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2014-06-30

62歳、畑で体を動かし、シェイクスピアを声に出して読み、自分と向かい合う。

昨日から、なにやらパソコンの具合が悪い、写真もアップできないし、マウスも動かない。だからこの拙文もアップできるかわからないが、せっかくのお休みくらい、一週間のはじまりのおまじない的ブログを何やら書いて、遊びたい私である。

この年齢になると、かなりどこかが鈍感になり、いい意味でなるようにしかならないのだという、祈りにも似た、ある種の感覚に、私の場合たどりつきつつある。ある種の無常感で、心がいっぱいになる。

だからといって、私自身は私なりに精いっぱい生きて、日々を送っているという、そこはかとなき、自己満足的な日常を送っている自覚がある。繰り返し書いているが、農の仕事に従事してからというもの、なにかつきものが落ちたかのように、これまでの自分にはなかったような感覚が生まれてきて、空のもと、土と向かい合い、身体を動かしているだけでなにやら満たされるのである。

以前のように、芸術や文化的なことに触れなくても、まったく淡々と日々が流れ、時の移ろいの中での、植物の変化のなかに身を置いていると、人間界に身を置くよりもはるかに気持ちがおだやかに過ごせるのである。これはいったいどういうことが、我が身に起こりつつあるのであろうか。

わずか9カ月の農体験ではあるが、確実に何かが私の心身で変わりつつある。人間が今もハイテク、イノベーションの果てのスーパー身体置き去りライフに、進みつつあるのを尻目に、まさに自分はフール・オンザヒルではなく、畑の中のおバカさんとしての在りようを、身体を動かしながら、農作物と向かい合いたいといった、かのような心持なのである。

そのことのほうが、楽しいのだ、だから続けられる。おそらくこれから歳を重ねるに従って、身体が動ける在り難さが、いかんともしがたく沁みてくるようになるだろうと思う。だからこそ、先のことではなく、今動ける身体での、畑での時間の日々を何よりも大切にしたいのである。

それとシェイクスピアを日本語で、声に出して読むこと。今のところ日常、私はこれで満ち足りている。今のところまったく退屈なんかしている時間が私にはない、次から次にやりたいことや、したくなることが起きてきて、限りなくいい方向に循環のスパイラルが起きているのである。

限りなく心労が少ない状態、身体が心身ともに健やかでな状態なればこそである。だから、私が今最も怠らないことは、身体の手入れである。体の無理がきく若いころは、自分の体を省みることがなく、酷使してきたような気がして、今私はおおいに反省している。

でも気付いたのだから、しっかり自分の体と向かい合い、反省しながら、あらためて自分と向かいあえばいいのである。人間には反省するという、大事な気づきが備わっている。そのことに虚心坦懐に向かいあう。

汝自身を知れ、とは昔から聞くこれ以上はない、深い深い哲学的言葉だが、齢62歳にして、その言葉の重みをなるだけ忘れず、畑で体を動かし、声を出しながら自分との対話を可能な限り持続したいと思わずにわいられない。

五木寛之著【退屈のすすめ】を読む。

ずいぶん久しぶりにブログを書くような気がしている。なんだかこのままなにも書かなくていいのではないかという気もするのだが、いつものように絶対的矛盾というしかない感情に、私はいつも襲われながら、何やら書きつづることで、今この時を、生きている。

このように書き始めると、梅雨空のように、鬱陶しき中年オジサンのぼやきブログになってしまいそうで、そんな気分の時は、つとめてブログを書きたくはない。つとめて、さわやかな風のような話題を綴りたいとは思うものの、生来の気質のようなものは、いかんともしがたく、わが身の限界を時折いたく痛感する。

職場のN氏は面と向かって、五十鈴川だよりが楽しみだと言ってくれるので、読んでくださる方々のためにも、よたよたとではあれ、立ち続けている間は、ささやかに書き続けたいとの思いにかられる。

さて、五木寛之さんの【退屈のすすめめ】という本を読み終えようとしている。若いころから氏の小説ではなく、エッセイにかなりの影響を受けてきた私は、今も時折、氏の小説(もたまに読みます、親鸞は入院していたときに上巻、退院後下巻をを読みました)ではなく、エッセイを読む。

齢81歳、その精神のみずみずしさには驚かされる。氏のこれまでの人生での精神の薬としての知的遊びを、遊びのくくりで8章にわたって述べている。きわめて読みやすい文体であっという間に読み終えるが、内容は実に深い。これまでも、氏の著作は時折読んできたのだが、この本はお薦めだ。

氏はもっとも多感な年齢での引き揚げ者である。その過酷というしかない原体験は、今に至るも氏の人生を、深くおおっている。私の両親も引き揚げ者である。だからというわけではないが、私は最近とみに、引き揚げ者の方々の書かれたものを読みたくなる、自分がいる。なかにし礼さんもそうだ、枚挙にいとまがない。

今はそのことに関しては置くことにするが、多感な時期に引き揚げてきた方々の、その後の人生の生き方、歩み方に、惹かれるのである。私より15歳から25歳くらい年上の年齢で、すぐれたお仕事をされている方には、引き揚げ者の方が多い。異国の地で生をうけた方々は、大陸的で視野が広くフットワークが軽い、くよくよしない。

デラシネという言葉も氏から教わった、1968年氏はシベリア鉄道で、横浜からヨーロッパに向かっているが、その10年後に私は逆コースで帰ってきたのは、氏の本の霧のナホトカ航路という響きに若き私が、感応したからだろう。

おそらくすべての人がそうだとは思うが、多感な時期に触れた森羅万象から、ヒトは影響を受ける。私にとっての五十鈴川、ビートルズや、シェイクスピアがその最たるものである。幼き日、若き日の原体験のようなものから、おそらくヒトは一生逃れられないのではないかという気が、私にはしてならない。

そのことから、終生、私は逃れられず、歳を重ねてゆきながら、繰り返し繰り返し、咀嚼反芻しながら、今を生き延びているのではないかという気がしてならない、おそらく今後も。

第2章で、声と遊ぶ、ということに関しての考察が述べられている、我が意を得たりである。大先輩の教えには、いちいち深く私は納得する。私ごときの年齢で言うのはいささか気が引けるが、困窮の極みではあれ、つまるところ人生いかに遊べるかということに尽きると思うのである。

(今朝はパソコンの調子悪く、本の写真をアップすることができません、ご容赦下さい)


2014-06-23

新しくパスポートの申請をしながら、ささやかに考える

この数年外国に行かなかったために、25歳で初めてパスポートを取得してからパスポートがきれていたので、新しく10年間用を、妻とともに申請することにした。

初めてロンドン暮らしをしたときに、異国の地でいやというほどに、自分は日本人なのだということを、骨身にしみて思い知らされたことが、その後の日本に戻ってきてからの、自分なりの生き方を変えたのだということが、この歳になるとよくわかる。

ブログで書くことは、時間的にちょっと無理だが、一言でいえば、大きく自分は日本的世界に回帰したということが、言えるかと思う。だからこそ、中世夢が原で働くことができたのではないかという気もする。

異国の地では、パスポートが命綱である。国家の存在というものの、日本においては普段はあまり気にもしないことを、異国の地で暮らすとたびたび自覚させられることになる。その微妙な感覚は、やはり体験しないと、わからない感覚としか言いようがない。

旅をするということと、現地で一年以上暮らすということは、やはりちょっと異なるような気が、私はする。特にビザを延長したりする際の、国際社会の厳しさは、経験しないとなかなか理解されにくいと思う。

よく言われることに日本人は、安全と水はただのように感じている、ということがある。島国のかなり単一的(ではないと思うが)な感覚文化と、陸続きの過酷きわまる国々の文化とは、宗教、習慣、歴史民族的文化、言葉、地理的環境、あらゆることが違うがために、理解するということは、日本に生まれた私の場合は、ちょっとあきらめている。

それは、いい意味でのあきらめとして、である。理解するのではなく、あるがままを受け入れ、認めるということに徹するという態度が、絶対的に肝心なことだという結論に、私の場合達したのである。
 
いい加減、融通無碍、ファジー、白黒つけない、グレーゾーン、虚実皮膜のま、言わぬが花、間の文化、非対称、何でもアリ、家の畳や、ふすまをはじめ、余白や隙間の私の文才では語りきれぬ独自性は、やはり特殊な気がする。

そのことに若いころ、わずか一年4カ月の異国の暮らしで、身にしみて、身体で腑に落ちたのである。

生活の美とでも呼ぶしかない、オリジナル感覚。四季おりおりの中で、いかに祖先がささやかに、貧しき中でも生を遊んできたかということ。

異国で初めて私は日本的なるものを、相対化できたのだと思う。私自身が、限りなく極楽体質なのは、むべなるかなといったところ。

さて、いきなり集団的自衛権についてであるが、私の個人的な考えは、すでに述べた記憶がある。

憲法改正論議が盛んになりつつある。性急に急がず、私を含めた責任世代は、やはりまずきちんとおのおのが憲法を読み、一人ひとりがきちんと考えないと、と、私は思う。だから、遅まきであれ私も考える。独りで自立して考える。

ヒトは学ばなければ、論議のしようもない。雰囲気で流されては、まずいと思う。いかに、自分の頭で考えられるかだ。それでなくても、私も含めながされやすい体質が、、ヒトの顔色をうかがう風習は、いかんともしがたくこの国では根強いのだから。

戦後の新しい憲法がどのようないきさつで生まれたのかについても、私は詳しく中身も含めて、きちんと学校で習った記憶がない。他の人はどうであろうか。歴史も含め、自分の国の憲法をきちんと教えてもらえない、なんてのはちょっと悲しいし、おかしいと私は思うが、いかがだろう。

ともあれ、ワールドカップやオリンピック報道の、うかれたにぎやかさの背後でいろんなことが、我関せずの間に決められ、きちんと考える力を持たなかった国民がやがてはそのつけを払わせられる、なんてことにはならないようにしたい、と個人的にごまめの歯ぎしりではあれ、思う。

家族も含めた、平和や、穏やかな暮らしは、おのおのが必死で守らないと、誰も守ってはくれないというのは、歴史的な哲理だと私は思う。選挙にも行かない人がこんなにも多く、現実に不満や愚痴をこぼすのは、社会的に大人の態度とはいえない、と思う。






私の一回こっきりの人生を、親友K氏は限りなく楽しくしてくれる。

親友のK氏から、メールが届いた。時間があれば、夏18切符で上京しないかというお誘いである。前回、私は11時間かけて、西大寺から品川までを在来線を乗り継いで、初めて上京した。

いろんな思いが、こめられた私なりの旅の仕方なのだが、若かりし頃、ヨーロッパ14カ国を3カ月乗り放題チケットで旅したり、シベリア鉄道で日本に帰ってきたりと、私はとにかく鉄道の旅が好きなのである。アフリカでも一泊二日、タンザニアのモンバサから、ケニアのナイロビまでのんびり車窓からのサバンナの景色をたのしんだ。

ゆったりと日本列島を旅しながら、車窓から風景を眺めながらの、のんびり旅には新幹線はまったく味気なく、私のような時代についてゆく気もない輩には、時間があればあまり乗りたくはない、乗り物なのである。早いというだけで、おカネが高いのも腑に落ちない。

時間は同じなのに、速いというだけで高くなるのは、何やら錯覚にのせられている気がしてならないのだ。だって時間は売り買いするものではないという、認識が私にはある。

ところで何せ少年時代、SLを体感している世代なので、世界のあまり速くない旧式の列車が今も走っているような国に、限りなく私は惹かれる。(暴走暴力文明からは、限りなく遠くにいたい)

リニアモーターカーとかには、まったくもって関心がない、宇宙開発にもまったく関心がない、開発すれば限りなくお金がかかり、限りなく自然は壊され、人間の暮らしは非人間化し、多忙を極め、挙句、なにおかいわんや、という行く末がくっきりはっきりと私には見えるような気がする、のだ。

このようなことを書くと、何やら駄々をこねている、初老の爺さんの戯言ひがみのように受け取られるからあまり書きたくはないのだが、いたしかたない、自分の感覚には正直でありたいので。

前回の在来線乗り継ぎ上京の旅が予想よりも、あまりにも快適に楽しめたので、私はすっかり味をしめてしまったのである。体力的にどうかというかすかな不安もいくばくかはあったのだが、なんてことはなく、名古屋を過ぎると、俄然車窓からの眺めが一段と楽しめたのである。日本は美しい。

静岡、伊豆、湯河原、箱根、、、。気分はすっかり青春しちゃったのである。私は決めた、今後は体力の続く限り、時間の許す限り在来線の旅をすることに。

したがって、なんとか上京したいと考えているので、ブログで持っての返事をK氏にはこの場を借りてお伝えしたい。

人間、時折一人きりになる時間が、私の場合どうしても必要である。孤独を噛みしめることで、何気ない日常のこまごましたことが、新鮮に感じられるからだ。年に4回くらいの小さな旅があれば、私自身は、限りなくいい感じで暮らしてゆける。

齢62歳にして、ようやく、何事もゆっくりと進めてゆくことに、あらたなる喜びを感じ始めている。粋で洒落た友からのメールは、私の小さな人生を、限りなく豊かに彩ってくれる。時間をかけて友に会いにゆく楽しみ、これが私にとっての最高のぜいたく、と思える。

2014-06-21

休日前の夕方、お昼寝から覚め、ひと風呂浴びて後のブログ。

仕事のついでに、娘が週末我が家に帰ってきて、久方ぶりに母も共に家族全員のだんらんを私は味わった。

長女は社会に出てまだ1年ちょっとしかたたないが、やはり社会の中でもまれると、我が家にいたころとはずぶん雰囲気が大人になったように感じられて、これならお嫁に行っても大丈夫、なんとかやってゆけるのではないかという気がしてきている。

つい自分の若いころと比較してしまうが、娘を見ていると、明らかにまったく違う環境で、自分の居場所を見つけつつ、努力している姿がなんとはなく感じられて、親ばかの私としては、ただ安心している。

娘が、将来の伴侶として選んだ、ドイツはドレスデンの、男性との出逢いは、今のところ完全に吉と出ているのがわかる。明らかに彼の影響が随所に感じられるのだ。異文化の環境で育った者同士が、新たな家族を築き上げてゆく、そのことは苦難も大きいとは思うが、逆に大きな喜びも又、もたらすに違いないと、私は確信する。

もう、とうに娘は親元を巣立ち、新たな世界を二人で歩み出している。親としてはそっと、見守るくらいのことしかできないが、老いてゆく我々にできることは,何かというあらたな問題意識も、自分の中に生まれてきて、そのことがなにやら、私自身を活性化させていることは間違いない。

9月には、ドレスデンで式を挙げる、レイ君のご両親にも初めて会うのだ。我が家にとっては一大事の出来事、今はただ静かに働きながら、その日を迎えたいとの、思いだ。それがすまないことには、やはりどうもになにやら、うれしくも落ち着かない。

畑で働き、シェイクスピアを声に出しながら、暑い夏をうまく乗り切って、秋を待つ。なんともはや、こんな日々が、わが人生に訪れるなんてまるで思いもしなかった。セラヴィの心境だが親としてやれることはやってその日をお祝いしたい。

今更ながら生きてゆくことは、未知なる世界との出逢い、新たな自分との出逢いであるということを、理解する。そのためには、あらゆる未知なる万物である他者(人間以外の存在すべて含む)の存在が、絶対的に必要であるということがわかる。

話は変わるが、【オシムが語る】という本を読んで、遅まきながら初めてサッカーというものについて少し学ばせてもらった。単なるサッカーの本ではなく、私の直感はやはりかなり当たっていた。あのなんとも言えない憂いのある顔は、どのようにして出来上がったのかが、にわかに腑に落ちたのである。

またしても、自分の無知を思い知ったが、ワールドカップに象徴される、現代世界における、とくに第一次大戦以後のサッカーの歴史は政治的なことと、ビジネスを抜きにしては語れないということが、この本を読むとかなり理解できる。

それは、熱狂の裏でうごめき暗躍する、まぎれもない現代世界の置かれている暗部も照射している。サッカーを語ることは、つまりは人間世界を語ることになるのである。

ところで、オシム監督は血に塗られた歴史を生きてきたバルカン半島の、ボスニア人である。私はロンドンから26歳の時陸路で日本に帰ってきたが、旧ユーゴスラビアの当時の首都ベオグラードを経由して、モスクワに入った私には、忘れられない思い出の記憶がある。

わずか一日の滞在で、円しかもっていなかった私が現地通貨に替えるために、まずドルに替えるべく、日本大使館を訪ねたところ、冷たく門前払いをくわされ、途方に暮れて町を歩いていて、身振り手振りで困っている、と道行く人に話しかけると、突然美しい中年の物静かな品のいい女性が、、現地のお金で、5000円くらいのお金を無造作にくれたのである。

あまりの予期せぬ出来事に、感激感動した私は英語でしかお礼が言えなかったが、私のつたない言葉もそこここにその女性は風のように踵を返して、茫然としている異邦人の前から、姿を消してしまったのである。

その記憶と経験は、いまだこの年齢になっても、私の中で大きい。人間の摩訶不思議さを強烈に私に、植え付けたのである。私の青春の宝、短編小説のような思いでである。

私がこれまでに、異文化の国々の多くの音楽を企画してきた背景には、(このような素敵な女性が世界には存在するという現実、異文化の素晴らしさ)若い時に見知らぬ国々を旅したことで知りえた体験がとても大きいと思う。

勝った、負けたと子供じみた視点ではなく、勝者と敗者の背後の、とらえどころのない世界が抱え込んでいる重たき現実にこそ、大人はもっともっと目を向けるべきではないかという気がしてならない。

私ごときの瞬間思考のブログでは、多くを語りきれないが、あらゆるスポーツが政治と金まみれになっている、現実には、いささか暗澹とする。ネット、通信衛星、TV局、メディアを牛耳ったものが世界を支配するかのような、危うさ。

ドロクバ選手のサッカーは祈りだと、藤原新也さんは語っている。私など単細胞はすぐに自分の国だけのことに思いをとらわれがちだが、世界はもっともっと複雑で、しなやかで美しいのである。その世界の宝のような無名の選手たちの動きや輝きをこの目で、わずかでも見たいと思う。

オシム監督は語っている、サッカーは美しい芸術だと、人間だけが生みだしうる。様々な矛盾を抱え込みつつも、人間は感動を求める。真の予期せぬ感動は人知の及ばない世界にこそ存在する。

おそらく、そのシーンは全世界の人々の胸に届くと私は思う。そのシーンは勝った、負けたの次元をはるか超えた、何かなのだと思う。



2014-06-16

限りなき自然感覚から遠くなった我が暮らしを、もう一度足元から考え、行動する。

休日の午前中の自由な時間はやはり私には格別である。朝湯を浴びさっぱりとし、おもむろに庭など眺めながら、パソコンに向かっていると、そこはかとなくいやでも文章を紡ぎだしたくなる。

妻の丹精のおかげで、わずかな敷地の庭は数年前とはうって変わって、季節に応じた花々が私の眼を楽しませてくれる。それらの花々のおかげで、どれほどブログを書く元気を頂いてきたか、計り知れないい。バラの季節が去り、この時期、名も知らぬ花や数本のアジサイが色づき始めている。

ある一定の庭の景観を保つためには、絶えず草花と対話をするように、日々眺めながらの、微調整的な継続が必要だから、何事もすきこそものの上手なれということだろう。子育て期間中も、やりたかったのだろうが、出来なかった。いまいきいきと楽しんでいる。こんなにも打ちこむ彼女、それを日々眺めている私は、一人の人間として感動する。

何十年そばにいて、日々同じ屋根の下で暮らしていても、人間は変貌してゆく。変化してゆきながら、その人らしく流れてゆくということが、何にもまして大切で、肝要な事である、と今更のように思い知る。(家庭菜園はほとんど妻に任せきりだが、初物のキューリを先日食したが、実にうまい)

さて、感動するということは、人間を人間ったらしめる大きな要素の一つであると、私は確信している、だが、その感覚はかくもヒトによって異なるという、今更ながらの当たり前のことについてようやくにして最近、はっきりと私自身深く自覚するようになってきた。

私自身小さいころから、映画を見たり音楽なんかを聴いて、感性的に身体の深いところで、わけもわからなく揺さぶられるようなことが、多々あったのだが、、他の人にとってはさほどそうでもないというような当たり前のことを、今更ながらのように、深く受け止めるようになってきたのである。

若いころは、何か心が動かされるような体験をすると誰かに語らずにはいられない、ようなことがあったのだが、どういうわけか、最近はそのようなことが、いい悪いは別にして、限りなく少なくなってきつつある。(寂しいといえば寂しい気もするが、そのことは当たり前のこと、これが人生とわり切って受け入れてゆくしかない)

それはなぜなのかということに関しては、論を急がずにおきたいのだが、確実に言えることは、限りなく社会が変容し、共通感覚の土台感がなし崩しに崩れ去ったということが、起因しているのではないかと考える。(バラバラ感覚でも、なんとか間に合う暮らし、お金で解決、わずらわしいことには関わらない、いわゆるひきこもり、錯覚の蔓延)

一ことで言えば、あまりの急激な社会の変化に、身体の微妙な感覚が悲鳴を上げていて、そのことに関して、私も含めてのことだが、かなり無自覚なのではないかということだ。どこか無意識に覚めた状態で本能的に、身体が考えることを拒否してやり過ごしているかのような、根のない暮らし。

体があまりにも都市化して、土や草のむっとする匂いを体感することさえ、普段の暮らしからは消えてゆき、ヒトは大いなる自然から限りなく遠く離れ、快適人工空間で、冷暖房やあらゆる人工器機に取り囲まれて生活している、そのことに対するあまりの懐疑の足りなさ、少なさ。

おのおのが都合のいい洞穴にこもっても生きられる、そのことにならされて、そこからの引きこもり状態からは、もはやのがれたくはないといったかのような、いわば袋小路に入っているのではないかという気がしてならない。

母は、土に触っていると限りなく心が安らぐという、私もまた母ほどではないが、自然の中にいた方が気持ちがいい、いまだ都市化された空間(都市が嫌いというわけでは全然ない、時折都会にもいまだ触れたくなる、矛盾を生きている)ばかりにいると、時折大いなる自然の中に、逃げ込みたくなる。要はバランス感覚の喪失。

だがこんな私のような感覚の持ち主は、わが国では圧倒的にこの数十年で、少数者になりつつあるような気がする。だが世界に眼を転じると、このような都市化された世界に棲んでいる人間は、この地球上では逆にいまだ少数者なのだと私自身は思っている。

サッカーに裸足で打ち興じる物質的に貧しい世界の側に棲む子供たちの眼の輝きは、いったい何を物語っているのだろうか、とふと考える。小学校に上がる前までの私は、明らかにあちら側の世界の子供だったような気がする。

おりしもワールドカップが始まっている。どこかにかすかに、絶対矛盾を抱えながら、土埃のいまだまう国々の代表や紛争地域のエリアの文化圏からの、私がいまだよくは知らない国々の選手たちを、眺めるのが、今回のワールドカップを見る、大きな一つの楽しみである。

【写真は、雑草を抜いたり、手鎌でほふく前進しながら草を刈ると、どうしても膝が破れる、そこで82歳の母に頼むと見事に繕ってくれる、私の宝物の一つだ】




2014-06-15

雑草との対話の中で鍛えられる日々。

今日は畑で一人で仕事をした。やった仕事は葱の畑の中の機械での草刈りと、手での草抜きと。釜を使っての手での草刈りの、3種類。一つの姿勢をずっと続けると体に負担が大きいし、作業も捗らないので、私はこれを時折休息をしながら、循環して続ける。

サンナンの畑は無農薬なので、今の季節のいわゆる雑草と呼ばれているおおよそ10種類近くの草たちの、その生命力の強さにはほとほとあきれるほどに、感動すら覚える。いまどきこのようなことをやらせている、会社にも私はどこかで感動する。

いまだ私は、草に鍛えられているおのれを自覚する。彼らにはとてもではないがかなわない。ただそっとネギの成長との共存を願うのみの心境である。ネギの周りに群生する手ごわい草は可能な限りぬいて、刈って、緑肥にする。

ネギより高く伸びる畔の草は機械か手釜で刈ってゆく。根気がいる、果てしなき仕事だが、私はこれを出来るだけ遊び心を持ってやろうと、どこか意識している。夢が原で培ったあらゆる経験が、サンナンの農の仕事にはかなり役立っていることを痛感する。無心で鼻歌とともに。

そしていつも思う。昔の人たちはこれをずっといつも機械なんかなくても体一つで行ってきたのだということを。棘のある草、横にはうつる草、ネギの倍くらいの早さで成長する名も知らぬ草たち、いつか図鑑で調べてみようと思うくらいに、最近は雑草に関心が湧いてきた。

自然には一切の無駄がない、草は根を張るところに自生する。そのど根性には私自身おおいにあやかりたいものだと、最近は憎い敵を通り越して、しげしげと観察してしまう。同じ種類でも人間と同じで、微妙に大きさやかたちが違っている。

話は忽然と変わる。夜明けとともに働くようになって、ようやく2週間近くなる。起きるのも少しなれてきた。起きて畑に到着したら半分仕事は終わったようなものである。涼しい時間帯は仕事が実に気持ちよくはかどる。気温が上がるにつれて、身体への負担は増えてくるから、時間帯をスライドしたことは賢明だ。

帰ってシャワー、昼食を済ませた後の、午睡がこれまたたまらない。夕方は読書といった感じで、生活の新たなリズムが生まれつつある。職場が家から近いということはなんともありがたいというしかない。子育てがほぼ終わり、生活に追われなくなってきたいま、動ける体で働けるということを、可能な限り、苦楽したいと私は考える。

そのためには、睡眠栄養身体の管理をきちんとし、出来る限り余分なことには時間を費やさず、とまた、同じようなことを書いてブログを締めくくる。

【写真はワールドカップが始まったので、ということもないのですが、イバン・オシム氏の本を読んでます。この人の顔が私を引きつけます】

2014-06-12

シェイクスピアシアター同期性、いしのさんから嬉しいコメントが入りました、ありがとう。

なんだか重しが取れたかのように、ブログを書く回数が減ってきた私です。でもまあ、これもまた時の流れの中でのなかでのこと、あくまで自分の24時間の一日の時間の使い方の中での、選択なので、もし毎日のように開いている方が、いらしたら、ご容赦を。

ともあれ、夏型の農の仕事になったことから、何やら一日のリズムが異なってきたため、朝書いていたブログは書けなくなったため、休日以外はブログを書くことが少なくなるかもしれませんが、ご容赦ください。

さて、私のブログにはほとんどコメントが来ないのですが、いしのさんから、嬉しいコメントが入りました。彼とは20代の最後を、シェイクスピアシアターで共に芝居に明け暮れた、同期性です。インターネットのおかげで再会することができました。

若いころ、苦楽を共にした中というものは、やはりツーカーで分かりあえるところがあり、何十年ぶりに会っても、瞬時にあの頃の会話ができるというのは、たとえようもなく嬉しくありがたいものです。熱く恥をさらして、ともにシェイクスピアのあの膨大なセリフと悪戦苦闘し、共通の時間を生きた青春の友。

長らく音信不通だったのですが、友として復活したのですから、なんともいえません。仲が良くなるためには、私の場合ですが、長所短所隠すことなく、腹をさらけ出して喧嘩をするくらいまでいったひととは、今でも関係性が続いています。

彼は、きちんとした仕事を持ちながらも、芝居の夢を継続していて、ようやく晩年にして再び舞台を始めた様子です。ともあれ、いくつになっても、何か打ち込むものがあり、いい形で再会できるということは、繰り返しますが、ありがたきかなというほかはありません。

話は変わりますが、遊声塾の発表会を終えてから、何やら自分自身の中でも、緩やかにうすーく皮がまたむけたような感覚が生まれてきました。シェイクスピアを読むことを含めた、本を読む時間を増やし、体調維持のために良く寝るようにし、そのためにブログをかく時間を削ることに決めました。特に夏の間。

あくまで五十鈴川だよりは、私自身に向かっての、激励自己確認を、第一義で緩やかにあるがまま自然体で流れてゆきたく思います。

何度も書いていますが、一日の時間は有限です、その時間、まずは体の管理をきちんとしながら、無理せず流れてゆきたく思います。

世の流れを、どこか俯瞰的に眺めながら、(時折恥ずかしくも自分の考えをん述べ)自分自身は蟻のように、畑に這いつくばりながら(時折です)梅雨の雨に打たれ、晴れた日は雲の流れを眺めながら、夜はひっそりと静かに暮らし、週に2回シェイクスピアを音読する。

なあーんて事をやってると、またたく間に時は流れてゆくのです。若い時のように、あっち行ったりこっち行ったり、あれもこれもではなく、自分にはこれしかないという人生の時間帯を、いわば私は生きているのだと思います。限りなくシンプルに、手の届く範囲の世界を。【今日の写真は、発表会の日次女がお祝いにくれた花束です】

2014-06-09

第一回発表会が終わり、w・シェイクスピア遊声塾2年目が始まります。

夢が原完全退職後、この一年数か月の私自身の生活の様変わりと言いますか、この年齢になっての充実感は、たとへようもなく、ただただ、深い呼吸をしながら、自分を含めた万物に感謝したくなる、心境である。

さて、一昨日なんとか、シェイクスピア遊声塾第一回の発表会を終えることができ
た。1年前よもやまさか、このような発表会ができるなんて思いもしませんでした。この場を借りて、5名の生徒さんに、深く感謝をお伝えしたく思う。

何事も、継続して未知の世界に踏み込んでゆくことは、年齢を重ねてゆくと、なかなかに勇気と困難が伴うことであることは、私自身が十分に自覚している。そんな中、わずか一年であれ、素敵な生徒さんに、ほとんど宣伝もしていないのに、巡り合えたことは、幸運以外の何物でもない。

この一年の、思考錯誤と、とくに農の仕事を始めながらの、遊声塾の継続は、何よりも私自身の内面的な生活に新たな展開をもたらしてくれているということを、実感している。数は少なくてもこの生徒さん達のおかげで、何やら自分の今後に、老いてゆく中での希望の覚悟のようなものが、ほの見えてきたように感じられるのだ。

わずかに8カ月だが、畑と声を出すという、一見両極端の私の今後のライフスタイルは、老いてゆく
自分の体を見つめてゆく中で、これ以上望むべくことがないくらいに、私には適した時間の過ごし方なのだという確信が生まれつつあるのだ。

今はただただ、謙虚に畑で土と問答、遊声塾で声を出しながらの問答、の時間を過ごせば、きっと人生の4幕目が自分にとって充実したものになるという確信のようなものが生まれてきたのである。よしんば、思わぬアクシデントに見舞われても、そのことも含めて受容してゆくといった覚悟が。

畑で体を動かし深い呼吸をする、声を出し深い呼吸を繰り返す、文章を紡ぎ出しながら、静かな呼吸を繰り返す。こんなことを書くと、何やら悟ったみたいで、ちょっと気恥ずかしくもあるのだが、(最後の呼吸の直前近くまでもし意識が明晰なら理想だが、)おそらくそうはならない時のために書いておきたいのだが、最後の呼吸を自然に受け入れてゆくための訓練を、と今はただ願っている。

話は変わる。そこで声を出し続けるテキストは、私にはシェイクスピアしかない、間違いの喜劇のエミリアのセリフではないが、30数年ぶり私は再びシェイクスピアに出会ったような気がしているシェイクスピアの37本の芝居を全部もう一度声に出して読みたいという、夢が生まれてきたのだ。

もちろん翻訳された、素晴らしい日本語でである。25歳の時、初めて海を渡り、ロンドンで100本以上の舞台に触れたが、ほとんどはシェイクスピア作品。私は当時翻訳されていた日本語の文庫本を可能な限り持って行き、芝居の流れを理解したうえで劇場に足を運んだ。(ロンドンで私は日本語の豊かさに開眼した)

驚いたのは、私の無知、歴史劇始め私の読んだこともない作品が、上演されていたこと。もちろん翻訳もされていない。がしかし、私は劇場に足を運んだ、中でもヘンリー6世3部作、上演時間は9時間に及ぶ。

本国でもなかなかに上演されない大作、私はこれを観るることができた。その幸運はたとへようもない。シェイクスピアの底知れぬ天才性がいかんなく発揮されている。若かった私は、劇場で茫然とした。日替わりで一部二部三部と上演され、時折朝から三部作が一気に上演された。私はそのチケットを宝物のように持っている。

通しての上演と、日替わりでの上演と二回、私はヘンリー六世を見ている。話がそれた、私は遊声塾で、ともにシェイクスピアを声に出して読む仲間をもっと増やしたいと願っているが、よしんばそれが叶わなくても、自分の中にシェイクスピアを可能な限り読み続けてゆく楽しみが、今回の発表会で確信に変わった。

2014-06-02

五十鈴川だより、時折まとまったオフタイムを取りながら、のらりくらり流れ続けたく思います。

私がブログをこのところ毎日のように書いているのは異例のことで、以前の私は、そんなには書いていない。

いろり通信も含めれば、4年半以上書き続けているのですが、まさか自分でもこんなに書き続けるなんてことは、書き始めた当初は思いもしませんでした。書きながらかすかにかすかに書くことが好きになってきたように思えます。人間は老いながらも変化し、書きながら今もそうですが、勝手に思考が生まれ、文字として定着する。

その意識の整理が私にとっての書くことの楽しさなのだと思います。まったく予期しない、意外なコメントも、わずか一度ありましたが、以前のようには血が上らず、冷静に対処出来たのは、書くことが出来たからだと思います。

突然始めたブログもいつの日にかは、突然終わるのが当たり前ですが、それを一日一日先延ばしにしながら、今も苦楽丸ごと悦びの中で続けている、といったところなのです。

何か、湧きいずる感情の日々のあれやこれやを、整理確認、綴らずにはいられないような思いの発露の手段として、たまたまブログという形で、バーチャルの無限の海に飛び込む覚悟を決めてから、何やら一段と日々の暮らしが愛おしく感じるようにさえ思えるのです。限りなく自己中心的な感覚なのですが。

拙文を紡いで、恥ずかしきおのれの姿をさらすことに関して、あるいはまた、コメントが来て多くのの時間を取られたりして、私のことだからすぐに嫌になってしまうかもしれないなんてことも考えたりしましが、それはまったくの杞憂でした。

あにはからんや、私のブログにはほとんどコメントが来ませんし、今のところ限りなく自由に、日々のつれずれを、書いていますが、最近時折ふっともういいかなあ、という感覚になることもあります。絶対矛盾的な感覚なのですが。

書くことが、好きになってきた今こそオフタイム、が肝要ではないかという気がしてきたのです。

年に数回まとまったお休みを取りながら、(長短は別にして)続けてみようかと思うのです。他者の眼に触れる文章を書き続けて解ったことはことは、読むことに比して書くことは私ごときでもエネルギーと時間が要ります。

ちょうど暑い夏に入ります。何やら、いいタイミングだと思います。ただ、アップするしないは別にして、なにやらつづってゆく意識集中訓練のようなことは、自分の中で続けたくは思います。

とりあえず、まずは一週間遊声塾の発表会が終わるまでは、オフです。五十鈴川だよりを、読んでくださる方々、暑さには十分お気お付けください。

2014-06-01

早6月、義理の息子になるレイ君が岡山に里帰りしてきました。

今日から6月ですね。もう今年も5カ月が過ぎました。個人的な我がままあるがままブログですから、何よりも自分自身のあやふやさが、おのずと我が文章には、恥ずかしき至らなさも含めて、丸ごと、読む人がきちんと読めば、映っていると思います。

これまでも何度も書いています。生きてゆくことはかなりの程度に、恥をさらしてゆくことだと私には思えます。これまでの人生、あまり今はまだ、振り返りたくはないのですが、あまたの恥ずかしきことの上に成り立っているという認識があるのです。

小さいこと、自分にとっての大きなことの、過ちや至らなさの失敗を繰り返しながら、その経験を踏まえおりおり反省しながら、矛盾まるだし、かろうじての今現在の暮らしを、この年齢を迎えて、生きているというのが、正直なところです。

何度も書いているので、あまり書きたくはないのですが、可能ならこれからの未来時間は、波長の合う、気持ちのいい方達と楽しくすごしたいということと、いま現時点やっていること以外にはほかにもうやりたいということが、見当たらない最近の私です。

最もこのような状態も、時の移ろいとともに、長くは続かず、今後も多くの試練困難がつづいてゆくのだとは思うのです。がそのことも含めて、それが人生だと受け入れてゆく中で、自分の人生の愉悦的苦楽を丸ごと生きてゆく覚悟を、もっと書けば、雑草が大地に場所を見つけて根を張るように、私もまた、なんとか気持の安らぐ場所に根を張り、そこに棲めたら、もうなにおかいわんやといった、心境なのです。

ところで、昨夜母レイ君も含め家族5人で、岡山のお寿司屋さんで、夕食を共にしました。これまでは、私がかなりおしゃべりをしたのですが、昨夜はレイ君を中心に妻母娘たちの語らいを聴きながら、静かにビールを流し込む楽しさを味わいました。

どこか遠くから、未来人たちの将来をおもんぱかる余裕のようなものが、かすかに自分の中にに生まれつつあるのではないかという感覚。これまでは限りなく、自己中心的に生きて動いていたのですが、身近な大切な存在たちの役に立ちたい、見守ってゆきたいかのような。

【写真は、昨夜お寿司屋さんでの、レイ君、次女、母、妻】

このようなことを書くと、何やら達観したかのようにとられるのが嫌なのですが、昨日も書いたように、つかんだと思っても、するりとそれは逃げてゆきますから、細心の注意で大胆に日々を生きなおすささやかな覚悟が自分の場合は、とくに必要だと考えています。

だからこそ、いい意味での刺激を、演劇的にブログで書きつづることで、自分自身の精神安定を、安上がりに自己満足的に楽しんでいるのかもしれません。

それにしても娘が選んだ青年は、自分の若いころと比較して、さわやかで気持ちがいい。そのことは親ばか丸出しですが、親としてささやかなつとめを終えた安堵感をもたらしています。