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2022-08-28

8月28日午後、次女の住むマンションのリーディングルームで五十鈴川だよりをうつ。

 木曜日夜から、上京して次女のところにステイしている。あっという間に3泊して、今日日曜日午後、ちょっと時間がとれたので、次女の住むマンションのリーディングルームで五十鈴川だよりを打っている。(明日からは長女のところにステイ、来週水曜日帰ります)

もうすぐ長女が息子と共にやってくるので長い文章は打てないが、ちょっとでも忘れない内になにがしかの文章を打ちたいのである。次女のはじめての子供は昨年夏コロナ下に生まれ、今も終息の見えないコロナ下、元気に一歳と一月を迎え成長している。

次女の住むマンションのリーディングルーム

長女の子供は4才と五ヶ月で、昨日夜約一月ぶりに、お父さんのふるさとのドレスデンですごし帰ってきたばかりなのだが、時差にもめげずやってくる。コロナ渦中であれ何であれ、時は流れ、私にとって宝のような二人の孫は、ぐんぐんぐんぐん成長し、その姿の眩しさは到底言葉では表し得ない。

つくづく想うのは、この年齢ならではの果報のようなひとときを、二人の孫は存分に私に与えてくれている。その事の喜びを、わずかではあれ五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。爺バカと言われようが、なんと言われようがかまわないのだ。爺ならではの喜びとでも言うしかない、じじにならなければけっして味わえない果福を二人の男の孫はもたらしてくれている。

あるところで、現代は家族氷河期のような時代を迎えているとの一文を目にしたことがある。果たしてそうなのであろうか。そういった面も多分に時代的にはあるのかもしれないが、私は家族を持てた喜びを、限りなく時代がどうであろうと、時間の許す限りその果福を、苦楽を、共に味わい、生きてゆく覚悟を古希の体に込めたいと願うのである。

幸い、古希前の大きな手術を乗り越えた私の体は、自制心がいたについたお陰で、以前にもましての健康体を取り戻しているの。これからは一年でも長く、心とからだのケアに腐心し、東京二家族の行く末を一年でも長く見守り、お爺の役割とはなにかを自分に問いかけながら過ごしたいと、思わずにはいられない。二人の孫は私のこれからの人生の足元を照らす存在である。

これ以上打つと、限りなく野暮になるので控えるが、以前も打ったのだが二人の義理の息子の素晴らしさは親バカとあきれられても、やはり打たずにはいられない。二人の娘の夫はデジタルに強い。私はまったく弱い。そのような私ではあるのだが、五十鈴川だよりを打つのを応援してくれる。このリーディングルームで五十鈴川だよりを心置きなく打てるように、あっという間にしてくれた。心強いという他ない。

(と、ここまで打って長女がやって来たので、きょうの五十鈴川だより、本日はこれにて)

2022-08-22

島田雅彦さんの新聞記事を切り抜き、時代の足音の不穏さに耳を澄まし、思案する朝。

 ぐっすり6時間以上寝たら目が覚めたので、起きた。普段は目が覚めても床のなかでお決まりのルーティンをごそごそとやってのち、基本的には5時頃起きるのだが、今朝はなぜなのかいつにもまして早起きした。自分にとっての大切な読書と、五十鈴川だよりはほとんど朝の時間帯にしかしない。

読めないと思いますが

そのような生活をもう10数年にわたって続けている。信じてもらえないかもしれないが、18歳まで、私は本当に自分でも嫌になるくらい、持続力がなく、根気がなく3日坊主を絵に書いたような男であったのである。特に世の中に出るまでは。

だがそのような私ではあったのだが、あれから半世紀以上、世の中にもまれもまれ、少しずつ体に根を伸ばすかのように、自省反省を繰り返しながら、時にふらふらになりながら、そのようなだらしない自分を、少しでも変えたくて、今もそのような心持ちで生きている、のだ。希望の根を張り、見つける運動をやめない。

極めて取り立てての才能なんてまるでない、繰り返すが自己嫌悪に陥るくらいダメな自分であったのだが、気がつけば一番苦手であった、読み書くということが、あれから半世紀以上たって、一番好きになってしまってかのようなあんばいには、自分でも驚いている。人間は一人一人自分で考え、自分で歩くほかに道はない(歩かないことには)。

本当に人間の可能性といったものはわからない。やるやらぬの持続力の違いで、未知なる自分が掘り起こされて来る、その事は自分が一番承知している。だから面白いのだ。うまくは言えないのだが、昨日とはどこか、微かに異なる自分が、新鮮な自分を生きているからこそ、臆面もなく五十鈴川だよりを打ち続けていられるのでは、とさえ思える。

早い話、自己満足であれ何であれ、演劇で学んだ一回生の人生を、いかに生きてゆくのかいかないのか、という永遠の問いを、今もだが、これまでも自分に問い続けたからこそ、ごく普通の凡ぷも多少の変化の果てにいまをいきていられる気がする。その事を謙虚に己に問うには、静けさに満ちた夜明け前の、起きたばかりの新鮮な体に問うのが、私の場合一番なのである。

話を変える。昨日新聞記事を以前にもまして、丁寧に読むようになってきたことを打ったが、作家の島田雅彦さんが、統一協会と政治家の癒着がらみの体たらくと、国葬についての是非について鋭い意見をのべられていて感心したのだが、そのような勇気のある作家がまだ日本に存在していることに関して、どこか私はほっとする。

炭鉱のカナリアではないが、文学者や詩人といった凡ぷには遠い感性の持ち主は、ごく普通の人間には感知できないようなセンサーを持って、私のような凡ぷに知らしめてくれる。島田さんは安部前総理がテロで撃たれ、亡くなることを、事前に予告でもしていたかのような作品をかかれていたらしい。(読んでみるつもりだ)関心のあるか方は、M新聞のワイド記事をネットで読んでほしい。

詳細は省くが、島田さんは時代の不穏さをひしひし、ヒタヒタと作家のセンサーで感じるという。だが私が一番納得したのは、自分が感じる時代の不穏さが現実にならないように、との思いを込めて作品を書いている、とのべられていたことである。まったくこのような作家がいることに、私はどこかほっとする。理不尽なことや、どうもおかしいと感じるようなことに関して、勇気を持って語られる感性に脱帽する。ウクライナでの戦争、勃発から半年。核施設に変事が起きたら、と想うと凡ぷの私でさえ、いたたまれない。


2022-08-21

お休みのかなりの時間を、新聞を読み(ひとつでも切り抜く)本を読み、自在に一人時間を楽しむ。

 コロナの感染の広がりがピークアウトしないなか、決まりきったかのようなルーティン生活を続けながら、静かな暮らし、(どこか隠者にでもなったかのような)を不思議とどこかで楽しめている。甲子園に出掛けたりと、まあ、突発的な行動もやりながらではあるとはいえ、月曜日から金曜日までは、ほぼにたような行動半径から、逸脱しない暮らし、限りなくお金に頼らなくても、ほどよい気持ちのよい自由感のある生活にどこか満足している。

もうなにも要らない、自足できているなあ、と感じる。見渡せば、世界は数限りない大変さに悲鳴をあげているかのような報道洪水だが、木偶の坊初老凡ぷは小さなサンショウウオのように、じっと暮らすのである。でもどこかで、微かに耳を澄ませながら。

映像も、ユーチューブやネットフリックスを、自在に空いた時間に気分転換に見るくらいで、従来のテレビ番組はほとんど見なくなって久しい。古希を過ぎて想うことは、これまでとは違う時間を自在に生きたいとおもうのだ。一番やりたいことは、これまで読もうと思っても中々手にしなかった文学作品や、今現在の自分にとって刺激をもらえ、なおかつこれからの人生に有用な書物をよみたいと強くおもう。

音読は10年近くやったので、やめるわけではないが、書物を読む時間を大事にしたいのだ。やはり知ることは楽しく、よき書物に出合えたあとは何やら気分が変わる。一冊書き上げるのに、何年もかけている書物がある。あだやおろそかには読めないのだ。

まさに書物は、想像の旅、未知との出会い、異国の人間との出会える喜びをを精神にもたらしてくれるご褒美、贅沢きわまりない果実である。だが、あくまで日々を精一杯生きる生活者の視点を、逸脱するような読書ではなく、未知の国の異国の作家の本と、日本の作家の本を読みたい。もう元気に本が読めくる時間は限られているのだから、老人生活に勇気と潤いを与えてくれるような、文学作品に巡り会えたらと、でくの坊妄想老人は想うのである。

世に言う名作でも、響くものがなければ読まない。チェーホフのすぐ読める短編や、くめどもつきせぬ人間のいとおしさ、ちぐはぐさ、滑稽さを激動する時代のなかで書かれた、カモメや3人姉妹、桜の園などの名作は、多分繰り返し何度でも手にするだろう。

話は変わるが、コロナ渦中生活で、以前にもまして、新聞をよく読むようになってきた。以前よりもきちんと丁寧に読むようになってきた、という自覚がある。

新聞をよく読むようになってきたとはいっても、もう大体私の読むところはほとんど決まっている。だが、決まりきったところばかりを読むとはいっても、署名入りの記者の書いた記事とかに、今の自分が感応するのかしないのか、だんだん木偶のぼう化しつつある肉体のセンサーに、どこかしら油を指すような感じで、面白い刺激をいただける記事を、ましてこの暑い夏、がまの油のように汗を流しながら、探し見つけるのである。

ひとつでもいいからなにか見つけたい

これが木偶の坊の暑さ対策と、この夏を過ごしているのである。肉体労働をするにせよ、家の掃除をするにせよ、簡単な調理、片付けをするにせよ、本を読むにせよ、五十鈴川だよりを打つにせよ、要は生きているからこその、日々の成せる人の未知(道)と思えば、何かしらが面白く楽しめるのだ。このような言葉遊び的な戯れ言を打てるのも、体が元気だからである。

とここで、急に話は変わるが、来週末から8月の終わりにかけて、久しぶりに東京家族に会いに上京することにした。理屈抜き・旅の血騒ぐ・古希男、である。

2022-08-20

【お盆過ぎ・雲の流れに・ものおもい】の五十鈴川だより。

 お盆を過ぎ、気持ち涼しくなり、夜明けも日々遅くなってきた。油断はできないとはいえ、古希の体でこの酷暑の夏を、午前中だけとはいえ肉体労働で、幾ばくかのというか、私にとっては、やりがいのある仕事で、実入りがあるというのはありがたくも嬉しいことである。

特にこの3年間、もしも肉体労働バイトがなかったら、きっとうつうつとした老人生活を余儀なくされていたかもしれない。ことほど作用に、この年齢でも、自分で言うのもなんだが、やっていると生き生きしてくる仕事があるということが、どれ程私の現在に潤いを与えてくれているのかは、自分が一番承知している。

そしてお休みの朝、五十鈴川だよりを打てるという、なんたる自己肯定満足感はいったいどこから来るのであろうか。このようなことを打つと、きっと嫌みなやつと思われるご仁もいるのではとは想うのだが、もう古希を過ぎた老人の呟きだとご寛恕願いたい。

文学の力にすがる古希の夏

自分で自分を大切にし、自分を愛せないものが他者を愛せるであろうか、といつも私は思案する。正直に打つ。この半世紀、そして今もだが、私は世間というか、この世の流れ、趨勢というものに、どこかしら懐疑的に生きている。極めて個人的に由来する性格を、自認している。

だがある日突然、37歳の時我が人生にそんなことはいっていられない劇的出来事が起こったのである。娘が生まれたからである。この時を境にきっと私のなかでなにかが劇的に変わったのである。虚無だ懐疑だなどと言っていられなくなったのである。娘の存在は頭でっかちの私を吹き飛ばしたのである。

有り体に言えば、ただただせめて二十歳まで育てねば大変なことになると思ったのである。さっさと転向した私、虚無的懐疑的自分とはおさらばしたのである。(その後行き詰まると私は今も無節操に転向している)人生ではじめて心からの希望のようなものが沸々と沸き上がって来たことを、私はいまだ、ついこの間の出来事であるかのように思い出すことができる。

あれから今日までひたすら自己満足的に、自己肯定的に自分をまずは大事にいきるということを第一義的にいきるように勤めている。そのような私の勝手な思い込みをまったく別にして、親バカ丸出しだが、娘はすくすくと育ち、先日33歳になり、彼女の息子は4才になった。

もう臆面もなく、これからは打てるときに思い付くあれやこれやを即興的に打つ。世の趨勢がどうであろうと、一寸先何が起こるのかわからない不確かな極まる時だとはいえ、(いやだからこそよけいに)せめて自分の手の届く範囲は、責任、希望を持って生活したいといういわば幻想のようなものを古希を迎えてなお、ふかまる私なのである。

そして、身近な大事な他者との繋がりこそが、私の世界のすべてではあるものの、いまだ言葉を交わしたことのないこの世に存在する無数の他者との繋がりも、どこかで想像力の羽を広げ、妄想老人は今をいきるのである。(他者の存在あってのおのれなのである)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

2022-08-17

母校冨島高校の先輩に甲子園で出会え、五十鈴川だよりにコメントをいただき、そして想う。

 五十鈴川だよりにコメントをいただくことは少ないので、返信を五十鈴川だよりで打たせていただく。このようなわがままな自在力でこれからはますます唯我独尊的とりとめなき五十鈴川だよりになってゆくのでは、という気がする。

やがては打てなくなる日が来る、当たり前だ。だがとりあえず10年は打ち続け、その事でどこか自己満足感はあるので、今後はいつなんどき思いもかけない事情で打てなくなっても悔いのないように、とは思って入る。だが今は打てる自分を毎日ではなくとも更新したい。

さて話を戻すが、いただいた珍しきコメントは先日甲子園でお会いした母校の一年先輩の女性からであった。ただありがたいというしかない。おいおい綴ることもあるかもしれないが、私が冨島高校に通ったのは高校2年生からである。最初の一年間は都城にある泉が丘高等学校である。転校したのである。

数十年前、タイで求めた一品

父が教師であったので、小学校6年生の時に高千穂の近く、日之影の炭鉱町美々地小学校(今は廃校になっている)を皮切りに、中学校は高城町立四家中学校(今は廃校になっている)に転校、3回目の転校のはてに、生まれた町の近くの冨島高校を、私は卒業したのである。

多感な季節に、炭鉱町や、僻地の小さな中学校、いきなり都城の大きな高校に入学、そして冨島高校に転校した。12才から18才までのこの間の出来事が、その後の人生を決定づけたといえる。

転校した冨島高校で、演劇部に誘われて入部したことが、今となってみれば、その後の紆余曲折人生の始まりではあったのだ。結果、なんとかこの年までいきることができたのは、演劇を学ぶことで、いかに生きて行けばいいのかの、オーバーに言えば哲学を学べたからこそ、今をいきられているという深い自覚があるのである。

止まれ、このようなことを綴り始めたら止めどなく打たねばならないので、大胆にはしょるが、冨島高校での2年間が私の青春期の黄金の時間であったことを、今熱く思い出すのである。泉が丘高校と違って冨島高校はどこかのんびりしていた。(お恥ずかしきこの間の青春の光と影、今となってはただただ懐かしい)

生来落ち着きがなく、遊び呆けて、勉強という事をまるでしていなかった、当時の私であったので、テストの成績が校舎の壁に張り出され、万座に知られると、自分の成績の悪さに、どこか呆然としながらも、勉強していないのだから仕方ないと、開き直りではなく好きな映画館がよいや、音楽を聴くことにうつつを抜かしていたのである。

そんな私が、その後の人生の荒波で体験した艱難辛苦(ちょっとオーバーだが)を、よくぞ生き延びられたのは、時代の運と人に助けられたからだというしかない。そして、少しの自助努力(演劇が劇的創造力を私に遅蒔きながら与えてくれ、学ぶことの楽しさや、生きてゆく想像力を与えてくれたからである)もしも演劇部に入らず、わずかではあれ古今東西の哲学や演劇作品に触れることがなかったら、なんとも潤いのない無味乾燥な人生を今も送っているのではないかと、おもう。

とまあ、このようなことを打ち綴ればきりがないのでだが、冨島高校の一年先輩のTさんに甲子園で出会い、五十鈴川だよりを読んでいただき、コメントをいただけるなんて。ありがたきこと、というほかはない。この場を借りて深く感謝します。

Tさんとのご縁を機会に、私は同年代の、あまりに疎遠になってしまったとはいえ、失われし時を埋めるべく、旧交を取り戻し、あの頃(映画館あった場所、レコード屋さんがあった場所など)を知っている人たちと再会したいと思わずにはいられないのである。

Tさんコメントありがとうございました。劇的に甲子園で出会えたことに感謝し、お話ししたく、時間をつくって神戸に行きたいと、念(かんが)えています。

2022-08-13

お盆の季節、古希の今をいきるおもいを、ちょっと打ち綴り、考える朝。

 甲子園でふるさとの人たちの姿をたくさん見て、いささか普段にもまして望郷の念が深まり、ましてお盆の季節であり、古希男はセンチメントな朝の気分で、五十鈴川だよりに向かっている。一昨日の夜、甲子園から帰ってきたばかりで、打った五十鈴川だよりを読み返していたら、お休みだし、なにか打ちたくなるのだから、私にとっては五十鈴川だよりは、いまや今をいきる必須アイテムである。

古希の宝物

今日は義理の父のお墓参りである。母校が甲子園に出なかったら、私は今ごろふるさとに帰省していたかもしれない。日を改めることにしたのである。あれもこれもは同時にはできない。なにかをやったらほかの事はできないのだ。

オーバーではなくコロナとウクライナでの、いまもやまない、不毛という他言葉のない戦争は、古希男に今日一日をいかに過ごすのかを考えさせる。古希の夏、何かの変容が我が身に起こってしまったように感じている。命の重さ、ありがたさ、何てことのない日常が、実は奇跡とでも呼ぶしかにないほどに、ワンダフルワールドであるとの気付きの深まりを感じるのである。

若い頃は、損得利害の現世的な縛りのなかを右往左往と息せっきって、がむしゃらに生きてきたし、またそれで結果的にはよかったのであるが、今はまったく現世的な世界とは、できる限り距離をおいて生きてゆきたいとの思いが、ますます深まるのである。これが、私にとっての老いであるとしたら、その内なる自分の正直なおもいに身を委ねようとおもうのである。

要は自然に自在に気のおもむくままにありたいのである。風の囁きのように、吹かれ吹かれて行き着くところに赴きたいのである。還暦から10年、なんとか古希の年齢まで生きてこれた。この間の10年、まったく悔いなしである。世間では長寿、100年社会などとかまびすしいが、とんとそういったことには関心がない。

幻想に思いを馳せ今をいきる

いかに今を生きて行けばいいのか、いけないのかを、五十鈴川だよりを打ちながら、体と心に相談しながら、気持ちが上向くことしか関心がないのである。若いときには無理することが気持ちよかった。いまはまったく逆である。

疲れたら横になる。一昨日の疲れがあったから、昨夜は8時間以上眠った。お陰で気分爽快で五十鈴川だよりが打てる。よく休んだ脳でないと、五十鈴川だよりは打てない。話は飛ぶが、自分とは何かを問うのが哲学だとすれば、大昔からそのようなことを考える世に言う大家が、いろんな国の、そこかしこにいたからこそ、哲学なる分野、芸術文化等が生まれ、いまもまたその答えのない答えを求めてやまない、多くの人間が存在しているのだろう、とまあ凡夫はおもうのである。

朝からとりとめなき五十鈴川だよりになってしまったが、仕方がない、これもまた老いの為せるなにかだとおもうことにする。老いとは、各人各様老いてみないとわからない世界がきっとあるのだとおもう。老いをただ単に美化したりするのではなく、自分にやって来つつある当たり前の自然の老いを、真っ正面からいかに可能な限り見つめられるのか、見つめられないのかを、我が五十鈴川だよりで綴り打ちながら、思考するのが、いまは一番関心があるのだ。

私というえ命の発露は、大いなる宇宙的時の流れ、摂理のなか、どこからか与えられたものである。100年などというちゃちな時間ではないのだ。私はどこからやって来て、どこへ向かうのかを考え続けた、あまたの勇気ある先人たちに倣って、小さき替えのきかない私の命を、いかに生きて行けばいいのかを、考えるのが暑さ対策、私が今在ると言うことなのである。

2022-08-11

我が母校県立冨島高校、甲子園二度目の出場、応援にいってきて帰ったばかりで打つ五十鈴川だより。

 我が母校宮崎県立冨島高校が二度目の夏の甲子園に今日の第四試合に出場したので、応援に出掛け、帰ってきたばかりでシャワーを浴び、五十鈴川だよりを打つ。夕飯もまだなのだが、夕飯を食べたら、打てなくなるだろうから。

試合が終わる頃の甲子園の空

空きっ腹と、心地よい疲れがあいまって、きっととりとめなき五十鈴川だよりになるだろうが、もうそんなことはどうでもいいから、私にとっての極めて長い暑い一日の、熱い古希男のおもいをわずかであれ打ち綴りたいのである。

創部以来、我が母校が甲子園の春の大会に出るという連絡を、3年前兄から受けたときには、正直耳を疑ったのだが、事実だった。3年前と言えばまだ私は手術をする前で、元気であったし、コロナもなかったし、出掛けたこともなかった甲子園にはじめて私は出掛け、スタンドから応援した。(3年前五十鈴川だよりを打っているはずである)

あれから3年、今度は夏の甲子園である。からだが動くのだから、もちろん出掛けた。我が青春に悔いなしという黒沢明監督の素晴らしい映画があるが、若き日にその映画見て、単細胞の私は多大な影響を受け、白黒映画の原節子さんの美しさに、魅いられたことが忘れられない。

あれから半世紀も時は流れ、孫にも恵まれいいおじいさんの私なのだが、心の片隅に未だあの頃の、御しがたい天の邪鬼が棲んでいて、我が老人生活に悔いなし、でゆくのだという、血気盛んにはほど遠いのだが、まあそういう自分が未だ存在していて、クーラーの部屋で応援するのはじいさんのやること、十分に動けるのだから、酷暑のなか出掛けたのである。(熱中症にはならない自信があったのだ)

時間というものは不思議である。早起きの私はもうそう当の時間休んでいない。神戸についたのがお昼過ぎ、三宮で焼き肉のランチを食べ、美味しいコーヒーを飲み、15時に甲子園についた。内野席は売り切れ、仕方なく外野入り口に向かう。途中3塁側入口に母校の選手や父兄関係者、応援団ほかの姿が目にはいったので、半世紀前の卒業生であると名乗り、岡山から応援に来たと名のったら、皆が一気に顔が緩み喜んでくれたのには、こちらが恐縮したが、着いてそうそうふるさと人たちに会えたことで、来てよかったとの思いが込み上げてきた。

午後3時50分試合開始。高校卒業以来(3年前も聞いた)52年ぶりに聴いた校歌は古希男の奥深いところを揺さぶり、高校時代のあれやこれやの思い出が稲妻のように思い出された。青春の光と影という歌があるが、まさに人生は光と影が綾をなして、光陰矢の如し、非情残酷理不尽に過ぎてゆくのである。だがだがである。母校が甲子園に出るなんて事は、私にとっては奇跡と言えるほどに十二分な出来事なのである。

試合開始から終わるまで、時のたつのを忘れて冨島高校の後輩たちの姿を追い、青春まっ盛りが放つ輝きに、古希男は何度も感謝の言葉を胸のうちで唱えていた。18才までを過ごしたかけがえのない我がふるさと、古希の節目を祝ってくれるかのような、母校の快挙。辛いことが多いのが人生だと、私もおもうが生きていたからこそ、母校の快挙にも立ち会えたのだ。

素晴らしい後輩たちの清々しさに古希男は打たれた。球場の外に出ると敗れたので、ふるさとに帰るバスを待つ応援団や関係者の姿が、またもや目にはいった。私は応援団の高校生や、後輩の野球部員、冨島高校のマークは目にはいったので、誰彼となく感謝の言葉をかけた。

そのとき一人の私よりひとつ年上のよく知る母校の近くの港町出身の女性とたまたま言葉を交わすことがあり、名刺をいただいた。名刺をよく見る、今は神戸の灘にお住まいのかたであった。ふるさとを離れて半世紀、彼女も私と同じような思いで、甲子園に駆けつけたのであろう。きっとそのような想いの同世代がたくさん駆けつけていたのだろう。だがそのような同世代の一人の女性に出会えたこと、犬も歩けば棒に、(失礼)あたるをいまも信じている私としては、慶賀である。動く、動けること、甲子園球児の姿を見ることができることこそが平和である。その事を噛み締めながら、夕闇迫る甲子園球場をあとにした。

2022-08-07

酷暑のなか、出会って45年K氏との緣への感謝を綴らずにはいられない、朝。

 K氏のことは、五十鈴川だよりを打ちはじめてから何回か打っているとおもう。26才の時に、ロンドンのアールスコートのユースホステルで出会って以来の仲だから、45年の付き合いである。一口に45年、この年になるとやはりある種のいわく言いがたい感慨にとらわれる。

何度読んでも感動する

年はいくぶんとったという気はするものの、未だ今をふうふういいながら生きている私としては、過去を振りかえっておじいさんぽい感傷に耽るのは、いささか面映ゆいという感じもするのだが、そうそう五十鈴川だよりで落ち着いてK氏のことに触れる機会もないのだから、思いついた時に打っておこう。

おおよそ半世紀近く、関係性が切れることなく続いているということの、まるで奇跡的な事実に私はどこかであきれつつも感動し、何故氏との関係性が持続しているのかは、自分でも謎のようにわからないというのが、正直なところなのである。でもそれでいいのである。まっさらで利害がまったくなく会っていて疲れない仲なのである。

K氏は私より二つほど若いが、ほぼ同世代である。生まれは東京の江古田と記憶する。まったくの都会っ子であり、田舎者丸出し宮崎の山猿育ちである私との緣に、私は不思議なおもいに誘われるが、関係性は歳を重ねるにしたがって、言うに言えぬ微妙な深まりを感じるのである。

45年の歳月、あざなえる禍福が流れた。何度も関係性が切れても不思議ではない事態が訪れたのは事実だが、復縁力とでも言うしかない運命的な力が作用して今に至っている。分析したりする能力が私には欠如しているし、今となっては若いときからの私の無謀とも言える生き方を知る、数少ない友人として大切に存在していてほしいと、願うばかりである。

この春、10年ぶりに企画が叶ったのもK氏の存在が大きかったのは、私が一番わかっている。何かを企画するときにはいろんな事を考えなければならない。K氏の揺るがない私に対する応援力なくしては、ああもスムースに事は進まなかっただろうと想う。勇気や、やる気は大切な存在無くしてはけっしてうまれないのである。

おたがい孫を持つ年齢となり、その関係性は一段と風雅な趣を見せ始めたようにさえ最近は感じ始めている。それほどにまで、若い頃とは異なるいい感じの力の抜けた関係性が育まれていることへの感謝は例えようもない。

最近は、ラインでのやり取りが多いのだが、新聞記事をよく送ってくれるK氏である。心が動くから記事が目にはいる。送ってもらえ記事を共有できる、幸福である。新聞をよく読んでいないと、ああはまめに送れない。他者の痛みに敏感である。お互い若いときよりもずっと。だから、関係性がふかまるのである。中村先生に関する記事なども含め、どこかに自分のなかにも、琴線に触れる心がゆさぶられることがあるからこそ、新聞記事を送ってくれるのだろう、と想う。この酷暑のなかメールのやり取り、涼やかな風が私の体のなかを吹き抜ける。このような私利私欲のない、どこかいつまでも純で子供っぽい友人が存在していることへの感謝を、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

人は生涯に家族友人知人含め、何人のかけがえのない人と巡り会えるのであろうか。K氏は間違いなく私が今までの人生で出会えたその中の一人である。【歳月に・おもいをはせる・酷暑かな】



2022-08-06

8月最初の五十鈴川だより、広島に原爆が突然落とされた日の朝に想う。

深緑野分著ベルリンは晴れているか

 酷暑というしかない暑さのなか、なんとか5日間肉体労働ができて、休日の朝、八月はじめての五十鈴川だよりが打てる喜びを噛み締める、あさである。

今日は広島に人類初の原子爆弾がおとされた日である。敗戦から77年目の夏である。アメリカの占領政策が終わり、再び独立国家となった年に生まれた私は、その後70年間を生きている。

真夏の暑さの午前中に途方もない破壊力の、放射せんの熱波を浴びた人々の地獄絵を想像すると、、、。五十鈴川だよりではほとんど核のことには触れていないが、被爆者の高齢化、そして自分自身が高齢化するにしたがって、考えるようになってきている。

アメリカロシアだけで1万数千発、第二次大戦後、核保有国は増え続ける。核の抑止力ということばがあまりにむなしい。北朝鮮からの核の脅しは、私の思考が麻痺するほどに、頻繁に報道されている。それにともない迎撃ミサイルの購入他、我が国の軍事予算は気が遠くなるほどに、増え続ける。特にウクライナでの戦争が始まってからというもの、各国が軍事予算を増やしている。ロシアは核でウクライナに脅しをかけている。人類は懲りない、が五十鈴川だよりを打てる間は発言したい。麻痺してはならないのだ。

朝から、このような五十鈴川だよりになろうとは、思いもしなかったが、命というものはかけがえがない、したがってその命を一瞬にして奪い、憎悪と報復の連鎖、この世を地獄とかしてしまう、あらゆる戦争(戦争に限らないが)にたいして、五十鈴川だよりを打つ私としては、どのような大義名分があろうとも、ノーの声をあげ続ける覚悟である。平和は必死に守らなければあっという間に消え去る。

戦争のおぞましさを全く知らない、平和な時代を生きてこられたものの一人として、人間と人間が殺し会う戦争だけは、してはならない。そういう意味で憲法9条は、命の重さを噛み締め守らなければとの側に私は立つ。

核拡散防止条約会議の報道、一方で生き地獄とかしたかのようなウクライナで頻発する、無惨というしかない切り取られ編集された繰り返し映像報道、麻痺しないためにも私はほとんどきちんと正視しない。加害者も視点を変えれば被害者である。いつも想うことは、戦争に勝者はいないということである。それと命はかけがえがないということ、その二つ。私が古希まで生きてこられて学んだことである。声高に叫ぶ必要はない。足元の自分の大切な家族の生活、自分の命を日々守りながら、他者の痛み命にも思いを馳せる感覚を失いたくはない。

戦争と平和、自分と家族の命を日々養い、生きてゆくだけでもほとんどの人間は手一杯のはずである。映像で目にする武器の映像の発射の繰り返しを見るたびに、人間という生き物の怪物性の一面に、古希男の私は今だどこかがざわつく。一体だれがどこでこのような恐ろしいというしかにない兵器をつくっているのだろうか。

軍需産業の実態はまったくといっていいほど報道されない。世界は日々報道されない真実で埋め尽くされているように、古希男は感じている。見えない世界にこそ耳をそばだてる胆力を養わないとまずい。だから一方的な一面報道を私はどこかで警戒する。ざわつく間はむなしいことばを打ち、木偶の坊であれ平凡な有り難さを見失わないようにしなければと、命の不思議に思いを馳せ、お金では買えない豊かさを生きるための方途を、暑さ対策とするのである。