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2014-05-31

義理の息子になるレイ君が、今日明日単身我が家に還ってきます。

思わぬ時間ができたのと、うれしいことがあるので、起きたばかりですが庭を眺め、コーヒーを飲み、少しパンをかじりながらの、普段着朝ブログです。

起きたばかりの体というものは、限りなく邪念が少なく、ニュートラルな原初的な感覚を体が持っていて、オーバーではなく、何やらいやな疲れがあっても、濾過してくれるように私には思えるのです。濾過がままならない時はブログはオフです。

だから私は、昔からいやなことや気にそぐわないことがあると、湯につかり良く寝るように心懸けています。水で洗い流し、日々を生きなおすといった日本的な感覚は、森と水の国の日本人が生み出した英知ではないかと思います。

さて、話変わり嬉しいことというのは、娘の婚約者のレイ君が単身今日、明日と帰ってくるのです。もうすぐ、義理の息子になるレイ君ですが、もうすでに家族の一員なのです。

娘が結婚すると、息子ができるなんて初めての経験、不思議な心持ですが、すべてを肯定的に前向きに考えてゆこうと私は思っています。今夜は久しぶりに飲んで親子で語り合える、そのことがたとえようもなく、私には嬉しいのです。

すでに義父は他界していないのですが、私は義父には実にかわいがっていただきました。今ようやく少しは義父の気持ちが理解できるような気がしています。若い未来人たちのこれからを、ひと仕事終えた古い世代は、もうひと踏ん張りしながら、邪魔にならないように見守る。

【今日の写真は、GW里帰り両親のお墓参りに全員で行ったときに撮った写真、麦わら帽子が娘、右端がレイ君】

そんなことを考えます、義父と義母のおかげで、我が家族はなんとか今も暮せている、そのことを私は痛感しながら、日々を送っています。つかず離れずの関係で、要所要所、いつも私たちや、娘たちのことを見守ってくれています。

この間も書きましたが、そのような老い人になりたいものです。正直娘が、ドイツはドレスデンの男性と結ばれるなんてことは、予想だにできませんでしたが、日本人にはない大陸的なおおらかさがあり、そんなところに、娘との縁が生まれたのでしょう。

ともあれ、すぐに9月中旬ドレスデンでの挙式はやってきます。妻も私も、初めて向こうの家族に会うことになるのですが、レイ君と娘が育んでゆく人生を、家族として見守り応援したく思うのです。

苦楽を共にすることの中からの関係性を、倦まずたゆまず紡いでゆくことを生きる。

昨日ブログを書きたかったのですが、どうしても起きてから落ち着いて書く時間がなく、かといってって仕事を終えて帰ってきてからの体は、とても文章がつづれるような体ではなく、暑さでほてった体を休ませるのがせいぜいといった塩梅でした。

しばし、ひたすら体を休めて、真夜中眼が覚めたので、湯浴みをしたのち、穏やかな静けき感覚を取り戻すことができたので、書いています。

私ごときの拙文ブログであれ、心と体が伴っていないと、なかなかにつづれることはかなわないのです。そのような中、この2カ月はよく書いたなあ、と我ながら驚いています。

それは、多分に何かを綴ることの幸せ感が、途切れることなく私の中に、今もこうして湧いてくることがあるからだと思います。

それと確実に読んでくださる方がいるということ、この2点がすべてだと思います。話は変わりますが、以前月に一度くらい、新聞に小川洋子さんという作家が【楽あれば苦あり】という、エッセイを書いていました。

私はこれを毎回楽しみに読んでいました。まさにそうだよなあ、という心持に何度もさせられたものです。(小さきことに感動するばねを持つことの大切さ)苦と楽は分けられるものではなく、つながっているというのが私の認識です。

幸福はつかんだかのように思えても、つかんだ瞬間から砂のように落ちてゆき、それがいつまでも続くなんてことはあり得ないのが世の定めだと、どこか受け入れてゆく。

そのよないわば感覚を私は持っています。私がシェイクスピアに限りなく惹かれるのは、そのような人間というはかなくも虚ろに生きざるを得ない存在を、余すところなく善悪丸ごと包み込んで、劇的宇宙を構築しているからだと思います。

いつまでも続く家族の幸福なんてものはないのです。だからこそ、祝えるときに心から祝う。今という時間を生きられる幸せ感を大事にして、何かを紡いでゆく。私の好きなな方々はおおむねそのように、つつましくしっかりと、根を張って暮しておられます。そして、意識的にすがすがしく天命を受け入れてゆく。

私もかくありたいと願いつつ、至らぬ自分自身を叱咤激励しながら、なんとか日々をしのいでいるといったところ、なのです。寛容な心持を持続するなんてことは、まことにもって至難のことです。

養老先生もおっしゃっています。他者を理解しようと思ったら、まずおのれの至らなさを、変えてゆく努力を倦まず怠らないということ、をいかにして継続するか、に尽きるのではないか、と私は現時点で感じています。

だからこそ、毎日のように点検確認の五十鈴川だより、なのだと思います。まずは、自分自身に水をやることから始める謙虚さがないと、と考えます。

何故かまじめなブログになってしまいましたが、遊声塾の発表会が近いので今夜はこれにて。

【昨日疲れて帰ると、素敵なお葉書が2通届いていました。ささやか、小さき感動のある暮らしがいいですね】

2014-05-29

6月7日6時半、天神山文化プラザでの遊声塾の発表会お声かけお願いします。

ゆうべは遊声塾の日で、寝たのが遅く、今日は仕事というわけで、早起きとなったため、何やらいまだ体が、茫洋とした感じでブログを書いています。

つまり頭が、全然動いていない状態、頭に酸素が足りないのか、思考がままならないのですが、そのような状態の中で、ブログを書く私をご容赦ください。

昨日から、夏日で畑も容赦なくヒートアップしてきています。なんとか今日を乗り切れば、身体も徐々にこの暑さになれてきてくれるだろうと思います。

遊声塾の発表会が、6月7日なので、それまではなんとしても体調管理をきちんとして、本番を迎えたく思います。今のところ15人くらいの方からご予約を頂いていますから、なんとか発表会をいい形で迎えることができるのではないかと、ささやか塾長としては、思っています。

わずか、5人の生徒さんではありますが、素敵な面々に恵まれました。遊声塾一期生の発表会がやれることを、何より一番喜んでいるのは私です。

やはり本番が近くなってきて、昨夜のレッスンも一段と声に張りが出てきました。一年間続けることによって、こんなにも参加面々の声が、意識が変化してきている、そのことの姿を是非見に来てくださいますように、我がブログで重ねてお伝えしたく思います。

誰かに見ていただくために練習する、観客が多いほうが、生徒さんたちもきっと熱が入ります。どうか、一人でも多くの方が来てくださいますようにと、願わずには居られません。

人間は一人ひとりの体の中に、自家発電装置を備えています。遊声塾とは、その発電装置に火をともすための塾と言えるのではないかと、昨夜も熟成の方々の声を聴きながら考えました。

私自身声を出しながら、何やら下り坂の人生の中、いまだ細胞が体のどこかで生き生きと動き出すかのような感覚が、眠っていたものが、シェイクスピアの言葉を発することで、生まれてきます。

そこが、言葉のあや、妙というしかありません。それにしても人間とはなんと摩訶不思議な器なのかと、あらためて思うこと度たびです。

だからこそ、みなさん未知なる自分、いまだ経験したことのない、自分の声に出会うために遊声塾に来られているのかもしれません。

自分という存在の確認を、声を出しながら、追体験しているのだと思います。今朝はこれくらいで。

【今日の写真は、昨日の畑の朝日です】

2014-05-28

夜明けが近い真夜中、一人おじさんはうすらぼんやりと考える、ヒトにとって労働とは、芸術とは?

今日からしばらくの期間、暑さ対策として、朝5時から午後1時まで働くことにした。まさに融通がきく会社であるといわねばならない。【今日の写真は、昨日から収穫しているチシャトウという野菜です。芯の部分ですが、畑での全体もそのうちアップしますね】

ひと仕事を終えた中高年が、生きがいを持って働ける職場というものは、世間広しと言ってもそうは多くはないだろう。私は体を動かして働くということが、若いころ、(とくに20代)は苦手で生活の糧と割り切り、ただただ働いていた。

時代は好景気で、職種を選ばず、あえて人があまりしないような仕事であれば、東京であればいくらでも仕事があった。だからこそ、演劇なんかを学びながらも、かろうじて生き延びることができたのだろう、という気がする。

思えば、たまたま幸運な時代をなんとはなしに、本能と直感のままに、泳ぎ抜いたのだと、今は思える。何度か転機が訪れたが、安易な選択をせず、身体を動かす仕事を主に続けた。

なかでも、あまり詳しく書くことは気が進まないのだが、富良野塾では自分でも信じられないくらい、31歳から足掛け3年間、自分という体と、遅まきながら青春の最後を向き合った。その経験で得たことの計り知れない、自信のようなものは、いまもずっと私の中で核のように、居座っているようにさえ思える。

おそらく、私がいまもって元気に日々を送れるのは、その時に富良野の大地に這いつくばった体験が、大きな財産となっていることは、まず間違いない。

もうあのような体験は2度としたくはないし、もうこの年ではすることもかなわないだろう。やはり若いからこそできた、やれたのだと思う。その時にしっかりと、性根を入れてつかんだことは、けっして忘れることはなく、その後の今に至るも私の精神の財産になっている。

だから、富良野塾を卒塾してからというものは、どんな仕事をやっても、たんたんとこなすようになったように思う。富良野ではほとんどお金を使うということがなかったので、生きるということとお金との関係についても、隔絶した世界の中で、うすらぼんやりと考えることができた。

いつもより2時間以上早く起きたので、今真夜中の3時近く、何やらいつもは書かないようなことを、起きて間もない身体という意識が、勝手に書いているという按配。

労働、ヒトはなぜ働くのかという、根本的なことについて、とくに若いうちに、頭が柔らかいうちにしっかりと考え行動することは、やはり大切なことだと、今この歳になって痛感する。

いささか古いが、父が人が嫌がることをやれる人になりなさいとよく言っていて、小さい私はそのことがとんと理解できなかったが、つくずく親の言葉は大きいとこの歳になって思う。

愚直のままで、生き方を人に合わせることができず、父らしくというほかはなく人生を終えたが、父の教えは、いかんともしがたく私の中に受け継がれているのを、ますますもって感じるこの頃だ。

けっして、無理をしているのではなく、可能な限りどちらがいい生き方なのかと、ハムレットのように、問い続けるということが肝要ではないかと、いまだ私は考ええる。

それを止めなかったからこそ、サンナンの農にも巡り合えたのではないかと、考えたい。A専務は中高年が、元気に働ける農の一つのモデルを作ることを、赤字にもめげず目指している。(経済構造にがんじがらめの、農薬漬け野菜を食べ続けたらどうなるのか一人ひとりが考える力を身につけないと、アカンと思います)

いまどき、このようなドンキホーテ的な、企業人もいるのだ。そのことは私を元気にさせる。人には精神を活性化させる、ビタミンが必要なのである。芸術や文化は本来そのためにこそ存在していたのだが、その世界までもが、経済構造に組み込まれてしまった、のだ。

庶民はほとんど芸術や文化に触れる余裕がない、(触れたこともない)触れる余裕のある層がただただまわりまわる(もちろんすべてではありません)互いが共存する、環境づくりがなされない、少ないないこのいびつさ、一こと嘘寒い文化状況。

ではどうすれば。しばし、おじさんは畑で這いつくばり、目線低く限りなく広い世界を想像しながら、一人のいまを生きる人間として考えたい。

2014-05-27

お誕生会の翌日の朝、何やらのうのうとした五十鈴川だよりです。

なにやらパソコンの調子がおかしい、だから最後までブログを書くことができないかもしれないが、今日のブログを書きたいという性は、未だ健在というほかはない。

いろいろと、書きたいことがあるということはありがたきかな、というしかない。ところで昨夜はほんわかと、緩やかな時間が流れるお誕生会を、雨を感じながら4人ですることができた。詳細は省きます。ただ、母と娘が幸せそうにしていた姿は、しっかりと瞼に焼き付けました。

私には、家族を持つまでこういう時間がなかったので、そのことがいまだ夢を見ているかのような気持ちになることがあるのです。

男と女が出会い、家族を持つことで、こういう展開に人生が彩られてゆくなんてことが、いまだ時折信じられないと、私に思わせるほどなのですが、どうもこれは夢ではないのだと、ブログではあれひとこと、書きつけておきたい私です。

ところで、昨日ブログ用の写真がなく、あれこれ思案していたら、身の回りにこまごまと思いでの品々が出てきたので、これからは変幻自在、即興的に旅の思い出なんかも、休日を中心に書いてゆきたいという、思いが湧いてきました。

ロンドン日記があるので、それをめくれば思い出が湧きあがってくるのではないかと、思い始めたのです。最近のことは、すぐ忘れるのですが、若いころの記憶は、ありがたいことにいまだ鮮明に思いだせますし、思いだせるうちに書いておかないと、やがてはやがて書けなくなるのは自明の理だからです。

ただいまだ、現役感覚で生きているので、何やらただ単におもいでに耽るようなことは、書きたくないし、今を生きることと結びつく、元気が湧いてくるようなことが書けるといいなあ、と思うのです。

自分で言うのもなんですが、小さいころから飽きっぽく、何事も三日と続かない性格だったことは何回か書いています。そんな私がロンドンへの旅を実現させる前の、二十歳すぎるころからゆっくりと変化し始め、何やらしつこく続けていると、思わぬ果実が自分自身の世界にも訪れるてくるということを、確信することができるようになってきたのは、やはり30を過ぎるころからだと思います。

それと、やはりパートナーーに恵まれたこと、それに尽きるように思います。こんなことを、のうのうと書くことをお許しあれ、もう62歳ですから。

父も、晩年苦労を共にした母を伴いよく旅をしていましたが、この22年間いろんな企画に奔走する私を陰で(今もそうですが)支え続けてくれている、妻にはまったくもって、言葉がありません。

私にできることは、方向に弱い妻の未知先案内くらいしかないので、もし晩年妻がどこかにゆきたいと行った時には、それができるようにはありたいと思っています。

ともあれ、書き続けることでなにかが、個人史的に刻まれてゆく、そのような夢の淡い感覚が、私の性格の中に灯っている間は、何かを紡いでゆきたく現実的幻想を求め続ける、五十鈴川だよりです。

【ブログを書く前私はしばらく、日記をつけていたのでした、ほとんどをあるとき処分したのですが、どうしても処分できなかったのがこの日記、なぜならインドを旅した記録が書きつけてあったからです、今日の写真は、その日記の表紙です】

なんとか今日も、綴りました、いまN氏に電話をしました。さあ、畑に向かいます。

2014-05-26

今夜、母と娘のお誕生会を、ささやかにします。

今日は下の娘の21歳の誕生日です、なんてことを臆面も書ける、今や鉄面皮化しつつある私です。

こんな個人的なことを、ブログでのうのうと書いてもいたしかないかのもしれませんが、世の中の大事とは無縁のところで、私を含めた庶民は、小事を生きているのですから、おりおりの生誕日はささやかに祝うという、妻の気持ちは大切にしたいと思っています。

下の娘と母の誕生日は二日しか違わないので、今夜共に祝うことにしました。大学を卒業し、家から出て働くようになれば、ともに祝うなんてこともそうはなくなるわけで、そういうことを考えると、家族が食事をしたりする時間なんかも思っているほどには、少ないことに気づかされます。

だからこそ、誕生会はどんなにささやかであれ、きちんとするということは、大切なことだと思う。

それにしても、なんとまあ時は早く流れ、娘たちはおおきくなり、あっという間に親元を離れてゆくことかと、世の定めとはいえ、当事者になってみてこそ、感じ入ること度たびの年齢にわたしもようやくにしてなった。

母親と違って男親は、どこかに一抹の悲哀というか、寂しさが伴う気がするが、それは男としての性のはかなき定めと、私は覚悟を持って受け入れることにした。

人間は、男であれ女であれ、究極的には一人の存在、だからこそ苦楽を友する、かけがえのない相手を求めるのだろう。夫婦にもやがては必ずお別れの時間がやってくる。それは夫婦のみならず、あらゆるこの世の関係性とのお別れでもある。

朝から雨に伴い、何やらしんみりとした五十鈴川だよりだが、静かにしっとり雨に打たれた緑を眺めながらキィを打つのもなにやら、風情があり私はこのような、静謐な時間が好きだ。

ところで、娘が小説をプレゼントにほしいというので、昨日すでに本屋さんにゆき求めてきたが、母へのプレゼントは、今日これからカルチャープラザでのレッスンを終えて、ゆっくりと考えようと思っている。

母の存在あればこその、娘たちの成長である。やがてもっと時が流れ、娘たちが子供に恵まれたときに、私たち夫婦も母がしてくれたように、孫たちと接することができるように、老いた先の時間、何かの役割ができるように、今からしっかりっとその準備をしておかなければならないと、母を見ていて思う。

ともあれ、今夜は母と娘のお誕生会を、夫婦できちんと祝いたく思う。

【今日の写真は、1997年1月27日(月)インドを旅した時ガンジス河の聖地ベナレスで撮った、貴重な白黒写真、インスタントカメラで撮った、フィルムです。私が45歳目前、旅日記も何故かつけていたのがでてきました。まるで、ガンジスはすべてを飲み込み静かに流れ、ただただ生と死が繰り返される、行ってよかったと思います】

2014-05-25

いまだ動ける体を見失わず、畑にはいつくばって汗をかきながら思考する。

いきなりだが、ほとんど新しき人とも会わず、毎日同じ様な生活をしている私だが、かろうじて書くことを続けているおかげで、何やら世の中というか、他の遠方世界とつながっている感覚を、想像力でかすかに持てているかのような按配がする。

これで書かなかったら、見ることばかりで、ひたすら大きな流れにひたひたと、精神が流されてゆくのではないかという気がしてしまう。以前も書いたが、どんなにつたなき文章であれ、書くためには読み続けなければならない。精神を耕す運動。

そうは言っても、日々働いているいわゆる労働者は、そんなにはきちんと決まったい時間集中しての読書タイムは、なかなかに持てないのが現実だろう。まして若いころから生活に追われ、落ち着いて勉強する時間が、なかなか持てなかった私には、知って学ぶということに対しての、限りなきあこがれのようなものが、いまだかすかに在る。

そのことが、私をして、本の世界にいざなわせるのだと思う。日本語という言葉で成り立っている生き物としてのわたしは、日々読まないと、何やら落ち着かないのである。

そのような日々に、ブログを書くことが加わったというような感じなのである。若いころはよくTVも見ていたのだが、50歳を過ぎ、徐々に時間は有限だという感覚がにわかに強くなってきたころから、本を読む時間と新聞を読む時間が増えてきたように思う。(何よりも独学は面白い)

それは、言葉と相対しながら自分とも向き合う時間と言ってもいいかと思う。かぎられた時間、量は限りなく少ないのだが、やはり何十年も文字、言葉と付き合っていると、いくらぼんくらな私でも、何かがうすくうすくたまってゆくような自覚があるのだ、そのことがいいスパイラルを生み、日々の暮らしがなにやら充実してゆくかのような。よしんば錯覚であってでもそれはそれで構わないとさえ思う。

休みの日は、一週間分落ち着いて新聞を読むことを心懸けている。中でも、日曜日の書評は勉強になる。へーっと思わされることがたびたびだ。だから読み続けられる、おこずかいの範囲で、手元に置いておきたいものを、たまに買う。ささやかな楽しみとして、切り抜きたいものはノートに糊で貼りつける。ちりも積もれば山、ずいぶんそんなノートがたまった。

まったくのアナログ作業だが、だれにも迷惑をかけず、今では気分転換と趣味を兼ね備えつつある。たまに切り抜いたノートを見るが、自分の関心事の移ろいが映っている。

遠隔操作、サイバーテロ、サイバーストーキング、3Dで銃を作る、なんとか細胞、無人攻撃機、などなど、新聞を切り抜き始めたころには、予想だにできなかったようなことが、新聞紙上にはあふれている。

書ききれないが、集団的自衛権、原子力事故による汚染水の問題、世界の混とん化の中、日々垂れ流される情報の中で、何を信じたらいいのか、大部の人たちは途方に暮れるしかないかのごとき世相、金に汚染されてはならないと思う、いかに遊べるかだ。

ますますもって、デジタル時代から取り残されてゆくかのような五十鈴川だより、けっしてデジタル時代を(ブログも書いているのだから)否定しているのではない。だが、ゆき過ぎた、押す押さない、オンオフライフでは、あまりにも潤いのないかさかさ砂漠的人間社会になるのはすでに見えている。

ただ、私は正直に書いておきたいだけなのだ。私の身体が、途方もなき歯止めなきデジタル化の果ての産業兵器、原子核分裂器機、経済資本主義社会に、そぐわないのだと。

もっと書けば、現代人の私の体は、あらゆるハイテク機器に取り囲まれて、悲鳴を上げているのではないかという認識なのだ。だから私は、トイレでしゃがんで考える。気持ちのいい、命の発露をこそ見失くはないといった心境になる、62歳の私だ(5歳の子供の悩みも私の悩みも同じだ)。

そしてそのような感覚をおもちの方々と、野菜など作ったりしながら、限りなきアナログ晩年ライフ、一つのささやかなモデルがほしいと、畑で釜を持ち手ごわい雑草と共存しながらおじさんは汗をかきながら考える。風の歌を聴け、ではなく土の声を聴けである。

(今日の写真は、2000年家族で西インド、アメダバードを旅した際、低カーストの方がすむ部落を訪ねたときに作ってもらった、大切な思い出のコマ)




2014-05-24

今日は夜明けとともに、N氏と朝5時から働きます。

さすがに3時半だとまだ外は暗い、歳をとると朝が早くなるなんて言うが、寝るのも早いのだから、はやく起きるのは仕方がないとはいえ、普段よりもっと早く起きてしまった。

今日は試みとして、いつもより2時間早く、畑にゆこうとN氏と二人で決めたのである。これから暑くなるし、陽が昇るのも早いし、涼しいうちになるべく働こうと、二人して決めたのである。

上司の若きF氏もそれでいいといってくれたので、そのようにした次第。とりあえず、あまり無理せず、休み前くらいから、徐々に体をならしておこうと二人して考えたのである。定植他、二人でのコンビ作業が多いので、我々は何かとその日やるのことを相談しながら進めているのだ。

我々の考えを聴いてくれてくれる会社なのは、本当にありがたい。したがって、今日は午後一時には、仕事を終える予定だ。昼食は家ですることにし、妻が弁当を作る手間も省ける。

これから秋を迎えるまでは、可能な限り夜明けとともに働くのが、農の仕事は理にかなっていると思う。ますますもって、昔に回帰してゆくかのような我が暮らしなれど、それが気持ちがいいのだから仕方がない。

おそらく、ますます世間からはずれた感覚の持ち主になってゆくのだろうが、、そのことをわたしは静かに大地の上で思索しながら、歳を重ねてゆきたいとおもうのだ。

ともあれなんとか起きて、わずかなひととき、コーヒー片手にブログを書き、今日を乗り切るつもりでいる。帰ったら昼食をしてからの、お昼寝がすごく楽しみである。

お昼寝がすんだら、さあしばし自分の時間。働いているからこそ、自分の自由時間がことのほか嬉しいのだと思う。なにしろ、18歳からいろんな仕事をしながら、夢の時間を生きてきたわたしの人生は今後もあまり変わりそうもない。

父も母も働いて、一生を終えた。私もかくありたいと思うようになってきた。体が動く限り働いて、がしかしおりおり夢の花を咲かす、その夢の花をいかようにして紡げるのかは、私もよくは分からない。ただ、これまでやったようなことにはあまり心が動かなくなった。

新しい人たちに、出会いたいと思う、パートのおばちゃんたちにも喜んでもらえるような、相棒のN氏にも、いかったよ、と言ってもらえるような企画を打ちたい。煩悩はいまだやまず、もはやこれまで、と、芯から思えるまで今しばらく、じたばた体と頭を動かし続けたい。

(今朝の写真は、尊敬する藤原新也さんから送っていたtだいた、キャットウオークのバッジです。働くとき胸につけてお守りにしています)


2014-05-23

歳を重ねながら、うきうきする感覚を、なるべく見つけるためには、何をしたらいいのか考える。

サンナンで働き始めてから、間もなく8カ月になる。これからいよいよ梅雨にはいり、暑い夏を迎えることになるのだが、暑さ対策のためになるべく朝早くから仕事をするようにしたいと考え始めている。そうすると朝ブログを書くことができなくなるので、その対策をどうしようかと今思案中である。

なにはともあれ、とにかくまずは1年を何とか乗り切りたいというのが私の願いなのである。そのために、わたしは限りなく生活をシンプルにシフトダウンしている、といっても過言ではない。

この年齢で、新しきこと、とくに農の仕事に挑むのは、健康な体あってこそのことだから、たびたび書いているが、身体の手入れに、時間を費やすようになってきた。一日でも健康に穏やかに畑ライフが、続けられるように、オーバーに書けば、我が体を使い切りたいとの思いだ。

精神と体の、淡いなんとも言えない微妙なバランスを、若いころはとんと意識しなかったが、55歳を過ぎるころから、かなり意識をしながら生活するようになってきた。わたしは父親になったのが遅いので、すべてにおいて、ヒトよりあらゆる点で気づくのが遅く、人並な感覚が、10年くらいずれているような気が、正直している。

何かよくは分析できないのだが、世間の常識や、時流におもねる生き方のようなことには、とんと関心がないというのか、早い話合わないところが、とても多いのである。良し悪しは置いといて、いつも少数者のほうに、軸足を置いて懐疑的に生きる狭き路を好ん選んで生きてきたかのような感がある。

なぜこのような感覚が、身に着いたのかは、ようようにして少し自己分析をすることができたように思うのは、最近のことである。そのことは大部の文字数を要するので、ブログで書くことはできないのだが、記憶を持つようになってから小学校に上がるまでの暮らし、生活環境によるものが、決定的要因をなしているとの、結論だ。

若いころはそのずれが、自分でもコントロールすることがあらゆる点でかなわず、自分で自分を持て余しながらも、なんとか高校生で、演劇的な世界に触れるところから、精神の居場所を見つけることができ、なんとかこの世界を泳ぎ、今を生きさせてもらっているという認識。

とくに、わたしをj常識的な感覚世界に導いたのは、やはり娘が生まれたからと思う。その娘が結婚するというのだから、わたしはますます常識的、人並月並み的な生活者になりつつあるような気がしている。
がしかし、いささか矛盾丸出しなのだが、世間的な常識や浮世の約束事なんかは、実にはかなくも移ろいやすくもろいことは、ちょっと歴史を知れば分かることである。人間はわたしも含め、いろんなその時代の空気感を、とくに日本人は大切にしているような民族性を持っているように思うが、私自身は、懐疑的な精神を可能な限り持ち続けたいとの思いがやまない。

そのことを、持続することはわたしの能力では、なかなかにたいへんなのだが、そんなに難しく考える必要もない。ただ自分という器が気持ちのいい方向に向かって生きればいいのだから。歳を重ねるに従って、若いころには及びもつかなかったことをことを、考えるようになってきたことが、つまりは楽しい。

歳を重ねるということは、未知との遭遇なのだ。肩こりを抱えながらも、いまだ思案できる動く器があるということ。うきうきする感覚は、自分で見つけてゆくしかないものだ。

(今日の写真は、K女子が畑で見つけた雲雀の卵がふ化しました。生命の誕生、N氏が早くブログにアップしろと優しく、うるさいのです。畑では何かが日々変化します)

2014-05-22

親友のK氏からた、玉ねぎが届いたとのメールが届きました。

気持ちよく疲れているというのも変な表現だが、そういった気持でブログを書き始めている。平日は働いているので、なかなか落ち着いては一文がつづれないのだが、その中で変換ミスをおかしながらも,何やらつづりたいのは、いわば自己満足的業の深さかもしれない。

でもまあ、いたしかたない。書けるときに書く、それ以外の余計なことは、とんと考えなくなってきつつある、というのはいいことなのか、あるいはそうではないのか、自分でも判然としない。

最近は、かなりいろんなことがリセットされてきて、自分で言うも気が引けるが、なんだか薫風が体をふきぬけつつあるというのか、精神の風通しが実にいいのである。大げさに書けば、人生で初めて、つつましき幸福感のようなものに包まれて、日々が送れているといった、按配なのである。

それは、ようやくにして本当にやりたいことしか、やっていないからではないのかということが、私なりに思うことである。畑ではしんどい作業も続くのだが、それは気持ちのいい仲間との作業なので、なんだか、楽しいのである。

何しろサンナンの、農業理念は、楽しく働くということが基本なのだから、いまどきこのようなことを掲げる、企業が在るのが不思議である。そのような会社に晩年巡り合った、我が幸運をなんと形容したらいいのか。

ともあれ、昨日もサンナンから、遊声塾に直行。一日をほぼ完全燃焼し、あっという間に朝を迎え、今日もこれから、サンナンに向かう。今日も気温が上がりそうだ。だが体調はとてもいい。もう少し寝たいような気もするのだが、寝ているよりもなにやら綴りたいのである。

さて昨日夜、塾を終えるころ、親友のK氏から玉ねぎが届いたとの、メールが入った。短い文章の中に、心からの感謝がこめられていた。

わたしには、数は少ないのだが、県外の遠方に住む、わたしの企画を見にもこれないのに、応援してくださる奇特な方がたがいる。その方々に、少しずつ初めて収穫した玉ねぎを送っているのである。

今年は、娘が嫁ぐのでそのことに集中したく、企画は区切りをつけ、いったん廃業宣言を出した。

だが、終わりは又始まりでもあるのだから、一生活人として、何かが自然に企画できたらといった、見果てぬ夢のような感覚は、いまだ体のどこかに眠っている。(今日の写真は、車の中でお昼をしながら、フロントガラス越しに撮った畑の風景)

ほとんどヒトには期待しない、なんとか自分に期待するといった感覚でこれまでも生きてきたし、これからも可能な限り自分の可能性を、どんなにささやかでもいいから、見つけてゆきたいという煩悩は、いわばなるだけなくしたくはない。

お世話になった方々に、自分が植えた玉ねぎを送れるなんてことは、一年前まで思いもよらなかった。いい意味での楽しき思わぬことが実現できる可能性が、一寸先には在るのである。だからこそ新しい今日を、おそらく無数の歴史に埋もれた世界の民は人知れずそっと、生きていたのに違いない。そんな気がする。

自分次第で、世界の相貌はまったく違った姿を見せる。そのためにはどうしたらいいのか、自分で考えるしかない。

2014-05-21

じたばたと、かといって急がず、自分という小さき川を流れたく思います。

ようやくにして、なにか自然体で、私らしくありのままに呼吸できる、うまくは表現できいないが、いわゆる無理のないいい感じで生きている感覚が、身体の中を横溢している。

この感覚は、やがては老いとともに、または思わぬアクシデントで、確実に無くなってゆくことが、意識では分かっているので、自覚できたときに、可能な限りこの感覚を持続できるように、日々を送りたいと念を押すような感じで、ささやかに刻みつけたい思いにとらわれる。

砂が、握りしめた手から、どうしても落ちてゆくように、いかんともしがたきことが、おおよその人生ではないかとの思いは、両親の生き方や、わたしの好きな方々の生き方を見ていると、そういう想いにとらわれるが、それでも安きに流されないような、生き方を選んだ方達にわたしは惹かれる。

ほんのわずかでもいいから、いわゆる少数素敵な方々を、お手本にしたいとの思いを、しっかりと歩ける間は、手放したくはないとの思いだ。

今夜は遊声塾の日である。発表会が近づいているので、ブログを書く時間がなくなるかと思っていたら、あにはからんやそうでも無くて、かき続けることで、より鮮明に一日のリズムが生まれてきつつある、ように思える。

かといって、何も無理をしているわけでは全然なく、書くことが好きになりつつあるというか、書いていると勝手に思考が動き出す面白さがあって、そういう自分を楽しめているのではないかと、考えている。

シェイクスピアを読んでいても、自分の予期しない思わぬ声が、出し続けると出たりするのである。そのことが、つまりは楽しいから、続けられるのではないかと、私自身は考えている。

つまり、自分が思っている以上に自分という器は、移ろいやすくはかない存在だということではないかと思う。だからこそ、素晴らしく面白い存在だという側に、私は意識的に立とうとしているのではないかというのが、現時点での年齢での、正直な告白である。

いかに、今生きている人生時間を受け入れて、自在に楽しめるかというところが、肝要なことだと思うのだ。確かに、現代においてはお金がないいと、たいへんなことは、重々承知するけれども、それが、絶対条件ではない、といわば思いたいのかもしれないが。

だって、大昔にはお金などは存在しなかったわけだし、そのような時代の方がはるかに長きにわたって、在ったということを、私を含めた現代人はもっともっと知って、今のがんじがらめ時代に対して、少しでも緩やかに呼吸できるような感覚を取り戻さないことには、アブナイと、五十鈴川だよりは、考えるのです。

自分という川は、自分流に流れてゆくことこそ、望ましいのではないかと、考えてしまう私なのです。いくらあこがれ、お手本にしたくとも、自分にその力がなかったらいかんともしがたいわけで、その力を日々貯ええる持続力をどうしたら保てるのか?

天を仰ぎ、土に触れ、深い呼吸をしながら声を出し、今しばらくジタバタ考えたく思います。最後に遊声塾の発表会のチラシを送った方々から、すこしずつ、ゆきたいというありがたいご返事をいただいいています。どうかいらしてください、今朝はこれくらいいで。(今日の写真は雨の中昨日より開き始めた、夜明けの蔓バラです)

2014-05-20

Uさんとサンナンの畑に課外レッスンにゆきました。

昨日のブログを、静かに読み終えた。さて、昨日月曜日は、カルチャープラザでのたった一人の生徒さんである、Uさんが3月に84歳を迎えたということを知ったからではないのだが、五月最も時候がよく、お天気もいいので、途中から課外レッスンということで、ドライブがてらサンナンの畑へ赴いた。

(今日の写真は、開き始めたばかりの我が家の蔓バラです)

みんなが働いている、サンナンの職場も外からさっと見学し、今収穫している畑に着いたのが11時半近く。Uさんは童女のように喜んでくださった。菜食のUさんは自室で、時折自炊されているとのことで、玉ねぎのスープを作るといって私が植えた玉ねぎを、自ら生まれて初めて引き抜かれた。

人生で初めて経験することはいくつになってもうれしいものだ。畑で何度も深呼吸するUさんの姿を見ていて、課外レッスンをUさんがお元気に通って来られる間は、可能な限り続けようと思った。

西大寺駅で、お別れする前に、私の家にもちょっと立ち寄り、庭のバラを見てくださった。母にも紹介し、母自慢の庭の菜園場でわずかの時間だったが、同世代での会話を楽しんでおられた。

このようなことを自分がしようとは、思いもしなかったが、Uさんの生き方を見ていると、私もあのように歳を重ねてゆきたいものだという気持ちにとらわれるのである。1929年生まれの大先輩である。大連からの引き揚げ者である。

何よりも、知的好奇心がいまだしっかりとされていることに、一番驚かされている。自分があれくらいの年齢になった時に、あのようにシェイクスピアが読めるだろうかということも含めて。もしUさんが、ある一定のレベルで、読むことが叶わなかったらレッスンは難しいのだが、Uさんはきちんと読めるのである。

そのことが、私を毎週カルチャープラザに通わせている。立場を超えて、いまやレッスンとともに、Uさんに会いにゆく時間になりつつある、そのような気がしている。

二人で、シェイクスピアを読む時間になりつつあるのである。そのことを二人して楽しんでいる。老いて、下ってゆく時間の中で、残り火(美)を豊かに生きることの確認が、声を出しながら出来るなんて、オシャレではないか、と私は思うのである。

18年もパリに住んでおられたので、パリに友人たくさんおられ、その方々とお話しするためにケアハウスの自室に、電話を引くと話されるUさんは嬉しそうだった。

その年齢にならないと分からない、感じられない、いわば宿命的な感覚を人間は生きなければならない、その毅然とした覚悟がUさんにも、母にも感じられる。

身近に二人、晩年を豊かに過ごしている方達と接することができている私は、まさにお手本としてしなければ、もったいないとの思いにかられてしまうのである。私はつくずく反省する。

私も含め、同世代で、このようなさわやかな存在感を醸し出せる方には、残念だがほとんどお目にかかっていない。のほほんと育った世代とは、明らかに異なる、その差異はどこから来るのか、今のうちに、しっかりと学びながら、私自身のこれからを可能な限りリセットしたいとの思いにかられる。

2014-05-19

沖縄の画家、桑江良健さんの絵画展で小さな素敵な絵を求めました。

時間もないので、簡略的に何か書きたい。昨夜私が心を動かされる沖縄の画家、桑江良健氏の珍しい小さな絵の(葉書の大きさ)個展がが、岡山市の友人宅で土日のわずか二日間行われたので行った。

20点展示されている作品の一点を、私は求めた。絵のことには(も)とんと門外漢だが、氏の醸し出す、えも言われぬ雰囲気の一部を作品を求めることで共有したかったのである、沖縄を。

その結果、私の一月のお小遣いは飛んでしまったのだが、私にとっては普段通りの、お金の使い方をしたにすぎない。これまでの歩みの中でも、余裕のない中で、何点かの絵を買い求めてきた。

それらの作品は、建て替えた後の我が家にそれなりに収まっている、2000年に西インドで買った、ハクシャさんという高名な方の絵は、旅の思い出とともに、つくずく今となっては、買ってよかったと思っている。

あれから、14年近くたっているが、ハクシャさんの家の雰囲気は穏やかで素晴らしかった。人生は、つくずく人との出会いに尽きると、歳を重ねるに従って思い知らされる。

お金はある年齢になれば、いかように使うかが、その人の生き方を集約的につまった形で、如実に示される。身の細る思いではあれ、お金をいかに有効に使える大人になるか、いまだ私は若輩者である。

無理をして買うことはないのだが、本当に欲しいもの、(本当に見たいもの、本当にやりたいことなど、あらゆることに言えるのだが)は買えるときには買っておいた方がいいというのがわたしの考え。

自分がが思っているよりも、人生はずっと短いし、再三ブログで書いているが、可能な限り、後悔先に立たず、にならないように私は人生をおりおり大きな選択もしながら、日々小さな選択も行っているという按配なのだ。

そういう意味では、絵は(もちろん作品にもよるが)高くはないと、私は思っている。ところで話を少し変えるが、たまにしか会えない桑江氏と話がしたかった私は、夜再び友人宅にお邪魔した。車で行った私は、お酒を飲むことをしないで、わたしを含めてきわめて少人数の宴席にお邪魔して、4時間近くを、素面で過ごした。

飲んでいないせいもあるかも知れないのだが、話はおりおり合わせながらもす進むのではあるが、正直宴席の雰囲気に溶け込めない、何かがようよう私の中に育ってきているのを感じてしまった。

それは、どなたにも何ら問題はないのだが、明らかに自分が何かしら、変わってしまいつつあるといった自己認識なのである。

A専務との出会いも大きいのだが、乾いた関係性を構築したといいますか、これまでの交友関係性を、捉えなおしたいといった欲求のようなものが、生じているのである。

友人とは何か、このことは今後も歳を重ねながらも、自分に正直に考えてゆきたく思う。そのことはひとまず置く。

それにしても桑江氏のえも言われぬ存在感は、私に無言で奥深い何かを感じさせる。氏との交遊は、これからも続けたい。

氏の絵は、沖縄の魂の存在をずっと、私の家の中で放ち続けると思う。

(写真は私が求めた絵です。文章は朝書いたのですが、写真を入れる時間がなく、夕方のアップになってしまいました)


2014-05-18

新緑の五月、休日朝湯の後に思う。

一週間の疲れがほぼピークをむかえる土曜日の夕方は、一人の労働者としてはなんとも言えない嬉しさに包まれます。主に、肉体労働を細身の体でこなしながら生きてきた私ですが、なんとか健康を害することもなく、還暦を過ぎ、いまも元気に働けることに関しては、なんとも嬉しいという、表現しか見当たりません。

休日の朝は、やはりゆったりと文章が紡げるので、どこかしら余裕があります。ところで最近特に休日にかぎらず、お湯を温めなおし、朝湯に入ることが増えてきました。特に今の季節は朝湯が最高です。

湯を浴びて、疲れを癒し、湯を浴びて、元気にスタートする。そのように気分を季節で切り替える、なんてのも、一つの生活の知恵として自分なりに工夫すると、何やら楽しくなるから不思議です。なるべく、自分で自分自身をのせてゆく、工夫のようなことが肝要だと思うのです。

人間ですから、あらゆる煩悩や、小さき悩みとうまく付き合う知恵が身につけば、暮し向きはうんとちがった相貌を見せる、そのように思えます。ほとんど毎日一見同じようなことをやっているかとおもわれがちですが、季節が微妙に変化してゆくように、おのれ自身も言うに言われぬ変化をなしている、そのように感じます。

その内なる、自分の身体が発する声なき声に、耳を傾ける余裕のようなものが、ようやくこの歳にして訪れているといった塩梅です。

取り立てて書くことも見当たらないのですが、頻繁に終わることなきかに見える、人間界のあれやこれやについては、一人の今を生きる人間としては、シェイクスピのいうように、片目でみて、片目は閉じているといった、いささかずるい現在の私です。

シリアでは、この3年の間に、3万人の子供が犠牲になったという事実が報道されています。あらゆる報道が、ほぼ24時間垂れ流し続けられると、私も含めて人間の感覚はマヒしてしまう。

人間は自分が当事者になり、血を流さない限り、他者の痛みを自分のこととしては感じない限界を生きる生き物であるということを、悲しいかな受け入れざるをえない、とは思います。

自分の眼の中に、小さなゴミが入っただけでも大騒ぎしますが、哀しいかな他者の眼の痛みは関知しない。シリアのニュースを報じる、能面のような痛みを伴わないキャスターの顔を見ていたら、何やら自分も普段あのような顔をして生きているのかもしれない、と思いました。

集団的自衛権の問題も、私の周りで話題にする人は、ほとんどいませんが、安部さんのいうような論理すり替え的勝手な解釈では、(いかようにも解釈できる)そのことはまずいのではないかというのが私のささやかな、考えです。もっともっと根本から時間をかけて、心ある責任をきちんと持つ大人が議論を尽くさないと、やがては大変な事態に至る、そんな危惧を持ちます。

今の時代、何か事が起きれば、シリアを含め、ウクライナ、アフガニスタン、エチオピア、ウイグル、北朝鮮、尖閣を含む、アジア領海域問題、あらゆる現在報じられる他国間の紛争は、瞬時に我が国の出来事にもなるというくらいに、世界は複雑面妖怪奇な時代に突入し、絡み合っている、そのような認識を私ごときも持っています。

一庶民としてもしっかり考えないと、またもや歴史の愚を繰り返すということになりかねません。先の戦争で数百万の方々の犠牲の上に築かれた、奇跡のような平和憲法を、守り抜くことは生半可なことではありません。

一口に平和を守るということは、日々の家庭の平和を築き守ることですらたいへんなのですから、まして国家的な、民族的宗教的問題を抱えた多国間との平和を築くのは気が遠くなるほどに、困難が伴うことだという気がします。

だからこそ、安易に急いだ解釈で事を進めてはならないのではないかという考えを私は持ちます。弱腰とか、万が一の有事に備えるというと、そうだそうだという考えにくみしがちになりますが、成熟した大人なら、そういった有事に至らないためにはどのようにしたら防げるのかということをまず第一に歴史から学ぶ、ということが肝要だと思うのです。

時代はミサイル核兵器の時代、核爆弾を被った世界最初の国として、平和憲法を核にして、なんとしても人類的見地から、紛争や戦争に至らないために、英知を絞るのが成熟した国の政治家たちに与えられている、役割ではないのかと、愚民の一人として、報じられるニュースを片目で見ながら
思ってしまいます。

ことが始まったら、すべては後戻りはきかないのは、歴史が証明しています。ああ、朝からまったく予期しないことを書いてしまいました。

2014-05-17

ふがいない戦後生まれの父親として思うこと。

いつものように起きてパソコンを立ち上げ、昨日書いたブログを読んでいたら、現時点ではもうほとんど書くことがないかのようなことを、まじめに書いているなあ、という感慨に襲われました。

がしかし、じ自分の中にはいろんな自分がおりまして、様々な自分がおりおり、いったりきたりしながら、なんとかバランスをとっているわけで、何度も書いていますが、絶対矛盾を生きているわけです。

そんな私を、おそらく一番知っているのは、まじかで生活している、我が家族でしょう。いきなりですが、私が幼少のころ、家には明治生まれの、祖父母、大正生まれ、戦前の教育を叩き込まれた両親、それにいわゆるおもに戦後生まれ(長兄と、長女は北朝鮮生まれ)の私たち兄弟が、ともに暮らしていました。

小学生の時の私にとっての父は、一言でいえばそれはそれは、厳しい怖い父親でした。大きな声でよく叱られた記憶が、いまだ鮮明ですが、そのような記憶さえ、この歳になるとすべては懐かしく父のことを思い返すことができるのはなぜなのかと、不思議な感覚に襲われます。

父は激しく叱った後、必ず優しかった、子供心に鬼と仏が同居しているかのような、矛盾そのものを私に示していました。その父のDNAが色濃く私に受け継がれているのを、歳とともに感じます。

このことは、これからも時折考え続けたく思いますが、絶対矛盾的在りのままの姿を、子供にさらけ出していました。自分の弱さや至らない点を、最も愛する家族の前でのみしか、さらけ出す場所がなかったのだと、今は理解することが出来る、そのような気がします。

父は教師でしたが、他人の子供には、あんなにやさしく接するのに、自分の子供にはどうして厳しいのか、そのことが小さい私には謎でしたが、今は何とはなしに理解できるような気がいたします。

ひるがえって、私は父親としてどうなのか、良し悪しは別にして、信じられないくらい、いい加減で甘い父親ではないかという、認識しかありません。まして女の子二人なので、ある年齢くらいからは、ほとんど共有する感覚が限りなく持てなく遠い世界に行ってしまったかのような印象なのです。そのような按配で、ついいい加減になり妻にお任せになるのです。

私は5人も姉兄弟がいましたし、貧しく忙しく、両親もそんなに子供にかまっている時間もすくなく、私なんかほとんどほっぽかれて育ったような印象しかなく、お誕生日なんか祝ってもらったこともありませんでしたし(ほとんどの家庭がそうだったと思います)今とはまるで時代環境が変わってしまったのだというしかありません。

でも今思うのです。つらい思い出もともかく、貧しきなかに楽しき思い出の数々がたくさん詰まった少年時代をたくさん持てたことは、幸せだったとはっきり書いておきたく思います。あんなに無心で遊べた少年時代あればこそ、今も私はかろうじて楽しく遊べる時間が貧しくとも持てているのではないかと思うのです。楽しき幼年時代の思い出は、まさに宝です。だから今も私は故郷を目指すのですから。

朝から何やら、脈絡なく、尻切れトンボになるかとは思いますが、ご容赦を。唄の文句ではないのですが男と女の間にはやはり深い謎があると、時折認識せざるをえないような気もちに襲われるときがあります。

なんとか子育て期間が終わろうとしていますが、親として子供に対して何が出来たのかは、まったくもって自信がありません。親としての具体的なイメージは両親くらいしかないのですから。

18歳から、世の中に出てなんとかこの年まで泳いだのですから、娘たちにも自分自身でなんとか泳いで、この世に居場所を築いてほしいと願うくらいしかできませんが、見守れる間はしっかり見守りたく思うのです。

2014-05-16

このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。

私が働くサンナンという会社は、小さな金属加工の会社である。その中にいまだ利潤は出ていないが、農業部門がある。設立してまだ3年に満たない少人数の部門である。

おそらくその農業部門の募集を知ることがなかったら、サンナンという会社で働くことは、まずなかったと思う。今は娘がそのことを知らせてくれたことに関して、なにやら運命的であったのだと感じている。

このご時世に農の仕事をして、金銭の多寡ではなくお金が頂けるなんてことは、まず私の中では考えられないことだったからである。いずれ時間がもっと過ぎた暁には、面接に行った日のことを書きたく思うが、それは今しばらく置きたく思う。なぜならまだ働き始めて1年もたっていないからだ。

金属部門が黒字であるからこそ、農業部門もなんとか成り立っているから、今はただなんとか農の部門の独立採算が可能になるよう、その中で働かせて頂いている私としては微力を尽くすだけである。

よもやまさかこの歳で、小さな金属加工会社の加工の音を、畑にゆかない時に会社で毎日聴くようになるとは思いもしなかった。日本は製造業の国などとよく耳にするが、いわゆる小企業の現場の雰囲気をこの7カ月以上体感している。

そのことは、私の中に微妙な変化をもたらし始めている。これまで私は小さな歴史公園で企画の仕事を、いわば生きがいのように働いてきたのだが、サンナンで働いている方々は、おそらく私が企画したような音楽会やそのほかの企画に、足を運ぶような方は、まずいないと思うからだ。

なんというのか、静かに闇の中で咲いているかのように、金属を加工する技術にたけた、いわば職人的な世界を生きている方々、そのような雰囲気を持った方々ばかりが、老いも若きも働いているといった、印象なのである。

少なくとも、これまで私が生きて過ごしてきた世界で出逢ってきた人たちとは、異なる世界に住んでいるかのような印象を私は持っている。たまにわずかに言葉を交わす方もいるが、ほとんどの方とはいまだ口もきいたことはない。

何故企画をし、何故企画したものを見てほしいのか、聴いてほしいのか、そのいわば根源的な問いを、私はいままたうすらぼんやりと考え始めている。私が心から見てほしい聴いてほしい人たちはどのような人たちなのか、と。何故企画するのか、なにを企画するのかしないのかそれが問題だ。

話に脈絡がないが、いまちょっとした水準の演劇なんかを見ようとしたら、軽く6千円はする。もっと高いかもしれない。素晴らしい舞台だったが、こないだ上京した際に観た舞台は、一割引きだったが6千円以上だった。

演劇や、音楽や、いわゆる芸術や文化といったところで、早い話ほとんどの方々は、まったく接点無き世界に棲んでいるのである。おそらくシェイクスピアの舞台などに触れることは、おそらくまずないだろう。

だが、エリザベスべス時代のあの当時の人たちは、金持ちも貧乏人も共にシェイクスピアの舞台を楽しんでいたのである。生活に限りなき遊びがあった。天井桟敷に居場所があった。今歌舞伎座ではその名残が残っているが、一幕だけを3階席で1000円で観ることが可能だ。

ひるがえって現代は、限りなく風通しの悪い、氣色が悪い、想像力欠乏寒心貧血時代、ひとことでいえば、そんな時代のような認識、だから自分は、と考えるのだ。

企画をするなんてことは、40歳まで考えもしなかったが、成り行きで企画をすることになり、とくに40代の10年は無我夢中で企画していた。50代、時代の趨勢とは異なる企画に情熱を傾けることで、わがままに、個人的ないろんな思いのつまった企画を奇跡的に続けることができた。

そして何かが確実に終わった。この間、長きにわたって私の企画を応援してきてくださった方々に、いったん企画者は廃業しますという案内を書いて送った。

しかし人生は続き、サンナンでの日々が私に新しき世界をもたらし始めているのを、何よりも私自身感じ始めている。いったんステージを降りたら、またもや別のステージが待っていたといった風なのである。

先のことは全くわからない、下り枯れゆきながら、これまで私の企画に足を運ばなかったような方々にも見て頂けるような企画ができたら、夢、幻。ハムレットはいう、この天と地の間には哲学など及びもつかないことがある、と。

このままでいいのか、いけないのかそれが問題だ。ハムレットも、後は沈黙、と語るまで敢然と運命と向かい合って生きる、そして死ぬ。

(亡き父の形見の蛤の碁石が今日の写真です、父が最も使っていた家宝です、いつの日にかレイ君に上げようと思っています)


2014-05-15

自分に水をやるかのように、今朝もブログを書きました。

可能な限りのギリギリ感を、やれるうちに楽しみながらやっておきたいという、きわめて演劇的な感覚を日常生活に持ちこみながら、生きているような感がことにする私です。

何人かの人に、毎日のようにかくのは大変でしょうと、たまに言われることがある。だが本人はさにあらず。そんなこともあまり感じずに書いているといった塩梅なのである。

義務感や、何かとくに思い入れがあって(そういう時もありますが)書いている風ではなく、何かいちにちのリズムうを生みだすために、ささやかに個人的に儀式化しているにすぎないといった、ところ。

なにかを記すことで一区切り、又今日も新しく働けるかのような幻想を、いわば持続的にやっているのではないかしら、という自己分析。何度も書いていますが、気まぐれ自己満足ブログなのですから。

それでも私ごとき、日々雑感ブログを開く、いわば読者がかすかに増えてきていまして、そのことは私にとってささやかな、大いなる喜びでなのです。闇の中のささやかな奇特な、五十鈴川だよりを
開いてくださる方のためにも、なにも書くことがないくらいに疲れているといった、他愛のないことであれ、何事かをいわばひっかくような感じで、綴れればといった思い。

昨夜遊声塾のレッスンでかなり疲れてはいるのですが、精神はとても元気でおかげさまで、こうして書き続けられる、今朝を迎えているというわけです。

とはいうものの、病気になったり気持ちが全然動かない時や、旅に出たりした時はやはりオフタイムを持つのが自然なので、そうしようと今は思っています。

さて、昨夜の遊声塾、全員5名の参加がありました。みんな仕事を終え、私もそうですが、ギリギリのところで、皆さん踏ん張って参加されています。発表会まで後3回のレッスンしか残されていません。

0からスタートして、何の経験もない方がそのうち3人、よくもまあ続いたものだと、私自身素直に驚いています。全員がそろったのは記憶に在るだけでも数回しかなかったと思います。

昨夜一番最後に来られた方は、そろそろレッスンが終わろうとする、8時40分ころでした。とにかくみなさん働き盛りの方ばかりなので多忙なのです。ましてシェイクスピアを声に出して読む塾に、月謝を払ってまで参加されている方々は、私にとってはかけがえのない一期生です。

この方々と過ごす、何もかも忘れての声だし時間は、なんとも言えない貴重なひとときとして、私の生活時間に精神の張りをもたらしてくれています。家族、農と声だしと友、旅、本、これさえあれば、もう残りの私の人生時間は、ことさらなことがなくとも十分ではないかと思います。

夢が原退職後、わずか一年と少しでこんなにも生活が劇的に変化するとは思いもしませんでした。だが、表面はそうなのですが、このような変化も長い間の眼に見えない継続時間がないと、急な変化には、対応しきれないのではないかという気がいたします。

人生はやはり恐ろしい。日々をあだやおろそかにしては、どんな小さき花も咲かないのではないかと自戒を込めて書かずには居られません。いまだ反省しきりの私ですが、どこかに謙虚さを持続する精神を見失いたくはない、だからブログを書いているのかもしれません。

(今日の写真は曇り空にに咲く、我が家の白いバラです)

2014-05-14

いよいよサンナンの畑に真夏日がやってくる。

あっという間に夏が来た、そんなことを思わせるような、昨日の暑さでした。いよいよもって、これから本格的な夏を迎え、おそらくこのような日は毎日のように、熱中症で亡くなったというようなニュースが報じられるような気がいたします。

BSでほかの国からの世界のニュースが伝えられるのを時折見ますが、日本のニュースの伝え方とは、まるで違っていて、なんとも世界から遊離しいたかのように感じられる日本のニュースの伝え方には、私はほとんど日々あきれ、まるで見ることがなくなりつつある、この10年以上です。

私は朝や夕方のわずかな通勤時間、ラジオでニュースを聞くことが多いのですが、ラジオの方がはるかに、落ち着いてニュースを掘り下げて、解説したり伝えようとしているかのように感じます。大人になったら、ニュースは自分で見つけないといけない。

話がそれました。他人ごとではありません。暑さ対策をしないと、とてもこれからの夏の畑の手ごわさをしのぐのは困難ではないかと、いくばくかの不安をやはり覚えます。だから身体のお手入れをしなければならないと、私は考えるのです。(写真は葱畑で、K女子が見つけた、ひばりのたま後です)


老いてゆく我が体を、いかに働ける、動ける持続可能な身体を整えてゆくか、ということが差し当たって大きな問題というわけです。だからといって、何か特別なことをしようとはまるで思ってはいないのですが、自分の体はやはり自分しかよくわからないので、いささか矛盾しますが、無理をしない程度に、身体を甘やかさず動かしながら、又よく休むということがとても大切なことであるということを感じる日々です。

これから夏至に向かって、陽が長く紫外線が最もつよくなる季節に向かう中で、なんとか私なりの暑さ対策を、考えなといけない、そんなことを考えさせた昨日の真夏日でした。

しかし、そのことを除けば、畑の周囲は、青葉がしみるなんとも言えない新緑の季節を迎え、春の微風が木々の木の葉を揺らすさまはなんとも優雅、春爛漫というしかありません。トラクターから眺めていると、言葉がありません。

これから、初めてサンナンの畑での夏を経験することになるのですが、この夏を乗り切り、無事に丸一年をサンナンの畑で過ごせるべく、食生活も含め、体調管理をしっかりやらないとやばい、そんなことをおもわせる一日でした。

でもまあなんと言いますか、おかげさまで余計なことに時間を使わず、限りなくやりたいことにのみ時間を使っているせいなのか、この数年で最も体調がいいのが自分で分かるのは幸せなことです。平穏無事に家族が、こともなく過ごせるということのありがたさを、かみしめつつ、そこはかとなく、世界の動きにもアンテナを(関心を)開いておかないと、と危惧します。

2014-05-13

W・シェイクスピア遊声塾一周年を、出逢えた面々とささやかに祝う。

昨夜は遊声塾の一年間続いた面々と、ささやかな祝杯を岡山の焼鳥屋さんで上げた。

とにもかくにも一年間続いた方々と、私はきわめて個人的にお酒を飲みたかった。自分が立ち上げた塾に参加される方がおり、かなりたいへんなレッスンに一年間も通って来られる方がいるなんてことに、正直よく続いたと驚いているのである。

ともあれ、この面々で6月7日発表会をやりそれで一区切り、その後は、私自身がいまだ元気で、継続できる間は区切り区切りをつけながら、やれるまでやりたいと、今は考えている。

今、ハムレットを35年ぶり読み返しているのだが、若いころとは違って、また作品が新たな光を私の中にもたらしてくれているのを感じている。

私自身が塾を立ちあげたことにより、あらためて膨大なェイクスピア作品の素晴らしさを、再認識しているのだ。この歳であらためてシェイクスピア作品を声に出して読むことで、何やら日々の暮らしが、より一層充実してくる感覚を取り戻し始めたのだ。

そういう意味で、生徒さんの多寡ではなく、私の思いを共有してくれる方々との出逢いは、貴重というしかないし、その方々となにはともあれ、軽く一杯飲みたかったのだ。

共通の時間を熱く過ごす面々は、かなり内面をさらけ出すこともあり、身内的近しい感情がどうしても、私の場合湧いてくるのである。

呼吸(いき)を吐ききって、声を出すことの素晴らしさを、私自身が深く身体で再認識することができた一年間だったということを感じている。そういう意味では、参加してくれるメンバーがいるかどうかも分からず、何やら不安を抱えたスタートではあったのだが、いまはこの方向でやってゆけばいいのだという自信が、私の中にしっかりと根付き始めている。

声を出し続けるには、あらゆる意味で心身が健やかでないと、シェイクスピアは手ごわいのである。そういう意味で、身体を見失いつつある現代人の私が、なんとか今しばらく声を出し続けることで、日々の自分自身の暮らしを、声を出しながらおのれの身体と向き合い、豊かなリズムが流れるような感覚を、持続したいのである。

そのことができるということが、この一年継続してくれた面々のおかげで、何やらはっきりと私自身のなかで確認できたのだ。そのことが遊声塾を立ち上げて一番私の中で嬉しいことである。

私自身も含めて、人はどうしても安きに流れやすき生き物ではあるとは思うものの、何やらギリギリのところで踏ん張る、快感のようなものも日常時の中で、時に必要ではないかとの認識が私には抜きがたくある。

そのことを、宝石のようなシェイクスピア作品を週に一度声を出して読むことで、今を生きることを確認する場として、遊声塾は私にとって今しばらく大切な空間として存在する。

2014-05-12

珍しく真夜中にブログを書きました。

昨日、封書作業を半年ぶりにした。起きてからまずブログを書き、続いてお知らせの一文書いてプリントアウトし、天神山文化プラザに、施設使用料を払いにゆき、帰りに案内文をコピーし、戻って封書に一筆入れるため、父の遺した硯に墨をすり、約40人の方に書いて、郵便局で投函したらちょうどお昼だった。

起きたのが4時半、机の前に座ったのが5時過ぎだからおおよそ7時間くらい集中して、一気に事を進めた。

私は大事なことは、休日の午前中に集中してやるようにしている。特にブログを書くようになってからの5年近くはそうなってきた。充分に休んだ脳でないと集中の持続力が難しいからだ。

一文は、これまでの企画者としての仕事を応援してくださった方々に、企画者をいったんすっぱり辞めるということのお知らせの通知を書いてだしたのだ。

ブログでは詳しく書くことはしないが、22年間の企画者人生にいったんピリオドを打つといういっ気書き文章。春の訪れとともに、書かなくては書かなくてはと思いつつ、昨日になってしまったのだ。

正直、投函し何かほっとしている。潮時というものがあると思う。父の遺伝子が私には色濃く伝わっているのだなあということを、晩年になるに従って感じ始めている。父は、囲碁と庭いじりと旅で生涯を終えたが、何やら私も似たような生き方を選択しそうなあんばいである。

ギリギリまでことを生し、後は潔くぱっと手を離す。するとまた新たな展開が、見えてくる。そんな人生をこれまで私は送ってきたような気がしている。だからこれは私にとっては新たな、かすかな情熱の移行の選択なのである。

そのことは、私自身が一番自覚しているので、身体のどこかがさっぱりしている。先日の帰郷で、両親にすべてを報告することができた。秋には私の人生を変えた長女がドイツのドレスデンで式を挙げる、人生予期しないことがやはり起こる。

まったくこのような、個人的なつれづれを臆面もなくバーチャルの海に書くことに関して(還暦を過ぎた初老の男ゆえお許し願いたい)おそらくどこかつましくも、ある種の幸福感にひたっているのだと、おもいます。

生きている妙、たまさかのいろんな方々とのご縁、出逢いに助けられて、今現在を生きていることについての、感謝の念は歳を重ねるに従って深まって止むことがありません。

話は変わり、脳はまったくもって都合よく出来ているものであるということを自覚します。一回しかない自分の生の時間を、限りなく肯定的に都合よく演劇的に生きる術を、人間に与えてくれているのではないかという気が、私はします。

だからこそ、18歳から生き延びることができたのではないかという気が、私はするのです。人はやはり本能的に自分を守り、何かにすがり、かろうじて精神の安定を図る。人生は生き急いではならないと思います。勝負の終わりは最後にやってくる。そのように思うべく日々を積み重ねる。

人間とは、永遠に不完全な器、だからこそ恥ずかしいけれど還暦を過ぎているのだから書きますが、愛のある何かを、永遠に求めるという気が、私自身はいたします。

(18歳、昼は酒屋の小僧としてアルバイト、夜は貝谷芸術学院に通って演劇の勉強を始めたばかりの私。今となっては貴重な写真です)

2014-05-11

自分で植えた玉ねぎを初めて収穫して思う朝。

宮崎から帰ってきてから、なんとか4日働きました。サンナンで農の仕事に従事し始めてから、とにかく良く休むようになったことは以前も書いたように思いますが、以前より本を読まなくなったような気がする私です。

以前は本が手元にないと、どこか不安な心持がしたのですが、だんだんそのようなことがなくなってきたような気がします。それはどういうことなのかは、今自分でも判然とはしませんが、本を読む時間を、休息に充てるようになった自分がいます。

本を読むことは今も大好きですが、睡眠を削ってまで本を読むほどの読書家ではないということです。それでも夕食前読む時間が少なくても、わずかではあれ、本を読み続けています。文字を目で追うと思わぬことを教わります。知的好奇心(高貴心)は精神をを耕すには必須です。

知らないことを知るということは、まさに人間にのみ与えられている、特権的楽しみであり、その悦楽を、無知蒙昧である私が甘受する喜びは、言葉になりません。いずれもっと年を重ねたら、枯れてゆきながらの晴耕雨読的生活を夢見ます。

今はまだ身体が若く、時期尚早なのだと思っています。ところで昨日人生で初めて植えた玉ねぎを収穫しました。今日の写真がそれです。一番最初に夕食で口にした初玉ねぎは、葉の部分を入れて570g在りました。半年かかっています。

自分では植えただけ、後は大地と太陽と水が育ててくれたものを頂く。どんなレストランに行っても味わうことのできない喜びを、この年で経験しました。なにがまっとうなことなのかは、自分でもよくは理解しえないし、言葉にもできないのですが、頂くという謙虚な真情が、何かすとんと自分の中で腑に落ちました。

リサイクル、リユース、リセット、季節が循環するように、自分の暮らしもあるがまま、気持ちのいい方に循環してゆく。可能な範囲、消費生活におさらばして、ささやかに生活環境をクリエイトしてゆく生き方を、心懸ける楽しみを大地から学んでゆきたく思う私です。

このお化けのような資本主義社会の行く末、難しいことはとんと理解できない私ですが、人間は酸素なくしては生きてゆけない生き物です。おいしい安全な空気、おいしい安全なお水、おいしい安全な食べ物、それを見失って、どうして幸福になれるのでしょうか。

仮想の敵を作り、核爆弾や、細菌兵器を作り、武器を輸出してまでのお金まみれ社会の行く末は、私みたいなボンクラ、がんたれ(宮崎の言葉で阿呆)にはとんと理解できません)。正義を旗印にする論理も限りなくいかがわしく、感じてしまう私です。他者を不幸にして、どうしておのれが幸福になれるのでしょうか。

故郷の滝、巨樹、五十鈴川を前にして、あらためて私は打たれました。産業革命、資本主義社会以前、(もっともっとまえから)先人達がいかに自然に対して畏敬の念を持って生きていたのかが、理解できました。還暦を過ぎ、私は意識的に昔人的生活感覚を取り戻す現代人で在りたく、思考を持続するべく自問自答ブログを書いているのかもしれません。

2014-05-10

いよいよ本格的に、雑草との戦いが始まる季節がやってきました。

何をしていても時は流れ、雲も流れてゆくのを体感しながら、おかげさまで元気に働ける今が、ことのほかに幸せな私です。(こんなことを朝から、臆面もなく書けるということが)

そのことは、ブログを書く回数にも、如実に表れていて、4月は何と26回も書いています。2月が一番少ないのですが、それでも15回くらい書いています。冬はやはり内省的な時間を過ごすからなのかもしれません。

眼前の庭がようやく白んできました。今日も暑くなりそうです。若葉が萌える季節の到来、畑の周りの雑草、外来種の手ごわいとげのある草が、サンナンの畑の周りにはたくさん生えてきます。その草が、どれほどに手ごわいのかは、秋に成長した姿を写真にアップしたいいくらいです。

なにしろ棘がある草で人間の背よりも高くなる草で、休耕地にはびこっていたのですが、昨年秋、この草と格闘した時の記憶は、まざまざと私の脳裏に、深く刻まれています。この草の怖さを知る私としては、なんとしてもやわらかいうちに刈っておかないと、やがて大変なことになるということが、身体にしみているのです。

そんなわけで、ほんのわずかな時間ではあれ、手漉きの時間があるときは、体力と相談しながら、草刈り機で、刈るようにしています。GWを挟んで、畑の周辺を刈っているのですが、昨日も仕事を終える前、わずかな時間その草を中心に刈りました。

農の仕事の大部分は、草との戦いに尽きる、そのようなことを思います。刈った草はそのままからして又畑に漉きこみます。その繰り返しです。なるべくネギに陽が当たるようにしないと、雑草の方がはるかに成長が早いのです。

おそらく秋まで、時間があれば、合間合間に、私は草を刈り続け、草刈り機が及ばないところは、鍬や手で草と格闘共存しつづけるでしょう。人間は身体を動かす器であるということを、つくづく身体を動かすことの中で、自分という器が、この年になってもいまだかすかに変化することを微妙に感じながら、私は働いています。

昨日あれくらいはやれたから、今日はこれくらいにしておこうとか、自分自身の身体と問答しながら、事を進めていっているといった塩梅なのです。そのことを私は楽しもうと心懸けています。その気持ちの持ち方で、いろんな発見があるのです。同じ姿勢での動き1時間以上はしないようにしています。

立ったりしゃがんだり、出来るだけいろんな動きをしながら、今現在の体力をうまくコントロールしながら、付き合ってゆきながら、出来るだけ無駄な動きをせず、のらりくらりと進める。すると楽しくなる。人にあれやこれやと指示されて動くのではなく、自分で考え自分で自分に指示を出してゆくといった感覚が大事です。

とまあそのような感じで、今日もこれから仕事にゆく前、ブログを書いているわけです。意識が動き身体が動く、この連動ができるということが、今現在の自分勝手な生きる楽しみの知恵といっても過言ではありません。

数年前、人生で初めて10日間入院した時のことは、いまだ忘れようもありません。動けることのありがたさが、あの時以来どこかにしみ込んでいます。

雑草のおかげで、いまだ私はどこか鍛えられているような気がしています。畑は道場のような気さえ時折いたします。

(今日の写真は故郷の5段もある見事な、おせりの滝です。2段しか見えませんが。上にもう3段あります)

2014-05-09

何か役に立つ、記憶の中の爺さんたちのようになりたく思います。

昨日のブログが今日のブログを書かせてしまう、何やらそんな按配の五十鈴川だよりになってきつつあります。日々の移ろいの、精神と体の調整役てきになってきているのだ、なあ、とまあそんな感じ。
GWが終わり、いよいよ畑は初夏のモードに入ってきました。五十鈴川で、お清めをしてきたせいでしょうか。何やらすこぶる体調がよく、睡眠時間が少ないにもかかわらず、身体がよく動き、暑くなってきたなか、昨日も畑でかなりの肉体労働をしましたが、年齢を忘れるくらい、身体がよく動いてくれています。

いつの日にか、きっと身体は五十鈴川で泳げなくなるとは思いますが、五十鈴川に浸かるくらいのことができる間は、今しばらく生きている実感が伴うような仕事に、汗を流したくおもいます。

今回の帰郷で、姉の孫二人とわずかな時間を持ちましたが、お年寄りの役割のようなことを、以前にもまして、感じてしまう自分がおりました。子供というものの無限の可能性の豊かさを、ほんのわずかではあれ、伸ばすような爺さんを目指したいものだと、私は思いました。

子供にとって、記憶に残るような爺さんになりたいと思ったのです。小さいころにやった、川遊び、石投げを、8歳の子供とやったのですが、62歳の歳を忘れて、私が楽しかったのです。私が楽しいと、姉の孫も楽しいのです。

ゲーム機を、手放さない今時の子供ですが、環境があれば無心に石を投げて遊ぶのです。それには遊び相手が必要です。今の子供たちにとって、最も必要なのは、閑なじいさんや余裕のある大人ではないのでしょうか。

ひるがえって我が少年時代を振り返ると、TV、車社会以前は、面白い大人が、生活空間の範囲にわんさかいたように思います。おそらく、その生活への原風景の楽しかった記憶が、私をして故郷へと向かわせているのだと思います。

モノとカネに、私の(人の)心がむしばまれた、この半世紀の個人歴史を振り返るとき、ようやくにして反省しきりの私なのです。ほんのわずかでもいいから、反省できるうちに反省し、やり直せるうちに、やり直す、そのことがあらためて肝要だと思う私です。勇気を持って。

子供にとっての、魅力的な大人とは一体どのような存在なのか、自分の子供時代を振り返ると、自分の労働や、仕事に誇りを持っていた大人が、社会にわんさかいいました。平たく言えば第一次労働に従事しながら、額に汗して働き、身体を張って手で、身体で、物事をきちんと考えられる大人たちが、多かったように思います。

しかたがない、社会の構造が変わってしまったのだからというのは、たやすいのですが、では人は何のために労働にいそしみ、家族を持ち艱難辛苦を生きるのでしょうか。大人ならば考えたい。

その問いの答えを、私は自分が爺さんになってゆくこれからの時間の中で見つけてゆきたく思うのですが、とりあえず姉の孫の役に立つような爺さんを目指す、そのためには何をしたらいいのかと考えると、おのずとかすかな希望の道が見えて、働く元気の源が見えてきます。

何でもいいのです、大切な存在の人たちのために、自分が役に立つ存在になる、存在である、ということ。離見の見、という感覚を生きられるような爺さんになりたいと思うのです。姉の孫とまた遊びたく、故郷を目指す新たな動機が加わった今回の旅でもありました。

先のことは神のみぞと思いますが、娘とレイ君に子供が恵まれたら、きっと私は、昔風の私の記憶の中の爺さんたちを目指すのではないかと、そんな気がいたします。

(今日の写真は、兄夫婦と姉の孫たちと五十鈴川で)

2014-05-08

第一回、W・シェイクスピア遊声塾発表会まで、あとひと月です。

故郷への旅について、わずかでも日録的に書くことができ、お礼も書かせていただいたおかげで、又普段の生活に一気に頭を切り換えることができた。

昨日、5日ぶりに畑で働いてから、着変えて遊声塾のレッスンに向かった。発表会の6月7日までちょうど後一月である。6時過ぎに着いたら、なんとすでにYさんがやってきていて、一人で声を出していた。(素晴らしい)

塾を立ち上げて、まだわずか一年しかたっていないほやほやの塾である。今私は5人の生徒さんに恵まれている。その中でYさんが一番年長である。仕事はリタイヤされているが、家を守り畑仕事をされながら、充実した晩年をいきいきと過ごされている。

私の塾にも参加しながら、他にもいろんな趣味を持たれている。他の4名の方は、フルタイムのお仕事を持ちながらの参加、みなさん忙しいお仕事を持ちながら、一年間持続された方が4名、3月からの若者の参加で、塾がやはりそこはかとなく活気づいてきた、ような気がする。

忙しくて月に一回くらいしか参加できない方や、一度もこれない方もいる。でも辞めることなくみなさ続けてきた方達の初めての発表会である。私自身塾を立ち上げてはみたものの、どのようにレッスンをやってゆけばいいのか、今も試行錯誤を続けている。

人間は一人ひとり、唯一無二の存在であるということが、初めて講師としてレッスンをしてみて、そのことが実によくわかるのである。だから、私と生徒さんとのコラボでしかレッスンが成り立たないので、毎回声を受け止めながら、格闘している。探り合うよにレッスンを進めてゆくような形になるのだ。

うまいとか、下手とか、そういうことではなく、今現在の自分の身体が出す声の、生きている何らかの輝きのようなものが、なんとかシェイクスピアのセリフを借りて、表現できないもかと私は考えている。


本番まであと4回の、レッスンしかない。まったくシェイクスピアなど声に出して読んだこともない方々ばかりの発表会である。縁あって巡り合った私にとっては大切な生徒さんたちの発表会、なんというのでしょうか、とにかく日にちは決まっているのですから、やれるだけのことをやって、生徒さんともども清水の舞台から飛び降りようとおもっている。

第一回の発表会、今のところ5名の予約があります。なんとか30人の方々には見ていただきたく思います。ブログをを開いて御関心のある方は是非、いらしてくださいと書かずにはいられない、私である。

(今日の写真は、文学座の広報表紙に使われていた、シェイクスピアの似顔絵です)

2014-05-07

人生の黄金期のタイミングでの忘れられない旅ができました。

GW,まさに私たち家族にとっては、オーバーではなく人生初めてのGWとなった。これまでGWはほとんど家族とすれ違いの日々を過ごしていたからだ。

とまれ、どのような行動の旅であったのかを簡単に記しておく。2日の夕方から車で宮崎に向かい、行きは阿蘇(途中地獄温泉で朝湯につかって疲れをいやした)を経由して、私が3歳まで過ごした高千穂へ、天岩戸神社で3日の11時近くに、2日から宮崎入りしていた、長女やレイ君、兄夫婦二組と合流、岩戸神社にお参りし、全員で昼食。その後すごい人ごみの中、高千穂峡を全員(9名)で見学して門川へ、5時近く帰郷。

その日は、姉の家で我々の帰郷を祝っての夕食会、レイ君と娘のお披露目も含めての、心のこもった手料理で、姉と義理の兄がもてなしてくれた。姉の娘や孫たち(5歳の女の子と小学3年生の男の子)も参加して、14人での和やかで楽しき宴となった。

翌4日は、午前中お墓参り、そのあと長兄夫婦と我が家族、孫二人9名で五十鈴川へ。誰もいない五十鈴川で川遊び。レイ君と私は冷たかったが、ほんのわずかな時間、水につかって泳いだ。五十鈴川は我が心の川、レイ君と泳げたのが嬉しかったし、姉の孫との石投げも、童心に還って楽しかった。
お昼はそのメンバーで、地元のおうどん屋さんで昼食。姉夫婦は所用で参加できず。少し休んで、午後3時過ぎから、我が家族と兄の6人で、門川の海で磯遊び、約一時間半、食べられる小さな貝を拾い、なんと私は生まれて初めて、ウニを採った。

夕方、6時近くからは、次兄夫婦、姉の娘と孫二人も参加し12名で、兄の家の庭でバーベキュー。陽がとっぷり暮れた8時近くまで楽しい時間が流れた。すべて義理の姉、次兄の姉が雑多な準備万端を整えてくれた。男連中は火起こしをしたくらい。

私とレイ君は暗い中、外で9時過ぎまで、飲んで語った。レイ君が持参した、ドイツのかなり度数の高い養命酒のようなお酒が連夜の宴の最後の締めで、甘くておいしくて久方ぶりにかなり楽しく酔ってしまった。こんなに楽しくおいしいバーべキューは初めてだった。片付けも女性群が多かったのであっという間にかたずいた。

5日は、朝8時出発、兄、次兄2台の車で椎葉村への9人での旅、まずは途中のおせりの滝へ、、初めて行ったが5段階の見事な滝で心が洗われた。椎葉といえば、平家伝説、高校生で訪れて以来の鶴富屋敷と立派な博物館をゆっくりと見学した。素晴らしい展示内容の博物館で驚いた。まあゆっくりとゆきたい。

昼食は、おいしい椎葉ならではのおそばを頂き、その後巨大な樹齢800年ともいわれる杉に出会わせて頂いた。我が故郷の奥深さを、あらためて知ることとなった。大人が手を伸ばして9人でようやく届くほどの胴回りの巨杉に出会ったのは初めて、そびえたつ偉容には圧倒された。

その後、南郷というところにある温泉につかり、のんびりと過ごし、(娘たちは湖のボートに乗った)夕飯は門川のとんかつ屋さんで済ませ、最後は所用で1泊2日佐賀に出かけていた姉夫婦が戻ってきたので姉の家に。9時近くまで最後全員での語らいのひとときを持つことができた。

そして昨日、朝5時過ぎ、東京に飛行機で帰る娘とレイ君を見送り、我々も6時近くには兄姉夫婦とお別れし、帰りは大分、臼杵からフェリーに乗り、しまなみ海道を走って夕方4時過ぎに家に戻ってきた。

そして今一晩休んで、なんとかブログを書いているというわけだ。いまだ旅の余韻止まずといった塩梅なのだがとりあえず、わずかではあれ何か記しておかなければといったところ。

あらためて、我が姉兄弟、人生の晩年の黄金期の、タイミング、いろんなことが重ね折り合わないと、このような旅は、そうは起こり得ないだろうと、思わずにがいられない、一期一会の旅が実現したGWとなった。

娘とレイ君のおかげ、あらゆるおかげ様で、このような旅を経験させていただきました。両親がこの旅を、冥界から眺めていたら、と想像します。この旅ではまたもやいろんなことをかんがえさて頂きました。家族とは、兄弟とは、親戚とは、面映ゆく書くことは控えますが、つたなきブログのこの場を借りて、兄たち、姉、義理の兄姉に深く感謝を伝えたく思います。


2014-05-02

故郷に向かう日の朝に思う。

今夜から帰省するが、半日畑に出ることにした。まさに目に青葉の季節がやってきて、畑の周りは
あらゆる植物が一気に伸びてきて、うーむ、このままでは畑がネギが、雑草に侵食されてしまうかのような、危機感を私は抱いている。

サンナンは農薬を一切使っていないのだが、周りの農家の草を殺す農薬の散布は、消費者に見せたいくらいである。これが積もり積もっての、人体やあらゆる生き物に与える影響の甚大さにメディアが、取り上げないのが、消費者の一人としてまったく承服できない。おかしい。

あれほどの生命力のある雑草が無残にも枯れてゆくのである。そのような人工農薬が、無害であるなんて言われても、まず私は信じない。きっといつの日にか、必ず人体に害が及んでくるはずだ。その時では、遅いのである。(すでにきているか)ひと仕事終えた我々おじさんは、ともかく。

未来の人たちや、弱い子どもなんかに影響が出てくると、私は思う。消費者の一人として、可能な限り安全な食べ物を、食べたい。そのことに関しては、大人の一人ひとりがまずは自分の命の源について、食べ物についてきちんと考える力を身につけてゆかないと、危ない。(すでにかなりあぶない)

こんなことを、書くはずでは全くなかったが、私も含めた人類の置かれている立場は、かなり危ういと、時折おもわずにはいられない、のだが、じゃどうしたらいいのかということになると、きれいごとではなく、まず自分でわずかでもいいから、何か命をはぐくむ作物を育ててみる、そんなことからしか、今の私にはできない。

口で言ったり、書いたりすることは簡単だが、雑草をと共存するにせよ、ネギの周りの草を除去するのは、行うはかたしなのである。だが、サンナンの専務はその狭き門の農業を目指しているのである。人間の存在そのものが、反自然的である、ということは置いといて、いくらきれいでも、放射線を浴びた野菜とか、農薬を使った食べ物をすすんで食べたいと思う消費者はまずいないはずだ。

作る農家さんだって、出来るなら農薬なんか散布せず作りたいと思っているのではないかと思う。ではなぜ、こういうシステムになってしまっていて、身動きがあちらこちらで、出来なくなってしまっているのかについて考える力を、身につけるのが大人ではないかと思うが、いかがでしょう。

考え、ささやかにしなやかにアクションを起こす力を、身につけない限り、大きな力に流されてゆくしかない。まずは争わず、仲間と土地を借りるなどして、自分で作れそうな野菜くらいから作ってみること、くらいから始めたら、と考える。

まずは、台所から、食べ物から、身近なところから、手の届く範囲から、身体を動かし、画面付けではなく、地面を、大地に触れる感覚を取り戻したいと、私自身この年になって、まったく反省しきりである。

TV,ゲーム、旅行、ありとあらゆる、時間とお金消費型、受動型娯楽満載の日々の暮らしに、がんじがらめに取り囲まれているが、大地の上に大の字になり、流れゆく雲を眺めながら、深い呼吸をする。生きている実感を取り戻す。

なんとも気持ちがいい。エネルギーが満ちる。又動ける身体になる。TVや車が発明される以前、つまり50年くらい前まで、ほとんどの日本人は能動型時間を生きていたと思う。人間は、命を頂き排泄するいきものである。

後戻りはできないが、私自身この先は可能な限り、受け身ではなく、能動型の時間を過ごしたいものだと夢見る。ハイテクではなく、限りなくローテクライフ。なにはなくとも自分という器を遊ぶ。

何が何だか、論旨無き夜明け前ブログだが、そうそう今夜帰省するのです。帰省し、泳げそうなら五十鈴川につかって、お清めしていただこうかと考えている。しばし、ブログはOFFです。

2014-05-01

GWが終わったら、6月7日の遊声塾の発表会に向かいます。

なんとか起き、ぼーっとしていたので、冷えた湯を温め、朝湯を10分ほどしてパソコンに向かっている。5月1日、はや5月ですね。明後日2日の夜から、車で故郷に帰るからなのか、疲れてはいるものの、どこかとても元気な私です。

五十鈴川のほとりに、久方ぶりにたたずめ、やはり家族全員で帰省出来ることが、そこはかとなく嬉しいのです。私のような単細胞型人間は、日々のどこかに、ささやかに燃え続ける元気のもとのようなものが、かすかにではあれ流れ続けていないと、おそらくしなびてしまうのではないかという気がしてなりません。

身の回りに、大切なことが、五つくらいそろっていれば、もうほとんど私には、ほかになにも必要がないくらいの、人生時間を生きさせてもらっている、という自覚が私の中に芽生えてきている。

4月は、春の訪れとともに、実によく我ながらブログを書いたものだなあ、という気がしている。オーバーではなく、書くことで自分と向かい合い、その感覚を磨くような感じで。

さて、5月はおそらくそんなには書けないかもし入れない、そんな気がしている。でも私のことだから分からない。何故かといえば、6月7日の遊声塾の発表会が控えているので、ブログを書く時間を減らしてでも、そのことに集中したいがためである。

昨夜も、充実したレッスンをすることができたのだが、この一年間とにもかくにも私のレッスンについてきて来てくださった貴重極まる生徒さん達の個性が輝くように、そのことにエネルギーを集中したいのである。

時間は有限、悔いなく発表会を、まずは終えたいという気持ちが、チラシができ、昨夜のレッスンあたりから強烈に湧いてきたのである。仕事を持ちながら、月謝を払い、かなり細かい私のレッスンに一年間ついてきてくださった生徒さんは、もう私にとっては、身内的存在になりつつあるのだ。

何より、私自身が30数年ぶりシェイクスピアを再び読み込むことで、今を生きる新鮮な感覚をあらためて取り戻しつつあるのが自覚できること、そのことが遊声塾を立ち上げて一番良かったことである。巨大な連山、シェイクスピア作品に登るのは、実にエネルギーがいる。

だがどんなに疲れていても、シェイクスピアの言葉を生徒さんたちと無心に声を出し続けていると、何やら別次元の世界にいざなわれて、不思議な元気が湧いてくるのである。いまだ自分の中に無限の可能性のような感覚が、眠っていたものが、ほのかに立ち上がってくるのである。

その瞬間の感覚は、のぼり挑み続けたものこそが、感じ取れる言葉にならない世界、一年間レッスンを受けた方々は、そのことを身体のどこかで自覚されたからこそ、続けられたのではないかという気がする。意識の集中する力を高めることで、生の免疫力つける声だし。

ともあれ、GW宮崎から帰ってきたら、6月7日の発表会に、仕事以外の時間、私の意識は向かうことになる。でもまあ、そうは気張らず、流れるようにこれまで通り、柳に風のように、書いてゆきます、ね。

ともあれ、先着30名くらいしか入らない教室での発表会です、なんとか満員にしたいと思います、要予約です、いらしてください。生徒さん達の今を生きる声を、聴いてほしいと願わずには居られません。夜明け前、今朝はこれにて。

(今朝の写真は、ブログを書きあげた後に撮った、一輪の庭のバラです)