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2015-07-27

おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな(芭蕉)

汽車が動くまで時間があるので、まだ暗き早朝何やらつづりたくなりました。遠野に行くのは2回目、歳を忘れ何やらやはりうれしいのか、いつにもまして早く目覚め、昨夜の残り湯を浴びてさっぱりいい気分の私です。

何よりもまだ涼しいのがこたえられません。30度を超えたら、やはり文章を書くなんてことはなかなかに難しく、そういう気分になりません。私は根っからの自然児的感覚が抜けきらないので、冷房が長時間続く部屋にはいられませんし、あの冷房の音も苦手です。

いま網戸を通して涼風が入ってきますが、なんとも気持ちがいい。夏の朝の数時間はまさに私にとってささやか思考には、最高の時間帯なのです。

猫の花がそばにいてウロチョロしています。こういう何気ないひと時が、いわば平和をかみしめる、ささやかいっときタイムというわけです。

落ち着いた気分の時にだけ、両親の遺影にお線香を手向けます。もうすぐ、8月6日がやってきます。

歳とともに、広島の被爆に対しても、あの戦争の実態についても、学ぶことが増えてきました。うだるような暑さの中に落とされた人類初の核爆弾を受けた国の一人の戦後派世代の一人として、学校で教わらなかったことを、自分で学ぶ。

自省自戒を込めて、可能な限り弱者の視点で 物事をおもんぱかる想像力が人間にはもっとも必要だと思えます。

高校生の頃知った言葉で、【人は人に生まれるのではなく人になるのだ】という言葉。それほどにヒトは間違いを犯し、精神を病みやすく、壊れやすい生物ということかもしれません。

話は変わり、私が大好きなシェイクスピア作品に【間違いの喜劇】という、一番最初に書かれたとも言われている作品があるのですが、ことほど左様にヒトは限りなく間違いを犯しながらも、生き延びながら、進化もしくは退化しつつあるのかもしれない、と。

旅に出かける前の朝ブログにしては、何やら重い話になってきましたので、やめますが、中島義道さんという哲学者の書かれた、【哲学者というならず者がいる】という本も読書旅に持参することにしました。

簡単に読める本から、ちょっと手ごわい本まで6冊の本が旅のお供です。読み切れなくてもちっとも構わないのです。数冊交互に時間帯によって変えて読んでゆくのが私の読書スタイルです。

読書とは言葉との出会い、優れた思考の持ち主の言葉は私の軟な精神を磨いて鍛えてくれるような気がします。だからなのだとおもいます私が本にしがみつくのは。

思わぬ言葉に出会ったときは、思わず書き抜きたくなります。先日も井上ひさしさんに関する本【言葉の魔術師井上ひさし】を読んでいたら、(困難は分割する) なんてことを昔の人がすでに述べていまして、すぐ頭に残りました。

腑に落ちるいい言葉は、私の心と体に深く染み入って、定着するのです。だから私は繰り返しシェイクスピア作品を読むのだと思います。

果たして、63歳夏休みの旅は、本、人、もの、と、どのような出会いが あるのかないのか。

おもしろうてやがてかなしきこのよかな(盗作です)。行ってきます。


2015-07-26

夏休みの旅・命と自由について想像し、考える。

明日か老春旅に出かけますから、五十鈴川だよりは次回まで、夏休みといたします。

五十鈴川だよりを読んでくださる方々、心より暑中お見舞い申し上げます。昨日あたりから、蝉のなぎ声も本格的になり、何やら少しほっとしている私です。

が、この夏の暑さと紫外線は、若い時と違ってさすがにこたえます。というわけで私の暑さ対策。とにかく、涼しい時間帯に動き働き、ブログも書き、夜は とにかく早めに休む。

午後から夕方までは努めて出歩かず、涼しい場所でのらりくらりと過ごす、猫のように。こうやって私はこの数年の夏を過ごしています。

それと、以前も書きましたがまめに水を浴びる。家の中の風の通り道でのお昼寝など、あれやこれやの対策で、なるべく元気を保てる工夫を私なりにしています。

とはいうものの、生来の怠け者のはずなのに、歳を重ねるにしたがって、若い頃の自分をキリスト教徒でもないのに、懺悔するかのように、真面目になってきているような自分がいまして(おこがましくてすみません)、絶対矛盾を生きる私です。

さて、昨日デモには参加できなかったのですが、岡山弁護士会が主催する、安全保障法案に反対するとT新聞の記者方の講演会を午後聴きに出かけました 。

詳細は割愛しますが、一言出かけてよかったです。メディアでは伝えられていないお話をたくさん聞くことができました。とにかく知らないとまずいですね。国民をなめてもらっては困ります。

彼の話は、かなりの事実、真実に近いと私は受け止めました。この法案が決まったらとり返しがつかないような、のっぴきならない時代がやってくる可能性が高まります。ここは何としても、ストップをかけないと、と私は個人レベルで考えます。

当たり前にできていたことが、当たり前ではなくなる風通しの悪い時代が足音を立ててやってくるような、嫌な予感がします。

決まってしまったら、あとはずるずる大きな渦となって、誰もが口をつぐむようなご時世の到来は、五十鈴川だよりは承服できません。

私の杞憂が杞憂で終わるのを私は望みます。何より私たちの世代は自分の家族、未来の人たちのためにも責任があります。

自分の問題として、きちんと学び発言行動してゆく責務があると私は考えます。明日から旅に出ますが、この法案の行く末には、アンテナをはり続けたく思っています。

物申したり、ものを考えたりする自由は、かけがえのないものです。そしてその自由は、命あってのものです。

2015-07-25

夏休みの旅が近づく前に思う、朝ブログ。

60歳の誕生日は、遠野のボランティアセンター出迎えたことは、五十鈴川だよりで書いているが、あれから3年半が過ぎた。あの時の体験は、私の中の何かを壊した。(かけがえのない命について深く考えるようになった)

わずか2日間ではあったが大槌町で、瓦礫の撤去作業をした際の記憶は鮮明である。あそこは今どうなっているのか、いつか再び訪ねたいと思い続けていたが、漸くそれが今回の旅でかなう。

あの時ともに撤去作業をした、山形の方で、当時は盛岡で働いていたKさんとは音信が続いていて、その方と花巻で待ち合わせ、一日我々が作業をした現場を訪ねる約束になっている。

貧乏旅だが6日間の時間があるので、可能な限り在来線やバスを使い、新幹線はいざというときにだけという旅である。

名所旧跡はほとんどゆく予定はない。いずれもっと歳を重ね妻が仕事を辞めたらともに行けるまでの楽しみとしたい。

今はまだまだ、私にそのような余裕はないし、そのような旅をしたいとも思わない。大槌町を訪ね、K氏と旧交を温めるのが大きな目的。あとは在来線からゆったりと日本列島の景観を眺めながらの、読書と昼寝旅が、私の望む夏休みの旅である。

せっかちな私であるが、せわしない旅は苦手である。時は金なり、私にとってはなんともはや贅沢な旅なのである。

若き日シベリア鉄道に一週間揺られ世界の広さを体感した経験も大きい。長時間の汽車の旅が私は大好きである。早いということがすべてに優先する 世の流れではあるが、ちょっと待ってほしい。

時間とは何か?などとことさらに難しく考える必要もないが、ゆったりとした時間を持つ旅を、年に数回はできるような人生を送りたいものだと、私個人は考える。

身体はアナログである。デジタルの波に飲み込まれそうな世の趨勢には、私は取り残されても構わない。頑固という意味ではなく、自分にとって気持ちのいい居場所で呼吸できることをこそ、私は望む。

幸い体がゆっくりとしか動かなくなってきているので、ただただ私もゆっくりと亀のように生き、旅もまたかくありたいのだ。貧しさを豊かに生きる知恵が先人たちの生き方には詰まっているのを、有難く私は知る。

ノートと本をもっての、見知らぬ土地で、今体感できる夏のこの世を愛でる 気まま旅。時折日常生活を脱線し、今を生きる自由を満喫したいと思う。

そして旅の帰りは先日参加した、国会議事堂前に再び立ち寄り、ひと声放ち、参加されている方々と連帯したいと考えている。あの時冷えた体にしみた大井町の餃子屋さんにもゆけたら行きたい私だ。

2015-07-24

参議院での安全保障法案の審議を前に、ささやかに思う。

いよいよ来週から安全保障法案の参議院での審議が始まる。まだまだ廃案になる可能性はあるのだから、庶民の一人としての声をつたなきブログではあれ、述べずにはいられない。

自戒を込めて、ただ単に熱に浮かれて反対するのではなく、自分自身中身についてきちんと学びながら、いろいろな方の意見に耳を傾けながら、自分なりの考えを整理する力をつけないといけないと、自省する。

東芝問題も、新国立競技場問題も、いじめの学校問題も、あちらこちららで噴き出すあまりのというしかないくらいに、なんとまあ、無責任 、他人任せに我々は暮らしていることか?と、批判をのべることはたやすい。

がそれは自分の内にも潜んでいるのではないのかという、自分を問う懐疑的感覚を持っている人が、どれだけいるだろうか。他者を鏡として自己点検する。

私も含めて、今まで安易に時代に流され、考える力を蓄えてこなかった付けが、今わの際の、戦後70年の節目に噴き出てきているのではないかという認識を私は持っている。

デモに行くことであれ、自分の考えを 述べる、意思表示をするということは、大人としての責任を持つということである。覚悟が問われるということである。

訳知り顔に評論家的になる愚は避けたい。そんな暇があれば、虚心に学ぶ、知ることが今ほど大切な時代はないのではと、反省しきりの私である。

ところで、昨日のM新聞の月間持論フォーラムで、水野和夫さんが、【植民地主義と英語】という論で、説得力のある考えを示し述べておられる。(いい意味で母語、日本語の文化を大切にしないで、異国の文化をリスペクトできるはずもない)
 
詳しくは読んでいただくしかないが、ギリシャ悲劇、トロイアの女から話が始まり、今のこの日本の置かれている危機的状況がきちんと解りやすく説明されていて、説得力があった。

氏は、【現実の狂気の世界】を正気に戻す力が芸術にはある、と結んでいる。読みながら何度もうなずいた、ほとんど私も同感だからである。

一見無駄とも思えるような遊び心のなさ、この数十年の経済効率優先の政策や点取り虫、効率優先教育の弊害が今噴き出してきているのは明らかではないか、というのが私の考えだ。

その解決策が見えないとところに、あまねく多分野に閉塞感が充満しているのではないか?という気がしてならない。元気な方は、自分自身で風穴を開け、閉塞感を打ち破るる勇気を持ちたいものである。

おたおたしてはならない。考える葦、知恵の泉であるわが頭と肉体で考え続けるなかで、必ずや、出口を見つけるべく、大人なら地に足をつけて右往左往、矛盾しつつも思考を続けるべきだとの側に私は立つ(ちたい)。

ところで、水野和夫氏のような、経済にも文化にも造詣が深く、ユーモアセンス、知的教養あふるる政治家が増えないとこの国の行く末はあまりに寂しい。

反知性主義という言葉を最近目にするが、哲学的見地、目に見えない大事な知的探究を軽んずる大学の改革などは、なにおかいわんや、である。

グローバル金儲け主義は、奇蹟の星、未来地球を食いつぶす恐ろしさに満ちている気がしてならない。(最終的にぐちゃぐちゃ戦争という形で、だから私は安全保障法案には反対である)
 
安倍総理の答弁をテレビで聞いていると、本(偏った読書で)を読む時間もないのではと思えてならない。一国のリーダーを任せるには、あまりの紋切型、日本語貧困言葉の繰り返し、責任の重さが私には感じられない。

与野党問わず政治家を選ぶのは我々国民である。選ぶ側の責任もとても重いのではないか、と私は考える。

2015-07-23

竹韻庵・S氏の魂の居場所で体を動かすことになりました。

竹韻庵、という名前の山荘が岡山市街の一角にある。S氏という、私が岡山にやってきてからお世話になっているかたが持ち主。自宅から歩いてゆける距離にあり、都市部に近いのに別次元に浸れる素敵な場所である。

実はS氏とはちょっとした祖語で、しばらく音信が途絶えていたのだが、氏が私のブログを読み続けていてくださっていたおかげだろうか、氏の方から連絡があり、旧交が最近復活した。

話を手短に済ませる、農を断念したとはいえ、私はまだまだ元気なので、秋口、少し涼しくなってから、週に数日身体を動かせる私にもやれそうなアルバイトを探すつもりではいた。

氏と、先日久方ぶりに会ってお茶を飲んでいたら、氏の口から思いもかけず竹韻庵の管理等をやってもらえないかと依頼があったのだ。

半日しかできなくても構わないとのことであり、何よりも私の都合のつく範囲でやれるという好条件。私は即引き受けることにした 。

というわけで、この2日竹韻庵に通っている。今日は雨でお休み(週に3日程度自分のリズムでゆかせていただきます)余裕をもってブログを書ける。来週からは大槌町を目指す旅が待っているので私としては珍しく、計画をきちんと立てなければならない。

晩年を、充実してゆけるための全き 良き環境が、望むべくもないいい感じで整いつつある現実に、私はそっと何かに感謝する。

さて、竹韻庵で2日ほど体を動かしてみたのだが、当たり前汗が体から噴き出してきた。一本の竹を切りある程度の長さに切り、運び、枝を払うだけでも夏の作業は 体にこたえる。

だが、こんなこと昨日今日始めたわけではない。美星町やサンナンの畑で何十年もやってきたおかげで加減が体で分かっているから今もやれるのである。半日なら十分耐えられる。

無理はもちろんいけないのだが、新陳代謝を繰り返せる風通しのいい体を1日でも持続することが、老いの中の楽しみともともなっているわが暮らしなのだ。

繰り返し五十鈴川だよりで書いているが、楽あれば苦ありである、 苦あれば楽あり、苦と楽を分けて考えないことが肝要、同じように死と生も同時に日々進行しているのだから。

あまり身体を甘やかしたら,良いことにはならないというのが現時点での私の考え、苦の中にこそ生の喜びが潜んでいる気がする。動ける身体をいつくしみながら、そして何かにすがりながら、見果てぬ老春を希求する。

S氏が無理なく、休み休みやってくださいとおっしゃってくださるし、何よりも気兼ねなくやれるのが楽しい。たった2日程度では、何事もなかったかのような竹韻庵ではあるが、根気よく雑木や竹を切り、片付けながら敷地を手入れしてゆくほかはない。

昨日は、朝ゆくのを少し迷ったのだが午前中ほとんど雨が降らず思いのほか作業ができた。やめるころからにわかに雨が降ってきた、無人のテラスで汗をかいた体をふき、着かえるとなんとも体が軽く爽快感がたまらない。

戻って遅めの昼食を自分で作って食べ、しばし恒例のお昼寝一時間。起きてシャワーを浴び、新聞を読み 、間違いの喜劇を声に出し、5時半すぎ遊声塾のレッスンに出かける。

私も含め昨夜は5人での充実した7月最後の愉しいレッスンを済ませ、10時帰宅。11時すぎ床に就いたら、心地よい疲れに満ちたわが体は、あっという間に夢間の世界へ。






2015-07-20

岡さん、梅雨が明けましたね。いつもコメントありがとう。

梅雨が明けたそうだが、何かどんより感が漂う今年の夏、蝉の鳴き声があまりにも少なく感じるのは私だけだろうか。私の体にしみいってくる、短き命の多重音が。

少年期、あのあまりにもかしましいセミの鳴き声を耳にしながら、のほほんと育った私なので、何か拍子抜けしたように、どうしても感じてしまう。カエルの鳴き声とセミの鳴き声を聴いて私は育った。

それが聞こえてこない世界では私はきっと生きてゆけない。(スマホがなくても生きてゆけるが)

男の更年期というものがあるのかどうかはともかく、あのころ、つまりは一番感受性が豊かな育ち盛りだった世界に対する回帰願望のようなものが、歳とともにますます強くなってきているような気がしてならない。

可能な限り正気な彷徨える老人に私はなりたい。よちよち歩き出してから、五十鈴川で泳ぎを覚えたころ、小学4年生くらい(家族が全員で暮らしていた、いられた)までが、私の幼少年時代の黄金期だったのだと、つくずく思い知る。そういう幼少年期を持てた幸運を、いま返す返すも 反芻する。

この間のお墓参りの帰省もそうだが、鮭が故郷の川を目指すような感覚が、私の中で年々老いに逆行するような感じで強まってくるのは、何故か?自分でもわからない。周りの人はそうではないみたいなので、私がやはり特殊なのだろうか。

息も絶え絶えであれ、故郷の川を目指す初老の私と、鮭の姿がダブってしまうが、反面失われし時を求めてさまよいたい、恍惚人的情熱は、何やら激しさを増してきているかのような塩梅。

話は変わる。一方不条理としか思えないような出来事やニュースに関しては、怒る新老人感覚、行動力好奇心は健在の私である。ありがたいというほかはない。体の衰えは人並みだがそれを上回る好奇心は以前と変わらない。

退職後考えたり本を読む自由な時間が増えたせいか 、より真面目に物事を深く考える楽しみも増え始めたように思う。自分でいうのもなんですが私はあらゆる点で小器晩成なのだと思える。気づくのが遅いのである。

時は金なりという言葉は真実である。良き本に巡り合えた時に、ゆったりと読む時間と空間があるということは、まさに至福だ。活字が体に流れ込んできて体が生き返る。

本を読むために、声を出すために、旅をするために、家族のために、やりたいことのために、今しばらく体を大事にしなければと、自分に言い聞かせる。

このところ、夕方や早朝、必ず運動公園(大雨以外)で声を出したり体を動かす癖をつけようと継続しているが、毎回同じところを読んでも新鮮に読める。それができる間は、大丈夫と自分を励ます。

かけがえのない個としての、今の自分の感覚や湧いてくる感情に正直に生きてゆきたいのだ。農の時間を断念したおかげで真面目に本を読む時間が増えている。この自由時間のかけがえのない有難さ。

読む本の種類が何とはなしに変わってきた。以前だったら手を出さなかった難解な本も読み始めた。若い頃読めなかった本がすいすい読める。活字が私に働きかけてくるのだ。書棚に在る本を読むだけで、私の人生は終わるかもしれない。本は想像力がはばたく宇宙そのものだ。

いま、読んでいるのは佐藤優(まさる)著【私のマルクス】、以前だったら署名を見ただけで敬遠したかもしれない。全14章の7章までを今読み終えたところ。だんだん面白くなる、書いてある経済学の書物や、キリスト教神学書は、小生まったく読んだことがない。

が、面白い、何故か。面白く感じる自分がいるからである。それはおそらく私が佐藤さんのファンだからかもしれない、生き方が。知らない難しい語彙や言葉(遅まきながら先生から学び書く)もあえて、ゆっくり読む。タイトルからは想像できない、半自伝的な本なので、読み進むにつれてファンであれば引き込まれてゆく。

自分の文体、言葉で、行きつ戻りつ真摯に語ってゆくにつれての、その展開の面白さには思わず軟派の私も引き込まれる。その器の早熟さと天与の才能と努力で身に着けた該博さ、博覧強記ぶりには、驚嘆を禁じ得ない。

あとがきを、中村うさぎ、さんが書いているが、この人脈の幅の広さと、独自の視点と獄につながれても揺るがない(キリスト教徒としての)覚悟の深さ、強靭さには、静かに私は首をたれ、打たれる。

決して遅くはない、無知は恥ずかしいことではない。学ばないことがちょっと私は、恥ずかしい。

ところで、7月末は、6日間夏休み、3年ぶり東北の旅、大槌町を訪ねてみようかと今考えている、在来線ののんびり旅で。その時には普段は読めそうもない、佐藤さんおすすめの本を何冊かバッグに詰め込むつもりだ。


2015-07-18

超フリージャズ・天上界のトリオのライブを聴きに京都にゆくことができました。

一昨日、台風で赤穂線が動かない中、何とか岡山まで娘に送ってもらい新幹線は動いていたので京都まで土取利行さんの主催する、郡上八幡音楽祭のライブの初日を聴きに出かけることができた。

京都、郡上八万、東京の3か所でしか行われないので、何とかして京都まで出かけ、嵐の中、この稀有なライブ体験ができたことを、五十鈴川だよりに、書き留めておきたい。

土取利行(ドラム、アジア、アフリカほかの民族打楽器、多種類の声)、エヴァン・パーカー(サックス、クラリネット)、ウイリアムパーカー、(ベース、アフリカの弦楽器)3人による年齢を超越した、魂のセッションには、度胆を抜かれてしまった。まさに、まさにスーパーなトリオというしかない夢の競演、堪能できたこと、運命に感謝。

私はフリージャズの音楽世界もまったくといっていいほど 知らない、が土取さんが共演を望んだ奏者たちとのライブには何としても足を運んでおかないと、という気持ちを抑えることができず、アルティという会場まで、嵐の雨の中、ずぶぬれ(靴は水浸し)になりながら、地下鉄今出川駅から歩いて会場にたどり着き、地上での出来事とは思えないライブを体験することができた。

最近はライブをを聴きに行くことなどほとんどないわが暮らしだが、土取さんの現在の音の波動、ドラミングを浴び、しかと眼底に焼き付けたかった。行くことができたこと、オーバーではなく神に感謝した。崇高な後光が差す、天上界のトリオのような演奏、スーパーなカッコよさ、しびれた。

そう、まさに一点の曇りもない、純粋というしかない音の世界の旅にこのトリオは私を連れて行ってくれた。このようなライブはまさに一期一会のライブというしかない。繰り返す、この世の嵐のライブに出会えたこと、 何かのやはり私にとってはお導き、というしかない。

何かうまくは言えないが、現代のあらゆる絶望的閉塞感、体の中の澱のようなものがスーッと、洗い流されてゆくのが実感できた。本物の即興演奏家トリオの何というすごさ、枯れない泉のような予定調和ではない、瞬時に生成される音の若々しさ、それを生きていればこそ味わえる醍醐味。

ささやかに、 自分の中に感応するばねが生きていることもしっかりと確認できた。あらためて、魂に働きかけてくる音と、そうではない音との違いを、この世のライブは私に如実に教え、示してくれた。

現時点での肉体年齢を、プレイしている最中微塵も感じさせないその強靭というしかない、高貴な精神性には、返す返すも深く私は脱帽する。土取さんと若き日に出会い、あれから37年経っても、今もこうして新しく出会える事の幸福。時間を超越したような不思議な感覚に私は襲われた。

土取利行さんは、今も音の神秘を伝えてくれる伝道者だ。この世のライブ世界は音の神秘で満ちていた。そしてそれは、お金では買えない類の音というしかなかった。

 帰りもまだ京都はすごい雨、連休前の新幹線はすごく混んでいた。止まっていた赤穂線が動いていて、最終の電車は西大寺どまり、運よく私はそれに何とか間に合った。深夜、駅から小降りの雨の中、家に向かって歩く私の心は晴れ晴れとしていた。

 


2015-07-15

人類の敵とは?予定変更朝ブログ。

昨日今日とNHKで国会審議が放映されないで、今日自民党は審議が十分に尽くされたとして、強行採決するという。(新聞のテレビ欄を朝一に見た)

肝心な時に放映しないNHKに対しては、まったく私は失望している。五十鈴川だよりは、まったくの個人、庶民がつづる折々 勝手気ままブログだが、失望、落胆の度を越えている。こういうときに放映してくれないと、受信料を払いたくなくなってしまう。

昨日の続きを書こうかと思っていたのだが、急に予定変更ブログとなったしだい。

決まりきったほとんど(私にはそう思えてならない)はどうでもいいような番組(すべてがそうではないのですよ、いい番組もあります)が日々垂れ流され、その毒にも薬にもならぬ番組を何十年間にわたって見続けた人々が思考能力を失ってしまうとしたら、なにおかいわんや。

自分のことはさておいて、この国の人々が認知症になってゆくパーセンテージが年々増してゆくのは、TVやあまたの映像づけに脳が浸され続けているからではないか?

もちろんいろんな要素が複雑に絡まっているからなのだとは思うのだが、そのなかにTVの影響がかなりあるのでは、との疑いを私は持つ。日本人テレビ教。

編集された映像は、ほとんどフィクションである、との認識を私は持つ。だからうかつには 私は信用しない。現場に行くなり自分で考える。ところで自民党に投票するかなりの方々が高齢者である。

20代、30代の投票率は情けないほどに低い。(英国は70パーセント、学生の国会議員もいる)あまりの低投票率の中で多数を勝ち取り、国民の8割近くが法案に反対、未だよくわからないと言い、無理解のままであるのに(私もそうである)強行採決をするというのは、どう考えてもいかがなものかと、ヒダカの歯ぎしりである。

でも悲しいかな民主主義、多数決原理である。民主主義ってなんだ?と若者ならずとも、初老のおじさんだって 叫びたくなるではないか。

東京他、都市部では大きな集会や、法案に反対のデモがにわかに立ち上がってきている普段はデモに行かない私のような無所属、無党派が、ともかく動くことによって刺激を直接受け自分の頭と体で考えようという人々が増え始めている。ここに私はかすかな希望を持つ。

自由とは、国家とは、憲法とは、国を守るとは、正義とは、戦争とは、肝心かなめの国の行く末の大事について、賛成反対、どちらにもせよ、自分の頭できちんと考えられる視野の広い民度の高い人々が増えないと、と思う。

国民の未来、幸福、を託す、冷静に議論できる大人の国会議員(与野党含め)が少ないこの国の行く末が、私は不安だ。

国民が選ぶ議員の質を上げるには、当たり前だが選ぶ側の質も上がらないことには(自分のことはさておき)話にならない。

無関心は、あらゆる創造的な行為や行動の芽を摘んでしまうと思える。どこに視点を置いて生きるか、を考えてゆくかによって世界はいかようにも変容してゆくし、いわば世界は自分が変わることによってしか変えられないのである。

身体が元気で思考できる方々は、まずは自分に関心をもつ事から始める。知る勇気を持つ。おそらく自分が変われば世界も変わる。

大きな見えない権力に自由に考える可能性を奪われるような生き苦しい、風通しの悪い社会の到来だけは、五十鈴川だよりはご免である。

歴史は繰り返す、などと自分が戦争にもゆかず、面と向かって戦ったこともなく、苦しい経験をしたこともなく安全なところにいて、訳知り顔に話すような 手合いが、私は最も苦手である、特に同世代の。

これまでがそうであったならば、だからこれから先は変えられるという可能性を探るのが大人、それをしないで、未来に対してなにをするのかと私は考えてしまう。特に与野党の政治家は。

第一次大戦から100年、敗戦から70年、この間の現代史は?学ばず繰り返す輩こそ人類の敵ではないか。命と平和について、人間の尊厳について、テレビに血を吸われ、思考脳内毛細血力が弱まる(私のことです)。

見えない大きな力に命令され苦しみ抜いて倒れていった、今も過酷な状況を生きておられる、無数の国籍を超えた、人為的紛争の犠牲者たちに対して申し訳できない、との側に私は立つ。




2015-07-14

お墓参り帰省旅、➊.

先週の水曜日レッスンを終えてから、10時近くゆっくりと宮崎に向かって運転を始めた。いろいろと考えた末、高速ではなく、初めて普通の道を走ってみることにしたのだ。

翌日の夕方までに兄のところに着けばいいのだから、急ぐ必要はない。昼間のうちに車の点検、食料や水その他、眠くなったときにすぐ休めるように、思いつく準備のあれやこれを 済ませておいた。

気が張っていたのだろうが、岩国の近くまでまで、ことのほか順調にきたところで睡魔、午前2時ころ車中で2時間近く、仮眠をしまた走り始め午前7時前には関門海峡を超えることができた。

久しぶりに故郷に還れる嬉しさで、九州に入ったとたん身体が 軽くなるのがわかった。地図を見ながら走ったことのない道をとにかく走った。夜明けのコーヒーが格別でした。

小倉から八幡西区を抜け、田川方面を走り、大分の英彦山から日田を抜け、雄大な阿蘇を回り、(梅雨の晴れ間、素晴らしいお天気になり最高のドライブが楽しめた)、高森から高千穂を抜け、日之影から父の先祖である、宇納間には翌日午後二時過ぎに着いた。

仮眠は一回のみで、全然眠くならなかったのには我ながらちょっと驚いた。水分補給と栄養ドリンク以外は口にしなかったからかもしれない。食べると眠くなるので口にしなかったのだ。

宇納間は五十鈴川の源流のあるところ、石清水の冷たい水でしばし沐浴をした。初めてのんびり休憩、山間の静けさ、水の冷たさとあまりの水の透明度にわが故郷の有難さがしみた。

私にとっての故郷の象徴は、五十鈴川 をおいてほかにはない。五十鈴川のほとりに立つと、何やら心身の奥深いところがほっとするというしかない感情に浸れるのは、何故なのかわからない。理屈抜き原点の川、というしかない。

沐浴後、宇納間の地蔵様を祀る神社にゆき、360の階段を上りお参りをしたのち、そこから兄の家に向かった。(その間30キロくらい五十鈴川に沿って走る)

午後5時前無事兄の家に着いた。無事の帰省を兄夫婦がともかく喜んでくれ、ささやかだが心のこもった夕餉をすぐに整えてくれ、小宴会となった。原点懐かしきわがアイデンティティ、故郷の方言が飛び交う。

途中からは次兄もやってきて、愉快な水いらず兄弟の宴会は話に花が咲き、瞬く間に時がたち兄たちは元気だが、私に睡魔が訪れ8時近くでお開き。空腹の体にお酒と食べ物が押し寄せ、心地いい疲れに満たされ、義理の姉が用意してくれたお布団に安心、大いなる眠り、私は倒れこんだ。

故郷の有難さがしみた。岡山からわが故郷までは、コースにもよるがおおよそ600から700キロくらいの距離である。この距離がぎりぎりちょうどいいのかもしれない。

ちょっと前までは高速を使わないで帰るなんてことは考えもしなかったが、気持ち次第でこうも人間の体は変わるということを、またもやあらためて認識しなおした。年齢を気にせずの気まま旅。

守りに入ってはやはり駄目である。この続きはまた明日書きます。本日はこれにて。












































2015-07-08

明日からお墓参りに宮崎に帰る前の朝ブログ。

まさに梅雨というしかないお天気が続くが、日々是好日。夢が原退職後、しばしあれやこれをやっていたが、畑を断念(というほどにオーバーではないが、家庭菜園でしばししのぎます)したことで、急に降ってわいたように、自分の自由になる時間ができたことは、やはりうれしい。

お金もあるにこしたことはないが 、この年齢になるとまさに時は金なり、というしかないほどに貴重なものだということを実感する。

特にこのひと月はそのことを有難く痛感しながら日々を過ごしている。何よりも時間を気にすることなく、つたなくはあれ五十鈴川だよりが書けるということは、私にとっては有難い時間というしかない。

今のところ月曜日午前のカルチャーでの時間と、水曜日の夜の遊声塾の時間以外は、しばしの間自由な時間が増えるので、この際の時間を利用して普段やれないことをやっておこうという気になっている。

自分の思慮の足りなさ、浅薄さは置くとしても、18歳から何とか気の向くままアンテナの風任せで、生き延びて来られたわが人生の運の強さに今更ながら私は何かに感謝している。

ない才能を顧みず、じたばたとあきらめず、ひょっとしたらほかに道があるのではという、すがるような、小さな灯が自分の中に消えなかったから、いまがあるとさえ、最近は思える。

何度も五十鈴川だよりで書いているが、時折立ち止まり、今を充実して生きるかすかな可能性を探ることこそが、面白い、のだという側に私は立ちたい。じたばたできるうちにじたばたする自由を、子育てを終えた今、オーバーではなく再開したい。

守りに入るのではなく(いやでも応でもやがては体が寿命を知らせるまで)真向きに足を運べる間は、前を向きたいのである。男子に生まれた悲しき性かもしれない。生命を授かる女性とはその点まるで異なる、(話がそれるからやめる)

自分でいうのもなんだが、私は何かと充実して日々を過ごしている。半藤一利さんの【日本の一番長い日】を読みながら(知らないといけない)、午後はカルチャーでの生徒、Uさん(85歳、素晴らしい方)に勧められ参加することにした、日野原重明先生の新老人の会に行き、夜は遊声塾である。

動ける範囲で動きながら、見,聴き、出会い、語り、読み、声を出し、体を動かして思索する。この循環が私にはことのほか貴重だ。そのために必要なお金と食べ物が最低あれば、もう私には十分だとさえ思える。

ということで、しばらく帰れなかった宮崎に明日からお墓参りに還ります。 時間があるので旅がらす、ゆっくりと安全運転の車での旅、姉や兄に会えるのが、心からうれしい年齢になりました。

2015-07-05

平和の有難さを刻むためにも五十鈴川だよりを書きながら学びたいものです。

夢が原退職も何かと忙しく日々を過ごしていたが、畑を断念したことによって、にわかに降ってわいたように思考する時間が増えたことで、ブログを限りなく落ち着いて書けることは、私にとっては有難く幸せなことである。

生来の単細胞、感性型人間なので、物事を深く凝視したり、じっと沈思黙考したりすることが 限りなく私は不得手である。それは実は今でもそうであるという、認識が私にはある。

だからなのだと思う、書くという脳の回路は、いやでも内的に落ち着いて自分と向かい合うということを余儀なくされるので、一つのまあ日々の、いかめしいが修行のようなものに、私にとってはなってきた気がしている。

ささやかに、(囲炉裏通信も入れると、書き始めて 7年目に入っている)書き続けていて思うことは、(私の場合のことだが)終わりなく人間は考える葦であり、揺らぎたゆたう存在であるということである。

そのことを最近は、それでいいのだと漸く自己肯定し始めている。何十年もかかって漸くにして、ほんわかとそれなりに生きてきた自分を、冷静に眺められるようになってきた。

もし自分が事故や病気にならず父や母が生きていた年齢まで生きるとしたら、とにもかくにも日々のよしなしごとを、つづりたいものだという生きがいを見つけたということである。

書き始めたころは、こんなに書き続けられるなんて思いもしなかったのだから、まさに瓢箪から駒といった、意外性の果実というしかない五十鈴川だよりなのである。

案ずるより恥を恐れず今を生きる。オーバーだが身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、といった心境に近い。もっと書けば、老いとともにもっと自由自在に、思考を解き放ちたいといったふうな心持なのである。限りなく瘋癲老人に憧れる。

先の沖縄への旅や、続いての上京旅などで、足の向くまま気の向くまま、体の内から湧いてくる今現在の自分を限りなく冷静に解き放てる自分を感じている。自分で自分を面白がる。

そのことを臆面もなく、いけしゃあしゃあと書けるのも、老人性鉄面皮に自分がなりつつあるということかもしれない。

ところでいきなりだが、敗戦後現憲法の成立に関する本を このところ読んでいるのだが、自分の立ち位置をしばし離れ、冷静にいろんなことを知り学ばないといけないと、あらためて五十鈴川だよりは反省しつつ、庶民の一人として平和主義、民主主義について、思考停止にならないように、流れながら考える。




2015-07-04

45年ぶり、中学校の同級生S子さんと奇蹟の再会を果たす。

先週木曜日からの3泊4日の上京は、思いもかけぬ中学校の同級生S子さんとの45年ぶりの再会という、予期しない出来事が私を待ち受けていた。

私は高校卒業するまで父親の仕事の都合で、3回(小学校に入る前も含めると4回)転校している。

一番最初は6年生の時で、宮崎は日之影の近く、北方というところの槇峰銅山があった美々地小学校、わずか1年間しかいなかったがそこでの体験は鮮烈な記憶とともに私にとってまことに大きい。

(胸の中にそっとしまっておきたいという思いと、わずかでも書いてみたいとう 思いがせめぎ合う)

その槇峰銅山は、私が中学高の一年生で再び転向した都城の近くの四家中学校二年生の時に閉山した。(美々地小学校は生徒数が激減したものの、わずかに地元の子供が通い存続していたが数年前廃校となった)

その後、夏休みとかに実家に帰省した(多分高校生になっていたかとおもう)おりに訪ねた閉山後の、、そのあまりに変わり果てた無残な光景から私が受けた衝撃は、言葉には尽くせないほどのものだ。

かって多くの人たちが暮らしていた山間の小さな谷間の、おそらく千数百人が暮らしていたであろう平和で穏やかな銅山の町は忽然と消え、かって多数の人が住み、私も住んだ炭住と呼ばれる長屋は、無人となり、荒れるに任せ放置されていた。

私は桜ヶ丘という地名のところの長屋に住んでいたが、初めて転校生として美々地に足を踏み入れた時に見た、谷間一面を彩るその桜の美しさには圧倒された。

ささやかではあれ、かって人々の穏やかな暮らしが、忽然と姿を消してしまうという現実、多感な思春期に私が受けた、あの一年間は夢だったのかとさえ思わずにはいられないほどに、ショックだった。

この年になると、あの僅か一年での生活で記憶に残る、全国に散った同級生に会いたいとの望郷のような思いは、消えることはない。

だからなのだと私は思う。福島でもそうだが故郷を忽然と無くすということの、大人もさることながら、子供たちに与える心理的なトラウマは、想像だに絶する、と。

シリア、イラク、アフガニスタン、スーダン、ソマリア 、ウクライナ、チェチェン、エチオピア、ボスニア、チベット、パレスチナ、ほか書くのが嫌になるほどの各紛争地域で子供たちが置かれている悲惨な状況には、世界の責任ある良識のある大人は見ぬふりはできないと思う。

罪もなく銃弾を受け、巻き込まれけがをしたり、難民テント暮らしを強いられたりする不条理に対して 、私自身痛く反省しながら、ささやかに寄り添える人間性をなくしたくはない。

話を戻す。四家中学校という全校生徒150人の一学年二クラスの小さな学校に転校した私は3年生の時、同じクラスになったNさんという女子学生と言葉を交わすことがあった。

彼女は今でいう集団就職のような形で、東京の京王帝都電鉄に就職 、私は進学したが高校生活になじめず、夏休みヒッチハイクで上京したりした際、彼女に会った記憶があるが、以来音信が途絶ていたのだ。

簡単に記すが、夢が原でのイベントに来てくれた水島に住む同級生のM氏が彼女の電話番号を教えてくれたのが縁の復活。上京するたびに電話をしていたのだが3回目にしてようやく縁が再びつながったのだ。

さて、午前9時半すぎ高幡不動の駅で、45年ぶりに再会した私たちはすぐにお互いがわかった。向こうはどう思ったかは知らないが、私の方は彼女のあまりの優雅な変身ぶりに驚くとともに、逢いに来て本当に良かったとの、思いが瞬時にこみ上げてきた。

彼女の家は駅から歩いて2分のところにあり、今現在50人近いお弟子さんを抱える日本舞踊のお師匠さん(家元となっていた)になり、自宅には稽古場もあり、午後からはお稽古があるという忙しさの中、私に会ってくれたのだ 。

お庭を拝見しただけで、現在の生活の充実ぶりが分かった。最初の1時間は二人だけで、後半はご主人も参加しての再会時間は、悦楽時間というほかなかった。お互い子供を育て上げ、現在も打ち込める確たる世界を確立しているS子さんは、まぶしいほどにいきいきはつらつ、現在を生きていた。

こういう再会は本当に神のおぼしめしというほかはない。ご主人は現在バードカーヴィング(私はそのような世界のことすら知らなかった)の造形作家で、(退職後に始められたとのこと)作品を見せていただいた(家に工房がある)が、まるで鷹が生きているかと見まごうほどの出来栄えだった。

あっという間に息を堰切った語らいの時間がたち、またの再会を確約してお別れしたが、娘の働く会社からも近いし 、これからは新たな関係性が築いてゆけることを確信し、約束した。

また彼女は着付けの先生もしているので、娘に教えてほしいと頼むと、分かった連れてきなさいと言ってくれた。娘にそのことも含め、再会の一部始終を話すと、習いたいとのことだった。

次回の上京では、怜君共々娘たちを是非会わせたいと思わずにはいられないほどに、わが同級生は立派になられていて、月並みだが人生をきちんと生きておられるお姿に打たれ、ただただうれしかった。

己の心の持ち方次第で、人の道はいかようにも生きられるお手本を彼女の生き方に見た。京王帝都電鉄に就職し、高幡不動に根を張って、お二人の子供を育て上げ、ご主人とともにさわやかに暮らすS子さんとの再会のひと時は、私にはまさに夢のような奇蹟のひと時となった。




2015-07-02

6月27日・藤原新也さんのWM・キャットウォークの会員のオフ会に5年目にして初めて参加できた記念すべき夜。

さて、翌6月27日のことを書いておきたい。大井町のホテルで目覚めた私は、チェックアウトまでの時間をホテルでのんびり過ごしてから、娘が住んでいる稲城に向かった。怜君は私が上京する前から来週いっぱい出張で不在だった。

土曜日なので山手線も京王線もすいていた。木曜日は娘のところにとまり、今夜も泊まるので荷物のほとんどは娘のところに置いたまま、私は金曜日の集会に参加した。

ところで、金曜日の集会に参加するまでの時間何をしていたかというと、午前中45年ぶり、中学校の同級生のNさんに、彼女の家(稲城から近い高幡不動)で、私は再会し(このことはまた後日書きたい)たあと、午後2時半から、ジャン・ユンカーマン監督の【沖縄うりずんの雨】というフィルムを神田神保町の岩波ホールで見た。日本人なら必見のフィルム、またしても無知を知らされた。

話を、土曜日に戻す。11時に娘のところに戻った私は、娘が作ってくれたブランチを済ませ少しのんびりとさせてもらった後、娘もシールズの集会に参加する予定だったが、急な用事で私だけでの参加となり、午後1時過ぎともに社宅を出た。

(ところで、彼女の会社の社宅は駅から3分のところにあり、高台の最上階、6階に 住んでいて東京の夜景が一望でき、窓を開けると涼しい風が入りまったくクーラーが必要なかった)

娘とは調布で別れ、藤原新也さんのキャットウォーク、緊急オフ会の集合時間の16時には早かったが、私は渋谷に向かった、明大前で井の頭に乗り換えて。

明大前の隣の駅、東松原には私が18歳で上京し、初めて演劇を学んだ貝谷芸術学院があり3年間通った思い出の場所。いまだ胸がかすかにうずく。

思い返すと、やはりこの青春真っ盛り3年間の、思い出せる記憶の中の出来事こそが、今となっては宝石の記憶なのだと感じ入る。恥かき人生のすべては、無知から始まったのだ。

今も無知蒙昧だが、無知だったからこそ、井の中の蛙だったからこそ、恥も外聞もなく、青春特有の無謀なジャンプが可能だったのだと思える。いまだに青春の残り火がくすぶるが、ばかは死ななきゃ治らない、雀百まで踊り忘れずというところ、自分からは逃れられない。

集合場所の渋谷は、一見私が東京に住んでいたころと相も変らぬ右往左往の人の波。だが確実に私は年を重ねた。若い頃、渋谷のデュエットというジャズ喫茶で、演劇に挫折し行きどころのない自分を持て余したあのころを、今でも思い出す渋谷の街。

集合時間まで本を読んで過ごすために、喫茶店を探して青山一丁目のほうに歩き、イメージフォーラムという選りすぐりのめったに見ることのできないフィルムを上映してくれる映画館のそばのカフェで私は静かなひと時を過ごし て、集合場所に向かった。

午後四時、すでにキャットウォークのバッジを胸に付けた、オフ会に参加する面々がビックカメラの前に集結していた。ほどなく藤原新也さんと、ジャーナリストであり国会議員でもある有田芳生さん(キャットウォークの会員である)が連れだって来られた。

古希を迎えても藤原さんの情熱は 衰えない、外見はそれなりにお年を召しているのだが、精神の若々しさ、その行動力には恐れ入る。このような兄貴的(一方的に私はそう思っている)感覚の持てる、尊敬できる方とわが生涯で面識を持てたことは幸せである。

オフ会には100人近い面々が集結、新也さんからこの後シールズの集会に各々自由に 参加し再び6時半に集合しようと伝えられ、私はその場で出会い言葉を交わしたK君とハチ公前のシールズの集会場所に移動した。

それから約2時間、土曜日の夕刻のどこからこんなに人が湧いてくるのかわからないハチ公前広場で、自分の言葉で語る男女学生たちのアピールにまずは耳を傾けた。

心の片隅で、この現場にいる自分がいわく言い難い、不思議な感覚につつまれながら。

学生たちの呼びかけで、社民党の女性議員(名前は失念)、民主党の男性議員(名前は失念)、菅直人氏、生活の党の山本太郎氏、維新の党の初鹿明博 氏、共産党の志位和夫氏らが次々と車上の演壇でマイクを持ち、安保法制を廃案にすべく、党派を超えて、道行く無関心層に声をからして、アピールした。

(初鹿氏がこの日の学生たちの呼びかけ街宣活動に、共産党の志位書記局長らと共に参加したことで、維新の党は初鹿氏の処分を検討しているという、党派を超えた個人レベルの参加に対して、なんともはや心に大人の余裕のない幹部たちの対応には二の句が継げない)

前日とは違った女子学生たちが、最初二人ほど思いのたけを語るのを、私は雑踏の中で静かに耳を傾けたが、きわめて普通の常識的感覚の肉声で語るのをすぐそばで聞いて、必死で自分で考え伝えようとする姿勢に打たれた。

話しぶりには、人間性が丸ごとあらわになる。渋谷のこんなところに立って話さずにはいられない、自分が信じられないと語るその女子学生は、しかし他人ごとではない、無関心ではいられない、と、まるで他人事みたいに思える、道行く無関心層に、熱く訴え語り掛ける。

その声をからしての個人的な思いは、そのあまりの普通さゆえに私にも届く。シールズの学生たちは、やはり何か新しいやり方、方法を、悩みながら模索しつつ歩んでいるのだということが、直に現場に駆け付けてみて個人的に伝わった。

相対的に女性の方が男子学生より、言葉が地に足がついているように私は感じた。きっとこれからは、母性的な女性の時代がやってくるのではないか、そうなってほしいというささやかな私の願望も入っているが、そのように感じた。

一人の優れた女子学生は、米原万理さん(姿形も)をほうふつとさせ、きっとこれから先活躍しそうな大器を予感させた。名前は知らないがお顔はしっかりと頭の中に刻み込めた。その場で直に体感するということは、だから大事なのだ。

ともあれ、彼らのホームページ を開いて、ぜひシールズの声を活動を、間接的ではあれまずは聞いてほしい、と私は思う。

さて、6時半に再集合し、新也さんの大久保に在るアトリエ(書や絵を描くための)に40名以上のキャットウォークの会員が移動して、8時近くからのオフ会なるものに初めて参加させていただいた。隣には有田芳生氏。落ち着いたユーモアのある愉しい方だった。

新也さんから松煙墨という、もうなかなかに手に入らない墨の匂いを会員全員嗅がしさていただいたり、母情という書と一輪の蓮の花の写真がおさめられた作品(素晴らしかった)を鑑賞したりしながら、新也さんのお話に耳を傾けたのち、大久保駅の近くのタイレストランにほぼ全員が移動し、9時半から遅めの夕食交流オフ会の宴となった。

新也さんが、店の人に掛け合って最初の乾杯のビールやノンアルコールの飲み物も含め2500円で のタイ料理のコースとなった。とにかく新也さんは無所属の弱者に対して限りなく優しい、特にキャットウォークの会員には。

短い時間ではあったが、近くに座った方々とすがすがしく愉しい語らいの時間が持て、何人かの方とは名刺の交換もでき、風邪の功名で 思わぬ時間がわが体を吹き抜け、参加してよかったと、一人しみいった。

風でダウンし考えなかったら、まだ畑にいたかもしれないと思うと、まさに、塞翁が馬の感あり。一寸先の人生は今更ながら予断を許さない。

ほとんど新也さんとはお話はできなかったが(しなかったが)隣に座ることができ私は幸せだった。20代の中ごろ初めて読んだインド放浪からの読者としては、(ほとんどの著作を持っているし、羅針盤のようにしている)胸に迫る何かがあるのだ。

34歳、富良野塾を卒塾し、まだ妻と結婚する前、初めて 新也さんを当時房総にあったアトリエに突然バイクで訪ねた時のことは今も記憶に鮮明に残っている。いつか、落ち着いてエッセイふうに書くつもりだ。

愉しい時はすぐにたち、有田芳生さんには名刺もいただき面識を得た。京王線の終電に間に合うようにお店を出る前、新也さんにあらためてお礼のご挨拶をすると、思いもかけず握手をしてくださった。

これからは可能な限り、オフ会には参加して会員同士の交流を個人的に深めてゆきたいとあらためておもった。ほとんどの方とは言葉を交わせなかったが、 私にとってはこれからキャットウォークの会員との交流が始まる記念すべきオフ会となった。

午前一時過ぎ、娘のインターフォンを押すとまだ起きていてすぐにあけてくれた。