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2014-11-30

雨上がり、畑での紅葉感覚を慈しむ。

昨日の朝の雨の中のネギ刈りのことなども含め、少し書きたい。

家を出るときは雨が上がっていたので、普段通り出かけ、k君(10月から、半年研修にきている19歳の青年)とともに畑に向かうころから、にわかに雨が降り始めたので、まず倉庫で雨合羽に着変えネギを刈り始めたのだが、雨が激しくなりぬかるみ、思うように手足が動かせなくなるなか、まるで修業僧のような気分で、黙々と身体を動かした。

K君も苦労しているのがわかる。このようなことは年に数回はかならずあるのだが、しんどい作業の時にこそ、人間の底力が問われるし、試される。私とてもなかなかに辛い状況ではあるのだが、とりあえず今日出荷する分のネギはどんなことがあっても刈らねばならない。

若いK君には私が刈ったネギを、ひたすらかごに入れ車に運んでもらい、私は刈ることに専念した。その間約一時間半、なんとか10かご刈り、8時には工場まで運ぶことができた。刈り終わるころには雨が上がっていた。

幸い終日降ることがなく、事なきを得たのだが、若いK君との思わぬ共同作業が私には楽しかった。これが一人ならしんどさは倍加したかもしれないのだが、研修中、悪戦苦闘する彼がいたおかげで、無心で刈れた。

こんな作業を、この年齢で苦もなくできる自分の現在の体は、やはり若いころからのあらゆる体験が、根底にあるからこそなのだと、つくずくありがたく思う。もっと書けば、今やれるうちに、どれだけのことが可能かというチャレンジの精神が、年齢を忘れさせて湧いてくるのだ。ネギ刈りトレーニング。

雨水が合羽から沁み、肌着が濡れて気持ちが悪かったが、着変えてさっぱりするとひと汗かいた身体が軽くなり、なんとも気持ちがよく、その後は雨上がりの青空のもと、気持ちよく仕事ができた。

ところで、紅葉の季節もほぼ終わりだが、私は畑へのゆき帰りや、畑から望める周辺の樹木の紅葉を今も楽しんでいる。畑に通じる農道には落ち葉がたまる。ひらひら舞い降りる落ち葉を、車から眺めながら走るのは、いとおかしき風情の極みである。

雨の後陽光に照らされた樹木の葉の美しさは、まさに沁みる。鮮やかさの極み、それも長くは続かず、神の摂理地面に還る。まさに日本の風土は循環芸術とさえ思える。

雨あがりの中腰を伸ばしながら、青空と雲の流れを望みながら、時折雑草も含めた周辺j樹木の色合いの変化を、足元、天空、日ごと愛で慈しむ。心に感じ入ることが多く味わえる職場である。

ことさらに、有名な景勝地にゆかずとも(ゆけなくとも)紅葉の晩秋は足元のそこかしこに在る。すぐ足もとに微妙な味わいとともに多元的豊穣な、豊かというしかない植物世界が広がっている。

ようようにして、それら畑周辺の植物世界と私自身の生がつながっていることが、かそけきなかにも感じられる歳になってきた。

生きていればこその、世界を見つける秋。畑の近くの家に大きな銀杏の樹があり、その家の小屋の屋根に一面びっしりと銀杏の葉が敷き詰められていたのを、先日見た。自然の織りなす美。

人間がこざかしくアートだなんだと(ごめんなさい、言葉が過ぎました)かまびしきご時世だが、じっとしていても、世界は実に多様で千変万化動いている、そのことを感知する感性を、元気な間は修行し、磨かなくてはと自戒する。

2014-11-24

小春日和の、初冬の朝に思う。

眼が覚め、さきほど運動公園にゆき、星空のもと、ほんの少し体を動かし、深呼吸し帰ってきた。西の空にはオリオンが瞬いていて、恒例のささやか懸垂は天空を見上げながらした。この歳で、懸垂を続けているのは(わずかな回数です)私なりにいつまで可能かという意味合いがあるだけだ。

以前も書いた気もするが、還暦前、数十年ぶりくらいに、鉄棒にぶら下がった時、まったくできなかったのには、少しショックを受けた。小さいころからどちらかと言えば、虚弱体質で痩せていた私は、懸垂が苦手だった。

そんなやわな私が、初めて懸垂に挑戦したのは、富良野塾に在籍していたあいだ、だ。卒塾してからはまたもや、慌ただしき日々に流されやっていなかった。

富良野で初めて、途方もなくあらゆるすごい肉体労働経験(やわな私にとってです)をすることで、私の精神と肉体は、まさしくかなり鍛えられたのだということを、実感する。

そのことが(やわな自分自身といやでも向かい合わないといけない状況)、富良野塾に参加して一番よかった。その体験は、生きてゆく上での、かなりの自信となり今に至っている。

困難な状況の中で、かすかに自分の中に希望の活路を見出しながら、薄皮をむいてゆくかのように、細心の注意で自己を対象化し、変化するおのれの心と体を確認しながら(時に停滞しながらも)なんとか一日一日、あきらめず、あきらめる、絶対矛盾を繰り返す青春の終わりの日々(今もである)。

この歳で、静かに思うことなのだが、自分にとって最も幸せな日々とは何かということを、いまだ考え続けながら生きている。まだまだ、、訳知り顔的なことはかきたくはない自分がいるし、右往左往しながら生きてゆくだけで、十分ではないかという気もすごくする。

話を懸垂に戻す、できなかったことができる悦びというものを、若いころに経験していると、この歳になってもそのささやかな経験は、肉体的には下り坂ではあれ、老春の悦びを再びもたらしてくれるということを、つくずく感じる。

何事にも3日坊主、根気が続かなかった私の前半の人生は、後半からちょっぴりと根を伸ばし始めた、ように思う。そしてようやくにして生きていることが面白くなり始めた、ように思う。チャップリンがいうように、ささやかな勇気をもって、無謀ではなく、元気な間はまず身体を動かしてから、考える。

若い時にこそ、やれるときにこそやっておかなければならないことが、もちろんあるが、それは本質的には老いてゆくにつれても変わらず、もっといえば、より深めて生きるところにこそ、その妙味があるような気さえ、最近はする。人生至るところに青山あり、なのだ。

今を生きている、自分の自由になる独り時間(大切な他者との時間も)をいかに気持ちよく過ごせるかということこそが、私にとってのこのところの肝要なことだとの、認識。

だから、そのささやかで貴重な時間を、愉快に過ごしたいので、できるだけ私はこれまでの時間の使い方を自省、反省し、静かに土の上にそっと立つ暮らしを意識して心懸けている。

(個人的に時代との乖離は深まるが、若い方々の中に素晴らしい感性の方々が育ってきているのを感じる。どちらかと言えば、自分も含めた同世代の情けなさはいかんともしがたいくらいだ)

土や自然は厳しいが、その中で作物を育て、艱難辛苦を生きてきた無名の、無数の我がご先祖をはじめとする、声なきこえを感知する側に、身を置いて考えてゆきたいとの思いが、まったく柄にもなく深まりつつある初冬の朝である。

2014-11-23

可能な限り、アンテナを立て、熱き血の流れる間は、五感を研ぎ澄ませたい、と考える朝。

週に5日働きながら、なおかつ自分のやりたいことを2日やりながら、限られた一日の時間をそれなりに大事に生きるようになってから、日々の暮らし方が以前にもましてシンプルになってきた(ように思う)。何か雲が流れるように日々が過ぎてゆきながら、も。

お休みの朝にしか、ゆったりとブログを書かなくなってきた。これは、良きことなのかどうかは、判然としないが、無理なく流れる五十鈴川、といった趣。

そんな中、数年前マイコプラズマ肺炎にかかってから、ずいぶん自分の体に留意する生活を送っている、(つもりの)私である。

とくに農の仕事をするようになってからは、身体の手入れをするようになってきたことは、以前も書いた記憶がある。週に3日は夕方や、早朝運動公園にゆき、最低30分近く身体を動かすということをこの3年間なんとか継続している。

そのせいかどうかは分からないが、歳を重ねながらも、還暦を過ぎてから、50代よりもはるかに体調がいい。あらゆるしがらみから解放されたことも大きい。

以前は、企画をしたりすることに、生きがい的な時間の使い方をしていたがために、動いて人に会うことに多くの時間を割いていたが、まったくそのようなことがなくなってしまい、世の中にでてから、初めてといってもいいくらいの静かな暮らしを、私はこの1年以上続けている。

そして、そのことが緩やかにまた、生活の変化をもたらしている。かといって私は人に会うことを避けているのではなく、会いたい人には会い、見たいフィルムは見、聴きたい音楽には足を運び、旅をしたくなったら旅をする、いわゆる自己正直自然体暮らしを、つまり一段と深めつつある。

考えてみると、軽薄この上ない性格の上に、不勉強でよくもまあ、この歳まで生きてこられたものだと冷や汗ものの感無きにしも非ず。しかもいまだ、ブログなどを書きつづって、ひや汗の上塗りを続けているのだから、雀100まで踊り忘れず、ということなのかもしれない。

だが、父が好んだ歌のように、【小さきは・小さきままに花もちぬ・庭の小(花)草の・静けさを見よ】自分もだんだんと、かく在りたいとの比重が増してきた、気がする。

がしかし、世の中の動きに目を転ずると、そうは安寛とはしていられないという思いにも強くかられる。師走の選挙、これまで世の中に出てから何度選挙に足を運んだことだろう。

突然、香港の選挙のことに思いだ至る。若者たち中心の公道を占拠しての異議申し立てのデモンストレーション。藤原新也さんの、WMでの現地からの写真報告は、ニュ―スではまったく伝わらない雰囲気を伝えていて、ものすごく素晴らしい。個人メディア。

70歳、命がけで伝える熱き心情には感服する。こういう、信頼できる方のWM情報を持っているだけで、畑にいながらも、私は世界とどこかでつながっている感覚をかろうじてキープしている。

私もまた、限界までは熱き老人のままに、つまりは人間としての自由や、なくしてはならないことに関しての、矜持をあまたの素晴らしき諸先輩から見習って、とささやかに思う。

自分たちの暮してゆく国の行く末は、自分たちが行動し(文字であれ、絵であれ、音楽であれ、あらゆる表現で)選挙に足を運び、議論を尽くし大事を決めてゆく。責任ある一人ひとりの民としての自覚を深めてゆくことがつくずく肝要だと思う。

投票しないということは、あまりにも物悲しい。戦後生まれとして、当たり前のように民主主義を享受してきたものとして、私ごときのブログでさえ、言論の自由が保障されなかったfら、書けないのだ。

歩きたいところを歩き、言いたいことがいえる、個人の自由と尊厳は、やはり一人ひとりが自分の頭、全身を使って考えてゆく力を身につけないと、またもやおおきな眼に見えない力に押し流され、歴史は繰り返す、なんて気のきいた言葉を自分は安全なところにいて、ほざいてしまう、そのような大人では、自分はありたくない。

香港の若者たちを見倣い、自由な発想で、ユーモアを忘れず、大事なことは、我がこととして受け止め、考える力を止めないためにも五十鈴川だよりで冷や汗をかきつつ、アンテナを立て素直に学びたい。

2014-11-19

高倉健さんが、おお亡くなりになりました。

高倉健さんがお亡くなりになりました。18歳で上京したころ、健さん(と呼ばせてください)のフィルムを、新宿や、池袋の映画館でオールナイトでよく見させていただきました。

短い時間では、とても書けない。ひとことお疲れさまでした、お安らかに、と我が五十鈴川だよりで書き記します。

あの時代の空気感が,切なく私の中に生々しく蘇ります。間接的であれ、大先輩と、昭和という時代の大部分を共有できたことは、かえすがえすもうれしく、今、思います。

なにがしかの思いを伝えることに、フィルムを通じて腐心されるお姿は、まさに感性の世界の住人にふさわしい生き方を全うされたように感じます。

時代に流されず、出演作品は少なくなるにもかかわらず、出る出ないとか、そういう次元を超えてかくも人生を賭して、映画俳優の道を全うされたことに関して、言葉がありません。

個人的に、い一度だけ私は健さんを見たことがあります。私が25歳の時、生まれて初めて有楽町の交通会館に、パスポートの申請に行った時、たまたま健さんがそこにおられました。上下のジーンズに黒い帽子、ひとこと、そのかっこよさに驚きました。雑踏の中で異彩を放っていました。

健さんは、撮影現場では座らないとの伝説を知りましたが、立ち姿があんなにかっこいい人は、後にも先にも見たことがありません。

私は女性ではないのでわからないのですが、男は(私は)どこかかっこつけるしか、ないという想いの中を、生きているような気がしています。

どこまで立っている姿が、しゃんとしているか、可能ならそのいくばくかを、健さんを見習って畑であれ、どこであれ立っていたいものだと、今あらためておもいます。

【あなたにほめられたくて】という健さんの本が書棚にあります。初版本、今となっては宝の本です。

昭和の大スター、夢を売る仕事に殉じた、高倉健さんのあの日の立ち姿は、これからはますます私の中で、生き続けるような気がします。

健さんの声が、いまだ頭の中を、駆け巡ります。これから畑にゆきます。可能な限り、男は立ち続けるしかない、とおもいます。

2014-11-17

時折、畑で王兵(ワンビン)監督のフィルムのシーンが回ります。

先日、王兵(ワンビン)監督の、三姉妹~雲南の子供、を見たことを書きました。以来、畑で働いていると、時折、フィルムのシーンシーンが脳裡の片隅で蘇ります。一度しか見ていなくても(一度で十分という気もします)です。(すぐれたフィルムはシーンが心に刻まれます)

ひたすら、理屈ではなく生きて食ってゆくために、かくも過酷な労働を、子供たちが支え合って、現代中国の、広い雲南地方の高度3200メートルの小さな村で生きているという事実、現実が、62歳の今を生きる私の暮らしを、みつめなおす、力を持つ、ということ。

手元にあるパンフレットの中に書かれている監督の言葉を、今初めてじっくりと読んでブログを書き始めました。

監督は、初めてこの村で暮らす、生きる子供たちが育ってきた信じがたいほどの困難な状況に胸を打たれ、貧しい農村の、この子供たちの現実を証言したいと思った、とあります。(きっと、ワンビン監督の中に、琴線の響き合う灯がともったのだと思います)

フィルムを見たもの(私が見た日は、20名くらいの方がみていたと思います)として、私自身普段の暮らしの中で、(流されながらも)ふと考えるのです。

利便性のモノにあふれた現代人の一人としての私の暮らしは、はたして心を豊かにするのかについては、はなはだ懐疑的であるという認識です。

経済発展という、美辞麗句や、消費活動に火をつける、あらゆるCM,コピーの裏で、かくも貧しき暮らしを強いられている、幼い子供たちの現実と、年収何億円という、言葉にいならないくらいの、ますますひどくなる経済格差は、どういった構造からなされるのかということについて、考える力(想像力)のない大人にはなりたくないものです。

労働の尊さとか、人間の尊厳とか、あらゆる美辞麗句が、新聞や多くのメディアで報じられます。あるいは政治家の言葉で。言葉に血が通わない、浮いた痩せた言葉が主にTVから垂れ流しのように氾濫する時代(今も変わらない)の渦中をこの40年生きてきた実感が、私にはあります。

その功罪を含めて、画面を眺め続けてているうちに、肉体(精神の血が流れるような企画にこそ、出会いたい)を見失ったのではないかという、哀しき思い、に至ります。

私がこの歳になって、畑で土(地面)に惹かれるのは、その失いつつある感覚を、ほんの少しでも取り戻したいという情動かも知れません。逆説ですが、雲南のワンビン監督の映像画面からは、あらゆる音(主に風)や、ジャガイモの土の匂い、血の通った寒さ、真実の思いやりが、ふつふつと伝わってきました。

じっと、漏れる光の中、土間にしゃがんでいる少女、かごいっぱい収穫した松の実を、背中にしょい大地をゆく少女、妹たちの虱を潰してやる少女、たたずんでいる風の中の少女は、次元の違う崇高な世界にぽっかりと浮かんでいるかのようでした。

私の記憶の中の、小さいころの貧しさの比ではありません、衣食足りて礼節を知る、と言いますが、そうはすんなりとゆかないところが人間の悲しい性、とも言えるかもしれません。

監督は、人間性とは何でしょうと、フィルムの向こう側から、問いを投げかけています。その答えは、フィルムを見た一人ひとりが考えるしかないと思います。

私も、畑で体を動かしながら、元気な間は私自身の哀しい性についても考え続けたいと思います。

ところで、王兵監督のプロフィールを読んでいたら、今日11月7日が(1967年)お誕生日とあります、街で生まれたのですが、飢饉のため幼少期を農村で過ごしたとも。14歳で父親をなくされ、父が働いていた職場で、14歳から24歳まで働き、魯迅美術学院写真学科に入ります。(後は省略)

こんな監督の略歴だからこそ、このようなフィルムが撮れたのだと【奇跡的な出会いというしかない】思います。




2014-11-16

ふと気づけえば、ブログを書き始めて5年が経ちました、そして思う休日の朝。

数ではなく、読んでくださる方がいるからこその五十鈴川だより、なんですがドレスデンへの旅しかり、きわめて個人的な思い入れの強い(いささかナルススティックなほどに)我がブログ、この歳になると、日常記録的な気配が濃厚な塩梅で、流れてゆきつつあるといった趣です。

気がつくと、とうに5年の歳月が、毎日ではないにもせよ過ぎています。以前は何か、毎日のように書くのが、苦しいなかにも愉しかったのですが、今は今のペースで書くのが、流れてゆくのが自分にはいい感じです。

無理せず、しかし可能な限り、日々の暮らしの中でのままならない、自分自身と向かい合う時間を持ちつつ、だれにも邪魔されず、書きつづってゆく朝のひとときを大切にしてゆきたいとの、思いです。

何度も書いているかとは思うのですが、農の仕事を始めてから自分で言うのもなんですが、いい意味で、限りなく煩悩が少なくなり、オーバーーではなく、世の中に出てから初めてと言っていいくらいに、気持ちがおだやかに生活、働いています。

これは、長女が結婚し次女も大学4年になり、限りなく親としての役目が減ってきているそのことも、おそらくは起因しているのだとは思いますが、いまはまだそう自己分析せず、眼の前の仕事や、やりたいことを、しっかりとやってゆきたいと、考える私です。

これまでもそうでしたが、ある程度無心にやり続けていると、次なる展開がおのずと開けてきたような気のする我がこれまでの人生、今でいうところのセレンディピティが起こったというしかないような。

その都度、なにがしかの転機や、節目を経験するたびに、また一から始めるしかないというような事を繰り返しながら、なんとか身過ぎ良すぎの果ての、今の暮らし。

夢が原退職後は、静かに隠居暮らしにあこがれていたりしたのですが、津波災害で遠野から大槌町にゆき、瓦礫の撤去作業をわずか2日体験してから、やはり何かが自分の中でかすかに変化し続けているのだ、という自覚があります。

ささやかに、自分も原点に還ろうと思ったのです。可能な限りのあらゆるリセットを自分に課すということを。還暦は遠野で迎えましたから、来年の2月でまる3年になります。早いというか、ついこの間という気もいたします。

冬は、限りなく精神的に冬眠したくなる私です。内性的な時間が持ちたくなるというのか、季節に添い寝するかのように。雪がしんしんと降りつもる遠野に、丸3年ぶりに出かけようかといま考えています。

共に2日間、瓦礫の撤去をした、今は故郷の山形に棲むKさんから、勤務地が変わったというお葉書をいただきました。わずかの出逢いの中で育まれた、kさんとの無私の関係性。無性にKさんにも会いたくなっている自分がいます。

あれから3年、大槌や箱崎の瓦礫の現場がどのように変化しているのか見たくなりました。元気で行ける間は、繰り返しあの現場をkさんとともに、訪れてみたいと思います。

2014-11-14

ネギを借りながら、できるだけ体に負担がこないように身体を動かす。

冬の本格的な訪れを告げるかのような今朝です。いつもより早く起きました。陽がだんだんと短くなり、お星様が瞬いていたり、先日はフルムーンが西の空に瞬いていて、じっくりと余裕を持って眺められる暮らしが気に入っている、私ライフです。

冬の朝は、歌なんかにもいろいろと書かれていたりしますから、やはり人の気持ちの中で、いろんな切り変わりの感情や、小さき思い出なんかが、私の場合にも蘇ったりして、私は嫌いではありません。

というよりも、日々是好日を生きることの中から、何かを感じつつ生きてゆきたい、生きてゆくのだという、ささやかな私の生き方に由来するのかもしれません。まさにお天気は人生そのものという気がいたします。

どんなときにも人間は、あらゆる瞬間、機会に自分自身が試されているのかもしれない、のだなあ、なんてことを私は思います。要は気の持ち方、心懸け次第で、状況はいかようにも転がってゆくということを感じるのです。

寒さを感じる中で、今生きている一日の始まりの中で、今日はどのように過ごそうかなんてちょっとの事を、トマトスープ(妻の作り置きです)を飲みながら考えるなんてことも、今を生きておればこその、ささやかな悦びと私は考えます。

仕事から帰ってからの、昼食を含めた大切な時間の使い方の、あれやこれやを考えるのも、一興です。

今仕事場では、朝一番ネギを手で刈ることで始まるのですが、かがむ、しゃがむ、座る、片足を建てる、膝だけで立つ、横座り、時折正座、つまり身体にかなりの負担を強いられますので、私は身体に負担がかからず、なるべく根気よく無駄なく作業が続けられるように、それらの動きを循環して続けています。

おかげさまで、この作業を苦も無くできる現在の自分をありがたく感じて日々を過ごしています。働く中での動きを、できるだけトレーニング的な動きに転化しているのです。だから、農の仕事は私にはとてもありがたいのです。

こんなにもストレスなく有酸素運動が、この歳でできる職場なんてそうはありません。ひと仕事していると、日が昇ってきます。お天気のいい日は、日の出をN氏とともにしばし眺めます。

日はまた昇り、日はまた沈む、畑で望める初冬の冬の日ノ出は格別です。さて今朝はどのような太陽が望めるのか、今から楽しみです

2014-11-10

11月10日の朝ブログ。

昨日のブログで書いたように、途中お昼ご飯を挟んで、母と妻と3人で午後3時までかかって、吊るし柿をつくった。全部で20列も吊るすことができた。今までで最も多い。

外は雨の降る中、家の中での3人作業はたのしかった。きっと、思いでの柿むき作業、母の老いた指の動きが、わたしの脳裏に刻まれた。

実は、その前の土曜日の夕方、仕事を終えてから、これまた3人で玉ねぎの苗を買いにゆき、サンナンの畑に玉ねぎを植えにもいったので、やることは異なるが、ずっと3人でこの週末は過ごしたことになる。

夕食も共にしたので、結局母は泊まることになり今上でやすんでいる。昨日は雨で肌寒かったので、初めて本格的に終日薪ストーブをたいた。温かい部屋での作業は言うことなし。

ところで薪ストーブは、薪の調達が悩みだったのだが、これまた母の家の近所の造園業者の方が、たくさんの不要の樹木をくださることになり、私は雨が上がったので、サンナンの軽トラックを借りて取りに行ってきた。

身体が動き、気が働く間は間は無理のない範囲で、つとめて身体を動かす、持ったり運んだりという、基本的な動きが自然なトレーニングになる。この樹木を切ってわって積んでと、薪作りの作業は続くのだが、積み上げてゆくのも愉しい。

年末、怜君が帰ってきたら共に薪作りをするのが今からたのしみだ。母の娘である妻を見ていると、これまた実によく動く。緩やかなのだが、何かしている、とくに最近は小さいころ娘たちが着ていた衣服の整理なんかも時間を見つけてやっている。

ガーデニングはもちろんのことだ、感心する。母がよく言う、健康だからこその動けるありがたさ、なのだと。おおげさだが、ささやかに生活の美というものを見つけてゆく暮らしが、ことのほか最近私は楽しい。感じて動く、ささやかライフかな。

やがてできなくなったときに、その事実をしっかりと受け入れられるように、やれる今をせいいっぱい感じて生きたいと、私は願っている。いろんなことを知る楽しみ、穏やかな時間が流れる今、言うことなし。

新聞ひとつ、きちんと読む時間があれば、世界には素晴らしき人の、何と多いことかと驚くばかりだ。驚き、自分の暮らしに活かす事ができれば、うすい皮がかすかに、かすかにむけてゆくように新しき何かが、自分に紡げるかもしれない。

よしんば、紡げなくともよし、ただ転がるように流れ、よどまないようにする、そのことを心懸ける。今日は、これからUさんとのレッスンに備え、シェイクスピアの【十二夜】の三幕を読みます。夜が明けました。

2014-11-09

晩秋、吊るし柿を吊るす、そして思う。

雨の日曜日の休日である。起きてからすでに数時間たっている。眼の前には先週のお休みの日につるした干し柿が見える。ほぼ一週間でかなり水分が抜け色が変化している。とあるところから思いもかけずいただいた渋柿。

昨年は思いかなわず、つるすことはできなかったのだが、今年は十分な量が吊るせそうである。夢が原で働いていたときに、よく吊るし柿をむいたので、そのせいか、すっかり私はその晩秋の日本の家々にかってはつるされていたであろう、風物詩的風情に惹かれてしまった。

元気な間は可能な限り、吊るし柿を趣味としたいという願いが、還暦を過ぎいよいよもって深まってきた。バリバリ働いていたときには、そんな余裕はしたくてもなかなか持てなかったが、ようやくにして、そのような精神的余裕の人生時間が訪れたのだから嬉しいのだ。

抜けるような秋の空のもと、むいたばかりの柿がつるされた時のう美しさはなんとも言えない。手間暇がかかるのだが、その手間をかけるというところに、いわば妙味があるのだ。古人達は飽きず倦まず、継続していたのに違いない。

そのような地道な暮らしを慈しみながら、日々の暮らしをささやかに彩ることが、にわかに最近愉しくなってきた。年末、友人知人にささやかに配布するのが今から楽しみである。

さて、吊るし柿は母と妻との3人での共同作業で続けている。もちろん先生は母であるが、この事に関してはしっかりと我々が受け継いだので、怜君や、娘たちにも伝えたく思う。実は今日もこれから午前中母が来てから、吊るし柿第二弾をつくる予定なのだ。

幸い母がとても元気なので、3人での柿むき作業はとても楽しい。今やれる、眼の前のことを、3人できっちりと楽しむ時間を限りなく大切にしたいのだ。妻は週末のほとんどの時間を母と過ごしていて、私も時折参加させてもらうのだが、母は週末のお昼ご飯や、夕飯を我々とともにするのをとても楽しみにしている。

ちょっとした、散歩や買い物や、ガーデニング、あれやこれ他を共にすることがとても楽しく嬉しそうなのである。いまだ自転車でやってきて、時折は泊まるのだが、一人で気丈夫に生きている姿を見るにつけ、自分もかくありたく今から見倣っておこうと思う。

何をするにつけても、いきなりはできないのだから、ゆっくりゆっくりと自問自答しながら歩むしかない。穏やかな雨の静かな朝は、思索するのにふさわしい。

あれやこれや、生きていると様々な瑣事をこなさねばならないが、時折は無為に何もしないひとときがことのほか重要である。それでなくても現代は、途方方もなく神経消耗の過酷な時代なのだから。

ゆっくり書いて、ゆっくり読んで、ゆっくリズムでの晩年ライフは、私の場合、まいまいカタツムリのように進むのが、事のほかに楽しめそうな気配なのである。12月に入ったら、在来線でまたK氏に会いに上京しようかと考えたりしてる、本を持って。

ささやかにK氏の退職祝いもしたいのだ。ともあれ、無心でバカなことを言い合いながら、柿をむいていると、不思議といろんなアイデアが浮かぶ。脳が完全リラックス、シナプスが紡がれるのではないかと、言う気がする。

読むことも、書くことも、あらゆることがリラックスしていないと、シナプスは活性化しないようなきが私はする。完全にお休みした脳は、また緩やかに動き始める。だから熟睡した朝にしか、私は文章が書けない。

2014-11-03

岡山映画祭で王兵(ワンビン)監督作品・三姉妹~雲南の子を見ました。

昨夜・岡山映画祭で(10月31日から11月24日まで普段映画館には見ることのできない作品がラインアップされています)王兵監督作品・三姉妹~雲南の子を見ることができました。

ちょっと衝撃的な作品で、いまはまだ見たばかりで、私のつたなき一文では、正直なにも書く気にはならないのですが【五十鈴川だより】を読まれている方には、【6日(木)午後一時】から、天神山文化プラザでもう一度上映されますので、お時間がある方は、是非見ていただきたく思います。

夢が原で働いていたときには、土日、祭日はほとんど働いていたために、岡山映画祭、気にはしていたのですが、ほとんど見ることがかないませんでしたが、今年からは日曜日がお休みなので、少しゆけます。

これは私にとってとてもうれしいことです。岡山映画祭実行委員会のO氏は、私にとってとても信頼できる仕事をされている方です。このような作品を遠くの都市までゆかずとも、岡山で見ることができるのは、ありがたいです。

私も数十年、ささやかに企画の仕事を、無手勝流でやってきた経験から、ほんの少しその大変さが理解できる(ような)気がします。

O氏も語っていますが、映画は観客が見ることによって完成すると。足を運ぶ観客が多くなる、そのうちの一人になるくらいのことしかできないのですが、そのことは肝要なことであると、私は思います。

これから、超高齢化社会に突入しますが、高齢者になってゆく私にとって、これからは、昨夜見たような作品に出会うべく、信頼できる友人知人たちが推薦するフィルムには、可能な限り足を運びたく、その思いを新たにしました。

若いころすぐれた映画(に止まらず)をみたからこそ、今までなんとか生きられたとさえ思える私にとっては、インプットとアウトプットのバランス良く、生きて生活してゆくために欠かせない精神のビタミンフィルムが必要です。

昨夜、見たようなフィルムに出会うと、小さき頃の個人的原風景の記憶が盛んに刺激されて、言葉がなくなりました。そして、現在のおのれの姿があぶり出されてきたのです。

王兵(ワンビン)監督・私よりも15歳若い、1967年生まれの名前は私の脳裏にびしっと刻まれました。

2014-11-02

休日は、サンナンのネギの行商を、との思い深まる秋。

頻度的に、以前のようにはブログを書かなくなってから、なにやら、よりゆったりと五十鈴川だよりは、流れているという感じです。

ともあれ、毎日ではありませんが、書き始めてから5年の歳月が流れ、五十鈴川だよりになってからも、自分なりの右往左往ぶりが、お恥ずかしながら、映っているように書いている私には感じられます。

人生の締め切りを、かなり意識するようになってから、よりシンプルに自分の日常ライフに重きを置いて、身近なきわめて個人的ライフを記しておきたいという風な感じに微妙に変化しながら、流れつつある、なあという認識です。

これは、いい意味で年を重ねている妙とも言えますし、身体が老いてきつつある証左である、という認識も持っています。

途中、夢が原の仕事を辞した時点で一区切りとも考えましたが、怜君があっという間に五十鈴川だよりを、立ち上げてくれたおかげで、のらりくらり流れています。川は蛇行しながら流れてゆきます。

私自身毛細血管のように、小さき流れを可能な限り、ままよ、あるがままにという感じでこの先も流れてゆければ、との思いです。

さて、ドレスデンの旅を書いている間も、平日は畑で働き、週二回シェイクスピアを読むといった暮らしを、継続しています。自分で言うのもなんですが、充実した日々があっという間にながれてゆきます。

おかげさまで、書きたい出来事、思いつくよしなし事には事欠きません。生命の連鎖は一瞬のお休みもなく最後まで続いてゆきます。おりおりの日々を深く意識すると、生きてゆくことの愉しき発見は、枚挙にいとまがないほどに、見つけられるということなのです。

できるだけ、余分な情報は斜めで見ながら、身体を素通りさせ(世の中のいちいちに、神経過敏になっていたら、身が持ちません)、かといって最低のアンテナは立てながら、穏やかで静かな暮らしを心がけています。

ところで、サンナンの農部門、相撲でいえば得俵にかかった状態が続いています。限られたメンバーで背水の陣で働いています。なるようにしかならないというのは、あるのですが、A専務のもと、一丸となってこの難局を乗り切りたく、一働く人間として動いています、というに今はとどめます。

私が働き始めて一年、開墾から始めた畑で収穫した、完全無農薬のネギの出荷が10月中旬から始まっています。サンナンのホームページもできましたので、ご覧になってください。

日本の農薬漬け(世界の)農業の実態を知るにつけ、あまりのおぞましさにゾッとします。このような命を無視した、経済優先農業は、きっと将来禍根を残すと確信します。大上段に憂えるのではなく、一人ひとり気づいたときから、身の回りの土をいじり、安全な食物をつくりネットワークしてゆかないと、と小生にわかに思います。

まず自分から、アクションを起こし、生活を見直すしかありません。幸い私の場合、母がいるので今のうちにいろんなことを、教わっておきたく思います。一番肝要なことは、子育ても同じですが、作物に対する愛情だと思います。

サンナンのネギ、いまは取次に卸していますが、なんとか直販売もしたいものです。もし必要な方いらしたら、ぜひご一報ください。何としても、サンナンの農を継続したく、微力を尽くします。

休日、ネギの行商でもしたいくらいです。還暦を過ぎ小生の時間は、過去にさかのぼること、はなはだしき感無きにしも非ずですが、小生の記憶の原風景は、行商のおじさんおばさんたちなのですから、あの日に還りたい私としては、なんとか身体が元気なうちにと、思うのです。