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2022-08-21

お休みのかなりの時間を、新聞を読み(ひとつでも切り抜く)本を読み、自在に一人時間を楽しむ。

 コロナの感染の広がりがピークアウトしないなか、決まりきったかのようなルーティン生活を続けながら、静かな暮らし、(どこか隠者にでもなったかのような)を不思議とどこかで楽しめている。甲子園に出掛けたりと、まあ、突発的な行動もやりながらではあるとはいえ、月曜日から金曜日までは、ほぼにたような行動半径から、逸脱しない暮らし、限りなくお金に頼らなくても、ほどよい気持ちのよい自由感のある生活にどこか満足している。

もうなにも要らない、自足できているなあ、と感じる。見渡せば、世界は数限りない大変さに悲鳴をあげているかのような報道洪水だが、木偶の坊初老凡ぷは小さなサンショウウオのように、じっと暮らすのである。でもどこかで、微かに耳を澄ませながら。

映像も、ユーチューブやネットフリックスを、自在に空いた時間に気分転換に見るくらいで、従来のテレビ番組はほとんど見なくなって久しい。古希を過ぎて想うことは、これまでとは違う時間を自在に生きたいとおもうのだ。一番やりたいことは、これまで読もうと思っても中々手にしなかった文学作品や、今現在の自分にとって刺激をもらえ、なおかつこれからの人生に有用な書物をよみたいと強くおもう。

音読は10年近くやったので、やめるわけではないが、書物を読む時間を大事にしたいのだ。やはり知ることは楽しく、よき書物に出合えたあとは何やら気分が変わる。一冊書き上げるのに、何年もかけている書物がある。あだやおろそかには読めないのだ。

まさに書物は、想像の旅、未知との出会い、異国の人間との出会える喜びをを精神にもたらしてくれるご褒美、贅沢きわまりない果実である。だが、あくまで日々を精一杯生きる生活者の視点を、逸脱するような読書ではなく、未知の国の異国の作家の本と、日本の作家の本を読みたい。もう元気に本が読めくる時間は限られているのだから、老人生活に勇気と潤いを与えてくれるような、文学作品に巡り会えたらと、でくの坊妄想老人は想うのである。

世に言う名作でも、響くものがなければ読まない。チェーホフのすぐ読める短編や、くめどもつきせぬ人間のいとおしさ、ちぐはぐさ、滑稽さを激動する時代のなかで書かれた、カモメや3人姉妹、桜の園などの名作は、多分繰り返し何度でも手にするだろう。

話は変わるが、コロナ渦中生活で、以前にもまして、新聞をよく読むようになってきた。以前よりもきちんと丁寧に読むようになってきた、という自覚がある。

新聞をよく読むようになってきたとはいっても、もう大体私の読むところはほとんど決まっている。だが、決まりきったところばかりを読むとはいっても、署名入りの記者の書いた記事とかに、今の自分が感応するのかしないのか、だんだん木偶のぼう化しつつある肉体のセンサーに、どこかしら油を指すような感じで、面白い刺激をいただける記事を、ましてこの暑い夏、がまの油のように汗を流しながら、探し見つけるのである。

ひとつでもいいからなにか見つけたい

これが木偶の坊の暑さ対策と、この夏を過ごしているのである。肉体労働をするにせよ、家の掃除をするにせよ、簡単な調理、片付けをするにせよ、本を読むにせよ、五十鈴川だよりを打つにせよ、要は生きているからこその、日々の成せる人の未知(道)と思えば、何かしらが面白く楽しめるのだ。このような言葉遊び的な戯れ言を打てるのも、体が元気だからである。

とここで、急に話は変わるが、来週末から8月の終わりにかけて、久しぶりに東京家族に会いに上京することにした。理屈抜き・旅の血騒ぐ・古希男、である。

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