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2015-12-31

2015年大晦日、朝の五十鈴川だより。

大晦日の朝である。さすがに今夜は寝るのが遅くなるのでいつもよりは遅く起きた。家人はまだ休んでいる。

一昨日から母もやってきた。毎年お正月一週間は共に過ごす。2階の寝室で母と妻は寝て、私はその奥の衣裳部屋に布団をひいている。

この小部屋がことのほか私は気に入っている。冬の間はここで寝ることに決めた。一回の薪ストーブの暖気が寝室とこの小部屋をしっかりと温めてくれるからである。

それにペットボトルの湯たんぽがあればいうことなし。お湯は薪ストーブが常時沸かしてくれるし、焼き芋ほかいろんな温め料理が可能なので、まったく薪ストーブの効用ははかりしれない。

眠りに落ちるわずかな時間枕元のスタンドで文字をおっていると、全身が温まってきてあっという間に眠りの世界にいざなわれる。

4~5時間熟睡すると時折目覚める(目覚めない時もある)。そんなとき何をするか。これは初めて書くが、静かに深い呼吸しながら我流の腹筋を するのである。

これをすると、しっかりと目が覚めるのでまた眠くなるまで文字を追うのである。だいたい10時くらいには寝入り、起きだすのは5時過ぎである。

ほかにも瞑想したり、時折の意識ハッキリ真夜中時間を楽しむことを心かけている。闇の中というのは、自分自身と向かい合うには最高の時間帯なのだと私は考えている。

盲目の方は、常時このような感覚で過ごされているのだということを、何とはなしに感じる。闇という字は、音が閉ざされている状態だ。
プラハの街並み

睡眠が満ち足りて、脳がニュウートラルな時に思い浮かぶことに私はほとんどすがって今も私は生きている。

だから睡眠という行為は、私にとってはとても大事なのだ。寝ないと私は全く体が変調をきたす。

食事、お風呂と睡眠とが、歳を重ねるととても大事だ。

とにかくよく休んで、体調の維持管理を楽しめるくらいの余裕がないと、私の場合ははかゆかない。

ところで、幼少のころの最初の記憶の世界はうす暗いのである。

だから、私はアフリカやインド、アジアのいまだうす暗い辺境の土地を旅すると、もうそのようなところには住めない体になってしまってはいるものの、しばし心身が落ち着くのである。

真夜中トイレに行くときなど、電気をつけずに手探りで感を研ぎ澄まし用を足して遊ぶ。100年もさかのぼれば、漆黒の闇がほとんど、大いなるものにひれ伏して、人としての法を超えずにあらかたの人は生活していたに違いない。

いまや、私をはじめとする現代人は闇を遊ぶ余裕もなく、闇は恐ろしいといった対象でしかない。体の中の闇なる部分を、ときおり真夜中私は見つめる。瞑想と迷走。

最後にシェイクスピアの【リア王】のセリフで今年最後のブログを締めくくり、【目が見えた時はよくつまずいたものだ】。

2016年、五十鈴川だよりを読んでくださった皆様の健康と、良き歳でありますよう祈ります。




2015-12-30

年の瀬、年賀状のあて名の入力作業に半日を費やしながら思う。

年賀状は新年を迎えてから書いていたが、ちょっと私にしては異変が起こった。もう若くはない私は、やはり時間のことを考えて宛名ほかをパソコンで入力することにしたのである。

ブログに書いた記憶があるのだが、全部パソコンでいただく年賀状は実に味気ないと、私自身は今も考えている。

すべては、人柄と私と相手との関係性で私は変えることにしたのである。宛名はパソコンに9割くらいはして、ほんのわずかな時間をこの数年書に親しんでいるので、併用でゆこうと、いくばくかの思いつく字を書きこみたいと今は思っている。

これは年が明けてから書くことになるので、私の賀状は松の内には着くとは思うが、そうは早く着かないのでこの場を借りてご容赦のほどを。

住所もこの際パソコンに入れ、手書きの住所力も併せて利用することにした。 退職したら年賀状が減るかと思ったら、私の場合はさほどの変化がないので、100枚以上を手で書くのは時間的にシンドイ。

この年にして、ようやくにして無為に何もしない時間の大切さを私は感じるようになってきつつある。怠惰というのではない。要するに心と体に正直に生きることにしたのである。

でもそうはいっても、わたくしごと気にお年賀をいただくということは、普段は会えないにもせよ、私自身への思いがなにかあるからこそいただくということになるので、有難いことと受け止めている。

ほぼ半日で宛名を打ち込むことができたが、やり方はすべて妻が指導、五人めぐらいからはひとりでできるようになりあとは単調な入力作業でおえた。

来年からはパソコンにももっと触れるようにしたいと今は考えるようになってきつつある。スマホもそっとやりたく思っている。すべては自分の体との調整をしながら。

何かを得ると何かをなくす。便利、快適世界を追いかけすぎると、肉体が脆弱になり気力が衰える。一番困るのは声を出す肉体が衰えること。 バランス、時代の最後尾を私はゆきたい。

すべては、アナログとデジタルの併用で私には十分に足りる生活を心かけたい、のだ。

ドレスデンの森、娘と怜君
何度も書いているがおしゃべりな私だが、ブログを書いたり本を読んだりするのは、私はそんなには早くないし(打つのはかなり早くなってきました)努めてゆっくり読み書きするようにしている。

あらゆることがゆっくりなのだが、気が付くと進んでいる、そのような塩梅が一番私にはあっているのである。

これは尺取虫のように富良野の400メートルの畑に這いつくばった経験から私が学んだことである。

軽佻浮薄を自認しているので、私はせめて一人の時間くらいゆっくりとゆきたいのだ。歳があけたらいつものように可能な間、在来線で時間をゆっくりと堪能しながら遠方への旅をしたく思う。

時折普段の暮らしから離れて普段の暮らしに帰る。男の私にはこれは絶対的に必要である。年に4回くらいあれば十分である。

若い頃はどこか生き急いでいたが、今はまったくゆっくりとしかゆけない自分を楽しめている。でも思うのだ。生き急いでいたからこそ、何とか今があるのではないかと。

その年代なりに小さな器で、何とか自分にしがみついてきたから、大きな渦に流されなかったのだと。

世の中がバブリーなころ、何せ私は富良野で畑に這いつくばっていたのだから。今振り返るとだが、あのころ違う道をせんたくしていたら果たしてどうなったかは皆目わからない。






2015-12-28

竹韻庵に昼食忘年慰労会に出かける前の朝ブログ。

竹韻庵のことをあまり書いていないが、今日が今年最後の竹韻庵もうでになる。オーナーのS氏が昼食忘年会をしましょうということで、お招きにあずかっているのである。

少しアルコールが入るのでS氏が岡山駅まで迎えに来てくださることになっている。ありがたいことだ。7月末から竹韻庵に通うようになり、体力維持鍛錬くらいの気持ちでいまも続けている。

自分なりのことしかやれないが、五か月でずいぶん竹韻庵の雰囲気は変わってきたと思う。開墾して畑らしき体裁を整えたばかりのところに植えた、チシャトウやネギほかの野菜も、日照時間が少ない中 それなりに育っている。

それを眺めながら、いま孟宗竹の根を取り除くことを根気強く続けている。これはやったものにしかわからないくらい根気がいるし、かなりの体力を消耗するので、現在の私の体力で正味2時間くらいが限度である。

メインに使う道具は、斧とつるはしである。これがなければまず無理である。道具と体が連動してこその労働。働くという字は人が動くと書く。

頭は足と腰の上にいわば乗っかっている。直立歩行を始めた人類は、いまや頭がもっとも大地から離れたところを、いわば浮遊するような感じでたゆたっている、のだ。

私は思春期までの時間を、アスファルト以前のむき出しの土まみれの時代に育ったので人工空間が大好きなくせに、そこだけで呼吸しているとカサカサに潤いが無くなってくる自分を感じる。

いわば絶対矛盾だ。だからいま、竹韻庵に通いながらの都市生活は、私にとっては理想的なのである。このような生活ができる今を、ひとえに誰に向かって感謝したらいいのか。

だたただ謙虚に感謝することを忘れないためにも、日々五十鈴川だよりを書きたい。おそらく斧を振り下ろす体気力が持続でできる間は、きっと声出しも続けられるような気がする。

自分の体は自分がやはり一番よく分かるようで在りたいのだ。本を読んだり、ブログを書いたりするがために、私の一番の今のところの弱点は背中である。

それなりの対策を続けながらこれ以上はひどくならないようにケアーをしている。しかし在り難いことに、未だ元気に動ける身体があることの嬉しさは、歳を重ねるにつけ深まる。

あくまで自分という存在を動かしながら、老いてゆく時間の中での、自分なりの右往左往揺れる姿を、見つめたい、というくらいでこれ以上書くのは控える。
ドレスデンの怜さんの大好きな森を家族でピクニック

ところでいつものように話は変わり、堀江貴文氏の【我が闘争】という本を読んだ。

(わからないIT
語はすっ飛ばして)この人の本を自分が読むとは思いもしなかったが、一言私には大変面白かった。

1972年生まれの氏は、私より 20歳若い。

人は生まれてくる時代を選べない、その渦中をある種天才的に氏は突っ走る。そのスイング感は若さゆえの才能のほとばしりを縦横無尽にいかんなく発揮、それは今も続いている。

氏はいわばそういう宿命の星に生まれたのだ。全地球上の存在がいわば宿命的に日々を呼吸している。想像力こそ私の財産、生と死を日々繰り返し、命は時に縮み時に輝く。

せっかくこの星に生まれたのだから、日々を気持ちよく呼吸したいとシンプルに私は考える。

2015-12-27

クリスマスイブうれしいことがありました。

久しぶりに岡さんから私のブログにコメントが入っている。そのコメントに関しては個人的にしっかりと受け止めました、とここに書いておくにとどめます。

が、戦場という狂気の沙汰の渦中に平凡な人間が置かれると、普通の人間がかくも変身してしまう器であるかという認識の恐ろしさを、心の片隅に持っておいた方がいいと私はかんがえる。(私自身も例がいたりえない)

だからこそ、いったん始まったらとことんまで突き進む恐ろしさに、私は過剰なくらい敏感に反応した方がいいと思う。

安全保障法案に国会前まで足を運んだり、ブログでもたびたび一色になることの恐ろしさに触れるのは、知らず知らずのうちに そういう方向に流されてゆくことへの個人的な危機感である。(利益のために敵を作る愚)

大量虐殺の施設の隣で、ナチスは音楽会を開いていたというが、何十万キロ離れている国々で、空爆やテロや、その他あらゆる戦争状態を生きている方たちが今現在いるという現実に対して。

隣ではないからこその、あまりの痛みのなさを私自身はかすかに自覚している。がしかしこの平和もいつ何時失うかもしれないという危機感、平凡な狂気に走らないで済む世界にいられる何という在り難さを自覚する。

平凡に、ささやかにクリスマスやお正月を迎えられることへの感謝。五十鈴川だよりは時代の推移とは離れたところで 、静かに流れながらある種の自分なりの正気をち保ちながら流れてゆきたい。
怜君のおばあさんほぼ母と同じ年、ガーデニング、野菜を作るのが趣味

 ところで、はなはだ個人的なのことだがクリスマスイブに、ちょっとうれしいことがありました。

来年から山陽カルチャーでの講座が、木曜日よる6時から8時に なったことはすでに書きました。

この3年近くUさんとの二人レッスンが続いていましたが、クリスマスイブに新しく入会されたかたがいて、手続きをすまされたとのお電話でした。

そして昨日友人のAさんの息子さん(30歳の男性)も参加したということで、年明けからいきなりカルチャーで3人のレッスンが始まることに。

遊声塾も入れると10名も私に生徒さんができたのだ。 石の上にも3年、来年の春で丸3年、オーバーではなく感無量である。

夢が原退職後、新しい出発を今現在も継続しているが、ようやく3年目にしてかすかに実を結び始めてきたのだ。

子育てをほぼ終え、やりがいのあることを続けられながら生きられる今、ことのほか私は幸せだ。


2015-12-25

師走、ひとり静かに小津安二郎監督の東京物語を見る。

師走のさなか、たまたまNHKでお昼小津安二郎監督の【東京物語】と【秋刀魚の味】を続けてみた。

戦後70年の節目の年、原節子さんの訃報が知らされた。家人のいない部屋で一人静かに見入った。

20代、名画座で見たことのある作品だが この年齢で見るとなんともはや心に染み入ってくる。これだけは年齢を重ねないと感じ入ることのできない世界ではないかと、私は思う。

東京物語は1953年の作品、わたしが一歳の時である。いま、63歳の私が見て思うのは、名作というものはかくも時代を超えて残り、人間の深いところに届くのである。

私は玄関の開け閉めの音なんかに、昭和の家のかすかに時代の空気感を肌で感じることができるので、なおさら琴線を打つ。

団扇を仰ぐ老夫婦の姿に、曾祖父母の姿が蘇る。明治は遠くなりにける、なんていうが私には昭和は遠くなりにけ、あらゆるシーンに私の昭和が蘇る。

名作には余分な説明が一切ない。一気に展開するので、見る方はその間の出来事の推移をいやでも想像する。余韻の残る、奥行きのある、暗示する作品こそが私の好きな映画である。

時代に翻弄されながらも、家族として生きる姿のそこかしこに無常感が忍び込む。それを独特の同じポジションからの人間目線のロウアングルでとらえる。

一筋縄ではとらえきれない人間の細やかな感情のひだが、セリフのない無言の顔のアップで示される。絶対矛盾に揺れるしかない人間存在の悲しさ、と美しさ。

私が年齢を重ねるにしたがって故郷に回帰するのは、おそらく昭和にこそ私の青春(人生の大部分)があり、自分の中でいたずらに今の世相に迎合してまで生きるのは、はなはだもって無理があり、時代に取り残されても、東京物語の老いた夫婦のように、それを丸ごと受け入れた両親を見ているからだと思う。

戦後復興した旧市街を歩く妻と娘
いい意味での諦念のような。だがこう書きながらも、いい事か は別にしてあの時代に比較して格段に寿命がのびた現在、はなはだもって私は元気なので、今しばらくはじたばたしながら生きることになるのだとは思うが。

だがきっといつの日か、東京物語がもっともっと染み入ってくる日が来るのは確かな気がする。

このような映画を生み出した小津安二郎という監督の偉大さを漸くにして私は感じるようになってきた。

ところでこの東京物語という作品は、世界映画史上、2012年世界中の映画監督358人が選ぶ、監督選出部門の【10年に一度選ぶ】第一位に選ばれたとある。

このような世界の人たちに今も理解される、通じる普遍的な作品を小津安二郎という日本人が創ったことは何という誉だろう。

長部日出雄さんがM新聞に書かれていた。小津監督の作品は現在の世界の映画の流行とは、正反対の立場にある。

暴力・殺人・破壊・炎上・スリル・サスペンス・などの映画的な要素とは無縁で、非日常的な出来事は一切起こらない 。描かれるのは平凡な家族の平凡な日常ばかりー。


人間の本当の幸福は平凡な日常の平凡な繰り返しの中に隠されている、というのが小津の信条である。

その考えが的を得ていたのは、いま混迷を極めて何が何だか分からなくなっているシリア情勢と、長年住み慣れた土地を追われて、欧州に向かった難民が直面している悲惨な境遇を観れば一目瞭然ではないか、と。

地上に紛争と混乱が続く限り、平凡な日常の繰り返しこそが人間の非凡な幸せと説く。そのヒロインは原節子しかいないと。(余談だが黒澤明監督の白痴のヒロインの原節子さんが素晴らしい)

不世出の原節子の存在有らばこそ、小津安二郎監督の名作東京物語は生まれた。




2015-12-23

【間違いの喜劇】を一人で丸ごと読んでみたいと夢見る。

書き続けながら考える律動を続ける。ブログはいまやおまじない、気付け薬的な感じさえこの頃はしている。

いかに今日一日を過ごすかのだいたいは、ブログを書くことで整理確認が可能になってきつつある。私の人生はブログを書くことで、ことのほか充実の度合いが(手前みそですが)深まってきたように感じている。

毎日書いているわけではないのだが、書いていない日もそこはかとなく書いているかのような感覚が暮らしの中にキープできているのである。

柳田邦夫さんがおっしゃっていたが、人は物語を作る生き物、人生を物語化することで生きてゆくよすがとするということが、私なんかはとてもするのである。

だから演劇を、無意識にも学んだのではないかという気がする、というくらいで今朝はこれ以上書かないが、人は幻想や夢、物語にすがる生き物(私の場合)ではないかという気がしてならない。

ところで、いまシェイクスピアの【夏の世の夢】を遊声塾で読んでいるのだが、人生はまさに夢か幻のように私などは考えてしまう癖が身についてしまっていて、こうも世知辛い世の中にだと、ますます夢や幻にすがらないと、何と人生は無味乾燥に思えることかと、しばしシェイクスピアの登場人物のようなセリフの一つも吐きたくなる。だから私はシェイクスピア作品が好きなのである。

妻に言わせると自己愛が強いというのだが。屁理屈かもしれないが自己を愛すということと他者を愛すということは、私の中では不可分につながっている。

自分がいいコンディションでないと、なかなかにヒトを愛するという感覚が私の場合は育めないのだ。うまく言えない感覚なので、これ以上は書くのは控えるが。
教会で式を終え友人たちとお茶タイム、怜君と娘

魂や心を育むために、人はいかように生きてゆけばいいのかを この大変動時代、カオス化する世相を前にして、書きながらうすらぼんやりと考え続ける。

結論なきことを考えることの何という無意味な贅沢的言葉遊び。

ハムレットのように、言葉、言葉、言葉と、息を吐きながら運命に殉じてゆく、といった塩梅。

 話は変わる。月が徐々に満月に向かうこのころ、夕方図書館にゆき、併設する運動公園で散歩がてら体を動かして遊ぶ。

ほんの30分くらいだが平均して週3回程度は続けている。

昨日鉄棒で久しぶりに、懸垂をしてみた。ずいぶんしていなかったのに、何と4回できた。回数は問題ではないのだがやはりうれしい。わずか4回で身体中に血液が行き渡る。

引力に逆らって自分の62キロの体を腕で引き上げるという行為は、私の最も苦手な行為なのである。無理はしてはならないが、あまりに自分の体を歳だからといって甘やかすのもわたしの性格にはそぐわない。

膨大なシェイクスピアの作品の中で一番短い戯曲【間違いの喜劇】を全部一人で遊読してみたいという夢が最近私の中で 起こってきた。息が浅いととてもではないができない。

深い意味はない、ただただ今を生きていることに感謝し、できることをできるうちにやっておこうという気持ちになりつつあるのだ。

うまい下手も関係ない、ただただ全部を一人で読めるうちに人前に体をさらして、遊びながら読んでみたいのである。入れ歯になったら確実に読めないのだから、初老の男のわがままを私は夢見る。





2015-12-21

年の瀬、母との時間を共にしながら幸福を教えられる。

先週で遊声塾のレッスンは今年は終わり、今日でカルチャーのレッスンも終わる。これは是非書いておきたいのだが、来年からはカルチャーのレッスンは木曜日夜の6時から8時になった。

月曜日の朝だと皆さん働いているし、ほとんどリタイアした方々しか来れないので私の方からお願いして、時間を変えてもらったのである。

とにかく夜になったら、ひとりでも生徒さんが増えることを私は願っているがこればかりはどのようになるのか皆目わからない 。

とにかく私としては、夜に変わったことを機に何らかなPRをしたいということを今考えている。なるようにしかならないにせよ。希望を持つのみである。

話は変わるが、おとといの夜10年ぶりくらいに忘年会を我が家の庭と家の中でした。家族とゲスト合わせて9名によるちょうどころ合いの人数での小宴会となった。

庭で炭火を起こし、牡蠣を焼き私がゲストに振舞った。7時過ぎからは家の中に所を変え、夕食をしながらの歓談タイムを過ごし、ささやかで穏やかな愉しい忘年会となった。

母と妻が準備から片付けまで大活躍してくれた。久しぶりの忘年会である、がしかし母の存在の大きさをあらためて感じ入り再認識した。

ドレスデンの王宮あと戦後見事に街並みが再創造されていた
夜遅く9人分の器のあれやこれやを、洗って元通りに手際よく 短時間でしまえるなんてことは、やはり経験のなせる業としか言いようがない。

やがてはこのような忘年会もできなくなるであろうとは思うが、今年は何とかやれた。そのことをただただ私は感謝している。

夢が原退職後、母や妻との休日時間を大切にすることを、ブログ上で臆面もなく何度も書き綴る私だが、本当に感心することが多い母である。

当たり前に、自然に染み入っているかのように、ゆるゆる動くことをいとわない、やめない その仕事ぶりに、私は打たれる。

新聞は読むが、本などはほとんど読まない。畑仕事と、洋裁と編み物が彼女の一日の大部分を占める。一言での母の暮らしぶりは、家族のためにのみ費やされている。

一切の贅沢はしない。そういうことを育む環境に生まれなかったのである。だから口癖のように今が幸せだと、念仏のように繰り返し唱える。

そんな母だが、この夏妻と二人怜さん娘夫婦のところに3泊4日で上京した。数十年ぶりのことだ。ことのほか幸せそうな旅のアルバムを娘が作った。

なぜ行ったか。怜さんが一度来てくださいと再三誘ったからである。家族もだが、人間の信頼足りうる関係性は、ともに苦楽を共にすることでしか育みえないということだと私は考える。

一見大変そうな体動かしを、人生時間のほとんど費やしてきた母である。だからいまだに知らぬ間に、編み物や野菜が出来上がってくるのである。

一事が万事にそれは言える。学校を終えたら終わりではなく、人生はつまるところ生き方、継続、積み重ねの上にしか、花は咲かないのだということを母を見ていて、ともに時間を共有しながら思わせられる。




2015-12-19

身近な存在との関係性を深めたいと思う、忘年会の朝。

ブログには書いていないが、先週と今週立て続けに叔父と兄のお嫁さんの母が亡くなった。帰りたかったのだが、所用もあり考えた末、弔電を打つにとどめ西大寺で手を合わせた。

人は亡くなり、自分もやがては動けぬ体となり、ブログを書くことも声を出すこともかなわぬ存在となる。生老病死は厳然たる真実である。

だからこそ生は尊いのだという側に私はしがみつく。生き方次第では、人間は途方もなく醜くもなりうる存在でもある。

再三ブログで書いているが、家族とは何かということを、娘が結婚をしたのを機に、はたまた私は考え始めた。まして異国の男性と結ばれたがために、わが人生で異国の縁戚ができたがゆえになおさらなのである。

新たな時代が猛然と水面下で動いている気配を私自身は感じる。人間は揺れ、変化しその時代の渦中を必死に泳ぐ。

夫婦別姓、同性婚、ありとあらゆる制度が、もはや時代に追いついてゆかないような趨勢である。開かれた関係性に法律や制度、私たちの暮らし方、生き方が問われている気がする。

朝から軽いブログで書くことではないが、来年は選挙の結果次第では憲法改正 の流れが大きく加速しそうである。
怜君のお兄さんの子供大きくなったら我が家にホームステイ

私は私なりに一個人として考えたいというにとどめたい。話を戻す、現時点で死は私にとって、身近とは言わないまでも、そう遠いという感じでもない。

ばかの一つのように書き続けているが、今現在を悔いなく生きることの中にしか、ほとんど私の人生はないのである。

絶対矛盾のなか、ささやかに夢や希望を持ち続けながらも、よしんばかなわぬ事態が訪れた際にほんのいささかでもきちんと善処できるような

態度を保てるのかどうか、それはその時になってみないと分からないが、だから今なのだと、弱い心を激励しているのである。

ところで、今夜は我が家で遊声塾の忘年会がある。我が家で忘年会をするのは10年ぶりくらいではないか、本当に久しぶりである。

なぜ忘年会をすることにしたのかを書くと長くなるので簡単に。遊声塾の面々は今や私にとっては疑似家族のような存在になったからだ。

今年一年、本当にみんな私と共に、自分自身と向かい合う勇気を持ち、声を出し続けた。その面々と忘年会をやりたくなったのだ。

私の生きる原動力であるわが家族一緒に。全員で10名これくらいがちょうどいい人数である。だから今日はこれから掃除や準備をしなくてはならない。

愛と憎しみを共有できる関係性の中からしか、家族の大切な何かは育みえないというのが現時点での私の思いである。

齢63歳にして、ようやく臆面もなく書けるのだが、身近な存在との関係性を深めてゆくことの大事をますます感じる師走の朝である。




2015-12-18

鬼が笑うが、来年は思いもかけないことがあるように思える。

一昨日がシェイクスピア遊声塾の今年最後のレッスンだった。よほどのことがない限り塾のレッスンを物見遊山的には見学しては欲しくないのだが、この日は二人の方に私の方からお願いしてきてもらった。

その二人というのは、ブログで書いているがパリを中心に長いこと活躍されていて(来年1月東京、2月にもパリでの公演が控えている)、こんごは岡山に根拠をおくという舞踏家の女性Kさんと、その方を私に紹介したY女子である。

Kさんとはすでに3度ほどお目にかかってお話をしている。その彼女から私と何かコラボレーションができないかという、思いがけない提案があり、私もいささかの逡巡があったのだが、今私がやっている塾に来ていただき、私が今現在私が声を出している姿を見てもらうのが一番いいと思ったのである。

私も含め塾生6名で、公開間違いの喜劇 レッスンを見てもらった。塾生が多い時は普段私自身は声をあまり出さず、ひたすらコーチングに徹するのだが、この日は私が声を出している姿を見てもらいたいこともあって、私がかなりのパートを声に出して読んだ。

私のブログを長きにわたって読んでくださっておられる方はご存じだと思うが、31歳で最後の舞台を務め34歳で富良野塾を卒塾して以来、普通の生活者の道を選択した私は、夢が原を退職し遊声塾を立ち上げるまでシェイクスピアを声に出していなかった。
ドレスデンからの帰り一泊したプラハの街並み

声を出し始めておおよそ2年9か月、もうすぐ3年が経過する。 いま私はシェイクスピアを声に出して読むことがようやくにして再び愉しくなりつつある。

当初はコーチングしていても、私自身の体が錆びついていてなかなかイメージしたようには読めない自分自身と格闘していたが(それは声を出す間は続く)最近ほんの少し声を出して読めている自分を感じ始めているからだ。

遊声塾のレッスンを終えた後、KさんとYさんと私の3人でお茶をしたのだが、Kさんは私の声出し姿を確認され、私でいいとのこと、来年春に何か作品を作り表現したいので一緒にやりましょうとのお言葉でした。

ここまで情熱を傾けられたら清水の舞台から飛び降りるつもりで、引き受けることにした。上手くは書けないが、いましかないという直観が働いているのである。18歳からの恥かき人生者である私には、これもまた縁と思うしかない。

向こうから私に手を差し伸べてくださっているのだから、男子たるもの引き受けるしかない、と腹をくくったのである。

それに物事をいいようにしか考えない私の楽天性もある。守りに入りたくないから遊声塾を始めたのだし、新しいことに挑戦するには思いもかけない出会いではないかと。
 、
来年は64歳になる。いまだわくわくする自分がかすかに存在する。そこを頼りにしての出会いを苦楽しながら、Kさんにすべてをゆだね私はまな板の上の鯉になるつもりで今はいる。

Kさんは舞踏家になり、構成演出家になり、私は声出家になる。30数年ぶりの舞台になるが、まさに春の世の夢のような舞台になればと夢見る。

2015-12-15

壁を塗り、ささやかに自分の中の壁を見据える勇気を育みたいと思う。

年内に壁を塗り終えたせいか、気分がことのほかすっきりした年の瀬を迎えている。とはいってもまだあと半月師走は在る。

娘と怜君はクリスマスはドレスデンに帰るので、今年のお正月はちょっとさみしいが新年になったら会えるのだし、向こうのご両親にも怜君 は会いたいだろうし、交互に行ったり来たりできれば私はそれでいい。

というわけで、先日怜君と娘にクリスマスプレゼントのお料理の本を先日買った。今日カードを入れて送るつもりだ。
ドレスデンの旧市街を走る馬車

怜君の国では、やはりクリスマスが日本のお正月のような感じで祝うからだ。

義理の息子ができたがために、にわかに私も彼の誕生日やクリスマスに何かをプレゼントしたいという思いが湧いてきた。

他者のことを、身内に限らずおもんぱかる精神的な余裕のような感情が育ちつつあるわが体で、母の影響が大である。

他者が喜んでくれることをやれる自分がうれしいのだ。

壁を塗り終え、妻や母がことのほかねぎらってくれた。やはり男性の私にしかできないことも多々あるし、主のささやかな存在感を示すことができた、かな。

壁を塗り、壁を超えたではないが、ささやかに脳のシナプスが元気な最近のわが体である。一人遊び的な時間の過ごし方なのに、他者が喜んでくれるようなことができるなんてことがあるのだ。

お料理だって掃除だってなんだってかまわないのだが、妻や娘が喜んでくれるからこそやりがいも湧くのである。

他者の存在なくして、我が身の喜びはないのである。考えてみるとすべては当たり前のことばかりである。 その当たり前のことに気づくというのがこれまた大変なことなのだが。

気づいてもこれまた実行しなければ意味は生まれない。実行するには健康に動ける身体がないと、なかなかに実践は叶わないということになる。

老いは体のいろんな部分の反射が緩やかになってくるが、歩くスピードでやれば十分にいまだいろんなことが可能だということを思わぬ壁塗りで私は学んだ。

お向かいの奥さんが私が壁を塗っていたら話しかけてきた。これまではごあいさつ程度だったが初めての本格的な日常会話を楽しめた。

けがの功名という言葉があるが、壁塗りの功名。家族にもいい影響を及ぼし始めているような気配もある。

妻がいつにもまして早く、大掃除ではないが家の中のあれやこれやをいい感じに整理整頓、片づけ始めたのである。

いい意味で、家の中が活性化してきた。穏やかな実践の中で互いが刺激を受けあえる間接対話。 あらゆる循環がうまくゆけば、血の周りもよくなり毛細血管にまで行き渡る。

再三書いているように、いわば遊べる身体をいかように持続できるかにこそ、私はこだわりたい。

動き、読み書き、じたばた声を出しながら見えない世界を感知する感覚をこそなくしたくはないものだ。

2015-12-14

壁塗りを終えた師走の朝に思う。

昨日北面の壁を塗り終えた。自力壁塗りをやろうと思ったきっかけは、経済的なことがやはり大きい。

妻は業者に頼むつもりで、数社から見積もりまでとっていたが、18歳から世の中に出て、いまでいえばフリーターのはしりであるかのようにあれやこれやのアルバイトをしながら、ささやかに演劇を学ぶという夢を抱きながら、何とか糊口をしのいできた青春期の人生を歩んできた私には、すぐに自分でやればいいという結論に落ち着いた。

あれやこれやの日々を生きながら、時間を見つけて柱も含めた壁塗りを開始したのが10月の終わりころから。

先週土曜日、二階部分を塗るための足場を組んでもらってからほぼ2週間、ほかのこともやりながら実質5日間くらいで、塗料が無くなるまで重ね塗りをし何とか終えることができた。

そうはたびたび足場を組むことはできないので、手の届かないところは何度も塗った。愛着のある自分の家なので北風を浴びてもまったく苦にならずできたのは、なんと人間とはいい加減であることか。

それはやはり、お金を稼ぐということが(両親がよく言っていたが )いかに大変であるかということが、私のような世間知らずの田舎者にもいくばくかはしみついたからではないかと、思っている。

そこで私はいまだに考える。はたまたお金とは何であるのかと。お金とは何かを私のようなぼんくらが考えてもせんないことのようにも思えるが、時折ふっと考えるのである。
怜君のお母さんの家でのお茶時間ゆったりと時がながれる

もちろんよくはわからないのではあるが。それは自由とは何かを自分に問うのと、どこか共通した何かのように時折感じることがある。

私が畏敬する高峰秀子さんは言っている、【お金は怖い人を変える】と。シェイクスピアは言っている、間違いの喜劇の中で、【自由も過ぎれば不幸という無知に見舞われる】と。

持てない不自由と、持ちすぎている不自由とも言い換えることも可能ではないか。今はただ単に私は言葉遊びをしているにすぎないのだが。ギリギリの余裕なき今を楽しむ余裕を持てるのか持てないのか、そこが思案のしどころ(ハムレット)

ともあれ話を変える。思わぬ壁塗り体験をやり終えた年の瀬、考えてみると夢が原退職後は畑仕事をはじめやったことがないことばかりをやっている。

特に夏から、竹韻庵では初老男なりではあるものの、かなり肉体を動かし続けたので、ちょっと冬眠したいといったような心境にかられている。

ともあれ、今年もあとわずかであるが、できるだけ煩わしい拝金主義的(偏重的)な現代の趨勢、くびきからはちょっと距離をおいて、わずかなお金に感謝し宝石のように使える時間を大切にしたいだけである。

この年齢になると、無心になって好きなことができるひと時は、まさに黄金時間ではないかと、そっとひとりごちる私である。

2015-12-12

想いもかけないことが連続して起きるわが年の瀬。

年の瀬が日々近づいてくるが、私は相も変わらずマイペースで流れている。若い時から散々右往左往生きてきて、いまだに雀百まで踊り忘れずという感が抜けきらない初老の私である。

ところで、先日舞踏家の女性を竹韻庵に案内したことをちょっとブログに書いた。今日は午後その方の家で、小さなユニットを作り岡山で活動したいという彼女の思いに招かれている。

彼女がほかにも、何人かの方たちにお声をかけているので、どのような面々が集うのか少々の不安も抱えながら、楽しみにしている。

これまで岡山にやってきて、声をかけたことはあるが声をかけられたことはほとんどないからである。

私は自分が単細胞を自覚しているので、愚直なまでに一途な(程度バランスにもよるけれど)人生を歩むことを余儀なくされたような方に、惹かれるところがある。

舞踏家の女性とは二回しかお目にかかっていないが、一途さという点では芸術家にしか持ちえないオーラのような匂いを私は感じたし、私の人生で舞踏家と直接会いまみえるのもこれも何かのお導きと 、今を前向きに生きたいだけである。

社会的には定年などという言葉が大手を振って歩いているが、還暦を過ぎたらひたすら自由自在に存在してみたいという思いしか私にはない。

定年、諦観、などというものは自分で考えればよいのである。ギリギリ、ハラハラ、ドキドキ、いまだときめく身体があるうちは、ひたすらその流れの中を、必死で泳ぐ。メダカはメダカなりのDNA人生を生きるのみである。

結婚式場を流れるエルベ川、怜君の祖母と
昨日とは異なる時間や、出会いがあるなんてことは、たまさかに生きている果実であると私は考える。

いきなり話は変わるが、昨日も予期せぬかたからお電話をいただき夕方西大寺でお茶を飲み、お話を伺ったのだが、とある方が私を紹介したとのことでした。

ちょっと驚きました。私が岡山にやってきてあれこれやってきたことを(いったん過去形にしておきます)きちんと感じ見ていてくださっている かたがいたからこそ、このような実に余るお話をいただけるのだと、大変恐縮至極のありがたいお話でした。

4人のインタビュー本を作る(実際に販売する計画です)その中の一人として、何故か私に受けてほしいとの依頼でした。正直、私でいいのかとの思いがよぎりましたが、つたないなりに20数年企画してきたいささかの私の仕事が、何らかの形で記録として残るのであれば望外の喜びなので有難くお受けすることにしました。

来年2月からインタビューを開始、10月には本を完成(横長版の写真集のような体裁になるのではないかと、定価は1000円程度、未定)するとのお話でした。

今朝はこれくらいにとどめますが、なんともありがたいお話なのでインタビューされる側の一人として(他の3人の方の中のお二人とは面識がある)よき本ができるように側面から、微力を尽くせないものかと、ま考えている。

ともあれ、いい意味で思いもかけずうれしいことがおきるわが年の瀬、 静かに何かに感謝するのみである。

2015-12-11

野坂昭如さんがお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。

85歳で野坂昭如さんがお亡くなりになりました。先日の水木しげるさんに続くかのように。

敗戦の時に15歳ですから、その後お亡くなりになる前まで飢餓の恐ろしさを、一貫して伝えられました。そのことはいくばくかは頭の中でではあるにせよ、受け止めています。

私が土に親しむようになってきつつあるのも、食べ物の有難さや、尊さを歳を重ねるにつけ実感しているからにほかならない。

命と食べ物は直結しているという、まごうことなき真実。ところで野坂大先輩は私の中では11PMに出演していたころの元気な盛りの頃の姿が脳裏に焼き付いています。

【みんな悩んで大きくなった】 のCMも。白いスーツにハットと黒メガネと独特の早口語り、まさに怪人。そして照れ屋で、余人にはないやさしさ。だからこそ、あんな素敵な奥様に巡り合えたのでしょう。

私が信じられる人は、どこかに後ろめたさや、ある種の申し訳なさ、いわば良心の影を引きずっているような人に惹かれる。

きっと私の中にも、そういう闇の自分を引きずって、今現在を生き延びているという苦い自分が、まぎれもなく存在し、眠っているからなのだと思う。

その人間存在の狂気の部分を、いやでも引っ張り出してしまう戦争という、いわば人類の国家間の悪事に翻弄されるあまたの民の苦しさ(自身が体験された)の恐怖のトラウマを野坂昭如さんはペンや歌や、お百姓をされたりしながら、生涯伝えられたのだと思う。

時代は野坂さんが憂えられたように進んでいるようにも思えるが、新しい感覚や感性を持った優れた若いかたたちの出現を感じる。

私は能天気ではあれ現在を肯定的に生きられる人生時間こそが大切だという認識をもって生きている、でないとこれからを生きる人たちにはあまりにも希望があらかじめ閉ざされている。各自がこじ開ける勇気を持たなくては。

きざな言葉ではあるかもしれないが、世界は今を生きているからこその中にしかありえないのだから。だからこそ尊い。自分の体、手や足を動かして頭に問うのである。

いたずらに憂えるのではなく、自分の中の希望という幻想とでもいうしかないものに、多くの人々は必至でしがみついているのだ、と私は思う。

その尊さを、私のような凡俗人はすぐ忘れてしまう。だからこそ忘れない根源的人類の記憶装置として演劇、文学や絵、音楽、あらゆる芸術が、絶えず繰り返し再生されるのだろう。



2015-12-09

冬は憲法に関する本を読みたいと思う、朝です。

安全保障法案が可決した後も、東京では数千人規模のデモが続いている。忘れやすい私ではあるが、報道ほかでささやかにアンテナを張り巡らしている。
唯一の贅沢・冬の私の精神安定装置薪ストーブ

TVではデモに関するニュースを きちんと取り上げているのを、ほとんど見かけなくなってしまった。

私が午後9時以降はほとんどTVをみないせいかもしれないが。

63歳の夏は人生で初めて何度も国会前に 行った。ついこないだのようにも思えるが、ずいぶん前のようにも思える。

国を守るということは、このいまの時代どういうことを意味しているのだろう。私にとっての守るべき祖国とは何か。

国民とは、国語とは、母語とは、日本語とは、人間とは、言葉とは、思考の源泉はやはり言葉である。

デモクラシイの穏やかな哲学を ぼんくらなりに学び続けないと、ようやく手にした宝のような憲法の精神がうたかたのように消えかねない、危うい瀬戸際に我々はいるのではないか、という認識。

絶対矛盾を抱えながらも、現時点では安全保障法案の拙速な可決にはいまだ私は納得がいかない。

ところで、おとといの新聞で韓国で覆面デモ禁止に抗議するデモが行われたという記事を読んだ。主催者発表では4万人、警察の発表でも1万4千人がデモをしたとある。映像では見ていない。

私などは一仕事終えた年齢だがこれからの時代の行く末を思うと、やはり安穏とはしていられないなどと、どうしてもそういった思いにかられる。韓国の人たちは、アクションが早い。

いたずらに社会的な不安をあおるようなデモには冷静な感覚を持ち続けたいとは思うが、あまりに静かな意思表示もいかがなものかと私などは考える。

いいおじさんを忘れて、特に若者たちを含め元気な世代は、それぞれに納得のゆかないことには、表現の自由の範囲で示威行為をしないとまずいと私は思っている。理不尽や不条理なことには怒らなければ。

このブログもそうだが、様々な矛盾を抱えながら、揺れながら考え続けないとやばい。思考をやめることを、忘れることを、権力者側は 望んでいるとしか思えないのだから。

誰かが言っていた。原発事故が起こった時に、やはりもっともっと関心をもって原発に反対しておけばよかったと。

可決された安全保障法案の先行きはまだ判然とはしていない成り行きだが、私みたいな朴念仁でも感じるのは、きっとあの時が歴史的なターニングポイントだったと、後悔はしたくはないがゆえに、どちらに流れるにせよ、選挙権を持つものは、きちんと自分の頭で考えたいものだ。

夜が長い師走、私は静かにじっくりと物事を 考える落ち着いた時間を大切に過ごしたいと思う。空恐ろしいほどの情報が飛び交う、身体が情報に汚染されないように、自分の体が発する情報をこそ大切に、右往左往しながらも、土に近いところから何かを感じる力を冬場は蓄えたい。





2015-12-07

Uさん、山陽カルチャーでのたった一人の生徒さんは私をびっくりさせ続ける。

今日午前中は山陽カルチャーでシェイクスピアを読むレッスンがある。講座がはじまって二年半以上が過ぎた。

生徒さんは開講以来一人である。Uさんは現在85歳、今も眼鏡をかけず作品が読める。声量は低いが、きちんと読めることに関しては私に言わせれば驚異である。

きっといつかは終わりが来るであろうこのひと時を、ことのほか私は楽しみにしている。ああ今日もUさんとシェイクスピアが読めるかと思うとうれしいのである。

Uさんは生徒一人のために、私がやってくることをことのほか申訳がないとおっしゃるが、私に言わせるとまったく逆である。この年齢でシェイクスピアを理解し、声に出せる知的感性、頭が下がる。

この講座のおかげでUさんと巡り合えたことを私は毎回のように感謝している。たった一人の生徒さんではあるが、この生徒さんはただの生徒さんではない。

そのことは、私自身が一番承知している 。実に私自身が刺激を受けて学べるのである。私の生活圏で私に刺激をくれるご年配は、母とUさんの二人である。

まったく対照的な人生を歩んだ二人の先輩ではあるが、この二人の存在は私に刺激をくれる。いわばこのように老いてゆければという、お手本としてである。

最近しゃんとしていない、ご年配の方をたたみかける。やはり生き方というものは、一朝一夕にできるものではない。日々をいかに生きるかいかんで大きく変わってくる。

二人に共通するのは、日々前向きだということである。好奇心とは高貴心であると、肝に銘じる。Uさんは、こんな本を読みましたといい、私に本を貸してくださる。
怜君のお母さんの家の前で

私も本を貸す。世代を超えて知的な遊びができる得難い方なのである。

私みたいな無知な輩がいうのはおこがましいが、この数十年岡山に来て思うことだが、本を読む人は多いとは思うが、感動するばねを持ち続けている人には、そんなにお目にかからない。

それは、私の活動範囲が狭いからだとは思うが、だからカルチャーの口座でこのような素敵に年齢を重ねている方に出会えた私は幸運だとかみしめる。

母や彼女を見ていると、運命を丸ごと受け入れ丹精に生きている。その潔さが、アンチエイジングに浮かれたり、健康食品に入れ込んだり、(過激かもしれませんが)するご年配を見ると、嫌悪感にかられああはなりたくないと思うのだ。

心身ともに健康であればいいのだが、いたずらに長生きするなどはかえって無残な気が私などは現時点ではしてしまう。短いとか、長いとかの問題ではなく、いかに生きるかの一点に人生は絞られるのだととの側に私は立ちたい。

Uさんはおっしゃる、最近のお年寄りは甘えているのではと。こんなことを63歳の私に向かってのたまう方が、たった一人の私の生徒さんなのである。つまりカッコイイのである。

一冊のシェイクスピア作品を読み終えると、次は何を読みましょう かと私に催促する情熱の根拠は奈変に在りや。

外見は、お年相応にお見受けするが、内面は生き生き、それは言葉、振る舞い、態度に表れている。

2015-12-06

壁塗りをしながら家族時間を堪能しました。

昨日午前中業者の方に足場を組んでもらい、午後から日暮れまで北面の壁を塗りました。妻と相談しペイントの色を変えたので、こないだ塗ったところももう一度塗ることにしました。

柱の高いところは塗りたくても塗れなかったので、この際きちんと時間をかけて塗ることができます。素人なのでもちろんプロのようなわけにはいかないのですが、イギリス人がしつこく家のメンテナンスをする姿が焼き付いているので、その姿を見習いたく思っています。

樹の部分にペンキがつかないように、前もって新聞紙やテープで隠しをしてから塗り始めたのですが、思ったよりも塗ることができました。

このペースなら予定よりずっと早く塗り終えることが出来そうでうれしいです。自分でやるつもりはあまりなかったのですが、業者の見積もりを聞いたとたんにやる気が俄然湧き起ってきました。

何度も書いていますが、家などというものは庶民にとっては、夢のお城、家族全員が日々夜露をしのげ団欒を共にするかけがえのない根城なので、いささか古めかしくも主である私は奮闘しないわけにはゆかないのです。

男と女がうまくやってゆく秘訣は、取り立てて何もないと私は思いますが、生れ落ちた時代の多感な時期に育まれた感性に、私は殉ずるほかはないという心境に最近はなりつつあります。私は私らしく妻は妻らしく、お互いを認め尊重するのみです。

ことさら娘たちの世代に迎合したりはせず,時代のブームや流れをそっと眺めながら無理はせず、自分の好きなことや、正直にやりたいことをただひたすら、そのような五十鈴川感覚です。

ところで、まったく期待しなかったのですが娘に少し塗ってみるかと声をかけたところ、しばらくしてから足場をよじ登ってきたではありませんか。
ドレスデンの怜君のお母さんの家にて

ローラーと刷毛で塗るのですが、刷毛でコーナーを塗るのを一時間以上手伝ってくれました。

よもやまさか親子で壁塗りができるとは思いもしなかったので、良き思い出ができました。一番高いところから塗りましたから、よく上がってきました。

庭では母と妻がガーデニングをしながら、声をかけるといろいろ下手間をしてくれますから、つまりは家族全員で作業をしているわけです。

陽が落ちるのが早いので、4時半には終了。すぐにお風呂で冷えた体を温めました。母が気を使いお肉を買ってきてくれたので、6時すぎ全員で早めの愉しい焼肉夕飯となりました。

母が毎回食事の度に、幸せだと口にするのですが、幼少期の貧しき食卓や、戦後青春の苦労を経験していればこそでしょう。苦労を吉にするのが母らしい、苦労を丸ごと引き受け人をうらやまない。

母ほどではないのですが、私も幼少期貧しくはありました。でも、曾祖母含め9人、ワイワイガヤガヤ家父長の親父を中心にした、ささやかな夕餉のひと時が蘇ります。初冬の夕暮れの一人夕飯ほどわびしいものはありません。

私はやはり性格なのでしょう。にぎやかな食卓が私にはあっています。家族がいなければ、とてもではないけれど、壁を塗ったりするエネルギーは湧いてこないでしょう。

ともあれ、今日も妻や母と終日を過ごすことになりそうです。私は今日も冬空の曇り日ですが着こんで壁を塗る予定です。妻とは土日しか協働の時間が持てないので、土日はできる限りともに すごせたらと考えるのです。

夜8時過ぎ妻が母を車で送ってゆきました。可能な限り母を含めた 家族時間を大切にしたいと思わないわけにはゆきません。娘が怜君や姉にラインで知らせるとすぐに返事が届きます。

言うは易し、実行あるのみなのです。父は実行しなければまったくもって相手にしてくれないほどに厳格でした。軟派な人生を選択した私ですが、晩年はほんの少しでもと、硬派な人生に憧れますが、さてどうなるでしょうか。

2015-12-05

新聞で国内外のニュースに耳を澄まし日々を過ごす。

最初にまず断っておきますが、SDカードとパソコンのコネクトがうまくゆかず、昨年のドレスデンの写真がこのところ続いていますが、どうかご容赦ください。

書いている文章とは全く関係がなかった写真が載ったり、またしばらく文章だけになったりするかもしれません。

さて昨日は、午前中竹韻庵で笹の根を耕運機でうがしてから、しつこく笹の根を手で採る作業をしました。(土の匂いを嗅ぎ、こういうことをやっているときがことのほかに幸せです)

風が強い一日でしたが、竹韻庵は高い雑木に 囲まれていますので、直接風に当たるということはないのですが、木が風にあおられ木の葉がひっきりなしに舞い降りてきます。ときおり世捨て人感覚になります、いい意味で。

風が強い時には焚火は控えることにしています。じっとしていると寒いのでともかくのらりくらり冷えない程度に体を動かすのです。

体調次第では億劫に感じる 日もあるのは人間なら当たり前のことなのですが、これまでの経験でそのようなときはそのように体を動かせば、いまだ自然に体は動き始めるということが、私にはわかっています。

熱やよほどの体調が悪い時は別ですが、長時間でなければ体は動かした方がいいのです。案ずるより体を動かせです。

冬は日照時間が短いので、竹韻庵にいる時間を少なくして、ゆく回数を少しですが増やそうかと考えています。季節ごとにやれることを見つけながら竹韻庵が少しでもいい感じになればと思うのです。

体を動かしながら、休んではあれやこれや考えてきたので、ささやかに畑らしきものも存在しているのだと思います。

体と脳の意識は不即不離の関係です。書くという行為もかなり意識を使いますから、つまりはささやかに体で書いているのではという気が私はしています。

もう最近は、書き始めると体がかいているという感じで 、パソコンを開くまで何を書こうかなんてほとんど考えていません。
昨年ドレスデンで怜君の家族がバーベキューをしてくれました

私のブログは8割は即興文体になりつつあります。

話は変わりますが、ちょっと留守にしていると新聞がたまります。

一昨日と昨日、かなり集中して新聞を読みました。

読み手の意識、心かけ次第であらためて新聞には(M新聞だけなのですが)貴重な記事や今を生きるのに必要な情報が、満載されています。

専門知識は何もない私ですが、【核の回廊をいく】という連載をよんでいます。戦後からの原子力発電政策から、津波による事故、そして今また再稼働を認め始めた自治体の動き。

あらためてこの経済大国になるまでのエネルギー政策のむつかしさを、この連載でいくばくかを私は知りました。連載は続いています。知らないとやはり何も言えません。

温暖化で海面が上昇し、このままでは国が沈没する危機をツバルの大統領がコップ21の会合で訴えました。自国の利益だけを追える時代はとうに終わったと思う。この惑星生命体はかけがえなくつながっている。

プラスチックの微粒子のごみを魚が食べる、食物連鎖の、放射性廃棄物の濃縮の連鎖、海洋汚染の深刻さ。

フランスのテロ以外にも報道されていないテロの頻発、 新聞を開いても日本にいると皮膚感覚で受け止めることの困難さ。

だが、せめて日々新聞くらいは開いて世界の出来事や社会の出来事に耳を澄ます感覚を、なくしたくはないという思いが、たまった新聞を開かせる。読める体で読むしかできないにせよ読む。

報復の連鎖を乗り越える英知は、海面上昇を超える英知は、 安全なエネルギーを生み出す英知は、新聞で知るあらゆる悲しみ、国内外の暗い知らせを超える英知は、、、、。人間とは何か。お金とは何か。

竹韻庵で風の歌を聴きながら、初老の私は天と地の間で揺れる。


2015-12-03

家事を少しでもできるように自立した老春を、と願います。

昨夜は遊声塾のレッスン(意味もなくただただ声を出すことがとても楽しい)で12時近く寝ました。いつもよりゆっくりですが6時には目が覚めたので起きました。

妻は月曜日から金曜日までフルタイムで働いているので、努めて家事の幾分かを、私が担うように心かけています。
昨年ドレスデン・妹さんも一緒に怜君のお母さんの家の近所を散歩

食器の片付け、洗濯物を干し取り込む(娘がやるときもある)、 それから掃除、簡単な買い物など、たまに夕飯を作ることもあります。娘も。

これからは妻との時間を大切にし、本を読んだりする時間を減らし、料理をする時間を増やしたいと思っています。

妻は私より8歳若いのでまだまだ元気なのですが、少しでも妻の負担を減らし、私の楽しみを同時に増やしたいのです。

今日は雨の後なので竹韻庵はちょっとのぞくくらいにして、家事に重きを置いた一日を過ごすつもり、冷蔵庫の中に在るもので何か作る予定。

我が家はみんなそれぞれ忙しいので、朝と昼は各自で済ませ、夜は必ず一緒にするというスタイルなのです。

退職後、昼食はほとんど各自、(自分で作って用意し)済ませているので何事も継続しているうちに、それなりに当たり前のように簡単に苦も無くできるようになりました。

冬はやはり体が温まるものがほしくなります、(夏はぎゃく)年齢的にそんなにたくさんは欲しくありませんし、スープやなべ物がちょっとあれば、何とはなしにすぐできます。

何といっても母が季節の野菜を届けてくれるので(いまは小松菜やかぶ、春菊など)大助かり、我が家はほとんど外食をしないし食費がかなり抑えられます。ありがたいことと心から思います。

この国の行く末を、つらつらとおもんぱかるに、年金も含め我々庶民、とても私などは安穏とはしてはいられない気持ちになるのですが、いかがでしょうか。

食と安全、安心と健康は、可能な限り自分で守らないと、という気に私などはなります。

田舎の井の中の蛙が演劇などを学ぶという途方もない行動を起こしたがために、はなはだ個人的な辛酸を経験したことが、返す返すも今となってはよかった。工夫する癖のようなものが沁みついたように思えます。

なんでも安易にお金で済ませたり、労を惜しんでいると横着を絵に描いた大人になるのは理の当然でしょう。先人たちのほとんどは身の回りのことはほとんど半世紀前まで、身体を使っていたのですから。

城山三郎さんが、逆境を生きるという本を書かれています。わたくしごと気も個人的にほんのちょっぴり苦労したおかげで、節約しながら面白おかしく生きてゆく工夫をいまだに続けられているように思えます。

本当にチャップリンが言うように、家族と、友人と、少々のお金があれば、付け加えるなら健康があれば、それこそがまさにいかようにも生きられる。知恵の泉を耕さなくてはと思います。





2015-12-02

素敵な舞踏家の女性と出合い、竹韻庵にご案内しました。

4日も竹韻庵を留守にしていると、畑がやはり気になる。そこで何はともあれ朝一番出かけた。漸くふゆらしくなってきた竹韻庵はしんと静まり返っていて、肌寒い。

雑木林に囲まれている竹韻庵の野菜は日当たりが悪く、成長は遅いがゆっくりと育っている。それなりに育っているので安心する。

そこで少したき火をしてから耕運機を動かしとにかく体を動かした。何はともあれ、竹韻庵では最低2時間近くは体を動かすことにしている。

こんなに早く畑ができるとは思いもしなかったので勢い竹韻庵にゆく回数が増えているが、これもまた成り行きで楽しんでいる。

話はいきなり変わるが、先日とある方が私に紹介したい舞踏家がいるということで、この間お会いしてお話をさせていただいたのだが、私の中で感応するものがあり、ほんのわずかな時間だったが、その方を竹韻庵に案内した。

女性で40年近くパリに住んで活躍されていた方で、私よりちょっと年齢は上なのだが、岡山で今後は生活しながら、小さなユニットを作りたいということで、何故か出会う羽目になってしまったのだ。

それもこれも何かの機縁だと前向きに考えることにし、まあとにかく私がいま大切にしている場と空間を見てもらいたく、即興的にご案内したわけだ。

とても喜んでくださったので、私はこの方と何らかの形で面白いことができるのではないかという可能性を今感じつつブログを書いている。

舞踏の歴史はまだ半世紀くらいだと思うが、地方ではなかなか見るチャンスが限られている。私自身も3回くらいしか見ていない。若き日びっくりした記憶がある。美醜とは何か。

踊りの概念を覆す動きの舞踏は私にとっては未知の世界、竹韻庵もそうだがお声がかかるということを私は前向きにただただとらえたいのである。

声を出すこともそうだが、喜びや感動は いい意味でのある種の苦痛を伴うものではないかという認識が私にはある。
昨年ドレスデンの旅で見つけた巨大カタツムリ

この齢になり、舞踏家と出合えるのも何かのめぐりあわせ。この方を中心にしていろんな人とまた出会えるのは生きているからこそである。いま感じ取れる日々の世界こそがすべてである。

舞踏家は己の身体をとして人間の根源のふちに降りてゆく。はなはだの勇気の持ち主でないとかなわぬ行為である。

ともあれ、人は巡り合い分かれ、別れ巡り合う。上がらない足を引きずりながら、よたよたとではあれ、何かの導きのままに流れるように流れてゆこうという五十鈴川である。

またもや話は変わるが、昨日夕方娘を岡山の歯医者に連れて行った帰り、娘が竹韻庵を見たいというので、再び竹韻庵を案内した。

親子で落ち葉のじゅうたんの山里を 二人でしばし散策。娘がいいところだといってくれ、畑もよく作ったね、といってくれたので単細胞の私は、若い時のようには上がらぬ足を、今しばらくはゆっくりと動かしたいとの思いを念じた。齢は無関係、要は情熱の発露のみにすがるだけである。

誰かが見て感じてくれる人がいれば、私は情熱の発露が保てる今を生きている。なにやら最近あちらこちらが痛い、昨日は過労だろうか終日歯がうずいた。当たり前だ63年かん使ってきたのだから。

だがこれまでとはあきらかに異なる自分があらわれてきたようにも思えるのでそういう自分を生きてゆくしかない。

(ちょっとしばらくの間

2015-12-01

とりとめなき師走初日の真夜中ブログ。

真夜中です。朝というにはまだ早い。目が覚めたので胡乱な状態でつづりたい私です。とにかく静かです。

大都会の喧騒の中にわずか4日間とはいえ、いたせいでしょうか。西大寺の夜の静けさがことのほかしみてきます。

齢を重ねるにつけ、静けき時間をことのほか好むようになってきました。それと共に若き日から芸術や文化に触れることで何とか精神のバランスを保つような、ある意味では騒がしい世界に、すがるような自分がいたのですが、(触れるのをやめるという意味ではなく)そういうことをことさらに追いかけなくても、ずいぶん精神の安定がたもてるようになってきました。

ピーターブルックのお芝居の印象は、とても短い文章では書き記せませんが、齢90歳の老演出家の人間界への絶望の中からの希望への見果てぬ賛歌を、(なにもない舞台、布と棒と4人の俳優と、パーカッション二スト土取利行氏)深く感じました。4人の登場人物が最後そろって太鼓のリズムに耳を静かに傾けるエンディングが強く印象に残りました。

余分なものが何もない舞台は、あらためていろんなことを想像させ、東京までわざわざ観に出かけてよかったと思いました。一方ブルック演出の舞台ももうこれで見納めになるかもしれない、との思いも抱きました。

なかなかうまく言えないのですが、いい意味で芸術や文化的なイベントや、作品や企画などをことさらに追いかけなくても、そろそろいろんなことがリセットではなく、リスタートする年齢に自分が来ているということを今回の帰省の旅と、上京旅で感じ始めています。
昨年の結婚式の後の新しい家族とドレスデンのエルベ川下り

それはあらためてかけがえのない家族を基本にした日常生活を礎にしたライフスタイルを、フィクションではなく 、普段の暮らしの中に見つけてゆきたいというささやかな思いです。

話を変えますが、水木しげるさんがお亡くなりになりました。先日は原節子さんが、加藤治子さんが、加藤武さんが、(書き出したらきりがない)少年時代、青年時代少なからぬ影響を受けた方々が、次々とお亡くなりになります。

さみしくは感じます。だけれどもやがては誰にでも訪れる死をいかように受け入れてゆくのか、千差万別でよいと私は考えています。みなさんやり遂げた人生だったと思います。

生きているからこそ出会えた、家族とも、姉や兄とも、友人ともやがてはお別れがやってきます。来なかったら大変です。新しい生命たちの時代、初老の私はいかに生きるのか。

現時点で、浅薄な私の思うことを書くことは控えます。ところで、昨日私の下の娘が、親知らず歯を抜いたのですが 母が非常に心配しました。美しい心配です。

母は下の娘をまるで自分の子供のように溺愛しています。それは父親である私よりも深い愛であると時に感じ入ります。娘にもその愛が伝わっているように感じます。

上の娘が結婚し怜君という息子ができる。愛は樹が育つようにしか成長しないのだと思い知ります。東京旅で、息子の怜君と娘がご馳走してくれました。

18歳から世の中に出て夢のように幸せでした。それはどんな芸術や文化に触れても味わえない 、いまこの年齢だからこそ味わえた感情でした。

今日から師走です。早い時の流れ、まさに歳月人を待たず、五十鈴川だよりを読んでくださる方良き師走をお過ごしください。

2015-11-30

いろんな方と再会でき、心に残る上京旅となりました。

4日間充実した東京旅を終え昨夜帰ってきました。まだ身体は幾分旅の余韻が残っています。が頭の中を切り替えて西大寺日々の暮らしに向かう今朝の朝ブログです。
昨年のドレスデンでのわが家族です

さて東京では、26日ブルックの演劇に触れたり、18歳から3年間通った小さな演劇教習所で同期で先日亡くなったM氏のお宅に43年ぶりに伺い線香を手向けたり、先輩でありいまは文学座で活躍しているT氏と数十年ぶりにお会いし、文学座の養成所の近くの四谷でお酒をごちそうになりました。

27日は結婚する前の一時期、アルバイトをしていた築地を親友のK氏と訪ね お世話になったお店に挨拶(築地は来年移転する)、その後岩波ホールでピロスマニのフィルムを見て(1969年の作、よかった)古書店巡り、最後K氏に三田でご馳走になりました。

28日は、新宿の平和記念資料館を訪ね引揚者展にゆき、2本のDVDを見て3時間近く過ごし(私の両親は北朝鮮からの引揚者なので)夕方5時半娘と怜君と落合、渋谷でゆっくりと夕食を共にしました。

そして昨日は、K氏の家神奈川県の三崎口に在る家に招かれ、久しぶりに奥様のおいしい料理数々に舌鼓を打ち、暖かい気持ちで充実した旅を終えることができました。

年齢的に、もうこういう一期一会的な時間がとても大切であるということを、帰省の旅と今回の上京旅で思い知りました。

また、ゆっくり書くこともあるかと思いますが、私にとっての大切な方とは、逢える時にきちんとあっておいた方がいいということを再認識しました。

いわゆる流れで、小さな演劇養成所の先輩であるT氏と今回会えたことは感慨深かった。お互い年齢を重ね、いい感じで再会、若き日のあれやこれやを語り合いながらお酒を飲めるなんて夢のようでした。

一気に時間が戻るのですから、不思議でした 。そして最後の日、たまたまK氏の家族のお誕生会に飛び込み参加。K氏は3人の成長したお嬢さんと奥様に囲まれて、満面の笑みで幸せを絵に描いたようでした。

朝10時三浦の駅に着き、二人で富士山を眺めながら一時間以上散歩海からの富士山の眺めは格別でした 。

26歳の時出会って以来、K氏とは不思議な機縁で結ばれています。今回の旅で最後に彼の家族と共にした時間は、私に今後の人生時間の行く末の大事を暗示しているかのようにさえ感じています。

今回の上京でもいろいろとお世話いただいたK氏にこの場を借りて深く感謝します。今朝はこれくらいで。


2015-11-26

上京前のあわただしき朝ブログ。

塗った部分がお判りでしょうか
今日はこれから久しぶりに東京にゆきます。一番の目的はピーターブルックの演劇を観に行くことです。(他にもいろいろと用事が)

というわけで前回に続いてあわただしき朝ブログですが、無事に五十鈴川だよりは五十鈴川から帰ってきておりますので。

さて、日曜日最終電車で帰ってきて、翌朝起きてすぐ竹韻庵に玉ねぎを植え、その日は午後長年パリで舞踏をやられておられたかたが、着岡山し、その方と3時間近くお話をしました。

火曜日は、近所の農家の方から手に入れたもみ殻を竹韻庵に運び植えた玉ねぎほかの野菜の根元に撒きまして、戻ってから早めに昼食。

其の後暗くなるまで家の北面のペンキを暗くなるまで塗りました。昨日は引き続き雨が降る前までの午前中引き続きペンキを塗りほぼ手の届く範囲の一階部分を塗り終えることができました(ほっとしています、安心して上京できます)

午後は遊声塾のレッスンの予習とたまった新聞を通読、5時半には家を出てレッスンを済ませて戻ってきたのが10時過ぎ。

そしていま、ブログを書いている次第。そう、私はとても元気だというただそれだけの朝ブログなのです。

五十鈴川参りにゆくと、にわかにやはりいろんな意味で心身がリフレッシュされるのが不思議です。また今回も帰って本当に良かったと思っております。

もうあと何回帰れるかはわかりません、姉や兄たちとももうあと何回元気に食事をしたりできるかと考えると、齢を重ねるとますます貴重な一期一会の帰京旅になるのだということを、あらためてしみじみ感じ入った旅となりました。

でも今はまだみんな元気で今回も兄に珍しいところに連れて行ってもらい楽しい旅でした。一番苦しい経済状況を共に幼いころ過ごした仲なので、けんかもたくさんしましたが、いざとなると仲良くまとまるのが不思議です。

五十鈴川参りは、時折立ち止まって物事を冷静に考える場所として、私のような粗忽物には安全安心安上り、故郷の山に向かいていうことなしなのです。

ということで行ってきます。戻りは日曜日夜です。娘のところにも一泊はお世話になる予定です。東京は第二の故郷です。漸く冬らしくなってきました。

2015-11-20

帰省前のちょっとあわただしき朝ブログ。

日の出が遅いこの季節、まだ暗き早朝である。五十鈴川だよりを書いている私は、年に最低2回は故郷の五十鈴川のほとりに立たないと精神のバランスが悪くなる。

両親のお墓のある場所から五十鈴川まで一キロくらいなので、私の中では五十鈴川参りなのである。この年齢になってもというか、齢を重ねるにしたがって故郷の匂いはますます私に足を向けさせる。

報道は先進国のテロに関する ニュースであふれている。アナログ初老男の私は、かまびすしいメディアの洪水には一歩距離をおいているが、こうも テロが頻発すると一方的な強者の側からの報道には冷静であらねばとの思いにかられる。

かられたところで、致し方ないとの思いも同時に起こるのだが、何気ない日常の暮らしの中にも、とんでもないことが起こりかねないとでもいったような空気感が、にわかに湧き上がってきたかのような不気味さを感じる。

毎回同じようなことしか書けない五十鈴川だが、話を変える。昨日夕方かなり冷える中、洗濯物を干す東面の壁を2時間ほど白い塗料をわが人生で初めて塗った。

内側で見えないのだが一番カビがひどいところ。どのような具合になるのか、とにかく色味もかねてほんの少しでも帰省前に塗ってみたかったのである。

何せ初めて塗るので緊張したのだが何とか塗れた、やればできるのだ。北面は足場を組んでもらい時間を見つけてコツコツと塗ってゆくつもりだ。何とか年内には塗り終えたいと思う。

ところで昨日、竹韻庵に記念樹の西条柿を植えた。暗いニュースにはますますもって事欠かない時代のすう勢だが、五十鈴川はノー天気に気ままに自分の中に、ささやかな希望を見つけるべく今しばらくは流れてゆきたい。
竹韻庵は落ち葉の季節

幸い双方の両親が、かく生きるべくお手本を示してくれたので(母は今も元気に私にいろんなことを教えてくれる)いまはただ安心してそちら側の方に流れてゆきたいと私は思っている。

昨日はまた、思いもかけない方から素敵な人を紹介してくださるお手紙をいただいたりして、その件も落ち着いて書きたいのだがそろそろ出発の時間。

それは戻ってきてから書くことにします。では行ってきます。

 

2015-11-18

おいゆく中で、お金を生かしての生活を心かけながら考える。

今年は戦後70年ということで、M新聞も【千の証言】という特集を組み、定期的に掲載している。それ以外にも、【平和を訪ねて】とか、【被爆者の証言】とかを掲載しているので、時間に余裕ができた今の暮らしの中で、努めてきちんと読むように心かけている。
ときおり切り抜いてじっくりと読む

特に高齢の80歳以上の方々の証言や、死を前にしてどうしても語っておきたいご自身の体験などを読むと、齢63歳にして、私は戦場におもむいた悲惨というしかない出来事の重さに言葉を失う。

戦後生まれの私は、戦前時代を生き延びた人々のあまりのそれぞれの人生の過酷さに 、首を垂れる。

あらためて注意深く、多様な記事を読んで受け止めるべき感覚をなくしてはならないと、私は個人的に思う。

わたくしごときでも書いていて思うことだが、きわめて個人的なつらい体験などは、かくも書きづらく、語りづらいものである。(人間存在の闇の部分)

今もテロを含め戦場の火はやまず、ある意味でこれまでの歴史では経験したことのない、不健康極まる武器による相手の姿の見えない戦争時代が来ている不気味さ。(その武器使用による人体汚染、環境破壊資本主義の行く末、人体の健康な感覚が破壊される恐怖)

安全保障法案の行く末次第では、再び我が国民も戦場にかり出される可能性が出てきてしまいそうな時代の趨勢の中、18歳以上の選挙権を持つ国民は、この国の目指すべき在り方を、各々がきちんと普段から考える力を養わないと危ない。

愛国心、国を守る、お国のためとは果たしてどのような感覚なのであろうか、と、ぼんくらなりに五十鈴川は考える。大義とは何か。

いろいろ足りない頭で考えた末、現在私が心かけていることは、できるだけお金に振り回されない足りる暮らしを心かけること、画面からの人間界からの情報ではなく地面からの、自然からの情報に耳を澄ますこと。なによりも有難いことは我が国土は作物が育つ。

7年以上ブログを書き続けてきてもうほとんど書き尽くした感が時折私を襲うのだが、 まずは自分の日々の自分を検証するためにも今しばらくは書き続けたいと思う。

でないと、自分自身も大きな時代の渦の中に巻き込まれてしまうのではないかという危うさが私にはあるからである。

明後日から3日ほどお墓参りに帰省する。今は亡き両親に手を合わせないと どうも落ち着かないのだ。時代はいよいよもってカオス化しつつある。煽り立てるあらゆる刺激情報には、絶えず五十鈴川は、一歩距離をおきたい。

話は忽然と変わる。アメリカでプラスティックの砕かれた微粒子の海洋汚染の、深刻さのリポートを先日ラジオで聞いた。生態系に与える影響の深刻さは、温暖化も含めひたひたと我々の暮らしに及びつつある気がしてならない。あらためて、感動のない、金が万能化した資本主義の行く末を想像する。

あらゆるパッケージスーパー食品がゴミ化する。TPPとか避けられないグローバル化の波の中で、果たして私のような中高年はどのような生き方を心かければいいのかを、書ける間は老いを受け入れながら五十鈴川だよりは考えたい。






2015-11-15

パリで起きた報復のテロのあまりの不気味さに慄然とする。

穏やかな日常生活をこよなく愛し、雨音を聴きながら植えた作物の生育具合におもいを馳せられるる、今の暮らしに飛び込んでくる、いきなりのパリの同時多発テロのニュース。

真実がかくも情報操作されやすい時代においては、五十鈴川だよりごときは、軽々には何も書きたくはない。

ただ単に思うことは、世界は豊かに暮らせる人たちと、かくも貧しい人たちの暮らしににかくも分断されているといった 、まごうことなき私が感じる世界の真実である。
根付くチシャトウ、命の野菜

それは遠い世界のことではなく、このバブル以後の日本でもにわかに起こっていること。

というのが今現在を生きていて思うことである。

非正規社員が4割近くもいるこの国、シングルマザーや、マタハラや、いじめ問題がやまないこの国、

介護での陰惨なニュースがやまない国、偽装問題がやまない国、経済大国でありながら子供の貧困率がかくも高いこの国、あれやこれや書き出したら暗澹たる思いにかられる。

この年でさえも、世界のあまりの不条理には時折怒りの感情が湧いてくるのに、世界の過酷な現実を生きている多くの国の鋭敏な若者たちが、なにがしかの反応をするのは自然ではないかと、五十鈴川は感じる。

だが、断固として卑劣な無辜の民を巻き込む爆撃や、報復のテロは、どのような大義があっても許されることではないと思う。絶対矛盾。

今のところ安全なところから、対岸の火事のように無責任に一庶民として思うことは、世界は今や完全なグローバル化とバーチャル化された世界を冷静に生きてゆかざるを得ないという、かくも厳しい現実である。

それはとくに、これから家庭を持ち未来を生きてゆく若い世代のみならず、年齢に関係なく生存感覚を研ぎ澄まして、不正や不条理に対して一人の人間として目をそらしてはならないと思う。

暴力の復讐の連鎖を断ち切るためにはどうしたらいいのか、臭いものには蓋、長いものには巻かれろもまた、弱い人間の一面の真理ではあるかのしれないが、ほかに方法がなければ救いがない。

五十鈴川は日々流れながら、個人として、野菜を育てながら、安全や家族の平和について、ささやかに極端に走らない方法を思考停止にならないように、お気軽であれ我が身のこととして考える。

人間の存在や、命がかくも軽々に爆弾や銃で亡くなる事件や戦争が、日常的にバーチャルに画面を通じて垂れ流されると、身体感覚がかくも麻痺するという恐ろしさ、慣れることの不気味さ。

血が流れる、痛いという身体感覚的な想像力、他人(他国の他者の人間の叫び)の痛みへの欠如が失われゆくことの恐ろしさ、平和時間が続く中で、感性のアンテナがさびないようにするには果たしてどう生きればいいのか、考える。

2015-11-13

土取利行さんからピーターブルックの最新作【バトルフィールド】のチラシが送られてきました。

お墓参りに帰ろうと思い、チケットを予約したのだが、土取さんからピーターブルックの最新作【バトルフィールド】の東京公演のチラシが送られてきた。
写真が横になっていてすみません

ピーターブルックは、私がかってに影響を受けた、尊敬するというか、畏敬する演出家である。

二十歳の時、ブルックの演出作品【夏の夜の夢】を見た時の衝撃は私の芝居に対する見方(生き方も)を変えた。

いま振り返ると、私の生き方に大きな影響をあたえたのだということがわかる。

ブルックの舞台に出会わなかったら、おそらく無知蒙昧なる単なる田舎者が、英国に自費留学をするという、私にとっての夢のような想いは湧いてこなかっただろう。

純粋な若い時にしか反応しない感性のばねのようなもの、タイミングがあり、ブルックの奇蹟の舞台で、私は遥かなる見果てぬ世界に連れてゆかれたのである。

狭い島国のこんなところでくすぶっていてはいけない、今この時期を逃したらきっとのちに後悔すると、若い私はおもったのだ。

大いなる不安を抱えながらも、とにもかくにも広い日本以外の世界を、若いうちに体感したかったのである。絶対矛盾を抱えながらの青春時代。

父は繰り返し言っていた、若いうちの苦労は買ってでもしろ。この言葉はとくに若い時に私の頭の中で何度も響いた。何度も挫折したのだが、何とか生き延びている。

振り返ると綱渡りのように、時代も運も味方してくれたのだということを、いましみじみ感じいる。

高齢にもかかわらず、今も現役でみずみずしい舞台を創造し続けるピーターブルックには、驚嘆する。あれから40数年の歳月が流れたが、新作をなんとか観にゆこうと思っている。

この舞台の音楽監督であり、演奏者である土取利行さんにもブルックの舞台作品を通じてであった。この方からも私は多大な影響を受けた。そしてそれは今も続いている。

本質的な人間存在の真の意味を問い続ける、ピーターブルックの劇的想像力の舞台世界を、観ておかねば、きっと悔いが残る。

2015-11-12

遊声塾、昨夜は7名の塾生が参加、熱いレッスンが出来ました。

昨夜遊声塾から帰って、床に就いたのが12時近く、週に一回は寝るのが遅くなる。がおきるのはほとんど変わらない。

もう少し休もうかと思ったが、朝のひと時をことのほか 大切にしている私は起きてしまう。今日は午後も珍しく用事があってお昼寝もできそうにない。

でも疲れてはいるものの、身体の意識はは何やらさわやかな 感覚につつまれている。というのは昨夜の、遊声塾のレッスンがことのほか充実していたせいだろうと思う。

おくれてやってきた人も含め、昨夜は7名の塾生が参加、皆空恐ろしいほどの現代生活を抱えながらも、私の塾に参加しているので、なかなか全員がそろうのは珍しいのである。

だが、やはりこれくらいの参加人数だと、俄然レッスンに活気がみなぎってくる。無意識にも私の方も塾生の真剣さが伝わってきて、身体が熱を帯びることになる。

朝であるのに、いまだにレッスンの余韻が残っている。晩年ライフ全身で打ち込める時間が持てるとは、よもや思いもしなかった。このような無謀ともいえる塾に参加してくださる方々の存在は私を俄然元気にするのである。ただただうれしい。

だから私は万全の体調でレッスンに臨むように心かけている。塾を始めて以前よりはるかに体の手入れをするようになってきた。

それは食も含めて、身体のコンディショニングに留意するようになってきたのである。今日はこれから竹韻庵にゆかねばならないので、いささか余裕なき朝ブログではあるのだが書かずにはいられないのである。

家族以外に、私にとって塾生はかけがえのない存在である。責任を持ってきちんと関係性を育ててゆきたいと私は思っている。

たまたま出会った、世代の異なる男女の声がレッスンの場に相響き合い、日本語によるシェイクスピアの群読がおこなわれることの、妙味楽しさはを、3年目の半ばにしてようやく実現している。

やはり、石の上にも三年というのは、限りなく真実に近いというしかない。ともあれ今年も残すところが少なくなってきたが、遊声塾を通じて出会えた方々と、情熱の火花を共有する無心の声出し時間を大切にしたい。

2015-11-10

遊声塾塾生と全身で声を出し今を生きる。

11月に入って時間に余裕ができたせいでもないのだが、ずいぶんとブログを書いている。ときに呆れながらも、書き続けることは私にとっては生活の中の一部となりつつある。

無理してでも書きたいときは書き、書きたいことがあっても余裕なき時には書かないというのが、このところの五十鈴川だよりである。

最近、遊声塾のことをほとんど書いていないが、月に一度しか参加できない人、月に2日しか参加できない人も含めると、現在塾生は8名ほどいる。

正直、塾を始めるときに、これほど人が私の塾に参加してくれる人がいるとは思いもしなかった。とにかくまずやろうと 、ひとりでも参加してくれる人がいたら、続けようというくらいで始めた。

まずは、自分自身が声を出すことの中から、ようやく手にしたセカンドライフ、限りなき自由時間を、経済観念に侵されることのない無心状態に解き放ちたいと思ったのである。

あれから二年半が過ぎて、最近塾がにわかに活気づいてきた。適度な人数による充実したレッスンがようやくにして可能になってきたように思える。

何より私自身が、始めたころよりも声を出すのが愉しくなってきたのである。
翻訳者の素晴らしい日本語に打たれる

始めた当初は何しろ30数年シェイクスピア作品を声に出して読んでいなかったので、身体がずいぶんさび付いていて、

勘がなかなかも戻らなかったのだが、若いころのようなわけにはゆかない面ももちろんあるが、若いころにはできなかった表現が歳を重ねたことで可能になった面もあり、つまり愉しいのだ。

これは私が独自に始めた方法なのだが、

輪読といってどんな登場人物も年齢、男女の区別なく 読んでゆくスタイルを塾生と共に、時に私も参加して実践している。

一人で声を出し続けて読むのはなかなかに大変だが、4~5人で読むと実に面白いのである。

Y氏が女性のセリフを読んだりすると、にわかには信じられないような表現がおきたりして、まさに意外性の嘘の極致というしかなく、 面白いのだ。

10月末、Y氏の中学生のときの同級生(同じクラスにはなったことはなくが同窓会で再会されたとのと、50数年ぶり?)の女性がレッスンを見学に来られた。

たまたまその日は参加者が少なかったので、私も含め3人で間違いの喜劇を読んだのだが、ずっと3人が読むのを聞いていた女性が、我々が読み終えると拍手してくださり、自分もこの塾に参加したいといってくださったのである。うれしかった。

先日、この方も初めて輪読に参加したのだが、おそらく清水の舞台から飛び降りるような気持ちで参加されたのではないかと推測する。案ずるよりもである。

とまれ、いったいいつまで続けられるかは塾長である私も皆目わからないが、愉しくレッスンができる仲間に今のところ囲まれている私は果報者である。私は愉しく笑える塾を目指す。

そのようなわけで、遊声塾 の参加者が急に増え、私としては望外のこころもちの日々を毎週二回過ごしているのである。現在、間違いの喜劇と夏の夜の夢、カルチャーでは、お気に召すまま、を読んでいる。

奇想天外の、まさに途方もない言葉の洪水は、息の浅くなった現代人の初老の私の肉体には 、手ごわいなんてものではなく、時に遭難しそうになるが、かろうじて声が出せる間は、塾生共々、そびえ立つシェイクスピア作品群に挑戦し続けたいものだ。



2015-11-08

ペンキ塗りしながらら、母の育てた野菜を食べながら、いかに生きるか考える。

昨日は、午前中車庫の上の二階の屋根に上り、つまり瓦を踏みながら、万一のために腰にロープを巻き、そのロープの先は部屋の柱に巻きつけて二階部分の外壁の縦柱や横柱ほか、木部のペンキ塗りをした。

よもやまさか、ここまで自力では無理だろうと思っていた部分まで塗ることができて、私はいたく満足した。妻がお休みだったので、あれやこれや協力作業ができて、また一つ思い出ができた。

外壁の柱部分はほぼ9割近く塗ることができた。やればできる、為さねばならぬ何事もだ。外壁塗装も勉強しながら、 手の届く範囲は自力で塗り、手の届かないところは二段梯子を借りて一度やってみて、無理なら業者に足場だけ組んでもらい、あくまで自力で、と考えている。

液が垂れたりして、ああ、とは思うが、刷毛の使い方もかなり慣れてきた。痛い思いの中から、失敗しながら何事も学ぶ、それが一番確実だし、やり遂げると自信がつく。

自分に自信がつくということが、一番肝要なことだ。生きてゆくことにまったく自信がなく18歳からスタートした私だが、あらゆるお恥ずかしき失敗、自己嫌悪の果てに、漸くにして人並み程度の大人になるのに、大いなる時間を 費やしたという思いに至る。

ブログでは、まだ気恥ずかしくて書けないが、きっとこれからはささやかな自信に支えられ、愉快な日々が、世の中が平和であれば続けられそうな予感がしている。絶望から希望へ。

それには、健康に体が動く日々を今しばらく持続するために、食と命の循環には鋭敏でありたいと私は考える。

一ページ一ページが沁みる
今だからこそやれること、起きてから陽が沈むまでの時間を、まず第一義に、

わずかな夜時間は、明日への英気を養えることに重きを置いた時間の過ごし方を心かけたく思う。

母がお昼を共にするために野菜を抱えてやってきて、3人で昼食。

小松菜の間引いたサラダ、ほうれん草のお浸し、いずれも母の畑で育てた野菜。このようなベイビー野菜はスーパーにはない。

成長しきった野菜ばかりである。

実はベイビー野菜の栄養価は格段に高いらしい。やわらかくていくらでも食べられる。自分で育てた野菜を自分で調理し食べる。こんな贅沢ほかにない。

高価なレストランにはゆけずとも、安価で豊かな食はやりよう次第でいくらでも可能なのだ 。動ける身体と数人の中高年の愉しい妻も含めた仲間があればいいのだから。

今年は久方ぶりに、遊声塾の忘年会を我が家でやることにした。娘たちも巣立ち(下の娘も就職が決まった)あらゆる意味での感謝をこめ、これまでとは異なる新しい再出発を寿ぎたい心境なのだ。

話は変わる。実は、18歳から20歳まで私は小さな演劇学校に通っていたのだが、その間、同じ年齢でともに学んだT氏が(その後は音信が途絶えていた)風の便りで亡くなったという連絡が、先日夜突然はいった。

私と同じ年、あまりに早い。私は多様な思いにとらわれる。命の有限性とあまりのはかなさ。私の脳裏には、青春時代の彼の記憶しかない。

いかにして死を迎えるか、そのためにはいかに生きるのか、哲学的な命題は永遠だが、私なりの人生のもの語りを、紡いでゆくことの中にしかない、との思いにかられる。

2015-11-07

S氏からコメントをいただきました、感謝。

竹韻庵のオーナーであるS氏から昨日のブログに対してコメントが寄せられている。

私は可能な範囲で、日々揺れ動く己の動的平衡感覚を(かなり自己愛的に)確認するために、五十鈴川だよりを書いている。(自分で自分を奮い立たせるかのような面持ちで)

五十鈴川だよりは、夢が原退職後から書き始めた。コメントの少なさ 、開いてブログを読んでくださっている方はいるものの、その顔が見えないことに関して時折ある種の虚しさを覚えないでもなかった。

が、たった一人であれきちんと読んでくださり、接点のあるかのような部分だけでも、なにがしかの反応があると、(以前も書いたが)うれしいものである。

どんなに蟄居しているかのような暮らしではあれ、人は人あればこそ世界とつながって存在している。そのことに関する気づきと感謝は年々私の場合深まっている。

私の下の娘が、お父さんは夢が原を やめて変わったよね、との直接コメントを誕生日に文字でもらった。(大切に書評ノートに張り付けた)そのことが私には最近の暮らしの中では、特筆に値するくらいうれしかった。

話はあれこれするが、遊声塾を立ち上げたのも、きっとこれまでの岡山にやってきて身についた、勤続疲労のようなものを洗い落としたいという 衝動に駆られたからに他ならない。

畑だってそうである。土に触るリアルな手ごたえは、バーチャルリアリティーではなく、リアル感覚そのものである。あらゆる微生物と共に土は生きている、その生命力が野菜に変身する。万物流転。

声もただ出すのではなく、相手の体に触れるかのように出す。口で言うのはたやすいのだが、全身で土を耕すかのように、身体の意識を研ぎ澄まし、今を生きている声を、シェイクスピアの翻訳日本語に吹き込むのである。
作業靴を洗って干す


そのような私塾に参加して継続するのは、バーチャルな暮らしが当たり前になってきた都市型ライフ住民にははなはだ難しいだろうと、私も思う。

だが私は自分の中に希望というか、可能性がある間、動けて声が出る間は塾を続け、土を耕すことと並行して声を出し続けるだろうと、今は考えている。

老いは気づきの加速度を増すように思う。若い時には全然気づかないからこそまたそれはそれで素晴らしい。

若い時には若い時にやれることに全力でいそしみ 、歳を重ねたらまたそれなりの気づきの楽しみを、神様は用意してくださっていると、私は感じる。

きちんと勇気をもってぶつからないと与えてはくださらないのだと思い知る。喜びは腰の痛さと表裏である。





2015-11-06

燃える秋をささやかに生きる、今。

10月は本当によく働いたという気が個人的にしている。それはこの年齢ではよく動けたという意味で。

だからあっという間に過ぎたので、11月はできるだけ家で静かに暮らしたいと考えている。とはいうものの、手の届く範囲の外壁の柱はほとんど塗ったので、手の届かない二階の部分の柱と、北側の壁を塗るという、我が家にとっての主としての、大きな仕事がある。

業者に頼めば、私の現在の年収くらいは飛んでしまうので、これまで歩んできた中で身につけた、自分の現在の体の動きで、やれるところまで挑戦するという山登りのような楽しみが。

だからといって焦っているわけではない。来年の梅雨が来る前までにやれればそれでいいのだから、参謀の妻と共にあれやこれや、自身を活性化するためにも楽しみたいのである。

素人がわずか10日、柱や車庫玄関ほかを塗っただけで、かなりいい感じになったのが見た目ではっきりとわかるので、単純にうれしいのである。
昨日撮った竹韻庵のハゼの樹の紅葉

野菜を育てるのもそうであるが、何事も自分でやれる範囲からスタートするしかないし、なにより一番肝心なことは、思いついたら実践するということしか、私には方法がない。

若いころからさんざん失敗(果たして成功とは何か)してきたからこそ、もっと言うなら失敗の中からかろうじて何かを掴み取ってきたからこそ、多分現在も生き延びていられるのだと私は考えている。

そういう意味では、人間はつくづく自分に正直に謙虚であらねばならないと思う。

娘の通っている大学の渡辺和子先生の言葉ではないが、おかれたところの今を、いかに生きるかにしか、私にとっての世界、人生はないのである。
3号地の畑に柵をS氏と作る

人と比較するなんてまったくもって意味をなさない。自分を楽しむしか私にはほかに方法がない。人は生涯自分と付き合ってゆくしかない、揺れる存在なのだから。

話を戻す。いよいよもってこれから歳を重ねるににつれ家で過ごす時間は増えてゆくに違いない。だからこれから先、まずは家を居心地よくしたいのである。(そこに人を招きたいのだ)

何度も書いているように、やがてはできなくなるのなら、今できるときに悔いなくやっておきたいという、ただ単純な思いなのである。

あれこれ迷うとき、これまで私は困難な道を選んできた。あえて楽な方は選ばなかったということが今となってはよかったのだ、と痛切に感じている。

重い荷物を背負い大変な思いもするのだが、やり遂げた時のささやかな喜びこそが宝である。やがてはゆっくりと下るためにも、今しばらくはささやかであれ荷物が背負える間は、私の場合はそれを背負える日々を、生活全般の中で見つけてゆきたいと思うのである。

私が尊敬し敬愛する 方々は、全員やっておられることは別にせよ、恬淡と生を生きておられる。勇気をもって生きておられる。

2015-11-03

Y氏のおかげで、今年も干し柿をつるすことができました

昨日カルチャーでのレッスンを終え、家に戻って昼食を済ませたのち日暮れまでかかって、平均15個くらいの干し柿を何とか6列吊るすことができた。

干し柿を食べることも、もちろん大好きではあるのだが、吊るしたばかりの柿が、陽光に映える様はなんとも言えない、いわば日本の秋の一つの風物詩である。
そろそろ今朝の朝陽が当たる前

私が干し柿作りが好きになったのは、やはり夢が原で秋になると柿をつるしたからである。

ほかにも薪割とか、畑仕事とか、いわゆる退職後始めたことのことごとくは、夢が原で学んだことがかくも大きいことを知らされる。

日本人が日本列島の気候風土の中で育んできた伝統的なあれやこれやを、ほんのわずかでもわが娘たちには伝えてゆきたいと、思わずにはいられない初老の私である。

たまたま柿をむき始めた時間に、辰巳よし子先生のドキュメンタリー映画・天のしずく・が放映されていたので、それを眺めながらひたすら柿をむいた。

先日の、柳田邦夫先生のお話といい、辰巳よし子先生の穏やかな日本語は私の中に、子守唄のようにしみいった。

ああ、こういった営々と名もなき庶民が紡いできた伝統的な、日本の自然に寄り添うような生き方を、今後、私もわずかでも学びながら続けたいと思う。

夢が原退職後、間もなく3年の月日が瞬く間に過ぎようとしているが、この3年の時間は新しいことを次々に始めたので、本当に充実した時間が流れているという気がしている。退職してよかった。何事も手放さないと、新しい自分には出会えない。

経済的なことはともかく、声を出すことにしろ、畑仕事をするにせよ、それなりのリスクを覚悟しながらの晩年ライフは、覚悟といささかの勇気をともなうのである。

家族の理解あればこそだが、その点私は実に恵まれている。だからこそ踏ん張れるのだと思う。母や妻が土に触れることが大好きであるし、イベントを企画するリスクとは比べようもない低リスクである。

しかも喜びは、大地から直に私の体に伝わる。辰巳先生もおっしゃっていたが、土に触れるとは、直に宇宙に触れること、宇宙を手でわしづかみにすることだと。

土・水・光なくば、私自身は存在しないのである。日々命の元である、生命力あふるる野菜を可能な範囲で自分で育てることができるなんて、幸福以外の何物でもない。それを身近な方たちとシェアしたい。

それで生かされながら、一年でも声を出し続けられたら、それこそ、私が現在望むものである。つつましくもおいしくいただけ、声を出せる精神と体を日々過ごせたら、あとは感謝し寝る。シンプル、単純。

いまだ、生きているが故の悲しみもときおり丸ごと受け入れながら、下り坂を夫婦共々歩む、いまである。

2015-11-02

晩秋の一日、遊声塾のY氏の実家で、終日を過ごす。

起きたら雨で、晴耕雨読今日は家の中でのんびりと過ごせそうなので何やらちょっとうれしい。

昨日は遊声塾のY氏の高梁の実家である、築100年以上は建つであろう旧家にお邪魔して干し柿用の西条柿をたくさん収穫、いただいてきた。

朝一番、竹韻庵で50本マッハという種類の玉ねぎとブロッコリーを植え一仕事して、8時半に竹韻庵を出発、Y氏の家には9時半に着いた。

Y氏の家に行くのは3度目、初めて一人で家までたどり着くことができた。予定より早く着いたのが氏はいつも通りの泰然自若で温かく迎えてくださった。

メイン道路から急に細くなった山道をわずかに入っただけなのだが、そこは森閑とした山の中の斜面に、3段の石を築きご先祖が開いて作った見事な家が目に入る。

其の3段の傾斜地には、Y氏が退職後家の管理をしながら丹精している10数種類の秋冬野菜が見事に整然と植えられている。

縁側の庭先には松やモミジやナンテンや、ほかの広葉樹、家の裏や家と同じ面積地には、ゆずや柿が、かなりの敷地にバランスよく植えられていて、一言見事に手入れされている。

氏が子供のころから、このような柿の木の 曲がり具合だったという甘い小さな実をつける柿の木は、今年も鈴なりに実をつけていた。

着いてすぐその柿の実を、皮ごとかじって食べたのだが、ちぎってすぐ口に入れるとやはり子供時代にいざなわれる。こんな味の柿は売っていない。均一化されていない味。

今やY氏は単に塾生ではなく、ひとりの先輩の友人として大切な人になってしまった。久しぶりに訪ねたので、まずゆっくりと庭や畑地を眺めてから、氏と二人で西条柿を収穫した。

氏がハサミで高いところの柿を枝ごと切り落とし、私が下で拾って剪定しかごに入れた。熟柿も入れて120個くらい収穫した。

中高年二人の子供に還った柿の収穫はただ愉しかった。収穫作業が済み、いずれ竹韻庵でシイタケを育ててみたいと思っていると氏に話すと、ななんと氏は、敷地内のシイタケ用の樹木を伐りましょうというではないか。

氏はチェーンソー、二種類の鉈、ロープを用意、広い敷地の林の中に在るころ合いの樹にロープを巻き付け、倒す方向を定め、私はロープを引っ張る。
鈴なりの古い柿の木の残りはカラスが食べる

物の数分後、樹は目指す方向に見事に倒れた。あっという間に倒れた木から10数ほんの シイタケの原木が調達できた。

この原木を来年2月まで森の中に寝かせておいてから、シイタケの菌を打ち込むのだという。来年の2月がいまから楽しみになってきた。

そうこうするうちお昼タイムが近づき、氏が準備している間自然光の中で新聞を読んで待つ。

出来ましたーという氏の声。家の中に入ると暖かく、いい匂いが充満していて、私は言われるままにY氏が整えてくださったイノシシ鍋にかぶりついた。
実家の庭や畑の管理をするY氏の姿

一句【シシ鍋が・いにしみわたる友の味・去りゆく秋の・一期一会の】

氏の、みそ仕立てシシ鍋をいただくのは2回目、贅沢な昼食となり、肉、白菜、ネギ、ゴボウ、豆腐、糸こんにゃく、空腹には答えられない味が冷えた体に沁みいった。

いつもの倍くらいの量のごはんもいただいた。最後のクレソンのお漬物が絶品だった。

氏は準備、後片付けも含め実にまめに体が動く、そうでなければこれほどの広さの敷地の管理などできるわけがない。老いに向かってまさに自立している。こうでなくては。

久しぶり、満腹になるまで食べる。あっという間に睡魔がやってくる。氏は私を午睡の間に導く。約一時間熟睡する、午睡から覚めると午後の3時、音楽を聴きながらのコーヒータイムとしばしの雑談。

午後4時にもなると、氏の家の周りは晩秋の秋の夕暮れが都会より早くにやってくる。西条柿、甘い柿、2種類、初めて収穫した白菜までいただき、恐縮至極、 思わぬ愉快な一日を感謝した。

氏に見送られて旧家を後に、家路へのドライブ。帰宅したら妻が妻がたいそう悦び、すぐ柿をむいて口に入れた。


2015-11-01

昨日午後、娘の通う大学が主催する、柳田邦夫氏の講演会を聴きに行った。

ご本を以前から読んでいたので何としてもご本人の生の声を聴いておきたかったのである。

一言私は感銘を受けた。多くを語りたいのだが、朝一番ではその時間もないし、その必要もない気がする。

ただただ、こういう地味な人間の存在の奥深さ、深遠を、声を発するのがままならない側に置かれた 人たち(少数者)に替わって、媒介してくださる、感じ取れる作家のすごさを、声の中に私は感じ取った。

たたずまい、歩き方、声に、私は感銘を受けた。意味のある結婚記念日となった。これから私たちが晩年生活にいよいよ向かうにあたって、貴重な教えをいただいたようにさえ感じている。

ある種の苦しみの中からこそ、気づきや、他者への思いやりが生まれてくるといった、こころの闇の輝き。

昨日メモした、素晴らしき言葉の数々はきっとこれから私の生活の中で繰り返し反芻されるだろう。

講演の締めくくりの絵本の朗読は、柳田邦夫氏の静かな愛の思いの深さに、打たれた。声はその人の、これまでの全人生を映し出す。

本当に私にとっては素晴らしい講演会だった。妻も感動していた。帰り、久方ぶりに妻とお酒を飲み、外食をし、とっぷりと日の落ちた闇の中家路に着いた。

たまにだからこそ、こういう夫婦時間が必要だと私は思う。人生のパートナーとして、たまたま巡り合った妻の顔を久しぶりとくと眺めた。

帰って薪ストーブに火を入れ、しばしゆっくりとしてすごしたら、朝の早い私に瞬く間に穏やかな眠りの時がやってきた。

2015-10-31

結婚記念日に100本の玉ねぎを植える。

もう長いこと五十鈴川だよりにお付き合いいただいている方は、またかと思われるかもしれないが、今日は我々夫婦の結婚記念日である。

結婚した当初は、ハロウィンなんてことすら知らない私たちであったが、昨今のハロウィンの大流行は、特に都市部においては大変なものらしい。

流行やブームにははなはだもって、距離を置くような生き方を心かけているので、ぴんとは来ないのであるが、このブームが一過性ではなく、どのように定着してゆくのかは、いくばくかの興味が起きてきた。

ハロウィンの日と、結婚記念日がたまたま重なっているだけなのだが 、単にお祝い日が重なっているにすぎないにせよ、単細胞の私はそこはかとなくおめでたい気分に浸るのである。

とはいっても、他国の収穫を祝う宗教的な行事に、かくも無意味に相乗り興奮してしまう、付和雷同的な国民性は、一部の人たちの局部的な盛り上がりとはいえ、何か時代の深層を映し出しているのではないかとも感じる。

とまれ、五十鈴川はそのような時代の流れには遠く離れたところを静かに流れてゆく、小さき今の暮らしをしながら、低みの見物をしているといった塩梅である。

ところで、朝一番竹韻庵に おもむき、昨日買っておいた2種類の玉ねぎの苗を、各50本植えてきた。3号地にはもう少し植えられそうなので、品種の異なる苗をもう50本先ほど買ってきた。
3種類目のマッハという品種の苗

近日中に植えるつもりである。1号地と2号地にチシャトウ、4号地には九条ネギとブロッコリーを植えたので5種類の野菜を植えたことになる。

つくづく単細胞の私を自覚する最近の私だ。3か月前までは荒地だったところが畑になり作物が植えられていると、まるで景観が変わってきて手を加えただけの喜びが体に満ちるのである。

 腰いーの痛さあよう~、というわが郷土の民謡があるのだが(私はこれを歌えるようになりたいと切に今思っている)、腰を伸ばし骨休めしながら遅々と歩む。

耕し、畝を作り、植え、水をやる。2時間もたつと100本の玉ねぎの苗は植え終わった。早朝の朝の菜園タイムは秋空の元なんとも気持ちがいい。(カメラを忘れたのでまた次回アップします)

さて今日は午後から久しぶりに妻との約束があるので、夫婦そろって出かけることになっている。一年に数回の我が家の大事は、ハロウィンとは対極の時間が流れる。



2015-10-28

沖縄、名護に住む桑江純子さんから【馬毛島漂流・矢板俊輔著】というご本が送られてきました。

今朝も起きたら、西の空に満月がぽっかり、新聞を取りにゆき、コーヒー片手に月を眺めているとサンナンのN氏から今日は畑に入れないとのTEL、というわけで雨後の思わぬ一日が過ごせることになった。

このところのお天気続きで体を動かすことの多い日々を過ごしていたので、私にとっては恵みの雨である。

夜は遊声塾があるので、久しぶりに家で夕方まで一人の時間を過ごそうかと考えている。10か連続で外壁の柱を塗り続けたので一階部分の柱はほとんど塗った。しばし一休みしながら、どうやって二階部分の柱や壁を塗ってゆくか、じっくりと考えたい。

ところで昨日、雨が降るとの予報を見越してわずか25株だが、竹韻庵に苗屋さんで買った九条ネギを植えてみた。先日肥料を買いに行ったときに見つけた苗で、苗が伸びすぎて枯れた部分も多かったので半額でいいと言ってくれたので、これまた実験的に植えてみたのである。

きちんとした畑地になるには、それ相当の月日が必要だとは思うものの、せっかく開墾したのだからなにか植えてみたくなるのである。

竹韻庵の畑地は、超ミニ畑も入れると、今5番目の笹の根ランドを開墾している。小さな耕運機で耕し竹笹の根を根気よく取り除いてゆくことを繰り返すだけである。

S氏も途中から参加しこまめに動く、やはり二人でやると愉しくもはかどる。もうお互いセカンドライフなのだから長時間やる必要はない。

ただひたすら楽しんでやるのみ、午前と午後、まったく異なることをやれる今の生活は、なんともはや言葉にならないくらいうれしく有難い。

S氏のおかげなくば、竹韻庵に通うこともなかったわけで、人生の有為転変は不可思議の極致。ブログを書き続けていたおかげであるともいえる。

氏は私のブログをよく読んでくださっていて、お声掛けしてくださったのだ。氏は誠実な人柄で私と違って人望がある。私とは性格がまことに持って異なる。だからお互いにとって良いのかもしれない。

私には数十年続いている君子の交わりのような友人知人が存在する。数は多くはないのだが、時折友はどうしているかと、秋空の元ふと思い浮かぶ。

そのような存在が心の中に棲んでいるということは、有難いことだと思う。若い頃は激論も戦わせた中にこそ、素晴らしき友はいる。

肝胆相照らし、お互いの欠点も含め、愛し愛され、支え支え合う、そのような関係性を育めるには、なにをどうしたらいいのか。虚心に実践の中からいよいよ今後考え続けたい。

利己と利他、夫婦関係も子育てを終えると別次元に入るかのように感じる。日々野菜に水をやるように適度な加減の按配の妙、思いやり、などと言うは易しだが。

ところで話は大きく変わる。沖縄の尊敬する人形劇かじまやの主催者、桑江純子さんから、本が送られてきた。

桑江さんご夫婦は私の唯一の沖縄の友人(人生を沖縄の芸術に捧げている)である。

このような希少本、(本屋さんにはまずおいていない)を(何度も書いているが私は、あらゆることに関して無知である)送ってくださる友を遠方の、辺境の地から送ってくださる友がいることの希少価値。

じっくりと心して読まねばならない本である。







2015-10-27

早朝月を眺めて晩秋に向かって指導する。

きのうゆうがた、ペンキ塗りを終えるころに現れた、東の空のお月さんをしっかと愛で、今朝起きて西の空に浮かんでいる月を再び愛でたのちブログを書いている。

肌寒い中での束の間のお月見。何度も書いているが私は月が大好きである、太陽と違って月は見続けることができる。熱いコーヒーを片手に、月としばしお話ができる自分は幸福である。

さて、何かと同じことをやっているかのように日々が流れてゆくが、2度と同じ日々はやってこない、今日は今日の時を刻んで木の葉も多彩というしかない色の移ろいをみせる。
朝日の当たるS氏の山荘

早朝、竹韻庵に向かう道すがら岡山大学の前の銀杏並木を通る。朝日に照らされて、日々色づく銀杏の葉の見事さはなんとも言えない。(今朝も眺められるとおもう、コンビニでコーヒーを買おう)

本格的に一日が始動する前の、静かな朝のひと時の学生街が私は大好きである。竹韻庵に通うのも週に3日とはいえ、3ヶ月が過ぎた。

わずか3月でも随分と竹韻庵の雰囲気は変わってきたように思う、何事も根気よくやり続けることの中からしか、見つけられないということを私は感じる。

話は変わる。続けるといえば夕方このところ平均2時間以上ペンキを一人で塗り続けている。昨日で9日間塗り続けた。さすがに少し疲れが出ているが、愉しいので続けられる。

こんなにも木工部分に塗装をし続けたことはわが人生で初めてである。自分でいうのもなんだが、こんなにもペンキ塗りが持続するとは自分でも正直思わなかった。
竹韻庵のご神木

長くなるので書かないが自分の家が持てるなんてことは考えたこともなかった家なので、大切にしたいという一念が私をして、 いざペンキ塗りへと向かわせてしまうのである。

塗りにくい部分を塗るときなどは首が痛くなるが、そんなときには秋の空のまだら雲を眺めしばし首休め、するとあらたなエネルギーが空から私の中に注入される。いわばそんな塩梅、人間の体は本当に不思議、意識の仕方次第での変化は、まさにいい加減である。

いささか早くに感じる木枯らし一番が吹き、今年は何やら冬の到来が早く来そうな気配だが、意識の持ち方次第での、冬の寒さを迎える心かけの準備だけはしておかねばと考える。

自分の頭で考えたことを実践する。 それ以外には私にはほかに今のところ方法がないが、とりあえずはお手本が身近に存在しているので、それをよすがに自分の足で(オーバーだが)晩秋に向かって歩いてゆく私である。

2015-10-24

肉体労働の秋、中森明夫氏のさわやかなコラムを見つけました。

10月、普段は読書の秋という感じなのですが、私の今年の秋はちょっと違う。肉体労働の秋と化しているのである。
竹韻庵の小さな畑にS氏と柵を作る

さすがにこの年齢になると、そうは肉体労働はしたくなくなるのではないかと考えていたが、想像以上に体が、未だ動くことに有難いという、単純な喜びに満たされる。

10月中、(もうあと2回だが)サンナンの畑で週2回午前中働き、竹韻庵で3日働き、声出しを2回やり、何かとあわただしく時が流れてゆく。

そのうえ、外壁の柱を先週の日曜日から塗りだしたので、かなり肉体に負荷がかかる生活にしばしなっているのである。

塗装は平日は夕方2時間くらいコンスタントにやっている。お天気が続いているし、私の性格なのかいったん始めると切りのいいところまで、どうしてもやりたくなってしまうのである。

時間はかかるが、わずか6日で家人も驚くほどに塗れた。案ずるよりもまずはなにともやってみることであると、あらためて感じ入ってしまう。大変だがわが家がきれいになるとうれしい。

日焼けして色むらのあった部分が統一された感じで塗られてゆく、乾いてくると分かるので、根気よく作業をどうしても続けたくなってしまう。空には月がぽっかり出て美しい。

作業を終え湯を浴びると、もう何もしたくはないといったくらい、充実した疲労感が襲う、妻や娘が応援してくれるし、手早く美味しい夕飯を準備してくれるので、これで英気を養い頑張れるのである。

そのようなわけで、実によく眠れる、気持ちのいい秋を過ごさせていただいている のだ。時間は一定あれもこれもはできないのだ。

ところで、話は変わる。こないだコラムニストの中森明夫氏が、瀬戸内寂聴のSEALDs小説を絶賛した文章をM新聞に寄せていた。
中森明夫氏のコラム

現役最高齢の作家が書いた青春ラブストーリー、若い女性がSEALDsの主催のデモに参加して、これまで付き合っていた彼と別れ、デモで出会った彼と新しい恋に落ちる、といった物語を、みずみずしいラインの文体で書き綴る93歳に、驚嘆している。

出だしの文体が引用されているが、まさに今を生きる若い女の子が書いているかのような文体なのである。

文芸誌すばるに掲載された、【さようならの秋】と題された わずか4ページの掌編。誰しも好みはあるが、そんなことはどうでもいい。超越したかのようなある種前人未到の境地を自在に遊んでいる、かのよう(読んではいないのに)。

秋空のような爽快感が私を襲った。性差はあるが枯淡の境地を時に生臭くも、生の終焉に向かって、こうも軽々と越境したかのようにふるまえる、書ける、寂聴さんには、やはりお釈迦様が棲みついているといわざるをえない。

可能なら満分の一滴でも見習いたいものだ。体の中をさわやかな風が、常時流れているような感覚を持続するためには、いかように老いに向かって生きればいいのか、きっと永遠の謎。

だからきっと生きていることは面白い、という側に私は立つ。五十鈴川も前向きに 、自分の感覚に正直に流れてゆくのみである。


2015-10-19

家の外壁の塗装にやれる範囲で挑戦する。

最近しきりにいろんな業者が、我が家の家の壁を塗りませんかという電話やチラシなんかを投函したりする件数が増えてきた。

建てて15年もたつのだから変色したり、北側の壁はカビが生えたりしてみっともないことは私も承知している。

世はまさにリホームブームのさなか、わが夫婦はこのところ検討と対策を思案してきた。家を建てたくれた業者さんにも相談した。

何せ外壁面積が広いので、業者に頼んだら足場を組むだけでも相当なお金がかかる。日本人は見栄えにこだわる。だが私はこだわらない。

雨や風にさらされている柱や壁に触ってみると、色はかなり変色したりしているが、15年経ってもかなりいまだしっかりしている。今から7~8年前、脚立で手の届く範囲まで、柱の部分だけベンガラを取り寄せて自力で塗ったことがあるのだが、それがやはりよかったのだと思う。

さすがは、ベンガラである。ところで若いころ一年近く英国で暮らしたことがある私には、英国人がいかに家を自力でメンテナンスすることが好きな民族であるのかを、肌で感じた。
なかなかに大変なベランダの3面の塗装

当たり前である。家を手に入れるのは庶民の夢が実現したのであるから、それはそれは大切にメンテナンスするのである。ガーデニングとメンテナンスは生きる喜びなのである。

そこで私は考えた。楽しみながら、英国人を見習い、やれるところまで 自力でやってみようと。今の体力なら手の届く範囲なら、時間を見つけてコツコツとやってゆけばかなり塗れるのではないかと考えたのだ。

業者に頼んでさっとやってしまうのも可能ではあるのだが、まて、ここはひとつ最後のチャンスではないかと考えたのだ。

何事もできないと頭から考えるのではなく、可能な限りは挑戦してみる価値があるのでは、とわば考えたのだ。

真っ青な秋空の元、やっと建てた自分の家を自力でコツコツと塗ってゆくのは気持ちがいいのではと考えたのだ。それに次回、全面的に塗り替えるころにはおそらく体力的に無理かもしれないので、いまならやれる、やりたいと思ったのだ。

そこで昨日、妻とホームセンターにいって塗料と刷毛を買ってきて午後から二階のベランダの木部から 塗ってみた。

脚立に登って、不安定な態勢で塗り続けるのは、かなりの慎重さを要するし、根気のいる作業なのだが そこはやはりやはり自分の家であるからなのだと思うからこそ、塗る意欲が湧いてくる。

ひたすら塗り続けた結果、ベランダ部分の木部3面を8割近く塗ることができた。お天気のいいお休みの日に、コツコツと時間をかけて塗り続けてゆけば意外と楽しめるのではないかという気がしてきた。

やがては、きっと塗りたいとは思ってもかなわぬことになる。今ならわずかでも自力で塗れるのだから、それを楽しまない手はないと、私は考えてしまうのである。

夕方作業をやめ、自分が塗った部分を遠くから眺めてみたのだが、いい感じに塗れていた。素人でもそこそこには、塗れるということが分かったので、焦らず亀のように塗ることにした。



2015-10-18

竹韻庵の小さい畑地にチシャトウを植えました。

月曜日から土曜日までこの年齢で、毎日時間はまちまちだがやることがあり、それをやり続けることで生活でき、日々を送ることができる私の今の暮らしに、ときおり真っ青な天を仰いで感謝する。

前回、私の書いたブログに岡さんがコメントを下さっている。この場をかりて深く感謝する。何度も書いているが私のブログにはコメントが少ない。だからどんなに短くてもコメントがあるのはやはりとてもうれしい。

竹の葉のお茶も生きているうちに何とか挑戦してみますね。可能なら、思いついたら何でもやってきたこれまでのわが人生、やろうと思えばほかの人の手を借りずできるのですから愉しい。

何事も自分の中から湧いてくる感情というものに、限りなく正直でありたいと思う私である。他者からは理解されなくても、迷惑さえかけなければ自分の気持ちのいい方向に、ただ単純に流れてゆきたいのである。

時代の流行や、自分にとって気持ちの悪いことには、できる限り近づかないように日々をおくれたら私は満足である。

さて、このところ週に3日竹韻庵に通っている。 昨日開墾した最初の小さな畑地にサンナンから頂いたチシャトウをとにもかくにも100株植えてみた。

日当たりが悪いし、土壌も数年は経たないときちんとした畑にはならないだろうが、景観的に何か作物が植えてあれば、との思いで実験的に自己満足で植えてみた。

竹韻庵には水道がないので、しばらくは水やりが大変だが、これくらいなら竹韻庵の雨水タンクと自分で水を運び何とか、その成長過程を楽しめたらと、勝手に思っている。

こちらの思い通りにゆくわけがないのが自然の摂理、こちらとしては自然のおこぼれをと、願うだけなのである。

耕し、笹の根を根気よく取り何とかそれらしい体裁に整地した小さな畑地は、なんともはや可愛い。水や日当たりの問題があるので畑地としては機能しないかもしれないが、整地しながら柿の樹なんかも植えてゆき、竹韻庵で過ごす時間を大切にしたい。

竹韻庵は岡山大学の裏手に広がる山中に在るのだが、森の中にひっそりとたたずんで在る。市街地との際に在るのだが別世界を堪能できる、得難い場所である。

S氏のおかげで竹韻庵管理人ができている今、動ける身体こそが 宝であると日々感じている。鎌で草を刈る。つるはしで小さな木の根をとる。鍬で畝を作る。ばんじで草を集める。斧で樹を割る。

大地と戯れるかのように、地下足袋で地面を踏みしめ足を運び、日々体を動かせることの幸福を私はかみしめる 。

ひとしきり体を動かして後、家に戻ってゆっくりと、在るもの、残り物で麺類中心昼食を作り、すませた後はしばし短めの午睡、目覚めてからは全く異なることを、夕飯までの時間過ごしながらの日々を送っている。

図書館で本を読んだり、運動公園で声を出したり、掃除したり、新聞をじっくりと読んだり、買い物をしたり、DVDを観たり、我が家の冬用の薪を割ったりと、まあ生活全般の雑事をやっているのである。

夕食前はメルとの散歩も私の日課になりつつある。まあこのように深まりゆく秋を感じつつ、平凡の極みわがくらしである。

ところで先日、森の中を風が吹くと、どんぐりの落ちる音がわが耳に響いた、たぶん生まれて初めて聴いた音。森は私の心を洗ってくれる。



2015-10-13

自立した老いに向かって、在るがままに思考する朝。

7年近くブログなるものを書いてきて、よほどのことが
ない限り一週間ブログを書かなかったことはなかったような気がしている。

ブログを書かずともほとん自分の暮らし向きには変化がない、満たされている、といったことがあるからかもしれない。

以前は何やら書かないと、といった思いがかなり心の中にあったようにも思うが、いい意味で歳のせいだという気がしてならない。

優先順位が微妙に変化してきているのも、事実である。書くことよりも、読んだり、声を出したり、体を動かすこと、生活の雑事に、重きを置いた時間を、優先するようになってきたのである。

毎月一回墨をすり筆で文字を書くことをこの2年半やっているのだが、何度も書いているように、時間は一定なのでブログを書いていない時にはほかのことをやっているのである。

とはいえ、どうしても書きたいことが ある場合は、にわかに川の水が増水するかのように書くかもしれないが、あくまでも五十鈴川だよりは、晩年ライフの渦中を右往左往揺れる、あるがままブログなので平に御容赦を、と願うしかない。

さて、だがいつものように話は変わるが、新しい安倍内閣で、一億総活躍 社会が掲げられている。美しい国といい、なんとも抽象的でぴんと来ない。

そんな私の漠然たる不安に、作家の保坂正康氏が見事にこたえてくださっている。10月10日のM新聞に。

ほとんど政治のことには触れたくないというのが私の個人的な正直な思いなのだが、 なんとも気持ちの悪い表現である、なぜなのかを書くにはまた相当な時間を取られるので止す。

話題を再び変える。竹韻庵にはかなり大きな琵琶の樹がある。

数週間まえ邪魔になる枝を切ったのだが、その際、葉っぱをお茶にできないかと家に持ち帰り、母と私で葉をむしり我が家の、あまり日の当たらないところに干して老いたら、いい色に変色したので、先日S氏と二人で竹韻庵で手でもんで細かくちぎり、なんとかお茶らしい体裁にできた。

そのお茶を私はこの数日飲んでいる。今日もこのお茶をポットに入れて持ってゆくつもりでいる。意外やおいしいのである。単なる思い付きで つくったお茶だが妻がすぐ容器に入れてくれたがなかなかいい感じでおさまった。

63歳の私は、今更一億総活躍の仲間には入りたくはない。社会の片隅で若者の邪魔にならず、そっと静かに琵琶の葉のように枯れて、静かに老いてゆく覚悟を育みたい、と思うのだ。

大先輩、五木寛之氏が書いているように、アンチエイジングではなく、ナチュラルエイジングこそが私には望ましい。

葉が落ちるように、ナチュラルに、自然(じねん)に先人たちは死を受け入れてきた。私もかくありたい、そのためにはどう生きるかを、日々(オーバーだが)五十鈴川だよりは寿命にむかってながれている、いわばそのような思いだ。

父が生きていた年齢までもし私が生きるとしたら、あと20年近くを生きることになる。老いながら未知の時間を生きねばならない。

40歳の時、60歳の自分の姿など想像すらできなかった。今私は82歳の母と時折過ごしながら、自分の20年後を想像する。

母はまったくもって立派としか言いようがない形で、老いを自立して生きている。若い人たちの邪魔にならず、野菜を育て、お裁縫、編み物をこなし、家族の支えとして真の意味で活躍してくれている。

最近時間があるときは、ブログを書いているよりも母と話をしたり体を共に動かしている方が楽しい私である。これからは母との時間を最優先したい。

自然の摂理、その母だってやがては老いてゆく。彼女も十分にそのことを自覚している。目の前に見事に歳を重ねてゆくお手本がいる私は幸せだ。


2015-10-06

5日ぶり竹韻庵に復帰、小さな夢の畑地を耕す今の私。

昨日から再び動き始めた。たった3日間静養していただけなのに、あらためて動けるということの有難さを、抜けるような秋空のもと、天を仰いでささやかに感謝している。

時間的に農の仕事を辞してから、かなり自分の個人的なことに割ける時間が増えたことが、何よりもありがたく嬉しいことである。

声を出し、読み,書き、体を動かし、生活に関する様々な雑事も一日の中で余裕をもってやれる今がバランスがいい。

この歳になっても、悲しい性(さが)的な己と付き合いつつ、今という時代を生きてゆく中で、自分自身を見つめ続けてゆく、いわば覚悟と勇気を育むためにはどうしたらいいのかを、あきらめずに、足を上げて地面を踏みしめている、今日の五十鈴川だよりである。

さて、今日五日ぶりに竹韻庵に行った。朝は肌寒かったが最高のお天気で気分は最高。病み上がりなので、あまり無理せず草を刈ったり、あれやこれや思いつくまま、体を動かし、11時前には作業をおえた。
1号地になる予定の小さな畑

竹韻庵にはイノシシがやってくる。イノシシがミミズを食べにやってきた後の、大地をほっくり返した後は、波打っているのですぐにわかる。そのエネルギーはまさにすさまじい。

いま、笹の根を取りながら、ゆっくりと開墾しながら、最初の小さな畑を作ろうとしているのだが、イノシシのことを考えると、作物を何にするのかを熟慮しなければならない。

仕事ではなく、手の届く範囲の小さな畑地での作物を育てたりすることは、母や妻と共に、身体が動く限りやり続けたい私だ。

60代、これまでの自分とは異なる可能性を探ってみたいのである。よしんばうまくはゆかなくても、ちっとも構わない。

そんな悠長な、遊び心でやれるようなことが、S氏のおかげで、突如わが人生に訪れたまたとない好機を私はただただ、S氏と共に楽しみたいのである。

80歳過ぎて、もし生きていたとして、後悔したくはないのである。今日やりたいことを、やれることをやった後に、明日がやってくる。そのことの繰り返しの連鎖の果てに、もし果実が、といわば夢見るわけだ。

何度も書いているが、未来が不確かであればあるほど、いまという一日をきちんと生きるより、ほかに私には方法がない。私の場合夢を見るには、汗を、体を動かすしかない。





2015-10-04

金木犀の香りに両親の面影をしのぶ。

我が家には家を建て替える前、つまり妻の両親が植えた樹木が、4~5本ある。もうほぼ終わってしまったが、先日まで金木犀の香りが窓を開けると我が家の中まで匂ってきた
父は庭が好きだった、花や樹木を愛していた
。我が家のご神木の一つである。

季節はまさに秋爛漫、青い空に、初老の私は吸い込まれてゆきそうな気持ちよさである。そんなことを感じるわが体は、徐々に回復している。が油断大敵、じっと我慢、家の中から我が家の庭の秋を愛でている。

愛でる嬉しさ悦び、秋を感じる微妙な移ろい。若いころには心を揺らさなかった細部に眼がようやくにして向かうようになってきた。

日本という風土と 、(私の場合は宮崎だが)自分が深く深く結びついているのだということが、歳を重ねるにしたがって実感するようになってきた。(わが体は空や水、森羅万象と密につながっている)

だからなのだ、五十鈴川だよりを書くようになり、年に数回どうしても故郷に足が向かうのは。こないだ帰京したのは6月、こうもお天気がいいと、わが心は五十鈴川周辺の景観にいざなわれる。

体調がもどったら、お墓参りもかねて、そろりとわが体はきっと故郷に向かうのだろう。それは帰巣本能だから、私自身にも止められないことなのだから、摂理にゆだねるしかない。

歳を重ね親としての務めも徐々に減るにしたがって、小さい頃のほとんどこの数十年思い出しもしなかったようなことを、風邪の功名で思い出した。

私が小学4年生のくらいの頃の記憶。ある秋の晴天の日、父が下半身が不自由になっていた祖父を、外に散歩に連れてゆくといい、私と二人の兄の3人で祖父をリヤカーに乗せ、町内散歩に出かけたことがある。

我が家から、海が見える港まで直線距離で500メートルくらい。恵じいちゃんのその時のうれしそうな顔がいまだ私の顔にくっきりと瞼に浮かぶ。サトばあちゃ んの笑顔も。

わが父は、小学生の私にとっては鬼と仏が同居しているかのような存在であったが、息子3人がリヤカーを引っ張ると、こころから満面の笑みを浮かべた。

きっと、戦後引き上げてきてから、人生でもっともうれしい幸せな瞬間だったのではなかろうかと、愚息の私は今にして、父の内面を推し量ることができる。

父と祖父との関係は、激動の時代、明治人と大正デモクラシ―人、多々相克があったと思うが、晩年体が不自由にになった祖父を、父は口にこそ出さなかったがいたわっていた。

いざという時の行動でその人間の真価が決まると父はよく言っていた。祖父をリアカーで散歩に連れ出した、あの秋の日の一日は今となっては、穏やかで平和で夢のような一日の出来事として私の脳裏に刻まれる、宝の映像。

姉兄弟5人、一番下の弟はタイにいるのでなかなか会えないが、皆歳を重ね 元気で再会できる幸福は、きっとちいさ頃の共有原体験があるからだと思う。

お酒が入り、両親の話になるといまだ俄然盛り上がる。頑固一徹、不器用、愚直そのものの、(そのDNAがいかんともしがたく私にも流れている)私にとっては、立ちはだかる大きな壁そのものだった父。

私が家族を持ち、安定した暮らしをするようになってから、娘たちを連れて帰郷するころから穏やかに話ができるようになってきたのに。(もっともっと戦前の個人的な話を聞いておけばよかったと後悔している)娘たちにはなんとも優しかった。

娘たちの脳裏に、父と母の生きていた晩年の姿が記憶に残ってくれたのが、いまとなっては、それが一番私にはうれしい。





2015-10-03

実りの秋の食材で風邪を治す。ルンタの上映始まる。

季節の変わり目をわが体はいまだ敏感にとらえる。小さいころから体は頑健には程遠く、痩せていて食もほそく、どちらかといえば虚弱体質であったのだ。扁桃腺を腫らしよく発熱し、うなされた。
今は廃線になっているこの場所まで津波はきたという

社会に出ていろいろな面で鍛えられるにしたがって、元気に動き回れる体を獲得してきたように思う。

発熱したり、だるかったりするのは、体がどこか変調を告げているサインなのだから 、悪いことではなく最近は決して無理はしないようにしている。

以前と違って、漸く私も人並みに家人の言うことを聞くようになってきて、あまり無理をしなくなってきた。考えてみると当たり前である。もう63歳なのだから、50代のようには体が動かないのは当たり前なのである。

ところで、身体はだいぶ回復してきたが、昨日ほどではないがまだ変な咳がでるので、今しばらくじっとしていようかと思っている。

風邪の功名ではないが、3日連続してブログを書けるのは幸せだ。絶好調でもなく、 絶不調でもなく力の入らない状態でも、のらりくらりとブログを書ける体力気力がある、ある種胡乱な気分も時にはいい。

発熱したり風邪をひくと、どうしても食欲が落ちるが、食わないと回復しないし、薬が嫌いな私はほとんど飲まないので、休息と回復力がつきそうな食べ物をこの2日間、朝昼と自分で作って食べている。

主にスープやお味噌汁がメイン。母の育てた、ゴーヤ、ピーマン、シシトウ、ナス、ミョウガ、などに、私が育てた玉ねぎ、ジャガイモ、それに市販のショウガ、キャベツ、ネギ、トマト、豆腐、アゲ、わかめ、シイタケ、ニンジン、里芋などを使う。(3~4種類を組み合わせるだけ)

味付けは、削り節でだしを取ってお味噌汁。西洋スープ(玉ねぎが欠かせない)の場合は岩塩と(イランの音楽家からいただいた)黒コショウのみ。

普段から昼食をこの数年作っているので慣れているのだ。簡単なものしか作れないが、時間さえあれば私は作るのは嫌いではない。

間食や食後は、バナナ、リンゴ、ミカン、栗、なし、柿、などをすこしいただき、ビタミン補給 。ご飯は少しで、梅干し小魚海苔は欠かさない。

これからは、怜君のように作ることを楽しみたいと思っている。もっと歳を重ねたら夫婦二人で料理することをシェアしながら交互にやれたら、ほどほどの円満さが保たれるのでは、とも思うのだ。

ともあれ、スープと休息の効果が現れたてきているのだろう。鼻水も咳も昨日よりずっとおさまってきた。こうもお天気がいいと外に出かけたくなるのだが、もう大人なのだから、おとなしく我慢しようと思う。
本を読めばフィルムが深く味わえる

ところで、今日からシネマクレールで【ルンタ】というフィルムが始まる。実は、ブログには書いていないが、私はこのフィルムを9月4日大阪で一度見ている。(なにもかけなかった)セバスチャンサルガドのフィルムと、ルンタ、今年の夏はデモに参加することで、思いもかけぬフィルムに出会えた。

9月27日夜、妻と娘と3人で、セバスチャンサルガドのフィルム、地球へのラブレターを見に行った。娘がきちんと受け止めていたことが、ただ嬉しかった。

それにしても、素晴らしいフィルムは何度も見る価値がある 。くどくどと書く気がおきないほどに。ルンタももう一度見る価値のあるフィルムだ。(チベット仏教の奥深さに震撼とする)一人でも多くの心ある人に見てほしいフィルムだ。