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2012-04-30

4月最後の朝に思う


また朝を迎えることができました。いきなりこんなことを朝から書くと、まだ若く健康で病気なんかしたこともない方は、全然ピンと来ないかもしれませんが、還暦を過ぎておられる方や、入院や大きな手術なんかされた方は、若くても生きている自分の命について、極めて敏感に感じておられるのではないかと推察いたします。



さほど何の能力もない、極めて普通の平凡な少年時代を生き、学校の成績は全く振るわず、母親は、そんな私を心配しておりましたが、本人はとんとそんなことも気にせず、周りから見たら、ただひたすら好きなことしかせず、遊んで18歳まで過したような気が、今振り返るといたします。



さて、いま還暦を過ぎて思うことは、自分はこういうふうにしか生きられなかったし、そのことに対しての、後悔の念はほとんどないという感慨をもちます。今このように文章を書いていますと、人間は世の中という大海、また大小の川を何度も何度も泳ぎ切らないと、生きることは叶わぬという、厳しい現実が世界そのものであるということです。


我が家の家庭菜園のネギ坊主

世の中に出て初めて、父母の言葉が染みましたが、なんとか還暦を迎え、いよいよこれから、新たなゾーンに向かおうとする私は、うまく言葉では伝えられないのですが、心身ともに、自分という命の感覚に、敏感になっているように感じています。



病気がちなこともあったせいかもしれませんが、何故生きているのかということに関しての、永遠の謎でもあるかの問いは、幼少のころからありまして、このことに関する問いは今に至るも消えることがなく、おそらくこの闇のような問いが私を演劇の世界に向かわせ、いまかろうじて企画者の世界に辿り着き、この終わりなき問いを抱えながら、企画を模索するということが、おそらくは私が、命を輝かすということになるのかもしれないという気がいましています。



ブログ時間で、考察することではないかもしれないのですが、GWの最中、4月最後の朝は、なぜかこのようになってしまいました。画面を眺めながら書いていると文が転がってゆく、意外なひとときが、幸せな時間です。



老いてゆくこれからの、未知の時間を日々確認しながら、命を見つめてゆけるような、企画を、と願わずにはいられません。


2012-04-29

日高事務所は支援会員とともに船出します

今は亡き実家にあったしだれ梅、夢が原に移植したのですが根づきました

退職したことと、これからやりたいこと、やることの、一気に書き上げた案内文を全て投函して10日以上が過ぎた。今これを書きながら、私のこれからの企画の、年間会員を募るという考えは、ちょっと大胆な窮余の策ではあったのだが思い切ってやってみて本当によかったという思いに、私は今包まれている。



企画するためには、動きまわり、アーティストや、支援者や、そのほかいろんな人に合わなければ、当日のイベントを迎えることは叶わぬ、思えばかなり過酷な仕事なのだ。だけれども自分にとっての夢のような企画を、名も知らぬ多くの方と共有出来た時のえも言われぬ喜び、感動は、企画者冥利に尽きるものがあるのです。



これは山登りにもたとえられるような気がします。核になる支援会員が毎年100人くらいいれば(多いにこしたことはありません)毎年桜の花が咲くように企画ができますから。ゆったりと構え、思案し、これはと思うアーティストを聴きに出かけてゆき(これに一番お金が、交通費、かかるのです)交渉することができます。



日高事務所は、毎年の支援会員で、なんとか船出が出来そうな、思いもかけぬ予感を、今私は感じながら、書いています。守りに入ってはやはりだめなのだという、勇気を持って、これまでやってきたように、やれる間は余計なことは考えず、このブログで想いを伝えてゆこう改めて自戒しています。



意外性、まったく思いもかけない、お話したこともない方々の支援が寄せられているのに、可能性を感じるのです。私が企画するようなものを待ち望み、このような時代の中で、耳を澄ませて、自分なりの世界をしっかりと持っていらっしゃる、見(賢)者が市井の中にいるのだという喜びです。



日高事務所は、支援会員と共に、船出し成長してゆきたいという思いにとらわれています。夢は、自分に水をやり育てえるものだと思います。他力と自力で夢を育む。来年は支援会員で修学旅行のようなものも企画してみたいという思いが湧いてきています。



ところで、生き生きヒダカ塾を6月あたりから始めようと考えています。身体を動かし、声を出す、自立した老人を目指す塾です。対象は中高年、また簡単なチラシができたらお知らせします。




2012-04-28

前岡山県県議会議長、小田春人氏に一夜招かれました

夢が原の椿

意外性、先日思わぬ方からお電話があった。昨晩はその方から、宴席のご招待があり、実に有意義、談論風発、楽しいひとときを過した。その方の名は、前岡山県議会議長、小田春人氏である。



私の退職と、これからの人生を祝って頂いたのである。氏とは、私が中世夢が原の園長を引き受けたばかりのころ、県庁でお会いしたのが最初で、その後個人的にはお会いしたこともないのだが、私の退職のお知らせを出したところ、文面を読んですぐにお電話をくださったのである。



一度、県庁でお会いした時にもブログで書いた記憶があるのだが、やはり氏はひとかどの人物であることを、昨晩も感じた。私ごときのことを、覚えていて私のこれからを案じ、配慮して下さり、しかもわざわざ宴席を設けてくださったのである。



そのとあるお店は、西川に面しており、二階の個室が用意されていて、約束の時間に往くと、氏はすでに先に来られて、私を待っておられた。私は恐縮し、もっと早く来ればよかったとおもったが、時すでに遅しであった。6時からの二人だけの愉しい会話の一席は、美味しいお料理と共に、私を心からリラックスさせ会話は弾んだ。



氏は、おそらくめずらしい人生を歩んできたと思われる、私の経験してきたこれまでを、寛容の心で、賢い兄貴が愚弟の話を聞くように、受け止めてくださったのだ。だから私は話す必要のないようなことまでを、話している自分に少し驚きながらも、相手次第でこうまで話が引き出されてくることが、今更のように自覚されたのだ。



内容は多岐に及んだのだが、私が中高年が生き生きするような私塾をやってみたいというこれからの夢を語ると、氏はそれはいい、是非やられたらと激励して下さったのだ。



実は、ユニークな私のアイデア塾に応募してくる方がおられるかどうか、一抹の不安のようなものも少しはあったのだ。心ある方に私の思いを何人かに伝えてみると、ほとんどの方が、良い反応なので私はやってみることにきめてはいたのだが、氏との対話の中で、より具体的にアイデアが深まってゆくのが、自覚されたのだ。



氏と別れた後、思わぬよる時間が過ごせた余韻に浸りながら、西川沿い、雨上がりの春を感じながら、駅に向かって歩いた。歩きながら、これからも意外な時間が過せるようなことを、可能な限りやってみようと心に誓った。


2012-04-26

桃山さん土取りさんのお弟子I氏我が家に泊まる

桃山さんの御本

昨日は我が家に、岐阜の郡上八幡に住む、土取利行さんのお弟子さんであるI氏が岡山にやってきて我が家に泊まった。仕事を終え、知人との夕食の約束を済ませ家に帰って、10時過ぎから、夜長話が始まった。



私の半分くらいの年齢だが、充分に話が弾み、普段は10時には床に着いているのに、何と午前1時過ぎまでいろんなことを話し、疲れているはずなのにいつも通りの時間に眼が覚めそのまま起きて、働かない頭でブログを書いている。



土取利行という、稀代のどこにも属さない、孤高といっていいアーティストに弟子入りするというのは、生半可な覚悟ではないはずだから、どのような人であるのか、私自身も一度二人だけでゆっくり話がしてみたかったので思わぬ時間が持てた。



真摯に時代を見据えながら、平坦な道を選ばず、自分の感性に忠実に生きている姿勢に今時、めずらしい印象を持っていたのだが、まさにその通りの純粋さをキープしている若者だった。私もかっての若者として、還暦の自分はさておき、今を生きるヒト対ヒトという感じで、世代を超え話ができたことは、これからの再出発を念じている私にとっても実に有意義なひとときとなった。



どのような人間であれ、普通に暮らしていれば生涯には必ず何がしかの転機が訪れる。世代も年齢も異なるとはいえ、お互いに転機を迎えているという意味では、共通の何かがあって、話が弾み転がったのだと思える。あまり寝てはいないのだが、今日もいろいろと新しいこれからに向けて、休日だからこそやらねばならぬことがあり、身体をさわやかな気が包んでいる。



人間が一人でやれることはたかが知れている、とは思うものの真の意味で自立した人間になるというのは、生半可な覚悟で成就出来るものではないことは、私ごときでも少しは承知しているつもりである。そこで、いまだ私は考える。どのような道を選ぶのかということを。安全な未知か険しい未知か、そこで全人格がおそらく何者かに試されるのではないかというのが、ようやくいま現在考える、私の認識である。



ヒトとして生まれ、どのように人生を刻んで歩むのかは、まさに謎を生きるということに他ならない。I氏とは今後自立し連帯する仕事仲間になる。そのことが確認できた夜となった。芸能の根源を見つめる企画を、お互い世代を超えて切磋琢磨し合いたいと思う。


2012-04-25

企画者は見えないものにお金を使う

我が家のチューリップ

穏やかな春の朝、窓から我が家の緑の中に、いま8本のチューリップが満開、いい感じです。ガーデニングはもっぱら妻任せで、ときおり土を耕したり、肥料を買いに行ったりするのを手伝うくらいしか、今は時間が取れないのですが、来年からは企画のつかれた身体や、精神のリフレッシュのためにも、妻との時間を楽しみたいと思っています。



ところで、結局150通以上、日高事務所、年間企画支者を募るための案内を出しました。最初に投函して10日あまり、最後に投函したのは3日前です。あの案内は一気に書き上げ、私の手帳の中から気分で選んでだしました。やはり、20年間の私の仕事をきちんと受け止めてくださる方が、こんなところにもいたのだなあ、という素朴な驚きが私を包んでいます。



お話したこともない、アンケートを見て、この方はという方にも20通くらい案内を出したのですが、その方々からも、支援が(今後は毎年最低大小4本企画し、毎年支援会員を募ります)あるのです。



これが、五木さんのいうところの、他力の風なのかもしれないという、感慨が私を襲っているのです。今後あと何年企画者としての人生の時間が残されているのかはわかりませんが、知恵絞り、こうやって書きながら、持てる能力を出し切りながら、与えられた責任を全うしたいと思います。



五十鈴川だよりは、極めて個人的な、いわば前例のないような企画、すでに名の知られた方ではなく(そういう方は他のどなたかがやられています)無名で知られてはいないけれども、私自身がこれは面白いと思える、感動する、アーティストを探し企画します。



これからは独立、黒字、プロの企画者なのですから、出来なくなったら廃業です。お金というものは、有効に使うということに意味があるのですが、企画者も含めて、人間が最もお金を使わなければいけないのは、見えないものに対してだというのが、私の個人的認識です。豊かになるということを根本から再考する時代が来たのだと、直感しています。



高校生のころから見始めた、未知の国の映画、聴きはじめた未知国ぐにの音楽、絵、踊り、演劇、10代、20代に体感した全てが、私という企画者としての存在の核をなしているということを思うのです。本物と偽物を嗅覚で感じ分けるためには、眼力を養うしかありません。



企画者が、やせ細っては企画できないいのです。一円たりとも無駄にせず、見る、聞く、読み、書く。1996年、アサヒビールの広告出演ギャラで念願の西アフリカのセネガルに往くことができました。過酷な旅でしたが(先日旅の手帳に書いたメモが出てきました)現地から受けたアフリカ音楽の感動が、企画の原動力になりました。



ともあれ、自己資金と、協賛者と、支援者であせらず、ゆっくり高い山を目指します。

2012-04-23

嬉しいお葉書を頂きました


もう知り合って17年ぐらいになる知人に、アサヒビールのI氏がいる。出会ったのは氏が岡山支店で働いていたころ、私もまだ岡山に来て4年目くらいで、元気の盛りだった。たまたま私が何故かどういうわけなのかは知らないのだが、アサヒスーパードライの新聞の広告に出ることに選ばれたのが、知り合うきっかけだったと思う。



以来アサヒビールは、昨年の・光・まで私の企画する大きな製作費のかかるものは、全部協賛して下さっている。I氏が東京に転勤になられてから、昨年のS氏に至るまでずっとである。アサヒビールの応援がなかったら、ポスターを作ることはまずほとんど叶わなかったであろう。個人の企画に、このように支援して下さる企業というのは、社員の社会支援の意識、見識がどの程度のレベルであるかを如実に示すいい例だと思う。


愛犬メルと散歩に行く、家の前にて

ところで、東京に転勤になったのちも、I氏との交流は続いている。まさに君子の交わりなのだが、ときおり上京した際に、お酒を酌み交わしたりもする仲である。そのI氏から私の新しいブログに関してコメントではなくお葉書気を頂いた。氏らしい文字が躍っている、雪に覆われた富士さんの絵葉書である。過分なお褒めの言葉が書かれていて実にうれしく、いまそのお葉書をわきに置いて書いている。



私はべたーっとヒトと付き合うのは、苦手である。自分でも意外に人みしりだと思う。能力のあるなしや、お金のあるなしではなく、その人らしい小さくても、確かな世界を大事にしている、つましい健気な人に、男女に限らず惹かれるのだ。I氏は能弁ではないが、ゆっくりしていて穏やかだが、ユーモアのわかる好漢である。世代を超えて付き合っていける方である。何事もそうだが、深き中になるのは時間が必要だと思う。



世の中に出て42年、今私には年に一度くらい会いたいと思う友人が両手くらいいる。この方たちのほとんどは県外の方なのだが、あらゆる意味で私の企画するイベントの心の支えになっている。イベントの当日はボランティアに来てくださったりもする。なんて言うのか、企画するのは何故なのかという根本の中に、家族やこの友人たち、私の世界を彩る大切な方達に見て、聴いてもらいたいという(亡くなった方たちも含めて、捧げるという思い)気持ちが50代に入って年々強くなってきているのだ。ご縁のあった方たちと共に、限りある人生を楽しく豊かに過ごしたいという、ささやかな願い。突き詰めればこれに尽きるかもしれない。年に一度の個人的お祭り、なのかもしれない。


今日もまた・心の鐘を打ち鳴らし・あくがれてゆく。我が古里が生んだ若山牧水の歌である

2012-04-22

9月7日第一弾企画の日が決まる

咲き始めた夢が原の山つつじ

週に4日しか働かないというのが、こんなに肉体的にも精神的にも負担が少ないということのありがたさを、深く感謝しながらブログを書いている、土曜日、時計は午前4時半近くである。いくら夜明けが早くなったと言っても外はまだ暗い。お休みであれ、仕事であれ眼が覚めたらゆっくり起きるという習慣は継続してゆきたいと私は考えているのだ。



この20年間の早起き生活の中で、朝の身体が一番新鮮に物事を考えるのに、良い時間帯ということに、私の場合なってしまったようなのだ。だから、来年から完全リタイアしても一日を生きる時間スケジュールは、できるだけこれまで通りに過してゆきたいと考えているのだ。書くことによる思索の時間。



オーバーに聞こえるかも知れないのだが、世の中に出て42年間時間に追われるような生活を、身過ぎ世過ぎのためにしてきた我が人生の途中に迎えた還暦という年齢、突然与えられた自由な時間。ありがたいことにすこぶる元気で、実現するかしないかはともかく、やりたいことが、次々に湧いてくるということは、やはりしみじみと嬉しく、ありがたいことだ、と思う。この間も書いたけれど、仕事であれ休日であれ、基本的に生きるということは、与えられた一回限りの時間を生きるということなのだから、分けて考えるということは、はなはだもったいないというのが、私の認識なのである。



ただ、同じ時間なのだが、不自由な時間と自分が思い通りに考え動ける時間というものは、やはり違うのだ。これからの時間は誰も助けてはくれない時間を生きることになるので、その他の野生動物に近く、自分で自分を守らないとだれも守ってはくれない。そのような自意識から、企画者として何を企画するのか、何ができるのかということは、正直自分でもわからない、だからこそ面白いのだ。これを面白がれなかったら(何が湧いてくるのかを)企画者は廃業だし、私の場合生きている根拠のようなものがなくなり、しなびた茄子のような日々におちいるのかもしれないという気がする。



これからの新しい時間、老いてゆくことをたんたんと見つめながら、先人たちの素晴らしい仕事を少しでも学びながら、誠心誠意、歩みはのろくても企画します。



ヒダカトモフミ事務所、第一回の企画は、今はじめて書くのですが97日(金曜日)土取利行(他2名)による明治・大正演歌の世界を企画する予定です。詳細はまた一番先にブログでお知らせします。


2012-04-20

サンクリニック医院事務局長、山下さんに会いました

宮城県石巻にて

昨日の休日、朝九時過ぎから夕方4時近くまで、中世夢が原を退職したことのお知らせと、日高事務所設立支援のための、まあいわば営業活動を兼ねて、終日動いた。



私が大きなイベントを企画するために、応援協賛金や広告を集めるようになったのは、忘れもしない1996年のことである。以来昨年の・光・まで16年間協賛金を集めることでなんとか夢が原の野外での夏のイベントを継続することができた。



先日もブログで書いたのだが、この協賛金をこのような文化的イベント(特に私が企画するようなイベント)に快く支援するヒトというのは、まだまだ日本の社会では根付いていないというのが、正直な私の感想である。でもまあ仕方ないというのもまた、私の正直な感想なのである。野球やその他のスポーツに、旅行、またあまたの嗜好品などに比べて、音楽や演劇や踊りや、その他いわゆる芸術や芸能全般に、お金を費やしている方(特に経済人で)というのは少ないし、見たこともないものを見にゆくという好奇心のある感性の持ち主というのはそんなにはいないし、それは歴史的にも仕方のないことではあるというのが、私のいわゆる認識なのである。



だがしかし、この岡山に私の企画を一貫して応援協賛して下さっている方がいるのだ。その方は、岡山市中井のサンクリニックという医院の山下さんというヒト。私より一つ年下ではあるが、丸坊主姿が似合い、貫禄というか落ち着きはどうしても年下とは思えない。山下さんはイベントを実現するための資金がなくもがいていたときに、Sさんという税理士の私の友人に山下さんという方がいるから会ってみたらと紹介されて会ったのが、最初だと記憶する。



以来、そんなに言葉は交わさなくても、毎回欠かさず支援して下さる、誠実な心深き温かい方である。このような方が事務局長をしている医院は、年々実に良い雰囲気で、広く拡張されくつろげ、細部に目配りが行き届いている。そのことは訪れる度に感じている。経営者の感性が感じられる医院なのである。やはりヒトなのである。お昼の忙しい時間にもかかわらず、いつも通り悠然穏やかに開口一番、東北はどうでしたと切り出された。



医院の研修旅行に東北の被災地に往かれるそうだ。理屈はともかく、100年に一度といわれる震災地に、心ある日本人は瓦礫の前に立ち、なにがしかを体感する一時を持つということは、きっと忘れられない経験になるし、こういう感覚の事務局長のいる医院は地域の医療拠点として信頼されているということが、実によくわかる。



日高事務所はこういう方に支援されている。君子の交わりで、いいと思える方である。








2012-04-19

天命を読み、秋の企画の覚悟が決まりました

満開の夢が原の山桜

五木寛之さんのことは、何回か私のブログで取り上げているが、私は20歳年上のちょっと日本では珍しいタイプのこの作家に、還暦を過ぎて特に改めて惹かれている、自分を感じている。



どこにも属さず、風のように旅をしながら、ひたすら自分自身と対話しながら、死を見つめながら時代を見つめながら、流されゆく日々を書き連ねながら、ときおり小説、(親鸞)を完成させる。80歳で現役。それはいきなりなされるものではないということが、ほんの少し私にもわかるのだ。



日々の積み重ね、なんてことを気軽に言うけれども、私ごときの拙文でさえ、やはり日々の積み重ねの中で、文が文を呼び込んでくるかのように、ときおり感じてくるのが3年目にして、ようやく感じられるから、書くということの自問自答は、私には今後、いつまで生きるかわからない、なんとも貴重な日々を、なにがしかの充実感を確認しながら過すということは、最も大切なことだととみに最近感じている。



五木さんも読みやすい文章で、繰り返し同じようなことを書かれているが、書かれている年齢によって微妙に変化していることが、読んでいるとよくわかるのである。一般大衆は平易な文章でないとまず読まない。坦々と歩く姿にひかれます。私もかくありたい、のです。



さて、今私は五木さんが74歳くらいの時に、書かれた天命という、死に着いて考察された本をもうすぐ読み終えるのだが、深く納得し同感を覚えるのだ。自分という存在の悪を見つめながらの、生と死の考察は個人的な体験を、赤裸々に書かれているので、共振するのだ。

ここまで書かれるのは、やはり70を超えないと、という気が私なんかはしてしまう。私もいつかは何ともいまだ恥ずかしい、青春の日々やそのほかのあまり触れたくないことなども、さらりと書ける日々がやってくるのかもしれない。だが今はまだ煩悩に取り囲まれながら、あたふたとブログを書きながら、一日を生きながら、と考える。いきなりあの境地には行けない。とにかく自問自答しながら氏は学び続けているのだ。作家独特の感性での独学は、爪の垢でも学びたく思う。



つまりは、自分は自分でしかないということである、ということから逃れられず、そこから出発するしかないということである。そこで作家は書き、私は企画するわけである。

日高事務所の立ち上げ第一回企画は、土取利行さんによる・演歌の世界を秋にやることに決めました。ようやく還暦を機にして、自分の今後の企画者としてやりたいと思う、方向性のようなものが見えてきた気がします。今最も失われ、なし崩しになってゆく、日本人が大切にしてきた世界・心・(、私自身もいまだ知らない、学んだことのない)を、知ること・あえて書けば取り戻すこと、から始めたいのです。癒しや気休めの音楽ではなく、私自身が企画することにわくわくする企画をしたいのです。土取さんは商業主義に毒されていない、独自の厳しい道を探求している、芸術家です。その方が今この時代に、演歌に取り組むという、何故なのか、そのことに企画者の私は強く惹かれます。



何度も書いていますが、無名でも(日本で知られていないだけ、知る人は知っているけれど)素晴らしい仕事を(私のアンテナにかかる自分の世界を大切にしている)されているアーティストを日高事務所は企画します。



集客は大変ですけれども、これから5か月、私が書いた手作りのチケットを、これから行商するように、一枚一枚心ある方に、手ずから買っていただくつもりでおります。ローソンティケットでは買えません。




2012-04-18

日高塾を立ち上げることにしました



散歩で見つけた満開のモクレン

肉体労働をした日としない日では、食欲も睡眠欲(こんな言葉は無いでしょうが)もこの年になっても全く異なる、ということが実によくわかります。夢が原で働いた日と休日ではまるで食欲が異なるのです。それくらいにこの20年間は、夢が原で労働することによっての肉体訓練のようなことを、私の場合かなり意識的にやってきたというように思います。



だからなのだと思います。他の方はとは比較してもせんないのですが、身体がとても元気に動きます。だからこうやってブログもかけるのです。身も心も気が満ちないと文章は書けません。



ほとんどの方は信じてもらえないかもしれませんが、幼年時代から線の細い、扁桃腺が腫れやすく、すぐ熱を出す(高校卒業の時の体重は、52キロくらいでした)病弱な子供だったのです。だから口先だけにいきがちな私を案じて、父が直接中学時代3年間剣道を教えてくれたのですが、これのおかげで軟弱な私が少しはまともになれたのだという思いに今はとらわれます。今も時折木刀で素振りをします。



昔の親は厳しくも温かく、我が子の行く末を案じてくれていたのだということが、この年になると身にしみます。娘二人の父親としては、まったく甘い父親ですが、その分妻が同性として厳しくしてくれているようです。



さて、話は変わり日高事務所支援のお願いの案内をなんとか90通投函し、明後日までにはおおよそ終えそうです。何といいましても私一人の個人事務所なのですから、何から何まで、私がやる(どうしてもできないことは頼むのですが)のです。企画を何故するのかということを、ときおり自分に問いかけます、その年齢なりに。



そして、還暦での再出発にあたり、何故企画するのか、何故平坦な道ではない世界を往くのかということに関しての自問自答。これは私が企画できる間は、おそらくずっと考え続けなければいけない命題なのだと思っています。



またもや話は変わり、体を動かすということと、声を出すということは連動しています。声を出す喜びを見つける・私塾・をなるべく早く始めようと考えています。とりあえず集まれる少人数でもいいからスタートします。一クラス15人まで。場所は西大寺ふれあいプラザを借ります。



生きるということは、身体を動かし声を出すこと基本がですから、そのことを共に今を生きる中に見つけ、晩年を生き生きと過ごすための、日高塾です。なるべく4月中にブログで要項をアップし、反応がなければ何らかの方法で、告知したく思います。関心のある方は、御連絡ください。私と共に汗を流す塾です。

2012-04-17

私が植えた夢が原の水仙

わが得難い人生の友人


日夕方、わざわざ神奈川から悪友K氏が、私の退職祝いを兼ねて岡山にやってきてくれた。私の人生昨の転機では、私のことを最も心配してくれる、得難い友である。

岡山在住のお手紙を頂いたS氏もかけつけてくれ、3人でお茶、お花見、居酒屋、最後は歌を歌い、久しぶりに外で、楽しい時間を過せた。退職を決めてからは、飲んで気持ちのいい人以外とは、お酒を飲まないことにしているので、実においしいお酒でした。

わが良き友が、お祝いをしてくれたのだが家に帰って驚いた。かたじけないくらいの、ビックリ日高事務所、開設のお祝いだったのだ。気持ちよく酔っていた、私の頭は一気に冷めた。

この広い世界に、こんなにも私の行く末を心配してくれる人間がいるということに。疲れていたので、すぐに寝たのだが、しばらくして眼が覚めたりして、彼の顔が私の意識の中で点滅した。氏とは26歳の時ロンドンで出会い、今に至るも交友が続いている、私には珍しい関係の、まさに君子の交わりのような関係なのである。プライベートなことには立ち入らない。

全く利害関係がない、年齢を忘れて子供のように、いまだ遊べる得難いキャラクターなのだ。自意識過剰の私とはま逆のキャラなのである。だからなのかもしれないのだが、ここ一番の時は、良い時もそうではない時も、この34年間私との交友は続いている、不思議な友なのである。

今は亡き父が、親戚よりも何よりも、友を大切にせよと口を開くとよく言っていた。この年齢で君子の交わりのような、友人たちに私はかなり恵まれている。そのことに関する感謝は、言葉ではとても言い表せられない。

それにしても、私の退職をこうまで気遣っていただき、不思議な感動を覚えた余韻は今も続いている。彼とは本当によく転機の度に旅をした。

また久しぶりに節約して、共に旅がしたくなった。彼とならば、青春回帰ハチャメチャの旅が可能だし、見知らぬ街で落ち合うなんて言う、おつな旅が可能なのである。私の恥ずかしい部分を最も知る人であり、若いころの私の舞台姿を知る、貴重な人であり、私の人生の変化を見届けてくれている人である。

日高事務所の今後を共に生きる、永久サポート会員である。K氏ありがとうございました。

2012-04-15

ブログ専用カメラを買いました




四月一五日の朝です。繰り返し同じようなことを書いて申し訳ないような気もするのですが、岡山に来て20年ぶりに向かえる、土日がお休みということが、こんなにもありがたく、嬉しいという思いを押さえられずに書いています。

お休みとは言いましても、新しく日高事務所を立ち上げるわけですから、自分自身のこれから向かう新しい再出発に、時間を使えるということが、ことのほかにうれしいのです。

今日は夕方に、ロンドンで出会って以来の長い付き合いの悪友といいますか、親友とも呼べる人が、わざわざ岡山にやってくるのでそれまでにやるべきことを済ませておきたいので、いつもより早い時間に目覚めまして、先ずブログを書くことから始めています。

昨日、カメラやメカにはとんと疎い私ですが、ブログ専用というとおかしいのですが、日高事務所立ち上げの備品として、コンパクトなカメラを買いました。そのカメラで早速撮ったのが、昨日の蓮華の写真です。

これからは、可能な限り自分で撮ってアップしますから、拙い文章と拙い写真で、五十鈴川だよりを発信します。寛容の心でお付き合いください。何というのでしょうか、時間に余裕のある暮らしというものが、こんなにも精神を解放してくれるということを、楽しみたく思います。

五十鈴川だよりは、日高事務所で取り組んでゆく企画のことが中心になりますが、何気ない日々の移ろいの中で、今という時代を生きる、私自身の矛盾に満ちたあるがままを、書きつづりたく思います。平凡な日常を可能な限り、ささやかに新鮮に生きる。これに尽きるかと思います。自分自身を研ぎ磨く。そのような暮らしの中で、年に数回、夢のような時間を過す企画を成せれば、と思います。

何よりも、私自身がワクワクする(出来ればそのワクワク感を共有したい)ことがなければ、企画は出来ません、から。

2012-04-14

ご挨拶文を書きました

家の近くで見つけた蓮華の花
 


 御挨拶とお知らせ

季節は巡り、私は60回目の春を穏やかに健康に迎えることができたことを、心から噛みしめながら嬉しく迎えています。私の一文をお届けする皆様が、つつがなくお元気に過ごされていることを願いながら、書いています。

さて、小生20年間勤めました中世夢が原をこの3月末日をもって定年となり、退職いたしました。来年3月まで、週に4日(土日はお休み)働きますが、その後は全くフリーになります。

その後どう生きるか、いろいろと思案の末、今後の人生は、自分がこれまで歩んできた中から見つけることにいたしました。結果、今年から緩やかに日高奉文事務所で再出発することにしました。コンテンツは企画を中心に、私自身もタレントの一人となり、多様なアクションを起業し、私らしい仕事を希求します。

本格的には来年から日高事務所の支援会員を毎年募る予定ですが、思いついたが吉日、本年も最低2本出来れば3本、企画を打ちたく、急きょ、個人を中心に日高事務所出発企画の(未定ですが、秋までに音楽会を一本、それから日高自身のトーク付きで、これまでの私の過去の企画のDVD上映会や、日高の好きな映画を共に見る会など)協賛者を募ります。

協賛して下さった方は、今年(来年3月までの)私の企画は全てご招待いたします。私の日高事務所立ち上げの念いは、同封しました新しいブログ・五十鈴川だより・に書きましたので、読んでくださるとうれしく思います。

日々折々の、わたしの暮らしの中で私の企画は生まれてくるので、その都度ブログでお知らせしますので、可能なら、お気に入りに入れてくださると嬉しいです。お茶会などもやりたく思っていますので、取りあえず日高を応援して下さる方に、一番先にお知らせいたします。

協賛金は一〇〇〇〇円です。自己資金と応援協賛者と共に、晩年ライフ、充実感をもって生きるべく、荒海に船出したく思います。くれぐれもご理解賜りますよう切にお願い申し上げます。
 末尾になりましたが、皆様の日々の安寧を祈ります。

2012年・4月吉日                日高奉文拝
昨日上記の案内文を書きまして、取りあえず第一弾として25通くらい、ご縁のあった方に発送しました。

おそらく100通くらい出すことになるかと思います。

話は忽然と変わりますが、先ほど土取さんの、音楽略記(氏の素晴らしいブログ)を読みました。お亡くなりになった。桃山は晴衣さんの音の足跡を綴っておられます。これが素晴らしいのです。芸術家の魂に打たれます。これからも私のブログでは氏の仕事の関することは、度々触れることになるかと思いますが、私のブログを開いてくださる方には、どうか氏のブログを読んでくださるように、お願い致します。

日高事務所としては、企画の中心の核として、氏の仕事の一部は、何らかの方法で、可能な限り取り組みたいと思いますので、それを理解していただくためにも、氏の多岐にわたり取り組んでおられる仕事の全体を、氏の文章を読んで感じてほしいのです。

芸術家は、時代の要請で生まれてくるものだと私は感じています。企画者として、私は氏の取り組んでおられる仕事は、時代の闇を切り開く貴重なものだという、直感を押さえることができません。

膨大な氏の取り組んでおられる仕事の一部を、日高事務所はこの岡山の地で企画したく思います。氏の仕事は商業主義とはまるで縁のない世界ですので、集客的にはかなりの冒険です。だけれども私としては、だからこそ日高事務所として取り組む価値があると、信じています。

取り組めるうちに、悔いのないようにとりくむ、それ以外に私が日高事務所を立ち上げる根拠はありません。そういうわけですので、今年の秋、日高事務所の第一弾は、土取さんの演歌の世界を企画したく思いますので、どうか氏のブログを読んでいただきたく思います。

氏はこれから、ピーーたーブルックとの仕事でしばらくパリにゆきますので、戻って来られたらたら、ゆっくりと企画を始めます。

2012-04-11

激励のお手紙を頂く


2000年西インドを旅したときに求めた作品



昨日10日、直筆のお手紙を2通いただいた。二通とも人柄がにじみ出ているお手紙で(文字にも)2度繰り返して、じっくり読んだ。電磁波飛び交う(身体に与える影響は、やがてゆっくり姿を現すのではないかと、私は考えている)メールが今や完全に主流のなか、私のような、時代を斜に眺めているものには、やはり何と言っても手紙や葉書が、いい。

というわけでもおないのだが、私も昨夜京都のお世話になった方に、取りあえず一筆お礼を書いて投函した。悪筆であれ何であれ、とにかく誠実に対処し向き合う。世の中に出てあまりにも忙しく動く時代の中で、おぼれないように、あくせく生きてきた私だが、なんとか、向こう岸に辿り着き、ようやく落ち着いて手紙を書いたり、ブログを書いたり、一言でいえば、もう時間に追いかけられない生活がようやくにして、42年ぶりに訪れようとしている今、この嬉しさはたとえようもない。

良く、定年したら何をしたらいいのかわからないなんて言葉を聞くけれども、私に関しては、その言葉は全く当たらない。全ては健康だからなのだが、身体があれこれやりたいことを思いつくのである。頭というのは、足や腰の上にあるものであり、脳と体の末端は不即不離であり、分けて考えるのがおかしいというのが、私の認識である。

何かを企画したくなる、思いつく、ということが、ちょっと気障ですが、私の場合生きているという充実感と直結しているので、こういう気持ちが湧いて来なくなったら、素直に潔く、枯れてゆきたいと、元気なうちに書いておきたいのです。

さて、企画するにものにもよるのですが、この20年私が子育てしながら最も頭を悩ませたのが、スポンサーを集めるということでした。(大昔から、芸術はパトロンなしには成立しない)今の日本のこの閉塞感極まる情況の中で、芸術や、文化にお小遣いのかなりを費やすような日本人がどれだけ存在するのはということに関しては、申し訳ないのですが、はなはだ私は絶望的観測しか持っていません。ですけれども、なんとかこの15年私は企画を継続することができたのは、私を支えてくださる、素晴らしい人たちに恵まれていたからだということに尽きると思います。

スポンサー集めに、エネルギーを使い果たし、自分が企画者として学ぶ時間がないことに苦悩しました。それと、スポンサーを募ることに疲れ果てたということも、正直あります。しかし、S氏や、M女史からのお手紙は私のこれからの人生を応援するという、暖かいこころに満ち溢れ、今の日本の時代の現状を憂えるものでした。

昨年の・光・を最後に(大きな企画は)しようかと迷う自分がいたのですが、私を支えてくれる方がいる限りは、企画を全うすることが、私に与えられている天職だと考え、日高事務所で、スポンサーを募り、再出発します。企画したいことが色々あるのです。私がこれまで、なんとか生きて来られたのは、自分自身に(芸術や文化、特に演劇、映画、音楽)お金を費やしてきたからだと思います。

ともあれ、4月中にスポンサーを募る案内を出します。私のささやかな自己資金と私を支えてくださる方々と共に、日高事務所はアクションを起こします。

2012-04-10

還暦後の、これから

妻がいそしんでいる庭の花


丸2年と5カ月以上、こんなにも書くことを続ける自分が生まれてこようとは思いもしなかったことは、囲炉裏通信時代から、何度も書きてきたような気がするが、書くという行為は、否でも自分との対話を強いられるというのか、内省的にどうしてもいい意味でなるように、私には思われる。

若いころは、世界の風に当たるべく、外国旅行をすることが、一つの夢というような時代もあった。がやがて日々の暮らしに埋没し、好奇心なんかもやがて薄れ、ごく普通の初老の平々凡々たる人間になってしまうのであろうかと考えると少し恐ろしかったが、今は平凡の素晴らしさを受けとめる自分がいる。若いころには気づかなかったことを、外国旅行にゆけなくても、随分感じるようになってきたし、日々、内国旅行をしているような遊び感覚。異国に生れれば、日本もまた外国なのである。視点を変え、思考空間をたゆたう遊びは尽きない。肉体は退化するが、精神は進化するというパラドックスを、還暦後の自分の中に感じている。

毛はすでに抜け、白髪が増え、顔のしわや、シミ、背中や身体の節々の痛み、などなど、年相応に老いてきているのだが、そういう自分をどこか俯瞰的に眺められる余裕のようなものが生まれてきているのだ。やがて花がしおれ散るように、生と死は一体で完結、繋がっているとのだ。老いてゆくことは、個人差があるにもせよ必然なのだから、その必然をいかように生きてゆくかということは、個人個人に課せられている(これを楽しみたい)という気がしてならない。

若いころには気づかなかった、あまりに身近な日本の素晴らしさを、ようやくにしてしみじみ愛おしく感じ始めている。還暦おじさんとしてはゆっくりしか歩けないのだが、若いころには読む気もしなかったような本が、読めるのである。何十年も働く中で見失っていた子供のような好奇心がいまだかすかに、生きていることを神に感謝しながら、これから私に与えられている時間を、できるだけお金というものに頼らないつましい生活の中に見つけてゆくということに、新たに挑戦してみたいのである。

これまでの人生でも、天の邪鬼的発想、逆から眺める方法でなんとかしのいできた我が人生。だからこそいろんな思い出が、詰まっているのだと、今思えるのだ。物を書いたり、考えたり、歩いたり、掃除したり、料理したり、何気ない日々の毎日の繰り返しの中に、本当に大切で豊かなことが、存在しているのだということを、還暦にして思い知る私である。