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2013-09-25

昨夜、【スケッチ・オブ・ミヤ―ク】というドキュメンタリーフィルムを見ました


私の拙い言葉では伝えようもない、未知の国の世界、宮古島の調べが、声が、唄が全編流れるドキュメンタリーフィルム【スケッチ・オブ・ミヤ―ク】監督大西功一を昨夜見た。

 

このフィルムは監督の大西氏が上映機材一切を車に積んで、全国をキャラバンしながら、各地で上映会を、配達しながら見てもらうという、創る側と受け入れる側との、いわば協働作業で成立した、画期的な試みで実現した。

 

たまたま、岡山映画祭で長年中心メンバーとして、地味な映画祭を続けて来られているO氏との御縁で私はこのフィルムを見る機縁に恵まれた。

 

昨夜見たばかりで、緩やかな興奮がいまだ冷めやらぬ私である。正直一度見たくらいでは何も書きたくはない、またかけもしないのは重々承知なのだが、見ることができたという幸運を一行でも、五十鈴川だよりに書き置きたいのである。

 

財布の中身のギリギリで、私はDVDとCD2枚を求め会場を後にした。監督との交流会に参加したい気持ちも少しあったが、電車の時間もあり、独りになり映画の余韻に浸りたかった。

 

今私は昨夜求めた、池間島古謡集を聴きながら書いているのだが、フィルムに登場していた唄う島民の方々の顔や、印象的な数々のシーンが浮かんでくる。

 

過酷な隔絶した世界で、かくも豊かに神と共に、唄と共に生きて来られた民俗(ひとびと)の存在を初めて知った。

 

歳と共に無知の怖さを、謙虚に知るということの重みを感じるようになってきた私だが、昨夜もまた、ずしんとそんなことを感じた。人間にとっての根源的な唄とはどこから生まれてくるのか、過酷な労働、生きてゆく生活の中から、命がほとばしるように生まれてくる、言葉にならない神々しさ、生と死が、まさに共存しているかのような、祈りの声。

 

いたたまれなく、今を生きている私の生活をあぶり出し、照射する。

2013-09-23

祝の島・の試写をした翌朝に思う


棚田のど真ん中にある亀次郎さんが作った小屋

数日前、母の指導のもとに冬野菜のたねをまいたのだが(大根、春菊、カイワレ、ワケギ、ミズ菜、などの)、先ほど起きてすぐに水をあげた。これからは妻に倣い、土に親しむということがすごくやりたくなってきている自分が育ってきている。

 

これは夢が原で21年、土と直に触れる環境で働いていたということがやはり大きいし、何よりも母から学んで、ほんのわずかでもいいから手の届く範囲で野菜を育て、それを頂くということにたいしての感謝の念を忘れたくはない。

 

種をまき収穫するまでには手がかかる。それは何事かを企画し実現するということと、かなり通じるところがある。ともあれ、これから先ますます妻と二人土に親しむ時間は増えてゆくと思う。私自身の生活に根を張ること。

 

さて昨夜、わずかな人数ではあったが【祝の島】の試写をしました。二週間前にわずか一泊ではありましたが、祝島を歩き、フィルムの中でもっともゆきたかった平亀次郎さんが30年かけて創られたという棚田を見てきた私には、フィルムがまた全く違った印象で、細部が立ちあがって見えた。

 

上手く言えないが、このフィルムにえがかれている島の人々の暮らしは、今の私の暮らしに限りなく自省を迫るのである。爪の垢でも限りなくあの人たちのように、つましく豊かに生活できたら、それで充分という気がするのだ。

 

後は実践あるのみ。オロと祝の島は、私の人生で巡り合えた素敵な方々が、心血を注いで創られたフィルムである。私ごときが企画するのは、はなはだ非力ではあることは承知しつつも、今この世界の片隅で、このような暮らしを余儀なくされているという現実を、知ることの重み。私も企画をすることで、ひとりの人間として考え続けたいと思う。

 

祝の島を企画することで、この夏、平亀次郎さんの御子息萬次さん(80歳)にお会いできたこと、あの棚田に巡り合えたことは、きっとこれからの人生を導いてくれるような気がしてならない。どんなにささやかな自分という器であれ、先ず自分の足で歩むしかない。

 

あの日、歩いて道の最後のコーナーを曲がり、いきなり亀次郎さんが創られた、あの棚田が飛び込んできたときの驚き、以来あの棚田は私の中に棲み続けている。

 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013-09-22

妻のおかげで・オロ・のチラシができました


オロの撮影監督大切な友人T氏から、昨年東京でのロードショウ上映に使われてあまったチラシが10枚以上送られてきたのを無駄にしたくなく、表の余白に・日時と値段と場所と問い合わせを入れプリントアウトした。チケットも妻(がほとんど)と二人で作った。

 

退職後の企画は妻との二人三脚でほとんど作っている。子育てから解放されつつある妻が、負担の無い範囲で、すこぶる協力してくれているので私としては感謝の言葉しかない。

 

さて、チラシができると後は私の仕事である。一週間後には祝の島のチラシも出来上がる。10月から私はあらゆる意味において忙しくなるが、生活者として働きながら企画をするというのが、私らしい企画になるのではという淡い(毎回最後という気持ちで企画したい)希望だ。オロ・祝の島・私の中の何かが繋がるのだ。

 

今後やりたい企画が、現実の時代のなかで不可能ではあっても、元気な間は探し続けないと、企画できる可能性は生まれてこない、企画は出来ない。それではあまりに虚しい。

 

話に脈絡がないが、今夜6時から先週オロの試写をした知人のスペースで、祝の島も試写をする。何故こんな今までしたことがないことまでして、自主上映会をするのかは自分の中でも、正直分からない。ただ一つ言えることは気力がある間は、可能なことはやって当日を迎えたいという、性が止まないのだ。

 

何かを企画するということは、砂をつかむような感覚が付きまとうのだが、山登りと同じで、登った者にしか、企画したものにしか分かり得ないということがある。

 

企画をするということは、限りなく何かを学び続ける営為だと、21年続けてきて実感している。無知の怖さを思い知る私は、知る学ぶということの限りない面白さに支えられて、今もこうやって企画が続けられているのだと思う。

 

私が多少なりともこの20数年、もしいくばくか成長できたとしたら、ただ企画を続けたからだと思う。可能なら今しばらく、企画をすることで世界と交信し、世界の多様な文化というしかない、真実に触れることで自分自身を活性化させたい。

 

 

 

 

2013-09-18

まっさらな気持ちで働く、企画する、日々を生きる、そんなことを思う朝

亀次郎さんの棚田を守る息子さんの萬次さん(80歳)

日中はともかく、今朝は少々肌寒いくらいに感じたが、少し動いたらちょうどいい感じになり穏やかな気持ちで、ちょっと何かを綴りたい私である。本当にわずか3週間前の暑さがうそのようである。

 

日本人が物事をすぐ忘れる、というのはこういう風土の、歴史的な時間の積み重ねの上に存在しているからなのかもしれない。たかだか一庶民の、よたよたブログだが、健康な間可能な限り書きつづけても、ささやかな個人史の、歴史的大転換時代の、つぶやきとしても、残らないし(それでいい)うたかたのように、消えてゆくだろう。

 
私のブログのほとんどの一文は、何を書くのかを前もって決めていない。その日何とはなしに、浮かんでくる言葉をつれづれに、綴っているにすぎない。しかし、継続するということからしか見えてこないということがあるのだということを、あらためて感じる。石の上にも3年、という真実。

 
外見は日々老いてゆくのであるが、内面は微妙に変化し続ける、欲望は限りなく減ってくるのに対し、煩悩はそうは簡単に止まないということである。止まないから、企画をしたり、ブログを書いたりしたくなるわけだ。それこそが生の証ということであるのかもしれない。

 
反省、日々の自己確認、揺らぎを鎮めるため、綴る、書くという行為は、私の場合限りなく自己満足感が大部のような認識である。絶対的矛盾を抱えながらの。

 
さて、朝から何やら生真面目なブログだが、話題は変わり、昨日とある介護の事業所に面接に行ってきた。一つは内定していて、今日研修がある。おそらくこの二つの事業所のどちらかで、週に3日程度10月から働かせていただくことになる可能性が高い。

 

子育ても一段落、フルタイムではないがこの年から一から始める仕事に関して、この夏ひょんなことから介護の勉強をさせていただいたので、せっかく学んだことを活かせることを、第一義に考えての事だ。

 
介護の勉強を始める前は、何か私にできる肉体労働をしたいとは考えていたが、よもやまさか自分が介護の現場で働くことになるなんてことは、数か月前までは考えもしなかった。ほんの少し、学んだだけ、経験したことがない仕事なので、今はただまっさらの気持ちで取り組んでみたい。

 
4年前、ブログを始める時にITの海に飛び込む覚悟で始めたと書いた記憶があるのだが、何事も、飛び込んでみないことには分からない。とりあえず、飛び込む位のところから、私を受け入れてくれるような事業所に御世話になることにした。

声を出すことも、企画することも、介護の仕事も、生きている、生きるという一点ですべてはつながっている。

 

 

 

2013-09-17

台風一過、秋晴れのすがすがしい朝に思う

平亀次郎さんが70歳を過ぎて過ごした小部屋

台風一過、大災害に見舞われた列島各地のことを思うと胸が沈むが、なんともすがすがしい秋晴れの朝の空が広がっている。

 

昨日妻と二人で、ささやかにガーデニングと冬野菜を植えるための土作りに、午前中を過した。何をするにも時期、タイミングがある。先日は母の菜園場の土を耕すのをしたりしたのだが、こういうことがゆっくりと時間を気にせずできるようになっておおよそ半年、穏やかな時間の流れを、夫婦で過ごすことが増えた。

 

妻はことのほか、静かな暮らしを好む人なので、私とはあらゆる点で性格がま逆のように感じているが、だんだんと妻の世界が、新鮮に感じられるようになってきつつある。とにかくよく考え、庭のあれやこれやを、お金をかけず(かけられず)創意工夫するところは、おのろけでもなんでもなく、私を驚かし刺激する。

 

フルタイムの仕事を辞してからというもの、下の娘がまだ大学2年なので、私は限りなくつましい暮らしを、余儀なくされているが、つましきはつましきままに流れゆき、掃除を始め妻から家事のあれやこれやの家事一式をおそわり、だんだんと家事を楽しめるようになって来つつある自分を感じている。

 

おそわるだけではなく、最近は私なりに少しは工夫するようにもなってきつつある。自分一人での昼食も約半年で、随分と作るのが楽しめるようになってきた。冷蔵庫を開けて在るもので工夫して作る。これが愉しいのだ。

 

ささやかにお料理、洗濯、掃除、この3つをきちんとする。そのことは私の気分転換となり、精神的になんともはや心が落ち着くのである。中でも掃除、拭き掃除、雑巾がけは、からだを動かしとてもいいトレーニングになるし、犬のメルの毛が夏はとてもたくさん抜けるので我が家の必須アイテムなのである。

 

雑巾がけをしながら、コーナーの隅々に目線を凝らすと、綿ぼこりが眼に入る。立って見ているのでは分からない。畳の上も限界まで絞った雑巾で拭いていると、見えなかったほこりが雑巾にへばりつく、ゆすぐと水に埃が溶け出す。その水は庭に撒く。

 

そんなに長い時間やるのではなく、順繰りに日によって二部屋ずつ(廊下と階段、リビングはほぼ毎日)循環し、正味40分位なのだが、最近はこれをひとつのささやかな儀式のように済ませ、さっぱりしてから自分の遊学的仕事に向かうようにしている。

 

ところで昨日は敬老の日であった。夕食、母が我が家にきてくれて、家族でつましくささやかに祝った。母は菜園に関して私の先生である。私は七輪に炭を熾し、さんまを焼いた、空には月。家族で事もなく過ごせる有難さ。目線を限りなく低くして、我が家から世界を見つめてゆきたいと思う。

 

 

 

 

2013-09-15

オロの試写をした翌朝雨音を聴きながら思う

平ら亀次郎さんの作った小屋からの眺め、最高の眺め

昨夜岡山の知人の小さなスペースで、晩秋11月にやろうと思っている【オロ】というフィルムの試写をした。

 

こんなことをしたのは初めてだがまたもやいろんなことを考えてしまう夜となった。土取さんとサルドノさんの舞台(言葉がなかった、素晴らしかった)を見て京都から帰って来たばかり、わたしがいい意味で疲れていたこともある。

 

説明したり、上手く伝えられないことは、言葉では私は書けないし、言えない。だから企画をして見て頂いているのだ。企画者と評論家(真の批評家は別)は全く違う。共感(共振)する観客に出会いたいと、企画しながらいつも思う。
 
2003年の日韓パーカッションフェスティバルからあたりから、毎回これが【最後】というくらいの気持ちで企画を続けてきた。自分の非力さを痛感してきたし、時代と企画内容がずれる感覚はますます深まる中、あれから、10年企画が続けられていることに関しては、私自身驚いている。もう十分という気持ちもある。
 
企画には経済的なことがどうしても付きまとうので、私ごとき一庶民ではなかなかに難しい。だが時代の足音の不気味さは、脳天気な私でもちょっと気味が悪すぎる、何かしなくてはとの思いがやまないのだ。ことさらブログで書く必要もない気もするのだが、うまく書けないのでこれ以上書くのは控える。雨音に耳を傾けながら、単細胞企画者は悩む力のある今を生きる。

 
人間は変化する、これから生きて何をするにせよしないにせよ、今回の企画でこれが最後という感覚は、ますます強くなってきているのは確かである。

 
不毛の世界というのか、限りなく土から遠く離れた、現代都市文明をひたすら享受、消費してきたわれわれは、やがて大きなつけを払うしかないのかもしれない。心がカラカラ、命の輝きが限りなく見えなくなった時代の中で、お金という魔物にしばられまっとうな感覚を見失い、限りなく演技し続けるしかない存在と化してしまう恐怖。

サルドノさん独特の動き(ルーツが異なる若い女性ダンサー3人との一人一人の共演もすごかった)、ダンスとペインティング、土取さんのパーカッションの多種類の音色の響きは、私の魂の奥深くを揺さぶり、そのことを恐ろしいまでに表現し伝えていた。最高にかっこいい年上のお二人が私に勇気の鼓動を吹き込む。

 
土取さんや私の尊敬する方々はあきらめてはいない。私も企画はともかく、私自身を辞めるわけではない。【オロ】というフィルムの中に籠められている何かを感受する感覚がかろうじて私の中にこの数十年の生活の中で生まれてきた。皆で火を囲み、同胞で歌を歌うシーン、人が人を思いやる神髄のような場面、おばあさんの歌、手と手が(過去と未来)重なり合うシーン。(説明は野暮です)

 
何かを見るということは、自分自身もまた作品から見られるということを意味する。自分自身が問われるということの重さ、感覚は脳天気な私でも無くしたくはない。

その感覚を共有できる感性の持ち主と、これからの人生を歩みたいとおもう。珍しく遅く帰ってきた、私の机の上に、とある介護の事業所から、仕事内定の通知が届いていた。

 

 

 

2013-09-13

京都造形芸術大学・春秋座に、土取利行&サルドノW・クスモの共演を見にゆきます

平萬次さんの棚田に色づいた稲穂・そろそろ稲刈り

土取利行さんとインドネシアのサルドノW・クスモ、両氏による、パーカッションとダンス(サルドノW・クスモは、音に呼応し舞踊絵画を書くとある)による、ニルヴァーナ(涅槃を意味する)が今夜、京都芸術劇場で行われるので、それを見に出かける前の朝ブログです。

 

明日は、18時半から岡山市役所のそばのVANSという知人のスペースで、オロの試写会を開きます。関心のある方は先着7名まで受け付けます。急で申し訳ないのですが、私までご連絡ください。

 

さて、土取さんが今回コラボレーションする、インドネシアという国が生んだ、サルドノW・クスモに関して、私はまったく知らないが、土取さんのブログを読むと、伝統を踏まえ未知の分野に挑み続ける斬新な前衛舞踊家とのこと。ほとんどこのような舞踊家を見るチャンスがない今の私の暮らし、土取さんからわざわざ招待状まで頂き、ゆくことにした。

 

まったく未知の世界に導かれるような予感がしている。5月の郡上八幡以来の再会になる。最近の私はほとんどよほどのことがない限り、劇場に足をはこばなくなったが、土取さんが共演する舞台は、可能な限り足を運ぶことにしている。

 

2010年秋、奈良で見た、金梅子(キムメジャ)先生との共演は素晴らしく、翌年夢が原での私の最後の企画として結実した。

 

土取さんは、舞踊家との共演が多いパーカッショ二ストである。異界を自由自在に行き交う、年齢を超越したかのような二人のコラボレーションを、体感できる事は、私にとって至福という以外にない。

 

こういう劇的な体験を創造する異能のアーティストを、私は他に知らない。このようなアーティストに私の人生で出会えたことの幸運を、私は歳を重ねるに従って感じる。音の神秘、肉体の神秘。その両者の初めての共演を、我が眼で体感できる、生きている喜び。

 

本当に素晴らしい芸術や良い作品に触れる時間が一年に数回あれば、今の私には充分である。

 

 

2013-09-11

今日もまた・つもりし雪をかきわけて・子孫のためにほるぞうれしき

祝い島・棚田に刻まれた平亀次郎さんの歌碑

オリンピックの是非はともかく(私はスポーツを見るのは好きである)この熱狂ははなはだ気持ち悪く感じてしまう自分がいる。それが何故なのかは、相当な枚数を書かなくてはならないので、ブログでは控える。

 

チェルノブイリの近郊の子供たちに、甲状腺のがんが増え続けていることはほとんどマスコミの話題にならないが、汚染水のことも、具体的にはきちんと知らされない不毛のような、あらゆる情報操作が行われているのではないかという疑念を、私ごときでも感じてしまう。なんとも形容のしようがない、知らず知らずのうちにという無痛思考に流される危うい感覚。

 

私は東京決定を、朝、祝い島でたまたま知ったが、島の人々の話題、日常にはまったく対岸の喧騒という感じであった。個人で物事を深く考える習慣が浅く(私のことです)集団になると付和雷同する国民性のようなものは、奈変に由来するのかとくと考えた方がいいのではないかと、自分自身反省を込めて自戒する。

 

さて7年後、福島の汚染水のことも含め、喉元過ぎればという、あらゆる文明的問題山積はどのように処理されているのかは、神のみぞ知るということになるのだろうか。私の個人的な暴走文明への悲観的な懐疑は、この数十年ますます深まってゆく。

 

人間らしい暮らしや生活は、手の届く範囲の仲にこそあるのであり、その最小の単位が家族なのだという認識の側に私は立つものである。

 

さて、話は忽然と変わるが、この十年以上、(今もだが)安い青春切符で、宮崎に里帰りしてきた。18歳で上京した時に乗った、急行高千穂は25時間かかった。座席が固く御尻が痛くなった記憶がよみがえるが、今の快速電車はその点は全く快適である。

 

急ぐ旅ではない限り、5時間くらいはいまだにこの年になっても、本さえあれば新幹線よりもはるかに落ち着いて本が読める。ところで、昨日までしか使えない切符で少し悩んだのだが、一度ゆきたいとずっと思っていた、四国の金毘羅さんに行くことにきめ行ってきた。

 

おにぎりを作り家を出たのが九時半、戻ってきたのが夕方4時半、7時間の思いつき小旅行。カメラも持たず、タオルとお弁当と御茶と本だけの最低の荷物、車中で昼食を済ませ、金刀比羅の駅に着いたのが12時前、ゆっくりと歩き始めた。

 

途中2回休み、1356段の石段を登り切り、御堂に手を合わせ、しばし昔人になり景色を眺め息を整え、すぐに降りた。駅の近くでソフトクリームを食べ、(足浴ができるカフェで)足を休ませ家路へと引き返した。現地にいたのは2時間少々、車中は読書。

 

リニアモーターカー時代がやってきても、命を運ぶ時間は変わらない。速きことがすべてよしとするような趨勢には、やがて年寄りのくりごとと一笑に付されるに違いないが、61歳一仕事終えた我が身としては、古人のようにのんびりと歩くということを、普段の暮らしの中で取り戻してゆきたい。

 

 

2013-09-10

平亀次郎さん家族がが創った天空の城に行くことができました


毎日ではなくとも4年近くブログを書きつづけてきて思うことは、よくもまあ他愛もない個人的徒然を書きつづけたという思いが最近している。以前は能天気に綴れたのだが、また今後だって、書くことに関しては、何とはなしに何とでもつづれはするのだが、どういうわけなのかは分からないが、グルーミイな気分にとらわれてしまう初老の秋のわたしだ。

 

いきなりこんなことを書くと、何やら元気がないように思われるかもしれないが、体調はとてもよく、個人的には充実した暮らしができる今の生活を、心から嬉しく思っている。

 

ただ、世の中の流れの大勢からは完全に自分がずれているのを感じるし、今後はそのずれを自覚的に生きてゆく中で、自分の居場所が見つけられれば良しとしよう、そんな思いにとらわれる最近だ。

 

さて、先週土日一泊二日、各駅停車の旅で、一度ゆきたかった上関町、祝い島に行くことができた。声高かにではなく、しずかに今のままの暮らしでいい、ということを信条に原発に反対ではなく、不要を30年以上にわたって島民(400人)が続けている祝い島。

 

結論から書けば、今後私はハッキリとこのように生きてゆけばいいのだということを教えて頂く旅となった。着いたのが夕方5時近く、日暮れまで島を少し散歩(小雨の中、島の中腹まで登ってみた)集落は港の一帯に集中していて、迷路のような路地に家がひしめいている。

 

翌日、祝い島でもっともゆきたかった、今回の旅の目的、平亀次郎(明治13年生まれ)さんの家族が親子3代で山を開墾し築き上げたという棚田を見るために、朝食後8時過ぎに出発した。宿からおおよそ3・5キロ、歩いていると日が差してきて汗が噴き出してきた。

 

途中誰にも出会わず、そろそろかなという感じで下りのカーブを曲がると、いきなり見事というしかない、そそり立つ岩壁の棚田が視界に飛び込んできた。まさに息をのむ偉容の棚田。山から出た石を利用して積んだというその棚田は、遠く佐多岬が一望できる抜群の場所に在った。

 

誰もいないその棚田の上を見上げると、青空の中に色づく稲穂が見える。棚田によじ登ってみた。絶壁の棚田に見事な稲穂が頭を垂れていた。そこからの眺めの良さ。久しぶりに心底感動した。

 

天空に浮かぶ棚田。棚田の下の中央に黒く塗られた作業ハウスがあるのだが、これがまたなんとも言えないたたずまい。これこそは棚田も含め真の意味での世界遺産だと、個人的に私は思った。

 

一人時間を過ごし、帰り道を歩いていると向こうから耕運機の音がする。すれ違い、挨拶すると息子さんの平萬次さん80歳であった。耕運機にのせて頂き再び棚田へ。直接平さんから、今は亡き亀次郎さんのことをうかがう事ができた。

 

80歳とは思えない、そのお元気さに先ず私は打たれた。聴けば小屋も亀次郎さんが山から松を切りだし、大鋸でひいて建てたのだという。子孫が飢えないように山を切り開き、棚田を作るという発想に、まさに明治人の意気、気骨を感じずにはいられなかった。

 

70過ぎてからは、作業小屋の2畳半位の囲炉裏のある部屋に寝泊まりして作業を続けられていたという、まさに、庶民無名列伝というしかない。

 

機械に頼らず、3世代で、家族であれほどの棚田の石を積み上げるど根性には、言葉がない。原発に頼らないと生きられないという、途方もない倒錯。30年以上にわたって黙々と原発不要を発信する島民の思いの中に、亀次郎さんのDNAが流れているように私には思えた。

 

帰りの船の時間が迫っていて、平さんと長くは御話は出来なかったが、お会いでき握手できただけでも幸運だった。家族のために、足るを知る生活で充分だという平さんの言葉は、おそらくこれからの私の足元を照らし続けるだろう。

 

 

 

 

2013-09-06

渡辺一枝著、消されゆくチベット、読み終えて思う

妻との散歩はメルとともに

私ごときのブログを読み続けてくださっている方は御存じだと思うが、私は60歳還暦の誕生日は、初めて東北にゆき岩手県の遠野のボランティアセンターで迎えた。

 

大槌と箱崎というところで、わずか2日間ではあったが瓦礫の撤去作業をした。その折に共に作業をし、知り合ったKさん(今は転勤し福島で働いている)から写真同封の御便りが届いたのは熱い夏の盛りだった。

 

Kさんは、時間の無い私のために、宮城の被災地も自分の車で案内して下さった。以来、連絡を取り合う仲となった。もう一人遠野で福山から大槌に度々ボランティアにゆかれているというMさんにも出会って、この方とも縁が続いている。

 

寒い中、共に被災地で身体を動かしたり、共にあの寒さの中で、寝袋にくるまったりした仲というものは、やはりその現場での共通感覚を共有しているからか、多くを語らなくとも、親近感の密度は言葉を超えたものがうまれる。

 

人との出会いは、いわく言い難いものがある。長きにわたって途切れない仲もあれば、ちょっとした意識のずれや、意思の疎通の通い合わなさで、疎遠になってしまうこともある。遠隔地で暮らしているために普段の暮らしでは逢うことはなくともいつまでも心に残り、ふっとときおり思い出す人もいる。

 

これから私にどのような人生が残されているのかは知る由もないが、これまでの人生で出会えた、気になる人たちとの交友は可能な限り深めてゆきたいと思う私である。かろうじて反省する力があるうちに、リセットしたい想いにとらわれる。

 

妻をはじめとして、多くはないが素晴らしき友や、尊敬する方々と出会うことによって、私はかろうじて生きる希望を見失うことなく、これまで生きてこられた。私が窮地の時に、まったく変わらず接して下さった人たちのことはけっして忘れることはない。

 

話は変わるが、渡辺一枝さんが書かれた【消されゆくチベット】という本、ゆっくりゆっくりと読み、時間をかけて読み終えた。著者のチベットという邦への(人びとへの)深い愛とでも呼ぶしかない想いが、真摯という以外にない言葉でに綴られている。無知なる私にとっては、知らないことばかりで虚心に学ばせて頂いた。

 

関心のある方は、是非読んでいただきたい。人が一生の間に読める本、出会う人は限られている。このような本を読むと、現在の自分の暮らし、姿が、どこかしらあぶり出されるように感じられる。

 

中国の経済開放政策における、この数十年のチベットの置かれている変貌には驚かされる。まったく異国のことが書かれているのに、まるで日本のこの数十年の変化とどこか共通するようなおもいに、私はどこかとらわれた。

 

謙虚に知る、ということの大切さを、あらためてこの本を通して学ぶことができた。大国のエゴ、中華帝国の巨大な力で、自国の伝統や文化が踏みにじられるチベットという国の悲劇の内実をこの本を通して知ることができた。わずかではあれ知ったからには、何かしなくてはという思いに単細胞企画者はとらわれる。

 

あの過酷な環境の高地の国で、チベット仏教を根本にして生きて来られた、民族の歴史、伝統、言葉、あらゆる文化がないがしろにされてゆく現実を一人の女性が必死で伝えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013-09-04

夜明け前、雨音で目覚め思う


ついこないだまでの暑さがどこへ行ったのかと思わせるほどに雨が続き、今朝も雨音で眼がさめた。起きたばかりで頭は全然動いていないが、一気に涼しくなりこのまま秋が来るのかもわからず、何か天候がおかしいことは、多くの人が感じているのではないかという気がする。天変地異。

 

それにしても、列島各地をおそう集中豪雨はすさまじい、そのうえ竜巻。こうも自然災害がニュースで伝えられると、まさに災害列島というしかない暗鬱な思いにとらわれる。自分に被害が及ばない限り、そのような立場に置かれない限り、実感できない哀しさ。

 

家族そろって、平凡につましくその日その日が、質実に送れるということのなんという、当たり前の在り難さ。当たり前が当たり前ではないのだということに気づくまで、どれほどの時間が流れ過ぎたのかということをこの年になりようやく思い知る。

 

歳と共にこれはいいことだと自分でも思うのだが、金銭や物にたいする執着が(もともとあまりない)いちだんと減りつつあるのを感じている。移動しない限り、お金はさほど必要ではないということを、退職後(前からも)私はかなり実践しつつある。

 

出来る限りお金や物に振り回されない生き方のようなことが可能か、というようなことを意識的に生活している。先日も書いたがこれは身近に生活している母からの影響が多分に大きい。煩悩を抱えつつも、可能な限りつましくも生きる術を身につけたく思うのだ。

 

母や妻を見ていると、命を育む女性という存在は、男性の私には謎のように、母なる大地という言葉が、まさに至言だとおもわせるに十分である。他の女性は知らないが、一番身近なこの二人と数十年接していて、私は多くを望まない生き方に、限りなく惹かれてゆく自分を感じている。

 

私の場合、健康に動く身体と本、御米、さえあれば、一日は充分に有効に過ごせる今の暮らしである。

 

資本主義、発展の幻想、消費税、TPP,心の大恐慌時代がきているとしか思えない。心を豊かにしない経済活動や文化活動、お金で空気や海や山や川、愛や芸術や音楽を買う(買えると考える)という途方もない倒錯、果たして人を幸福にするはずだったお金の価値はどこにいったのか、哲学的に考察することが今一番必要な時代ではないのかという気がしてならない。

 

限りなくつましい生き方の中から私の中に見えてきた事。何はなくとも時は流れ、何もない、何も持たない、軽やかさに自分が救われるのだ。雨音を聴く、雨に打たれる花この葉を眺める、夜が明ける。何も持たずにこの世に生を受け、何も持たずあの世に還る。

 

このようなことを書くと、何やら悟ったかのような感、無きにしも非ずだが、若いころ世界のいろんな国を旅してきて思うのは、大人の国というのは静かであり、経済的な繁栄には遠い国の人びとの方が、眼が活き活きと輝き人間らしさに満ちていた真実である。