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2018-07-30

孫の望晃くんは、酷暑の夏、私に涼しい風を運んでくれる。

今日も含めてあと4日間、望晃くんとの日々が続く。7キロ以上の重さがあるので、母親一人で、終日面倒を見ることがいかに大変なことであるのかが、実によくわかる。

いろんな人に抱かれたり、声をかけられたりして、その多様性の中でこそ、ヒトはおのずと、環境適応能力を自らの力で獲得してゆくのだということがわかる。自分にとっての大切な存在を瞬時に見分ける。母の、そして父親の存在の大きさがわかる。

レイさんと娘の間に生を受けた望晃くんは幸せである。もっとも大切な親からの愛情を日々たっぷりと受けながらまさにすくすく育っている。わが娘の本能的母性は母親譲りである、子は親を選べない。レイさんの父親ぶりも見事である。

この数日、何回か時間を見つけて、あやしたり抱っこをしたりして、新米おじじは孫から新鮮ないっときをいただきながら、両親の献身というしかない姿に感じ入っている。
孫の手に、暑さ忘るる、酷暑かな。

娘夫婦のおかげで孫を抱っこできるなんてことが、わが人生に訪れ、この経験したこともない新たな感情が、私の黄昏行く人生時間の、幼少期と並ぶ2度目の黄金期であるのかもしれない、ふとそのような思いにもとらわれる。

それほどまでに、無垢な赤ちゃんである孫の望晃くんの存在は、私にはまぶしい、ピッカピカの天真爛漫さ。触れてみて思い知る得も言われぬみずみずしさ。

これ以上書くと、まさに爺バカ。酷暑の夏、五十鈴川は遠く、じっとこの夏をしのぐしかないが、望晃くんはどこへもゆけない、引きこもりがちなおじじを、見果てぬ未来へと、想像の世界へと、涼しい思いにいざなってくれる。


2018-07-29

家族の一員として、望晃くんの存在が、私のこれからを照らす。

まさかの台風の襲来の中、五十鈴川だよりを書いている。いま、家の周りはほとんど風もなく雨も強くはない。

昨日午後レイさん、娘、孫の望晃くん、それにレイ君の姪アメリちゃん15歳が我が家にやってきて、俄然我が家はにぎやかになっている。

昨日夕方、おばあちゃんも含め、ともかく全員で家からすぐに行ける宝伝の海に遊びにゆき、ほんのわずかではあるがレイさん、アメリちゃん、私は泳いだ。

アメリちゃんはダンサーである、年齢を忘れる私。
望晃くん、娘、妻、母は、日傘をさし砂濱散歩、海遊びに興じる我々3人を、眺めながら海からの風を楽しんだ。

特にドイツでは海から遠いところに住んでいるアメリちゃんは、最高の笑顔で海岸遊びをレイさんと満喫していた。

それにしても、おおよそ3ヶ月ぶりに望晃くんと対面したが、そのしぐさや表情の千変万化ぶりは、やはり私を驚かせる。

妻も母も、すっかり望晃くんに夢中である。幸せな孫であり、その孫の存在はこれからしばしの間、わが家族の喜びの中心 である。

二人で貝を採る
現代における家族とは、千差万別多種多様な家族がありえているのであろうが、何はともあれ、私に孫が授かったことで、やはりにわかに私の中にもなにがしかの変容が、起こりつつある。

うまく言葉では表せない、感情、感覚が初老の我が身に起こっているのが、覚る。老いてゆく中でしか味わえない、新たな感覚の喜びというほかはない。

亀の手というおいしい貝をゲット
ともあれ、途方もない酷暑の夏 、久方ぶりに対面した孫の存在は、これから安心して老いてゆける喜びを、しばし与えてくれそうである。

とはいうものの、安心して老いてゆきながら、今しばらく孫にとっても家族にとっても、元気なおじじとしての役割を果たすべく、何をしたらいいのかと、自分に問い続けたいおじじである。








2018-07-28

いっときも早く、この暑い岡山を離れ、故郷の五十鈴川に浸かりたい私。

とうと体が悲鳴をあげ、昨日は終日横になって過ごした。それがやはりよかったのだろう。今日はそこそこの元気さが戻り、こうして五十鈴川だよりを書こうというくらいの気力が戻りつつある。(朝のかぼそい声出しもなんとかできた)

今日は、3ヶ月半ぶりに孫との対面が叶うし、単身ドイツからやってきた、レイ君の姪のアメリちゃん15歳も共にやってくるので、これから一週間、我が家はにわかににぎやかになる。

戦後の匂いがまだかすかに残っていた少年期、我が家は貧しかったけれども、大家族とにかく、にぎやかであった。あの少年期の、今となっては黄金時代ともいえる思い出の数々が、今を生きる初老の私の宝である。

この歳になって返す返すも、幼少期、10代、20代、30代、40代、50代、そしていま、60代の半ばと、ささやかに私には思い出(つらい思い出も含め)がいっぱい詰まっていて、その思いでの力が、何とはなしに今を生きる支えになっている。

、少年期、特に思春期から、ヒトはなぜ生きるのか、又はどのように生きていったらいいのか、貧弱な頭で、悩み考えつつこの年を迎えたが、その青春時代の残滓はいまだに私の中に、くすぶる。

暑さ対策、詩を読むのもいいですね。
その残滓が、シェイクスピア遊声塾を立ち上げさせたのであろう。苦労や悩みから逃げずに、何とかしのいできたからこそ、今があると思える。

8月18日が終われば、五十鈴川に還ろうと思う。心から帰還できる、安らぎの場所があるということは、本当にあり難きかな、と思う。世界でたった一つの、私にとっての黄金の想いでの場所、どんなに変わり果てようが。宇納間神社の蝉しぐれを聴きたい。

昨日横になって いて、何度も五十鈴川の流れに身を横たえる、我が身を想像した。だあれもいない五十鈴川で一人初老の男が水遊びをする。そのような故郷がある、なんてのはうれしく在り難い。

ともあれ、リア王の発表会を終えるまでは五十鈴川での沐浴はお預けである。リアの台詞、【忍耐せねばならぬぞ、忍耐を与えたまえ、わしは忍耐の鏡となって見せよう】という言葉を、今しばらく呪文のように唱えながら、おじじは暑い夏を生きる。

2018-07-25

猛暑の夏を何とか乗り切りたく知恵を絞る日々

温暖化によるとしか思えない気候変動、これまでの人生では体験したことのない、この夏の暑さは、何か空恐ろしい予兆ではないのかという暗示を、私を含めた大部の方が、直観的にお持ちではないのかという気がする。

まるでSF小説まがいの、予期せぬ災害が今後も続く可能性の高さを、新聞をはじめとするメディアが伝えている。どうしたらいいのか、心ある人間たち全部で考えていいほどの、大いなる大問題テーマが、ドーンと控えている。(秋になったら頭を冷やしてゆっくり考えよう)
甘酒が実にうまい夏です。


私が20代半ば、一年以上 暮らしたあの緯度の高い、ロンドンやほかの国々でも、経験したことのない熱波が、猛威を振るっている。狂ったかのような暑さである。

いたずらに不安をあおるかのような、愚は避けたいとは思うが、異変といってもあながち間違いとは思えぬほどのこの暑さ、命に危険が及ぶほどの暑さだとの、メディアの表現がオーバーには感じられない、ほどだ。

さてどうする、こんな暑さの中、草刈りなどしていた私は、家族の非難を浴びても仕方がない。まずいと感じたので、以後控えているが、背筋痛もすでに事なきを得、この暑さを何とかしのぎながら、熱中症的な前触れもなく、おかげさまで元気ではあるが、いつ何時この熱波の害が我が身に及ぶかは、神のみぞ知るデアル。

ともあれ先日も書いたが、リア王の発表会までは(8月18日)何とかベストとは言わないまでも、いいコンディションを保つために、体調管理に万全を尽くすつもりでいる。

さてこの暑さの中、ほぼ毎日、特別な用事がない限り、早朝リアの台詞の声出しに、運動公園に出掛けている。風が抜ける木陰で、6時過ぎから一時間以上何とか継続している。

一日の始まりに、継続的に情熱を傾け、集中できることがあるといったことが、どれほどこの夏の暑さを、軽減してくれているか、私自身が一番承知している。

帰って、シャワーを浴び てからゆっくりと朝食、声を出すとおなかがすく、したがって朝ご飯が美味しい。
あえて難しい本を読んで夏を過ごすのもいい。

そのあとは、家の中の風の通るところで、リア王の案内を入れた、暑中見舞いを書く(昨日は30通くらい投函した)。お昼は、母の作った夏野菜でゴーヤチャンプルー(ゴーヤ・ナス・ピーマン・ニンジン・キャベツ・ミニトマト)を作る。

とにかく、肉と野菜をたっぷりの昼食を済ませる。私の場合頭を使うことはほとんど午前中に済ませる。

5時には起きるので、すでに7時間経過、午後は約一時間昼寝をする。昼寝から起きるとシャワーを再び浴び、図書館に行って夕方まで過ごす。まあこんな感じのいろんなバージョンで、日によって異なるものの、私は暑い夏に対処している。

暑さを忘れさせてくれるようなことを、日々の暮らしの中に見つけながら過ごすことが 私の暑さ対策といえるだろうか。

風をどこかに感じながら、意識を紡いで、五十鈴川だよりを書くことも暑さ対策といえなくもない。ともかく、よく眠りよく食べることが何より大切である。

2018-07-22

草刈りをし、シェイクスピア作品を声に出し、暑い夏をしのぐ。

朝一番母のところの、のびた枝木の剪定を3人で済ませ、そのあと約一時間以上運動公園のプラタナスの木陰でリアの台詞のおさらいをし、シャワーを浴びさっぱりした気分で、パソコンに向かっている。

 この灼熱地獄の夏をいかに工夫して乗り切ることができるか、知恵を総動員して何とかしたいと、五十鈴川だよりを書きながら、考える私である。

さて先日、ずいぶん久しぶりに炎天下で、草刈りに従事してみて、軽い背筋痛になってしまったが、声を出したりほか、ほとんど生活には支障がない程度の痛みなので、ほっとしている。いきなりだったので、きっと体が驚いたのだろう。

実は、今日も午前中草刈りの依頼があったのだが、リア王の発表会までは悪化させてはいけないし、今夜も自主稽古があるので断った。

でも私は、草刈りが性に合っている、嫌いではない。無心に炎天下麦わら帽子をかぶり 、青い空と夏の雲の下、滴る汗をかき、時折木陰で休む爽快感は、へたなスポーツで汗をかくより私にはいい。
妻が育てた見事なトマト

はたから見たら大変そうなことも、やっている本人は意外な知恵の喜びを感じたりしているものなのだ。週に数回、半日くらいなら、やれるという自信が湧いてきた。

ところで19日夜 、久しくお休みしていた山陽カルチャーの教室で、一人の女性の生徒さんと向かい合い、最初のテキストである【間違いの喜劇】を2幕まで交互に登場人物を読んだ。

私はこの5年間カルチャーで、Uさん、Mさんと 二人っきりの、シェイクスピア作品遊読時間を持ってきたが、今回も素敵な生徒さんと巡り合えた直観が、私を包んだ。

お互い、声を交わし合ってみないことには、こればかりはわからないのである。日々の暮らしの中で 声を出してみたい、という内なる思いがあった方で、朝日新聞の私の記事を見てカルチャーの講座に参加されたのである。
ひまわりの葉に見つけた蝉の抜け殻

とにかく、初日の声の出し方、態度ほか、微妙なニュアンスで、その方の何かが私に伝わってきて、一緒に声を出していて楽しい時間を過ごすことができた。

遊声塾であれカルチャーであれ、月謝をはらってまで、シェイクスピア作品を声に出してみたいというキャラクターは現実にはそうはいない。(見えないものに投資する)


そのことは重々承知しているので、一人ではあれ、私としては一期一会の 今を生きる声出し時間を共にできる感じの方だったので、大いに安心した。


シェイクスピア作品を声に出に出し続けていたからこそのご縁である。初めての出会い、初めての声出し、初心忘るべからずとは、世阿弥のあまりに有名な言葉である。

ともあれ、新しい3人目のKさんが山陽カルチャーのシェイクスピア遊読教室に参加することで、講座が再開された。私としては生徒の多寡にかかわらず、【今】シェイクスピア作品を声に出して共に読む時間を新鮮に大切したいと、あらためて初心を噛みしめる。


2018-07-19

久しくお休みしていた、山陽カルチャーでの講座が始まる、そして想う。

昨日(日付が変わった)午前中4時間、猛暑の中、久方ぶりに草刈りをした。家族が心配するのをよそに、何とかやれたのがまあよかった。

報道によれば、熱中症が猛威を振るう過酷な夏である。率直に言って私の現時点の体力では、午前中が限度である。(なにやら生態系の異変を感じる)

この間の片付けボランティアと同じように、身体から汗が噴き出した。帰ってシャワーを浴び、昼食を済ませて風の抜ける2階の部屋で、お昼寝をした。

おかげさまで、よく汗をかき、よく栄養を取り、よく寝ることで、五十鈴川だよりを書けるくらいの元気さがキープできている。有難いというしかない。

8月18日のリア王の発表会までは、何としてものらりくらり、気力体力をキープ温存しながら、この酷暑の夏を乗り切らねばならない。汗をかき、生きて働き学ぶ。

こう暑いと、声を出す意欲が萎えてしまいそうになるが、お昼寝ののち、まずは水を浴びてさっぱりしてから開始。

小さい声でぼそぼそと、あまりエネルギーを使わないで、反復を繰り返す、小さい声で集中力を持続する。

最低一時間以上は、各幕のリアの長いセリフを集中して声に出す。延期したことをプラスに考え、わずかではあれ、リアの内面世界の慟哭ににじり寄りたいと、苛酷な夏の修行のおもむき無きにしも非ずである。
猫が大好きな妻にプレゼントした本

クーラーのある小さな部屋で、一人稽古。あとひと月、いかに台詞をわが体に、なじませることができるのか、修行したい。

草刈りで汗を流し、根性を鍛えなおさないと、リアのあの酷薄なつらいセリフは、リアリティーが生まれてこない。老いてなお発する、根源的絶望感に満ちた、憎悪のセリフのすさまじさ、老いの哀しみ、あわれさ。生への渇望。若輩の私にはいまだリアは険しき山である。

ところで、生徒さんがいなくて、山陽カルチャーの講座久しくお休みしていたのだが、一人の生徒さんの参加があり、今夜からとりあえずレッスンが始まることになった。

生きがい、やりがい、好きなことが今現在やれるということの有難さ、何はともあれこの5年間、声を出し続けてきたからなのである。新しき生徒さんと向き合い、初心に帰ろうと思う。

2018-07-17

いまだ修行という言葉がしみる、今年の夏である。

こうも暑いと、朝の数時間の涼しい時間帯がとても貴重であるので、いつもより早起きしている。寝起きの水風呂、これが最高、何はともあれ酷暑の夏を、夏バテしないように過ごすには、食欲に気を付けて睡眠をよくとることが何より大切である。

経済的に、優雅というには程遠い暮らし向きではあるが、(何が優雅かは置くとしても)仏教用語でいうところの、年齢的に、林住期から遊行期に向かう、我が身の日々の処し方としては、人生で初めてではないかと思えるほどに、心労のすくない日々の暮らし向きである。

それはやはり、子育てを終えたからこそ味わえる、晩年ならではの、初めて経験する初老の境地のようなものである。

あらためて今回の、身近に起きた大災害で、平凡に何はともあれ、家族そろって生きていられるということの、(食うに困らず、健康に穏やかに)感謝を先ず想う。

孫の望晃くんが4か月を過ぎ、娘から動画が送られてくるが、そのあまりの爛漫さに、シンプルな命の輝きに、おじじはうたれる。

こればかりは、いかんともしがたく、これまでの人生では感知しなかった初めて抱ける感情である。老いてゆく中で、神様が与えてくださったご褒美のようなものであると、受け止めている。
私はこの方の生き方、文章の大ファンである。学びたい。

遠くから、孫の成長と未来時間を見守れるような、おじじを目指したいと考える、殊勝な私である。そのためのおじじの役割は、務めは何かと問う夏でもある。

リア王、一幕の終わりの道化の台詞、【年をとるのは 知恵がついてからじゃないといけないんだよ】

ともあれ、今の私に、道化が言うところの知恵がどれくらい身についているのかは、皆目わからないが、 老いの身支度のようなシンプルな生活を心かけないと、これほどの資源ごみの惨場を映像で見ると、言葉を失ってしまう。グローバル化、ライフスタイルへの根本的な懐疑が私を襲う。話に脈絡のない五十鈴川だよりになった。

今日はこれから炎天下での草刈りであるが、老いのこれからをいかに生きるのか。孫の存在は問いかけてくる。修行という言葉が浮かぶ。

2018-07-16

ヒトはなぜ生きるのか?汗をかきながら、お天道様の下でおじじは考える。

うーむ暑い。とぼやく私である。このような酷暑の中でのボランティア活動の大変さは、わずか一日ではあるが、体験してみて想像に余りある。

老いも若きも、身体にだけは留意してことを冷静に受け止め、長期的に活動に従事しないと、かえって他者に迷惑をかけることになるので、私も慎重に行動したいと考えている。

ところで、この酷暑の中、私に 草刈りのアルバイトが入ってきた。考えた末、週に一二かい程度なら、引き受けようかと考え、とりあえず明日ゆくことに決めた。

声を出すにも、弓をひくにも、ボランティアをするにも、つまりは何をするにも、体力気力が基本なので、草刈りに従事しながら、動く身体で新陳代謝機能をキープし考える。

無理をしないで、なおかつ体をあまり甘やかさないで、動かさないと、身体がどうしても私の場合、さび付いてしまうし、安きに流されやすいので、日々の暮らしにメリハリをつける。

上手ではないが、中世夢が原で長きにわたって草を刈っていたので、草刈りにはいささか自信があるのである。体を動かせ、なおかつ自信のあることで、この年齢でいくばくかの収入を得ることができ、新しき中高年族との出会いも生まれるとしたら、これに越したことはない。生活のすべてに風を通す。
うーむ、年齢を忘れて読み進む、素晴らしい、暑さを忘れる。

ところで、リア王発表会は8月18日に変更になった。時は同じ 午後2時開演【開場1時半】
場所も同じ、県立図書館のデジタルシアター。席数は80席なので、必ず予約を入れてください。入場無料です。どうぞよろしくお願いいたします。

昨夜、塾生有志3名のレッスンをIさんのお店で行った。7月7日の発表会が急きょ延期され、発表会が終わるまでリア王の稽古が続くことになったが、塾生の真面目な稽古への情熱には、可能な限り真摯に付き合い、酷暑の夏を乗り切りたいと考えている。

延期になったことで、塾生の中に何やら、問題意識のようなものが生まれてきているのを、かすかに実感できたかのような任意レッスン時間が展開された。この猛暑で私のコンディションはあまりよくはなかったのだが、3名の塾生の発する声を聴いていたら、私の中にもなにやら、彼女たちのエネルギーが吹き込まれ、いい時間が流れた。

地球の日本の岡山の片隅で、暑い夏に熱い声を出している塾生に、(私としては 延期されたことを、良きこととして受け止めている塾生の意気込みに)ほんの少しででも報いるべく、努力したいとの思いだ。

塾生は、リアを読む私にも大いなる刺激を与えてくれる。今を生きることの中にしか、世界はないのである。人生は先送りできない。愛こそすべて、今こそすべてである。

レッスンを終え、赤穂線の中でハイボールを飲んだ、肺腑に沁みた。200円でいい気分になった。安上がりな人生である。



2018-07-14

身近な場所で6年ぶりのボランティア活動に従事し、そして想う。

猛烈な雨が降り続け、未曾有の西日本大水害、降りやむと梅雨が明け、いきなりの猛暑が続いているこの夏の始まり。鎮まることを祈る。

昨日、家の近所を流れる砂川の上流、4キロくらいのところが決壊し、平島エリアが水没し、大きな被害を受けていて、ボランティアを受け付けているとの情報を得ていたので、準備をして、東区小鳥の森に設置されているボランティアセンターに8時半到着した。

ボランティア活動に参加するのは、6年ぶり東北は大槌町以来である。よもやまさか家から車で、15分くらいのところにあるボランティアセンターに出掛けることになろうとは思いもしなかった。

数日前の五十鈴川だよりに書いたが、本当に人生、一寸先のことは神のみぞ知る。今の自分にそうところで、何かやらねばとの思いが自然と湧いたので出かけた。
ボランティア活動とは関係ない、おもろい人です。

 続々とボランティアが集まっていた、平日であったが老若男女がすでに50人くらい集まっていて、すぐに配置の分担が決められ、私は古都のとある冠水した個人の住宅の片付けに従事した。

メンバーは5人、私くらいの年代が2名、40歳の大工さん(仕事を休んで駆けつけられていた)大学生が2名で9時半くらいから午後3時までかかって、何とか泥水に使って使えなくなったあらゆるものを家から運び出し、(汗が吹き出し、途中何度も休みながら)数百メートル先に在る仮のごみ集積場まで、軽トラで運んだ。

その片付けのお家に足を踏み入れた瞬間、こんなことが我が身に起きたらとの思いにかられた。老夫婦の二人のお住まい、現在ご主人は入院され不在、奥様は足が弱っておられ、とてもご自分では何もできない。私たちが動いて片付けている間、何度も頭を下げられるだけ、こちらが恐縮するだけであった。

詳細は省く、夜分の一人住まいの家に水が浸入した際の恐怖はいかばかりであったであろうか。被害の大きかったところからのニュース映像以外のところで、我が家の近くでも多くの被害に遭われていることが、実際にボランティアに出掛けてみて、実によくわかった。

今日もそうだが、昨日も暑かった。この3連休多くのボランティアが来られると思うが、くれぐれも熱中症対策は怠らないようにしないと、大変なことになるということを、昨日肌身に感じた。同じエリアで共にボランティアしていた方が、午後倒れられたのだ。

他人ごとではない、歳が歳なのであるから、ボランティアがボランティアされるような事にはならないように、体調万全で出かけ、無理だと思ったらすぐにやめることだ。

話を変えるが、でも出かけて 本当に良かったと私は思っている。だから五十鈴川だよりを書いている。大槌町でも思ったことだが、現場を体験して、頭ではなく五感全部使って身体で感じ学ぶことが、最も肝心で大切なことであると、今回もまたもや思わせられた。

特段すごいことができなくても、小さなお手伝い、掃除や片付け等々、長時間でではなく、半日であれ、現場に出掛けて、何かを為せば、きっといろんなことが自分の中に見つかるのではないだろうか。

そういう意味で、昨日の5名のメンバーは、いきなりであったのにチームワークよく働いた。よく体が動いて 、寡黙でカッコイイ男たちであった。40歳の大工さんと、大学生の若者二人、志願しているだけにさすがであった。

生きているということは、当たり前のことだが、生きて動けるということに喜びを見出せることに尽きる。まして息があって利害がなく労働の喜びを共有できるなんてことは、いまどきボランティア活動にくらいにしか見いだせないのではないかとさえ、思える。

まだまだ、感じたことはあるが、折々書けるのなら書いてゆこうと思う。体調と相談しながら、週に一度くらいの頻度でボランティア活動に従事しようと考えている。

今度の水害のボランティア活動は長期になりそうなので、体調と相談しながら、気長にやりたい。足手まといにならないようにしたい。









2018-07-11

明日は我が身という感覚、痛み、想像力を持ちたい。

わずか数日前とは、まったくといっていいほどに風景が一変した映像をこうまで目にすると、言葉がない。

私は22年間、新倉敷から車を走らせ、小田川を渡り、川に沿って走り、矢掛町から美星町に向かい、復路も同じコースを走った。
散歩で摘んだ猫じゃらし

土地勘があり、見慣れた風景の中の人々の暮らしのエリアが濁流に飲み込まれ、想像を絶するほどの、まさに未曾有の災害に見舞われている。

通勤コースは外れているが、真備町の市役所界隈は、何度も車で通ったことがあるので、あの周辺の、ほとんどが水に浸かった、今回のあまりに無残に変わり果てた災害の映像には、、、。

言葉では、一寸先のことはわからないとはいうものの、人間の感知しうることはおのずと限界があるのだということを、まさに知らされる。

もし我が家のすぐそばを流れる砂川や、吉井川が決壊したら、おそらくは同じような無残ことに 状況次第ではなっていたに違いない。

まさに他人事ではないのである。災害が少ないといわれる岡山ではあるが、油断したら大変なことになる、ということをあらためてこの災害は、私に示唆している。

行方不明の方々がまだまだおられ、晴れてはいても広島では決壊がおきたりしている。この自然災害はまだ続いている。

悲しいかな、身近で土地勘があるだけで、こうも 災害から受ける感覚が異なる、我が身である。

この年まで、大きな自然災害他、筆舌に尽くしがたい苛酷な経験をせずに、生かされている今を申し訳なく、感謝するしかないが、ささやかに何かせねばとの思いはある。

明日は我が身、誰の身の上にも、長い一生には このようなことが起こりうるのだということを、今更のように私は感じている。




2018-07-08

濁流を眺めながら今あることに感謝し、思う。

災害が少ないといわれる岡山であるが、映像で見ると真備町はじめ県内各地が河川の氾濫や、土砂崩れで大変なことになっている。中部地方や四国、九州も含めまさに災害列島と化した感がある。

あらためて思う、自然の猛威の前の無力感、人間がこしらえた社会の、文明生活の脆弱さがあぶりだされるように露呈する。家が水に浸かったり、流されたりしたことのない私には、その痛みは想像を絶する。

今朝、久しぶりに雨が落ちていない。昨日はリア王発表会を急きょ中止、その対策と延期の日にちを決めたり、それでもやってくる方がおられるのではとの、対応などに終われ、雨の中、岡山往復を車で2回したのだが、これほどまでの川の増水(旭川、百間川、砂川、多くの用水路の)を初めてみた。ところどころ冠水した道を細心の注意をしながら車を運転した。

何故かはわからないが、昨日は終日憂鬱な一日ではあったが、詳細は省くが、個人的にはうれしいこともあった。
柳瀬ご夫妻・尾崎ご夫妻昨日はありがとう。

話を変えるが、60歳の誕生日を初めて東北の遠野で迎え、わずかに二日であるが大槌町で生まれて初めて瓦礫の撤去作業に従事したこと。そこで考えたことが、翌年の 夢が原退職につながり、結果的に、シェイクスピア遊声塾を立ち上げることになったことは間違いない。

悔いなく生きる。そのためにはどうしたらいいのか。あれから五年の歳月が流れたが、かろうじて、五十鈴川だよりを書き続けてきたおかげで、時代の趨勢に流されながらも、心身のバランスを保ち得ている。

週に何回か、自問自答感覚でつづる中で、我が身を検証(あるいは錯覚ではあれ)している五十鈴川だよりである。

法を超えた思考をこの自然災害は迫る。40歳で、かろうじて一からの人生再出発が私の場合かなったが、ご年配で災害の被害に遭われた方には、言葉がない。

かくも一寸先は想像だにできない苛酷な試練が、いつ何時私の家族にも訪れるのかもわからない。そうなった時に、自分はどういう行動に出るのかは、経験しないことにはわからない。

大槌町で思ったことは、今ある動く身体にしがみついて、大地の上で体を動かしながら、つましく生きてゆこうと考えたことである。

物やお金には、(努めてこだわらず)すでにあるもので、できるだけ心身が風通しよく、生きてゆけるようなシンプルな暮らしを心がける。

何か大変な災害が近づいてきたら、とにかく逃げる。手放す。命が在ったらそこで考える。何度も災害を生き抜いてきた、あまたの先人たちの知恵、英知の声に耳を傾ける。

何も持っていないと、身も心も軽いという、厳然たる真実。頼るものがないので、我が身に頼る。薬や病院に頼らない(たよれない)、わが内なる本能的声に頼る。

共に撤去作業に従事し、岡山からやってきた私を、東北の被災地を車で案内してくれた秋田の人K氏とは、以来交流が続いている。

あの日に思ったこと、人間の生活で最も大切なものとは。命、動くからだと心である。あれから5年、何とかすれすれ実践している。そういう考えを共鳴できるような方と、今後の人生を歩みたいと、私はあらためて切に考えている。

2018-07-06

リア王発表会の前日の朝に思うつれづれ。

明日はシェイクスピア遊声塾の第五回の発表会である。今もであるが、この5年間毎週水曜日のレッスンを、心のどこかの支えにしながら生きてきたかのような、初老の私である。

私の場合家族、それ以外にも人間にはどこかに、孤体としてのそれぞれに異なる、精神の支えとなる、打ち込める好きなことがあれば、それが見つかれば、人生は鮮やかな色どりに満ちる。やがてはこの世からおさらばする際に、すこしでも悔いがないように私はしたい。

一区切りの、発表会のための、当日の御あいさつ文を先日の真夜中何とか書き上げた時に、私を襲った極めてまれな感情がある(死者との対話)のだが、それは極めて言葉化しにくいし、してもつまらないので書けない。

ところで、もうほとんど書くこともないのに、書きたいという絶対矛盾を逃れられない、業を生きる私であるが、忙中閑あり昨日夕方、リアの長台詞(きわめて小さな声でのぶつぶつ言う稽古)につかれたので、気分転換に図書館に出掛けた。

私の気分転換の1番はお風呂、2番目は散歩、3番目は ささやかな掃除(最近は台所の食器洗い)などいろいろあるうちの一つが図書館である。

小さな私にとっての大切な遊声塾を、これからもささやかに豊かな塾にしてゆくためには、なによりも私自身が素直に学び続けないと、との思いが私を図書館逍遥に向かわせる。

30分も本を眺めながら、時間を過ごしていると必ず読んでみたい本が、おのずと見つかる。夢が原退職後、落ちついて本を読めるようになったし、本が読める身体がある今の暮らしを、ことのほか大切にしている。

日々の暮らしでは、お掃除他 永遠の同じことの繰り返しの中で、ほこりやごみが家のそこかしこに、目を凝らすとたまっている。掃除をしないと気持ちが悪いし大変である。

わが体もそれと同じ、知らず知らずのうちに何か風通しが悪くなる、精神の垢のようなものがたまる。それを私の場合何とかしたいがために、シェイクスピア遊声塾を始めたのかもしれない。世界に向かってわが体を風にさらす。

アーサービナードさんの、本のタイトルではないが、【日々の非常口】 としての塾である。5回目の発表会、リア王は長い、無料とはいえ聴いておられる方は大変である。

今夜が最後の稽古、明日は本番、現在のおのれの在り様をさらして、挑むつもりである。

2018-07-04

いよいよシェイクスピア遊声塾の、第5回発表会まであと3日、そして想う。

雨音を聴きながら、コーヒーを飲みながら書いている。少し開けた窓からの風が実に気持ちがいい。心穏やかな朝、それなりにこの年齢の自分にしてはハードな日々をこのひと月過ごしているのだが、体調はすこぶるいい。よく眠れるし、目覚め感がすっきりしている。有難いことであると天を仰いで感謝する私である。

昨夜夕食後横になっていたら、知らぬ間に寝入っていて目覚め、そのまま起きて遊声塾の発表会の当日来られた方々への一文を何とか書き上げて、再び眠りに落ち朝を迎えている。

声を出すことも、弓をひくことも、文章を書くことも、私の場合(五十鈴川だよりでさえ時に) すらすらとはいかず、必ず苦楽が伴う、苦楽はまさに表裏一体なのである。喜びは苦痛を伴う。
寺山さんの言葉には励まされる

机に向かって座ったら、もう腰が定まってなにがしかの一文が顕れる。私の場合は、ほとんど日々の成り行き、何かに突き動かされて書いているかのような趣で、ことさらに意気込んで何かを書くということは、五十鈴川だよりになってからほとんどない。

ところで、このところ遊声塾に関することばかり書いているがご容赦を。いよいよ発表会まであと3日、今日が最後のレッスンである。

まだまだレッスンし足りないが、永遠の未完成の道半ばでの、折々の塾生の発表会まなのであるから、現在の果敢な取り組みの いくばくかの成果を見てもらえればいい、と塾長の私は考えている。

塾生たちの大半は、仕事を抱えながら、合間を縫って、あの膨大な登場人物のエネルギーに満ちた言葉と、まさに格闘している。その大変さは私が一番わかっている。それはあの言葉を全身で発した者のみが感じる大変さである。

 人間の声の複雑精妙な表現の幅は、各人のこれまでの人生での体験や、生き方、そして想像力が大きく作用する。今日からの、この期に及んでの細かい指導はやめて、繰り返し言葉を自分の体になじませる稽古を本番の発表会まで、私も塾生もするつもりである。

岡山県立図書館図書館デジタルシアター、82席ほぼ埋まりそうである。








2018-07-02

出会いが出会いを呼び、気が集う遊声塾。

昨日塾生Iさんのお店をお借りして、閉店後、遊声塾有志4人でのレッスンをした。

その際、Iさんが根気よくまとめられた、当日来られた方々の、リア王のあらすじのレジュメ(6ページ)を手渡された。

感動した。悲惨な物語なのだが、ユーモアがあふれている愉しいレジュメである。このような塾生に恵まれるとは。【悲惨のどん底に落ちたものに対してのみ奇蹟が顕れる】とはリアの物語のケントのセリフ、私がどん底というのではなく 、私には困難な時によく助っ人が顕れるのである。
たった一つある友人に頂いた流木アート

もう駄目だと、これまでの人生で弱気になることが多々あったのだが、振り返ってみると、誰かにどこかで救われながら、生き延びてきたわが人生である。

リア王のIさんの素晴らしいレジュメは、当日来られた方々に大いに役に立つに違いない。遊声塾にとっても大切な記録になる。

ところで、今回のリア王の発表会では、はじめて要所要所に音が入る。音源を創るためにこれまた四苦八苦されているのが、飛び入り参加のIさんの友人であるNさん(女性)である。(IさんNさんこの場を借りて感謝します)

彼女は、音も含めての友情出演で男性役のケントも朗誦する、大変である。この方のいきなりの参加も
あり、遊声塾はにわかに活気づき、いい形で本番に臨めそうであり、5年かかったがいよいよこれから、何やらあらたな再出発のうれしい予感が沸き起こる。

艱難辛苦を分かち合える気が満ちる仲間との出会いは、私に限りなく勇気と元気を与えてくれる。シェイクスピア遊声塾を立ち上げて一番よかったことは、困難を楽しめるこのような勇気を持った人間に出遭えたことである。

2018-07-01

シェイクスピア遊声塾塾生に対して、いま私ができること。

開塾5年目、昨日山陽新聞にリア王の発表会の記事が掲載された。シェイクスピア遊声塾を立ち上げた時にも記事が掲載され、それを見て入塾された塾生で、今も塾生でおられるのはYさんだけである。

一口に5年間、根気のない飽きっぽい私がよくも続けてこられたのは、Yさんの存在が極めて大きい。今朝はそのことには触れないが、何度も書いているがシェイクスピア作品を声に出して、朗誦するということに挑むということは、はやりの言葉でいえば、半端ない行為であり、それを持続するという情熱は、まことに持って難しい。(シェイクスピア作品に私のように入れ込んでいる方は、そうはおられない)

だが5年目の今年、塾生が6名となり(うち3年以上が4名)私を含め7人でリア王の発表会に挑戦するのだが、今までで一番の手ごたえを感じている。(とくにシェイクスピア作品が好きだから私の塾に参加されているわけではない)

それは、かなり細かい指導に対しても音を上げずくらいついてくるし、一言でいえば、持続している塾生は、あえて困難な道(未知)の世界を体得しようとの想い、情熱(私にはわからない、それは何であってもいい)をどこかに抱えているからではないかと、考えている。

語弊を恐れずに書くが、私を含めた現代人のほとんどは、何事もなく穏やかで楽で楽しいことには、飛びつきがちである。

あえて苦しき修業のような声出し塾に参加される方はそうはいないし、今の時代の趨勢それが当たり前だと、私は受け止めている。

(でも私はいまだハムレットのように揺れ動き、このまま流されるのか、あがらうのかと、自問する、天邪鬼の私はこれまでの人生、ほとんど流される選択をしてこなかった。だからこそ今があるのだとの想いが私を支えている)

だから、私は現在の塾生には可能な限りの指導をしようと心に決めている。いつ何時できなくなるのか自分にもわからない(私にはほかにこれといった才能がない)これまでの人生で得たささやかな指導しかできないが、私の塾に縁あってこられた塾生には、私の持てる力、今できる指導を一年でも継続したいと念うのである。

Iさんという女性、今年3回目の発表会に挑む方がおられるのだが、この方の参加で塾が一段と良き方向に向かい始めている。詳細は割愛するが、私の至らない守備を多面的にサポートしてくださっており、それがまたほかの塾生にも良き循環を生んでいる、のである。

リア王群読、私以外はひとり何役も登場人物の声を出すので、聴衆が混がらないように、そのためのレジュメ作りに、昨夜も遅くまで骨を折られいた。

このような塾生の存在に対して私ができることは、レッスンをすることである。彼女の(塾生の)魅力を引き出すことである。

ところで記事のおかげで電話が10件以上あり、定員の80名に、はや 達しそうである。感謝しかない。