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2015-06-30

6月26日、学生が主催するSEALDs(シールズ)の集会に初めて参加しました。

人間万事塞翁が馬、という言葉があるが、たったひと月でこうも自分の生活が急変するとは思いもしなかった。が事実として私の中での変化には、ちっとも私は驚いていない。

世の中に飛び出してからというもの、以来45年、いつも時代の中で木の葉のように揺れながら迷い決断し、かろうじて今を生き延びている(いられる)という自分の中での確たる実感があるためである。

今回もそのような決断を自分の中でしたまでだし、今後も可能な範囲で、不自由な自分をブログが書けるくらいの気力が続く間は、自由自在に迷える子羊感覚を持続したいと私は思っている。

さて、先週木曜日から、日曜まで3泊4日上京してきた。2泊は娘のところに世話になった。主な目的は、前回のブログで書いたので省く。

何はともあれ時代の変化をこの63歳の体で直に感じるために、SEALDs(Student/Emrgency/Action/Liberal/Democracy-s)という10代から20代の学生たちが主催する集会の現場に、私は行ってきた。

生来群れることが苦手なこの私が、よもやまさか このような行動をこの年で起こすとは、まさに人間は自分で自分を思い通りにはできないのである。

まずは金曜日の夜、7時半からの国会議事堂前での集会に初参加、あいにくのかなりの雨のなか傘を差した老若男女が5時過ぎころから徐々に集まりだし(私は5時前に着いて物々しい厳戒体制の中、首相官邸や議事堂の周りを約1時間くらい歩いてから、集会場所にたどり着いた。

近くではほかに原子力発電に反対する各種団体や、個人個人がが 思い思いにデモンストレーションをしていた。俗にいう無党派層がかってにそれぞれの思いで(私もそうであるように)参加している人たちがあつまり、声を上げていた。

声を上げずに静かにプラカードや、思い思いの言葉を書いたカードを胸に掲げ参加していていた 。親子だろうか、中学生くらいのお嬢さんは車いすで参加していた。個人で書いた思いのこもったチラシを配布する人もいる。

 一人中年のおじさんが自転車にユニークな手作りのプラカードを後部座席に建て、議事堂周辺を回っている。集団 ではなく、一人とか友達連れで普通の人たちが参加している。楽器を持っている若者もいる。高齢の方たちもたくさんいる。

見るからに静かで優しそうな方たちが、暗くなるにつれ羊の群れが増えてゆくのを私はこの目でしっかりと確認した。言葉は交わさないものの無言の連帯感が辺りを包む。

何かが静かに動き始めている、あきらかにこれまでとは異なる自分の頭や体で考え、行動を始めた人たちの、自主参加型連帯のデモが、戦後70年の節目の年に起こっている。

シールズの学生の熱い声明に唱和するが参加者の声が響くころにはもうあたりはすっかり暗くなっていた。

雨は一段とひどくなってやまない中、安保法制に異を唱えるシュプレヒコールの声が議事堂周辺に響き渡り、その数は数百人以上はいた。私もその輪の中に立ち続けた。

議事堂周辺で同時にいろんな方々がそれぞれの立ち位置で集会を行っていたのでおそらく雨の中1000人くらいの人たちが時の声を上げていた。

言論の自由、表現の自由の有難さを雨の中かみしめながら、私は来てよかったと、こころから念じた。当たり前のことがこんなにも通用しない時代が来ようとは、ぼーっとは、私はしていられない。

アクションを起こさないことには、虚無感で体の健康に悪い。雨の中若い方たちの声を聴くのは気持ちが良かった。発言している人が自分の言葉で話すから伝わるのだ。紋切型は、何も生まない。

人の顔色を窺ったり、世間体を気にし 、風が悪いなどといった、よくは理解不可能な日本的空気を読むに敏な人たちが、多数を占める湿気の多い日本的な風土感覚とは(自分の中にもあるから始末が悪い)私はそろそろ決別したい。

娘に借りた傘は、小さな折り畳み式で夕方から降り始めた雨で、かなり濡れてしまい体が冷え、漸く風邪が 治りかけていたので、ぶり返さないように木陰の下で暗い中濡れながら、もう一枚Tシャツを着、9時まで参加して地下鉄で有楽町に出て、この日は大井町にホテルをとっていたのでチェックイン。

すぐに着かえて暖かくし、腹ペコだったのでホテルの近くの下町の中華の店で一人夜食。この一人アナーキィ感が天邪鬼な私は好きである。私は時折、無念無想孤独をかみしめる。

熱いお酒と、スープと、大きい餃子と少しのごはん。カウンターだけの小さな店だったが、大正解。もう一度行きたいと思わせるほどに大きい餃子が美味しかった。働く3人の親父たちが、きびきびカッコよかった。平和の大井町餃子。

冷えて疲れた体に、すべてがしみた。これだけの満足度で、1050円。やはり東京は第二の故郷である。18歳から40歳まで過ごしたので、すっかり変わったとはいえ、地理感いまだ体にしみこんでいる。

上京し集会に参加する私を、我妻は静かに送り出してくれた。





2015-06-25

農業時間は、考えた末撤退します。

昨夜は遊声塾のレッスン日だったが、珍しく男4人に女性ひとり、私も含め6人で充実した稽古ができた。

お仕事柄月に一度しか参加できない、香川からのI氏の参加もあり私としてはやはり参加メンバーの、情熱の発露次第でかくも雰囲気が変わってくるということをあらためて知らされたし、ともかくおもしろかった。

塾生一人一人が私に火をつけるのである。お互いが刺激を受けあうし、6人くらいいるときわめて充実したレッスンができる、理想はそうだがここまでこぎつけるのに丸2年以上かかっている。

何事もままならないが、その間じっとただひたすらレッスン日には、数少ない塾生とともにシンプルに楽しんでやってきたからこそいまがあるのだ、と私は考えている。

もともと、晩年生活をささやかに生きるために、自分自身が無になれる大きな声が出せる居場所が必要だと考えて出発した塾である。

いつまでできるかはわからないが、そんな余計なことは考えず毎週、毎週足元を確認するようにやれるメンバーと、淡々と老いてゆくなか、シェイクスピアを声に出せる悦びを確認したいと思っている。やがてはできなくなる日まで。

そのような思いのわが日々、簡単に記すが今回初めてのチシャトウの収穫をもって農業からは思い切って撤退することにしました。

これはただ単に体のことを考えて出した結論である。夏風邪を 引いてはっきりした、やはり相当な負担が体いかかっていたのだということが。

やはりあれもこれもはできないということだ。考えた末の結論、本当にいろんなことをこの1年8か月学ばせてもらった。そのことに関してはまったく感謝しているし、我ながらよくやったとの思いである。

開墾から初出荷までできたこと、悔いはない。農業に割いていた時間をこれからまた新たにシェイクスピアを読む時間やほかのことにあてられるし、今はすっきりしたおもいで今朝のブログもかけている。

さて話はいきなり変わる。今日はこれから急きょ上京することにした。土曜日、初めて藤原新也さんのオフ会に参加するのと、その前に渋谷で行われる安全保障法案に反対するための集会に参加するためである。(フットワークを軽くするためにも農業をやれない状況も生じてきている )

この数年、個人的に引きこもり的に思えるくらい、静かな暮らしを夢が原退職後はしていたが、そうも言っていられないような政治的な状況がこの国ににわかに漂い始めている今、そう安穏とは暮らしてはいられないといった思いの私なのである。

似たような思いの人たちと私は限りなく連帯したくなっているのである。藤原新也さんの WMの読者の人たちにとても私は会いたいし、岡山でもWM会員のオフ会をしたいと思っている。

思想信条は多種多様であれ、基本的に穏やかな平和を希求する骨のある人間に私は限りなく会いたくなっている、自分を感じる。

この年になっても、心は揺れ惑い時に 震撼とした思いに至るが、胸突き八丁、正念場という言葉もある通り、いざというときに人はどう動くか(動けるか)である。

とああれ、上京への時間が迫っているので落ち着いて書いている余裕がないのだが、何かが終わり、何かが始まる予感がいまはしている。

師であるピーターブルックのいうように、シンプルにヒトとの出会いの中での、自分のこれからを充実してゆけたらこれにまさる贅沢はない、と私は考える。



2015-06-22

以前体調はいまいち、でも何か書かずにはいられない朝。

昨日は体調が良ければ京都までデモにゆくつもりでいた。もちろんこの国の行く末を決定的に左右する、安全保障法案の可決に反対するためのデモである。なぜかくも急ぐのか、その根拠がまったく私にはわからない。

私はこれまで自分の人生でデモに出かけたことが一度だけある、それはまだ東京に住んでいたころで、原子力発電に反対するためのデモである。(そのことはまたいつか書きたい)

今回再び人生で2度目のデモに出かける感情が、自然と 私の中で起こってきている。横暴というしかない、国の運命ではなく、大多数の人の運命が左右されるこの大事に関して、一人の人間として、無関心でいるということは、どうしても私にはできない。

 藤原新也さんのブログによると、瀬戸内寂聴さんは死ぬ覚悟でこの法案反対のデモに東京まで、あのご年齢で出かけている。

わたくしごと気も何かアクションを起こさないと、何やらご先祖(特に両親)に申し訳ないし、何よりも決まってしまったら、先の大戦と同じで取り返しがつかなくなる、気がする。

未来の人たちに、あの時どうして動いて反対してくれなかったのと、私は言われたくはないのである。一人の庶民である大人の私は、これからの未来人たちに対して責任がある。

岡山にいるとあまりピンと来ないが、都市部では若い方たちがこの法案に異議を申し立ててデモを行っている姿をネットを通して私も知ったが、初老の私も若い方たちと同じように、異を唱えたい。

この国策の行方にはきちんとアンテナを張っておかないと、繰り返すが取り返しがつかなくなる。

これほどの重要法案を落ち着いて憲法を変える手続きもふまず決めようとする、与党の、権力を握った側の横暴さには、戦後生まれの民主主義教育を受けた私は、ただただ言葉がない。

(いきなり脈絡ないが、多数決ということの哀しみのようなことを私は 常づね感じているが、昨日の書評で、大竹文雄氏が、坂井豊貴著、多数決を疑う、岩波新書を取り上げている)

 小さい魚が、大きな魚に一飲みにされないためにはどうしたらいいのか、メダカはメダカなりに、各々一人一人が自分の愛の居場所で考えなければならないと、ヒダカは考えるのである。

そして、深刻にではなく笑顔で、平常心で穏やかにデモに参加し、自分の娘たち世代の若い方たちと連帯したい。

先の大戦で負けたが故に手にした、表現言論の自由、専守防衛の軍は保持するが、戦争は永久に放棄する 世界に誇れる憲法は、私は何と言われようと、未来の家族のためにも、おじさんはオーバーではなく死守したい。

若い方たちがアクションを起こし始めたのだ。初老の私も体を動かして、今を生きる若い方たちとともにデモ行進に参加し、ささやかに示威行為をするつもりだ。

家族も、畑も、何もかも、平和あればこそ、ぼーっとしていたら一瞬で破壊されてしまう、信じられないほどの大きな代償を余儀なくされるされる、空恐ろしいほどの現代というサイバー時代を否応なく生きてゆかざるを得ない、という認識が私にはある、が深刻になる愚はさけたい。

戦争を経験してないが故にあえて私は想像し考える。戦後70年、経験した世代が、必死であらゆることを伝えている。私はただただ、耳を澄ませて想像力全開でその声を聞き取る努力をしなければならないと思う。(最近は時間の許す範囲で新聞を切り抜いています)

自分の身に置き換えてみると、ただただゾッとする。その受け止める感覚が持続する間は五十鈴川だよりはながれ、こうやってブログを書かずにはいられなくなる。間接的だが、 伝えた人の思いが私に伝わる。
 
戦争の狂気のおぞましさの一員には決して なりたくはないし、それは地球上に生きるあらゆる民族の人たちも常識的に同じではないのか、という認識の側に私は立つ。

ではだれが、戦争を望むのか、争いはどうして起こるのか、五十鈴川は流れに身をゆだねながら川底で考える。


2015-06-20

沖縄2泊3日の旅、その1.

ようやく平熱に近づきつつある今朝である。熱が出た後の体は何やらすがすがしい。

さて、沖縄初日、那覇は真夏の暑さ、本土とはやはり気候が異なる。親友K氏とはケータイの電波の不都合で那覇空港での再会は叶わず、那覇の県庁前のモノレールの駅での再会となった。(桑江さんの個展はその駅のそばのデパートの5階で開催されていた)

那覇空港は軍事基地である。そのことをあらためて思い知らされた、日の丸を掲げた、自衛隊機が間断なく目に入った。ケータイの電波が届かないわけだ。

沖縄県は日本の中のまさに基地の県なのである。漸くにして、私も一人の日本人として沖縄の置かれている状況が、どのような歴史の上に現在あるのかを、この目で肌で爪の垢くらいには認識しておかないと、という気持ちになっている。

それは、沖縄にかけがえのない友人ができたことに由来する。まず良健さんの絵を見ること、そして彼らから直接謙虚に沖縄の思いを聞くことが、今回の旅の大きな私の目的。

無知は恥ずかしいことではない。これだけいろんな情報が新聞紙面でも常識的に大きく伝えられているのに、何も行動を起こせない自分ではありたくなかっただけである。

駅で落ち合った我々は、真夏の日差しの中即桑江さんの個展会場に向かい、まずはご挨拶。

新しい100号の人物絵を6点、お父さん、お母さんの肖像画、ほかを見た。絵のことは門外漢の私だが、独特というしかない桑江さんの絵は人物が生き返ったかのように存在感が、あった。

歴代の沖縄県知事と、沖縄の芝居し(役者)、両親の顔が、桑江さんの絵筆で、沖縄の歴史上の欠かせない人物として蘇えり、絵画の中でこれからの未来時間を生き延びて ゆく、心血を注いだ仕事が私の眼前に在った。

自分の絵が、沖縄の絵画の歴史上に残る仕事をしたいという、ただ苔の一念で青年時代から、独学で絵を学び、パリを中心に世界を放浪ののち、沖縄の指人形の名人純子さんというこれ以上は望めない伴侶に巡り合い、数十年沖縄に腰を落ち着けて絵を描き続ける希代の画家、桑江良健氏 。

生れ落ちてから背負っている何かが、わたくしごときとはまるで違うのである。そのことをあらためて絵を通じて私は認識しなおした。

以前よりいくばくかは深く絵を感じることができる自分がいて、理屈はともかく今現在の良賢さんの絵を沖縄まで見に来たことは、正解だった。

夜また会う約束をし、昼食がまだだったので親友K氏とともに昔いったことのある県庁の近くのダルマ食堂で遅めの 食事。

おばさん二人でやっている。500円以上のメニューはない。ビールも何もない。食べ物屋さん、素晴らしい。那覇に行くことがあれば、必ずゆきたい、また来ようとK氏と 話した。

二人して沖縄そば、なんと400円。昔とまるで違っていなかった。国際どおりは限りなく観光地化されているが、ちょっと裏通りに入ると私好みの人間臭い庶民ゆきつけの店がたくさんあって、私の心は限りなく落ち着く。

夜は桑江さんご夫妻が、我々をマキシの市場の近くの居酒屋に連れてってくださり、おいしい沖縄料理とお酒でもてなしてくださった。お刺身、チャンプルー、もやし炒め,(もやしが絶品)醗酵した豆腐、カツオの塩辛、最後のおじやまで、すべておいしかった。

これまた再び行ってみたと思わせるほどに感じのいい年配のご夫婦がやっている地元の店で、桑江さんたちのおもてなしがしみた。旅人気分は一気に盛り上がった。

愉しい再会の宴、語らいは深夜まで続き 沖縄への久方ぶりの旅の初日は瞬く間に過ぎていった。

遠方の友との君子の交友は、まさに人生の最高の贅沢というほかはない。現地で会い語る、沖縄のことは、沖縄の友と語らないと何も見えては来ない、そのことがしみた夜となった。




2015-06-19

夏風邪を患いながら何とかはたらきながらしのぐ私。

沖縄で夏風邪をひき微熱がいまも続いている。だがずいぶん書いていないので、ほんの少しでもかいておきたい。何とかブログを書く気になるくらいには回復してきたのだから。

那覇を発つころからのどの痛みが始まったのでやばいとは思ったものの時すでに遅し、覚悟を決めて帰ってきた。

沖縄での3日間がきっとあまりにも刺激に満ちていて、わが体が久方ぶりに発熱をしたと、私はどこか能天気に受け止めている。

実は私は扁桃腺が弱く小さいころからよく脹れて40歳ころまで、季節の変わり目や疲労状態が続くと必ず体が発熱して、そろそろお休みしなさいというシグナルを送ってくるのだ。

最近歳とともにあまり発熱しなくなったので、体のセンサーがさびて老いてきつつあるのだと受け止めていた。

だからこの久しぶりの発熱反応は、私にとってはいまだセンサーが生きていることの証で、どこか有難く受け止めているところが私 にはあるのだ。

しかしそんな悠長なことは言っていられないやんごとなき事情が、いい年なのに生じてしまっているわが生活、だからいつもより長引いている。七転び八起の心境をどこか楽しんでいる。

それは、ご存じ畑のチシャトウがぐんぐん伸び私が収穫しないと誰も収穫してくれないからである。沖縄に行っている間にチシャトウはぐんぐん大きくなっていた。

那覇から戻った翌日、のどの痛みと発熱で最悪のコンディションの中私は畑に行き、いつもの倍くらいの時間をかけて、何とか収穫を終え家に戻って横になった。

月曜日は幸い出荷なしだったので、事なきを得、すべてをオフにし終日横になっていた。火曜からは微熱になったものの、のどの具合がいまいちの中、今日も含め出荷のために畑に行き働きながら 体とお話ししながらしのいでいる。

一昨日の夜は遊声塾もあったので、どうなるかと思ったが、塾の稽古が始まったら普段とは違うエネルギーが体の奥底から湧いてきて我ながらちょっと驚いてしまった。

とはいってもそんなに無理はしたくないので、必要なこと以外はできる限りしないようにして、今も身体を休めながら過ごしている。書き終えたら横になって本を読むつもりである、微熱の中での読書もまた一興だ。

だが油断すると元の木阿弥になるので、収穫作業を続けながら、なんとかコンディションが元に戻るまではのらりくらりと自分の体をいたわりながら生活したい私なのだ。

ところで、沖縄の3日間は本当に愉しく意味のある、ゆくべきタイミングに行くことができた素晴らしい記憶の底に残るかけがえのない旅になった。親友K氏にこの場を借りて感謝したい。

体調が完全に 復活したらつたなき拙文をきちんと五十鈴川だよりに書いておきたい。

桑江ご夫妻との異次元の楽しい語らい、親友との辺野古と普天間への旅 、桑江さんの絵を求めたこと。那覇を発つ前にたまたまみた【あの日の声を探して】といフィルムのことなどなど。

2015-06-11

沖縄に出かける前の朝ブログ。

沖縄の友人の個展に出かける前の朝ブログ。時間もあまりなく、書きたいこともままならずという、塩梅ですが、ちょっとだけ、、、。

沖縄までわざわざ出かけて会いたいという友人が、二人私にはいる、そのことの何という有難さ。

沖縄の歴史や、文化に対してほとんど無知丸出しの私ですが、桑江夫妻に出会えたことが私の人生にとっては、かけがえがないといまはっきりと書いておきたいのです。

今回の個展には、神奈川から親友も急にゆくことになり、那覇の空港で落ち合うことになっています。

こんなことはなかなかないし、これからもそうは年齢的にもたびたびはやがて難しくなる、だから思い切って誘ったら、何と実現。

38年のお付き合い。こういう意外性のある粋な旅は、我々の熟成された関係性の上にこそ成り立つ。そのことがまたうれしいのです。

わずかな友人と、深くお付き合いできる幸福は何物にも代えがたい。若い頃とは異なりこの年齢だからこその味わいは、年齢を重ねるということでしか見えてこない類の感覚といういうしかない。

ともあれ、娘たちとの思い出に家族全員で桑江さんの家を訪ねて以来なので、10数年ぶりの沖縄。さてどんな旅になるのか、久しぶり、いい年なのに心が浮き立つ。

沖縄はすでに梅雨が明けているし、かなりの暑さの様子。忙中閑あり、しばし身も心も空にし、おきなわの空と海と人とを、桑江夫妻を通じて巡礼してきます。

2015-06-08

ちょっと畑に行く前の朝ブログ。

五十鈴川ブログは長いですね、なんてよく言われる。ショートメール全盛の時代だから致し方ないとは思いながらも、五十鈴川は、らしく流れるしか方法がないのだから、これまた致し方ない。

ペラペラおしゃべりする私だが、書いたり読んだりするときは脳の回路がまったく異なる。

今日は収穫作業はお休みなのだが(その分昨日は二日分を収穫した)ほんのわずかな時間であれ、朝の涼しい時間に雑草を抜きたいと思っているのだ。

一日のリズムを形作るためにも、大雨でない限り可能な限り畑に行きたいと考える。誰もない畑で、雲雀とともに声を出すのも一興だ。

今日は10時から山陽カルチャーで一人の素敵なおばあちゃまと のレッスンが待っているのでそんなには長くいられないが、畑が私を呼ぶ。

ところで、今週の木曜日から土曜日まで、急に沖縄に行くことになりました。その昔、二人のご夫婦による、キジムナーという人形劇を企画したことがあるのですが、その際にご主人の桑江良健氏が素晴らしい画家であることを知りました。

その方から那覇ででの個展のご案内が届いたのである。収穫が真っ最中のなか、いささかの逡巡はありましたが、何事もタイミング、逃してはいけないというアンテナが働き、ゆくことに決めました。

辺野古で揺れる沖縄、一人のささやかな庶民として、尊敬する沖縄人の桑江夫妻と沖縄で一夜ゆっくりと語り合いたいと思ったのである。

無知を知る。何事も知らねば先には進めないのだ。わずかな土地に日本の軍事基地の8割近くを占める沖縄の現実を、わたくしごときもきちんと受け止めておくべきである。

無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け入れることができなくなった状態をいう【ロラン・バルト】

ということで、今朝はこれにて。

2015-06-06

何とかチシャトウの出荷が始まる。

夜盗虫が想像以上にチシャトウの葉を食べるので、出荷できるだろうかと危惧したのであるが、有難いことに、何とか出荷できるところまではこぎつけてきた。5月の最後の10日間くらいでぐんぐんチシャトウが成長しそれなりの重さになったのには驚いた。

一日100キロくらいのチシャトウを週に5日出荷できればと思うのだが、まだまだ農を初めて2年にも満たない私が作物を作って、出荷を始めることができたということ、ただただうれしい。

すでに4日出荷したが、一体全体どれくらいの収量があるのかないのか、皆目見当もつかないがそれなりのの収量は望めそうなので、少しほっとしている。

ほぼ3反(二つの畑合わせて)でチシャトウを育てているが、すべての出荷作業を終えるまでは、いつまでかかるか単調に忙しい。

朝一番に刈ってかごに入れ、運び、洗わないといけないので、つまりは体力を使うのである。今日もこのブログを書き上げたら即畑に向かうわたしだ。

自分の畑なので自分のペースですべてのことが運ぶべるのが何と言ってもすこぶるうれしい。農は自然界との 対話、ままならないが、責任はすべて自分で負わねばならない。

責任をもって仕事をなすという、当たり前のことが今の日本の社会のいたるところの無責任なほころびをあちらこちらで目にするが、そんなことはさておき、身体が動きやりたい仕事ができることが、ただ単純にうれしいのだ。

俗に農繁期というが、私にとってはしばらくのあいだは収穫作業で日々を過ごすことになるが、厚さ対策をしっかりとしながら畑時間を過ごしたいと思っている。

ともあれ何かと忙しい日々が始まるので、ブログを書けなくなるような気がしますが、あくまでの自然体で五十鈴川は流れますので、更新がすくなくても御容赦くださいね。




2015-06-03

梅雨の訪れを感じさせる朝、絶対矛盾をいきる。

雨である。私にとっては久しぶりの恵の雨、九州地方は梅雨に入ったと報じられていたからもうそんな季節なのである。

しかし、五月中からのこの暑さ、異変が起きているのではないかと、五十鈴川は案じてしまう。日本列島のあちらこちらで火山活動が 活発である。大変動期に入っているのかもしれない。

畑は気象の影響をもろに受ける。詳しくは書かないがちょっと大量のやとう虫(夜盗虫と書くらしい、夜の間に葉を食べる)が発生しその対策と駆除に、頭と体をフル活動といったこのところの朝夕の私の暮らしなのである。

でも、最近はあまり深刻には動じない。東北の大震災をわずかではあるがこの目でしっかりと60歳の誕生日に焼き付けてきたせいもあるかもしれない、とにもかくにも家族が健康に穏やかに暮らせればそれで十分だからだ。

夢が原退職後、きっぱりと生活を見直すことを、わたしは自分に課して今も生きている。あれからまたたくまに二年が過ぎた。

つましく生きることを可能な限り楽しむためには、どうしたらいいのかを オーバーではなく私自身昔よりずっと考えるようになったと思う。

お金という魔物に距離をおき、可能な範囲で、お金に寄りかからず知恵を生むような暮らしができないものかと未だ私は考えながら日々を送っている。

そして、この数年の実践生活報告ごとき、ことを記させていただくと、出かけない限り、(旅や交際費ほか意外な、出費等)さほどお金は(あくまで私の場合)かからないということがはっきり分かったのである。
玉ねぎは半年かかって立派に育ちました

だんだん自信がついてきた。知恵は次々に知恵を生む。

そのためにはやはり体を動かし、汗をかき血を温めないといい知恵は湧かない、という事実。精神と体が連動しないと、澱んだ体は何も生まない。(自分の場合です)

声を出したり、畑で草を抜いたり、ブログをかいたり、本を読んだり、

お手紙を書いたり,我流体操したり、掃除したり、

とまあ一日の暮らしの中での、いま現在の足るをしる暮らしをきちんと心かけていると限りなくシンプルに生きられるということが(私の場合)はっきりとわかった。

だから普段から身の丈に合う暮らしを心かけないと大変なことになるのは世の道理だ。人間ごときがどう抗おうと天変地異の前にはただただひれ伏すしかない、というのが私の認識だ。

私などは、裸のサルの類ぐらいの認識。人間以外の動植物は限りなくシンプルにあるがまま本能のままの生存世界を生きている、気がする。自然に寄り添い逆らわない。

人間世界だけが歯止めがない。脳のあまりの肥大化が、(恐ろしいとさえ思わない恐ろしさ、あまりの想像力の欠如)海の森林の辺野古のサンゴ礁を破壊する。

国益、私利私欲暗躍の果ての未来がいかなることになるのか、については五十鈴川はなにも書く気がしない。

ただいえることは、チシャトウがいかに虫にやられても農薬は使用したくないということくらい。

ネパールの被災された方の水田の種もみがダメになり地震で水が枯れたという記事を新聞で知った。農をほんの少しかじっている私には他人事ではない。

間接的ではあれ、自分世界以外で起きている(国内外問わず)過酷なあまりにも冷厳な事実を知ると、言葉の虚しさにおそわれるが、悲しいかな 自分なりの絶対矛盾を生きるしかない。