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2015-01-28

寒空に・一声発し・いまを生く

先週の土曜日は妻の誕生日だった。ささやかに、家族全員で祝えたことが一番よかった。下の娘が料理人になり、すべてのお料理をつくってくれた。妻はもちろんだが母がことのほか嬉しそうだった。

誕生日には、やはり不思議と出会った日のことをいまだ私は鮮明に思い出す、私が34歳、妻は26歳だった。

あれから、29年の歳月が流れたが、アッという間という気がしている。下の娘も来年は社会人になるため、何とか親としての最低限の務めを終えようとしている今日この頃の日々というわけだ。

来月私は63歳になり、来年はいよいよ、結婚30周年ということになる。漸くにして私も人並みに夫婦になってきたのだなあ、という感慨を持てるようになってきた、気がしている。

まったく異なる環境で育ってきたもの同士が、一つ屋根の下で暮らすということは、やはりなかなかに困難が伴うものである。

いまはまだまだ人生修業中の身、多くを語る気にはなれないが、この人との出会いが私に与えた大いなる幻影にも時折感じる現実は、いかんともしがたく私の(大げさだが)運命を変えてしまったことは事実である。

さて、話を変える。これまでの人生で私はたびたびの転機というか逆境を生きて生きたが、冷静に考えると、いまもまた転機を迎えているのではないかといえなくもない。

サンナンの農の灯は 、会社としては消えゆく形だが、A専務をはじめ何人かで独立して、農を継続してやることになるだろから、何とか私としてもここは踏んばらねばと考えている。

苦しみと悩みはまったく異なる。悩みはあれど、苦しみは今のところ私にはない。どちらかといえば、希望のほうが私には大きいので、限りある人生時間を農にかけてみたいのである。

サンナンで働き始めてからの私の姿を(これまでもだが)一番身近に見てくれている家族が、何よりも応援してくれているのが私には一番ありがたく勇気づけられる。

作物を作り、流通業者を介さず個人レベルで販売してゆくのは至難のことであることは承知しているが、お手上げになる、万策尽きるまではあれやこれや、やれることはなりふり構わずやってみようという心境である。

自分が初めて企画したイベントのポスターをあちらこちらに怖いものなし、配布していたころを思い出す。自分が企画したものには、ことのほかの愛着が起きるが、自分が育てたネギを売ることも、本質的には実に似ているような気がしている。

見ず知らずのかたのお店に、ネギを買ってほしいと 頼むのははなはだ勇気がいったが、考えてみると、商いとしては原点と言ってもいいくらいの行為なのだからそんなに臆することもないのだという、いい意味での、開き直りというか、世の中に初めて出たときのような原点帰り的な感覚が最近蘇える。老いてはいても、青春のしっぽが残っている。

そして、こんなことも時間的にいつまでもは出来ないのだから、悔いなくやったらいいのではという家族の応援あればこそである。

都会で、どこの誰が作ったのかもわからない野菜を食べ続けてきた私である。A専務も私も無農薬の安全な野菜を作り、顔の見える方たちに廉価で届けたいという、単純な思いしかないのだ。(そのことが現在の構造ではこんなにも大変とは、でもだからこそやりたいのだ)

とびとびに時間を見つけて、午前中や夕方のほんの隙間の時間、始めてまだ10日にも満たない直接商いを、まったく知らない方にやってみて思うのは、当たり前だが厳しいという現実だ。

だが、厳しい現実は承知で農を始めたのだし、はなはだ能天気な私はそのことを楽しめている。だから、続けられるのだ。 売れた時の喜びは私にしかわからない、面白い。商いの不思議さ。





それを書くと大部になるので省くが、ささやかではあれ、お金を稼ぐということがいかに大変かということを若い時にいくばくかは体験してきているので過去の経験が私を大いに助けてくれる。

有難いことに私には余裕がある(経済的な意味ではありません)だから、 動き回れる。見知らぬ他者は、いまだ私を鍛えてくれる。書を捨てよ人に会え、ということだと(時間は限られている)感じる最近だ。(読む本が少し変わってきました)

ギリギリのところで踏んばると、気持ちよく心身が活性化するのがよく自覚(わか)る。犬も歩けばと、ちりも積もれば的な人生を歩んできた私なので、このままゆきたい。

ぎりぎりを愉しむ感覚と体をまめに動かすこと、よく笑うことが、ボケない一番の肝心なところではないかという気が最近する。

認知能力を持続するためには、1日1日を昔の人のように体を動かすしかないのではないかというのが、今のところの私の結論だ。母は新聞しか読まないが、私より豊かに生きている、負ける。

不完全な人間という器、最後は誰かに迷惑をかける。 だが可能な限り、自分という器を母のように動かしたいものである。


2015-01-23

商いは、あらためて私に人間の面白さ摩訶不思議さを教えてくれる。

長々とブログを書いたり,長々と話をしたりと、つまりは堂々まわりしているかのような不毛な感覚に陥りがちな時間は、私は苦痛である。

自分でブログをかきながら矛盾するがそうなのである。書いていながら、でも書かずにはいられない、血が騒ぐぜったい矛盾である。

この一週間の中で、私が最も感動し心が揺り動かされたことは、まったく見知らぬ、とあるお店(ラーメン屋さん)の方が、私たちが育てたネギを買ってくださっ、たという事実である。

やはり扉を開けるまでは、かなりの決断と勇気がいったのだが、先日も書いたが ネギが私を後押ししてくれた気がする。

友人や知人ではなく、(商いに甘えは許されない)まったく見知らぬかたである。向こうも私のことは全く知らない、まさしくスリリングである。ささやかな未知の、私の生活空間内に住んでられる方々たちである。

ちょっと落ち着いて考察する時間なき、余裕なき朝ブログでは伝えきれないのだが、書かずにはいられない。

あらためて思う、商いとはなにか。面で伝え合う、伝授しあう共生感覚、数百円のやり取り、育てた愛着のあるネギを売るという、生まれて初めての行為。

自信のある作物を淡々と事実を伝えて売るだけのことなのだが、買ってくださる方が美味しいと感じたら、当たり前だが買ってくださるという事実である。

商いは厳しい。商品に自信がなければとてもではないが売る自信はない。だが我が家の全員がサンナンのネギは美味しいという。私も本当においしいと思う。せっかく育てたネギを私は心から売りたいのだ。

何といっても、雑草とともに育った完全無農薬のネギを、私は縁のある方々に食べてほしいと思う。
そして、謙虚に農に取り組んでゆきたい。ほかの根菜類も植えて育てて、顔の見える方々に直接販売する。

そのためには、勇気をもっていまから消費者を少しずつ今から開拓しないといけないのではないかと、私は 考え始めたのである。

休日一時間でも二時間でもいいから気分転換もかねてアクションを起こす。自分のなかの閉塞感を、まずは打ち破ることが大切だ。

私は男性なので、開墾したり開拓したりすることが、ことのほか好きなのだということを、改めて自分の中に感じ始めている。

イベントを企画するのも、自分の中の閉塞感を打ち破りたいという情動があるからだともうが、今は大地と向かい合い、育てた野菜を売りに行くことが、現時点で一番誰にも迷惑をかけない、新たな喜びにつながる可能性を秘めているのではないかという気がし始めている。

人間とは実に面白い、そのことを改めて商いは教えてくれそうである。元気なネギは私を元気にする。



2015-01-21

未知とは無知そのものとの出会いだ。

起きていつものようにまず藤原新也さんんのWM、キャットウォークを読む。やはり今回のイスラム国による、日本人人質に関するコメントが書かれていた。

私は20代のころから藤原さんの本にかなりの影響を受けてきたし、この年になっても頼りになる兄貴的な感じで、多面的にいろいろと学ばせてもらっている。

軽佻浮薄を自認している私である。物事のとらえ方が一面的な側からしか眺められないという 致命的な弱点をいつも感じている。

だから、私はあまり自分で自分を信じてはいない。とはいっても、なにがしかの立脚点のような考えを持っていないと、人は生きられない。だからオーバーではなく自分を疑いながらも信じてゆくしかないのでは、といった思いにいつもとらわれるのである。

いささか矛盾するが、軽やかに学んでゆく謙虚さを可能な限り、独習してゆきたいと未だ思うのだ。

私のように自分の内から湧き上がる、言葉にならない内面からの感覚を頼りに よたよたと歩んできたものにとっては、謙虚に自分と向かい合うしか、私にはほかに方法がないのである。

未知とは無知との出会いである。日本人である私は、イスラムの世界のことに関して、常識的にいかほどのことを知ってるだろうか。

私のブログごときでは何も申し上げることはないのだが、世界が一見複雑化すればするほど、何か浮き足立ってゆきそうな恐ろしき気配がかすかに忍び込む足音を感じる。

一面的な報道(情報操作された)のみをうのみにするのは、はなはだ危険だと私個人は感じる。全世界の多くの大多数の人々は、報道やニュースには程遠いところで、低賃金で日々をしのいで生きてゆくことにおそらく必死なはずである。

 ギリギリのところで、必死に生きている画面に映らない無辜の民の人々のことを、私は想像する。どんな大義名分があれ、狡猾を絵にかいたような両世界の、(不毛な両者の言い分)果てなき終わりなき、戦争には悪寒が走る。

戦後70年、私も平和ボケしている。畑で静かに、地球の上にポツンと存在していられる幸福をかみしめる。幸福を分かち合いたいものだが、果たして。

2015-01-20

ラーメン屋さんから注文がきました。

またまた私にしかたわからない嬉しい出来事があった。私がPRに行った、知人の紹介で知ったラーメン屋さんから、昨日いきなり私のケータイにネギの 注文が入ったのだ。

まだ私がPRに動き出してから、1週間も経っていない。誠心誠意、PRするしかないのだが、私には自信のネギがあるので、堂々とPRできる。私は昨日も書いたが手ごたえを感じている。

ネギのというか、私が農を仲間と始めた本格的なPRは、週に2日ほどの休日を中心に随時してゆくつもりだが、基本的には週に5日程度は必ず畑にゆくのはこれまでと変わらない。

がしかしこれからは、会社の縛りがないので、ゆくゆくはすべて責任をもっての我々の自由意思での農業が可能になる。だから、何をするにしても、仲間とは相談するが基本的に自分のやりたいように時間を使えることになる。

数人の仲間での出発になるが、とにもかくにも1年を基本的にチシャトウをメインに植えて 、そのほかに根菜類なども植えながら、何とか自活してゆける農を目指そうと考えている。

なにごともやってみないことには分からないことは少しはわかってきた。アクションを起こせばなにがしかの、リアクションがかえってくる。

良きリアクションならば、そこにこそ可能性があるということではないか。 ラーメンやさんの注文は私にはおおきな希望と勇気を与えてくれる。

二の足を踏む前に、とにもかくにもくれぐれも冷静に、しかし 熱く行動を起こすしかない。まだまだ体が動くのだから動けるうちに動く、動かなくなったら潔くあきらめる、きわめてシンプル。

頭で考えるのではなく、体全部で考え、何よりも楽しく一日を 過ごす。楽しくPRし、楽しく働き、疲れたら、よく休む。無理はしない

昼は畑、夜は頭を切り替え、行ったり来たりの往復ライフが、私にはまことに似つかわしい。時間ををどのように過ごそうが自由なので、発想が次々に展開する。

動いていると頭もさえてくる。人が人を紹介してくれる。つくずく有難いことである。小さき川であれ、流れるようにしか水は流れない。煮詰まっても、じっとあれこれ思考力を蓄えていると不思議とまた体が発想する。

年のことなどはあまり考えず、自分の体の思うがままに、この1年は動き回るつもりでいる。インターネットを眺めていても私の場合はあまり効果がない 。私の血はささやかに流れている。

直接体感、体験これに限る。不自由な体を引きずり己自身の体と向かい合うしかないと私は今考えている。


 

2015-01-19

2015年1月18日(日)PR兼、行商初日始まる。

昨日のお休みは自分の中できわめて記憶に残る一日となった。

友人や知人ではなく、純粋な意味でまったく知らない人たちに、ネギを買ってもらうためのPRと販売を思い切って始めたのだ。

時間は午後2時から4時半まで。結果は、5束売れました。やはり犬も歩けば、動き回ることしかないということである。

完全無農薬で、自分でいうのもいささか気恥ずかしいが、一生懸命育てたネギである。このまま無駄にしてはなんともはや、悔いが残る。

何とか、現代的な経営からは遠く離れた、商いの原点に返り、買ってくださる方の顔が見えるような 直販売を見つけてゆける可能性を、手ごたえをかすかに感じた初日だった。

友人知人に甘えるのではなく、畑を開墾するように、消費者を開拓する、顔を覚えていただく。この間も書いたが、私達が育てたネギが私にエネルギーをくれるのだ。

私は決めた、休日の数時間は行商をすることに。還暦を過ぎて生き方を原点帰りしたのだから、何も私には怖いものはない。車が動き、ガソリン代があればルンルンである。

とはいっても、とりあえずの間は数時間程度の行商しかしないつもりである。会社としての農はしばし休止状態になるが、専務をはじめ数人の仲間での農は継続してゆくので、充実した忙しさはこれまでと全く変わらない。

かえってこれからは、会社にはいい意味で拘束されないので、考え方によっては自助努力で新たな可能性が出てきたともいえる。とにかく可能性にかけたい。

 もう一つ、私が勇気を得ているのは、母が元気に応援してくれることである。昨日はお休みの妻も手伝ってくれたのだが、ネギは皮をむいてきれいに束ねないといけない、それに手間がかかるのである。

有難いことだ、母が嬉々としてその仕事を私とともにこなしてくれるのである。そして私を応援してくれる、何ともはやうれしいではないか。

人の何事かの役に立つということが,母にはとてもうれしいのだ。たわいのないことを話しながらの手作業時間は楽しい。

畑には、お年寄りを活性化させる何かがある。話は変わる。ネギの行商をしながら、企画したイベントのポスターの配布をしていたころの自分を思い出した。

物は異なるが相変わらず自分は 似たようなことをやっているのだという思いにとらわれた。ともあれ、なにかが壊れ新しい一歩が始まった。

昼の生活と、夜の生活とを自由に行き来し、日々ぐっすりと眠りたい。

2015-01-18

厳冬期、男二人でひたすら十二夜を声に出して読む夜。

遊声塾は毎週水曜日の夜が定期だが、昨日の夜は番外でたった二人、Y氏とともに、十二夜を読んだ。

今年二回目のレッスン。まだ日にちをはっきりとは決めてはいないが、発表会を3月28日 か4月4日の土曜日の午後のどちらかにする。

緩やかに2幕から読み始め、3幕4幕と進み結局5幕まで全部よんだ。すべての登場人物を役を決めずに、ただただ交互に声をだし読んでゆくのである、輪読。

目の前にある、セリフをひたすら直感的に声に出してゆく。それにしても人間の体は不思議である。そのことが私には経験上よくわかっているので、ひたすら集中力をきらさないように読み進んでゆく。

私よりも年上のY氏との静かな二人きりの時間がただただ流れてゆく。徐々に体に灯がともり冷えた体が温まり、無心トランス状態になり、シェイクスピア世界に導かれてゆく。

あれよあれよと時は流れレッスンは終わる。良き時間を過ごすその気持ちよさは 、やっている二人にしかわかりえない。もっと仲間が増えれば、きっと楽しさは何倍にも膨らむはずだ、そのことが確信できる。

そとは厳冬期の夜だが、我々のハートには灯がともっている。晩年を迎えてともに恥をかきあいながら の仲間は何物にも代えがたい。

遊声塾設立してようやく丸2年になる。何とはなしに自分の中に自信のような手ごたえを感じ始めている。だから簡単な塾生募集のチラシを作った。

これからの人生時間を楽しく遊べる仲間が何としてもますますほしくなってきたのである。アグリカルチャーと声出しカルチャーで、かなり遊べそうな気がしている。

必死で遊ぶ、それこそが今しばらく私が求めるものである。厳しき時代の渦中をせめて精神的には悠々と泳ぐ、その心意気があるうちは、ひたすら自分の中に可能性を探りたい。

自分の体をY氏とのセッションで鍛える。鍛えあう仲間の存在が,遊声塾設立の目的だ。 鍛えるための、厳しくも楽しいテキストはシェイクスピアを置いて他にはない。

2015-01-16

サンナンの農の灯を消さない、そのことを静かに考える。

何やらこの数年自分が静かに暮らしている間に、ヘイトスピーチをはじめ、閉塞感ここに極まる、何とも表現しがたい、余裕なき感情の発露が主に都市部で他者に向かっている、そのような不穏な時代がひたひたと迫っているかのようにメディアが伝えている。

ただ確かに、人間 の本質が私ごときが思う常識とは、かなりずれ始めていることはいかんともしがたく感受している。が、ずれを楽しむくらいの余裕がないと、やはりまずい。

いたずらに付和雷同することを私自身はやんわりと恐れる。臆面もなく、よくもまあ、実体のない概念に向かって、おぞましき言葉が口をついて出てくるものだとただ個人的には呆れる。

発言には、可能な限り冷静で、慎重でありたいと自戒する。言葉は恐ろしい、使い方一つで 、いたずらに摩擦が生じる。まして攻撃的な発言や言動には。

ささやかな、わがブログであれ、少しは冷静に言葉を選んでいるつもりである。何度も書いているが責任世代は,自律(立)して個人個人の頭で考えてゆく持続力を身につけてゆく、訓練のようなことを、意識的にやらないと、何やらワーッと見えない何者かにとかっさらわれてゆく、恐ろしさ。

そういう意味では、私と同世代の人たちの魅力の欠如(私にとってです)はいかんともしがたく(ごめんなさい自分のことは棚においといて) 進んでいるように思えてならない。話に夢があまりにも少なすぎる、と感じてしまう。

一言でいえば思考が老けすぎている。私の頭髪のようになんとも寂しき感、が否めない。

話を変える 。実はサンナンの農の部門、よくもまあ、この一年をしのいできたものだと、働かせていただいている私自身が率直に驚いている。くどくどとは書かない。

私自身こんなに楽しく働いたのは初めてではないかと思えるくらいに今も働かせていただいているのだが 、現代の経営という意味ではとうに終わっていても不思議ではない。

A専務の悩める健全な人力、目指す理念あればこそしのいできた。私財をなげうってまで,雑草まみれの土地で安全な野菜を作り続けて、いまも苦闘中だが、専務の顔に悲壮感はない。

何故か、心からやりたいことをやっているからである。冬、農閑期である。売っても利潤のでない、素晴らしい無農薬のネギが、いまも畑にはある。

きれいに処理していると人件費が出ない、採算が取れない、現代の構造的仕組み、だが直販して、どこかの誰かがネギの価値を認め買ってくだされば、商いは成立する。

そこに踏み出してまで売る勇気があるか、要は自分たちで植えた愛着のあるおいしい安全なネギを 、顔の見える消費者に直接売る。単純にシンプルにアフリカの人のように。

私を含めた現代人は、思考のドグマにからめとられていて、身動きが取おれなくなっているのではないか、心にこびりついたドグマを祓い、洗い、原点に戻って売る。だって素晴らしいネギが我々の畑には在るのだから。

思考というのは、あくまでも自由にはばたくために思考するのであって、コップのなかの嵐や、重箱の隅をつつくような、ちまちましたことでは、らちが明(開)かない。

 未知との出会い。いろんな道があるのではないか、いろいろ万策尽きるまではやらないと、私には悔いが残る。何よりも青々とした我々のネギが私に一歩踏み出す勇気を与えてくれる。

たまたま、出会ったサンナンの農の灯、専務の目指す世界を末端で共有したい思いは、関わってわずか一年と少々だが深まる。

それにしても、なぜ人は生きて働くのか、その根源的な問いを今の時代ほどかみしめてみる必要がある、と私は畑で個人的に 考え続けている。ヘイトスピーチより、人を愛する努力をすべきだ。






2015-01-14

我流俳句に我流の書、五十鈴川だよりは、あるがまま流れます。

陽だまりに・居場所を見つけて・一休み、今年初めての俳句です。まったくの無手勝流俳句。

企画することも、文章を書くことも、考えるとてみると私の人生のほとんどは、我流なのだなあ、と改めて最近感じる。

未だ現役で働いているので、なかなかに落ち着いて親しむ時間が持てないのだが、夢が原退職後、書も時折やっている。演劇の勉強以外は、すべて師はいない。

すべて我流、ただ仕事として、初めて企画することの必然に迫られ始めたことが好きになったり、 文章も仕事で書かねばならない必要に迫られて書いているうちに、何とはなしに書くようになったりしたまでのこと。

だから、いまだ私は自分がよくはわからない。流れる方向に 自然に流れているだけのこと、に過ぎないというのが正直なところです。

再三書いていますが、絶対矛盾を抱えながらも可能な限り自分の感覚に正直に生きてきたら(いろんな方々の今も支えの上に)、振り返ると自分でも田舎から無知丸出しで(今もますます感じる)出発したのに、ずいぶんいろんなことが実現したことに、我ながら驚いています。

さて、書のことに少しふれたい、父が我流でかって気ままに 文字を書いていた姿が多分瞼に焼きついていてそのことがきっと私を、書に向かわせているのだと思う。カッコよかった。

何よりも父が残してくれた硯と墨、それと父が使っていた、小さい筆が3本残っている(随分傷んでいるが、まだ書ける)ので、ふと思いついた我流俳句なんかを、書にしたためたらただ楽しいのではないかと、単純に思うだけだ。

高い値段の筆や墨や硯を買う余裕は私にはないし、(そんな必要は私にはない、今あるものを最大限に生かす)父残してくれたものを使って何かを書き記すのは、きっと父が喜んでくれるのではないかという気がするし、ペン字を始めた怜くんがやがてはきっとまたつかってくれるだろうから、ただ単に書に親しむひと時を大切に持ちたいのだ。

これも初夢のたぐいだが、シェイクスピアの名セリフを書で表せたらなあ、 なんて考える。それをもらってくれる人がいたら額に入れ、差し上げる。

もちろん落款をつくる。 何やらますますやりたいことが増えてゆきそうな気配だが、限られた人生時間いかに遊べるかに尽きるというのが、現時点での私の思い。

恥をかきながら歩んできたので、これからも恥を恐れず、しかし反省しながら、五十鈴川だよりは流れます。


2015-01-13

西大寺に住んでお世話になっている方のお父さんのお通夜に行きましたそして思う

昨年12月おじさんが亡くなり、昨日西大寺に住むようになってから知り合いお世話になっている方のお父さんが亡くなった。

もう私が西大寺にやってきて、間もなく23年の月日が流れようとしているのだから、いわば時の流れの中での必然として、静かに今の私は受け止めている。長きにわたって入院されていたこともまるで知らなかった。

幸い知らせてくれた方がいたので、昨夜のお通夜にはかろうじて駆けつけることができた。喪主にはやれることはやった、という表情が感じられたので、きっとお父さんは幸福な人生を送られたのだとおもえた。

40代から50代にかけて、私はよくお世話になった彼の家の敷居を跨いだのだが、お父さんはいつも感じよく私を迎えてくれた。

仕事を息子さんに譲り引退されてからは、晩年テレビをご覧なっている後ろ姿が、瞼に焼き付いている。その焼き付いている後ろ姿が、私をせめてお通夜にはゆかねばと思わせたのだ。

昨日は、粉雪舞い散り寒い日だった。行ってよかった、お通夜の時間に、まだ元気で仕事をされていたころの、お父さんのあの歴史的まがった路上での立ち姿が忽然と思い出された。私が40代初めで元気にガンガン企画をしていたころだ。

人と人との縁はまことにもって不思議だと思う。ひょうひょうとしたお顔が私には印象的な、私の父とは対照的な温和で柔和なお父さんだった。

 記憶とは不思議だ。たまにしか思い出さないにもせよ、私の両親はじめ、いろんなたびだたれた方々の 記憶は、しっかりといまだ私の中で生きている。

そして、ふとしたきっかけで記憶が蘇る、そのことが 供養ではないかと最近私は考えている。時折あの世にゆかれた、死者に思いを巡らせるということは、つくずく大切なひと時だとおもう。死者は私に今を生きるエネルギーを与えてくれる。

だから死者は私の中では生きているのである。この年になるともはや、死者も生者もさほどの違いはないというような、線引きをすることにはあまり意味はないというふうな思いにもとらわれる。

自分も確実に還る世界、可能ならその時までをしっかりと歩むためには、とまた、あらぬ思いに私はとらわれた。娘たちの記憶に残るような生き方や立ち居振る舞いは、どのようにしたらできるのだろかというような、頓珍漢な想念もお通夜の席で私の脳裏をよぎった。

人は自分で自分を思い通りにはできない.生も死も選べない。まったく不自由な実在である。

 ところで1998年、母、2000年父,義父、をすでに見送り、私にとっての母は妻の母だけになった。1月にら3月にかけて次々に命日がやってくる。

寒い季節、死者たちに私は思いをめぐらせる。そして、何とか今を生きる。

2015-01-12

恥も外聞もなく、自分で育てたネギを直接行商してみたい、初夢。

いま今年初めて藤原新也さんのWMを読んだ。一気に目が覚めた。フランスで起きた、風刺新聞社襲撃事件に関する考察がかなり長く述べられている。実に読み応えがある。

私など単細胞は、特に自戒しないとすぐあらぬ一方向に流されてゆきがちなので、私が疎い世界のことに関する時代の深層を感知するアンテナ人として、私は藤原新也さんがどのように発言しているのかを、一つの指針にしている。

こうもおびただしい情報が多岐にわたるメディアから日々流されていると、人間の感覚は麻痺する、私も例外ではない。だから努めてニュートラルな感覚をキープするためにもブログを書いている、とも考えているのだ。

私ごときの無知丸出し拙文であれ、書くためには他者の優れた文章、文字を自分の体に絶えず刷り込みながら、お風呂に入るように、文字を洗いながら書かないと単なる自己満足(ほとんどはそうなのですが)に終始してしまう恐れを私は感じる。

後で読むと、誤字や変換ミスがなんとも多いわが五十鈴川だよりだが、恥をかきつつITの海に飛び込む覚悟で始めたのだから今のところ全く後悔していない。 おかげさまで、この5年間がささやかに充実しているのは、わが体が一番自覚している。

さて、たびたび書いているが、無知というものは恐ろしい。 そのことを藤原さんの一文からまた学んだ、アルジェリアとフランスの悲劇的歴史に関して知らされた。つくずく謙虚であらねばならないとため息をつく。

そして思う、このかろうじての謙虚さが自分の体の内に棲んでいる間は、きっとブログも書き続けられるし、ささやかな自己表現もできるのではないかと。

ともあれ救いがたい、とまで思わずにはいられないほどに、世界の混沌化(国内外の)は日々私に伝わってくるが私自身にできることは限られている。それをしっかりと 見失わないように、日常生活の普遍的基本を、今日も生きるしかない。

ところで、いきなり話は大きく変わる。今サンナンの冬の畑には十分に食べられるネギが 生きている。2月からはチシャトウを植えるので、私はもったいない感に包まれる。どこかの誰かに、直販したくなるのだが、いまいちためらう自分がいる。

なぜためらうのか、わかっている、本当に困っていないからだろう。おなかを空かし,飢えてたら恥も外聞もなく、売りに行くだろう。自分が種をまいた畑のネギを見ながら、私は小さい頃の年老いた行商のおばさんたちのことを思い出す。

そして、18歳で世の中に飛び出し、何も怖いものがなかった時代の 自分を思い出す。かってやれたことが、年を重ねるとどうしてこうもおっくうになること自体が、老いるということなのか。

ともあれ,ネギを直接見知らぬどこかの誰かに売ってみたいという思いは、未だかすかに私の中に残っている。アフリカやインドでいろんな 路上販売の人たちを見たがあれが商いの原点ではないか。うーむ、血が騒ぐ。

必要な人たちに、超安価で直接販売する、それでもし 利潤が出たら、全部企画にともなう経費に充てる、初夢である。

2015-01-11

シェイクスピア遊声塾の塾生を募集します。それから新たなアクションを起こします。

まずお断りをしておかなければならないのだが、写真をアップはしたいのだが、ウインドウズ8にいかんせん私がまだ慣れておらず、しばらくはこのまま文章だけのブログになることをご容赦ください。

年明けから、出勤時間が8時になったのでほんの少し余裕ができましたので、またよしなしごとをつづれるかと、ちょっぴりうれしい私です。

ところで、シェイクスピア遊声塾,塾生の中からもう少し塾生が増えたら、レッスンが楽しいという有難い声が上がり私自身ももちろんそうだと思うので、新たに塾生を募るためのチラシの原稿案を昨日何とか作りました。

はなはだ簡単な、私の塾設立の思いを伝えた文章を盛り込んだ 手作りのチラシを、妻が作ってくれるそうです。プロに頼んでもいいのですが、募集人員は10名程度なので。

遊声塾を立ち上げて今年の春で丸2年がたつのですが、農業をはじめたり、娘が結婚式を挙げたりと、何かと精神的に多忙な日々を送っていたので、遊声塾の ほうに注ぎ込む時間が少なくなっていたので、今年からは遊声塾と農業がバランスよく時間配分できるような気がしています。

考えてみると、塾生募集のチラシも作らず、この2年間よく塾が継続したものだと、能天気な主催者は感心しています。

私自身が、声をだす演劇の世界から30年近く 遠ざかっていましたので、当初私自身がはなはだ心もとない出発ではあったのですが、この2年近く私自身シェイクスピアを、再び気分一新声を出し読み続けてみて、これならゆけるという自信が湧いてきたのです。

いま3人の生徒さんがいるのですが、一番うれしかったのは生徒さんが、募集しようといってくださったことです 。これは私を大いに勇気づけています。

今、私も含め4人で声を出していても楽しいのですから、10人集まればきっともっともっと楽しくなる手ごたえを、私自身が十分に感じています。

呼びかけないぎり人は増えません、当たり前のこと、ならば アクションを起こす単純なことです。

話は変わり、3月28日か4月の4日のどちらかの土曜日の午後、2回目の遊声塾の発表会もします。わずか男3人で、シェイクスピアの【十二夜】を全部朗誦します。

なかなかの大冒険ですが 、女性の役も全部恥も外聞もなく、私も参加して読みます。昨年は、部分部分のパートを読んだのですが、昨年の反省から人数に関係なく、三人でいろんな登場人物を全部読むことにしました。

あらすじの流れが解るように、何よりもシェイクスピアの劇言語世界の豊かさが伝わるように、楽しく努力します。定員は30名程度、予約は日高まで。

ぎりぎりのところで踏ん張って、楽しく冒険できる間は冒険しないと、体はますます老いてゆきます。脳内のセロトニンが じわーっと分泌されるような時間をわが体に持ちたく思うのです。

金銭的には貧しくとも体と仲間があれば、限りなく楽しいことが見つけられる、そのことを実証したいのです。

それから、仮称・【ヒダカトモフミと過ごすトークと語りの時間 】・自分が今の生活のなかで見つけた私にとってのお宝の本や、映画、旅、企画する(した)こと、人物、などなどこれまで生きてきた中でのあれやこれやを、当日出会えた方相手に、即興でおしゃべりする、ささやか重要な今を生きる企画、も3月中に、第一弾を始めます。

これも、定員30名くらいで。(これは若干のカンパを募ります)夢が原退職後ずっとやりたかったのですが、ようやく一歩踏みだす気持ちが固まってきたので、五十鈴川だよりでまずお知らせします。







2015-01-09

体を動かし朝陽を浴びる幸せ。

年ともに、原点回帰志向が深まりつつある私のこのところの心象風景は、奈辺にあるのかなんてことを時折考えたりもするのですが、よくはわからない、だが書きながら考え続けることは、持続したい。そのことがいまを生きるエネルギーになる、そんな気がする。

過去を懐かしがるのではなく、時折立ち止まって考える勇気、そのための時間を作らないと、ただ単にわーっと大きな流れに飲み込まれてしまうような本能的危機感のようなものを私個人は感じる。

土の上や、自然の中にいるとなぜ私の心はこうも安らかなのかは、はっきりしている。一九五二年生まれの私が、物心がつくまでは、周りにはほとんど自然音しかなかったからだ。それと恐ろしいほどまでの漆黒の闇。

徐々に成長とともに、あらゆる人工音が増え、人工照明都市化され、あれよあれよと,表面の世の中は変わり、にぎやかに明るくなり、その時代の渦に巻き込まれながらもなんとか泳いで、いまもその渦中を生きている、といった認識が私にはある。

私自身、時折浦島太郎的な感覚に陥るくらいの世の変わりようの中で、幼い頃にほぼ出来上がった自分の感覚と、今の時代感覚とのあまりのずれは、いかんともしがたく私のなかで大きくなっている。

私は自分の限界を承知の上で、時代の流れにいたずらに迎合するのではなく、少々時代とはずれてはいても、自分にとって気持ちのいい居場所にいたいという思いは、還暦を過ぎてのちますます深まりつつある。

 そこで私がもっとも頼りにしてるのがわが体である。体が気持ちのいいことを可能な限り探して生きてゆかないと、はなはだ危ない時代をいきている、生きざるを得ないといった認識である。

癒すといった言葉が大流行、健康法もブーム、健康食品のCMもたれ流し、年を取らない、アンチエイジング、、、。といった塩梅だが、なんとも不健康な時代だと私は思っている。お金がなと生きられないと思い込まされている。果たしてそうか。

話は変わり、菅原文太さんと各界の達人17人との対談本、【ほとんど人】をゆっくり読み終えた。文太さんがこんなにも幅広い分野の方々にアンテナがあったことに驚かされた。

そのうえ、何やらおかしいということに気づかれたころから実によく勉強されていたことも、ご本を読むとよくわかる。老骨に鞭打つ姿は時に痛々しいほどだが、すがすがしく私に伝わる。

何よりも、生き方を変える勇気に、単純な男気を感じる。私などにはもっともかけているものだ。

それにしてもわれわれは、危うい綱渡りのような時代を呼吸しているのだと 気づかされる。頼りにすべきはわが体のみ、その直感と本能にかろうじてしがみついてきたからこそ、畑にたどり着いたのかもしれないと、最近感じている。

自分の体【意識】のサインにできるだけ正直に 、体が気の進まないことは努めてやらない選択を、矛盾を抱えながらも、楽しく日々を歩んでいる。

畑仕事、文太さんに倣って年のことなどしばし忘れ、明るい時間帯はひたすら土と向かい合いたいと思う。体が気持ちいいとは、生きていることが気持ちいいことだともう。畑で浴びる 朝陽は何物にも代えがたい。


2015-01-05

菅原文太さんの【ほとんど人力】が、今年最初の読書。

今年は会社としての畑時間はすくなくなるのですが、会社の畑地を責任をもって自由に使える農地を一反ほど使えることになり、そこにはどんな作物を植えてもいいということになりました。

私は素人なので、とにもかくにも一年畑で 本気で修業しようと考えています。最低限であれ、なんであれ、やりたいことをやりながら生きて行ければ、もう私には十分なのです。

昨年一年畑に這いつくばってみて、つくづく昔の機械化される前の、お百姓さんたち、つまりはほとんどの過去の日本人たちの暮らしの大変さが身に染みて、初老の私の肉体に刷り込まれました。

確かに肉体的にしんどいことが多々続いた一年でしたが、それをさほど苦にすることもなく こなしてゆける現在の自分自身の肉体年齢もしっかりと確認できましたので、体が動く間は畑で過ごしながら、生計を立てる方策を、考え続けたく思っています。

話は変わりますが昨年亡くなられた菅原文太さんが、俳優をやめられてから農業をされていたことは知っていました。いつの日にかチャンスがあったらどんな農業をされていたのか、また目指していたのかをもっと知りたくなりました。

もし私が文太さんくらいまで生きるとすれば、20年近い時間があることになります。 一年の四季の中で、植えられる作物は限られています。案ずるよりもとにかく植えながら学んでゆこうといまは考えています。よしんば失敗しても、何をして失敗というのか。

農薬や化学肥料を使わないのですから、見た目にいい作物は育たないでしょう。雑草のすごさには途方もなくあきれましたが、雑草とはたたかいません。その中でもネギやチシャトウがそれなりに育つのをこの目でしっかりと確認しました 。

急がず慌てずほとんどは会社と同じチシャトウ(買ってくださる方がいる)を植え、あとは勉強の気持ちで、季節に寄り添いながら根菜類を植えるところから始めようと思います。もちろん家で食べる葉野菜も。

ところで文太さんの遺言ともいえる本【ほとんど人力】を昨日買って読み始めました。各界の型破りな達人たち17人との 対談がおさめられています。深呼吸、そっと世界の行く末に耳をすませます。多分野、虚心に学べます。

対談者17人全員素晴らしい。 そのなかに私の知らない作家の相場英雄さんとの対談があります。工業品化された食品ハンバーグ の話がでてきます。一言恐ろしい。まったく無知の度し難い恐ろしさ。

 国民の命なんかよりも儲かればいいという企業倫理のおぞましいほどの欠如には、唖然とします。

命の宿っていない食品の数々を食べ続けるとどうなるのか、如実にその弊害は薄くあまねく日本社会を覆っているどころか、いたるところで吹き出し始めているのではないのかという認識が私にもあります。命感覚の無い犯罪の数々、心の冷温化。無痛感覚犯罪。

今年最初の本が文太さんの本になったのはやはり、縁があるというしかありません。17人の対談者の中には私が知らない人が5人ほどいました。いずれも 私よりも若い方々です。そのかたがたの仕事が素晴らしい。

そして、その世界の達人たちに素朴に質問する文太さんの晩年の骨っぽさが、なんともしみて私にブログを書かせてしまうのです。無骨に覚悟を決めて生きるすがすがしさ,あやかれるものがある。

今日はお休みですが、ともあれ畑に新年の挨拶に行きます。畑で体幹を鍛え、声をだし、作物ができたら行商をするのが、今年の私の初夢です。自分の中に希望をもつ。ほんの少しからでいいから、命の食べ物を自分で育てる。










2015-01-04

日高怜君夫婦が我が家で過ごしたお正月は終わりました。

ついいましがた100枚以上の年賀状を3日かけてようやくかき書き上げ、少しほっとした気分でパソコンに向かっています。

昨年娘がドレスデンで結婚式をあげたので、今年は家族での写真の年賀状を怜君が元旦にすぐ作ってくれました。


デジタルのなかにも人間の血が通った賀状をと、私自身が願っているのでせめてどこかの余白に一筆入れないと、気が収まらない性格なのです。


正直に告白しておきますが、すべてパソコンだよりで、書き手の思いが手薄な賀状はただいても私の中には何も残らないということを。


ただし誤解のないようにお伝えしておきますが、中には毎回楽しみにしているデジタル作品もありますので、要は人柄の顕れる内容の賀状をいただいたら,やはりうれしいそれだけのことです。


私自身いたく反省しているのですが、相手のことに思いを馳せながら、せめて一年に一度くらい、手書きの時間を私自身は持ちたいと思うのです。


そういうわけで、この数十年処分したくはない(できない)年賀状のみが私の手元には残っています。それは手紙やはがきでも同じです。


お正月そうそうあれですが、そういう賀状はいつの日にか私とともに埋葬したく思っています。拙き私の一文もそうですが、満天下にすべてはさらされているのですから、ささやかであれ、思いを伝える,微力を怠りたくはないものです。


さて話は変わり、昨日の夜の飛行機で怜君たちが帰るので、空港まで家族全員で見送りに行きました。少し早めに家を出て、空港近くの温泉に入り、夕飯をともにして。


怜君が日高家の一員になったので、やはり私には特別な感慨にとらわれる初めてのお正月となりました。それは妻や母にとっても同じ思いだったと思います。


怜君はハンコも作って私に見せてくれたのですが、日本という国で私の娘とともに生きてゆく選択をしてくれたことに、父親として言葉にならない思いにとらわれました。


若い二人が選択した人生の出発を今後可能な限り見守ってゆきたいという思いしか今はありません。


今年五月には、ドレスデンでの結婚式に参加できなかった私の兄姉たちも招待して、岡山での簡素な結婚報告会もするとのことです、いましばらくは彼らもあわただしき日々が続きます。


親ばかを承知で書かせていただくのですが、彼らの結婚式は祝福の小さき村の祭典といった趣で、参加者が幸福感に包まれる稀有な儀式でした。この目でしかと焼き付けたのですが自分の娘が遠くの世界に旅立ち、そこに招かれているかのような、あれは夢ではなかったかというような。


でも娘たちは、日本での現実を二人してしっかりと歩み始めています。私にはもったいない息子が忽然と現れたのが確認できた正月となりました。


母をはじめ皆が空港で怜君をハグしました。はなはだ気恥ずかしくも、愛ということについての認識を私は改め始めています。


少し寂しくなった我が家にもどり、熱い紅茶を飲みながら,ストーブの周りに集まり、母妻次女の四人で楽しかった年末年始を語り,静かな夜をすごしながら彼らが無事羽田に着いたという知らせを聞いて各々床につきました。



2015-01-03

2015年・あけましておめでとうございます。

ドレスデンで怜君家族と
五十鈴川だよりを読んでくださっている皆様あけましておめでとうございます。本年も程よくお付きあいくださいますよう、お願い申し上げます。

さて、素晴らしき息子怜君のおかげで、私は2015年初めてのブログを新しいパソコンで書ける喜びに包まれています。

今朝は新年のご挨拶 を、とにもかくもお届けしたく、初めてパソコンに触れています。やはりながいこと触れていた以前のとは微妙に勝手が違いますが、少しずつ慣れてゆきたく思います。

今夜の飛行機で怜君たちが東京に帰るので今日までが、家族とのお正月です。昨日から年賀状を書き始めました。六日までが私のお正月です。

元旦にかなりの 方から、お年賀をいただきました。私は年が明けてからでないと年賀状を書かなくなりましたので、私の賀状は松の内までには届きますので、この場をかりてお伝えします。

漸くにして落ち着いた暮らしを手に入れつつある私です。与えられた人生の時間がみじかくなるにつれ、より丁寧な自然な時間の使い方を逆に心かけていますので 、ご容赦ください。

以前も書いた記憶があるのですが、硯をすり墨で相手の名前が書けなくなった時点で、年賀状やあらゆることを、私は断念しようと考えています。

幸い、文字を読んだり書いたり、声をだしたりする欲求は未だ衰えることがなく、特に読むことによって知る 知的な刺激は深まってゆくようにさえ思えます。

知らないことを知る、そのことによって垣間見える世界の多様な限りなき豊かさの前には、ただただ謙虚に、静かに受け止められる力を、老いを自覚しながら養い深めてゆきたいものだと、思わずにはいられない私です。

今年も畑で体を動かし、作物を育て、読み書き、声をだし、たまにささやかに旅をし今を生きていることの喜びを(今年も日々の生活の中で出会えた方々と共有できるような一年であることを)願います。

ひたひたと何やら不安を覚えなくもない世相の流れを個人的には感じます、が、平凡こそ非凡、地に足をつけて根のある生活を心かけたく思います。

五十鈴川だより読んでくださる皆様の一年の心身の健康を祈ります。