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2017-08-31

夏の終わりに私と妻は出遭った、夕方のとりとめなき五十鈴川だより。

長きにわたって五十鈴川だよりを読まれている方は、またかと思われるかもしれないが、もういいのである。おそらく五十鈴川だよりを書き続けられる間は、きっと性懲りもなく、厚顔をさらして書かずにはいられない自分がいる。

今日は、31年前 私が34歳の時、東京は吉祥寺のとある場所で、人生に途方に暮れていた私が妻と出遭った日である。以来私の精神は一気に安定を迎え、今に至っている。

いつの日にか五十鈴川だよりの最終回では、妻との出会いや、今はまだ生々しい思い出も、後年,時が来たら、書ける日が来るかもしれない。

妻との出会いは、まだまだ気恥ずかしくて,とてもは、いくら厚顔であっても、今はまだ無理である。ただただこれだけは言えるのは、妻との出会いなくしては、まったく私の存在は無に帰するであろうことだけは、書いておきたい。感謝の気持ちしかない。

ところで、日中はまだまだ暑いが、朝夕は一気にしのぎやすくなってきた。それとともに 五十鈴川だよりも増えそうな気配だが、歳と共に精神が安定するのかと思いきや、あにはからん、日々の移ろいの中での、精神の揺曳は、生きている限り、逃れようはないのだと思い知る、夏の終わりである。

だから、おりおり自問自答五十鈴川だよりを書き綴りつつ、心身の調節をせずにはいられないのだろうとおもえる。思うに任せぬ今を生きる、右往左往のじたばた感こそが生きる醍醐味であるとさえおもえる。

つまりは、揺らぐ日々の在り様の心身こそが、ささやかな私の現在、生きているということなのだろう。

再びところで、平均すると週に3~4日、時間を見つけてわずかな時間、この半年徳山道場に通っている。
Y氏に頂いた見事なブルーベリー

今朝も7時前にに出かけ(この時間帯は先ず誰もいない)、普段通りやろうとおもったら、大先輩のHさんが来られた。最近ちょくちょく言葉を交わすようにはなっていたのだが、二人して言葉を交わし合いながら、愉しく稽古ができた。

Hさんは、この年齢で弓を始めた私をよく観察してくださっていて、初めて遠巻きに基本的なあれやこれやを、じきじき指導してくださった。

詳細は省くが、元来小さいころから、人にあまり褒められたことが経験として 少ない人生を歩んできた私としては、ささやかに初めてほめていただき、恐縮至極ではあったものの、歳に関係なく、やはり正直とてもうれしかった。

弓を始めて半年足らず、ほんのわずかではあれ、ほめられるということの何という嬉しさ、ありがたさが沁みた。

どこかで誰かがやはりそっと見てくださっている方がいるということの、ありがたさ、早朝の素引きや、巻き藁稽古が無駄ではないということをしらされた。

ともあれ、夏の終わりにうまくは書けないが、歳を重ねる中で面白い夏がやがてすぎ、あきの訪れが楽しみな私である。

2017-08-28

外山滋比古先生の【老いの整理学】を読む。

いやあ、一気にあさゆうが涼しく感じられるようになってきた。昨夜8時過ぎに横になったらすぐに眠ってしまい、夜中起きてしばし本を読んでいたらすぐにまた睡魔に襲われ、次に目が覚めたのが4時過ぎ、外はまだ暗かったが起きて、早朝の運動公園散歩をして、水を浴びた。

さっぱりしたら、しばし時間があるのでブログタイムというわけだ。 とりわけ書きたいことがなくても、書いていれば、何かが紡げるということを、わが体は知っているので、要はパソコンの前に座るか座らないかの問題なのだ。

書いてある程度心身が整うと、最近は一週間くらい書かなくても、全く平気になってきたのだが、続けて書きたくなったりもするので、つまりは自由自在、五十鈴川だよりなのである。

昨日兄から、この間書いた夏の帰省のブログを読んだとのメールが来た。やはり身近な人たちからささやかに反応があると、実にうれしく、書く励みになる。

ところで、息子のレイ君からもラインで、AIの新聞記事の写真が送られてきたが、世代が異なるものの、きちんと反応していてうれしかった。
このような本に出合うと希望が湧いてくる

ところでいきなり話はいつものように変わる。外山滋比古先生のことはすでに何度も書いているが、新書版の91歳の時に書かれた【老いの整理学】を昨日一気に読み終えた。

詳細は省く、感銘を受けた。よりよく老いてゆくヒントが満載である。91歳にしての、あの知的柔らかき、しかし深いリズム化に富む、外山先生ならではの文体は、一朝一夕になるものではない。

流れゆく水は腐らないとのたとえ道理に、先生は動き回って思考を重ね続ける。思考実践力の大家であるということを、随所に知らされる。

自分で見つけた思考報告であるので、はなはだもって説得力があるのである。英国文学の泰斗でもあられるので、随所にさりげなく知的教養がこぼれる。

シェイクスピアの言葉も 多々引用されると、私のようなシェイクスピアファンはたまらない。さすがは外山先生であると、ますますもって、畏敬の念は増してゆく。

いやあ、いかにして生きてゆけば、このような知的インテリ、老いてゆきつつ、稲穂が垂れるかのような大人(たいじん)になれるのであろうかと、無理を承知しつつもあこがれる。

先生は大病もなさっている。ほとんどさりげなくしか、触れられていないが、あまたの試練を独自の思考方法で乗り切ってこられたことが、文章の随所から立ち上がってくる。感服する。

先生は早起きの大家である。あらゆる論考が、謙虚な40年間以上の実践 に裏打ちされているので、言葉の重みが私にはしみてくる。早起きだけが私と共通する。

その共通するところを入り口に、口先だけのほかのインテリたちとは全く異なる、素晴らしき実践力をほんの少しでも見習いたいと、私は縋り付きたい気持ちである。


2017-08-27

AIに格付けされる、という新聞記事に驚く。

朝一番新聞を手にしたら、一面トップに、【AIヒトを格付け】という文字が目に飛び込んできた。ファイナンスとテクノロジーを組み合わせた、フィンテックなる言葉も初めて知った。

18歳からただただ生きるがために働きながら、どちらかといえば文化バカ、経済音痴で、お金的な世界にはとんと縁なく、今も過ごしている私だが、私のあずかり知らぬ世界では、とんでもない地殻変動電子やりとり世界が、着々と進んでいることを知らされる。

だからといって、別段私の暮らしが変わることはないのだが、世界の在り様はますますカオス化、多様化してゆくのは避けようがない現実を受け止めつつも、私のような感性の持ち主には、あまりにも味気ない世界がひたひたと押し寄せている気がしてならない。
ブログを書く私のそばを離れないメル(あなたも格付けされるのは嫌だよね)

従来の価値観や、物の考えがまったく通用しない社会の到来である。だがしかし、ささやかに私は思考する。

世界の現実に右往左往しながらも、私は私の現実にしっかりと向き合い、日々地に足をつけて、心身を整えながら、AIに格付けされない初老の知恵なるものを 見つけられないかと夢想する。

限りなく現在の体の新陳代謝をよくするためには、お金にあまり頼らない質素な暮らしの中で、いかに喜びを見つけられるのかを、いい意味での無為の暮らしのようなことを、と、想うのである。

想うことの限りない自由自在さこそが、人間に与えられている素晴らしさの一つであるという側に、今も私はしがみつきながら、初老の初めて経験する今を生きている。

退職して4年以上過ぎたが、この4年質素な暮らしをしながら、ささやかに充実した暮らしが実践できているうれしき今を、臆面もなく五十鈴川だよりにつづれる鉄面皮の私である。

この歳になると、目が覚めて朝日を浴びながら、メルと散歩ができるだけでもささやかな絶対自由感覚の有難さを知らされる。(近所のお宅の丹精された花々を愛でるのも楽しみの一つ)

小さな庭で、朝の今を寿ぐコーヒータイム、若い時には味わえぬ初老の喜び。他者や、AIに格付けされるなどとは無縁な世界で私は生きたいと念う。

世界の一隅で、大切な家族と過ごせる今を、ただただ感謝する今朝のわたしである。

2017-08-26

真夏の読書で夏を乗り切る。

今日は幾分涼しく感じるが、この夏はというか、やはり歳と共に夏の暑さがこたえるようになってきた。がしかし、こればかりは自然の摂理ゆえの難儀なのだから、何とか耐えてゆこほかはない。

何度も書いているが、この数年の私の暑さ対策は、肝心なことはほとんどを午前中に済ませ、午後は家の中の風通しのいいところを見つけて必ず午睡をすることである。

それとお風呂場での水浴、これを日中何回か 繰り返し、夕方の2時間くらいは図書館で過ごしながら夏を乗り切ろうとしている。

何事もある程度、規則正しいリズムのような暮らしが、私には必要である。弓の素引きの稽古も、朝一番か、ほとんど午前中にやるようにして、午前と午後やることをくっきりと分けるようにしているのである。

以前のようには、ブログを書かなくなってきたが、これも自然の流れということで、まったく無理ということをしなくなってきつつある。現在ちょっと入れ込んで無理しているのは、弓の素引きくらいである。

それとなるべく栄養のバランスのいいものをきちんと食べ、夜はとにかく早く休み 体をいたわり、十分な睡眠をとるようにしている。

お陰様で何とかいい感じで、夏を過ごしながら、時折文章を紡いだりする余裕のようなものをかろうじて 生み出せる初老の夏である。

還暦までの私は、生活するのにいそがしく、落ち着いて学んだり、静かに本を読んだりする時間があまりに少なかったので、夢が原退職後は意識的に本を読む暮らしを心かけているつもりなのである。

本を読める時間というものは、オーバーだが、あたかも新しい世界と対話しているかのような純粋時間だ。


おそらくこれまでの人生で最もたくさんの本をこの、夏は読んでいるのではないかという気がする。本はいながらにして、私に多面的刺激を与えてくれる。本のない暮らしは考えられない。良い本との出会いは、至福である。


気づいた時には遅いということはないという言葉に縋り付いて、この年齢から(おそらくは続かないかもしれないが)読書ノートを付けたいとの気持ちが湧いてきた。

熱しやすく冷めやすい私だが、五十鈴川だよりも随分続いているし、書評切り抜きノートは10年以上続けている 。自然の流れの中で続いてゆくものは続くのである。

ところで65歳の今年 、あらためて生活全般を見直している。もって生まれたDNAや環境は変えようがないが、生き方は変えることができるということをこれまでの人生で私は学んできた。

遅いということはないのである。体の奥からサインが出てきたら、あらゆる関係性を見直さないと、安きに流されるという気がいまだ私はする。

夏の暑さの日中の五十鈴川だより、論旨にまとまりがないが、本日はこれにて。



2017-08-21

65歳の夏故郷で過ごす❷

岡山に越してから、この25年間、娘たちが小さいころから、何度故郷に帰ったことだろう。私は65歳になり娘たちは巣立ち、当たり前のことだが兄貴や姉たちの家族全員が歳を重ねた。

そしてこの間の世の中の激変。IT技術の途方に暮れるくらいの、デジタルイノベーションの技術革新には、とても心と体が、ついてゆけない(ついてゆくきもないが)日々を、還暦を過ぎてから特に感じながら生きている。(でも私はブログを書ける今を楽しんでいる)

今回のお墓のリニューアルを詣でる帰省旅は、いい意味での無常観に想いを馳せることが度々あり、やはり歳をとったのだということを自然に感じながら、それを受け入れてゆく覚悟のようなものを、受け入れてゆく準備のための、帰省旅となった。

話は変わるが、私が18歳の時上京した時に乗った急行高千穂は、日向から東京駅まで25時間を要した。

今回一般道を岡山から門川まで、途中の食事休憩仮眠を入れ、安全運転、片道20時間くらいで 走っている。今の私の年齢で、大変だとは ほとんど感じないくらいの体力気力を支えているのは、やはり理屈抜き故郷への回帰願望のゆえである。それと私は運転があまり苦にならない。
車で帰省する時には門川の前に立ち寄りたいと思う神社である

だが歳と共に、高速道路運転を控えるようにしている。人生の晩年時間くらいのんびりと景色でも楽しみながら、日本列島を南下しながらの帰省旅を楽しみたいとの思いが深まってきているのだ。

そういう意味で、今回の車での帰省旅は、低速運転しながら、音楽を聴きながら、この25年間をゆっくりと振り返り物思いにふけりながら運転でき、格別な良き時が味わえた晩年旅となった。

家族愛、郷土愛、祖国愛というが、故郷の海山河の素晴らしさは、かろうじて開発の難を逃れ、いまだ十分にわが脳裏の幼き日の原風景をとどめているので、そのことが私を故郷へと向かわせるのである。

ああ、日本列島の何たる山紫水明のわが故郷の清らかさ、我が65歳の心と体を穏やかに満たして清めてくれる。

そして思う、あと何回元気な姿でお墓参りがてら、姉や兄を訪ねる帰省旅ができるだろうかと、多分初めて今回しみじみと想いを馳せたのである。

いつ帰れなくなっても悔いのないように、帰れるときにきちんと帰り、昭和を共に生きた兄や姉たちとの旧交を温めたいと、思わずにはいられない私である。

13日尺間山神社から戻ると、姉の孫の、小学校3年の雛と、6年生の航生がいたので姉と私の4人で五十鈴川に夕方泳ぎに連れて行ったのだが、姉の孫が私になついてうれしかった。

私には孫がまだいないが、このような縁があれば兄や姉たちの孫に私がしてやれることが、私にはいろいろあるのだということも、しっかりと確認できた。

15日午前中、夏休みの思い出、雛と航生には宮沢賢治の朗読、雨にも負けずを最後まで声を出す特訓もしたのだが、二人とも熱心に声を出してくれた。お父さんもお母さんも喜んでくれた。

老いは持ち回り、歳を重ねる中での老いの役割ということを、姉の孫たちからヒントをいただいた。だてに生きてきたのではないということを、縁のあった孫たちにささやかに伝えたいものだ。

2017-08-19

65歳の夏故郷で過ごす、➊

11日から16日までお墓参りがてら門川に帰省してきた。考えた末車で往復運転した。行きも帰りも高速道路は使わず、2号線と10号線を休み休みただひたすら運転した。

今回も兄貴の家に3泊お世話になった。兄がプロに頼んで約半世紀ぶりにお墓が見違えるほどきれいに塗られていた。(ここから海が望める)

父が生きていた時に作ったユニークな屋根付きのお墓

それをとにかく見たかった。それだけがいわば大きな目的の帰省旅だったのだが、目的のお墓参りを済ませたら、兄が良いところに連れて行ってくれた。

13日大分の佐伯にある、修験道の山として知られる尺間山である。門川から一時間とちょっとで行ける。400段の階段がある登り口まで車でゆき、兄は下で待っていて私だけが神社のある頂上まで登った。

頂上からは眼下に佐伯の町と太平洋を望むことができた。参拝者は私しかおらず、神主の方ともしばしお話ができて、尺間神社は私の胸に刻まれた。

汗が噴き出たので、麓の清水でタオルで上半身をふいたのだが、その気持ちよさには言葉がなかった。

下山したら、兄貴が大きな水車小が廻る、近くの番匠川(ばんじょうがわ)に連れて行ってくれ、そこで昼食をしたのだが、この川の美しさには息をのんだ。

おそらく帰省した家族連れであろう人たちが、あちらこちらで川遊びに興じていた。こんなに大勢の人たちが、天然の川でまさに自然に回帰しているのを見ていたら、にわかに自分の少年時代が思い出され、兄も私もしばしの幸福感にひたることができた。

このところ長兄は私が帰省するたびに、門川近隣の自分が見つけた故郷探訪に、私を連れて行ってくれる。 よもや晩年、兄とこのような小さな旅をすることになろうとは思いもしなかったが、人生とはまさに未知との出会いの時間であるといわざるをえない。
動ける間は九州の山に登りたい
翌日、思わぬ兄との会話から、大分の久住山(標高1700以上)に登りたいかと訊かれた。ちょっとハードだとは思ったが、65歳の記念に急に登りたくなった。

天候は午後から下り坂の予報、義理の姉も同行し朝早く家を出た。登山口の標高がすでに1300メートル。8時前登山開始、兄と姉は途中まで 同行し、私ひとり山頂を目指した。

最後の山頂を見上げるところあたりから、にわかにガスが立ち込め始め、どうしたものかと思案したが、下山して来られる方たちが、視界は悪いが目印がきちんと見えるので大丈夫という言葉を信じ、深呼吸しながらゆっくりと歩を進めた。

午前9時40分、何とか山頂に他うことができた。山頂は風が強く 、写真だけ撮ってすぐに下山した。下で待っていた兄と合流し、一緒に下山したがそのころにはふもとまでガスが立ち込め、かすかに雨も落ち始めていたので、運に助けられた。

やはり、1700以上の高さの山は、雄大で嶮しく、その魅力に私は染まった。久住の連山に帰省の度に登ってみたいという誘惑抑えがたい。

九州人の私の琴線をくすぐる九州の山の魅力、久住山は存分にその魅力を私に植え付けた山旅となった。(兄夫婦に感謝)

兄もこの5月に初めて登ったとのことだったが、故郷の山は有難きかなというしかない。長くなるので今日はこれくらいにして、続きはまた時間を見つけて書きます。

2017-08-09

長崎に原爆が落とされた日の朝ブログ

8月9日の朝である。今夜は週に一度のシェイクスピア遊声塾の日である。かなり悩んだ末塾を立ち上げて早5年目の夏を迎えている。

ただただ単純に、毎週毎週、あの膨大な作品群の膨大な長いセリフの、言葉言葉を声に出している。なぜ今、自分がこのようなことにある種の情熱を傾けているのか、ようやくにして少し考えてみる。

それはきっと27歳で(最年長でした)文学座の俳優養成所を経たのち、シェイクスピアシアターで3年間明けても暮れても、アルバイトに明け暮れながら、30歳まで口を動かした、あのギリギリの経験があるからなのだと思える。(おもえば18歳で世の中にでていつもギリギリのところで何とかしのいで生きてきた感が否めない)
高村薫さんや団塊世代の本をこのところ読んでいる

人は 追い詰められ、ギリギリの場面になると思わぬ自分が生まれてくるという経験を始めて、演ずるという行為を通して学んだように思う。(ごまかせない何かが生まれてくる)

結局体が悲鳴を上げ、蕁麻疹が出たのを機に 大転機をむかえ、わが体と心は、青春時代最後の大勝負、富良野塾に(ここでも最年長でした)向かうことになるのだが、ここでもまたギリギリまでわが心と体はそれまでの人生では経験したことのない試練をあたえられる。(いまとなっては青春最後の宝)

その後、一人の女性とのご縁から私の人生は一気に安定するようになって今を迎えているのだが、夢が原退職後の今後を考えた時に、逡巡の果てに思いついたのが、シェイクスピアを今再び声に出して読んでみようとの、自然な思い付きの流れだったのである。

夢が原での企画者としての仕事が長かったので、いつしか自分でも忘れそうになっていたが、自分の一番得意なことは、シェイクスピアシアターで習ったあの声を出すことではないかと、はたと思い至ったのである。

よもやまさか5年間も塾を続け、(このような私のきわめて個人的な塾に数は少なくとも参加してくださっている塾生のおかげもあるのだが)られていることに関して、時折不思議な思いにとらわれるが、五十鈴川の流れのごとく、紆余曲折の果てに65歳の夏、ささやかに情熱を傾けられる心と身体があるということの有難さが、しみるのである。

この世に生を受け、たまさか出会えた貴重極まる塾生と声を出しあいながら、玉響の時を過ごせるなんて、至福である。そして、このようなことがいつまで続けられるかはまったくわからないが、とりあえず、いまはでる声と体にしがみつき、今しばらく声を出す暮らしを続けたく思う私である。そして、声が出せなくなったら、潔くあきらめようと思う私である。



2017-08-01

またしても土取さんは、添田唖蝉坊の演歌世界、一期一会のライブ、歌声で私を驚かした。

昨日午後わずか2泊3日の東京旅から帰ってきた。西大寺の駅に降り立ったら東京とは異なる猛暑で、正直わが体は疲れている。

が、こころには何やら涼やかな風のような感覚が流れていて、ほぼいつもの時間帯に目が覚めたので、起きて水を浴び何やらつづらねばという気持ちを抑えられない。

土取利行さんからの案内状を目にし、正直瞬時迷ったのだが、ゆこうとすぐに決断し、出かけて本当に良かった。悩んだときはできるだけ細い道をゆくようにしている。

土取利行さんがシアターXで行う邦楽番外地は今回が5回目。そして初めて今回女性のシンガー松田美緒さんがゲストとして招かれていた。

明治大正時代、製糸工場や廓に売られてゆく女性たちに想いを寄せる、添田唖蝉坊、知道親子2代の演歌を歌うのには、やはり女性の声が絶対的に必要だとの思いで、土取利行さんは、きっと胸の中で探し続けていたのだろう。

パートナーの桃山晴衣さんが お亡くなりになって早10年近く、ようやくにして土取さんは桃山さんが遺した添田唖蝉坊の演歌が歌える女性歌手と出合ったのだということが、まさによく伝わってくるライブだった。また教科書などでは伝えられない歴史下の庶民、大衆の声なき子が聞こえてくる。

単なる歌を聴く音楽会ではなく、まさに明治大正時代の底辺社会を生きていた、生きざるを得なかった女性たちのゆきどころのない、怒り、痛み、切なさ、やるせなさ、呻き、叫び、悲哀が、親子ほど年齢が離れた二人のコラボ演奏から澎湃と伝わってきた。

生でのライブでしか味わえない醍醐味、その場に居合わせたものだけが体で丸ごと感じる一期一会の絶対時間というしかない。

二人の軽妙なやりとりが場を和ませ、ややもすると震感とせざる負えないような重い内容の歌が、唖蝉坊のひょうひょうとひねりのきいた歌詞が、ファドをはじめとする多様な国々の、世界の悲しい女性たちの歌を歌う松田美緒さんの鍛えこまれた声で歌われる。

楽器としての何たる魔法のような声の素晴らしさ。どうしたら何かが乗り移ったような声が出るのか、謎である。

ほんとうに久しぶりに女性の生の魂を揺さぶる声のライブを聴いたのは、ひょっとしたら何十年ぶりかもしれない。レコードやCDでは、いくらでもヴァーチャル再生昔の歌を聴くことができるが、生では2度とかなわぬからこそ、やはり出かけてゆく。(それにしても魂を揺さぶる歌い手の何といなくなったことか)

人は出会うべくして、やはり出会うのだ、思える。私の人生の音の世界の水先案内人である土取さんは、またしても世代の異なる(しかし共通する世界を持った)素敵な女性の歌い手と新しい仕事を見つけていた。宮崎の言葉で魂げるという言葉があるが、まさに魂げた。

この年でも、まだまだ魂げる私自身がかろうじて息づいている。 魂げるわが体と心に従って今しばらく、しっかりと生きてゆこう。日々まとわりつく精神の垢のようなものをあらいながら。

あだやおろそかに残された貴重な人生時間を費やしたくはない との思いは、ますます深まってくる。

真の芸術家の仕事は、時代の深層を見つめながら、深刻にならずひょうひょうと歩き続ける胆力と勇気を併せ持つ人のことであろう。

それにしても、土取さんは私より少し年上のはずであるが、その若々しさ、唖蝉坊が乗り移ったかのようなライブを見ることができたこと、繰り返しになるがわざわざ東京まで出かけた甲斐があったことは何としても五十鈴川だよりに書いておきたい。

そして、このような稀な人間と出遭えた幸運を胸に刻み、ささやかに 土取さんの活動を応援したい。