ページ

2019-10-26

第一回西日本槇峰会総会に参加できました、そして想う。

昨日、大阪の道頓堀ホテルでお昼から午後3時まで行われた、第一回西日本槇峰会総会に、日帰りで行ってきた。

そのことを、わずかでも頭が新鮮なうちに少しでも五十鈴川だよりに綴っておきたい。数週間前、3年ぶりに突然私にK君からメールが入った。

内容は25日、大阪で槇峰会なるものがあるので参加してみないかとのお誘いであった。同窓会ではなく槇峰会のお誘い。しばし私は逡巡した。が、どこかで私は出かけてみたいとの思いが次第に湧いてきた。

槇峰会なるものが関東や、関西にあるとのことは、3年前槇峰の地にあった美々地小学校の同窓会にたまたま偶然参加することができたた時に聞いてはいた。

話を少し戻すが、私は父親が教師であったため生まれて就学前も含めれば、宮崎県の中を5回ほど引っ越している。生まれてすぐ高千穂というところに行き(私の最初の記憶は高千穂に雪が降っていた光景である)3歳まで過ごし、そこから生まれた門川に引っ越して、小学校の5年生までを門川小学校で過ごし、6年生の時一年間だけを、槇峰銅山のあった美々地小学校で過ごしたのである。

妻の最愛の花、五十鈴川だよりを綴るとやってくる
この時の一年間の出来事は、齢67歳の今になっても記憶の底のそこかしこに、かなり鮮明に残っている。それはそれまで過ごした海沿いの門川小学校とは、多面的にあまりにも異なる環境に突然放り込まれたことと、6年生でいよいよ多感な思春期の入口に差し掛かっていたからではないかと思う。

 この時過ごした一年間の途中から、槇峰銅山閉山のうわさが教室内に流れ、ぽつりぽつりと旧友が転校してゆき、私も一年後、父親が都城の近くにあった高城町立四家(しか)中学校への転勤と共に転校を余儀なくされた。

私が転校して後間もなく、槇峰銅山は閉山し、かっての級友たちは全国各地に離散した。が美々地小学校での鮮烈な記憶が私を槇峰へといざなう。高校生になった夏休み生家に戻った私は、ひとり槇峰の地を訪ねた。槇峰の地の風景は一変し、かって一年間住んだ中学校の下に在った桜が丘の炭住あとは無残なまでに雑草に覆われていた。

地元の子供だけが通う美々地小学校はまだあったが、私の中の面影、あの山間の地の槇峰は無残なまでに姿を変えていた。私は15歳になっていた。

わずか3年前とのあまりの劇然たる変化に茫然自失したといっても過言ではない。多感な思春期の真っ盛り、今考えると力が全身から抜けてゆくかのような虚脱状態に私は襲われたのである。

あの級友たちはいずこへ。あの時の虚脱感が私に与えた、今風に言えばトラウマが、その翌年高校2年生になりまたもや転校、生家から通い始めた富島高校で演劇部に入部することになるのである。

話を戻す。50歳を前にして父親が亡くなり、私はまたもや槇峰の地を訪ねた。長くなるので端折るが、そこで槇峰の地に今も住むT君に40年ぶりくらいに再会し、幸いなことに彼が私のことを覚えていてくれたことが、3年前静岡で行われた美々地小学校への同窓会に参加するという、思わぬ予期せぬ出来事へとつながるのである。

長女が生まれた時に植えたスダチ今年は当たり年である
その同窓会で、当時岡山に住んでいていまは滋賀県に住むK君と知り合い、彼が3年ぶりに私にメールを突然くれ、誘ってくれたおかげで槇峰会に参加がかなったというわけである。

今日これから上京せねばならず簡略に記すが、槇峰銅山閉山後、日本各地に散った仲間がその後半世紀以上にわたって今もこのような形で、絆の確認とお互いの友好を継続持続しておられる会に、浦島太郎のように参加させていただいた幸運な出来事を何としても、五十鈴川だよりに書いておきたいのである。

未曾有の高齢化の中49名の方の参加、私やK君が一番若く、ほとんどの参加者の方が私より年上の方々ばかりだった。その後人生の修羅場を潜り抜けて今もこうして友愛を継続持続されている事実に、私は深く感謝の念を抱かずにはいられなかった。

高齢化し、関西槇峰会は継続不可能となり、有志9名で再び西日本槇峰会を立ち上げられたとのことである。その情熱の深さ念いには脱帽するほかはない。日本人の誇りここに健在である。

K君ぐらいしか話し相手がいなかったが、私の父親を覚えていた方もおられた。アルコールのおかげで、私もすっかりリラックスし、いろんな方がたった一年しかいなかった私に暖かく声をかけてくださり、本当に恐縮しながらも参加してよかったとの思いが、こうして私に五十鈴川だよりを書かせるのである。

人生は有限である。身体が元気な間は可能な限り槇峰銅山閉山後も、熱き絆の継続を実践されている諸先輩方との交友に学びたく、今後も参加したい。K君お声掛けありがとう。

2019-10-22

歓喜と絶望のはざまに想う。

今日は午前中肉体労働はお休み、即位の礼だからである。まだ外は暗い。さて何を綴ろう。

もう10日近く前、日本対スコットランド戦が行われた13日私は故郷に帰省していた。前日の12日から当日、台風19号が主に関東以北を直撃、未曾有の多くの川が決壊するかって経験したことがないほどの水災害となった。

その日兄と共にスコットランド戦を見たが、その間完全に被災地のことなど念頭になく、画面に吸い付けられていた。

前回大会で苦杯をなめた相手スコットランドに、何としてでも勝つんだという執念は、被災された方々に、試合後あの笑わない男稲垣選手が少しでも勇気を与えたかったとインタビューで応えていた。
書評欄のイラストのカットがとにかく楽しみでした

おそらく被災された方々の多くはワールドカップどころではなかったであろう。一方で絶望的なほどの困難さの状況を生きる方々、方や歓喜につつまれるスタンド。これが現実の世の中である。

想像する、自分が被災し家を流され、肉親を失われたしたりしたら、ワールドカップどころではなかっただろう。悲しいかな残酷というほかはないほどに人間は(自分は)自己中心的な存在である。
他者の苦しみや、哀しみ痛みは、(喜びもまた)おそらく経験した者でなければ分からない。昨年夏の豪雨で、我が家のそばを流れる小さな川、砂川の上流が決壊し一部のエリアの家屋が水に浸かった。猛暑の中一日だけボランティア活動に行ったが言葉がなかった。

話は変わるが、人間は心も決壊する。自殺者の数はこの数年減少傾向にあるが、小中学生の自殺は増えている。いじめのニュースなどひきも切らない。教師が教師をいじめる、漫画である。なぜかくも弱者に対する思いやりなどが、退行する社会になったのか。

凡夫の私には遠く理解の及ばぬところではあるが、特に戦後、きっとあまりにも世の中が急激なテクノロジーの発達経済社会にシフトしすぎたために、何が何だか分からなくなっているのではないか。自然の一部である身体が、いじめをする側もされる側も、わけもわからず悲鳴を上げているのではないかと、愚考する。

この一文も私の好きな池澤夏樹さんが寄せておられる。
で、ふたたびラグビーの話。テクノロジーがいかに発達しようが、人間は所詮排泄する器、身体を動かす、自分を動かすしかない存在である。でないと他者に迷惑をかける。家の中に泥が入り、どかすにも片づけるにも、高齢者はともかく、基本的には自分の体を動かすしかない。基本を置き去りにした社会、身体が動かなくなったらアウトである。

石油、耕運機や車社会以前はみんな体を動かしていた。私を含めたほとんどの日本人が、体を動かすことの悦楽を忘れたのである。

便利快適社会を追求し続ける経済発展幻想社会の未来は、果てしなく災害に弱い社会であることが、立証され続けているかのようなこの9・11以降の日本列島。そう感じるのは私だけであろうか。

ラグビー日本代表が示唆している姿に私は生きるヒントを感じる。勝負は置いといて、あの汗水たらして大事なもの、誇りを守るために身体を張る。感動は銭では買えない。男の私としては困った時には足場を固めるしかほかに方法がない。足るを知る者は富む。難しくはない、当たり前のことである。原点に還る。そのことを日本代表が教えてくれたように想う。

2019-10-21

あの若き多人種日本代表が示した姿に、初老男は胸がざわつき、そして想う。

ラグビーワールドカップの日本代表の渾身の戦いが終わった。南アフリカ代表との一戦を妻と二人で、静かに見守った。ベスト8での戦いも含め、すべてをテレビ観戦でリアルタイム見ることができたことの喜び、感謝をきちんと五十鈴川だよりに書いておきたい。

こんなにテレビ画面に吸い付けられてテレビを見たのは、いったいいつ以来のことかと思うほどに、初老男は選手一人一人の表情に魅せられてしまった。あらゆることを犠牲にしてまで、誇りをもって競技で堂々と戦う姿に、理屈ではいいしれぬ魂の輝き、熱さというものを日本代表の面々は身を挺して範を示してくれた。そしてそのことに理屈抜き感動した。

私の受けた感動は、つたなき言葉では到底伝えられるものではないのを承知であれ、何かを綴らずにはいられない。国籍や人種を超えて、万人の心に届くさわやかというしかない感動はどこから来るのであろうか。ヒトはなぜ感動するのか。

かなりの異国育ちの選手たちが、日本代表として、誇り高く共存して戦う姿に鮮やかに集約された形で、日本のこれからの進むべき未来の進路が示されているのでは、とさえ私には思えた。
10月7日和田誠さんが亡くになった、こころからご冥福を祈る。

私が小さいころ男の顔は、履歴書といわれ、私などは典型的な戦後の軽チャー育ちで、父からチャラチャラするなと叱られたものである。

ラグビーワールドカップで小さいころに見た古き良き日本男児の不敵な笑わない面構えなるものを本当に久方ぶりに、日本代表の選手の中見たし感じたのは、私だけではなかろう。

私を含めた、多くの日本人が忘れていた日本人としての、魂の輝き、団結力、犠牲をいとわぬ、無言の実践力、身体が放つその半端ではない努力の姿に、オーラに撃たれたのである。

ラグビー日本代表が無言の態度で示した、時代の閉塞感をぶち破るほどの快進撃、いったい誰が予想しえたであろうか。だからこそ、日本国中がビックリ仰天、感動したのである。

ともあれ、初老男はラグビーのにわかではあれ、ファンになったことを宣言する。血を流してまで肉体と肉体が火花を放つ、厳しくも美しいスポーツに挑む男たちに魅せられた。あの若き桜の戦士たちから、爪の垢でも学びたいと思う初老男である。





2019-10-20

今回の帰郷で考えたこと。

ふるさとから帰ってきたら季節は一気に変わり、あの夏の暑さが嘘のように去り、冬の到来を感じさせる。

私の中でも、またもや何かが微妙に微妙に変化しつつあるのを感じながら、静かな日々を過ごしている。経験したことがない災害に関するメディア報道には言葉がないので、沈黙する(が想像はする)。

初老男の心のざわめきを鎮めるのには、声出し、メルとの散歩、硯をすりシェイクスピアの文章の書記写、弓の巻き藁、それに読書が私の精神安定調節機能を果たしてくれる。

60歳を超えてからは、それ以前の自分の日々の過ごし方とは、まったく異なってきたといえるほどの変化である、と自分でも思う。事程左様に人間とは良くも悪くも変化する器である。(良き方に向かっていると思いたい)

話は変わる、父が亡くなって20年が経つがこの間何度お墓参りに帰ったことだろう。還暦を過ぎてからは、いちだんと望郷の念が深まってきて、この数年ご先祖の地に何度も足を運んだおかげで、思わぬ方々と出逢うことができ、その縁に対しての感謝は言葉では言い表せぬほどである。
書評で知った。居ずまいを正して読む。

先祖の地には、日高という姓が多いのだが、わけても日高M・Eご夫妻との出会いは、異議深い。今回も岡山に帰る前日、突然わずかな時間お邪魔したのだが、奥様とはお会いすることが叶った。(自家製のお茶をいただいた)

ご先祖の地に、お会いしたいと心から思えるご夫婦と知己ができたこと、そのことをもって、何かが吹っ切れたというか、宇納間のご先祖を詣でる私の旅は終わりを告げたかのようなおもいに今回とらわれたのである。

心と体が元気な間は、これからも帰るたびに日高ご夫妻の顔を観にゆくつもりであるが、いずれの終わり帰郷がかなわぬ事態になっても、悔いはないとの思いなのである。

このようなことを綴ると寂しき誤解を招きそうなので補足するが、有難いことに姉や兄たち日高ご夫妻はおかげさまで元気であり、幸いなことに私はすこぶる体の調子がいい。だからこそこのようなことを綴っているのだ。

うまく言えないが、なにやら新たに、ゆったりと何かまた未知のゾーンに心と体が向かいそうな(向えそうな)予感がするのである。だから私はこれからも限界まで故郷に詣でながらその予感を確かめるつもりである。

いろいろなことを整理しながら、身近な家族的なつながりの縁との関係性を深めてゆく、というか、時間をこそ大事にしたいのである。

2019-10-16

10日ぶりに五十鈴川だよりを書く。

三つ子の魂百までというが、それは本当のことであるとこの歳になってつくづく感じることである。だが、そうは言うものの還暦を過ぎてからの自分は、自分でも随分と変化しつつあるという実感がある。(ただ老いてゆきつつあるだけであるかもしれない)

話は忽然と変わるが、10日も五十鈴川だよりを書かなかったことは、記憶にない。以前だったら何かを書かずにはいられないくらいの自分がいたのだが、それがだんだんとそうではなくなってきた自分が今はいる。(執着心が無くなるのは老化か)
まともであるということはどういうことか深く考えさせられる

何故か、自分でもわからない。だからただ単に深くは考えないことにしている、がこのように10日ぶりにもせよ書く自分がいるので、しばしお休みしたい自分がいたのだと思う。

台風19号の残した豪雨災害、寄る年波と共に被災されたご年配の方々の境遇を想うと、言葉がむなしい。こういうときは、ただ沈黙するほかない。

台風で延期していた両親のお墓参り、急きょ突然のほかの用事もできて、4日ほど帰郷して昨日帰ってきたのだが、台風一過、故郷はまるで何事もなかったかのような穏やかな郷の秋晴れが続いた。

関東から東北地方の台風被害、河川の氾濫映像に遭われた方々と、わが故郷のあまりの風景の違いに、沈黙する。

両親が無くなり、この20年お墓参りに何度もふるさとに帰省しているが、わが姉や兄たち、自分も随分年齢が上がってきているので、一期一会での帰省旅は年々、貴重な時間になってきている。

だが、今回帰省旅を長々と綴ることはちょっと気乗りがしない。兄や姉が今回も気持ちよく帰省した私を迎えてくれたことだけはきちんと書いておきたい。

2019-10-06

サモア戦にも勝利、日本代表は日本の粋の文化の象徴のようにおもえます。

日本代表がこれまで大きく負け越していたサモア代表も撃破して3連勝、勝ち点で現時点では首位に立ったが、アイルランドとスコットランドの残りの試合の結果での勝ち点がはっきりしないとまだまだ、手放しでは喜べない、とはいうものの、素晴らしい試合を三度堪能した。

前回から4年の間に、どれほど選手たちの意識改革が進み、激しい訓練を重ねてきての末に今回の大会を迎え、その成果がいかんなく現実となって表れているそのことに、素直に初老男は首を垂れ、打たれている。

次回の相手のスコットランドは前回大会、南アフリカ戦に勝っての次の試合相手で、結果は惨敗した因縁の相手、五郎丸歩選手が何としても倒してほしい相手であると語っていたのが強く印象に残っている。

アイルランドに勝ち、スコットランドに勝てば、もうこれは本当に奇跡的な歴史に遺る勝利というしかない。それくらい今の日本代表は、心技体のバランスと和が素晴らしい。コトバでは何とでもいえる、が敢えて書かずにはいられない。精神力の力技は、やり残したことはないという各選手の発言に、底知れぬ自信となって表れている。
風に揺れる我が家の庭の最後の朝顔

いきなり話題が飛ぶが、関西電力の役員たちのあのしなび切った顔つきとは、天と地ほどの差を私などは感じてしまう。同じ日本人とは到底思えない。

はっきり書かせていただきます、堕落しきってそのおのれの無残な姿に気づいていない、政治家や官僚の不祥事続きや、暗いニュース報道に多くの心ある国民は飽き飽きしている。

多くの日本人に、無言のあのなんとも言えない鍛えこまれた、鋼のようなワールドカップ日本代表が与えるすがすがしさはたとえようがなく、潔さは理屈抜き一人の日本人として誇らしい。

巷で、私と同じようなにわかラグビーファンが歓喜している姿を見ると、束の間の閉塞感をぶち破ってくれた日本代表へのエールが充満。皆やはりどこかでつながって喜びを分かち合いたいのだということが伝わってくる。初老男は、眠っていた良き日本の伝統、底力、先人たちから紡がれてきた辛抱する文化が健在なのを知らされ、ほっとするのである。やはり言わぬが花の文化なのだと思い知る私である。

そのようなことを文字でつづらずには入れれないおのれとは何か、絶対矛盾を承知で書き綴る。先週も書いたが、日本代表は初老男にも限りなく勇気を与える。身体を張って戦い終わるとお互いの健闘をたたえ合い、ユニフォームを交換する。男の美学というほかはない。

今月はラグビーワールドカップの試合のおかげで、珍しく画面にくぎ付けになる時間が増えるが、試合からもらった感動を、ささやかに日々の暮らしの中に生かしてゆきたく、これ以上野暮なことを綴るのは控える。

2019-10-05

ささやかに与えられた宿業と共に、秋空の下身体が動く喜びをかみしめる。

平日とはいえ、もう一年以上フリーター(気分的にはこの言葉が一番ぴったり)しているせいか、土曜日曜がフルタイムでの時とは全く違うが、やはりどこかうれしい。どこかに制約があるからこ私のような輩は自由時間がうれしいのである。

それにしても、このように健康で身体が動けば、限りなく精神的なストレスのない仕事は子育てはじめ、ほぼ社会的な役割から解放されたからこそ得られた、その喜びはたとえようもない。

肉体が動くことの喜びは富良野への無謀な挑戦で、ギリギリ身につけたからこその今である。富良野で大型特殊免許を取得、卒塾後トラクターなど動かしたこともなかったが、今たまにローダーに乗ったりしている、まったく何が幸いするかわからない。

身体能力は30歳を過ぎても、変化し身体が動くことによって、不可能だと思えていたこと、苦手、無理だと思えていたことが、やればできるといういわば自信が植え付けられ、その体験によって得た身につけようという意欲感覚は今もかろうじて生きている。

この一年使ったことのない様々な機械工具を使うことで、これまでしたことがない新たな動きを身体がしなければならないので、必然的に脳も動かざるを得ないのである。

とかく多くの現代人は(若い頃の私はまるでそうだった)汗をかく肉体労働、(ホワイトカラーに対して)ブルーカラーに対して、マイナスイメージを持ちがちであるが、この年齢で身体を気分良く動かせるのは、どこかにかすかな向上心があるからである。

寝たきり老人になるのがいやであれば、他の人と比較できない唯一の自分の身体と向かい合う以外に、私には他に方法がないである。老いての座りっぱなしのような仕事は、危ない。

話を戻す。雨の日以外天空の下、雲を眺めながら身体を動かす、これからしばらくは最高の季節である。不即不離に結びつく苦楽(だが愉しい)的だが面白い、寒くなると、枝木の剪定がやれる。わずかではあるが中世夢が原でも、ハサミを使ったことがあるので、上手くなりたい、植木の刈込なんてまさかの意外な展開。

人間の脳のシナプスは、どんなにつたなくても手足を動かすことによって、無意識にも活性化してゆくことを経験的に私は知っている。ワープロさえやったことがなかった私だが、どうしてもブログが書きたかったので、50代も後半キィを打つことから始めたのだが、今では左手も勝手に動くようになっている。
妻が丹精した我が家のほぼ最後の秋ナス

本当にやりたいことがあれば、ゆっくりではあれ体の中にある脳は、いまだ目覚めるのである。そのことが生きていることの面白さ、醍醐味、もっと書けば老いてゆく下り坂の贅沢なのでは、とさえ最近は思う私である。

このような感覚は今後もっと実践し、もし私に人生時間がもっと与えられ、今やりたいこと、やっていることとからの執着から離れたところの地点にもし立てた時に、まだ精神と体がいくばくか自在に文を綴れる、真の意味での余力があれば、書きたいとは思っている。

お亡くなりになった河合隼雄先生が、ヒトは夢を見、物語りをつぐむことによって生きる器であるとお書きになっていたが、さながら私のようなキャラは、獏という架空の生き物にすがるかのように、自分の居場所を掘り続ける、いわばささやかな宿業と共に今をいきるのである。



2019-10-03

松田龍太郎様 勇気をいただく身に余るコメント誠にありがとうございました、そして想う。。

一昨日書いた五十鈴川だよりに、昭和の快男児松田さんから、氏らしく匿名ではなく堂々の実名で、まさに身に余るお言葉、コメントをいただきました。

ほとんどコメントをいただかない(いただけない)五十鈴川だよりなので、この場を借りてお礼の言葉を綴りたく思う。とはいうものの何を綴ればいいのか、少々戸惑うのだが、単細胞の私としては、シェイクスピア遊声塾7年目にして何やら力強い味方というか、精神的なパトロンというか、私にとってのありがたき存在がいる、ということについての、つまりは喜びを綴るほかはない。

昨夜、10月になり最初の8人でのレッスンが行われた。私を含め男性3人、女性5名でのレッスン。塾生が来年の発表会のキャスティングも各々の意見や、ほかをバランスよく鑑み、収まるべきところに収まったと感じている。

ほとんど翻訳された御本を読んでいなくても非常に面白く大変勉強になりました。
ともあれ、決まって賽は投げられたのであるから、一丸となって【夏の夜の夢】という奇想天外、夢とうつつを往還する、人間存在の闇に迫る摩訶不思議な傑作喜劇に、8人でよじ登れるところまで、よじ登りたく思う。

作品を新鮮に味わい、その日の体の新鮮な音を発するには、8人が虚心に作品と向かい合い、ひたすら言葉を発し反復稽古を繰り返すほかはない。言葉を肉体化、体で磨くしかない。体は自分のものではなく、授かったものである。松田さんはわが塾の存在、向かっている方向性のようなものを、きちんと受け止めてくださる力がある、氏の存在は、私にとってはまさに渇望していた観客なのである。

原点感覚、単なる思い付きで始めた遊声塾である。ここまで来るのに時間はかかったが、その分喜びもひとしおである。何事も根を張るには時間が伴う道理、急がば回れ、何事も急いては事をし損ずるのである。

せっかちを自認する私だが、事シェイクスピアに関しては気が長い、ゆっくり登らないと遭難してしまうからである。話を昨夜の稽古に戻す。キャスティングで意外なことが起こった。入塾したばかりの女性のYさんが男役の恋人ライサンダーをやりたいと、名乗りを上げたのだ。

その意気や良し、鉄は熱いうちに打て、特訓しなければならないが、まだ初々しいうぶな雰囲気の中に、したたかな片りんを初日に垣間見た(ちょっと驚いた)。

彼女の加入が、ほかの塾生にも好循環を与えそうである。塾の雰囲気、水は絶えず循環し、新鮮でなければ、シェイクスピア遊声塾の存在理由はないと、私は考える。シェイクスピアのみずみずしい言葉に、塾生全員で立ち向かい、また松田さんにハグされるのを夢見る私である。




2019-10-01

市民手作り映画私の出番の3回目の撮影が無事に終わりました、そして想う。

一昨日の日曜日、日本代表がアイルランド代表に歴史的な大勝利をおさめた翌日、実に気分良く私は市民手作り映画の3回目の撮影のために、長島愛生園のある島の突端に、かってあったという新良田高校跡地に、今も残る講堂に午前9時過ぎに集合した。

その日は、台詞のないボランティアの(参加者全員がボランティアだが)エキストラ、スタッフ含め50人近くが参加し、まず入学式シーンが午前中撮影され、昼食後は生徒たちと面談シーン、話し合いのシーン、最後生徒たちとの抱擁のシーンが撮影され、私は夕方4時過ぎまで現場で過ごし、私のシーンのというか、シナリオのかなめのシーンをほとんどとり終えた。

いきなりはじめて出会う(何人かには2回目の撮影の時に会っていたが)生徒さんがかなりいたのだが、まな板の上の鯉ではないが、監督の指示通りひたすら集中し、生徒さんたちとのコミュニケーションに、エネルギーのかなりをそのことにのみ費やした。

繰り返し、恥をさらしてコミュニケーションに努め、シーンが進むにつれて緊張もお互いにほぐれ、徐々に徐々に笑顔も増え、撮影は思ったよりも順調に進み、私の出番は終わり、最後にその日の出演者との記念撮影の時には笑顔がはじけた。
この写真をアップするのは2度目である

もう私の出番はあとわずか、またいずれ五十鈴川だよりでゆっくりと書くこともあるかもしれないが、この日ちょっとうれしいことがあった。生徒会長役の高校2年生の男子生徒から、一緒に写真を撮りたいとの申し出があり、撮影の合間に、本当に久方ぶりに現役の高校生と直に話をしたのだが、いきなりどうしたらあんなに堂々と演技ができるんですかと、訊かれたのである。

簡単には答えられない、言葉では何とでもいえる気がするが、また試写会などで会えると思うので、またゆっくり話そうとだけその場では伝えた。世の中に出てわたくしごときでも、ささやかに(おそらくどんなひとでも)多くの生き恥をさらしながら、そして今も恥を忍びつつ生きている自覚のある私には、自分の弱さから目をそらさない勇気のようなものが不可欠なのである。

ともあれ、隔離された長島愛生園のかってあったという、敷地の講堂で時間が逆戻りしたかのような場所で出会った現代の高校生徒の方々と過ごせた、普段とは異なる休日の一日の意味、有難さをきちんと五十鈴川だよりに書いておきたい。