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2015-12-31

2015年大晦日、朝の五十鈴川だより。

大晦日の朝である。さすがに今夜は寝るのが遅くなるのでいつもよりは遅く起きた。家人はまだ休んでいる。

一昨日から母もやってきた。毎年お正月一週間は共に過ごす。2階の寝室で母と妻は寝て、私はその奥の衣裳部屋に布団をひいている。

この小部屋がことのほか私は気に入っている。冬の間はここで寝ることに決めた。一回の薪ストーブの暖気が寝室とこの小部屋をしっかりと温めてくれるからである。

それにペットボトルの湯たんぽがあればいうことなし。お湯は薪ストーブが常時沸かしてくれるし、焼き芋ほかいろんな温め料理が可能なので、まったく薪ストーブの効用ははかりしれない。

眠りに落ちるわずかな時間枕元のスタンドで文字をおっていると、全身が温まってきてあっという間に眠りの世界にいざなわれる。

4~5時間熟睡すると時折目覚める(目覚めない時もある)。そんなとき何をするか。これは初めて書くが、静かに深い呼吸しながら我流の腹筋を するのである。

これをすると、しっかりと目が覚めるのでまた眠くなるまで文字を追うのである。だいたい10時くらいには寝入り、起きだすのは5時過ぎである。

ほかにも瞑想したり、時折の意識ハッキリ真夜中時間を楽しむことを心かけている。闇の中というのは、自分自身と向かい合うには最高の時間帯なのだと私は考えている。

盲目の方は、常時このような感覚で過ごされているのだということを、何とはなしに感じる。闇という字は、音が閉ざされている状態だ。
プラハの街並み

睡眠が満ち足りて、脳がニュウートラルな時に思い浮かぶことに私はほとんどすがって今も私は生きている。

だから睡眠という行為は、私にとってはとても大事なのだ。寝ないと私は全く体が変調をきたす。

食事、お風呂と睡眠とが、歳を重ねるととても大事だ。

とにかくよく休んで、体調の維持管理を楽しめるくらいの余裕がないと、私の場合ははかゆかない。

ところで、幼少のころの最初の記憶の世界はうす暗いのである。

だから、私はアフリカやインド、アジアのいまだうす暗い辺境の土地を旅すると、もうそのようなところには住めない体になってしまってはいるものの、しばし心身が落ち着くのである。

真夜中トイレに行くときなど、電気をつけずに手探りで感を研ぎ澄まし用を足して遊ぶ。100年もさかのぼれば、漆黒の闇がほとんど、大いなるものにひれ伏して、人としての法を超えずにあらかたの人は生活していたに違いない。

いまや、私をはじめとする現代人は闇を遊ぶ余裕もなく、闇は恐ろしいといった対象でしかない。体の中の闇なる部分を、ときおり真夜中私は見つめる。瞑想と迷走。

最後にシェイクスピアの【リア王】のセリフで今年最後のブログを締めくくり、【目が見えた時はよくつまずいたものだ】。

2016年、五十鈴川だよりを読んでくださった皆様の健康と、良き歳でありますよう祈ります。




2015-12-30

年の瀬、年賀状のあて名の入力作業に半日を費やしながら思う。

年賀状は新年を迎えてから書いていたが、ちょっと私にしては異変が起こった。もう若くはない私は、やはり時間のことを考えて宛名ほかをパソコンで入力することにしたのである。

ブログに書いた記憶があるのだが、全部パソコンでいただく年賀状は実に味気ないと、私自身は今も考えている。

すべては、人柄と私と相手との関係性で私は変えることにしたのである。宛名はパソコンに9割くらいはして、ほんのわずかな時間をこの数年書に親しんでいるので、併用でゆこうと、いくばくかの思いつく字を書きこみたいと今は思っている。

これは年が明けてから書くことになるので、私の賀状は松の内には着くとは思うが、そうは早く着かないのでこの場を借りてご容赦のほどを。

住所もこの際パソコンに入れ、手書きの住所力も併せて利用することにした。 退職したら年賀状が減るかと思ったら、私の場合はさほどの変化がないので、100枚以上を手で書くのは時間的にシンドイ。

この年にして、ようやくにして無為に何もしない時間の大切さを私は感じるようになってきつつある。怠惰というのではない。要するに心と体に正直に生きることにしたのである。

でもそうはいっても、わたくしごと気にお年賀をいただくということは、普段は会えないにもせよ、私自身への思いがなにかあるからこそいただくということになるので、有難いことと受け止めている。

ほぼ半日で宛名を打ち込むことができたが、やり方はすべて妻が指導、五人めぐらいからはひとりでできるようになりあとは単調な入力作業でおえた。

来年からはパソコンにももっと触れるようにしたいと今は考えるようになってきつつある。スマホもそっとやりたく思っている。すべては自分の体との調整をしながら。

何かを得ると何かをなくす。便利、快適世界を追いかけすぎると、肉体が脆弱になり気力が衰える。一番困るのは声を出す肉体が衰えること。 バランス、時代の最後尾を私はゆきたい。

すべては、アナログとデジタルの併用で私には十分に足りる生活を心かけたい、のだ。

ドレスデンの森、娘と怜君
何度も書いているがおしゃべりな私だが、ブログを書いたり本を読んだりするのは、私はそんなには早くないし(打つのはかなり早くなってきました)努めてゆっくり読み書きするようにしている。

あらゆることがゆっくりなのだが、気が付くと進んでいる、そのような塩梅が一番私にはあっているのである。

これは尺取虫のように富良野の400メートルの畑に這いつくばった経験から私が学んだことである。

軽佻浮薄を自認しているので、私はせめて一人の時間くらいゆっくりとゆきたいのだ。歳があけたらいつものように可能な間、在来線で時間をゆっくりと堪能しながら遠方への旅をしたく思う。

時折普段の暮らしから離れて普段の暮らしに帰る。男の私にはこれは絶対的に必要である。年に4回くらいあれば十分である。

若い頃はどこか生き急いでいたが、今はまったくゆっくりとしかゆけない自分を楽しめている。でも思うのだ。生き急いでいたからこそ、何とか今があるのではないかと。

その年代なりに小さな器で、何とか自分にしがみついてきたから、大きな渦に流されなかったのだと。

世の中がバブリーなころ、何せ私は富良野で畑に這いつくばっていたのだから。今振り返るとだが、あのころ違う道をせんたくしていたら果たしてどうなったかは皆目わからない。






2015-12-28

竹韻庵に昼食忘年慰労会に出かける前の朝ブログ。

竹韻庵のことをあまり書いていないが、今日が今年最後の竹韻庵もうでになる。オーナーのS氏が昼食忘年会をしましょうということで、お招きにあずかっているのである。

少しアルコールが入るのでS氏が岡山駅まで迎えに来てくださることになっている。ありがたいことだ。7月末から竹韻庵に通うようになり、体力維持鍛錬くらいの気持ちでいまも続けている。

自分なりのことしかやれないが、五か月でずいぶん竹韻庵の雰囲気は変わってきたと思う。開墾して畑らしき体裁を整えたばかりのところに植えた、チシャトウやネギほかの野菜も、日照時間が少ない中 それなりに育っている。

それを眺めながら、いま孟宗竹の根を取り除くことを根気強く続けている。これはやったものにしかわからないくらい根気がいるし、かなりの体力を消耗するので、現在の私の体力で正味2時間くらいが限度である。

メインに使う道具は、斧とつるはしである。これがなければまず無理である。道具と体が連動してこその労働。働くという字は人が動くと書く。

頭は足と腰の上にいわば乗っかっている。直立歩行を始めた人類は、いまや頭がもっとも大地から離れたところを、いわば浮遊するような感じでたゆたっている、のだ。

私は思春期までの時間を、アスファルト以前のむき出しの土まみれの時代に育ったので人工空間が大好きなくせに、そこだけで呼吸しているとカサカサに潤いが無くなってくる自分を感じる。

いわば絶対矛盾だ。だからいま、竹韻庵に通いながらの都市生活は、私にとっては理想的なのである。このような生活ができる今を、ひとえに誰に向かって感謝したらいいのか。

だたただ謙虚に感謝することを忘れないためにも、日々五十鈴川だよりを書きたい。おそらく斧を振り下ろす体気力が持続でできる間は、きっと声出しも続けられるような気がする。

自分の体は自分がやはり一番よく分かるようで在りたいのだ。本を読んだり、ブログを書いたりするがために、私の一番の今のところの弱点は背中である。

それなりの対策を続けながらこれ以上はひどくならないようにケアーをしている。しかし在り難いことに、未だ元気に動ける身体があることの嬉しさは、歳を重ねるにつけ深まる。

あくまで自分という存在を動かしながら、老いてゆく時間の中での、自分なりの右往左往揺れる姿を、見つめたい、というくらいでこれ以上書くのは控える。
ドレスデンの怜さんの大好きな森を家族でピクニック

ところでいつものように話は変わり、堀江貴文氏の【我が闘争】という本を読んだ。

(わからないIT
語はすっ飛ばして)この人の本を自分が読むとは思いもしなかったが、一言私には大変面白かった。

1972年生まれの氏は、私より 20歳若い。

人は生まれてくる時代を選べない、その渦中をある種天才的に氏は突っ走る。そのスイング感は若さゆえの才能のほとばしりを縦横無尽にいかんなく発揮、それは今も続いている。

氏はいわばそういう宿命の星に生まれたのだ。全地球上の存在がいわば宿命的に日々を呼吸している。想像力こそ私の財産、生と死を日々繰り返し、命は時に縮み時に輝く。

せっかくこの星に生まれたのだから、日々を気持ちよく呼吸したいとシンプルに私は考える。

2015-12-27

クリスマスイブうれしいことがありました。

久しぶりに岡さんから私のブログにコメントが入っている。そのコメントに関しては個人的にしっかりと受け止めました、とここに書いておくにとどめます。

が、戦場という狂気の沙汰の渦中に平凡な人間が置かれると、普通の人間がかくも変身してしまう器であるかという認識の恐ろしさを、心の片隅に持っておいた方がいいと私はかんがえる。(私自身も例がいたりえない)

だからこそ、いったん始まったらとことんまで突き進む恐ろしさに、私は過剰なくらい敏感に反応した方がいいと思う。

安全保障法案に国会前まで足を運んだり、ブログでもたびたび一色になることの恐ろしさに触れるのは、知らず知らずのうちに そういう方向に流されてゆくことへの個人的な危機感である。(利益のために敵を作る愚)

大量虐殺の施設の隣で、ナチスは音楽会を開いていたというが、何十万キロ離れている国々で、空爆やテロや、その他あらゆる戦争状態を生きている方たちが今現在いるという現実に対して。

隣ではないからこその、あまりの痛みのなさを私自身はかすかに自覚している。がしかしこの平和もいつ何時失うかもしれないという危機感、平凡な狂気に走らないで済む世界にいられる何という在り難さを自覚する。

平凡に、ささやかにクリスマスやお正月を迎えられることへの感謝。五十鈴川だよりは時代の推移とは離れたところで 、静かに流れながらある種の自分なりの正気をち保ちながら流れてゆきたい。
怜君のおばあさんほぼ母と同じ年、ガーデニング、野菜を作るのが趣味

 ところで、はなはだ個人的なのことだがクリスマスイブに、ちょっとうれしいことがありました。

来年から山陽カルチャーでの講座が、木曜日よる6時から8時に なったことはすでに書きました。

この3年近くUさんとの二人レッスンが続いていましたが、クリスマスイブに新しく入会されたかたがいて、手続きをすまされたとのお電話でした。

そして昨日友人のAさんの息子さん(30歳の男性)も参加したということで、年明けからいきなりカルチャーで3人のレッスンが始まることに。

遊声塾も入れると10名も私に生徒さんができたのだ。 石の上にも3年、来年の春で丸3年、オーバーではなく感無量である。

夢が原退職後、新しい出発を今現在も継続しているが、ようやく3年目にしてかすかに実を結び始めてきたのだ。

子育てをほぼ終え、やりがいのあることを続けられながら生きられる今、ことのほか私は幸せだ。


2015-12-25

師走、ひとり静かに小津安二郎監督の東京物語を見る。

師走のさなか、たまたまNHKでお昼小津安二郎監督の【東京物語】と【秋刀魚の味】を続けてみた。

戦後70年の節目の年、原節子さんの訃報が知らされた。家人のいない部屋で一人静かに見入った。

20代、名画座で見たことのある作品だが この年齢で見るとなんともはや心に染み入ってくる。これだけは年齢を重ねないと感じ入ることのできない世界ではないかと、私は思う。

東京物語は1953年の作品、わたしが一歳の時である。いま、63歳の私が見て思うのは、名作というものはかくも時代を超えて残り、人間の深いところに届くのである。

私は玄関の開け閉めの音なんかに、昭和の家のかすかに時代の空気感を肌で感じることができるので、なおさら琴線を打つ。

団扇を仰ぐ老夫婦の姿に、曾祖父母の姿が蘇る。明治は遠くなりにける、なんていうが私には昭和は遠くなりにけ、あらゆるシーンに私の昭和が蘇る。

名作には余分な説明が一切ない。一気に展開するので、見る方はその間の出来事の推移をいやでも想像する。余韻の残る、奥行きのある、暗示する作品こそが私の好きな映画である。

時代に翻弄されながらも、家族として生きる姿のそこかしこに無常感が忍び込む。それを独特の同じポジションからの人間目線のロウアングルでとらえる。

一筋縄ではとらえきれない人間の細やかな感情のひだが、セリフのない無言の顔のアップで示される。絶対矛盾に揺れるしかない人間存在の悲しさ、と美しさ。

私が年齢を重ねるにしたがって故郷に回帰するのは、おそらく昭和にこそ私の青春(人生の大部分)があり、自分の中でいたずらに今の世相に迎合してまで生きるのは、はなはだもって無理があり、時代に取り残されても、東京物語の老いた夫婦のように、それを丸ごと受け入れた両親を見ているからだと思う。

戦後復興した旧市街を歩く妻と娘
いい意味での諦念のような。だがこう書きながらも、いい事か は別にしてあの時代に比較して格段に寿命がのびた現在、はなはだもって私は元気なので、今しばらくはじたばたしながら生きることになるのだとは思うが。

だがきっといつの日か、東京物語がもっともっと染み入ってくる日が来るのは確かな気がする。

このような映画を生み出した小津安二郎という監督の偉大さを漸くにして私は感じるようになってきた。

ところでこの東京物語という作品は、世界映画史上、2012年世界中の映画監督358人が選ぶ、監督選出部門の【10年に一度選ぶ】第一位に選ばれたとある。

このような世界の人たちに今も理解される、通じる普遍的な作品を小津安二郎という日本人が創ったことは何という誉だろう。

長部日出雄さんがM新聞に書かれていた。小津監督の作品は現在の世界の映画の流行とは、正反対の立場にある。

暴力・殺人・破壊・炎上・スリル・サスペンス・などの映画的な要素とは無縁で、非日常的な出来事は一切起こらない 。描かれるのは平凡な家族の平凡な日常ばかりー。


人間の本当の幸福は平凡な日常の平凡な繰り返しの中に隠されている、というのが小津の信条である。

その考えが的を得ていたのは、いま混迷を極めて何が何だか分からなくなっているシリア情勢と、長年住み慣れた土地を追われて、欧州に向かった難民が直面している悲惨な境遇を観れば一目瞭然ではないか、と。

地上に紛争と混乱が続く限り、平凡な日常の繰り返しこそが人間の非凡な幸せと説く。そのヒロインは原節子しかいないと。(余談だが黒澤明監督の白痴のヒロインの原節子さんが素晴らしい)

不世出の原節子の存在有らばこそ、小津安二郎監督の名作東京物語は生まれた。




2015-12-23

【間違いの喜劇】を一人で丸ごと読んでみたいと夢見る。

書き続けながら考える律動を続ける。ブログはいまやおまじない、気付け薬的な感じさえこの頃はしている。

いかに今日一日を過ごすかのだいたいは、ブログを書くことで整理確認が可能になってきつつある。私の人生はブログを書くことで、ことのほか充実の度合いが(手前みそですが)深まってきたように感じている。

毎日書いているわけではないのだが、書いていない日もそこはかとなく書いているかのような感覚が暮らしの中にキープできているのである。

柳田邦夫さんがおっしゃっていたが、人は物語を作る生き物、人生を物語化することで生きてゆくよすがとするということが、私なんかはとてもするのである。

だから演劇を、無意識にも学んだのではないかという気がする、というくらいで今朝はこれ以上書かないが、人は幻想や夢、物語にすがる生き物(私の場合)ではないかという気がしてならない。

ところで、いまシェイクスピアの【夏の世の夢】を遊声塾で読んでいるのだが、人生はまさに夢か幻のように私などは考えてしまう癖が身についてしまっていて、こうも世知辛い世の中にだと、ますます夢や幻にすがらないと、何と人生は無味乾燥に思えることかと、しばしシェイクスピアの登場人物のようなセリフの一つも吐きたくなる。だから私はシェイクスピア作品が好きなのである。

妻に言わせると自己愛が強いというのだが。屁理屈かもしれないが自己を愛すということと他者を愛すということは、私の中では不可分につながっている。

自分がいいコンディションでないと、なかなかにヒトを愛するという感覚が私の場合は育めないのだ。うまく言えない感覚なので、これ以上は書くのは控えるが。
教会で式を終え友人たちとお茶タイム、怜君と娘

魂や心を育むために、人はいかように生きてゆけばいいのかを この大変動時代、カオス化する世相を前にして、書きながらうすらぼんやりと考え続ける。

結論なきことを考えることの何という無意味な贅沢的言葉遊び。

ハムレットのように、言葉、言葉、言葉と、息を吐きながら運命に殉じてゆく、といった塩梅。

 話は変わる。月が徐々に満月に向かうこのころ、夕方図書館にゆき、併設する運動公園で散歩がてら体を動かして遊ぶ。

ほんの30分くらいだが平均して週3回程度は続けている。

昨日鉄棒で久しぶりに、懸垂をしてみた。ずいぶんしていなかったのに、何と4回できた。回数は問題ではないのだがやはりうれしい。わずか4回で身体中に血液が行き渡る。

引力に逆らって自分の62キロの体を腕で引き上げるという行為は、私の最も苦手な行為なのである。無理はしてはならないが、あまりに自分の体を歳だからといって甘やかすのもわたしの性格にはそぐわない。

膨大なシェイクスピアの作品の中で一番短い戯曲【間違いの喜劇】を全部一人で遊読してみたいという夢が最近私の中で 起こってきた。息が浅いととてもではないができない。

深い意味はない、ただただ今を生きていることに感謝し、できることをできるうちにやっておこうという気持ちになりつつあるのだ。

うまい下手も関係ない、ただただ全部を一人で読めるうちに人前に体をさらして、遊びながら読んでみたいのである。入れ歯になったら確実に読めないのだから、初老の男のわがままを私は夢見る。





2015-12-21

年の瀬、母との時間を共にしながら幸福を教えられる。

先週で遊声塾のレッスンは今年は終わり、今日でカルチャーのレッスンも終わる。これは是非書いておきたいのだが、来年からはカルチャーのレッスンは木曜日夜の6時から8時になった。

月曜日の朝だと皆さん働いているし、ほとんどリタイアした方々しか来れないので私の方からお願いして、時間を変えてもらったのである。

とにかく夜になったら、ひとりでも生徒さんが増えることを私は願っているがこればかりはどのようになるのか皆目わからない 。

とにかく私としては、夜に変わったことを機に何らかなPRをしたいということを今考えている。なるようにしかならないにせよ。希望を持つのみである。

話は変わるが、おとといの夜10年ぶりくらいに忘年会を我が家の庭と家の中でした。家族とゲスト合わせて9名によるちょうどころ合いの人数での小宴会となった。

庭で炭火を起こし、牡蠣を焼き私がゲストに振舞った。7時過ぎからは家の中に所を変え、夕食をしながらの歓談タイムを過ごし、ささやかで穏やかな愉しい忘年会となった。

母と妻が準備から片付けまで大活躍してくれた。久しぶりの忘年会である、がしかし母の存在の大きさをあらためて感じ入り再認識した。

ドレスデンの王宮あと戦後見事に街並みが再創造されていた
夜遅く9人分の器のあれやこれやを、洗って元通りに手際よく 短時間でしまえるなんてことは、やはり経験のなせる業としか言いようがない。

やがてはこのような忘年会もできなくなるであろうとは思うが、今年は何とかやれた。そのことをただただ私は感謝している。

夢が原退職後、母や妻との休日時間を大切にすることを、ブログ上で臆面もなく何度も書き綴る私だが、本当に感心することが多い母である。

当たり前に、自然に染み入っているかのように、ゆるゆる動くことをいとわない、やめない その仕事ぶりに、私は打たれる。

新聞は読むが、本などはほとんど読まない。畑仕事と、洋裁と編み物が彼女の一日の大部分を占める。一言での母の暮らしぶりは、家族のためにのみ費やされている。

一切の贅沢はしない。そういうことを育む環境に生まれなかったのである。だから口癖のように今が幸せだと、念仏のように繰り返し唱える。

そんな母だが、この夏妻と二人怜さん娘夫婦のところに3泊4日で上京した。数十年ぶりのことだ。ことのほか幸せそうな旅のアルバムを娘が作った。

なぜ行ったか。怜さんが一度来てくださいと再三誘ったからである。家族もだが、人間の信頼足りうる関係性は、ともに苦楽を共にすることでしか育みえないということだと私は考える。

一見大変そうな体動かしを、人生時間のほとんど費やしてきた母である。だからいまだに知らぬ間に、編み物や野菜が出来上がってくるのである。

一事が万事にそれは言える。学校を終えたら終わりではなく、人生はつまるところ生き方、継続、積み重ねの上にしか、花は咲かないのだということを母を見ていて、ともに時間を共有しながら思わせられる。




2015-12-19

身近な存在との関係性を深めたいと思う、忘年会の朝。

ブログには書いていないが、先週と今週立て続けに叔父と兄のお嫁さんの母が亡くなった。帰りたかったのだが、所用もあり考えた末、弔電を打つにとどめ西大寺で手を合わせた。

人は亡くなり、自分もやがては動けぬ体となり、ブログを書くことも声を出すこともかなわぬ存在となる。生老病死は厳然たる真実である。

だからこそ生は尊いのだという側に私はしがみつく。生き方次第では、人間は途方もなく醜くもなりうる存在でもある。

再三ブログで書いているが、家族とは何かということを、娘が結婚をしたのを機に、はたまた私は考え始めた。まして異国の男性と結ばれたがために、わが人生で異国の縁戚ができたがゆえになおさらなのである。

新たな時代が猛然と水面下で動いている気配を私自身は感じる。人間は揺れ、変化しその時代の渦中を必死に泳ぐ。

夫婦別姓、同性婚、ありとあらゆる制度が、もはや時代に追いついてゆかないような趨勢である。開かれた関係性に法律や制度、私たちの暮らし方、生き方が問われている気がする。

朝から軽いブログで書くことではないが、来年は選挙の結果次第では憲法改正 の流れが大きく加速しそうである。
怜君のお兄さんの子供大きくなったら我が家にホームステイ

私は私なりに一個人として考えたいというにとどめたい。話を戻す、現時点で死は私にとって、身近とは言わないまでも、そう遠いという感じでもない。

ばかの一つのように書き続けているが、今現在を悔いなく生きることの中にしか、ほとんど私の人生はないのである。

絶対矛盾のなか、ささやかに夢や希望を持ち続けながらも、よしんばかなわぬ事態が訪れた際にほんのいささかでもきちんと善処できるような

態度を保てるのかどうか、それはその時になってみないと分からないが、だから今なのだと、弱い心を激励しているのである。

ところで、今夜は我が家で遊声塾の忘年会がある。我が家で忘年会をするのは10年ぶりくらいではないか、本当に久しぶりである。

なぜ忘年会をすることにしたのかを書くと長くなるので簡単に。遊声塾の面々は今や私にとっては疑似家族のような存在になったからだ。

今年一年、本当にみんな私と共に、自分自身と向かい合う勇気を持ち、声を出し続けた。その面々と忘年会をやりたくなったのだ。

私の生きる原動力であるわが家族一緒に。全員で10名これくらいがちょうどいい人数である。だから今日はこれから掃除や準備をしなくてはならない。

愛と憎しみを共有できる関係性の中からしか、家族の大切な何かは育みえないというのが現時点での私の思いである。

齢63歳にして、ようやく臆面もなく書けるのだが、身近な存在との関係性を深めてゆくことの大事をますます感じる師走の朝である。




2015-12-18

鬼が笑うが、来年は思いもかけないことがあるように思える。

一昨日がシェイクスピア遊声塾の今年最後のレッスンだった。よほどのことがない限り塾のレッスンを物見遊山的には見学しては欲しくないのだが、この日は二人の方に私の方からお願いしてきてもらった。

その二人というのは、ブログで書いているがパリを中心に長いこと活躍されていて(来年1月東京、2月にもパリでの公演が控えている)、こんごは岡山に根拠をおくという舞踏家の女性Kさんと、その方を私に紹介したY女子である。

Kさんとはすでに3度ほどお目にかかってお話をしている。その彼女から私と何かコラボレーションができないかという、思いがけない提案があり、私もいささかの逡巡があったのだが、今私がやっている塾に来ていただき、私が今現在私が声を出している姿を見てもらうのが一番いいと思ったのである。

私も含め塾生6名で、公開間違いの喜劇 レッスンを見てもらった。塾生が多い時は普段私自身は声をあまり出さず、ひたすらコーチングに徹するのだが、この日は私が声を出している姿を見てもらいたいこともあって、私がかなりのパートを声に出して読んだ。

私のブログを長きにわたって読んでくださっておられる方はご存じだと思うが、31歳で最後の舞台を務め34歳で富良野塾を卒塾して以来、普通の生活者の道を選択した私は、夢が原を退職し遊声塾を立ち上げるまでシェイクスピアを声に出していなかった。
ドレスデンからの帰り一泊したプラハの街並み

声を出し始めておおよそ2年9か月、もうすぐ3年が経過する。 いま私はシェイクスピアを声に出して読むことがようやくにして再び愉しくなりつつある。

当初はコーチングしていても、私自身の体が錆びついていてなかなかイメージしたようには読めない自分自身と格闘していたが(それは声を出す間は続く)最近ほんの少し声を出して読めている自分を感じ始めているからだ。

遊声塾のレッスンを終えた後、KさんとYさんと私の3人でお茶をしたのだが、Kさんは私の声出し姿を確認され、私でいいとのこと、来年春に何か作品を作り表現したいので一緒にやりましょうとのお言葉でした。

ここまで情熱を傾けられたら清水の舞台から飛び降りるつもりで、引き受けることにした。上手くは書けないが、いましかないという直観が働いているのである。18歳からの恥かき人生者である私には、これもまた縁と思うしかない。

向こうから私に手を差し伸べてくださっているのだから、男子たるもの引き受けるしかない、と腹をくくったのである。

それに物事をいいようにしか考えない私の楽天性もある。守りに入りたくないから遊声塾を始めたのだし、新しいことに挑戦するには思いもかけない出会いではないかと。
 、
来年は64歳になる。いまだわくわくする自分がかすかに存在する。そこを頼りにしての出会いを苦楽しながら、Kさんにすべてをゆだね私はまな板の上の鯉になるつもりで今はいる。

Kさんは舞踏家になり、構成演出家になり、私は声出家になる。30数年ぶりの舞台になるが、まさに春の世の夢のような舞台になればと夢見る。

2015-12-15

壁を塗り、ささやかに自分の中の壁を見据える勇気を育みたいと思う。

年内に壁を塗り終えたせいか、気分がことのほかすっきりした年の瀬を迎えている。とはいってもまだあと半月師走は在る。

娘と怜君はクリスマスはドレスデンに帰るので、今年のお正月はちょっとさみしいが新年になったら会えるのだし、向こうのご両親にも怜君 は会いたいだろうし、交互に行ったり来たりできれば私はそれでいい。

というわけで、先日怜君と娘にクリスマスプレゼントのお料理の本を先日買った。今日カードを入れて送るつもりだ。
ドレスデンの旧市街を走る馬車

怜君の国では、やはりクリスマスが日本のお正月のような感じで祝うからだ。

義理の息子ができたがために、にわかに私も彼の誕生日やクリスマスに何かをプレゼントしたいという思いが湧いてきた。

他者のことを、身内に限らずおもんぱかる精神的な余裕のような感情が育ちつつあるわが体で、母の影響が大である。

他者が喜んでくれることをやれる自分がうれしいのだ。

壁を塗り終え、妻や母がことのほかねぎらってくれた。やはり男性の私にしかできないことも多々あるし、主のささやかな存在感を示すことができた、かな。

壁を塗り、壁を超えたではないが、ささやかに脳のシナプスが元気な最近のわが体である。一人遊び的な時間の過ごし方なのに、他者が喜んでくれるようなことができるなんてことがあるのだ。

お料理だって掃除だってなんだってかまわないのだが、妻や娘が喜んでくれるからこそやりがいも湧くのである。

他者の存在なくして、我が身の喜びはないのである。考えてみるとすべては当たり前のことばかりである。 その当たり前のことに気づくというのがこれまた大変なことなのだが。

気づいてもこれまた実行しなければ意味は生まれない。実行するには健康に動ける身体がないと、なかなかに実践は叶わないということになる。

老いは体のいろんな部分の反射が緩やかになってくるが、歩くスピードでやれば十分にいまだいろんなことが可能だということを思わぬ壁塗りで私は学んだ。

お向かいの奥さんが私が壁を塗っていたら話しかけてきた。これまではごあいさつ程度だったが初めての本格的な日常会話を楽しめた。

けがの功名という言葉があるが、壁塗りの功名。家族にもいい影響を及ぼし始めているような気配もある。

妻がいつにもまして早く、大掃除ではないが家の中のあれやこれやをいい感じに整理整頓、片づけ始めたのである。

いい意味で、家の中が活性化してきた。穏やかな実践の中で互いが刺激を受けあえる間接対話。 あらゆる循環がうまくゆけば、血の周りもよくなり毛細血管にまで行き渡る。

再三書いているように、いわば遊べる身体をいかように持続できるかにこそ、私はこだわりたい。

動き、読み書き、じたばた声を出しながら見えない世界を感知する感覚をこそなくしたくはないものだ。

2015-12-14

壁塗りを終えた師走の朝に思う。

昨日北面の壁を塗り終えた。自力壁塗りをやろうと思ったきっかけは、経済的なことがやはり大きい。

妻は業者に頼むつもりで、数社から見積もりまでとっていたが、18歳から世の中に出て、いまでいえばフリーターのはしりであるかのようにあれやこれやのアルバイトをしながら、ささやかに演劇を学ぶという夢を抱きながら、何とか糊口をしのいできた青春期の人生を歩んできた私には、すぐに自分でやればいいという結論に落ち着いた。

あれやこれやの日々を生きながら、時間を見つけて柱も含めた壁塗りを開始したのが10月の終わりころから。

先週土曜日、二階部分を塗るための足場を組んでもらってからほぼ2週間、ほかのこともやりながら実質5日間くらいで、塗料が無くなるまで重ね塗りをし何とか終えることができた。

そうはたびたび足場を組むことはできないので、手の届かないところは何度も塗った。愛着のある自分の家なので北風を浴びてもまったく苦にならずできたのは、なんと人間とはいい加減であることか。

それはやはり、お金を稼ぐということが(両親がよく言っていたが )いかに大変であるかということが、私のような世間知らずの田舎者にもいくばくかはしみついたからではないかと、思っている。

そこで私はいまだに考える。はたまたお金とは何であるのかと。お金とは何かを私のようなぼんくらが考えてもせんないことのようにも思えるが、時折ふっと考えるのである。
怜君のお母さんの家でのお茶時間ゆったりと時がながれる

もちろんよくはわからないのではあるが。それは自由とは何かを自分に問うのと、どこか共通した何かのように時折感じることがある。

私が畏敬する高峰秀子さんは言っている、【お金は怖い人を変える】と。シェイクスピアは言っている、間違いの喜劇の中で、【自由も過ぎれば不幸という無知に見舞われる】と。

持てない不自由と、持ちすぎている不自由とも言い換えることも可能ではないか。今はただ単に私は言葉遊びをしているにすぎないのだが。ギリギリの余裕なき今を楽しむ余裕を持てるのか持てないのか、そこが思案のしどころ(ハムレット)

ともあれ話を変える。思わぬ壁塗り体験をやり終えた年の瀬、考えてみると夢が原退職後は畑仕事をはじめやったことがないことばかりをやっている。

特に夏から、竹韻庵では初老男なりではあるものの、かなり肉体を動かし続けたので、ちょっと冬眠したいといったような心境にかられている。

ともあれ、今年もあとわずかであるが、できるだけ煩わしい拝金主義的(偏重的)な現代の趨勢、くびきからはちょっと距離をおいて、わずかなお金に感謝し宝石のように使える時間を大切にしたいだけである。

この年齢になると、無心になって好きなことができるひと時は、まさに黄金時間ではないかと、そっとひとりごちる私である。

2015-12-12

想いもかけないことが連続して起きるわが年の瀬。

年の瀬が日々近づいてくるが、私は相も変わらずマイペースで流れている。若い時から散々右往左往生きてきて、いまだに雀百まで踊り忘れずという感が抜けきらない初老の私である。

ところで、先日舞踏家の女性を竹韻庵に案内したことをちょっとブログに書いた。今日は午後その方の家で、小さなユニットを作り岡山で活動したいという彼女の思いに招かれている。

彼女がほかにも、何人かの方たちにお声をかけているので、どのような面々が集うのか少々の不安も抱えながら、楽しみにしている。

これまで岡山にやってきて、声をかけたことはあるが声をかけられたことはほとんどないからである。

私は自分が単細胞を自覚しているので、愚直なまでに一途な(程度バランスにもよるけれど)人生を歩むことを余儀なくされたような方に、惹かれるところがある。

舞踏家の女性とは二回しかお目にかかっていないが、一途さという点では芸術家にしか持ちえないオーラのような匂いを私は感じたし、私の人生で舞踏家と直接会いまみえるのもこれも何かのお導きと 、今を前向きに生きたいだけである。

社会的には定年などという言葉が大手を振って歩いているが、還暦を過ぎたらひたすら自由自在に存在してみたいという思いしか私にはない。

定年、諦観、などというものは自分で考えればよいのである。ギリギリ、ハラハラ、ドキドキ、いまだときめく身体があるうちは、ひたすらその流れの中を、必死で泳ぐ。メダカはメダカなりのDNA人生を生きるのみである。

結婚式場を流れるエルベ川、怜君の祖母と
昨日とは異なる時間や、出会いがあるなんてことは、たまさかに生きている果実であると私は考える。

いきなり話は変わるが、昨日も予期せぬかたからお電話をいただき夕方西大寺でお茶を飲み、お話を伺ったのだが、とある方が私を紹介したとのことでした。

ちょっと驚きました。私が岡山にやってきてあれこれやってきたことを(いったん過去形にしておきます)きちんと感じ見ていてくださっている かたがいたからこそ、このような実に余るお話をいただけるのだと、大変恐縮至極のありがたいお話でした。

4人のインタビュー本を作る(実際に販売する計画です)その中の一人として、何故か私に受けてほしいとの依頼でした。正直、私でいいのかとの思いがよぎりましたが、つたないなりに20数年企画してきたいささかの私の仕事が、何らかの形で記録として残るのであれば望外の喜びなので有難くお受けすることにしました。

来年2月からインタビューを開始、10月には本を完成(横長版の写真集のような体裁になるのではないかと、定価は1000円程度、未定)するとのお話でした。

今朝はこれくらいにとどめますが、なんともありがたいお話なのでインタビューされる側の一人として(他の3人の方の中のお二人とは面識がある)よき本ができるように側面から、微力を尽くせないものかと、ま考えている。

ともあれ、いい意味で思いもかけずうれしいことがおきるわが年の瀬、 静かに何かに感謝するのみである。

2015-12-11

野坂昭如さんがお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。

85歳で野坂昭如さんがお亡くなりになりました。先日の水木しげるさんに続くかのように。

敗戦の時に15歳ですから、その後お亡くなりになる前まで飢餓の恐ろしさを、一貫して伝えられました。そのことはいくばくかは頭の中でではあるにせよ、受け止めています。

私が土に親しむようになってきつつあるのも、食べ物の有難さや、尊さを歳を重ねるにつけ実感しているからにほかならない。

命と食べ物は直結しているという、まごうことなき真実。ところで野坂大先輩は私の中では11PMに出演していたころの元気な盛りの頃の姿が脳裏に焼き付いています。

【みんな悩んで大きくなった】 のCMも。白いスーツにハットと黒メガネと独特の早口語り、まさに怪人。そして照れ屋で、余人にはないやさしさ。だからこそ、あんな素敵な奥様に巡り合えたのでしょう。

私が信じられる人は、どこかに後ろめたさや、ある種の申し訳なさ、いわば良心の影を引きずっているような人に惹かれる。

きっと私の中にも、そういう闇の自分を引きずって、今現在を生き延びているという苦い自分が、まぎれもなく存在し、眠っているからなのだと思う。

その人間存在の狂気の部分を、いやでも引っ張り出してしまう戦争という、いわば人類の国家間の悪事に翻弄されるあまたの民の苦しさ(自身が体験された)の恐怖のトラウマを野坂昭如さんはペンや歌や、お百姓をされたりしながら、生涯伝えられたのだと思う。

時代は野坂さんが憂えられたように進んでいるようにも思えるが、新しい感覚や感性を持った優れた若いかたたちの出現を感じる。

私は能天気ではあれ現在を肯定的に生きられる人生時間こそが大切だという認識をもって生きている、でないとこれからを生きる人たちにはあまりにも希望があらかじめ閉ざされている。各自がこじ開ける勇気を持たなくては。

きざな言葉ではあるかもしれないが、世界は今を生きているからこその中にしかありえないのだから。だからこそ尊い。自分の体、手や足を動かして頭に問うのである。

いたずらに憂えるのではなく、自分の中の希望という幻想とでもいうしかないものに、多くの人々は必至でしがみついているのだ、と私は思う。

その尊さを、私のような凡俗人はすぐ忘れてしまう。だからこそ忘れない根源的人類の記憶装置として演劇、文学や絵、音楽、あらゆる芸術が、絶えず繰り返し再生されるのだろう。



2015-12-09

冬は憲法に関する本を読みたいと思う、朝です。

安全保障法案が可決した後も、東京では数千人規模のデモが続いている。忘れやすい私ではあるが、報道ほかでささやかにアンテナを張り巡らしている。
唯一の贅沢・冬の私の精神安定装置薪ストーブ

TVではデモに関するニュースを きちんと取り上げているのを、ほとんど見かけなくなってしまった。

私が午後9時以降はほとんどTVをみないせいかもしれないが。

63歳の夏は人生で初めて何度も国会前に 行った。ついこないだのようにも思えるが、ずいぶん前のようにも思える。

国を守るということは、このいまの時代どういうことを意味しているのだろう。私にとっての守るべき祖国とは何か。

国民とは、国語とは、母語とは、日本語とは、人間とは、言葉とは、思考の源泉はやはり言葉である。

デモクラシイの穏やかな哲学を ぼんくらなりに学び続けないと、ようやく手にした宝のような憲法の精神がうたかたのように消えかねない、危うい瀬戸際に我々はいるのではないか、という認識。

絶対矛盾を抱えながらも、現時点では安全保障法案の拙速な可決にはいまだ私は納得がいかない。

ところで、おとといの新聞で韓国で覆面デモ禁止に抗議するデモが行われたという記事を読んだ。主催者発表では4万人、警察の発表でも1万4千人がデモをしたとある。映像では見ていない。

私などは一仕事終えた年齢だがこれからの時代の行く末を思うと、やはり安穏とはしていられないなどと、どうしてもそういった思いにかられる。韓国の人たちは、アクションが早い。

いたずらに社会的な不安をあおるようなデモには冷静な感覚を持ち続けたいとは思うが、あまりに静かな意思表示もいかがなものかと私などは考える。

いいおじさんを忘れて、特に若者たちを含め元気な世代は、それぞれに納得のゆかないことには、表現の自由の範囲で示威行為をしないとまずいと私は思っている。理不尽や不条理なことには怒らなければ。

このブログもそうだが、様々な矛盾を抱えながら、揺れながら考え続けないとやばい。思考をやめることを、忘れることを、権力者側は 望んでいるとしか思えないのだから。

誰かが言っていた。原発事故が起こった時に、やはりもっともっと関心をもって原発に反対しておけばよかったと。

可決された安全保障法案の先行きはまだ判然とはしていない成り行きだが、私みたいな朴念仁でも感じるのは、きっとあの時が歴史的なターニングポイントだったと、後悔はしたくはないがゆえに、どちらに流れるにせよ、選挙権を持つものは、きちんと自分の頭で考えたいものだ。

夜が長い師走、私は静かにじっくりと物事を 考える落ち着いた時間を大切に過ごしたいと思う。空恐ろしいほどの情報が飛び交う、身体が情報に汚染されないように、自分の体が発する情報をこそ大切に、右往左往しながらも、土に近いところから何かを感じる力を冬場は蓄えたい。





2015-12-07

Uさん、山陽カルチャーでのたった一人の生徒さんは私をびっくりさせ続ける。

今日午前中は山陽カルチャーでシェイクスピアを読むレッスンがある。講座がはじまって二年半以上が過ぎた。

生徒さんは開講以来一人である。Uさんは現在85歳、今も眼鏡をかけず作品が読める。声量は低いが、きちんと読めることに関しては私に言わせれば驚異である。

きっといつかは終わりが来るであろうこのひと時を、ことのほか私は楽しみにしている。ああ今日もUさんとシェイクスピアが読めるかと思うとうれしいのである。

Uさんは生徒一人のために、私がやってくることをことのほか申訳がないとおっしゃるが、私に言わせるとまったく逆である。この年齢でシェイクスピアを理解し、声に出せる知的感性、頭が下がる。

この講座のおかげでUさんと巡り合えたことを私は毎回のように感謝している。たった一人の生徒さんではあるが、この生徒さんはただの生徒さんではない。

そのことは、私自身が一番承知している 。実に私自身が刺激を受けて学べるのである。私の生活圏で私に刺激をくれるご年配は、母とUさんの二人である。

まったく対照的な人生を歩んだ二人の先輩ではあるが、この二人の存在は私に刺激をくれる。いわばこのように老いてゆければという、お手本としてである。

最近しゃんとしていない、ご年配の方をたたみかける。やはり生き方というものは、一朝一夕にできるものではない。日々をいかに生きるかいかんで大きく変わってくる。

二人に共通するのは、日々前向きだということである。好奇心とは高貴心であると、肝に銘じる。Uさんは、こんな本を読みましたといい、私に本を貸してくださる。
怜君のお母さんの家の前で

私も本を貸す。世代を超えて知的な遊びができる得難い方なのである。

私みたいな無知な輩がいうのはおこがましいが、この数十年岡山に来て思うことだが、本を読む人は多いとは思うが、感動するばねを持ち続けている人には、そんなにお目にかからない。

それは、私の活動範囲が狭いからだとは思うが、だからカルチャーの口座でこのような素敵に年齢を重ねている方に出会えた私は幸運だとかみしめる。

母や彼女を見ていると、運命を丸ごと受け入れ丹精に生きている。その潔さが、アンチエイジングに浮かれたり、健康食品に入れ込んだり、(過激かもしれませんが)するご年配を見ると、嫌悪感にかられああはなりたくないと思うのだ。

心身ともに健康であればいいのだが、いたずらに長生きするなどはかえって無残な気が私などは現時点ではしてしまう。短いとか、長いとかの問題ではなく、いかに生きるかの一点に人生は絞られるのだととの側に私は立ちたい。

Uさんはおっしゃる、最近のお年寄りは甘えているのではと。こんなことを63歳の私に向かってのたまう方が、たった一人の私の生徒さんなのである。つまりカッコイイのである。

一冊のシェイクスピア作品を読み終えると、次は何を読みましょう かと私に催促する情熱の根拠は奈変に在りや。

外見は、お年相応にお見受けするが、内面は生き生き、それは言葉、振る舞い、態度に表れている。

2015-12-06

壁塗りをしながら家族時間を堪能しました。

昨日午前中業者の方に足場を組んでもらい、午後から日暮れまで北面の壁を塗りました。妻と相談しペイントの色を変えたので、こないだ塗ったところももう一度塗ることにしました。

柱の高いところは塗りたくても塗れなかったので、この際きちんと時間をかけて塗ることができます。素人なのでもちろんプロのようなわけにはいかないのですが、イギリス人がしつこく家のメンテナンスをする姿が焼き付いているので、その姿を見習いたく思っています。

樹の部分にペンキがつかないように、前もって新聞紙やテープで隠しをしてから塗り始めたのですが、思ったよりも塗ることができました。

このペースなら予定よりずっと早く塗り終えることが出来そうでうれしいです。自分でやるつもりはあまりなかったのですが、業者の見積もりを聞いたとたんにやる気が俄然湧き起ってきました。

何度も書いていますが、家などというものは庶民にとっては、夢のお城、家族全員が日々夜露をしのげ団欒を共にするかけがえのない根城なので、いささか古めかしくも主である私は奮闘しないわけにはゆかないのです。

男と女がうまくやってゆく秘訣は、取り立てて何もないと私は思いますが、生れ落ちた時代の多感な時期に育まれた感性に、私は殉ずるほかはないという心境に最近はなりつつあります。私は私らしく妻は妻らしく、お互いを認め尊重するのみです。

ことさら娘たちの世代に迎合したりはせず,時代のブームや流れをそっと眺めながら無理はせず、自分の好きなことや、正直にやりたいことをただひたすら、そのような五十鈴川感覚です。

ところで、まったく期待しなかったのですが娘に少し塗ってみるかと声をかけたところ、しばらくしてから足場をよじ登ってきたではありませんか。
ドレスデンの怜君のお母さんの家にて

ローラーと刷毛で塗るのですが、刷毛でコーナーを塗るのを一時間以上手伝ってくれました。

よもやまさか親子で壁塗りができるとは思いもしなかったので、良き思い出ができました。一番高いところから塗りましたから、よく上がってきました。

庭では母と妻がガーデニングをしながら、声をかけるといろいろ下手間をしてくれますから、つまりは家族全員で作業をしているわけです。

陽が落ちるのが早いので、4時半には終了。すぐにお風呂で冷えた体を温めました。母が気を使いお肉を買ってきてくれたので、6時すぎ全員で早めの愉しい焼肉夕飯となりました。

母が毎回食事の度に、幸せだと口にするのですが、幼少期の貧しき食卓や、戦後青春の苦労を経験していればこそでしょう。苦労を吉にするのが母らしい、苦労を丸ごと引き受け人をうらやまない。

母ほどではないのですが、私も幼少期貧しくはありました。でも、曾祖母含め9人、ワイワイガヤガヤ家父長の親父を中心にした、ささやかな夕餉のひと時が蘇ります。初冬の夕暮れの一人夕飯ほどわびしいものはありません。

私はやはり性格なのでしょう。にぎやかな食卓が私にはあっています。家族がいなければ、とてもではないけれど、壁を塗ったりするエネルギーは湧いてこないでしょう。

ともあれ、今日も妻や母と終日を過ごすことになりそうです。私は今日も冬空の曇り日ですが着こんで壁を塗る予定です。妻とは土日しか協働の時間が持てないので、土日はできる限りともに すごせたらと考えるのです。

夜8時過ぎ妻が母を車で送ってゆきました。可能な限り母を含めた 家族時間を大切にしたいと思わないわけにはゆきません。娘が怜君や姉にラインで知らせるとすぐに返事が届きます。

言うは易し、実行あるのみなのです。父は実行しなければまったくもって相手にしてくれないほどに厳格でした。軟派な人生を選択した私ですが、晩年はほんの少しでもと、硬派な人生に憧れますが、さてどうなるでしょうか。

2015-12-05

新聞で国内外のニュースに耳を澄まし日々を過ごす。

最初にまず断っておきますが、SDカードとパソコンのコネクトがうまくゆかず、昨年のドレスデンの写真がこのところ続いていますが、どうかご容赦ください。

書いている文章とは全く関係がなかった写真が載ったり、またしばらく文章だけになったりするかもしれません。

さて昨日は、午前中竹韻庵で笹の根を耕運機でうがしてから、しつこく笹の根を手で採る作業をしました。(土の匂いを嗅ぎ、こういうことをやっているときがことのほかに幸せです)

風が強い一日でしたが、竹韻庵は高い雑木に 囲まれていますので、直接風に当たるということはないのですが、木が風にあおられ木の葉がひっきりなしに舞い降りてきます。ときおり世捨て人感覚になります、いい意味で。

風が強い時には焚火は控えることにしています。じっとしていると寒いのでともかくのらりくらり冷えない程度に体を動かすのです。

体調次第では億劫に感じる 日もあるのは人間なら当たり前のことなのですが、これまでの経験でそのようなときはそのように体を動かせば、いまだ自然に体は動き始めるということが、私にはわかっています。

熱やよほどの体調が悪い時は別ですが、長時間でなければ体は動かした方がいいのです。案ずるより体を動かせです。

冬は日照時間が短いので、竹韻庵にいる時間を少なくして、ゆく回数を少しですが増やそうかと考えています。季節ごとにやれることを見つけながら竹韻庵が少しでもいい感じになればと思うのです。

体を動かしながら、休んではあれやこれや考えてきたので、ささやかに畑らしきものも存在しているのだと思います。

体と脳の意識は不即不離の関係です。書くという行為もかなり意識を使いますから、つまりはささやかに体で書いているのではという気が私はしています。

もう最近は、書き始めると体がかいているという感じで 、パソコンを開くまで何を書こうかなんてほとんど考えていません。
昨年ドレスデンで怜君の家族がバーベキューをしてくれました

私のブログは8割は即興文体になりつつあります。

話は変わりますが、ちょっと留守にしていると新聞がたまります。

一昨日と昨日、かなり集中して新聞を読みました。

読み手の意識、心かけ次第であらためて新聞には(M新聞だけなのですが)貴重な記事や今を生きるのに必要な情報が、満載されています。

専門知識は何もない私ですが、【核の回廊をいく】という連載をよんでいます。戦後からの原子力発電政策から、津波による事故、そして今また再稼働を認め始めた自治体の動き。

あらためてこの経済大国になるまでのエネルギー政策のむつかしさを、この連載でいくばくかを私は知りました。連載は続いています。知らないとやはり何も言えません。

温暖化で海面が上昇し、このままでは国が沈没する危機をツバルの大統領がコップ21の会合で訴えました。自国の利益だけを追える時代はとうに終わったと思う。この惑星生命体はかけがえなくつながっている。

プラスチックの微粒子のごみを魚が食べる、食物連鎖の、放射性廃棄物の濃縮の連鎖、海洋汚染の深刻さ。

フランスのテロ以外にも報道されていないテロの頻発、 新聞を開いても日本にいると皮膚感覚で受け止めることの困難さ。

だが、せめて日々新聞くらいは開いて世界の出来事や社会の出来事に耳を澄ます感覚を、なくしたくはないという思いが、たまった新聞を開かせる。読める体で読むしかできないにせよ読む。

報復の連鎖を乗り越える英知は、海面上昇を超える英知は、 安全なエネルギーを生み出す英知は、新聞で知るあらゆる悲しみ、国内外の暗い知らせを超える英知は、、、、。人間とは何か。お金とは何か。

竹韻庵で風の歌を聴きながら、初老の私は天と地の間で揺れる。


2015-12-03

家事を少しでもできるように自立した老春を、と願います。

昨夜は遊声塾のレッスン(意味もなくただただ声を出すことがとても楽しい)で12時近く寝ました。いつもよりゆっくりですが6時には目が覚めたので起きました。

妻は月曜日から金曜日までフルタイムで働いているので、努めて家事の幾分かを、私が担うように心かけています。
昨年ドレスデン・妹さんも一緒に怜君のお母さんの家の近所を散歩

食器の片付け、洗濯物を干し取り込む(娘がやるときもある)、 それから掃除、簡単な買い物など、たまに夕飯を作ることもあります。娘も。

これからは妻との時間を大切にし、本を読んだりする時間を減らし、料理をする時間を増やしたいと思っています。

妻は私より8歳若いのでまだまだ元気なのですが、少しでも妻の負担を減らし、私の楽しみを同時に増やしたいのです。

今日は雨の後なので竹韻庵はちょっとのぞくくらいにして、家事に重きを置いた一日を過ごすつもり、冷蔵庫の中に在るもので何か作る予定。

我が家はみんなそれぞれ忙しいので、朝と昼は各自で済ませ、夜は必ず一緒にするというスタイルなのです。

退職後、昼食はほとんど各自、(自分で作って用意し)済ませているので何事も継続しているうちに、それなりに当たり前のように簡単に苦も無くできるようになりました。

冬はやはり体が温まるものがほしくなります、(夏はぎゃく)年齢的にそんなにたくさんは欲しくありませんし、スープやなべ物がちょっとあれば、何とはなしにすぐできます。

何といっても母が季節の野菜を届けてくれるので(いまは小松菜やかぶ、春菊など)大助かり、我が家はほとんど外食をしないし食費がかなり抑えられます。ありがたいことと心から思います。

この国の行く末を、つらつらとおもんぱかるに、年金も含め我々庶民、とても私などは安穏とはしてはいられない気持ちになるのですが、いかがでしょうか。

食と安全、安心と健康は、可能な限り自分で守らないと、という気に私などはなります。

田舎の井の中の蛙が演劇などを学ぶという途方もない行動を起こしたがために、はなはだ個人的な辛酸を経験したことが、返す返すも今となってはよかった。工夫する癖のようなものが沁みついたように思えます。

なんでも安易にお金で済ませたり、労を惜しんでいると横着を絵に描いた大人になるのは理の当然でしょう。先人たちのほとんどは身の回りのことはほとんど半世紀前まで、身体を使っていたのですから。

城山三郎さんが、逆境を生きるという本を書かれています。わたくしごと気も個人的にほんのちょっぴり苦労したおかげで、節約しながら面白おかしく生きてゆく工夫をいまだに続けられているように思えます。

本当にチャップリンが言うように、家族と、友人と、少々のお金があれば、付け加えるなら健康があれば、それこそがまさにいかようにも生きられる。知恵の泉を耕さなくてはと思います。





2015-12-02

素敵な舞踏家の女性と出合い、竹韻庵にご案内しました。

4日も竹韻庵を留守にしていると、畑がやはり気になる。そこで何はともあれ朝一番出かけた。漸くふゆらしくなってきた竹韻庵はしんと静まり返っていて、肌寒い。

雑木林に囲まれている竹韻庵の野菜は日当たりが悪く、成長は遅いがゆっくりと育っている。それなりに育っているので安心する。

そこで少したき火をしてから耕運機を動かしとにかく体を動かした。何はともあれ、竹韻庵では最低2時間近くは体を動かすことにしている。

こんなに早く畑ができるとは思いもしなかったので勢い竹韻庵にゆく回数が増えているが、これもまた成り行きで楽しんでいる。

話はいきなり変わるが、先日とある方が私に紹介したい舞踏家がいるということで、この間お会いしてお話をさせていただいたのだが、私の中で感応するものがあり、ほんのわずかな時間だったが、その方を竹韻庵に案内した。

女性で40年近くパリに住んで活躍されていた方で、私よりちょっと年齢は上なのだが、岡山で今後は生活しながら、小さなユニットを作りたいということで、何故か出会う羽目になってしまったのだ。

それもこれも何かの機縁だと前向きに考えることにし、まあとにかく私がいま大切にしている場と空間を見てもらいたく、即興的にご案内したわけだ。

とても喜んでくださったので、私はこの方と何らかの形で面白いことができるのではないかという可能性を今感じつつブログを書いている。

舞踏の歴史はまだ半世紀くらいだと思うが、地方ではなかなか見るチャンスが限られている。私自身も3回くらいしか見ていない。若き日びっくりした記憶がある。美醜とは何か。

踊りの概念を覆す動きの舞踏は私にとっては未知の世界、竹韻庵もそうだがお声がかかるということを私は前向きにただただとらえたいのである。

声を出すこともそうだが、喜びや感動は いい意味でのある種の苦痛を伴うものではないかという認識が私にはある。
昨年ドレスデンの旅で見つけた巨大カタツムリ

この齢になり、舞踏家と出合えるのも何かのめぐりあわせ。この方を中心にしていろんな人とまた出会えるのは生きているからこそである。いま感じ取れる日々の世界こそがすべてである。

舞踏家は己の身体をとして人間の根源のふちに降りてゆく。はなはだの勇気の持ち主でないとかなわぬ行為である。

ともあれ、人は巡り合い分かれ、別れ巡り合う。上がらない足を引きずりながら、よたよたとではあれ、何かの導きのままに流れるように流れてゆこうという五十鈴川である。

またもや話は変わるが、昨日夕方娘を岡山の歯医者に連れて行った帰り、娘が竹韻庵を見たいというので、再び竹韻庵を案内した。

親子で落ち葉のじゅうたんの山里を 二人でしばし散策。娘がいいところだといってくれ、畑もよく作ったね、といってくれたので単細胞の私は、若い時のようには上がらぬ足を、今しばらくはゆっくりと動かしたいとの思いを念じた。齢は無関係、要は情熱の発露のみにすがるだけである。

誰かが見て感じてくれる人がいれば、私は情熱の発露が保てる今を生きている。なにやら最近あちらこちらが痛い、昨日は過労だろうか終日歯がうずいた。当たり前だ63年かん使ってきたのだから。

だがこれまでとはあきらかに異なる自分があらわれてきたようにも思えるのでそういう自分を生きてゆくしかない。

(ちょっとしばらくの間

2015-12-01

とりとめなき師走初日の真夜中ブログ。

真夜中です。朝というにはまだ早い。目が覚めたので胡乱な状態でつづりたい私です。とにかく静かです。

大都会の喧騒の中にわずか4日間とはいえ、いたせいでしょうか。西大寺の夜の静けさがことのほかしみてきます。

齢を重ねるにつけ、静けき時間をことのほか好むようになってきました。それと共に若き日から芸術や文化に触れることで何とか精神のバランスを保つような、ある意味では騒がしい世界に、すがるような自分がいたのですが、(触れるのをやめるという意味ではなく)そういうことをことさらに追いかけなくても、ずいぶん精神の安定がたもてるようになってきました。

ピーターブルックのお芝居の印象は、とても短い文章では書き記せませんが、齢90歳の老演出家の人間界への絶望の中からの希望への見果てぬ賛歌を、(なにもない舞台、布と棒と4人の俳優と、パーカッション二スト土取利行氏)深く感じました。4人の登場人物が最後そろって太鼓のリズムに耳を静かに傾けるエンディングが強く印象に残りました。

余分なものが何もない舞台は、あらためていろんなことを想像させ、東京までわざわざ観に出かけてよかったと思いました。一方ブルック演出の舞台ももうこれで見納めになるかもしれない、との思いも抱きました。

なかなかうまく言えないのですが、いい意味で芸術や文化的なイベントや、作品や企画などをことさらに追いかけなくても、そろそろいろんなことがリセットではなく、リスタートする年齢に自分が来ているということを今回の帰省の旅と、上京旅で感じ始めています。
昨年の結婚式の後の新しい家族とドレスデンのエルベ川下り

それはあらためてかけがえのない家族を基本にした日常生活を礎にしたライフスタイルを、フィクションではなく 、普段の暮らしの中に見つけてゆきたいというささやかな思いです。

話を変えますが、水木しげるさんがお亡くなりになりました。先日は原節子さんが、加藤治子さんが、加藤武さんが、(書き出したらきりがない)少年時代、青年時代少なからぬ影響を受けた方々が、次々とお亡くなりになります。

さみしくは感じます。だけれどもやがては誰にでも訪れる死をいかように受け入れてゆくのか、千差万別でよいと私は考えています。みなさんやり遂げた人生だったと思います。

生きているからこそ出会えた、家族とも、姉や兄とも、友人ともやがてはお別れがやってきます。来なかったら大変です。新しい生命たちの時代、初老の私はいかに生きるのか。

現時点で、浅薄な私の思うことを書くことは控えます。ところで、昨日私の下の娘が、親知らず歯を抜いたのですが 母が非常に心配しました。美しい心配です。

母は下の娘をまるで自分の子供のように溺愛しています。それは父親である私よりも深い愛であると時に感じ入ります。娘にもその愛が伝わっているように感じます。

上の娘が結婚し怜君という息子ができる。愛は樹が育つようにしか成長しないのだと思い知ります。東京旅で、息子の怜君と娘がご馳走してくれました。

18歳から世の中に出て夢のように幸せでした。それはどんな芸術や文化に触れても味わえない 、いまこの年齢だからこそ味わえた感情でした。

今日から師走です。早い時の流れ、まさに歳月人を待たず、五十鈴川だよりを読んでくださる方良き師走をお過ごしください。