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2013-12-30

年の瀬、畑でこの2013年を振り返りつつ、ご縁のあった方々よいお年を。


お正月休みに入っているのだが、何とはなしに風の音がし、寒いと畑の我々が機械で植えた葱がどのようになっているのかが、気になる。働き始めて早三月、にしかならないのに、もう半年くらい、サンナンで働いている気がしている。

 

そんな訳で、昨日の午後は一人畑で過ごした。葱の補植と、それをしながらマルチの上に土をかけてゆく地道な作業。風が冷たく、手先足先が冷たくなってくると、車に戻って手先を温め、又続けることの繰り返し。

 

行ってよかった、年内にやれることはやって新しい年を迎えないと、何か内なる悔いが残るのである。小さき葱の苗は本当に大きくなってくれるのだろうかと、素人の私としてははなはだ不安なのである。

 

きちんと植えること、先ずそれをしっかりやりたい。来年春、今植えた葱がどのように育ってくれるのか、私としては本当に楽しみなのである。

 

年の瀬、寒い畑で一人ぽつねんと働いているのは、何やらさみしい光景に映るかもしれないが、やっている本人は、存外、大変ではあるものの、やった成果が正直、如実に表れるので嬉しい。何よりも我々の畑なのだし、この葱はきっとどこかのだれかの口に入る。

 

そういう仕事に巡り合い、その仕事で生活できるなんてことは夢にも思わなかったので、私としては、悔いなく出荷できるまでベストを尽くして、育ててみたいのである。

 

話しは変わる、昨夜のニュースで冷凍食品から農薬が検出されたと報じられていたが、完全無農薬、無化学肥料でも、素晴らしい葱をすでに専務とF氏が創られている。A専務の農に賭ける取り組みは、私をして感動させる。利潤を出す農は限りなく難しい。

 

がしかし、A専務はその綱渡り世界を、へらへらと柳のように、風に揺れながら進んでいる。このような企業人と出会ったこと、そのことが今年の一番の大きな出来事である。

 

ヒトは何がしかの喜びや、感動、幸福感というものを、体感することのために、この世に生を受けてきたのではないだろうか、という素朴な考えを、私は個人的に持つ側にいる。

 

ヒトが生きるためには,いろんなことが必要(だと思い込まされてはいないだろうか)な複雑極まる世界に、一見なったとはいえ、ヒトは食べないと、飢えて狂人と化す。食べ物というもっとも肝要な世界に、一歩足を踏みいれたにすぎないが、命の元、安心して口に入れられる作物を育ててみたい。

 

誰だって農薬に汚染された、どこで採れたのかもわからない、自分の口に入れたくはない物をヒトに売りたくはない。人間に良心というものがあればである。

 

このような極めて当たり前のことが、偽装(をしないと利潤がでないあらゆる経済活動は、むなしすぎます)をはじめ、あまねく当たり前ではないことに関して、異を唱えることに、不寛容な世相は、いとおかし、と小生は思う。魂とお金の悩ましき、永久の問題。

 

年の瀬、少し長めのブログになってしまった。ここまで読んでくださった方、今年一年本当にありがとうございました。来年も良きお歳を、と祈ります。五十鈴川だよりは、お正月休みに入ります。

若き日、イギリスで見た芝居のチケット(久方ぶり二階の書斎で過ごしています)

2013-12-29

藤原新也さんの作品が我が家に届きました、幸福感に包まれています。


とりあえず階段の壁に収まったMOONHOUE
これからしばし、お正月の間はすべての身体の諸器官を緩めたいという、五十鈴川だより、いい意味での心地よい疲れが身体にしっかり蓄積されていて、今朝も6時近くまでぐっすりと寝んでいた。やはり年の瀬、何かと忙しくしばしブログが書けなかった。

 

昨日から長女と婚約者のレイ君が帰省し、母もお正月は一緒に過ごすので我が家は一気ににぎやかになってきた。

 

さて、私が藤原新也さんのWM、CatWalkを愛読している事は、このブログで触れているので御存じの方もおられるかと思います。

 

簡単に触れますが、その会員にクリスマスプレゼントとして、氏のリトグラフ、石版画が限定で頒布され、すぐ二作品を申し込んだのだが、幸い抽選で二作品とも我が家に届けられた。私は、勝手な一方的藤原新也ファンである。

 

小さい、【満月の夜のざわめき】は、クリスマス前に。大きい【MOONHOUSE】は26日の夕方に届いた。年の瀬、我が家にやってきた大きい作品を前にして、私は格別の感に耽っている。

 

驚いたことがあった。26日、仕事中は持ち歩かない私のケータイに、着信があるのに夕方気づいた。開くと前日も同じ方から着信があり、記憶にない方からだったので、気になってこちらからかけてみたら、なんと、藤原新也さん本人だった。作品が届くのとほぼ同時に。

 

この25年間に、4回位はお会いしたことはありますが、電話とはいえ、長く話したことは初めてで、いい歳をしてファン心理とは妙なもの、理屈抜きで緊張した。それは楽しく嬉しい喜びの緊張だった。

 

何故お電話を頂いたのかは省略するが、上京する折には私の娘(長女)も共に、一緒に御飯でも食べようとおっしゃってくださった。藤原新也さんと一緒に食事をする姿を想像すると、やはり嬉しくも緊張するだろうなあ。私にしかわからない喜び。

 

藤原新也さんに、初めてお目にかかった日のことは、ハッキリ記憶している。私が富良野から帰って、千葉の浜金谷というところで、小さな丸太小屋を友人たちと建てていた時だから、34歳の頃妻と出会う直前の出来事。その日のことは、またきちんといつの日か書きたい。(藤原新也さんは現在もその近くで、週末を過ごされている)

 

私は月が好きである。長女は満月の夜に生まれたので、満智という名前である。その娘が来年結婚するので、藤原新也さんの作品(満月の夜のざわめき)をプレゼントすることにした。親ばか丸出しで、なんとも言えない喜びに満たされる。

 

おそらく、長女が生まれなかったら、東京から岡山に移住はしなかったかもしれない。藤原新也さんとの出会い、妻との出会い、娘との出会いが、私の人生を岡山に導いてくれたのである。

 

あれから24年の歳月が流れた。その長女が結婚する。私は再び新しい農の仕事に従事している。そのいわば門出に、藤原新也さんの作品が届いたこと(何かがお祝いしてくれたのだと勝手に思っている)、我が家にとってこれ以上めでたいことはない。

 

 

 

 

2013-12-25

クリスマスイブ、畑で風でめくれたシートと格闘する


お財布にいくばくかのお金がないと年の瀬は、いささか寂しき感が否めない気がやはり少しします。いきなりこんなことを書くと、朝から時間もないのに、と我ながら呆れるからやはりよすことにし、又余裕にあるときに書くことにします。

 

今日はクリスマスですね。すっかり我々の暮らしに溶け込んでいますが、私の家では家族でつましくケーキを頂く程度で、特別なことは何もしません。

 

寒くて雪でも降れば、もっと幻想を育めるかもしれませんが、独身時代何度も寂しきクリスマスといいますか、わびしき年の瀬を体験してきた私にとっては、現在の妻と巡りあって以来、全くつましきながらも、暖かき年の瀬を送らせて頂いていることに関して、素直に感謝の言葉しかありません。

 

さていつものように話題を変えますが、昨日午後畑のマルチのシートが風でめくれ、現場には私しかおらず、鍬で土をかけシートを又元のようにするのを2時間以上一人で格闘しました。

 

明日風がやみ、他にヒトがいる時にでも、とは考えたのですが一人でやろうと思ったのです。こんなにも風が恨めしく感じたのは、久しぶりのことでした。土をかけてもう少しというところで、まるであざ笑うかのように、まためくれてしまうのです。

 

3回繰り返し、さすがにもうやめようとも思ったのですが、なんとも悔しく、少し風が弱くなった時を見計らって4回目、なんとか成功しました。我ながらいい年をして腰も痛いし、オーバーではなくいま現在の持てる力、根気との我慢比べでしたが、なんとか覆った時の、嬉しさはやはりやった者にしかわからない、こないだも書きましたが充実感が、ありました。

 

クリスマスイブの日に、一人畑で風と戯れている、初老の男である自分を見つめていました。こんなことをやっているヒトは世界の津々浦々にたくさん存在している、そんな感覚が、にわかに感じられたのです。見えない人との、無言の連帯感、想像力の無限の力。

 

寒さもなんのその、終える頃にはすっかり身体がぽかぽかになり、冷えないように気をつけて、ケーキを買って帰宅しました。

 

帰ると、娘も可愛いケーキを買ってきてくれていました。冷えた体にお風呂が最高でした。

 

夕食後、3人でささやかにクリスマスをお祝いしました。

 

2013-12-23

年賀状は手で書くことを決めた年の瀬の朝


ブログを書き始めてからわずか4年の間に、とてもではないが書ききれないくらいの私の知っている著名な方々がお亡くなりになっている。もちろん私の知らない方々は、世界中でもっともっとたくさんなくなっているのには違いない。そして今年もまた。

 

ああ、あの方もなくなったのかと、柄にもなくときおりわたしは、何かの感に耽る。若いころはこのような感慨の深さはなかった。つまり生きるに忙しく(それが普通だと思う)死はもっと遠くにあるかのようにしか、考えられなかったのだ。

 

今は違う、一仕事終え、還暦も過ぎ、いい意味で死は、私には身近とまではいかなくても、遠いという感覚はない。我が娘が来年は結婚する、もしかしたら私は数年先にはおじいさんになるかもしれない。一寸先どのようなことが起こるやもしれぬ可能性の高い、まさに大変換時代の渦中を生きているという、認識がかろうじてある。

 

だからこそ私は、今を生きることに関して、いい意味で貪欲でありたいと、考える立場だ。
貪欲、という表現はいささか誤解を与えるかもしれないが、老いに向かう世界を、肯定的に捉えながら、一日を過ごせるかということを、考え続けたいのだ。

 

本音と建前の、日本社会というパラダイムを、もう私の中では、消してしまいたいというくらいの感覚が、育ってきてしまったという認識だ。限りなき自己矛盾からは逃れられないが、可能な限り本音で生きてゆくことを、これからの人生では選択してゆきたいという心もちなのだ。

 

そこで年の瀬の恒例年賀状も、リセットすることにした。出す出さないとかの次元のことではなく、何か今を生きている波動を感じられる方がた、好きな方に、出すという感じ、当たり前だとは思うが、この当たり前が、当たり前ではない所が、日本社会を円滑にしているのかいないのかは、私の頭では定かではない。

 

というわけで、書きたくなる人に時間をかけて、年が明けて門松がとれるまでに、文字を書いて、昔父がやっていたように、父の硯で書で出すことにきめた。

 

私が手で文字が書けなくなった時が、年賀状の終わりにしたいと思っている。私という器は、血と肉でできている。そのことを生きものとして、忘れたくはないという自己認識の側に私はいる。

 

やがては思考も動かなくなる、でも今は動き考えることができる。ありがたいことだ。

 

2013-12-22

年末年始は可能な限り静かに過ごしたいと願う、年の瀬の休日の朝


2000年西インドの旅で買ったガネーシャ

最近は小市民なんて言葉をほとんど聞いたことがない。小さき庶民、つまりは私のような輩は自分のことをどのように考えたらいいのか、皆目分からないが、こ難しい理屈抜きで私は自分のことをたんなる、ごく普通のどこにでもいる労働者である、という認識くらいしかない。

 

無知、無学歴であり、横着である私がなんとか生きてこられたのは、ヒトと巡り合う運がいくばくかあった(遭った)ということと、痛い思いをしながら、少しは知恵がつき、考えながら、後ろ向きに生きなかったからだろうと思う。

 

生きてゆくためにほとんどの人は、私も含め未曾有の忙しい時代を働いている。こうも忙しいと、人間は自らの頭で考えるということが、あだやおろそかになってしまうのではないかという気がしてしまう。ヒトは何故、かくも搾取(これもとんと聞かぬ言葉)されながらも生きるのか。

 

私ごときでさえ、いささかの不安を覚えるくらいだから、知恵の楽しみ、思考(考えるお安いご用)の楽しみ、を見つけるべく、初老の私は若き頃の自分とはまたちがって、じたばたと、思案、思案のしどころをお恥ずかしくも生きるのだ。

 

一寸の虫にもいくばくかの魂、我が身の魂が、どこにあるかなきかも、とんと深くは知らねども、こうやって何がしかの思案を積み重ねる営為は、奈辺から湧いてくるのかは自分でも、正直分からない。

 

だが、分からないけれども、湧いてくる。そのことに蜘蛛の糸のようにすがりつつ、生きてきたと言っても過言ではない、おそらくこれからも今しばらく。

 

こんなことを、2013年の年の瀬に考えられるなんてことは、ちょっぴリ幸せなことではないかという、自覚が私にはある。

 

読んだことはないのだが、ロシアの小説家のタイトルに、知恵の悲しみ、というのがある。知らぬが仏、ということわざもある。五木寛之氏は今の時代を鬱の時代と喝破してもいる。

 

ゆめゆめ油断せず、地に足のついた夢を見るべく、年末年始は静かに過ごしたいと考える、五十鈴川だよりである。

 

 

 

 

2013-12-21

粉雪舞う中、畑の命、長いこと土に埋もれていた、灌漑用水道バルブを、サンナントリオで発見しました


今週は土日がお休み、約10時間近く寝て、(本当によく寝た)先ほど起きて静かなお休みの朝を迎えている。コーヒーがうまい。妻は今日から3連休なので、昨夜はことのほか嬉しそうにしていた。

 

妻の仕事をしながら、フルタイムで働いているので、私は8歳年下の妻にほとんど頭が上がらない、これはのろけでもなんでもなく、全く現在の妻と27年前、とある場所で出会わなかったらと、考えるとゾッとする。

 

10年後、もし私が元気であったなら、妻との出会いのことを書きたいのだが、今はまだ何やら気恥かしい(こういう秘密はあってもいいのでは、出し惜しみではなく、美化しそうで、ただ気恥かしいのだ、やはり古い人間だと思う)

 

家は、何もしないと埃まみれになってしまう。人間もやはりそうではないかと思う。妻は働いているので、やりたいことは週末集中してやっていて、頭の中にはやりたいことがたくさん詰まっている。これからは妻との時間を共有したく、可能なことをやってゆきたく思う。ガーデニングが好きな妻と、共に過ごす時間が増えそうな案配だ。

 

さて昨日は粉雪舞い散るサンナンの畑で、午前中F氏とN氏の3人で10年近く放棄され地中に埋もれていた、灌漑用水のバルブを畑の図面を見ながら、その場所探しに狂奔した。狂奔という言葉がまさにまとを得ているかのようにオーバーではなく、あたりをつけた周辺を鋤やスコップで掘ってみるのだが、掘れども掘れどもあたりなし。

 

寒い冬だからこそ可能だが、夏だったら間違いなく熱中症で3人とも倒れていただろう。それくらい掘り進んだ。畑と斜面の際を10メートル近く進み、ちょっと絶望的気分になり、休憩しようとしたその矢先、F氏が大人にはあるまじき素っ頓狂な声を張り上げた。在った。

 

何と、掘り始めの少し手前の場所に、そのバルブはわれわれの筋肉肉体労働を、無視して静かに眠っていたのである。我々は反対方向に掘り進んでいたというわけだ。でもまあ、発見できたことでの我々の喜びは、半端ではなかった。やった者にしかしかわからない事があるのである。

 

何やら、へなへなと気が抜けたように嬉しかった。何事も明らかになるまでは、あきらめてはならないのである。徒労に終わったとしても、徒労を楽しむ位の余裕が一回こっきりの人生必要なのである。サンナンの若きエースF氏の情熱に、初老の私とN氏が寄り添いながらの男トリオ。まだわずか3カ月にも満たない仲なれど、そのわずかな労働の時間の中でのバルブ発見は、バブルではない。

2013-12-20

淡々とポットにネギの種を移植しながら、静かに一人で過ごす年の瀬

サンナンの農を支えるF氏が自費で作ったストーブ

何か淡々と小さき日々が過ぎてゆく、そのことがどれほどに有難く幸せであるのかを、充分に自覚できる年の瀬の朝ブログ。

 

最近夜はほとんど何もせず、ニュースの類もほとんど見ず、TVも頭をからにし、旅の風景番組を多少観るくらいで。9時過ぎには横になりひたすら身体を休めるような生活を、農の仕事を始めてから送っている。

 

農の仕事はからだを使うせいか、とにかく良く眠れる。年をとると眠れなくなるなんてことをよく聞いていたが、我ながら感心するほどに良く眠る。

 

おかげさまで家族もみんな元気で、心配事が今のところ全くなく、健康であるからこのようなある意味での、脳天気なブログもかけるのだと、何かに静かに感謝する私である。

 

ところで、私個人のことはともかく、時代の空気感はやはりとんでもなき時代に向かおうとしているのではないかという感はぬぐえない。がしかしいつの時代も人びとは、あまたの困難な時代を生き延びてきたのであるから、私自身は私自身の生活をとりあえず生きるしかない。

 

(あんずるより産むがやすし、清水の舞台から飛び降りる、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ)

 

特定秘密保護法案を始め、国の根幹に関する、国民にとって最も肝心なことが、何か眼に見えない、大きな力によってきめられてゆくことに、私個人は不気味さを押さえることができない。

 

何やら、ごまめの歯ぎしりのような感、無きにしも非ずだが、ささやかに心を共有できるような感性の方々と連帯しながら、穏やかに今を生きる術を、日々生活しながら考え続けたい。

 

ハムレットはいう、この天と地との間には、哲学など及びもつかにことがあるものだ、と。まさに、一寸先の未来は全く予断を許さないことが、起こる懸念をぬぐえない時代の年の瀬だという気はするものの、悲観的になる愚だけは避けたいと私は考える、五十鈴川だより。

 

昨日の午後ひとりで、葱の種をポットに入れる単純作業をした。風もなくそんなに寒くもなく、一人山を歩くような感覚で過ごしたのだが、慌ただしき浮世をしばし沈思黙考するには最高の時間を、職場で過した。

 

 

2013-12-19

雨の日に、ネギを植える定植機械が届き指導を受け、夜は声を出す。

F氏が作ったロケットストーブ(暖かい)

先週も書いたが、水曜日は一日が長いのだが、その一日はあっという間に過ぎる。昨日はあいにくの雨だったが、首を長くしてまった葱を植える定植機が届いた。

 

開発された方がやって来られ、ぬかるむ畑地で雨の中動かし方の指導を、F氏と共に約30分受けた。雨だったのでそれ以上は足場がぬかるんで、不可能な中なんとか最低限の指導を受けた。

 

最悪のコンディションの中での現場指導ではあったが、なんとか終えることができた。なにはともあれ、利益がまだ出ない中専務が、新たな投資を決めたことで、この広い畑に葱を植え、春には収穫できる青写真がえがける。

 

働かせていただける私としては、ともかくやれるだけのことはやらねばならないという、新たな気持ちが湧いてきた。わずかなスタッフではあるけれども、やる気で皆まとまっている。そのことが私としては一番うれしい。農業はチームワークがすべてなので、以心伝心で物事が運ぶ、サンナンの農チームは今のところ申し分ない。

 

後は身体を大切にケアーしながら、一日一日を大切に働きたいという思いだけの、このところの寒さの季節に思うことだ。

 

サンナンの現場から家に帰り着かえをし、頭を切り替え車で岡山へ。天神山プラザで6時過ぎからから、7時まで体操をしてから、9時近くまでY氏と二人でシェイクスピアを読んだ。師走は全メンバーがそろうことは難しい中、Y氏は熱心で何よりも心に余裕がある。

 

二人きりで夢中になって声を出していると、いつの間にか年を忘れ、なんとも言えない子供時代に帰っているかのように楽しくなってくるのが、お互いに分かってくる。そのことが自覚できるからお互いに続いているのだろう。

 

だれにも邪魔されず、一心に集中してやれることがある時間は、はなはだ贅沢な時間だということを深く身体で実感する。シェイクスピアの作品の珠玉の宝石のような言葉を誰がしかと共有しながら、声に出して遊ぶ。

 

声を出すことは、はなはだ体力がいる。現在の自分の心技体を量るには、シェイクスピアは手ごわい。だが続けられる間は挑戦し続けたい。なぜならやがては声が出なくなる人間は器だからだ。

 

 

2013-12-17

農の仕事に出かける前のひととき、コーヒ―タイムブログ

ポットにネギの種を入れる手順をN氏に指導するF氏

お休みの日は、全く異なる時間を過ごしているけれども、不思議とサンナンの畑が眼に浮かぶようになった。このことを私は一面不思議に感じながらも嬉しく思っている。二日も畑にゆかないと何か随分行っていないように感じるのだ。

 

本当に畑仕事というのは、天候に左右されるのでなかなかに物事が人間の思うようにははかどらないし、立ち行かない。あくまで自然に寄り添い、耳をすませ、自然の反応を伺いながら事を進めてゆくしかない。まだ2ヶ月半しか働いていないのだが、随分といろんなことを体験させて頂き、自分の晩年ライフがにわかに、ささやかに、充実感をましてきていることを日増しに感じている。

 

今日もこれから仕事に出掛ける前に、さあ、今日はどんな一日になるのかと、ちょっぴりと楽しみなのだ。先日植えた青梗菜達は、この寒さの中無事にかっちゃくしたか気になるし、自分で植えた玉ねぎがまっすぐに伸びているのを見ると、やはりそこはかとなく、嬉しいのである。

 

日々何がしかの変化を伴う、農の仕事というのは、一仕事終えたこれからの熟年、晩年世代にはことのほか重要な仕事として、企業だけではなく、政府もきちんと生きがいライフとして、充分に取り組む価値があるのではないかと私には思える。

 

そしてこれからの、不確かな未来を生き抜いてゆかなければならない若い世代にも、先ずは作物が育つことの、体感教育として、国が率先して取り組んでゆくことが肝要だとますます感じている。人間健康な身体がすべてだと思う。身体なくして、心育たず。

 

土に触れ、身体を動かし、自分が土と繋がっている感覚を、先ずは取り戻さないと、生きものとしての、まっとうな感覚、命が見えなくなる。そのことを先ず責任世代が取り戻さないと、この国の未来は暗澹とした国になってゆくのは、私には眼に見えるような気がしている。

 

そのためには、理屈抜き先ずは自分から始めないと説得力がない。いい歳だが、このようなチャンスが人生に訪れたのだから、歳のことはしばし忘れて一日一日を大切に取り組んでみたいのだ。そのために他のことができなくなってもいい、位の気持ちになってきた。

 

 

2013-12-16

20代後半にニキ―タ・ミハルコフの作品に出会えた幸運をかみしめる


岡さんからのコメントで、ニキ―タ・ミハルコフの、太陽に灼かれて・戦火のナージャに続く三部作完結編がいよいよ、来年封切られるとの情報コメントを頂きました。

 

私はもうほとんど映画や舞台そのほかの芸術や芸能作品は、よほどのことがない限り足を運ぶことが少なくなりました。それは娘たちを育てることが生活の中心になり(そのことが愉しく面白かった)御こずかいが、そちらの方には使えないという現実的な要因もあるのですが、もう充分に一生分すでに観た、聴いたという思いで満たされているからではないかという気がしています。

 

20代の感性が最も柔らかい時に、たくさんのすぐれた作品に巡り合えた幸せ、そのことにいま持って大感謝しています。だからこそ、ゆったりと、安心しながら枯れつつも生きて大地のリアル画面に向かっているのではないかと、考えています。

 

それと私の感性が、今の時代にそぐわないということもありますね。40歳で都会から田舎にひっこしを決めたときから、主に都会(的感性)でつくられる興行的な作品には興味を無くしてきたことも大きいと思います。(そんな作品ばかりではないことは重々承知しつつ)

 

この22年間、私はそれまですでに出会ったすぐれた文学・およびあらゆる芸術作品の数々に支えられて生きてきたし、今もそれらの作品のおかげで生きているとい言ってもオーバーではないと思うくらいです。

 

しかし、ニキ―タ・ミハルコフの新作は何としても、きちんとした映画館でしっかりと何度でも見たいいですね。岡さん知らせてくださってありがとう。私がまだ東京にいたときに、シェイクスピアシアター時代、20代の後半、時代はまだソビエト社会主義連邦と言っていだ時代、その当時、(の時代の)ソビエトの映画を見る機会というのは東京でもほとんどなかったのですが、何故か今でもはっきりと思いだしますが、東京の千石の三百人劇場でソビエト映画の特集があり、そこで私は、機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲、(なんともすごいタイトル)という(原作はチェーホフ)フィルムを見ました。その監督が忘れもしないニキ―タ・ミハルコフだったのです。

 

そのフィルムは、私のソビエト映画にたいするイメージを一新しました。瑞々しく詩的で、抒情性に溢れ、ユーモアがあり、人間を見つめる目線が、冷やかで、がしかし温かく、なんとも言えない、独特のミハルコフタッチ、世界があって私を魅了したのです。

 

以来、光と影のバラード・黒い瞳・オブローモフの生涯・シベリアの理髪師は映画館で見ています。12人の怒れる男・以降はDVDで。

 

私が岡山に越してからは、残念ながら映画館で観るチャンスがぐっと減ったのですが、私はやはりこれらの作品はいい映画館でしっかりと一人で見たいですね。

 

骨太のスケールの大きい作品を撮る監督が減ってきたように私には思えます。デビットリーン、(ライアンの娘)ビスコンティ(山猫・すごい)、チャップリン(独裁者)、映画も舞台も、その時代を真の意味で生きた人間が創る、それは常に新しい。

 

フェリー二(崖)、ジョンフォード(わが谷は緑なりき)ベルイマン(処女の泉)アーサーペン(奇跡の人)アンドレイタルコフスキー(ぼくの村は戦場だった)サタジットレイ・・・。

 

話がそれた、ニキ―タ・ミハルコフの新作は必ず見ます。理屈抜きのミーハーファンですから。暗闇の中で大画面の映画を見ることは、夢の至福の時間、子育てもほぼ終わりましたから、きっとこれからは、地面と画面の往復運動をする時間が増えてくる気がしています。

 

久しぶりにお正月は映画館にゆきますか。過去の素晴らしい作品を若い人たちにきちんと見てほしく、そんな国立映画館が各県にないと、文化国家とはいえないと思います。いつ行っても低料金で過去の名作に触れられる、特に日本の名作に。

 

きりがないので今朝のブログは、これくらいで。

 

 

 

 


2013-12-15

2013年、師走半ばの日曜日の朝に思う

開墾する前の休耕地

日曜日、それも師走も半ばの。世間のことはともかく私自身はこの間も書いたが、なんともはや穏やかな夜明け前の朝を迎えている。仕事は御休み、お礼のお手紙や何かとやらねばならぬことはあるけれども、起きてからの数時間はいわば、晩年時間の至福のひとときである。

 

昨夜は母が泊りにきて、何かと楽しい時間を過ごし、いつものように母に指圧湿布をしてもらい、母に作ってもらったペットボトル(を布でくるんだ)の湯たんぽでぐっすりと休んだせいか、ことのほか快調な朝を迎えることができ、ありがたき幸せである。

 

長女が来年の秋結婚する予定、二女は成人式、家族の時間というものもやがては自然の摂理にしたがって緩やかに変わってゆく。だからこそ今の時間というものを大切にしたいとの思いは私の中でますます強くなってきている。

 

また働き始めたとはいえ、家から近いし健康でありさえすれば、これ以上には望めないほどの仕事に巡り合い、この間も書いたが、私としてはもっともストレスなき穏やかな日々を過ごしている。母や、妻や、娘と和気あいあい過ごせる時間というものは、長い人生そんなには多くない、限られている。

 

話は変わるが、2011年秋、マイコプラズマ肺炎で、10日間人生で初めて入院したことがある。その時このまま死んだらと少し考えたとき、私は8割は満足だがもう少し生きたいと考えた。

 

残りの2割は何だったか、うまくは説明できない。その残りの2割を、今考えながら生きているといってもいい。生きて考えているからこそ、介護の資格をとったり、企画する内容も変化したり、農の仕事にも巡り合ったのではないかと考えている。

 

夢が原を辞める覚悟を決めてから、丸二年が経つのだが、こんな2年後を迎えていようとは、思いもしなかった。これまで5回ほどの私にとっての大きな転機を経験してきたが、可能なら今後はもうそのような経験はしたくない、なんて考えてもやはり物事はそうは問屋がおろさないだろうと考える。だからこそ、普段が大事だ。

 

人生、悲喜こもごもだからこそ、感動もあるわけなのだから、茨の道ではあっても、自分で選択し歩んだのであれば、おのれを信じて歩むしかないというのが、偽らざる私の今の気持ちである。

2013-12-14

4年近くかかりリセット、一区切りの実感が湧いてきた師走うの朝


希望の畑

いきなり朝からゴメンナサイ、現時点でほとんど私がブログで書きたいことは、この4年間で書き尽くした思いが私にはあります。

 

私のただ個人的な、無知蒙昧・我が儘・あるがまま・日常身辺雑記・無目的思いつき、自己慰安ブログを読んでくださった方々、長い間心より感謝しています。といっても急に止めるということでもありません。私の中では、うまく言えないのですが、この間の上映会を持って、一区切り、リセットできた感じがしております。

 

ますますもって、極めて個人的なことを書きつづけることに終始してゆきながら、これからは家族をはじめとする身近な大切な方々と過ごしてゆきたいという思いが募ってきました。
 
この数カ月毎日のように、土の世界に触れていることが、何か私をして別なこれまでとはとは異なる世界へ向かわせているような気がしています。

 

ブログを書かなくても、土に自己慰安されているような、ブログとはまた異質な充実した世界が見つけられそうな、そんな感じなのです。ほとんどコメントの無い私のブログに、びっくりするようなコメントを頂いたことも、書きつづけてきてよかったと思えました。

 

やはり、手ごたえのある何かを探すために、書きつづけていたのだということが、まだわずかな時間ですが農の世界を体験することで、そちらに身体がすごく手ごたえを感じています。

 

なにやら、いつものように脈絡なき朝ブログですが、これからは虚業と実業を合わせ、よりバランスのとれる、晩年ライフスタイルを見つけてゆきたいと考える私です。

 

さて、この冬一番の寒波がこの数日列島をおそっている、風の冷たい昨日の午後、ひとりでサンナンの畑にベビーリーフ、サンチェ、青梗菜、の野菜を2時間近くかけて植えました。

 

とりあえず、F氏が育てていた苗を実験的に植えただけなのだが、3種類を一列植えるのにそれくらいの時間を要した。指先が寒風で冷え、久しぶり30年前富良野で畑に這いつくばっていた時の、肉体感覚を思いだした。

 

何も考えず、ひたすら玉ねぎを植え、ニンジンを間引いたあのときのあの指先感覚が。安全なところで、快適な環境の中でだけは、人間はやわになってゆく気がいたします。身体が這いつくばれる間は、土の近くの目線から、世界を感じたいと思う私です。