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2014-02-26

長兄の娘の結婚式の思う、春の朝。

日々の繰り返しの中で、何かと同じようなことを繰り返しながらも、何かが微妙に変化してゆく。我が姉兄弟4人が(弟はタイにいて不参加)久しぶりに4月には全員そろう。長兄の娘が千葉の方と縁があり、軽井沢で挙式をすることになったからである。

5姉兄弟のうち4人が、そろって式に参加するということが私には、とてもうれしいことなのである。お互い元気であり、昭和を生き延び、平成の今ようやく子育てが終わり、世の中に出て同じ時間を過ごすことが少なかったにもかかわらず、姪の結婚を祝うために集結できるということ、ただそれだけで私は嬉しい。

同じ兄弟でも、世の中に出てからの過ごし方であらゆることに変化が生じてしまい、微妙な意識のずれは、いかんともしがたいのが世の常である。我が兄弟とて、いろんなことがあるのだが、肝心な時には、一致して集結する、そのことができるということが、私にはただひたすら、意味もなく嬉しいのである。

今は亡き我が両親に対して、何か申し訳が立つ気がするのである。戦前生まれ、引き揚げ体験の姉と兄は、やはり兄弟の中でも一番苦労をしてきていると、4番目の私は感じている。だからいまその姉や兄と、生活の違いによる考え方のずれはあっても、お互いの今を、思いいたれる余裕のようなものが私の中に出てきたこともうれしい。

それとやはり、小さいころ苦労を共に暮らしているので、会えば共通の話題で盛り上がれるということが、この年になると、とても嬉しいのである。私のわんぱく幼少年時代を知る、かけがえのない人たちなのである。思い返すと恥ずかしきことのみおおかりきといったあんばいだが、懐かしい。

この先あと何回、全員で逢えるか、と考えるとはなはだ貴重に感じられる。お互い子育て真っ最中のころには、皆忙しく、経済的にも余裕がなく、そのことで手一ぱいいだったから、ようやくたまさかの余裕のある会合が持てる年齢に
父が書き遺した26回の地方紙の新聞連載
なったということである。

そういう意味で、姪の結婚式の儀式が、我が姉兄弟を一堂に集う機会を与えてくれたという意味では、ありがたき幸せというほかはない。姪にとって、これかの人生の門出に我々の姿が記憶に残ってくれれば、これ以上のお祝いはない、そのように思える。人生、折々、どんなにささやかでも祝福の時間が必要である。

そういう我々の姿を、娘や、姪や、甥たちに、かすかに残し伝えるためにも、私は五十鈴川だよりを、つたなくてもわずかでも、書いておきたく思う。姉兄弟皆それぞれに年を重ね、老いてはきたが幸い全員元気であるそのことが、何よりもうれしい。

今現在の幸せを、たまさかの姪の結婚式で祝いながら確認したい。亡き両親がそんな我々の姿を見たら、あの世で安心するだろう。無数の先祖のおかげで今の我々は、たいへんな現世をなんとか、しのいで生きていられる気がする。

あの両親の、教育のおかげで、(本当にご迷惑をかけました)私はなんとか生き延びてきたのだということが、ようやくはっきり今、自覚できるのだ。このような両親をを持てたこと、そしてそのような個人的なことを、臆面もなくつづれる、幸福を私は噛みしめている。

2014-02-24

そこはかとなく、梅ほころび、春の気配を感じる朝

昨日は終日薪づくり
この数日でにわかに梅がほころびはじめたのを感じる。春が近づいている。年を重ねるに従って春の訪れが嬉しくなるが、農の仕事を始めてからの今年の春は、特別嬉しく感じる自分がいる。

この2カ月、現場での寒さを体感し続けていたので、それからのしばしの解放の季節がやってくるという、ただそれだけの理由で、私の心は軽くなるのである。仕事が終わると、しばらくは冬眠状態が続くといった塩梅の、私の例年の冬の暮らしにも生活の変化がやってくる。

本格的に動き出し始めるのは、やはり3月以降である。それが生き物の私には合っていて、動き回りたくなるのは、春夏秋といった具合。半年もじっとしていると、22年も企画してきた私は、何かが企画したくなるのは、自然なことなのだが、経済的なことがどうしても付きまとうし、スイッチが入るような塩梅までは、農の仕事に専心したいといった心持なのである。

わずか5か月前までは、農耕放棄地であったところが畑になり、少しずつではあるが、ネギが植えられ、そのネギが春の訪れとともに、どのように成長してゆくのかが、実に楽しみなのである。

それと、今年は9月に娘が結婚するという、家族にととっては大きな出来事があるので、私としては静かにその一大事を無事に見届けたいという、きわめて個人的な思いが強いのである。まして、22年間、エネルギーを放出しきって、出がらし状態の我が頭を静かに充電したいという気持ちもある。

これまでもそうだったが、何よりも内なる自然に任せる中で、心と体が発酵するようなことがあれば、近しい方々に考えを吐露し、事を進めてゆきたいといった煩悩は、いまだ止まない。

夢が原を辞して一年、何とはなしに新しい自己実現、これまでとは異なる生活がようやく本格的に始まる気配なのである。サンナンのA専務は、大きな夢を持っておられるし、専務の夢と重なり合う部分がとても多いので、お役にたてることなら、私の能力の範囲で、事をなしてゆきたいとの思いも強い。

ともあれ、そんなこんな、生きていることは、苦しきことのみ多かりきではあるが、面白い。つらくても生きていることに、面白さを感じ、見つけられるれる感性の持ち主が増えれば、世の中なにはなくとも、明るくなる。希望は、まずおのれの中にに持ちたいものである。感性は教えられない。

アフリカをはじめとする、いわゆる辺境の地とされる国々を、若いころわずかだがこの目で旅して感じたことは、物質文明に毒されていない、彼らの持つ、持たないものの豊かさという逆説である。私は彼らの豊かさに学び、あやかりたく、これまでずいぶんアフリカの国々の音楽を企画してきたが、かえすがえすも、身に余る、ある意味無謀な企画ではあったが、今言えることはやってよかったという一点に尽きる。

私が出会ったアフリカーナは、何よりも【今現在】を明るく生きていた。なにはなくとも、遠来の客を心から、いっぱいのお茶で温かくもてなし、何よりも歌と踊りで、感謝を示してくれた。その豊かさ、言葉がなかった。私がなくしそうになっていたものが、私がたまたま出会ったアフリカーナには、こぼれるほどにあったのだ。

その明るさは、どこから来るのか、そして今の日本を覆う、うつうつとした暗いニュースの多く(明るい話題ももちろんありますが)の原因はな辺にあるのか。八方ふさがり、一言でいえば、心がお金にからめとられている構造から、あまりにもぬけ出せないと思いこんでいるからではないかと、私には思える。

想像力と、知恵と、勇気の枯渇のひどさに、時折暗然とするが、救いも感じる。何故こういう状態が続くのかといった構造に、若い方々が気づき始めて、軟かな感性で動き始めているのを、あちらこちらで感じるのが救いだ。

おじさんとしては、そういう若い方々と連帯して、邪魔にならないように今しばらく自在したいと思う。







2014-02-22

映像に触れる時間を減らし、睡眠と読書時間を増やす。

サンナンで働き始めてから、本当にTVをみなくなった。夕飯時に少し眺めるくらいで、よほどのことがない限り長くは見ない、映像が好きな私は、映像に見入られがちになる自分が分かっているので、働いている日は、つとめてみないように心懸けているのである。

一日の自由になる時間は、貴重なので、ほんの僅かでもいいから、本を読むことにあてているのである。結果本を読むことの静かな時間の素晴らしさに、ますますはまり込むようになってきている。

したがって、オリンピックもほとんど見ていない。藤原新也さんも書いているが、金銀銅には、私はほとんど興味がないというか、そういうことにマスコミをはじめいい大人が、(何個とったとか)一喜一憂していることが、なんとも気持悪いのである。

その人にしか持ち合わせない、なんとも言えない敗者の人間性のようものが感じられたときに、すごく私は感動する。浅田真央さんだって、私には金以上の感動を与えてくれた。ママさんで参加された、スキーの選手にも感動した。もちろん葛西選手にも。

私が高校生の時だったと思うが、クロード・ルルーシュ監督の【白い恋人たち】というフィルムがあった。音楽はフランシスレイ。今も音楽を聴くと、胸が痛い、青春がにわかに立ち上る。

今もう一度、大画面で見たい冬の映画である。祭典の中の光と影、そのことの中に人間の悲しいまでの美しさを、カメラで余すことなく伝えていた。あの当時の若い自分ではなく、今の私がどう感じるのか、見てみたい。

スポーツは、、若い時がやはり旬である。が私の好きな芸術分野は、限りなく奥が深い。素晴らしいものが分かるためには、相当に学ぶ’修行(かたい表現だが)時間が必要だし、自分自身、それなりの修行なくして、他者の修練のすごさが、分かるはずもない。

とまあ、朝から書くようなことでもないので話題を変える。とにかくサンナンで働くということは、ひたすら身体を動かすということが大部を占めるので、単純によく睡眠をとらないと、仕事にならないのである。今動く自分の身体を可能な限り有効に使って働きたいと、心懸けているのである。

息が上がったら、呼吸を整えて、また繰り返す、年とともに、ずいぶん呼吸することに意識を傾けるようになってきた自分がいる。まだ5カ月だが、特にサンナンんで働くようになってからである。ことほど左様に、人間はいまだ気づき変化をする生き物なのである。そこに、未来がある。

でもおそらく、このような気づきは一見単調な労働をやっているからこそ気づけるのだろうということを、思うのだ。身体がこんな風にすれば、もっと楽にやれますよ、と教えてくれるのである。なんとも、奥の深い我が体。自分の体なのだから、自分で気づいてあげるしかないではないか。

若いころのような、瞬発力は望むべくもないが、持続力というのらりくらり呼吸法をひたすら追求してみることに、最近私は熱心である。

朝はまだかなり冷えるが。昨日あたりから日中はずいぶん暖かくなってきた。単細胞の私は暖かくなればこっちのモノ、ネギが成長するのに合わせて、私もどこかが伸びるのが楽しみである。

2014-02-20

若者たちには、自分の足で世界の地面をあるいてほしい。

昨日のブログで書いガーナという国に行ったことはないが、西アフリカのギニアとセネガルにはわずかだが行ったことがある。

アフリカに関する記事が新聞に載ると私の眼は自然とそこに目が行く。もちろん西アフリカだけではなく、過去に行ったことがある国のことで、印象に残った国の記事には必ず眼が行く。

私が今の日本の時代状況に、どこか冷めた感覚をなんとか持続できているのは、若いころに、やはりいろんな国を、旅してきたからだろうなあと、感じる。日本以外の国では全く通じない世界の多様な真実の匂い。異なる歴史、土壌に咲いた文化、言葉。

どんな小さな国の、ささやかな暮らしであれ、みんなそこが世界の中心であり、そこから昇る朝日を眺め、星空を眺め、煮炊きをし、家族とともに暮らしているのである。なにはなくとも地に足のついた暮らし。

だからということもないのだが、おじさんとしてはやはり若い感受性があるうちに、どこか日本語が聞こえてこないようなところを、体一つで旅する時間というものを持つことを、薦めたい。

無理をすることはないのだが、うつうつと何か判然としない、内的鬱屈が続くようであれば、しばし生活の軸足を変えてみるささやかな冒険を、と思うのだ。航空運賃以外、ほとんどの国は物価が安いので、一年くらい必死で節約生活すれば可能だ。

節約生活している間に、行く先を決める。こういうことは、家族を持ってからでは遅いからである。話は変わる。私の娘が選んだ伴侶は、ドイツはドレスデンの男性だ。

彼にとっては異国である日本の女性と結婚するという選択がどういうことであるのかは、私にはコメントのしようもないのだが、ともあれ若い時から果敢に異国に勉強をしにやってきた彼の、生き方をほんのわずかだが、接していて思うのは、考え方が論理的で、簡単にいえばしっかりしているのである。

親としては、娘が選んだ機縁を、今はただ心から祝福し、どんな人にも訪れる人生の困難を、二人で乗り切ってほしいと願うしかない。

人間はおそらく太古から移動し、混血を繰り返してきたのに違いない。私を含めて日本人は狭い(本当は広い)島国感覚でややもすると、視野狭窄的感覚に陥りやすい。外見はともかく、内的に、いい意味ではなく、引っ込みがちになり、いまだ集団性行動に収斂してゆく傾向が強い、と私には思える。

根回しが好きで、会議の前にはすべてが決まっていたりとか、ともかく先回りしてでも、不安を取り除いて、ことを為そうとしがちだ。もちろんそんな人ばかりではないから、救われるのだが。

こんなことを、急に書く気になったのは、先週から遊声塾に、27歳の悩める若者(私が文学座を受けた年齢、私も悩んでいました)入ってきたからなのです。

結論から書けば、人間はおそらく一生悩み続けるのですが、若いころに精神に心地よい風穴を開けておくと、日本的な湿った情況に置かれても、世界の風が、心を軽くしてくれる。そのように私は思います。

歩きやすい、い心地のいいところばかりではなく、歩きにくいところをこそ、若いうちに踏みしだいて、世界の強風を浴びておけば、少々のことではへこたれない精神力が身につくはずです。しかしそのようなことを経験していない大多数の大人に育てられた今の若者に、私はどちらかといえば同情しています。

娘の婚約者はそういう意味では、私の眼にはタフな若者に思えます。ドイツと日本と何が違うのか、どちらも敗戦国からやり直した国同士。この目で、これからゆっくり学びたく思います。

2014-02-19

チョコレートの甘さの、裏側の世界の暗澹たる現実を知る。

もうとうに過ぎたのですが、バレンタインデイが流行商売として定着したのはいつ頃からなのかは私は知らない。キリスト教に疎い私にはなぜかくもこんなにクリスマスケーキやチョコレートが売れるのかは皆目理解の範囲を超えている。一言でいえばなんとも実態のないブームの中で、世の中の流れというしかない。かくいう私もその時代の空気感の中をたゆたうしかないのか、考える。

日本人はこういうことが、あまり深くは考えなくとも気にならず、楽しい感覚でお気軽に遊べる民族に私も含め変身してしまったのだろう、か。小さいころ、今のような華麗なお菓子を見たら狂喜乱舞したかもしれない。戦後、日本の子供たちがアメリカのハーシ―のチョコに群がったように。

そのような原点感覚を、頑固にいつくしみながら忘れたくはないという記憶の宝が、今を生きる私をかろうじて支えている、といっても過言ではない。時代の流れといくらずれていようと、とんと構わない。

話は変わる、いささか個人的な感情とは矛盾するが、とてもうれしいチョコレートを二人の女性から頂いた。私はそのうちきっと、血糖値が上がるのは目に見えながらも、父親の血を受け継ぎ、甘いものが好きで、なかでもチョコレートが大好きである。

がしかし、その甘いチョコレートの苦い真実を新聞で知った。西アフリカのガーナとコートジボアールの2カ国で世界のカカオの6割を生産していて、日本が輸入するカカオの8割はガーナ産とのことであり、そのカカオ農園で働いている子供たちは、低賃金、学校にも行っておらず、過酷な労働環境で働かされている記事。

子供たちのほとんどは、我々が口にする甘いチョコレートを食べたことすらない、といった真実。こういったいまだ奴隷状態で働かされ、過酷な労働の上に生産された富の大半を搾取して平然としているような、時代が日本でも世界でもいまだ公然と、平然と行われている、動かしがたい、事実には暗然とする。

知ったからには、これからは臆することなく、自分の感じることを、つたなくても書いてゆく五十鈴川だよりでありたい。こういう記事を大新聞で伝えてくれるから、読者である私はきちんと読まなければ、新聞を読む意味がないとさえ思う。世界とつながっている感覚。

経営矛盾の中でも、きちんと伝えようとしている記事をしっかり受け止める感覚を、私自身なくしてはならないと、痛感するのだ。新聞はいまだ本当にいろんなことを伝えている。読む力をなくしてはならない。

こういう記事を読んでからは、チョコの裏側に、かすかにガーナの子供たちのことを想像してしまう。ガトウショコラ、フェアトレードの本も出ていると知った。ささやかに知ることからすべては始まる。目に余る世の中のおかしな現実に関し、せっかく言論の自由活かさずして、ガーナをはじめ、世界中で労働搾取されている子供たちに申し訳がない気がする。

そういう意味では、インターネットというのはありがたい。どんなにつたなくささやかな、一滴の思いではあれ、伝わる人には伝わるのである。ささやかに感じるおかしなことには、五十鈴川だよりは、臆することなく、個人的に発言してゆきたい。




2014-02-17

岡さん、生誕のお祝いの言葉、誠にありがとう存じました。

私の生誕の翌日に書いたブログに久しぶりに、岡さんからコメントを頂きました。実名で時折コメントをくださる岡さん、他愛もない個人的五十鈴川だよりを、きちんと読んでくださるありがたき方が、おられるということ、とてもうれしく思います。それもお顔が分かっている方からの。

私のブログは、ほとんどコメントがなく、たまにあってもほとんど匿名なので、岡さんのように実名でのコメントは、やはりとてもうれしいのです。顔が見える程度のお付き合いが、私は世界のすべてだと思っているので、落ち着いて読めなくなってしまうくらい(そんなことはあり得ないのですが)万が一コメントがきたら、ブログを書くことはやめるのではないかという気がいたします。

そういう意味では、今くらいのペースでたんたんと書きつづれる自己慰安、五十鈴川だより、がいいですね。一人の方のコメントに対しての返信が、そのほかの方にも読んでもらえるような、文章がつづれるようになれたらなあ、という気がささやかにいたします。

いろり通信の時にも書いたのですが、人間は考える葦である、揺れながらも根を張る努力を続ける。世の中に出て才能なんて全くなく、ひたすら自分の感覚を頼りに生きてきました。自分を信じる力をつける、自分という器で歩いてゆくしかない。

そんな心持にたどり着いてからの(富良野塾を卒塾してから)私は、自分なりの平凡をよりどころに、今も生きています。一見激変する世の中の推移とは別に、その渦を遠くに見ながら、ささやかな自分が見つけた居場所でいきる。

このようなことを書くと、62歳にして何か達観しているかのような誤解を生むといけません。他の方はいざ知らず、私自身初めて62歳になったばかり、相変わらずいろんな出来事にアンテナの関心は動き、心は千路に乱れます。特に自分の無知さに関しては、時折ため息が出ます。

でもまあささやかに、希望の側に軸足を置く。私の好きな黒沢明監督の言葉に、【人間は前に向かってしか歩けない】
というのがあります。監督は人間の善と悪(偉大な文学や芸術はすべてそれを描いている)を見つめ続け、時代時代の渦中で作品化していますが、気分がすぐれない時には、監督の作品を見ると元気が湧いてきます。

この世とおさらばするまで、爪の垢でもあやかりたいものです。監督が遺した素晴らしい言葉を、娘の和子さんが書いておられます。宝石のような言葉ばかりですが、もうひとつだけ書きます。【恥を書いてもいからずかずか踏み込むんだ】

無知蒙昧の私、今に至るもどれだけ恥を書いて生きてきたか分かりません。世の中に出たばかりのころ、演劇学校で、とある偉い先生(今はそう思っていません)に満座の中で恥をかかされた経験があります。でもまあ、命を取られることはないのです、娘たちにも話すのですが、つまずき痛い思いをすることの中から、しっかりと何かをつかんで離さないように、身につけてゆく、そのことが肝要だと。

岡さん、お祝いのお言葉しかと受け止めました。母は命がけで私を生み、母乳があまり出なくて苦労をしたそうです。父のことは少し書いていますが、母のことは又書けるときに折々書きたく思っています。怖い父、優しい母に私は育てられました。瞼の両親です。

私の体は、私だけのものではない。



2014-02-14

62歳の誕生日を家族全員が祝ってくれました

ビニールトンネルの中で発芽してきたネギ
いちいち書くことでもないのですが、個人的自己偏愛ブログなので書きますが、昨日は私の62歳の生誕の日でした。

60歳の誕生日は遠野で迎えたのをはっきり覚えています。2日ほど大槌町で瓦礫の撤去をし、その中で今後のことをゆっくり考えた日々を。

あれからまたたく間に2年間が過ぎましたが、あの日心の中でやんわりと考えたことを、その後なんとかこの2年間実践しながら生きてきたように思います。

昨日も書きましたが、人生をリセットしようと思ったのです。もちろんこれまでの歩みの上での、新しいリセット。あらゆる、関係性を見直して、これからの人生時間を、可能な限り自分に素直に、再構築できるものなら、やってみたいと、今も考え続けているのです。

だからなのだと思います、農の仕事に巡り合えたのも。親としての仕事にほぼめどがついた今、経済的なことはとともかく、生きがいを保てる、晩年ライフを送るために必要なことは、繰り返しここに書かなくてもおのずと、浮かび上がってくる気が、私はします。

大人ならば、それくらいのことは、一人で十分に出来る覚悟が、備わっているのが普通だと思いますが、私が普通に思うことがなかなかにできない。子供じみた大人がわんさかいるように感じられるのです。(そのような大人がはびこる今、一部の若い人たちの方がとても新鮮です)

だから、、私はそういう大人がいるところには、この5,6年トンと出かけなくなりました。命は有限です、できるだけ波動の合う人たちと暮らしたいのです。この年になると、命の不思議には若いころよりずっと敏感です。いろんなことに対して気づくのも、きっとどこかに余裕があるからなのだと、自分では思います。

ささやかな思いの発露を、こうやって書きつづるひとときが送れるということひとつとっても、新鮮な心持の今を生きているという証左なのかもしれないという気がします。自己満足的ではあれ、自分あっての世界なのですから。そういう共通感覚が何とはなしに通じ合える関係性こそが、私にとってはかけがえのないものです。

ともあれ、この世に送り出され62年間、生きているそのことに関して、今は亡き両親に一番感謝しています。

昨夜は、母、妻、次女が私の生誕を祝ってくれ、東京で働いている長女からも電話がありました。妻と娘たちからは、冬の農に使う、必須アイテムの品々をプレゼントされました。まずは足元が満たされていないと、いい仕事はできません。

家族あっての私です。生誕の日は、普段はあまり意識しないことを、きちんと深く確認する又とない日です。


2014-02-12

育苗ビニールトンネルが雪の重みでへしゃげたのをN氏とともに修復しました

育苗のトンネルを直すN氏
ネギの苗を育てているビニールのトンネルが雪の重みでへしゃげてしまい、昨日は3日ぶりに畑でそれを修復するための作業をし、96枚のパレットの苗を、修復したトンネルの列に運んだ、N氏とともに。

今のところ、5列に苗を運んだ状態、まだ15列残っているので、発芽させては、運ぶ作業が暖かくなるまで続く。何せやったことがないい事ばかりをやっているので、いろんなことを学んでいる。とにもかくにも畑で一シーズン過ごせれば、サンナンの目指している農業が少しは私の体の中で、理解可能になるだろう。

それにしても、氷化した雪、解けた水で、畑がぬかるむ中を、悪戦苦闘、なんとか夕方ある程度の、めどをつけた。農業は体力がないと、まず絶対無理である。そのことをあらためて認識したが、さほど苦もなく、やり続ける気力体力が自分の中にあることが、認識確認できた。

おちおちうかうか、ほんとぼけてなんかいられないのである。おそらくはこのような無意識本能状態の中で、先人たちは余計なことを考える前に身体を動かしていたのだろう。手先足先が冷たくかじかみ、なかなかに大変なのだが、私とN氏のコンビは相性抜群、バカなことを次々と言い放ちながら、ことをこなしてゆく。

まさに、苦楽を共にする仲間としての時間が静かに流れてゆく。人間が本当に仲良くなるためには、苦楽を共にすることの中でしか、ありえ得ないのではないかという気が私にはいたします。
真夏と真冬が季節的にはしんどいのでしょうが、この季節を乗り切れば、私のような単細胞はアウトドアで元気に身体を動かす農の仕事はこたええられません。

家に戻り、冷え切った体を湯に横たえるときの、なんとも言えない、頭すっからかんの喜びは、たとえようもありません。N氏も同様で、話が盛り上がります。おおよそこの5カ月、二人での畑時間を過ごすことが、家族より多いので、畑友達感覚が育ってきました。相棒あればこそです。

N氏は、いろんな御苦労をしてきた、これまでの人生のヒトとしての襞のようなものが、私には感じられ、人間として実に味があります。全く私とは対照的な人生経験の持ち主ですが、私が苦手なことが得意なので、相棒としていろんなことが学べるのです。

還暦後は、可能なら全くやったことのない世界を経験しながら、老いてゆく自分に、新しい刺激を与え、晩年を元気に楽しく過ごすためには、何をしたらいいのか模索しています。今日もこれからN氏と一日を畑で過ごしますが、その積み重ねの中で、何が見えてくるのかが楽しみです。



2014-02-11

無題、建国記念日の朝におもう。

先日初めて行った姫路城
この10日間くらいに書いたブログでさえ、限られた時間でいろんなことを書いていて、時折虚空に向かって書いているかのような心持になることがあります。

父は、敗戦後借金して畑地を買い家を建て、新生活を始めました。その家で、新たに3人の子供に恵まれ、我が兄弟姉妹は、5人となりました。私が小学生の高学年から、高校生くらいにかけてが、我が家の家計が最も苦しかったのであろうことが、たった二人の子供を育ててみて、身にしみて分かります。

一体いつ頃、家の借金を払い終えたのかは、18歳で世の中に出た私にはわかりません。両親はお金のことを家の中でほとんど口にすることはありませんでしたが、子供心に家計が苦しいことはよく感じていました。祖父母も共に暮らしていましたから、今とは比較にならないくらいのにぎやかさでした。

私も兄たちのお下がりを着て育ったのですが、小さい頃はそんな両親の苦労も知らず、わがままを言って困らせたものです。しかし、小学校に行くようになると、私よりも貧しい身なりの子供がもっといて、そのことは今に至るも鮮明な記憶として、残っています。男4兄弟、川の字になって寝ていました。お金はなかったのですが、兄や弟とあらゆる工夫をして遊んだ黄金期の少年時代が、思い返すと宝です。原風景の川や海には、ごみひとつなく、ヒトの心も澄んでいました。のんびりしていました。

年を積むと、他の方は知りませんが、私の場合はしきりと昔のことが思い出されます。そしてその記憶は、経済的にはまずしくはあるのですが、飢えてはおらず、皆が生き生きとしいていて、いさかいも多かったにもかかわらず、今思い返すに幸せな記憶として我が脳裡に、大事にしまいこまれているのです。

私は4番目、一番上の姉が女、後は男です。姉は今年が古希だと思います。お正月に全員がひとつ年をとり、各自の誕生日を祝うなんてことはありませんでした。おそらくほとんどの家庭がそのような、苦しき生活の中、必死でやりくりしていたのでしょう。あれから半世紀。全く浦島太郎のように生活環境は激変し、世の中に出た私は、自分で選んだとはいえ、木の葉のように落ち着かない生活を強いられながらも、なんとか泳いで、今を生きています。

父はとにかく質素に、身の丈に合うような暮らしを心懸けていましたから、その両親の生き方は多分に私にも受け継がれています。何はなくとも、ヒトと比較せず、つましく足るを知る生活を続けたからこそ、なんとか生きてこられたという実感が私にはあります。

少年時代に還ることはかないませんが、あの頃の生活の、豊かさではなく、良さみたいなものが
しきりに思い出され、懐かしいのは、私がひとえに過去を美化しているのかもしれませんが、あながちそうも言えないのではないかという気がしています。

質素に楽しく暮らすことの中から、見えてくるものがあります。今現在も私は自分でいうのももなんですが限りなく質素に暮らすことの中から、見つけられること、見えてくることを探しています。でなければ現代社会は、途方もなく物や金に縛り付けられる、構造になっているからです。その呪縛から逃れるためには、どうしいたらいいのかを、おのおの各自がきちんと考える力を身につけなければ、と考えます。なぜかくも、おれおれ詐欺にあう人が後を絶たないのか。

母のことをしきりに最近何度もブログで書いていますが、自分のことにはほとんどお金を使わず、ひたすら、娘や、孫、そして婿である私にまで、ささやかに貯蓄したお金を惜しまず、与えるその形容しがたい心の豊かさには脱帽します。身近にいる母をお手本にして、今後はこのように生きてゆけばいいと思っています。

母を見ていると余分なことは考えず、天命を受け入れ、編み物、お裁縫、菜園作りと、まったくと言っていいほどお金がかからない生活を、他者の手を煩わせず、80歳になる今も元気に過ごしています。私の記憶する少年期、このような日本人を私は多く見ました。母はよく笑います、身の丈に応じて有効に、愛する者のために使う、愛が見つけられた人は怖いものは何のではないかと母を見ていて、感じます。

2014-02-10

東京都知事の選挙結果に思う

今朝の新聞の一面は、東京都の選挙結果である。もう間もなく福島原発事故から、3年を迎えようとしているが、この結果に関しては、予想通りなので私自身はこれが現実だと受け止めている。

私の生活の範囲で出会う人で、原発や核問題に関して、我がことのように受け止めて話をする人は皆無である。かくいう私も、皮膚感覚でとらえているかという次元まで、問題を深く真摯に考えているかというと、やはり頭でしか考えられないという、想像力的範疇での限界を生きている。

一票の重み、大人、個人に与えられている権利を放棄し、選挙に行かないヒトの唖然とする多さ、もっといえば、成熟した大人の(いろんな考えがあっていい)なんと少なくなってしまった、国民の多さには、いささか暗然とする。

ドイツでは核や原発に関して、国民の意識が以前から高かったので、福島の原発事故が起きた時に、国民の総意であっという間に脱原発に向かったといういきさつを知った。チェルノブイリからの放射能の雨はヨーロッパ全土に及んでも、国民がいろんな問題を我がことのようにある種受け止め考える力、感覚を、忘れず持続し続けていたからだろうと思う。

日本をはじめとする多くのいわゆる先進国(何を指して先進国、というのかにも私はかなりの疑問を持っている)は、いまだ経済優先で、核のゴミの処理施設もないのに、この奇跡の惑星を、汚染し続ける。このことに関して、何の痛みも伴わない感覚の持ち主たちが、駆け引きしながら、まあ、世界を動かし続けている、といった構図が透けて見える。

無知蒙昧、一庶民の私のささやかな認識である。経済音痴の私にはまったく理解ができないが、株価の上下に一喜一憂、豪奢なビルや一部の広大な大邸宅が、存在しても私個人は、関係ないが、意味なく突然他者の生活を脅かしたり、このかけがえのない惑星を汚染し、末代まで生き物の安全、生命(命がこんなに軽んぜられるとは)を脅かす、核物質を生みだす原子力発電を、個人的に私は受け入れることはできない。

なにはなくとも、世界は命があってこそ、感じとれるものでしかない。それは地球上に今存在する全人類にあまねく与えられている。70億分の一、私もその一人である。

以前も書いたが、私の苦手な言葉に仕方がない、という言葉がある。仕方がないとは、考えることを放棄するということと同義である。こういう人が増えれば増えるほど、選挙に行かない人も増えるのは、道理である。

感謝しありがたいと骨身にしみて感じる世代が、年々減るにしたがって、選挙に行かない人たちが増えてゆくよな気が個人的にする。無力感仕方ない感覚が全身に行き渡る。支配者にとってこれほどありがたいことはないのではないかという気がする。

私は政治的なことにはできるだけ遠く、特定の思想信条は持たない、きわめてノンシャランな生き方をしている、一庶民にすぎない。だが繰り返すが、理不尽、不条理に思えることに関しては、一個人として、ブログを通じてでも発言してゆきたい。

万が一起きてしまったら、制御しきれないお化けのおような原発に頼るより、ささやかでも安全なエネルギーが津々浦々にあふれるような国づくりを目指した方が、単純に楽しいではないかと、浅薄な私は考える。複雑に文章を書いたり、難しく物事を考えたりする愚は、そろそろもう卒業したい。

単純に愚直に考え行動する。時間が来たので今朝のブログは終了。今日はこれから山陽カルチャープラザで、素敵な今を生きる女性と二人で、静かにシェイクスピアの冬物語を読む。



2014-02-09

妻が、コンパクトな新しい車をプレゼントしてくれました、そして思う。

雪がまだ車のフロントガラスと屋根に残っている、先ほど湯たんぽのお湯をフロントガラスにかけてみたが、しんしんと冷えていて、氷化していて全然解けなかった。なんとか前方が見えるようにフロントの雪を溶かし、アルバイトに出かける次女を、雪道恐る恐る駅まで送っていった。

いつも書いているが、休日の朝は格別ゆったりと時間を気にすることなく、文章が紡げるのでことのほか嬉しい。さて、この間の5日は、亡き父の命日だった。遊声塾の日でブログを書くことはなかったが、静かに手を合わせた。父はソウル師範学校を卒業している(跡地は今のソウル大学)、雪が降る寒い季節、私は青年期父が過ごしたソウルに無性に行きたくなる。何故かは分かりません。

話は変わるが、父の命日の前日、妻が私に新しい小さな車を【中古車です、私は新車を買ったことはない】買ってくれました。以前の車は8年、15万キロ近く乗り、相当に我慢に我慢を重ねてきたのですが、長女が巣立ち、私の本格的な晩年の出発へのプレゼントとして、ありがたく受け止めています。

インターネットで、妻があれやこれやと、知恵を絞り、奈良から販売店の方が、運転して新しい車が届き、古い車はまたその方が運転して帰られました。まだ、3日しか乗っていないのですが、妻や母と、ちょっと遠出するには十分なので気に行っています。

妻は、私とはあらゆる点で性格が異なり、よくもまあ共に、こんな私と28年間も暮らしてくれていると感謝の言葉しかありません。のろけでもなんでもなく同居人としての妻を、私はいまだ時折不思議な感覚で見つめざるをえないのです。私は妻の前でだけはお恥ずかしきことの数々を、臆面もなくさらけ出しています。

妻は、私が夫としての最低限のつとめをはたしている限り、私のやる、すること(領域関して)は、ほとんど理解が及ばなくても足を踏み込んではきません。私も彼女のやることには足を踏み込むことはいたしません。だからであろうと思うのです、苦にならないのは。

もう知りあって、28年なるのですが、子育て、家族に関しての母性的愛情は、男の私には到底理解の範囲の及ぶべきもない深さで、親としての責任感の強さには感心を通り越して感嘆します。まだ式を挙げていない義理の息子になる、レイ君に対しても同様です。

家族とは何か、時折私のような朴念仁も、たまさか考えないこともないのですが、愛情の源泉といいますか、湧き出ずる根元はどこから出てくるのか、頭でっかちになりがちな、男の私には、ときおり永遠の謎のようにさえ思えます。

今、彼女にとっては、愛犬のメルが家族の一員として大きな存在なのですが、メルに対する愛情の深さも、私の理解の及ぶ範囲を超えています。彼女の家族というものに対する愛情の深さというものは、植物に関してもあまねく眼が注がれていて、身近なヒトやモノに対する情の深さ、大胆さは、時として、何度も私を驚かせます。自分のことよりまず、家族のことを優先する、態度。

それを、私は妻の最大の長所であると受け止めています。最も身近な他者に対して、まず一番愛情を注ぐという生き方は、私にもゆっくりと浸透してきているという感じです。夢が原から解放され、余裕ができ妻との時間は少しずつ増えています。いよいよこれからの夫婦時間を、老いることも含めていかに過ごしてゆくのかを、人生の新しい時間の楽しみとして考え続けたく思うのです。

2014-02-08

雪に頂いた、至福の朝。

昨夜から降り始めた雪が、どれほど積もっているのかを確認するために、先ほど外に出て、ほんの少しの時間雪の中で、たたずんだ。こんなことは雪国にでも出かけない限り無理なので、しばし少年に還った。

年齢を忘れ、こんな悠長なことを雪国でやっている人は、まずいないだろう。夜明けに、西大寺でさらさらとした雪が降っているのを体験するのは初めて、記憶がない。カーテンを開けると雪化粧した庭が見える。その上にまた、雪降りつもる。なんともはや、おつな、たまさかのひとときである。

世の中が始動する前の、静かな時間しんしんと降りつもる雪は、私のような凡人でも、しばし詩人的な思いにいざなわれる。こういう感覚も、めったに起きないことだからだとは思うが、雪に閉ざされる国ぐにの人々にとっては、何とのんきな戯言と、お叱りを受けるに違いない。

しかし、南国生まれの私にとっては、雪はたまに降るからこそ、素晴らしいというしかない。故郷日向で少年期、雪が降ってくると、風の又三郎的な感じになったかのように、心がざわめいた記憶が残っていて、それが初老になっても残っていることに、われながら戸惑う。

こんなちょっぴり恥ずかしき、いい年をして感覚が、いまだ抜けないということに関しては、今しばらくの間抜けないいでもらいたいというような、淡い少年期的感覚が、私にはある。口に出すことは、恥ずかしくても、文章ならかける。

これが言葉を紡ぐことの楽しさである。多分に戯言感覚が楽しめるということ、言葉が呼び水になり、言葉が次々に生まれてゆくという連鎖で遊んでいるうちに、心が少年に還ってゆくというしかない。遊ぶということは何にもまして、心が軽くなる。

本質的に遊ぶことにはそんなにお金など要らなかったはずなのに、現代人はお金がないと、生きられないかのような、強迫観念に身も心もかすめ取られているのではないかという気がしてならない。かくいう私だって、お金がないと現代社会では生きられないのだが、あまりお金に侵食されない精神世界に、しばしたゆたいたいとの思いを、常日頃から心懸けるようには、している。

じっとして思いを巡らす、すると不思議なことに、空っぽの自分が実に気持ちがいい。身も心も軽くなる。やりたいことが、スムースに流れだす、緩急自在に、今現在を確認する。TVをはじめとする、間接情報ではなく、自分自身の身体が発する第一次情報に耳を澄ます感覚を、取り戻すことが大事だという気が、私はことのほかする。情報を一面的にうのみにしない。

さもないと、一生情報に踊らされるような、慌ただしき人生をただ生きるという、味気ないことになってしまうのではないかという気が私にはする。世の中は、これからしばしオリンピック狂騒報道(オリンピックを否定しているのではありません)が続くのでしょうが、フールオンザヒル、の感覚で私は世の中の推移を、眺めている。

それが私にとって、気持ちがいいからそうしているだけである。雪で仕事はお休み、こういう雪のおかげの日は、昔時間に還る。普段できないことができる、至福のひとときとなる。

2014-02-06

土取利行さんが唄う、添田唖蝉坊・知道親子の明治大正時代演歌を姫路まで聴きに行きました。

先週の日曜日、午後3時から姫路で行われた、土取り利行さんの弾き唄い、添田唖蝉坊・知道を演歌する、日本のうたよどこいった、を聴きに行きました。

土取りさんの唄を聴くのは、一昨年秋,自分岡山で企画して以来である。明治大正の添田唖蝉坊・知道、親子が近代突入激動というしかない時代に遺した300曲にも及ぶ、貴重というしかない演歌のルーツを蘇らせ、生き返らせ今現代を激しく問う、前人未到の世界に果敢に一人取り組む、音楽家としての姿勢には感嘆する。

ラジオやレコードがない時代、地底深くに眠る、歴史の表には出てこない民衆世界の思いや叫びの真実を、アカペラで路上で直接唄っていた、添田唖蝉坊という天衣無縫の天才がいたということを、土取りさんの仕事で初めて本格的に知ったのは数年前のことである。

私は土取りさんが取り組んでいる多面的なお仕事の、わずかな理解の及ぶ範囲での関係でしかないが、遠くから眺めていて感じ入るのは、これと決めたらどんなに困難な道でも、歩みを止めない、その自分の信ずる芸術世界に殉ずる真摯な姿である。

縁あって出会い、35年間の淡いお付き合いの今に至るも、その比類なき姿勢に、私はことのほかうたれる。先日のライブ会場でで、2枚目の演歌のCDを求め今聴いているが、ますますラディカルに明治の壮士演歌を今、この現代に唄い伝え、疑問を投げかける姿勢には、脱帽する。この民主主義存亡の危機の時代に。

土取りさんは、2月末から、世界的な演劇人、89歳の今に至るも人間の本質を演劇的に探究するまれな芸術家、ピーター・ブルックとのお仕事で渡仏する。一年以上は日本に帰ってこられなくなる前の、邦楽番外地ライブ。とりあえず、2月9日の両国のシアターXでの公演でしばし、土取りさんの演歌のライブは聴けなくなる。

そんなこともあって、姫路まで聴きに出かけたのだが、出かけて心からよかったと思っている。平均30歳くらいの他に仕事を持つ、男女の・播州びいき・というグループが企画した、本当にjこじんまりとした手作りの音楽会、やはり若いということは何をおいても素晴らしい。

若い方たちが、土取りさんを仕事ではなく自主企画する、このような時代が訪れていることが、ことのほか嬉しかった。そのことが終えてからの打ち上げにまで私を参加させた。久しぶりに息子たちのような年代の方たちと談論風発、会話が弾んだ。楽しかった。

結果私は最終の新幹線で帰ることになったが、2次会の場所から夜道を駅まで歩く私を、二人の若者が共に駅まで同行してくれた。

姫路に何か、たくさんの息子ができたような感じ。土取りさんも若い方たちが自主企画した今回のイベント、心から嬉しそうだった。メンバーの若いお父さんが小さな女の子を二人連れてきていて、打ち上げ会場にも共に来ていた。我が家の娘たちの小さいころを思い出した。そのお子さんと土取りさんが、一次会のが終わり外に出るとき、階段でお話ししいているのを、たまたま目撃したのだが、それはなんとも微笑ましい光景だった。

五十鈴川だよりを開かれた方は、是非土取利行さんのHPを開いてほしい。

2014-02-02

今朝はこのようなへんてこりんなブログになってしまいました

以前も書いた気がしますが、敗戦後アメリカによる占領政策が終わり、再び独立日本国となった、1952年に生まれた私にとって、この今も続くこの間の歴史的時間といいますか、時の流れに、時折意味もなく茫然とすることがあります。栄枯盛衰。

今という渦中にいて、日々めまぐるしく起きては流れゆくあらゆる事象に、どこか冷めた目で眺めてしまうかのような感覚が、年を積むともに深まってゆく、無常観的塩梅。世の移り変わり、自分も含めての、ヒトの心の有為転変は、いかんともしがたく為すすべがなきかのような。

自分自身でも判然としないが、身体全部で何かが呼ぶ感覚に、耳を傾け続けてゆくこと、くらいにしか今は書くことができないが、あきらめてはいない。退職し、本格的に新たな仕事に関わり、娘が結婚するという個人的にいろんなことが変化してゆく、節目の年。

このようなな年は、じっくり落ち着いて、世の流れにアンテナは立てながらも、静謐な暮らしを心懸けたいと、思っている。若いころから、浮足立ち自分自身に何度も絶望しかけたのだが、その都度いろんな方や、眼に見えない何かに助けられながら、自分自身に絶望する愚かさを一日でも先延ばししながら、自分の中に希望を持ち続けることを、生きがいにしてなんとか歩んできた。

そのことは今に至るも変わらない。変わらない日々の営みあればこそ、今もこうやって元気にブログを書いているのだと思う。いきなり話は夢のお話、以前は夢を見てもすぐに忘れていたが、最近夢を以前よりよく見るようになってきている。起きてもしばらくは記憶していたりして、妻に見た夢の話をしたりすることもある。

シェイクスピアに、私が惹かれる理由はたくさんあるのだが、夢についての記述が多いこともそのひとつである。寝ている間に見る夢も夢だが、意識が起きている間にも、人間は空想し夢を見る生き物であると思う。私など夢を見る力がなかったら、とうの昔にこの世におさらばしていたかもしれない。

他愛もない夢を紡ぐ癖のようなものを、自分の中に育てる営為をかすかに続ける中で、いろんな国ぐにを旅したり、企画の夢を実現することができた。そして、今またささやかにこれまでとは異なる、農の世界で、土まみれになりながら、希望エネルギーの夢を地味に見つけてゆく自分が育ってきている。

自分自身の中の閉塞感は、先人たちを見習って、これまでも自分で破ってきた。健康で元気であれば、人間の可能性(小さき幸せ)はいいたるところに発見できる。世の中の流れは、悲観的な相貌をみせ続けようとも、自分まで世の中の流れに身を任せる愚は、ごめんである。

世の片隅で、じっと春を待つ名もなき草花のように、そっと生を全うすることこそ肝要なことであると最近私は考える。イデオロギーも宗教も、人間界とは無縁の豊かな大いなるものに抱かれて。

2014-02-01

一月最後の日、ポカポカ陽気の中、終日畑の雑草をとりました。

気がつけば早2月といった塩梅、例年一月二月の寒い季節は、何とはなしに私の場合精神的には冬眠しているような感じで過ごすのが理想です。あまりどこにも出かけず、ひたすらじっと耐えながら、静かに春の訪れを待つ。

この季節は、家族の生誕と命日が、交互にやってくるということもあって、個人的には家で静かに、故人に思いをはせたり、ささやかに祝ったりすることにしている。

さて、農の仕事はほとんどを外で過ごします。まあ夢が原の時からもそうですが、いやでも季節の移り変わりや、ひびの移ろいに敏感になる、そのように感じます。かすかにかすかに日が長くなってくるのが、日差しが強くなってくるのが体でじかに感じられます。

いかに体が、自然と不即不離の関係で成り立っているのかが体感できます。お天気に体は一喜一憂します。私は名前もそうですが、お陽様が出てくると、単純に元気が出てきます。そういう意味で昨日はまるで春が来たかのような暖かさの中で、終日寒さを忘れ畑で気持ちよく働くことができました。

雨の翌日は、トラクターは畑に入ることができないので、他のことをするのですが、農の仕事はやろうと思えば、無限にやらねばならぬことがあります。要はやるべきことを自分で見つけられるかどうか、です。昨日は暖かくなってくるに従ってネギの畝の間に伸びてくる難敵の雑草を鍬と手で抜いたりする除去作業を、終日やりました。

これは本当に地味な作業で、若い人にはなかなかにいろんな意味で、大変な作業かもしれないという気はしますが、(本当はそうでもないのですが)私くらいの年齢で、体を動かすということをずっとやってきた人であれば、なんとはなしにのらりくらり、軟体動物にでもなったかのような感じで続けてゆくのがこつで、私は楽しめます。

鍬を一人前に扱えるようになりたいという思いが私にはあります。六一歳の手習いというわけで、とにかく鍬を持ち続け鍬と体が一体化するように集中する。台詞を覚えるように、ひたすら繰り返す。それしかない、集中していると、時は知らぬ間に流れます。

気がつくとずいぶん畝がきれいになっています。それの永遠の繰り返しの中での実りを、大地から頂く、それが農の仕事だと思います。腰が痛くなったら、少々の骨休め、そして昔の人たちは厳しい仕事をしながら唄を口ずさんでいたのでしょう。

機械化されるに従って、仕事が楽になるに従って、人々は歌を歌うことを忘れたのでしょう。歌を忘れたカナリアは、やがてどんな運命をたどるのかを書くことは、野暮な気がします。ただ便利な暮らしをしながらの、不便な暮らしとの共存、バランスをとる、新しいライフスタイルを、自分の暮らしの中に構築する。これが肝要だと私は思っています。