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2017-04-29

朝一番、徳山道場に弓の稽古に出掛けました、そして思う。

朝一番、徳山道場にゆき、一時間半一人で弓の稽古をしてきた。早朝だったので、ほかにはどなたもおらず、とてもいい時間を過ごせた。弓は自分の存在と向かい合う世界である。

弓を始めたことで、どういうものか、声を出すことも、笹や孟宗の根を採る開墾、手鎌での草刈りなどの、根気のいる私にとっての仕事(という感覚でやっている)にも、良き影響が出てきている。

 今朝ラインを見たら、レイさんから4月22日のブログを読みましたと、あった。義理の息子が、しかもドイツ人である息子との機縁がもたらしてくれた、弓の世界。

弓を通して、義理の息子との会話が今後ますます深まってゆけることが、初老の私には、はなはだもってうれしいというしかない。

K氏にいただいた記念すべき弓は、今の私の力ではしばらくの間眺めるだけで、引くことは叶いそうもないので、れい君にあずかってもらおうかと思っているくらいだ。
みごとに修復されたK氏にいただいた弓

 ともあれ、とうまく言葉では表現できないのだが、徳山道場に通い始めてから、生活に何か一本張りが加わったことは間違いない。そのことが初老の私にはうれしいのである。

日本の伝統的弓の世界には、まったくといっていいほど無知な私だが、これを機会にわずかではあれ、弓の世界の奥深さ(伝統の良き世界を)を学んでゆきたいと思っている。

そのためには、とにもかくにもわずかな時間ではあれ、口を動かして声を出すように、弓をひく反復繰り返しを続け、可能ならなにかを見つけたいと念じる。

私が弓を始めたことに 刺激を受け、何と妻が水泳やピアノのレッスンに出掛けるようになった。夫婦共々の晩年時間がにわかに充実してきて、お互い忙しくしている。妻との仲も君子の交わりでありたいものだ。

老いの迎え方は各人各様だが、 生の終結点であるお迎えの死を、いかに受け入れるかは、今後の一日一日の過ごし方いかんに、左右される。悔いなく生きるためには、悔いなく一日を過ごす。命は日々生まれ変わってゆく、春の薫風を浴びに、午後は妻と母と3人でデートをしようと思う。

2017-04-28

佐藤優氏の本を読み続けて10年、このような作家が現代日本に存在することは救いだ。

おそらく、バカの壁の新書が爆発的に売れ始めたころからではないかと思うが、高価な本が売れなくなり、私のような経済的に余裕なきものが、なんとか月に数冊買える本の単価が新書価格、つまり千円以内で買える本である。
今この2冊を時間を見つけて読んでいる、面白い。

何度も書いているが、私は本を読むのが遅く、理数系の勉強をまったくといっていいほどしてこなかったし、学校へ行くのも嫌だったし、つまりは18歳まで、あまりにも学ぶということを放棄してきたがために、世の中に出て、オーバーではなく大いなる苦労を抱え込む人生を歩むことを余儀なくされた。

私の頭にかすかに光が差し始めたのは、日本から遠く離れた英国で一年間暮らし始めたころからではないかと自覚する。異国で日本語に飢えた私は、日本語の文字を手あたり次第読むような感じで過ごした。

いまだに謙虚に無知蒙昧を自覚する私だが、そのころから少しずつ少しずつ、体験しながら本を読み続けるという営為を持続している。

知る学ぶ、ということの 奥深さは、深遠にして深く、とてもではないが、、、。わたくしごときが感知しうる学べる世界は、きっとわずかなのであろうと、俗に知識人といわれる地頭のすごい方々の本を読むと痛切に感じる。

そのような私が信頼している地頭(この言葉も佐藤優先生から学んだ)の持ち主が、妻と同じ年の佐藤優先生である。

その多面的、多方向からの、博覧強記の思考洞察は、すぐ一面的な思考方向に踊らされがちな私などには、佐藤優氏ならどのように見立てているのかと、氏の本を買いに走るのである。

そこでへーっと感心し続けていることは、いまも 続いている。私が55歳、いまから10年前に初めて氏の本を読んだ時の驚きは忘れられない。おそらくあれから10年、私がもっとも気にしながら、頼りにしている知識人作家の一人である。

オーバーではなく、このような知識人がいてくださらないと、烏合の大衆の一人の私など、安易な情報に踊らされてしまうに違いない。
この新聞記事から私は氏の本を読み始めた、10年間が過ぎた。

なにより、目配りそのセンスには脱帽すること度々なのだが、それは我々庶民が入手にしやすい新書版での本を数多く出されているにも表れている。

新書を入口にして、より深き世界を知ることの大事を、諄々と説いておられるからである。いささか遅きに失した感も否めなくはないが、この10年氏のおかげでどれほど教えられ、勇気が持てたことだろう。

単なる物知り知識人は星の数ほどいるが、体験実践に裏打ちされ、修羅場を潜り抜け、512日間の獄中にあっては、この際徹底的に難解極まる本を読みこみ、下獄されてからの八面六臂の作家活動には瞠目するばかりだ。

専門バカは私の見るところ、あまたいるが、センスとユーモアを失わず、人民(古いとお笑いなさるな)目線感覚を 失わず、大事なことをきちんと伝え教えてくださる本物の知識人の重要性は、今の混迷極まる時代の渦中では、本当に貴重な作家であると私は頼りにしている。

思わぬ、五十鈴川だよりになりました。今朝はこれにて。


2017-04-27

GW目前、脈絡なき朝ブログ。

半年近く故郷に帰らず、わが心の五十鈴川のほとりに立たないと、やはり私の心は、何やら目にはみえねど、帰す本能がうずいてくる。なぜうずくのか、よくはわからず。(5月1~5日帰省します)

いよいよあと数日で、GWである。このたびは妻と二人で、車での帰省旅を予定している。遊声塾のレッスンも、カルチャー教室もGWはオフとなるので、私もオフタイムにしかできないことをやる予定でいる。

日常生活を充実させるためには、ときおりのオフタイムが私の場合どうしても必要だ。自分でもわけのわからない、コントロールできないなにかが、いまだ突き動かす。その懊悩が生きていることの証左なのかも。

想えば田舎者丸出し、まだ少年の残り香が抜けきらず、18歳で世の中に飛び出してから、なんともはや、あわただしき時代の推移の渦の中を、なんとか泳いで現在に至っているわけだが、いまだ時折、私は考える。

なぜこうもあわただしくも手帳片手に、(還暦まで私は手帳を持ったことがない)予定表を消化するかのように、動き回るのかと。超高速インターネット時代のさなか、いったい何を求めて動き回るのかと。(私は手ぶらをこよなく愛する)

答えは、分からない。目には見えない、まさに風の中に在るのかもしれない。いきなり話は変わる。 弓を始めたことで何やら新しき世界に触れている、ことを何回か前の五十鈴川だよりに書いた。

そしてまたも話は変わる。いま塾でリア王を読んでいるのだが、その中に眼を失ったグロスターのセリフに、【目が見えた時はよくつまずいたものだ】という言葉がある。
GWはゆっくりと本を読みたいものです。

脈絡がなくて申し訳ないが、人間という葦のような存在は、悲しいかな何かをなくさない限り、本質的には、なにも見つけられないのではないかと、リア王をこの歳で読むと考えさせられる。

で、話は弓に戻る。昨日雨の中、夕方塾の前に、道場で素引きを、たまたま一人で静かないっときを過ごしていたのだが、弓を射るという世界は、限りなく静かで、長く厳しい修業が伴う。

またもや無謀にも、弓を始めてしまったのも何かのお導き、無理のない範囲で徳山道場に通い続けたい。道場にただただ立って、弓を構えて引くまでの一連の動作を、ただただ反復するだけなのだが限りなく難しい。が私の内なる心のどこかは楽しんで喜んでいる。

わが内なる見えない世界が、ほんの少しでも見えるようになることを願い、弓の所作時間を大切にしたい。水はつかめず、風や空気は見えず、愛も見えず、考えると、人間にとって最も大切な、こころや物事は 見えない世界にこそ存在する。

弓をひきながら、声を出しながら、土を耕しながら、見えない世界を少しでも感知する力を蓄えたいと、念じる初老の私がいる。



2017-04-26

竹韻庵で旧交を温め、男3人愉快な春の一日を過ごしました。

久しぶりの雨、恵みの朝である。遠来の友が、出遭ったのが26歳のロンドンだから、40年も交遊が続いている稀な友が、所用で総社の鬼城にやってきた。

一晩我が家にとまり、旧交を温め、昨日竹韻庵で、竹韻庵オーナーS氏の昼食歓待を私も受け、愉快な男三人春の時間を過ごすことができた。


竹韻庵のタケノコの(ゆでたのと生での)で始まり、S氏の山用コンロでのしゃぶしゃぶ、最後によく出ただしでのソーメン 格別の味で締めた。

竹韻庵は里山だが、かなりの大木もあって、森の雰囲気も味わえる。食後その大木を利用してS氏がハンモックを吊ってくれたので、初めてミノムシ気分を味わい、少し昼寝をした。これが最高。

いうことのない、春の園遊気分を中年男3人で堪能することができた。晩年時間、気の置けない友とのささやかだが、滋味あふるるひと時を持てるということは、これまでの人生の(途中での)ご褒美の 嘉禄というほかはない。
S氏の堀ったタケノコあっという間に妻が湯がいてくれました

私心のない、数十年紡がれた信頼関係の上に成り立つ、このようなたまさかのいっときは、お互いが健康で今を生きていればこその有難さ、ただ感謝である。

ハンモックから目覚めると、S氏のたてた抹茶をいただきお開きとした。お土産にはS氏が掘ったタケノコとフキもいただいた。自然の大いなる恵みは人間を限りなく謙虚にさせる。

K氏は空港までS氏が送ってくださり、再会を約し私とは竹韻庵で お別れした。別れてから私の足は弓之町の弓道場に向かった。

夕方、ほんの少しの時間、弓の素引きの自主稽古をしたのだが、愉快な時間とは真逆のピーンと張り詰めた稽古時間を過ごしたことで、またいつもの普段の日常生活に戻ることができた。

竹韻庵オーナーのS氏の心遣いに、五十鈴川だよりで、この場を借りて感謝します。

2017-04-24

共謀罪について考える、ジャーナリスト斎藤貴男氏の講演期にゆきました、そして考える。

昨日午後、岡山弁護士会が主催する、共謀罪に関する、ジャーナリスト斎藤貴男氏の講演会に出掛けた。長くなるので端折るがいってよかった。

安全保障法が強硬に可決され、日本ペンクラブも含めた、多分野の、私もよく知る信頼できる方々が声を上げて 反対するその共謀罪の何たるかを、一庶民の一人として学びたかったからである。

この法案も含め、なぜ今、私のような浅学菲才、ぼんくらには、良くはわからない共謀罪なるものを、まして法務大臣でさえ、野党の追及にしどろもどろになるような法案を、急いで可決しようとしているのか、本能的に一個人として不気味だからである。

今朝の毎日新聞の山田孝男編集委員も 、2面の風知草で取り上げている。くどくどと書くのが、恐ろしくなるくらいに、このような法律がまかり通るような近未来社会が、私の眼が黒いうちにやってこようとしている、と思わざるを得ない恐ろしさを秘めた法案である。

今日の新聞の世論調査では49パーセントの人が共謀罪、テロ等準備罪に賛成しているとある。ブログ、五十鈴川だよりを書くものとして、無所属一個人として、この共謀罪法案には、異をとなえることをきちんと書いておきたい。

今の法律でも十分対処できるものを、あえてこのような有無を言わせないような法案を新たに作り、国民を萎縮させ、あげく疑心暗鬼にさせるような、国家、官の命令に従属させかねない、限りなく自由が遠ざかりかねない危ない法案。
横写真でごめんなさい。

まかり間違えば戦前に回帰 してしまうかのような、可能性のある法案には、繰り返すが一人の人間として声を上げねばと、考える。つくづく考える力を身に着けたい。

無所属一個人の私としては、すぐに軍事的暴力に頼る可能性を持つ法案には最後まで考えて、考える力でもって行動し、このように書いて発言するしかない。私の常識は、戦前の教育勅語教育を受けた父親の反省におうところが大きい。

(小さき声を大事にしたい、貧しくとも暖かき心を持ち続けたい)弱い者いじめは決してするなとか、人に迷惑をかけるなとか、当たり前のことばかりである、今その当たり前感覚を持てない時代が到来しつつあるように思うが、時代の趨勢に飲み込まれない、あっぱれな人たちも多数いらっしゃるのは救いだ。絶望したら負けである。

よく目を凝らして、新聞を読んでいると、心ある方々はきちんと共謀罪の恐ろしさを指摘している。かのうならいろんな新聞を読み比べたいのだが。

気が付いた時には、冗談も言えないような生き苦しい、監視カメラ、国民総背番号、国民が物のように扱われる未来社会の到来だけはご免である。

いったん決まったら、もう後戻りできない、と心ある方々は指摘している。

2017-04-22

徳山道場に入門して春に思う。

今夜は弓の稽古のある日である。弓を始めたことで、何やら微妙な変化がわが内なる心と体に起こっているような気が最近している。

まだまだ始めて2か月ちょっとであるにもかかわらず、である。端折って書くことにするが、それはいろんなことが考えられるが、おおよそ二つのことが考えられる。

それは、徳山道場の先生方や、門下生の方たちが、私が これまでの人生で出遭ってきたことがない雰囲気というか、オーラを放っているからである。

まぎれもなく現代人には違いないのだが、その内面性に、長きにわたって培われてきた、弓道世界の伝統的精神性が、色濃く感じられるのだ。

触れたばかりの弓の世界、その所作、作法を学ぶに、わが65歳の体は悲鳴をあげながらも、新鮮な気持ちを味わっている。

大変な世界に足を踏み入れたという思いと、いやあ、始めてよかったという思いが、やんわりと交差するのである。

還暦を過ぎ、弓を始める前から、とくに土いじりやシェイクスピア遊声塾を始めたことで、体をいたわる生活を心かけているつもりなのであるが、弓を始めたことで一段と体をいたわる生活を心かけないと、という思いが深まってきた。

声を出すのとはまた違って、弓を引くにはかなりの基本的な体力がないといけないということが分かってきたからである。 余計な力を入れず、しかし弓を引くにはそれなりの、弓を遠くに飛ばす力が必要なのである。

山下澄人氏より送られてきたおせんべい。私にとっての新世界は弓のせかいである

いまからその体力をつけるにはどうしたらいいのか、いまのところ私に考えられるのは、とにかく弓を繰り返し引くことなのである。その中で、この年齢でも筋肉が自然についてくるのを願うしかない、といった気持ちなのである。

弓に打ち込む娘婿れい君との共有世界を、少しでも深めたいという思いから始めた、徳山道場入門なのであるが、その思わぬ選択はなにやら思わぬ世界に私を導いてゆきそうな気配なのである。

もう一つは徳山道場の昭和の面影を宿す素晴らしさである。戦後建て替えられたという吹き抜けの道場からは空が見える。道場はお稽古日以外でも出入り自由である。

今の季節、ときおり自主稽古をしていると実に気持ちがいい。雨もまたよし、午前中などたまに一人で道場にいると、岡山のど真ん中の静かな弓の聖地にでもいるかのような気分になる。

天神山ではシェイクスピアを 声に出し、まさにすぐそばの弓之町で弓の稽古ができるのだ。聖地が一つ増えたのである。弓の稽古と声出しとでは意識のベクトルがまったく異なるのであるが、一つ共通していることは、集中力を深める反復繰り返しである。

なにやら、いよいよ晩年の過ごし方の3つの時間が、ますますもって大切になってきた。動ける間は動き、静と動を往還したい。



2017-04-20

桑江良健氏から依頼されていた一文をようやく書きました。

昨年秋、我が家で桑江良健氏の絵がガキサイズの一日だけの絵画展をしました。その際に桑江氏から一文を依頼されました。

年が明け、いつでもいいですよとの言葉に甘え、延び延びになっていた一文を、昨日午後一気に書き上げた。今朝万年筆で清書したので、ブログを書き終えたら投函する。
おおよそ500文字の原稿

桑江さんからはいつも直筆で、はがきやお便りが届く。まさにパソコンでは書けない、手書きの味わい深き一文である。だから私もこのたびの一文は、久しぶりに原稿用紙に手で書いた。

パソコンでも、手紙ででも、私の一文を書きたいと願う私だが、やはり最後は手で文字を刻み付けたいと、念じる。私は肉体を偏愛する。かけがえのない取り換えのきかない身体を。

なぜなら、それがやはり私には一番 しっくりくるし、意識と手が連動し湧いてきた文字が、上から下に自然に流れるからだ。とはいうものの、もう何時書き始めたのかさえ遠くに感じるほどに、長きにわたって囲炉裏通信・五十鈴川だよりを書いていると、どちらも私の一文には違いはないのだ。

深くは言及しないが、筆、万年筆、ボールペン、鉛筆、筆記用具を使って書くのと、パソコンで書いたのとでは、相手の受け取り方は違うと思う。(もちろん私自身の意識も微妙に変化する)

私自身、メールできたのと、手書きできたのとではまったくといってほど、受信感情が違うからである。文字にはいやがうえにもその方の個性が、圧倒的に存在する、気がする。

生のごまかしがきかない、人間性が宿っているし、手間暇かけてさらせるお互いの関係性の信頼関係が成立していてこそ、成り立つ。

これから先、大切な友人や知人とは、緊急の時以外は、筆や 万年筆でお便りをしたためる遊び心を深めてゆきたいと改めて思う私である。

遅きに失したかもしれないとは思うものの、反射神経が鈍くなり、ようやっといろんなことを丁寧にやれる人生の季節が訪れたのだから、これを利用しない手はない。

ゆっくり、ゆったり丁寧に、読み書き、声出し、耕し、ちびっとづつ小さき亀のように生き、出遭えた宝のような人たちと、静かに穏やかに暮らしてゆくのが、目下の私のささやかな願いである。



2017-04-17

牧野富太郎博士の記念館にゆき感動しました。

一昨日の朝、💻の調子が悪く中途半端なブログになったことをお詫びします。なんとか今日のブログを書き終えることができますように。
牧野富太郎博士の言葉

さて、昨日午後3時半、予定よりも早く家に帰り、一泊2日の高知の旅を終えることができました。とにかく数年前から、一度はゆきたかった牧野富太郎博士の、植物園に念願かなってゆくことが叶いました。

近年ほとんど観光旅行をしなくなった私ですが、牧野博士の植物園は何としてもゆきたかったところの一つでした。行って心から満足しました。いろんな意味でこれほど満足した旅は、本当に久しぶりです。

私も含め、妻も母も娘もみんなが感動しました。このような人類的な偉人が、土佐から輩出されたことに、日本人の一人として誇らしいとしかいいようがありません。

記念館に在った言葉、右手に貧苦にあえぎ、左手に学問的な苦悩を抱えながらも、清貧といういうしかないなかでの、植物に対する限りなき愛情には、誰しもが首を垂れるに違いありません。

この数年、画面からの人間界情報には限りなく遠ざかり、地面を眺めることにシフトし始めたわが初老生活の中で 、いやでも目に飛び込んでくるその名前、牧野富太郎。

これをきっかけに、先生の世界というか、植物の世界をほんのわずかでも学びたいという気持ちに改めてなった記念の旅となりました。

この世に、花と植物あり、そして我あり。人知れず咲く花々に、あまたの人間がなんと癒されることか、遅きに失したとはいえなくもないが、ほんの少しでも植物の豊かな世界を学びたいと思う、初老の私である。


2017-04-15

今日はこれから、高知へ家族旅行に出掛ける。母と娘も一緒というのは初めてではないかという気がする。

おそらく一番喜んでいるのは母である。このところ母のことを書くことが多いが致し方ない。実の親とは、(代わりに兄や姉がしてくれていたのでその点はよかった)このような旅をすることがかなわなかったので、私としても実にうれしい。

妻は、私と母が仲良くしていることがうれしいらしい。最近は妻と同じくらい、ひとり暮らしの母の様子を散歩がてら訪ねるくらいの仲である。

あの年齢で、いまだ義理の息子である私に結構気を遣う母であるが、この数年の家庭菜園の師弟関係で、ぐっと他人行儀でなくなってきた。

すべてのことに言えるが、関係性を深めるのには、共通の時間を過ごすということがやはり大きいと思う。 母のシンプルライフ、ここに極まる、といったかのような生き方を間近に接している私としては、なぜこのような欲の少ない生き方が可能なのかを、少しでも学びたいと思っている。

彼女にとっての、生きがいのような孫である下の娘との旅は、きっとおそらく特別なのだと思う。人間に暮らしで一番の宝は、やはりその人にとってかけがえのない大切な何かを、持てているか、いかんではないかと、思える。

私もそうだが、特定の宗教的な感覚 を持ち合わせていない、いい加減な生き方が大部のような日本人であるが、お墓参りは欠かさず祖先を敬い、未来の子供や孫の幸せを願うのは、大方の人々のごく普通の心性のように私には思われる。

だが、戦後のとくにバブル後の、家族という概念が一気に崩壊しかかっているような、多面的にあらゆる価値観がまるでタガが外れかかってきているような時代状況が訪れてきている、不気味さを感じているのは私だけではあるまい。

良し悪しは置くとしても、戦前まで極めて普通の日本人なら、普通に持ち合わせていた いたような共通感覚が、個人主義的民主主義のなかで、失われてきている現実を、私は痛感する。

だから、私に家族ができた時、うろたえつつもどうしたらいいものかと、考えつつ

2017-04-14

新緑の芽吹きの季節に念じる生活を心かける、そして思う。

四月もはや半ば、竹韻庵へは岡山市内から岡山大学のひろい銀杏並木を抜けて、向かうのだが、その、銀杏並木の新芽の鮮やかさが日に日に増してくるのを眺めるのが楽しみである。

もちろん背後に控える半田山の様子も、まるで生きて動いているかのように変化する。まさに万物が、生き生き躍動する春、私自身もその春を、今年は例年になくささやか極まる幸福感に、満たされているかのように動いている。


まさに、ときおり天を仰いで深呼吸しながら、竹韻庵にて一人ごちながら、俳句や歌の真似事でもしたくなるような心境に陥る。
枯れかけていた竹韻庵の柿の木の芽吹き

こんなことは昨年まではなかったなかったことだから、なにやら新しき、私にとっての春なのである。人間界の、まさにかまびすしいほどの、あれやこれやの報道をしり目に、初老の私は、呆けたようにひたすらバカになって、大地の草の根に立ち向かう。

草を抜きその根に、目を限りなく近づけると、信じられないほどの十重二十重の根が土に絡みついている。その生命力のすさまじさたるや、私ののあやふやな心根をはるか凌駕してやまない。

私は雑草の生命力に脱帽しながらも、母のように雑草取りに戯れながら、手先を動かし続けながら、老いてゆきたく念じる。

老いてゆく晩年時間、可能な範囲で 何かを楽しみながら発見できないものかと、頭の中のシナプスの根を、雑草のように伸ばす方法のようなことを念じ夢見るのである。

考える。思う。に続いて最近とみに気に入っている言葉が念じるという言葉、 今と心という文字が合わさっている、調べてみようと思うが、まあわたくしごときが思いつくことである。

竹韻庵の野草の花名前を調べるつもり
でもまあ、五十鈴川だよりを書きながらも、シナプスが何やら動き回る感覚は、念じればこその有難さなのである。

昔から大多数の名もなき貧しき民衆は、念じることの中にしか、ほかに道が見いだせなかったのではないのかと 、はたと思い当たる。

念じることの中で、にわかに菩薩的感覚が肉体のどこかに宿ったような感覚が生まれるまで人々は、祈り唱えたのではないのかと思える。

そこに、歌や踊り絵画ほかの多種多様な芸術の神様が生まれたような気がしてくる。生きてればこそ念じることが可能だ。

そこにさかしらな、現世的なご利益などを期待するのは、浅はか至極という気がする。何も願わずただただ、昔の人は念じたのだと思える。

私は現代文明という素晴らしさを享受しながらも、それに胡坐をかきたくはないという絶対矛盾を生きている。

2017-04-11

キンカンを収穫しながら、母の知恵の豊かさに、昭和の面影をはっきりとみる。

先週の日曜は、朝一番天神山でロミオとジュリエットの輪読のワークショップをした後、家族で西大寺の水源地で、昼食を兼ねた、お花見ができた。

まさに満開での母、妻、したの娘と 私の4人でのお花見。もう今後、そうはそろって、このようなタイミングでのお花見は難しいだろうから、今年は春から縁起がいいや、といったところ。

天神山から、我が家に向かう道の後楽園の車の、混雑をも含めた賑わいをよそに、西大寺の水源地の桜は、小規模だが人の賑わいもちょうどいい感じで、実にいいお花見と相成った。

(娘がラインで写真をれい君に送ると、怜君からも住んでいる稲城の周辺の桜の写真が送られてきた。れい君は写真が好きなのである)
穴の開いた作務衣を母が見事につくろってくれました

我が家のお花見は、短時間で 終え、母の家の金柑の収穫をした。前日の弓の稽古に行く前、我が家のキンカンも母が手伝ってくれきれいに収穫できたので、母の家のも手伝わねばばちが当たる。

それにしても、キンカンというのは何度も花が咲き、よく実をつける。我が家のキンカンはあまり日当たりが良くなく、剪定が良くないせいで、実が小さいのだがそれでもたくさん収穫できた。

そこで、初めてキンカン酒を4リットル作った。数年前にたくさん作った梅酒がそろそろなくなってきたし、瓶があいていたので作ったのだ。

こういうことを妻も母もあまり飲まないのに、私が作りたいというと、キンカンに楊枝で数か所穴をあけるといった、煩雑なひと手間を、惜しみなくやってくれるので大助かりだ。

何事も手づくりはやはり素晴らしいと私は思う、そのことを私は母から今学べるうちに学んでおこうと思う。母から妻へかなりのことが伝わっているので、そのことをまたつたえられる限り、伝えるという知恵の楽しみのようなものを、見つけたいと思うのだ。

話はそれるが、今年のお正月下の娘がおせち料理を作って私を驚かせたが、私の知らないところで、ゆるやかに成長しているのだが、それはおばあちゃんの力におうところが大だと私は思っている。

またもや話はそれる。リサイクル、リユースという言葉が はやっているが、私が着ている衣服のかなりが手当てをし、再びつくろったものである。穴の開いたジーパン、作務衣、ズボンやセーターなどを、すぐに母が見事なまでに、つくろってくれるおかげである。これがまた味があっていいのだ。オールドニュウファッションである。

初めてのキンカン酒どんな味になるか楽しみ
大工さんであった義父が着ていたズボンやセーターを、いまようやく私が着れる年齢になり、作業着ほかに大いに重宝している。

おそらく、この数十年衣類にはほとんどお金を使っていないのではないかと思えるほどだ。身近に接する存在で母ほど、生活全般に創意工夫を楽しんでいる人をほかに知らない。

それは私が夢が原を退職後、頻繁に接するようになってから、ふんだんに感じるのであるが、逆に言えば、いかに私が消費生活に埋没し、知恵の楽しみを放棄してきたのかの証左だろう。

お金を出せば買えるのだが母は言う、 工夫するのが好きなのだと。義父が着ていたジャンパーなどを私が着ていると、ことのほか喜んでくれる童女のようにふるまう、現在の母である。

古き良き、日本の私の愛する原風景の面影を宿す母である。さかしらな政治家や偽善極まる輩が愛国愛国と、やたらのたまうが、こういう声高に上から目線で騙りかける人間には注意しないとまずい、信用できない。

愛国心や道徳心などというものは、教えられるものではない、上っ面の言葉ではなく、真の意味での根を生やす生活言語を見つけないとまずい。反省できるときに反省しやり直すことだと自戒する。

母の言語は語彙が少ないが、十分に足りていて丁寧に私に語りかける。私自身が試されている。

2017-04-09

【ロミオとジュリエット】からヒダカトモフミの輪読ワークショップははじめます。

夜が明けて、朝が来た。気が遠くなるほどの地球の自転の果てに、生命が生まれ、人類が生まれ、自分もなにやら、今ここに存在して、しめやかな春の陽気の、西大寺の家の一室にいて、こうやって五十鈴川だよりを書いている、存在の不思議を、65歳の私は感じている。

このような、書き出しになるとは、書いている本人がまったく思いもしなかったのであるから、この不思議な感覚こそが、まさに生きていることの醍醐味、であるとしかいいようがない。

まったく日々生々流転、人間という存在は、日々不確かに変容し、 二度とは戻れぬ、時間の旅をしているのだなあ、と時折感じ、すぐにまた忘れてしまう私である。

さて、今日はヒダカトモフミと一緒にシェイクスピアを、声に出してみませんか。という輪読ワークショップの初日である。おそらく皆目というか、ほとんど宣伝していないので、今のところ塾生以外の参加はないだろうが、私が遊声塾を続けられる間は、続けようといま思っている。

なぜこの輪読ワークショップを始めるのかについては、すでに書いたので省くが、私自身が思わぬことで、シェイクスピアのファンになってしまったように、一人でも多くの方にシェイクスピアの言葉を声に出して読むことの面白さが、分かち合えればという思いで始める。
1970年18歳の時、上京し再び見た時に買った今となっては宝物のパンフレット

今日読むのは、私の人生を変えたといってもいい、【ロミオとジュリエット】 である。塾を立ち上げた時、30年ぶりに読んだのだが、久しく忘れていた青春時代のうずくような、ときめき感が、いまだ自分の中にかすかに残っていることが、どこか気恥ずかしくもうれしかった。


人は老いながらも二度と来ない青春時代を懐旧する。帰り来ぬ青春という歌もある。青春とはなんと苦い思い出の宝庫であることかと、思い出すたびに赤面する。

私が高校生で、入れ込んでみたフランコゼフィレッリの映画のロミオは、一輪の花を手に朝のヴェローナの石畳の坂道を歩きながら、憂愁をたたえながら登場する。
1978年ロンドンで見たトレヴァ―ナン演出。ロミオは名優イアンマッケレン素晴らしかった

方やジュリエットは、乳母の呼ぶ声に導かれて、回廊を歩く横顔から、、いきなり窓を開けると、ジュリエットの上半身が、画面一面のクローズアップ。思えば、優れた演出家の手にかかれば、古典も現代劇として蘇ることが証明された、画期的な映画だった。

自分の人生に最も影響をあたえた 映画を一本上げよといわれたら、最も多感な時期に観たこの映画にとどめを刺す。ニーノ・ロータの音楽が圧倒的に今も耳の中で鳴り響く。

田舎の少年は、夢見る少年となり、旅に出る。いまだその青春の残滓を 引きずっているかのようなあんばい。ともあれ、始めれば何かに出会う。新鮮な出会いと感動こそ、シェイクスピアが私に与えてくれた宝物である。




2017-04-08

ゆるやかに動く身体で、丁寧に日々を送りたいと自戒する春。

お花見時の菜種梅雨といった按配の空模様が続いている土曜日である。土日は妻が仕事がお休みなので、努めて妻との時間を過ごしたいと考えてしまう還暦後の私である。

珍しくゆっくりと寝て、起きて朝食を妻と共に、気持ちのいい外で済ませてのブログタイム。さて、65歳の生誕の二日前の、2月11日が私が徳山道場の弓道教室での初稽古であった。寒い日であった。

今日が4月8日、ほぼ2カ月で 本当に暖かくなった。すごいスピードで地球は自転する。毎週土曜日夜が弓道教室の日であるが、それ以外の日でも、特別のことがない限り、道場には先生の許可を得て出入り自由なので、わずかな時間を見つけて、私は自主稽古を、特にこのひと月するようになった。

以前も書いたが、何事もすべてはそうだと思うが、見ているのと実際やるのとではまったく異なる。たまたま65歳のタイミングで、何故か始めてしまった感のある(説明しがたい感情が高まったのである)弓道世界なのだが、(初めたばかりだが)なにやらいままで経験しなかった感覚を体が感じ始めている。

体の中を、新しい時間が流れてゆくような 、とでもいったらいいような感覚が生じ始めているのである。一言でいえば新鮮な時間が流れてゆくのである。

還暦を過ぎてから始めた、土と親しむ時間、声を出す時間、に弓を弾く時間が今年から加わることになる。なにやらこの3つが、これからのしばらくの間、私のきわめて大切な晩年時間時間になるのは間違いない。

そこで、五十鈴川だよりを読んでくださっておられる方や、フェイスブックとうでいろんな個人情報を送ってくださる方には、はなはだもって申し訳ないのだが、不義理の数々をしている。

以前も書いた記憶があるのですが、自分がデジタルでブログを書きながらも(幸いほとんどコメントもないので)そのようなデジタル世界での交流には、自分は不向きな性格を自認しておりますので、ご容赦くださいますようお願いしたいのである。
丁寧に書かれた心からのお手紙、ありがたい、私は反省する。

 とりあえず、有限なる人生時間、やっと訪れた限りなく自由になるわが人生時間を、五十鈴川だよりを書くこともそうだが、自分自身の欲するがままに、流れてゆけたら、それに勝る悦びはないといった、こころもちの65歳の春なのである。

ところで、話は変わるがインタビュー本(本になるのはいまだ未定、いずれ自分で何らかの小冊子にでもしたいとは思うが)のテープ起こし原稿をコピーして、30人くらいの友人知人に送ったところ、思わぬ身に余るうれしい反響を、お手紙やお葉書でいただいた。

親ばか丸出しだが、わが娘からもメールではなく、お手紙をもらった。手間暇をかけた丁寧な文字書きには、やはり心がこもっていて、私の胸を打つ。

そして、自分を反省する。自分ももっと丁寧に人生を送らねばと、痛く念じる自分がかろうじて存在するのだ。人生も限りなく後半になっての自戒は深まり、より丁寧に日々を過ごしたいと思うのである。

2017-04-05

今夜から、5年目のシェイクスピア遊声塾がスタートする朝に思う。

長い冬から解放され、春の陽気が一気に満る、この季節の到来は、身体中の細胞が緩んだようになるのは私だけではあるまい。

満開にはまだ程遠い桜だが、この数日の暖かさで一気に開花しそうな気配である。週末、天気の塩梅も気にはなるが、家族でほんのちょっとお花見ができれば、もうほかにはいうことのない春である。あらゆる山野草が、春の喜びを告げている。
カルチャー教室ではハムレットを読みます

そして、5月には85歳になるはずの母が、ことのほか元気であることが、我が家の穏やかな暮らしの中心である。母を含めたお花見が今年もできれば、もういうことはない。

下の娘も社会人になり、週末は私と妻と母と3人で過ごすことが多々多くなることは、いたし方ないとは思いながら、これも浮世の定めということで甘受している。

ただ、昨日も書いたが、家族全員が今のところ健康で、会話が成り立ち、生きて動いている、そのこと一つとっても、有難いことといわねばならない。

早寝早起き、まだ暗き夜明け前に、よしなしごとを つづれるなんてことが、継続できている今、この瞬間を寿げる、中庸的な平凡の極みの暮らしの中にこそ、非凡を感じる。(世界に目を転ずれば、あまりにも痛ましい出来事の数々、言葉がない)

さて、遊声塾の発表会を終えて10日、今夜からまた新たなレッスンが始まる。5年目にして初めて悲劇【リア王】に挑む。

塾生と私の7名で読めることが、本当にうれしい。塾を立ち上げた時に、まさかこのような日がこようとは、皆目思わなかったのだから。やはり勇気をもって、思い切って開始、つくづくよかった。

なにやら、あらゆることが65歳にして、丸4年かけてようやくリセット されたような気が個人的にしている。だからなのだと思う。3月からどこか体の中が軽くなり、五十鈴川だよりを書くのが以前にもまして流れてゆく、感じなのである。

ほとんどパソコンを開くまで何も考えていない。一行書いたら、次の一行、てなもんなのである。このようなわがまま、いい加減ブログを、読んでくださってくださる方がおられるのもうれしいというほかはない。

【書くほどに・喜び満 ・夜明け前】 今朝はこれにて、皆様良き春を。

2017-04-04

春・一昨日の日曜日、妻と母と3人で薪づくりに精をだしました。

徐々に徐々に桜もほころび始めてきて、我が家の近くのあちらこちらの、車窓から見えるそこかしそこのさくらを楽しめるようになって季節は流れてゆく、春である。

もうほとんど薪ストーブは不必要になる季節だが、朝夕は時折まだ冷えるので、朝はともかく日没後、いまだちょっと、薪ストーブを必要とする我が家である。

ところでこの数年、我が家から、数百メートルほど離れたところにある、造園業者の方から時折薪ストーブ用の樹木をいただいているのだが、先日もう我が家の庭には積めないくらいの量の、手ごろな大きさのすばらしい樹木をいただいた。

私の軽自動車 のシートを倒して6回運んでもまだ余りあるその量、うれしい悲鳴でもあるのだが、積んで運んでおろして、チェーンソーで伐って、最後に薪積で終了、半端な労働ではない。

おがくずがたくさん出るので、それをきれいにかたずけて終了、と相成る。薪ストーブなどと書くと、カントリースタイルの優雅な雰囲気を想像される方がいるかもしれないが、それは薪をふんだんに買える財力をお持ちの方の言。

私のような、非財力の輩はひたすら、どこかしらから廃材ほかを調達してくる体力と根性がないと、とてもではないが、優雅な薪ストーブライフは実現が不可能である 。

もう17年間、私は冬の間薪ストーブの火力の恩恵に浴しているが、その薪ストーブのそばで、静かに息を引き取るなんてことが、我が理想の死の迎え方だが、そのような小説もどきの死なんてことは、まあ、ないだろうが、何事もまずは思うことからすべては始まる。

だから、ままならぬにせよ、思うことだと自分に言い聞かせている。富良野で初めて薪ストーブに触れた時の、なんとも言えない暖かさ、いつの日にか家をもし持てたら、何はなくとも薪ストーブがほしいと私は念じた。

ヒアシンスの向こう側にも薪を積みました

考えてみると、念じるということの、生きるが上に置いての大事さは、加齢と共に深まる。生きることの生活全般にそれは通ずる。念じないと言葉も体も動かないのだ。動けるという当たり前のことの何という素晴らしさ。加齢とともに気づきは深まる。

材料の丸太を、薪にして積む体力がいつまで続くかは皆目わからないが、動ける身体を一年でも長くキープすべく、丸太に鍛えられつつ薪づくりに励みたいと念じる私だ。

一昨日の日曜日、起きてから簡単な朝食を済ませ 、昼食をはさみ午後二時まで、薪づくりに集中した。運んで切った薪を、途中から妻と母が見事にきれいに積んでくれた。

老いたりといえど、84歳の母の動きぶりには、敬服、頭が 下がる。所用で私は夕方岡山に出かけたのだが、帰ってみると庭のおがくずがきれいに掃き清められ、きれいに片付いていた。

行き届いた清掃のすがすがしさは、言を俟たない。体・心・技が弓道の先生の教えだが、まさに然り、身体が動くからこそ、すべてはなすことが かなうのである。

2017-04-01

竹韻庵で土にまみれ、弓之町で弓を、天神山で声出しを続ける苦楽の老春の今。

まだ4月1日だが、このブログを書き終えるころのは、日付が変わるかもしれない。2月11日から始めた弓の稽古を 終えて帰ってきたのが、9時半近く、少なめの夜食をして、殆ど頭は働いていないが、何か綴って大いなる眠りに落ちたい気分の春の夜である。

家人は寝静まり珍しく私だけがおきている。今日も早朝に起きてから、中断していた黒川創さんの小説【岩場の上から】を読み終え(おすすめします)、竹韻庵にゆき戻って、お休みの妻と外で昼食をし、少し昼寝をして図書館に行5時まで過ごしてから、弓の稽古に出掛けるといった、一日であった。
S氏に借りた本、自然界の野草をもっと学びたいものだ

一日の過ごし方の、おおよそのパターンがほぼ決まりつつあるが、生きている わが体は下り坂の中、微妙に変化し続けている。そのこと苦楽しめる(変な言葉遣いですが)自分がいて面白がっている。

おそらくは変化し続けているからこそ、このような能天気的な、のらりくらり五十鈴川だよりが書けるのであるとしか言いようがない。まさに自己愛ここに極まれるかのような、ブログであるが、いたし方なし、ご寛恕願うしかない。

さて、弓に話に戻るが、今日も稽古を終えて空を見ると、三日月が浮かんでいた。本当に私は月が大好きである。ただただ目がゆく。

月が満ち欠けするように、自分の体も心も、微妙に変化する 。毎週土曜日夜、一日休んだだけで通っている。0からのスタート、まさか弓を自分が始めることになるなんてことは、皆目考えもしなかった。

何事もそうだが、見るとやるとでは大違いである。改めて そのことの当たり前さが、大いに新鮮な今夜の私である。自分の息子くらいの先生に手とり足取り倣っている。

まことに持って、所作全般に神経を集中しないといけない。これはある意味、まったくシェイクスピアを声にだして読むことに通ずるのである。

疲れているので、これ以上書くのは控えるが、弓の稽古と、シェイクスピアを声に出すことは、表と裏のような感じで、この両方を訓練することで、私にとっては裡に向かうベクトルと、外に向かうベクトルとでもいった感じで、身体がこの年齢まで経験したことがないような驚きを感じている。

弓、まことに持って奥深い。弓之町と天神山で私の老春の苦楽は今しばらく続くことになる。