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2017-04-09

【ロミオとジュリエット】からヒダカトモフミの輪読ワークショップははじめます。

夜が明けて、朝が来た。気が遠くなるほどの地球の自転の果てに、生命が生まれ、人類が生まれ、自分もなにやら、今ここに存在して、しめやかな春の陽気の、西大寺の家の一室にいて、こうやって五十鈴川だよりを書いている、存在の不思議を、65歳の私は感じている。

このような、書き出しになるとは、書いている本人がまったく思いもしなかったのであるから、この不思議な感覚こそが、まさに生きていることの醍醐味、であるとしかいいようがない。

まったく日々生々流転、人間という存在は、日々不確かに変容し、 二度とは戻れぬ、時間の旅をしているのだなあ、と時折感じ、すぐにまた忘れてしまう私である。

さて、今日はヒダカトモフミと一緒にシェイクスピアを、声に出してみませんか。という輪読ワークショップの初日である。おそらく皆目というか、ほとんど宣伝していないので、今のところ塾生以外の参加はないだろうが、私が遊声塾を続けられる間は、続けようといま思っている。

なぜこの輪読ワークショップを始めるのかについては、すでに書いたので省くが、私自身が思わぬことで、シェイクスピアのファンになってしまったように、一人でも多くの方にシェイクスピアの言葉を声に出して読むことの面白さが、分かち合えればという思いで始める。
1970年18歳の時、上京し再び見た時に買った今となっては宝物のパンフレット

今日読むのは、私の人生を変えたといってもいい、【ロミオとジュリエット】 である。塾を立ち上げた時、30年ぶりに読んだのだが、久しく忘れていた青春時代のうずくような、ときめき感が、いまだ自分の中にかすかに残っていることが、どこか気恥ずかしくもうれしかった。


人は老いながらも二度と来ない青春時代を懐旧する。帰り来ぬ青春という歌もある。青春とはなんと苦い思い出の宝庫であることかと、思い出すたびに赤面する。

私が高校生で、入れ込んでみたフランコゼフィレッリの映画のロミオは、一輪の花を手に朝のヴェローナの石畳の坂道を歩きながら、憂愁をたたえながら登場する。
1978年ロンドンで見たトレヴァ―ナン演出。ロミオは名優イアンマッケレン素晴らしかった

方やジュリエットは、乳母の呼ぶ声に導かれて、回廊を歩く横顔から、、いきなり窓を開けると、ジュリエットの上半身が、画面一面のクローズアップ。思えば、優れた演出家の手にかかれば、古典も現代劇として蘇ることが証明された、画期的な映画だった。

自分の人生に最も影響をあたえた 映画を一本上げよといわれたら、最も多感な時期に観たこの映画にとどめを刺す。ニーノ・ロータの音楽が圧倒的に今も耳の中で鳴り響く。

田舎の少年は、夢見る少年となり、旅に出る。いまだその青春の残滓を 引きずっているかのようなあんばい。ともあれ、始めれば何かに出会う。新鮮な出会いと感動こそ、シェイクスピアが私に与えてくれた宝物である。




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