に、胎から声をだす稽古時間はかけがえのない人生の今の時間だ。恋の骨折り損の登場人物は、奇想天外、あまりに風変り(型にはまった現代人から見ると)なキャラクターが多いので、その人物たちを声に出して読むのには、ものすごいエネルギーを必要とするのだ。

貧血気味の、私を含めた現代人がその洪水のような言葉を発すると、その韻を踏んだ朗々たる言葉に、肉体がついてゆけず、跳ね返されてしまうのだ。意識朦朧頭が酸欠になるのだ。

だからこそ私はあえてその言葉と、恰好をつければ 格闘して、老いてゆく自分に言葉の滋養を浴びせて、ほんのわずかでも、潤いを取り戻取り戻すべく、ドン・キホーテをいわば夢見ている次第なのである。

(だってやがて声は出なくなるのだ、死者たちが私の耳元で囁く、今声を出しなさいと)

塾生たち、プロではない素人が、それでも果敢に、精いっぱいその絢爛豪華な言葉に挑んでいる。もちろん私もだ。

自分がこれまでの人生では発したことがないような、こっぱずかしい愛の言葉の数々が、ふんだんに出てくる。体が受け付けなくギクシャクする。自分との葛藤、嫌になるくらい鍛えられる。

板についていない言葉を板に根付かせるのは容易なことではない。要するに浮いたような言葉になってしまって、日本人にとっては遠い表現が、より遠く感じられてしまうのだ。

 そこをどうしたら、普遍的な人間なら 納得できる日本語の言葉として、聴かせられるのにはどうしたらいいのかというのが、目下の私の悩みである。

その悩みを解決するためにはどうすれば?目下の私の答えは、その答えに近づくためには、息を深く吸い胎から言葉を発しながら、ひたすら集中力を持続し口を動かすしかない。そして自分を信じて声を出すしかないのである。自分の体は自分でしか感じようがないのだ

シェイクスピア戯曲という、人間存在の深淵に迫る巨大な言葉の宝の山は、そこにそびえて在るので、生きているうちにほんの少しでも、塾生とともに声を出しよじ登りたいという思いだ。


2017-03-15

水曜日・素敵な塾生と共に今夜も声を出せる悦び。

発表会まで、もうあと10日である。今夜もこれからレッスンなのだが、ちょっとだけブログを書く。

遊声塾を立ち上げた時に、4回目の発表会ができるなんて思いもしなかった。いま私にはカルチャーも含め7人の生徒さんがいてくださる。

還暦過ぎて、自分が人様に何か指導したりするなんて時間が、よもやまさか訪れるなんてことは思いもしなかった。
土に親しむようになってきて寝る前に読む本が変わってきた

生まれて初めて、人に何かを教えたり、指導をするようになってつくづく思うことだが、それは教えるということは学ぶということである。

学ぶということは、苦楽の中の発見である。

 この4年間は瞬く間に、しかもこんなに充実した予期せぬ時間が過ごせるなんてことは、繰り返すが思いもしなかった。

とくに私より年上で、遊声塾1期生で、今に至るも続けて おられるY氏の存在は大きい。ややもすると気弱になる私を、きっとそのうち塾生が増えますよと、励まし続けてくださった。
わずかだが竹韻庵に植えているブロッコリー

岡山で、シェイクスピアを声に出して、月謝をはらってまで参加するような塾生に巡り合えるなどとは、私自身正直そうは期待していなかった。

これまでの人生、私はヒトに期待するよりも、まずはとにかく、自分に期待しようとでもいうしかないような選択をたたしてきた。(いまも本質的にそうである)

だが最近微妙に意識の変化が訪れている。それはきっと4年間の間に、私の個人的なレッスンに参加してくれている素敵な塾生のおかげなのである。老いゆく中にじわっと光が差すのである。

時間がないので詳しくはつづれないのだが、一度はシェイクスピア的な世界から身を引いた私だが、再びこの4年間、声を出し続ける中で、この年でも 老いゆく中に、新たな声が出せるという自信のようなものが、若い時とはまた違った感覚で深まってきている。

声とは不思議だ。歩んできた人生が出てくるのだ。怖い。そういう意味では声は個人史を映し出す鏡のような気さえしてしまうのだ。

先のことは考えず、今日出せる声を、塾生と共に今夜も精いっぱい出そうと思う、朝ではなく夕方である。

2017-03-14

うららかな陽気の中、ゆめゆめ為政者の言葉には注意深くありたいと思う。

3月に入って随分とブログを書いている。自分でもなんだが老いの効用なのかもしれないが、気楽につづれるのである。先日の上京旅で何かが吹っ切れたかのような。

新聞を読むと、いまだ怒りがこみ上げてきてなんともやりきれなく身体に悪いので、努めて身体によさそうな記事を探すだが、なかなかそうはうまくいかない。

人間いくつになっても、理不尽な事柄にはきちんと発言する くらいのこころもちは、失いたくはないものだ。まだまだ長いものにまかれるのには若すぎる。

お国のためにかけがえのない命を棒に振るような、教育勅語を幼いうちに刷り込むような学校教育を掲げるような学校法人がやすやすと認可されるような時代がそこまできているのだ。危ない。

美しい言葉や 表面的な為政者の言葉に、私などは簡単に騙されそうな単細胞人間である。オレオレ詐欺を始め、人間の弱みに付け込む犯罪がモグラたたきのようにやまない時代である。しっかりしないと。

さてどうすればいいのか、と小さな頭で考える。あくまでも私の場合である。世の中に出てからお金にだけは人並みの苦労をしてきたので、猜疑心が強い。 お金という亡霊のような恐ろしきものには、ほどほどの距離感をもってお付き合いするようにしている。甘い言葉には決して近づかない、ただほど高いものはない。

お金なんてものは、使うものであって使われるものではないと、どこかで 醒めた感じでお金を眺めるような感覚を、どこかでキープしている。お金は必要な時に使うものだ。食べ物と水があれば、考えるのだ。考えるのにお金は不要だ。足が動けば、歩きながら春を感じ、図書館で思わぬ本に出合える、事だってあるのだ。

東京に住んでいたころはこうはいかなかった。一歩家を出たら、電車賃がなかったらアウトである。岡山に移住し、中世夢が原で働き始めてから、一日お小遣いを使わず過ごせるような日々がかなり増え、思考が鍛えられた。

私が40歳から今に至るも何かと困らずに生きていられるのは、きっと中世人のように暮らすヒントを、22年間働く中で、限りなく中世夢が原で、学んだおかげなのだと、はっきり言える。

都会はお金中心でないと生きられない社会。ざっくり言って田舎は、お金にあえてさほど頼らなくても知恵と工夫しだいでは、人間の関係性を育もながら、限りなく豊かに生きられる可能性に満ちていると私は思う。とくに一仕事終えた世代は。
フキノトウのたくさん入った昼食、残り物や工夫次第でいくらでもうまいものが創れる。

要は、どのように生きてゆきたいのかという考えを、日々の暮らしの中で、50歳も過ぎたら考え詰めてゆく心がけが私の場合には必要であった。

そのような心かけを続けていると 、なにかといろんなことに気づくようになってくるから不思議なものである。膨大な自分の脳の中の無意識領域が、老いたらお天道様の下で、大地の側に身を置きなさいと、囁くのである。

なんだか今日も脈絡のない五十鈴川だよりだが、今日などは書いているうちに同世代にささやきかけたくなってくるのだ。

頭の話に戻ると、私個人は日本という国が大好きである。そういう意味では、限りなき愛国者ではある。がしかしそういう感覚は、きれいな山河や海、先人たちが伝えてきてくださった苦楽の歴史の伝統世界の上にかろうじて培われたものである。

他者を大切にしない、国益だけの為政者が跋扈する歴史に逆行するかのような時代の流れの中に何か嫌な感じが、私はする。

私がもっとも苦手なタイプは、自分では考えないで、なんとなく流されてしまうい尻馬に乗る無責任なポピュリズム責任世代である。

ごまめの歯ぎしりであれ、行動実践しながら、弱者の側に身を置きながら、強者の論理には注意深く在りたい、言うは易くだが。今日の五十鈴川だよりはこれにてお開き。



2017-03-13

3月から週に数日の朝、運動公園での体動かし声出しレッスンを続ける。

日曜日は妻や母と過ごし、平日は妻や娘が働いているし、定職という意味ではなく、生きて動いているという意味で、自分の中ではなにがしかのことを持続しながら働いているという自分なりの感覚を持続している。


運動公園の愛らしい小さなスイセン
だから、月曜日の朝は今日から一週間、今週も働くぞ、というような感覚に未だなる私である。だがとはいうものの、そのストレス感のなさはたとえようもない。

良き意味でのなにがしかのストレスはあるものの、対人関係をはじめとするストレスは全くといってないから、人生で初めて経験するいわゆる世間的な前期高齢者時間を、勝手気ままに過ごさせていただいている。オーバーではなく人生で初めてではないかと思えるほどに幸せである。

自分でいうのも、こっぱずかしいが、きっと 健康であるからこそ、このような能天気なことを、のうのうと書ける自分がいるのだと思う。

何やらすべてから解放され、一日のほとんどを自分の思うがままに過ごせているのであるから、これを幸せと呼ばずして、何をかいわんやである。
声出しの途中最低3回はぶら下がる鉄棒

声出しレッスンの日と、弓の稽古以外は全く自由に過ごせるのであるから、私のようなタイプにとっては、またとない人生時間の訪れなのだ。

今しばらくの、健康前期高齢者時間の過ごし方次第、いよいよこれからが肝心であるのだ、と思わず初老の雄たけびを上げたくなり、青い春の空を見上げる私なのである。

65年間、かなり使ってきた体のあちこちに、コリや痛みも覚えながらもありがたき幸せとでもいうほかないほどに身体、きもちはいたって元気に動いてくれている。

冬の厳冬期は控えていたが、3月からは再び午前中竹韻庵にゆかない時は、運動公園で声出しレッスン、トレーニングを続けている。

運動公園には図書館も あるし、これ以上ない私にとっての遊び場なのである。これといって特別なことをするわけではなく、65歳の体と対話しながらおおよそ最低一時間は声を出す。

これはブログで初めて書くかもしれないが、声は裸足で広場を歩きながら声を出す。これがことのほか気持ちがいいのである。足の裏にはいろんなツボがあるそうなのだが、春とはいえまだ朝の広場の地面は冷えていていちじかんも歩くと足の裏がじんじんする。

しかし、足の裏をタオルでよく拭いて、再び靴下を履いた時の爽快感はたとえようもない。今日はこれから、午前中しばし竹韻庵で過ごすので運動公園にはゆかないが、初老時間を愉しく過ごせる場所が手直にあるということは、意味もなく嬉しいことである。

2017-03-11

瓦礫の撤去作業で、東北人K氏に会えた喜びを思う朝。

昨日に続いて朝一番お線香をたて手を合わせた。ただただ想いを馳せ、いまだゆくへもわからない方々の冥福を祈る。

私は60歳の生誕を、遠野の今は無きボタンティアセンターで迎え、わずか2日間だが全国から集まっていたボランティアと共に、そこからバスに乗り、大槌町にゆき瓦礫の撤去作業に従事した。

震災後一年経っていたが、その時に見た光景は、身体に深く記憶されている。まだ雪が残っていて、久しぶりに富良野を思い出すほどに寒い中での作業だった。

 大槌町に出掛けなければ、もっと夢が原で働いていたかもしれないが、その時に何かがきっと起こって、現在に至っているのだということが、よくわかる。

何かもう一度、原点に還らないと、というような衝動感覚が私の中に 生まれたのは確かである。これまでの人生、要所要所で決断してきたうえに、現在があるのだが、大槌町での経験は大きい。

その時にともに作業したK氏とは、その後も親交が続き、すっかり大切な歳の差を超えた友人となった。秋田の出身で今は福島で仕事をさてている。

おととし大槌町で再会し 、大変広い東北を大槌から山形までドライブした愉しい旅の記憶が蘇るが、可能なら今年も東北の被災地を、K氏と共に訪ねてみたいと思っている。

とくに、福島の原子力事故事故周辺地帯は、K氏が住んでいるので道案内をしてもらえたらと、虫のいいことを考えている。(原発事故のこと、核のこと、安全とは、命とは、現代人の一人として考え続けたい)

咲き始めた我が家のマーガレット

K氏は 岡山からかけつけた私のことを、東北のためにわざわざという感じで、とても大事に接し遇してくださった。

奇縁、ともに瓦礫の撤去作業のなか通い合う人間同士の結びつきが生まれたのである。ただお話をしただけではこうはゆかない。わずかではあれ、きつい労働を共にしたからこそなのだと、私は思う。

私はつくづく単細胞だと思うのだが、第一次労働の従事者をことのほか尊敬している。詳しく書いている時間がないから省くが、ボランティアといっても千差万別、K氏はやはり東北人の粘り腰で、都会からやってきたボランティアとは一線を画していた。

細いのだが、身体が動くのである。足腰の決まっていない(かっての自分)人間というものがどうも私は苦手である。

話がずいぶんそれたが、大槌にいったことでK氏と出会えたことがきっかけで、東北に行く楽しみが増えた、元気な間は今後は家族もともに旅をしたい。

大槌には鯨山という面白い名の山があるのでそこに登ってみたいとも思っている。

2017-03-10

母の命日、ただただ手を合わせる。

3月10日はおそらく毎回同じようなことを書いているのかもしれない。今日は実母の命日である。昨夜寝たのが遅かったのだが、ほぼいつも通りに目が覚め、朝一番手を合わせた。

後年、1日で10万人が亡くなったという東京大空襲と同じ日だということを知った。そして明日は、東北津波原子力事故災害から、6年である。

今日明日は、否応なく私が生きて元気に五十鈴川だよりをかける間は、とにかく思い出し忘れないことを刻み付けるためにも、繰り返し同じようなことを、年齢を深めながら書き続けたく思う。

生者と死者は、何やら徐々に私の中では区別がなくなりつつある。現世に母の姿、父の姿は見えぬものの、私の脳裡にはいよいよ鮮やかに存在感を増して、ずっと存在しているからである。

特に私の中での母は、私が小学生のころの記憶がいまだに昭和の家と共に鮮明である。小さい頃は鬼と思えた父と慈母のような母のもとに生を受けたことを、私が親になり、いわゆる人並みの生活者として生き始めたころから感謝するようになった。

母が亡くなって来年で20年を迎える。母のお葬式の時の父が書いた一文が残っている。この歳で読むと、胸に響いて泣けてくる。

戦前の写真見合いで結ばれし両親、父親は結婚式のために帰国して初めて出会い。そのまま北朝鮮に二人でトンボ帰りし、青春時代の若き二人は平壌の近くの新義州の昌城小学校で先生をしていた。

姉と兄は北朝鮮でうまれた。兄も姉も記憶にないという、姉は3歳、兄は生後半年。親子4人よく無事に帰国できたものである。その後限られた収入で家を建て、両親を見とり5人の子供を育てた。

ところで難民という言葉を 新聞で目にしない日はないような時代が再び世界を覆っている。生きのびるために、あらゆる手段を講じて平和な国を目指して移動する。われわれもいつ何時難民化するやもしれぬ危うい時代の状況を生きているのである。

きっと人類は、あらゆる事情から、新天地を求めていきのびてきたのだろう。話を戻すが、父や母の命日は、今の私には感謝の念をただただ手向ける日である。

親は選べないが、あの両親のもとに生まれたことを感謝する日なのだ。庭の沈丁花がいい香りで春を告げている。

春の訪れは、どんな困難な状況を今現在いきているすべての人々の上にもやってくる、お日様の御来光は、万民に平等である。

いつ何が起こっても不思議ではない、せわしない 先が読めない世相であるが、母の命日くらい、ゆっくりと故人(無数のおびただしい死者に)に想いを寄せる気持ちのゆとりをなくしたくはないものだ。

ところで今日は先週に続いて義理の母の2回目の白内障手術があるのでその送迎をするのだが、実の母とはこのような晩年時間を共有することが叶わなかったので、素直にうれしい。

実母は、父と違い私が演劇などという不安的極まる世界に歩みだそうとする際も、陰ながら常に応援してくれていたし、高校時代ビートルズに入れ込んでいる私に、ビートルズには美しい曲があるねえ、と話しかけてくる良き耳を持っていた。

いまだ、私がシェイクスピアの 塾などやって遊んでいられる感性は母からのものである。



2017-03-09

竹韻庵の蕗のとうで、春野菜ラーメンをいただく。

今日午前中、竹韻庵にいつものようにちょっとだけ出かけた。ほぼ一週間ぶりくらいにオーナーのS氏と共に、無駄話などをしながら、二人で雑草取りを楽しんだ。(S氏も何やら今年はよく体を動かしている)

竹韻庵の敷地に、ほぼ一直線の路を造りたく、その路の上と下の笹野根と雑草の根を除去すべく冬の間の作業として自分に課しているのだが、このペースでゆけば暑くなる前には草のない一本の路が、竹韻庵にできそうである。

まったくの自己満足的な作業なのだが、自分の体に一本芯が貫通するみたいで、体幹づくり的な意味合いがやっているうちに生まれてきた。

声を出すこともそうだが、何回も同じ言葉を繰り返し声に出して読み続けていると、思わぬ声が出てきて、内なるわが体が喜びだすというわけである。

様々な日々の湧いてくる雑念を(これが生きているということだと思う)抱えながらも、淡々と反復繰り返し作業を、続けていると、何やら体のどこかに浄化作用が起きるのである。

けがの功名ならぬ、雑草取りの効用である。もういい年齢であるのだから、もうちょっとできそうだというところでやめて、次の日のために余力を残すように最近はしている。

先は長いのだから、ちょっとづつ、しかし 続けるということが肝要である。漸くにしてわが体から余分な力みのようなものが、抜けつつある。

要は、わが体を年齢的に甘やかさず、しかし無理はしないといったところか。弱い生き物は、それなりの知恵と工夫を、倦まずたゆまず最新の注意をはらわないと、大きな力に飲み込まれてしまう。
天然の春を告げる味

もういやというほど何度も書いているが、その日を、つまり今日を穏やかに過ごせる健康な体というものが、私の全存在、全財産、なのである。

ところで竹韻庵はふきのとうが群生している。S氏が今が旬なのでと、教えてくれたので20個くらい持ち帰り、お昼のラーメンに3個ほど刻んで、小松菜やホウレン草と共に食したのだが、なんとも言えないえぐ味が口の中いっぱいに広がり、ひとりごちた。

S氏とも話したのだが、今年からは山野草をもっと学び、果敢に食べてみようと思う。人工的に作られた野菜とは、まったく異なる自主独立の自然に鍛えられた味は、黄金の命そのものである。

下手なサプリなど私には不要だ。大いなる大自然の天然サプリこそが、これから私が求めるものだ。

さて、今日はこれからカルチャーでリア王を読むので、誰もいない家でしばし口を動かし 出かけますので本日はこれにてお開き。

2017-03-08

愛と悲しみの果てに、私はぼけてゆく側に身を置きたい、と考えた朝。

昔も書いたことがあるかもしれないが、(きっとこれからは老いるにしたがって、同じようなことを繰り返し書くかもしれない、ご容赦を)愛と死をみつめて、という見てはいないが、タイトルの日活映画があった。

最近、このタイトルが沁みるようになってきた。愛と憎しみ、というタイトルの本もあった。これはまだないが、愛と宗教のような、タイトルの何かがあれば、売れるかもしれない。

でも。愛という言葉は年と共に私にとって、私にとって絶対不可欠のように、縋り付く言葉として重みを増してきつつある。
最近読んだことがない方の本を手にしています

そういえば記憶い出した、愛の暮らしという言葉の入った歌もあった。愛(世界中の愛を意味する言語の本があれば私は机に置いて日々眺めて暮らしたい)という英知の極みというしかない人類。

気が遠くなるほどの、おびただしい殺りくや死の歴史の上に築かれている、現在の我々の暮らしであるが、ヒトは私も含め、飢えることのない一見平和的な時間がこうも続くと、いわゆるどこか金属疲労的、平和ボケが(私のことです)進むのだと思える。

でも私は、平和的にぼけていられる世界をよしとする側に身を置きたいと、だんだんと思うようになりつつある。(どんな大義名分があれ、人を殺すよりも、私はぼけていたい)

老いるとか、ボケるとかという、きわめて自然で当たり前のことにあらがうのではなく、なるように、在るがままに受け入れようとの思いがゆっくりと深まりつつあるのだ。

先日写真でアップした、文春新書の70歳(人と社会の老いの作法)は、いろんなことを考えさせる、現在の私にとって、読み応えのある対談集 だった。

答えを見つけるために考えるのではなく、折々の選択を可能なら悔いなく決断するために、心ある方々は、考え続けているのだ。その持続の果てに何かが生まれてくるのだ。

83歳の五木寛之さん(長年読んでいるのでさんと呼びます)が自分は悪人であると述べておられます、このような直截的な発言を私は初めて読みました。

五木寛之さんも現在の私くらいの年齢の時には、このような大胆な発言は控えていたかと思われますが、死を身近に感ぜられる年齢になられた今は、対談の流れの中で自然に述べられています。

話はいきなり、シェイクスピアの【リア王】に飛ぶ(対談の中で五木寛之さんはリアの言葉の一節を引用している)。
時折想像力の働かない言葉は気分転換に口を動かしながら書き写します

35年ぶり、恋の骨折り損の発表会の稽古の合間に、山陽カルチャーセンターの教室で一人の生徒さんと二人で(厳冬期Uさんはお休みしているので)リア王を読んでいる。

今現在の私の年齢でリア王という作品を読むと、高齢のリアだけではなく、全登場人物の言葉のすごさが、人生をいくばくか経てきたせいか、肺腑に沁みてくる。

老いるとは、親子とは、夫婦とは、善人とは何か?悪人とは何か?人間とは何か?という一筋縄ではゆかない、人類の苦悩的大問題に、シェイクスピアが果敢に 挑んだ大傑作である、ということが、翻訳文体に寄り添いながら無心に声を出して(うまい下手関係なく)いるとわかる。

こうまで人間の建前ではない、本音の言葉がさく裂、応酬する痛ましいまでの作品 であったとは。人間の存在、不条理性の言葉の数々が、すでに400年以上も前に書かれている。

まさに現代は、リア的な、狂気が闊歩する時代の相貌をみせ始めているように思える。とりとめのない朝ブログになったが、まったくこんなブログになるとは私自身も思わなかったのだから、私自身も何かに動かされているのだ。

いまはまだ恥ずかしいので、愛については書くことを控える。

2017-03-07

五十鈴川だよりに、きちんと書いておきたい朝ブログ。

平均すれば週に3回から4回は、短時間であれ竹韻庵に出かけている。3月に入り啓蟄も過ぎにわかに春めいた気分に、竹韻庵もなりつつある。

昨日もちょっと出かけたら、わずか2株しか植えていなかったカリフラワーが見事な大きさに成長していたので抜いて持ち帰った。

生育してゆくのを楽しみに見守り、植えただけで何もしていないのに見事に育った、うれしい。

うっかり家に持ち帰ったが、なにせ初物、一株は竹韻庵のオーナーであるS氏に差し上げようと思っている。
竹韻庵で初めて育てたカリフラワー

ところで、倦まずたゆまず竹韻庵では、笹野根や、孟宗の根を採ったり、最近は辛抱強く、雑草の根にしつこくしがみついている土を振るい落とし、歩く道が雑草まみれにならないように抜いているのだ。

竹韻庵のことはあまり書いていないが、今や竹韻庵で過ごす時間は、日々の暮らしの中での大切なな山里時間として、自分の生活の中にすっかり定着してきた。

今年の夏が来れば、通い始めておおよそ2年、竹韻庵もなかなかにいい感じになりつつあるが、ちょっと油断するとすぐ雑草や笹野根がはびこってくるので、取り立てて大したことはしなくても、管理を任されている以上は、通いながら現場を感じつつ、あれやこれやと体を動かし続けたいのである。

一瞬たりとも自然は休まない。落ち葉を落とした後も、春の新芽を出すために長い冬を力を蓄え生きている。そのような竹韻庵周辺の山里の雑木林の生命力のなかで体を動かすのは、トレーニングジムで体を動かすのとは、私にとっては全く異なる行為である。

竹韻庵にいると鳥の声にも体が反応する。大地、土の上に自分の足が乗っかっていると、田舎育ちの私は理屈抜きで安心感につつまれるが、都会うまれのアスファルト舗装人たちは、私とはまったく違った感性で育っているのだろう。

そういう私も、すっかり都会暮らしの快適さの中に埋没しかかっているのだが、これはまあ絶対矛盾として致し方なく受け止めている。

とはいうものの、途方もなく奇跡的生命体である惑星の中に生を受けた、私自身が自然の一部なのであるから、何事もほどほどに(驚異的なプラネットアースとの)よきバランスをと願うしかない。

初めてこの作家の存在を知りました、世界の痛みを伝えてくれる。
ところで、昨日日曜日の書評をじっくり読んでいたら(毎週読み応えのある文章が掲載され、学ぶことが多く、無知を知らされる) 、書評ではないのだが、読んだことがない作家である黒川創さんの最新作【岩場の上から】のインタビューが目に入った。読みたいと思った。

広告がないと成り立たないメディア新聞のなかから、今を生きている良心的(何が良心的なのか皆目見当もつかないような魑魅魍魎が暗躍しているかのような気配を感じながらも)な作家の存在を。しった。

鶴谷真という記者が書かれているのだが、この方も含め、書かれている記者の著名で、私はM新聞を読むようになってきている。何か伝えようという熱のようなものを、文章に感じるのである。

わけのわからない大きな世界の潮流の中で、憲法の拡大解釈、大義なき言葉の示威的歪曲に乗せられて、命が軽んぜられるような(少々の犠牲は仕方がないといったかのような、自分のこととして感じられない無責任性)方向にゆきかねない、時代の危うさをこのような形で文学で表現してくれる作家の存在は大切だ。

一庶民の一人として、竹韻庵で命と向かい合いながら、為政者の言葉に騙られない力をつけないと、危ない時代がひたひたと押し寄せてきつつある気がしてならない。五十鈴川だよりにきちんと書いておく。




2017-03-06

母の白内障手術の朝に思う。

昨日は啓蟄。何やらがうごめきだす季節の到来を、なにやら先人たちは見事に何やら感じていて後人にきちんと示してくださっておられることに関しての、いわゆる伝統的な言葉の数々には、恐れ入るほどに、感心する。

ところで、4日連続で五十鈴川だよりを書くなんてことは、本当に久しぶりだ。自分でも 、ほ、とんど反応のないブログを書き続ける根拠は本人にも全くよくわからない。

いわゆる煩悩の発露、自己満足の域を出ない、お金のかからない自己救済てきな散歩にも似たようなものであるという認識の最近の私である。

84歳の母が、一日に何か一つする、を生きがい目標に、歩んでいる姿を間近に見ている影響は、夢が原退職後私の場合かなり大きい。

母のように生きることができれば、というまさにお手本がそばに在るのだから、じたばたしながらもじたばたすることはないのだ。

それは、一言でいえば自分の好きな打ち込める世界があり、限りなく 丁寧に物事に対処して、日々静かに生きて、後人になるべく迷惑をかけないということである。

でも生きてゆくということは、どこかでお互い様、たより頼られつつあるというのが、人の世の常
である、と私は思う。

だから母にもそのように語り掛けてはいるのだが、よほどのことがない限り私には頼らない矜持をいまだ生きている。だがひさしぶり母からお願いしますという言葉を聞いた。

母が、白内障手術を受けることになり、(妻も先日受けて見事に視界が広がった)平日仕事の妻に替わって、今日も私が病院まで送迎することになっている。
冬仕事・母の編む毛糸の足カバー・ご縁のあった方に差し上げている。

母はありがとうを繰り返す。義理の息子である私に実に気を遣う母だが、老いと共に限りなく 私に対して、実の息子のように接し始めてくれているのを感じる。遠慮がなくなってきた。

私も実の母にはほとんど息子として親孝行ができなかったので、この母に対しては息子としての最低のことを、との思いは私自身の老いの自覚と共に深まりつつある。

絆や癒しをはじめ、世間には浮いたようなキャッチコピー的、商業主義的言葉が白々しいほどに闊歩する世相だが、母はそのような世相とはまったく無縁で、見事なまでに自律した老いの時間を楽しんでいる。

私の妻との週末時間が、楽しみの御様子で日曜日にはよくまた来週との言葉を吐く。私か妻が一日に一度は様子を観にゆくか、電話で声を聴くようにはしているのだが、いたって元気でまだ我が家まで自転車でやってくる。

見上げたものである。でもいつかは共に暮らす日がやってくる。その日のためにも、よくはわからない中で、何かに対しての備えを日々考えつつ送らねばとの、想いを抱く。

2017-03-05

弓・4回目の稽古を終えた翌日の朝ブログ。

時は流れ、川は流れ、私も時代の中である種翻弄されながら、いやでも応でも流されながら生きてゆかざるを得ない。

でも今しばらくは、余裕をもってあくせくし、ゆっくりと歩きながら、時折立ち止まり、周囲を見回し、ブログを書きながら、一日一日との思いである。

弓の稽古は毎週一回、土曜日夜に行われる。昨夜で4回目の稽古を終えた。初日の稽古の後、どうなることかと思った、背中足腰これまでの人生で使ったことがあまりないところの筋肉が痛い。つらいのだが終えた後の爽快感はたまらない。

午後8時半、2時間の稽古を終えて外に出ると美しい三日月が目に入った。あたふたと無様な姿をさらしながら、私なりに真摯に取り組んでいる。

雰囲気のいい、私より ずっと若い方たちに囲まれての、若い息子くらいの年齢の方たちが先生である稽古は、私がまったく経験したことがないものである。

主婦の方も、ドイツ人の女性もいるし、下の娘と同じ年で私より一周遅れで入門してきた若者もいる。実に新鮮なのである。65歳にして何やら新しき世界の入口に立てる経験なんて、何かのお導きというほかはない。

いずれにせよ、口幅ったいことを書くことは控えるが、何かいろんなことが 吹っ切れて、年を重ねないと訪れてこない、今年齢感覚としか言いようがないものに、最近穏やかに私はつつまれている。
1932年生まれの五木寛之氏の思考能力の柔らかさに驚嘆する

還暦から5年、瞬く間に過ぎたが、私個人は極めて充実した5年間を過ごせたように思える。(世界の大変さを、おいといて)、これから先のことはあまり考えない。生きて5年後があれば私は古希を迎える。

還暦を 遠野で迎えた日のことは鮮やかに覚えている。まだ夢が原で働いていた。あのとき5年後の自分は全く想像できなかった。

これから5年後のことも全く想像できないが、あの時も考えたように、わが無意識の発露のおもむくままに、老いてゆく中でのかすかな冒険心のようなものを、ちっとやそっとでは手放したくない、あるががままな私を生きてゆきたい私である。

話は変わる、最近私は俳句にも関心を持っている。もうこの年齢だから勝手気ままな我流俳句なのだが、可能なら独学しながら学びたい。私にとって生きる醍醐味は、ささやかに何かを見つけることだ。

 春、森羅万象がざわめきつつ動き出す。何やら私もいまだ静かに動き出す、可能な限り竹韻庵で土と戯れ、命のざわめきに触れ、夜は週に3か声出しと弓道に出かけるという日常が続いてゆく。

日々やりたいことに恵まれて、出遭えた素敵な仲間と共に生きていられることに対する感謝の念は 老いと共に深まる。

昨日創った俳句【定点を・耕しそこが・おらの春】で今朝はお開き。



2017-03-04

K氏との40年間の関係性の果てに頂いた弓を前に思う。

実によく寝た。9時過ぎに床に入り本よ読んでいたらすぐに睡魔が遅い、スタンドを消して寝入ったのだが目覚めたら朝6時、9時間近く熟睡していた。その間目が覚めなかった。

起きて昨夜の湯を温め、朝湯につかってしばしブログタイムというわけだ。さて先週上京した際、親友K氏から弓を始めた私に、これまでの人生で最もうれしかった思わぬ弓の贈り物をいただいたことはすでに書いた。

昨日初めて厳重に梱包された、作者の名の入った弓(永野重次作) を奥様手製の布袋から取り出したのだが、あまりに見事な弓で驚いた。

このような素人が見ても素晴らしい出来栄えの銘の入った弓を、気安くいただいていいものかどうか改めて弓を眺めながら感じてはいるのだが、今はただただ、65年生きてきて、初めていただいた最もうれしい贈り物の一品として眺めおきたい、というようなしんきょうである。

我が家に家宝がまた一つ加わりました
それにしても、人生の有為転変の中で、この年齢で弓を習うということも私にとってはなかなかの冒険なのだが、 その冒険に対してまさかの弓のプレゼント。私にとっての芥川賞である。

ちょっと話ができすぎていて怖いくらいだが、それはそれとしてただありがたくいただくことにしたのだが、大切に使用しながら縁あって手元に来た弓を、今はただ大切にしたいという気持ちである。

いただいた弓に触れていると、なんとも言えない安ど感が私を包む。作られた長野重次氏(いったいいつ頃の方だろう、江戸時代か?もっと前か、いずれにせよすごい弓であることは確か)の人格の精が私に伝わってくるのである。いっとき私の手元にとどめ置くがやがてはレイさんが大切に保管使用してくれるだろう。

それにしても、レイさんがこうまで弓の世界に耽溺していなければ、私もまさか弓を習い始めるには至らなかっただろうし、よもやまさかK氏から弓をいただくことになるなんていう、展開になるなどということが誰に予測できただろうか。

そもそもK氏の家に由緒ある弓があるなんてこともまるで知らなかったし、あったとしてもそのような弓を私にポンとくれるというその行為に、私は心底驚いているのである。

26歳、ロンドンのアールスコートのユースホステルで出遭って以来40年間、K氏とは不思議な縁 で結ばれている。氏は育ちがよく東京育ち、日向灘生まれの田舎者の私とは対照的なのだが、考えるとこれがよかったのかもしれない。


3つ年下で、私のことを奉兄と呼ぶ。この間の40年間の、お恥ずかしきわが人生を身近で最もよく知る人物である。長所も短所も丸ごと安心してさらけ出してきてもなお、我々の関係性は今も切れることはなく、ゆるやかに流れている。

こういう奇妙な関係性を持続している唯一の友である。家族までが半ばあきれながらもK氏に会うというと、妻も何も言わない。なんと、我々のアフリカ新婚旅行にも途中から同行した奇縁のK氏なのである。

これからもK氏との緩やかな関係性は生きている限り、流れてゆく。これからはお互い老いながら、下り坂に気をつけながらの、たまさかのときおり再会、不良祖父さん時間を楽しみたい。旅で出会ったのだから、氏とは多様な思わぬ歩くのなんかも取り込んだ、意外性のあるわがまま旅をしてみたい。

2017-03-03

3月初めての五十鈴川だより。

先週の65歳になったばかりでの上京旅を終えて、はや3月も3日目の朝である。65歳、前期高齢者というらしい。

呼び名はともかく、確実に歳を重ねていることは間違いない。今朝はあまり時間がないのだが、早く目覚めそんなない寒くはないので起きて書いている。

コーヒーを飲みながらリンゴをかじっていると、徐々に体が目覚め、3月になって初めての五十鈴川だよりを、おもむくままに書きたいのだ。
春の陽気をあびる、いっとき生死を彷徨い妻の愛情で奇跡的復活を遂げた花

年齢と共に、つるはしを振るったり走ったりというような、瞬発力を必要とするような動きは徐々にできなくなるにせよ、息を深く吸って、深呼吸しながら歩く速度で、文章を書いたり、声を出したりすることは、意識がしゃんとしている間は、とにもかくにも、一日一日、持続する志をと願う私だ。

オーバーではなく、なにやらようやっとそういう心境に至りつつある、上京後の私である。青春時代の残滓が、消えたとまではいわないが、なにやらいい感じで終わったということが確認できたかのような旅となったのだ。

あるがままに、煩悩と向き合いながら、可能なら健康に枯れてゆきたいのだ。 コーヒーがうまい、リンゴがうまい、有難いことに心身が健康であるからだ。

体に不具合があったらこうはゆかない。体が動け、物が美味しくいただけることの有難さは、老いるにしたがってしみてくるようになってくる。

話は飛ぶ。日本の伝統芸能は老いてきてますます華やぐかのような、老いの花ともいうべき枯淡の境地に至るを目指すように思える。

若輩の私には、それがどのような境地であるのかは、今はまだ知る由もないが、何やら老いてゆく中での、宿題のように、わが体と向かい合いながら、身体を動かしながら考え続けてゆきたいと考えている。

朝一番、夜明け前、自分と向かい合いながら、五十鈴川だよりを書きながら、今日一日の過ごし方をぼんやりと考えることは、厳粛で大切な時間だ。