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2015-01-14

我流俳句に我流の書、五十鈴川だよりは、あるがまま流れます。

陽だまりに・居場所を見つけて・一休み、今年初めての俳句です。まったくの無手勝流俳句。

企画することも、文章を書くことも、考えるとてみると私の人生のほとんどは、我流なのだなあ、と改めて最近感じる。

未だ現役で働いているので、なかなかに落ち着いて親しむ時間が持てないのだが、夢が原退職後、書も時折やっている。演劇の勉強以外は、すべて師はいない。

すべて我流、ただ仕事として、初めて企画することの必然に迫られ始めたことが好きになったり、 文章も仕事で書かねばならない必要に迫られて書いているうちに、何とはなしに書くようになったりしたまでのこと。

だから、いまだ私は自分がよくはわからない。流れる方向に 自然に流れているだけのこと、に過ぎないというのが正直なところです。

再三書いていますが、絶対矛盾を抱えながらも可能な限り自分の感覚に正直に生きてきたら(いろんな方々の今も支えの上に)、振り返ると自分でも田舎から無知丸出しで(今もますます感じる)出発したのに、ずいぶんいろんなことが実現したことに、我ながら驚いています。

さて、書のことに少しふれたい、父が我流でかって気ままに 文字を書いていた姿が多分瞼に焼きついていてそのことがきっと私を、書に向かわせているのだと思う。カッコよかった。

何よりも父が残してくれた硯と墨、それと父が使っていた、小さい筆が3本残っている(随分傷んでいるが、まだ書ける)ので、ふと思いついた我流俳句なんかを、書にしたためたらただ楽しいのではないかと、単純に思うだけだ。

高い値段の筆や墨や硯を買う余裕は私にはないし、(そんな必要は私にはない、今あるものを最大限に生かす)父残してくれたものを使って何かを書き記すのは、きっと父が喜んでくれるのではないかという気がするし、ペン字を始めた怜くんがやがてはきっとまたつかってくれるだろうから、ただ単に書に親しむひと時を大切に持ちたいのだ。

これも初夢のたぐいだが、シェイクスピアの名セリフを書で表せたらなあ、 なんて考える。それをもらってくれる人がいたら額に入れ、差し上げる。

もちろん落款をつくる。 何やらますますやりたいことが増えてゆきそうな気配だが、限られた人生時間いかに遊べるかに尽きるというのが、現時点での私の思い。

恥をかきながら歩んできたので、これからも恥を恐れず、しかし反省しながら、五十鈴川だよりは流れます。


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