ページ

2017-09-30

郡上八幡音楽祭への旅❸

9月30日の真夜中である。郡上八幡音楽祭からほぼ2週間たつ、その間ほとんどブログを書いていない。あれほど何か書かないとどこか落ち着かない自分がいたのだが、不確かな実在というしかない私は、65歳を迎え、ようやっと落ち着いてきた。

いよいよもって限りないシンプルライフに入ろうとしているのだという、穏やかな自覚がある。いい意味での老いる自覚を深めている秋である。でもどこかいまだ燃える秋の到来でもある。

さて、郡上八幡音楽祭は、あらためて 素晴らしかった(ゆけなかったら悔いが残った)と、我が極私的五十鈴川だよりに繰り返し書かずにはいられない。
パンフがほしい方は連絡くださいコピーして送ります。

私は1978年、26歳の時ロンドンのヤングヴック座で、あこがれのピーターブルックの芝居を観たことを契機として、私は土取利行さんという、稀有な音楽家と出遭った。

依頼、あれから40年の歳月が流れている。この稀有な音楽家の歩みの全体像は、いつの日にか、どこかの誰かが、きっと示してくれるであろうことを私は確信している。

人類の遺産というしかない、未知の世界の国々の音の探究者として、(また日本の音の探究者として)日本人の音楽家としてこれほど体を酷使して、現在も伝道している音楽家に私の人生で出遭えたことのありがたき幸福感は、齢を重ねるにしたがって深まっている。

右からハンマサンカレ・土取さん・ヨロシセ・アサバドラメ

土取利行さんの音楽家としての仕事は、多岐にわたっており凡夫の私には、その一端を甘受しているにすぎないが、まさに芸術家と呼ぶにふさわしいヒトというしかない。

時代を超えてやがては輝きを増してゆくであろう仕事を、ほとんど自力で継続持続、成し遂げているその精神のみずみずしさ、輝きに私は驚嘆する。

すでに何度も書いているが、五十鈴川だよりを読んでくださる方は、是非土取利行さんのブログも読んでほしい。このような前人未到の音の探究者 (つまりは人間存在のの根源に迫る音への旅)の真摯な生き方も含めての仕事を知ってほしいと思わずにはいられない。

私はいまあらためて土取利行さん に出遭えた幸運を噛みしめる。あれから40年、もし氏に出遭わなかったら、現在の自分はないであろうと思えるほどに、氏との出会いは衝撃的であった。

20代、土取利行さんのソロのパーカッション、ドラミングをなんどか聴いたのだが、私は完全に打ちのめされた。鞭のように細い体がしなり、閃光のように音の矢がわが体を刺し貫いた。

これからどのように生きてゆけばいいのか、途方に暮れていた私は、何やら啓示を受けたかのように、全身に希望と勇気が湧いてきたのを昨日のように思い出す。

今ほんの少し人生を振り返るとき、氏との出会いの大きさを思わずにはいられない。自分の心が揺れるとき、氏の存在は羅針盤のように、道を指し示す。

中世夢が原で、企画の仕事が継続できたのも、私の心の中に氏の存在があったればこそである。私にとっては、珠玉の出会いというしかない。


立光学舎・嵐の前の静けさ・なんとも言えないたたずまい

話はここで終わらない。今回の郡上八幡音楽祭【マリの歌と弦楽の響演】でなんと、私は土取利行さんと再び再会したかのような不思議な感覚に、とらわれた。

それは人類の記憶の大地の果てともいうべき、西アフリカ・マリからの歌者、奏者と日本の歌者、奏者との、えもゆわれぬ出会い、友愛の上に奇跡的に生まれたというしかない、何か懐かしい、体内回帰的な、会場が幸福感につつまれた音楽祭であった。

土取利行さんの40年にわたる音の旅の成果(聖化)というしかないライブとして結実していた。そしてそのライブは真の意味で未来的、希望が持てる、未知の世界の人との根源的な信頼感の上にこそ成立していた。

土取利行さんは1978年、音の調査で初めて日本人としてマリを旅し、マラリアにかかり生死のふちをさまよい帰還している。今回の企画は氏の40年にわたる人と人との、音を通しての友情の上になされた、人間賛歌音楽祭であった。

世界の趨勢、時代は、まさに憎しみの連鎖を日々あおるかのごとき 魑魅魍魎が跋扈する感があるが、台風のさなか、郡上八幡音楽祭が未来に光を灯すかのように開催されたことは、何としても五十鈴川だよりに書いておかねばならない。



2017-09-23

郡上八幡音楽祭への旅❷

台風が17日午前中九州に上陸し、進路を北陸方面を縦断しそうな予報の中、郡上八幡音楽祭へ何としても参加するために私が選択したのは、台風上陸よりも、一足先に郡上八幡の近くまで車でたどり着くことだった。

結果、前回の五十鈴川だよりで書いたように、16日夕刻、郡上八幡まであと50㎞、下呂温泉の近くで 陽がとっぷりとくれ車中泊した。
右からアブドゥー、ハンマサンカレ・土取さん・私・ヨロシセ

ほぼ着いたも同然、帰りの運転体力のことを考え、音楽祭が始まる17日18時に間に合えばいいのだから、下呂温泉にゆっくりと浸かり運転の疲れを取り、体調万全で土取利行さんの畢竟のイベントに参加することにした。

17日朝6時には車の中で目が覚め、下呂温泉には7時前ににつき河原で露天風呂に一人で入ることができた。すっかり鄙びた温泉街のたたずまいが、行きずりの旅人である私を得も言われぬ旅情にいざなわれた。

私は下呂温泉の午前10時から始まる、370円の共同浴場(最高の湯でした)で昼まで過ごし、ところどころ寄り道しながら、飛騨高山で昼食をゆっくりと済ませ、そこから清流吉田川沿いにせせらぎ街道(車が少なく最高のドライブコースでした)を走り、土取利行さんが住んでいる郡上の立光学者に立ち寄り写真を数枚とって、音楽祭が行われる郡上八幡文化センターに午後4時予定通りについた。

開演までの2時間弱、水の街 郡上八幡を久しぶりに散策して、野外公演から変更になった文化センターのど真ん中に私は陣取った。



舞台には世界演劇界ではその名を知らぬ人はいない純粋演劇人ピーターブルックの近年の活動の舞台美術を手掛けたりもしているという、西アフリカ、マリが生んだ、現代美術家アブドゥー・ウォログァムの泥染めの大きな2枚の布が、吊るされ大小のろうそくの炎が絶妙に舞台上に配置されている。

 郡上八幡音楽祭2017【マリの歌と弦楽の響演】と銘打たれている。

マリの歌と弦楽の奏者【ハンマ・サンカレ】(マリの国民的歌手でひょうたん楽器カラバスの名手)【ヨロ・シセ】(ンジュルケという2弦楽器のの名奏手【アサバ・ドラメ】(ンゴニという4弦楽器・タマという小さなトーキングドラムの名奏者)と日本の歌と奏者【松田美緒】【土取利行】がうす暗い中静かに登場配置につく。

 座って両足を投げ出し、ひょうたん打楽器カラバスをお箸の大きさのばちでたたきながら、ハンマ・サンカレが歌いだし、5名による弦の響演が始まった。マリの音楽、3人の存在感が舞台にあふれている。体に大地から根が生えているかのような、民族の歴史とでもいうしかない。マリの音楽家と日本人真の意味での友愛と信頼感の上に成り立っているのがなんとも言えず聴衆に伝わってきた。

その瞬間、65歳のわが体全身に、来てよかったとのおもいが満ちた。遠い遠い国、西アフリカ・マリの歌と弦楽器の名手たちと、日本の歌姫松田美緒さんと土取利行さん5名による、まさに歴史的というしかない、夢のようなコラボレーションに立ち会うことができた喜びに。

初めて耳にするマリの歌と弦楽の響きは、なんともおおらかで気持ちよく、夢のひと時というしかかなかった。このような奇跡的ともいうべき、志の高い音楽祭が土取利行さんを中心にして、地元民有志ほかで4回にもわたって続けられていることに感嘆する。

とくに今回の企画は、特筆に値する画期的な意味を持つような気が、凡夫の私でさえした。人間性とでもいうしかない、動きたたずまいまで含め、醸し出す声・音が、人間の心に豊かさと勇気を与えることに 。

午後八時過ぎ、台風のさなか各地から参集した熱き聴衆の静かななんとも言えない暖かい万雷の拍手の中、カーテンコールで音楽祭は終わった。

終えて、楽屋で土取利行さんに会い挨拶をして、音楽祭のエネルギーを浴びた私は、ゆっくりと郡上八幡を後にし、岡山に向かって車を走らせた。

岐阜から風雨が強まってきたが、低速でゆっくりとただただ走った。途中高速のSAで仮眠をとり、台風一過晴れ渡った道を気持ちよく走り18日昼前にぶじに我が家についた。

妻がほっとした顔で、私を迎えた。



2017-09-21

郡上八幡音楽祭音楽祭への旅❶

台風が日本列島を通過してゆく最中の、17日午後6時から行われた郡上八幡音楽祭に行ってきた。

悩んだ末、私は往復車を運転して郡上八幡を往復した。万一電車やバスが止まったら、土取利行さんの畢竟のイベントに参加できないかもしれない、そのことを恐れたのである。
音楽祭の前土取利行さんの拠点立光(りゅうこう)学舎一人訪ね手を合わせた

3連休で急ぐ必要もなかったし、先のふるさとでの低速運転にすっかり魅せられていたので、16日余裕をもって下呂温泉の近くまで走り、帰りの京都から神戸以外は一般道を走った。
 
というのは、帰り台風の影響でスマホのナビが、機能しなくなったからである。すっかりナビだよりだったのでさすがに 慌てたし困ったが、いざというときに頼りになるのは、わが体だけであるということを改めて経験した。

ギリギリの土壇場になると、いまだわが体は活性化する。わが体がナビ化したのである。直接情報、ゆく先々のコンビニで働く親切な方々や、ガソリンスタンドの人に道を訊きながら郡上八幡から岐阜、関ヶ原、彦根、米原をぬけ、何とか京都にたどり着き、そこからは高速に乗り、大都市を抜け、再び低速運転に切り替え無事に帰ってきた。

人間はギリギリの経験をすると、何やら不思議な力が湧いてくるものだということを、いい歳ながら改めて、この度の郡上八幡音楽祭への旅で体験した。普段の暮らしでは起こりえないことが旅では起こる、だからこそ人は旅をする。

行きの372号線や、帰りの21号線、8号線はもう2度と走ることはないかもしれないが、脳裡に刻まれている。また、スマホのナビに問題が生じなかったら、こんなにもコンビニに立ち寄り、見知らぬ方たちと言葉を交わし触れ合うことはなかったであろうと思う、意外性と偶然性こそが旅の醍醐味である。

私が道を訪ねた人たち(主に若者) 全員が押しなべて親切に対応してくれた。日本人の持つ心性のやさしさが(旅は道ずれ世は情け的感覚)いまだ脈々と流れていることがよくわかって、見知らぬ街を走る悦びと解放感を味わった。

また行きは、大都市を避け明石から亀岡、から日本海の小浜にでて、敦賀、福井に向かう途中から山を越え、ちょっと寄り道し下呂温泉の近くで車中泊し、翌日ゆったりと温泉で疲れを取り、郡上八幡にたどり着いたのだが、人気のない旧街道をのんびりと休み休み走るのは、今の私には、いうことのないドライブ旅となった。
今は亡き桃山晴衣さんと土取利行さんが創設した立光学舎静かにたたずんでいた

低速運転の素晴らしさは、ゆったりと日本列島の広さを体感しながら、移り変わる日本の風景をまさにゆったりと堪能できる点にある。そういう意味で時間はかかるが、なるべく都市部を避けて、田舎道をこれから可能な限り、運転できる間は走りたい。

さて話は変わるが、私の小さな車は、助手席の背もたれを倒しあいた空間に詰め物をするとフラットになり、全身を伸ばせなんと眠ることが十分に可能なのである。

見知らぬ宿に一人泊まるよりもミノムシ状態で心地よく眠れるし、何より私のような貧乏人にはうってつけの旅人の宿、長めのいい静かな川が望める場所であれば言うことなし、たまにだからこそいいのだ。孤泊宿。

そのことを宮崎帰省旅で分かっているので 、今回も用意万端、妻が布団を敷いて、狭い車中でもできるだけ快適に休めるように工夫を凝らしてくれた。

土曜日は朝9時前に出発、大きく寄り道をして、夕刻6時、下呂温泉の近くで陽がとっぷりとくれたので早めに、お蕎麦で夕食を済ませ 、缶ビールを買って安全なちいさな清流のそばに車を止め長時間の運転で疲れた体を車中に横たえた。

ヘッドランプで照らしながら持参した本を読んでいたら、あっという間に睡魔がやってきた。夜中トイレに起きたが、10時間近くを車中で過ごした。爽快な気分で目が覚めた、雨は。昨夜から降っていなかった





2017-09-16

岐阜県郡上八幡で行われる、土取利行さんのイベントに参加する日の朝ブログ。

このところの私は、編集されたニュースで報じられるあれやこれやの重大事には、ほとんど心が動かない自分がいる。まずいとは思う、関心は在るのだが、素人判断ではいかんともコメントのしようもない。五十鈴川だよりは、極私的な日々の、平凡な個人的な身辺雑記を綴ることを旨とする。

わからないことに関しては、さかしらなことは一切書きたくない、というのが五十鈴川だよりのスタンスである。とは言うものの、歴史を振り返るとき、何かの大事は、ある日突然起きるということが、証明されているように思える。ほんとうに危うい、危ない時代の渦中を生きているのではないかと認識はある。

だからといってどうすればいいのか?平凡に 生きることの素晴らしさをより深めながら、淡々と運命を引き受けるよりほかに、私にはほかになすすべはない。(戦争なんてもってのほか、蟻のように生きながらも穏やかな秋を、甘受できる平凡な日常こそが、平和の素晴らしさだ)

有事、戦争の繰り返される悲劇は、他国においては生じていることが間断なく報道されているから、そのことに関しては、多少は知ってはいても、皮膚感覚としてははなはだ遠いというのが 、正直な気もちである。要するに平和な時間に体が慣れ切っているということだろう。
説明を追加

政府は いかにも国民を守るとか言った、言葉で有事への備えの万全を説くが、いまひとつピンとこない。

核爆弾を浴びたこの国で、いまさら核戦争に最終的に及ぶ可能性のある危機、というか愚は避けることにこそ、21世紀の政治家や、人類は向かうべきであると、と小生は考える。

北朝鮮の核実験の報道のさなか、なんとも言えない無力感や脱力感に襲われるほどに、まったく暗澹とするような出来事が起こるのではないかという、一抹の不安は、わたくしごと気でさえ感じている。

だからといって、付和雷同的に一喜一憂する愚は避けたい。

私も含め、人間というものはあらゆる日々の暮らしの中で、大事なことを置き去りにしながら、忘れながら、どこかで生きていかざるをえない。だがけっして忘れてはならないことがある。

先の大戦で、広島長崎に原子爆弾が落とされおびただしい無数の無辜の民の命が、老若男女、アメリカ兵捕虜12人も含む、あの真夏の暑さの朝、一瞬で灰になった事実を。

福島の原子力事故のその後を知らせるニュース報道というものなどは極端に少なくなってきたように、私個人は感じる。原発は稼働される方向に進んでゆく。経済原則が命より優先される社会の行く末はいかなる社会の到来か。

忘れる日々の中で、繰り返す、けっして忘れてはいけないことがたくさんある。そのことを個人的に自戒する。

新しい出来事や、似たような、すでに聞いた繰り返し報道が頻繁になされる中、私たちの日々の感性は摩耗し、肝心な大事なことをいつしか、私自身、忘れてゆく。

絶対矛盾をいつも私はどこかに感じながら、ときおりこれではまずいのではないかとの反省がにわかにかろうじて起きたりするといったことの繰り返しの日々をである。

これで五十鈴川だよりを書く、内省時間が なかったらと考えると、ときおりぞっとする。とくに私のような単細胞は時代の空気感に流されやすいので、懐疑的にならざるをえない。

今日はこれから、台風の影響のさなか、土取利行さんの畢竟の企画イベントに参加するため岐阜の郡上八幡に向かう 。何とか無事に命を懸けた企画が無事に行われるように祈る。

2017-09-03

弓道教室で出遭った、O氏ファミリーが午後やってくる日の朝ブログ。

日曜日は、家族と過ごす日、とよほどのことがない限り決めている。家族といっても妻や母と過ごすだけなのであるが、日曜日は安息の一日ということで、やはり何か有難い日である。取り立てて何をするでもなし、ただただ静かに体と心を休め、普段やれないことを妻や母とやりながら英気を養う。

今日は珍しく、午後弓道教室で出遭った、私の息子くらいの年齢の若いO氏のファミリーが我が家にやってくる予定である。知り合ってまだそんなに間がない関係なのだが、これも縁としか言いようのない流れ、五十鈴川はケセラセラである。

常々思うことだが、私の小さいころには、いろんな人間たちが我が家にはやってきた。そのころ多感な少年だった私は、そういう人たちの姿を通して、人間という存在の面白さ不思議さを、自然と学んでいったような気がしている。私の人間に対する好奇心は少年期に育まれたのだ。

あのころ、ちょこまかなことには、とんと無頓着な、面白い大人たち(特に職人をはじめとする体を動かす労働者たち)が、小さい海山川の小さな町には、数多くいて、そのころの貧しくとも愉しさに満ちた、少年時代の記憶が、いまとなっても心の片隅で今の私の暮らしを、どこか心の奥底で支えている。(あのころには帰れないが、あのころの楽しさをつたえたいものだ)

夏休みの帰省で、姉の孫たちに声を出す喜び楽しさを、ささやかに伝えることができたが、 小さい頃の愉しい思い出というものは、一生の宝だとつくづく思えるので、これから私は縁のあった、子供たちにはあの爺さんは面白い、といわれるようでありたいと、心かけることに決めた。

健康であれば、歳を重ねることのなかで、いろいろと新しい役割の発見があるのだ。そのことを姉の孫たちから、私は学んだのである。

ありがたいことに、まだまだ現役感覚が残っていて、あれやこれややりたいことが減らない私だが、やがては、孫たち世代のために最後のお勤めができないものかと考え始めている。

話は変わる。今朝の新聞一面に、陸上男子短距離の末続慎吾氏の人知れぬ苦闘の末に見つけた、走る、かけっこの楽しさを見つけられた記事が2面にわたって大きく掲載されていて、朝一番読み入った。

37歳にしての、走る悦びに破顔一笑の写真が載っている。順位ではない、ただただひたむきに走る純粋さ、こそが尊いのである。わたくしごと気でさえ思うのだ、順位や序列には私もとんと興味がない。

感動を与えられる人には、序列を超えたその人にしか醸し出せない何かがあるように思える。

自然と笑顔がこぼれるような子供たちが数多く住んで居るような、街にこそ住みたいものである。そのために数多くの人生経験を積んできたリタイアした大人たちのなすべき、役割はささやかであれ小さくはないと、小生は考える。

あきらかを極めるために、簡単にあきらめるのは、いささか、もったいなきがいまだ私はする。未知は(道は)無数に存在する。すべては自分次第である。