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2012-11-29

11月29日の朝に思う


この一年、夢が原のことは、ほとんど触れておりませんが。来年の春からは新たな人生を生きることになりますし、頭の中の意識を変えたいということもあります。通勤生活も余すところ、お正月を挟みあと4カ月となりました。週に4日を噛みしめるように働いています。

 

18歳、上京する時から、何かを決断する際、どんな境遇になろうとも、けっして後悔しないように生きてきました。二十歳の時、いちど日本を外から見てみたいと思ったこと、(自費留学なので、アルバイトに明け暮れ実現するまで、5年かかりました)帰って、27歳で文学座を受けた時。31歳で富良野塾に行ったとき。34歳でアフリカに行ったとき。40歳で夢が原を受けた時など。

 

この21年間は、右往左往してきた私の人生から見れば、めずらしく一か所に落ち着いた、充実した時間が送れた(いまはまだ振り返ることはしませんが)ことは、かえすがえすも幸運なことであったと、実感します。それまで、夢多き多くの時間を生きてきた私に、中世(夢が原)という名前の職場が与えられたのですから。

 

この21年間、朝起きるのがつらい日はあっても、職場にゆきたくないと思ったことは一度もありません。それほどまでに、夢が原は私には合っていた、初めての職場でした。21年間、我ながらよく通ったと思いますし、壮年期をこんなにも充実して過ごせたことは、今後、いよいよ晩年ライフを生きてゆく上で、限りなく豊かな、土壌を私の中にもたらしてくれたという実感が私の中にあります。

 

だからこそ、私は夢が原を卒業し、次のステップに足を踏み出したいという、決断をしたのだと思います。

何事にも、自分にしか感知しえない潮時というものが、あるのだということしか今は言えません。

 

決断したら、振り返らずこれまで通り、前を向いて歩むしかありません。いつも一人で決めてきました。そんな私の生き方を、幸せなことにわずかな方ではありますが、見守って支えてくださいました。感謝の一年しかありません。だからこそ、私は還暦まで生き延びることができたのです。

 

今後も私に与えられた時間を、大切に生きてゆく、極めて当たり前のことを、私なりに普通に過してゆくということの思いしか今はありません。良寛さんのように、あるがままの寿命というものを、見据えながら、私ごときながら、日々を送れる喜びを見つけてゆきたく思います。

 

性格的なDNAは不変なのかもしれませんが、可能なら根本的にライフスタイルを変えてゆきたいという念いが私の中に起こっています。いうにいわれぬ湧きあがる思いというのは、つまりは生きているからしか起こり得ないのですから。

 

こんなことを書くつもりでは全くなかったのですが、休日の朝パソコンを開いたら、こんなブログになってしまいました。人間という生き物(私のことです)はまったくもって自分の思い通りにはならない、やっかいな存在です。娘が起きてきました。メルの声、妻の声が聞こえてきます。一日の始まりです。

 

 

 

 

 

 
添田唖蝉坊が在りし日訪ねた玉島の羽黒神社

2012-11-28

邦楽番外地・無事に終わりました


晩秋、静けさと寒さの中、禅宗の円通寺に、邦楽番外地、添田唖蝉坊の歌の世界を、土取利行さんが年齢を超越し、まるで唖蝉坊が憑依したかのように、沸々とたぎるかのような、澄んだ唄声が響き渡りました。唄う人も聴く人も、何か別世界にいるかのような音楽会を企画者として、体感し見届けました。全くコンサートではない、魂に触れる唄声の会。

 

思いがけない、限りなく即興に近い、一期一会の玉島ならではの、唖蝉坊と土取さんが結びついた音楽会が終わってから、3日目の朝です。正直、いまもなにも書く気が起きないのはどういうわけなのか自分でもよくわからないのです、がとにかくやれた、無事に終わったという安堵感がいまだに身体を覆っている感じが、抜けないのです。

 

9月、11月と、2回の邦楽番外地に、企画者としてほとんどの乏しいエネルギーを注ぎ込んだ一年が、またたく間に過ぎた歳月として、還暦という一年は転機の一年として、邦楽番外地しか、企画しなかった歳として、深く刻まれることになりました。

 

四十歳から企画者として再出発して21年目、ようやっとこんな企画ができるようになったのだという、ある種の極めて個人的な感慨にどうしてもおそわれてしまうのです。このような企画に足を運んでくださる方が(とてつもなく忙しく、あらゆる行事や、催しがひしめいているなにがなんだかよくわからない、わかろうともしない混迷の現代に)いるのだろうかという、ある種の覚悟がいる企画がやれたこと。

 

薄氷を踏むような、というしかない、限りなく時代の流れに沿わないような企画に対して、きちんと足を運んでくださる方々が、おられたことにたいする嬉しさや感謝の念は、企画者にしかわからないものがあります。とにかく一日でも早く、来られた方々にこの場を借りて深く感謝をお伝えしたく、ブログを書いています。

 

当日、受付やそのほか、こまごまとした細かいことに、手伝ってボランティアして下さった、親友のK氏や新しい仲間といえるIさんや、Kさん。音響のYさん、私の妻。本当にありがとうございました。最小のスタッフ。禅宗のお寺にふさわしい裏方でした。全く無駄がなかった。

 

あらゆる意味で、ギリギリの企画でしたが、新しい地平を切り開けるような展望が私の中に育ってきているかすかな予感がしています。ギリギリの中でやれることの豊かさを知りました。ギリギリの中でしか見えてこない、もの、こと、が少し、見えました。

 

土取さんと出会って35年、たまたま11月25日は、私が18歳で上京した歳、三島由紀夫氏が自決した日でした。あの日のことは鮮烈に記憶しています。あれから42年です。

 

 
翌日雨・郡上八幡帰る前・珍しい二人だけの写真
 

2012-11-25

邦楽番外地本番の朝に思う

つい今しがた撮った朝日を浴びる干し柿

邦楽番外地、本番の朝です。昨夜は土取さんや、土取さんと共に、立光(りゅうこう)学舎を支えるI君、神奈川から急きょ、ボランティアにかけつけて来てくれた、親友のK氏、それから、遊心塾の女性二人、そして私の6人で夕食を共にし、普段よりは遅く寝たのだが、普段通りにやはり眼がさめてしまった。

 

緩やかに外が白みつつある。天気は良さそうである。一日の始まりの朝の静けさは、何度も書いているが、毎回新鮮に感じられる。とりたてて書くこともないのだが、書き癖のような物かもしれないが、子供のような内なるものの怪が騒ぐのである。

 

昨日、円通寺を土取さんと共に訪ね、御住職に本堂を案内していただいたのだが、ここで唖蝉坊の歌を土取さんが唄っている姿を想像すると、企画者にしか感じ得ないものが湧いてきた。紅葉もほぼ終わりの円通寺は、なんとも言えない静けさに満ちていた。

 

今日どれだけの方が、足を運んでくださるのかはわからないが、ともかく採算のことより、無事に本番がすむように、ただただ静かに祈る、朝の今の私の気持ちだ。おそらくきっと数ではなく、宝石のような感性の方々が足を運んでくださるに違いない。その方々の気持ちが、円通寺の本堂に満ちる時、静かに土取さんの歌声が響くはずだ。

 

企画者とは何かを、これからも考え続け、自分自身が中芯からやりたい企画を、修め往きたい願う朝です。

 

 

2012-11-24

円通寺に土取りさんの演歌が響きます


いよいよおそらく、還暦最後の私にとっての大きな企画なるであろう、土取利行さんによる、邦楽番外地の独演会が明日に迫った。土取さんは今日の午後から岡山に入り、とにかく先ず円通寺を訪ねることにしている。

 

いつの日か、ゆっくり振り返ることがあるとしたら、この一年はやはり特別な一年を生きた年として、深く刻まれるようになると思う。土取さんとお付き合いする中で、添田唖蝉坊・知道という、明治大正期の未知の唄の世界を知り、良寛さんが修業をした円通寺を(唄を唄わなくなった)唖蝉坊が四国のお遍路の帰りに円通寺を訪ねていることから、今回の公演を企画する運びとなった。

 

機縁運命、何かの流れの中に自分は生かされているという思いが、ようやっと少しは深く感じられる還暦にこのような、自分にとってとても大きな意味の在る企画ができるということは何かの巡り合わせということを感じてしまうのだ。

 

いい年にして、パンを得るのに忙しく、不勉強の私が遅ればせながら、良寛さんの世界を少しかじり始めたのは最近だ。日本のいわゆる、夏目漱石をはじめとするそうそうたる知識人に、多大な影響を与え続けている、良寛という希有な時代が生んだ禅僧の存在は、これをきっかけにして、私ごときにも何かの影響を与えてくださるような予感が生まれはじめている。

 

来年から、本格的に還る世界に分けいってゆく私としては、老いてゆく中での滋養のように染み入ってゆく豊かさを一滴でも感じながら、激動の時代を生きた偉大な先人に学びたいという気持ちが湧いてきつつあるのだ。

 

何故かなりのエネルギーと時間を割いて、企画をするのかという根源的な自分自身に対する問いは、年齢を重ねるにつれて深まっている。それは現代を生きている自分自身が、日本について、日本の歴史についてあまりにも、無知蒙昧であるということに関しての自覚の深まりである。

 

知らねば何事も前には進まないのだ。謙虚に知るということの重みが、乏しい能力の肩にいささか、過重にかかっているのを感じながらも、その感じる何かにすがりつつ、時の流れの中で、邦楽番外地も企画しているわけです。

 

 

 

 
二月岩手県大槌町でがれきの撤去作業

2012-11-22

私に内省を迫る藤原新也さんのブログ


起きて先ほど、藤原新也さんのWMのブログを読んだら、石原慎太郎がベトナム戦争の取材に行った折、安全地帯の南ベトナムの米軍側から大砲を北ベトナム側に向かって、アメリカの副隊長から打ってみるかといわれ、そばにいたこれまた若き石川文洋カメラマン(氏は本物)が、貴方は打つべきではないと、止められるエピソードを初めて知った。たまたま砲撃中止命令が出て、打つことはなかったらしいのだが、自分は戦争の最前線にもいったことがなく、安全地帯から、物見遊山的な取材しかせず、戦争ごっこを楽しむかのような感性の持ち主が、国政の場に躍り出てまたもや暴走危険老人になろうかと画策している姿を、藤原新也氏は深く憂えている。

 

ことほど左様に、ほんとうに物事を冷静に判断し、深く考える力を、一人一人の庶民がしっかりと持たないと、流される。(もう流されきっている気もしている)日本というわれわれの国の指導者を選ぶ(人材の枯渇という国の不幸)ということに関し絶望的な気分になる。本当に危なっかしい国になりつつあるというのが、偽らざる私の認識だ。私は政治的なことや、経済的なこと、法律や制度システムに関してははなはだ、弱い人生を歩んできた。それでもこの国の国民のひとりとして生活しながら、それなりの関心は持って生きているのだが、自分は安全な側にいながら、無責任になにもしない(考えもしない、学びもしない)国民性というものは、年々いかんともしがたく増えてきているのではないかというのが、哀しいけれども(自分のことはさておき、書かせて頂きますが)私の認識だ。

 

なんとかなるだろう、誰かがなんとかしてくれるだろう、なんて時代はとうの昔に終わっているのだというのが、私の認識だ。だからということもないのだが、私は50代に入り、流行りの癒しの音楽や、口当たりのいい企画はほとんど、企画する気が起きなくなってきた。時代を深くとらえ、庶民に支持され、(されなくても)歴史の荒波に耐えてきた芸術や芸能、貧血企画者にならないように、先ず自分自身が元気を頂ける(学ぶ)ような企画をしてきた。

 

私ごときの企画に足を運んでくださるような、お客様に出会いたいという一念が、私の大きな原動力なのだ。現役で企画する限りは、観客に来ていただけるようにベストを尽くす、なにはなくとも、声を出したり歌ったりしてきた先人たちの生を楽しむ心意気を、何としても、私自身がしっかりと持たなくてはと、自戒の日々なのである。

 

やがてお迎えがやってくる、企画もなにもできなくなる、それは哀しいことでは全くない。内なる自分の自然をごまかさずに生きる。死を思い、考える。私も含め、現代人はあまりにも、物質まみれにすぎて、あるがままの自分の姿、時代の姿が、限りなく見えなくなっているのではないか、と。藤原新也さんの内省的な一文は、私に反省を迫ります。
今年2月石巻で見た風景から

2012-11-20

柿むけば静けさしみる夜長かな

母と妻と私の3人でむきました

世間は一気に解散総選挙で何かとかまびすしいし、ほとんどニュースも斜めにしか見ないような私の最近の暮らしです。とくにGWTIMENHKは個人的にまったくつまらなくて、天気予報以外はみる気が起きないというのが、正直なところです。

 

私の最近の関心事は、この年になると余計なことにかまけている、浮かれている時間はない、そんなことより静かにひたすら暮らしたい(なにもしないのではなく、やれることを見失わないように)というのが、還暦おじさんの偽らざる心境です。そういう意味では、私も少しは大人(温和)になったのかもしれないが、外見的には静かなではあるのだが、内面的には苦い、言うにいわれぬ感情がいまだ突き上げてくるのも、いかんともしがたい正直な気持ちだ。

 

そんな持てあましの感情は、座して静かに過ごすとに尽きるというのが、中年オジサンの見つけた、生活なのです。まだ働いていますし、通勤時間の長い私の暮らしでは、何よりも健康でないと、ブログも書けないし、何度も書いていますが、昨年退院してからは、ことのほか睡眠をよくとり、身体に留意するようになりました。毎日の心身のお手入れが、特に体に必要です。

 

自分の身体を見つめて休める。可能な限り病院には行かない、穏やかに意識が点滅する心身を、持続する。これからはこのことをささやかな糧にして、いかように生きてゆけるかを、探求したいと考えずにはいられない私だ。

 

何度も書いているが、考えることはなにもいらないから、じつに安上がりで楽しい。身体を動かし声を出したり、書いたり、読んだり、つまり私の生活は限りなく昔に帰っているということなのだと、自覚するわけです。還暦を過ぎたのだから、原点に還り、もう一度お砂場遊びをやりたいのですね。

 

バーチャルではなく、リアルに老いてゆく自分と向き合いつつ、隠居したいという、誘惑が日増しに募る、秋の夕暮れという、趣きなのです。寿命が異なるからなのだとは思いますが、杉浦日向子さんの本によれば、江戸時代には50歳前にはかなりの方が隠居していたそうです。響きもいいし、蟄居する御隠居、野暮なことはしない、理想です。

 

ひなびて、しおれて、往き倒れる、昔はほとんどがそうだったのだと思うのですが、自然に枯れる、詫びしき美。私も含めた現代人が、根源的な死ということに関して、あまりにも物事を深く考えなくなっているというお粗末さは、いかんともしがたく、この世相を覆い尽くしているというのではないかという気がいたします。

 

2012-11-18

親友(朋友)からのカンパにしみる秋

三浦の小学校でジャンべを教えるK氏

このブログでも何回か書いたことのある、神奈川県に住んでいる35年来の友人で、私の大きなイベントには、必ずボランティアにきてくれている、K氏から予期しないカンパが送られてきた。(一円たりとも無駄にはしません)

 

氏とは、どういうわけか馬が合うというのか、ほとんど芸術や文化の話なんかしたことがないにもかかわらず、長きにわたっての君子の交わりが続いている。私が氏に対してなにかをするということはほとんどなく、一方的にいつも何かを頼むということが多いのだが、氏は嫌な顔をしたこともなく、引き受けてくれるまことに持って、不思議なヒトである。

 

衣類や、バンドや、そのほか帽子や、ナイフやその他もろもろ、頂くばかりであげた記憶がほとんどない。今も彼にいただいた品々は大切に使っている、彼の記憶と共に。

 

私の定年の際も、法がいな御祝いをして下さった。何せ26歳からの付き合い、私よりも年下なので、随分と暴言もはき、恥ずかしい姿も多々さらしてきた仲なのだが、一年に一度か二度、会って共に旅をしたり、東京街歩きをしたりして、一献酌み交わす仲なのである。

 

お互い男同士、野暮な会話は一切しない、ひたすら童心に帰って共に遊ぶ。理由なき遊び友達というのが、一番当たっていると思う。手先が器用で太鼓が大好き、アフリカの太鼓ジャンべを毎週ボランティアで、三浦の子供たちに教えている。私と違って、表立ったことはほとんどしないが、3人の娘さんをきちんと育て上げ、家庭人としては私などとは及びもつかないくらいきちんとした日本の父である。

 

それにしても、遠来の友に対しての思いがけないカンパに、私はいたく感心を通り越して、感動してしまったのだ。氏の行動はいつも思いがけない、若いころから氏には苦しい時に度々助けてもらったが、還暦になっても関係性の中身が不変というのはまことに持って、奇特な間柄というしかない。

 

還暦を機に、氏には思い切って訊ねてみたいこともあるのだが、そんなことをしたら謎が消えてしまうので、やはり謎は謎のまま向こう側の世界に往くまで、とっておこうという最近の心境の私だ。

 

私のことを、奉兄と呼んでくれるのだが、兄としての資格があるのかないのかは、まったく私には自信がない。これからもおそらく生きている間は、賢弟に御世話迷惑をかけて往くことになる可能性がある。賢弟に恥ずかしくない企画を打つしかない、兄のような心境の今の私だ。

2012-11-17

無理して買っておいてよかったドストエフスキー全集

時間は最も貴重な資源読める季節がめぐってきました

3年前、ブログを始めたころ、私は右手でようやっとキィを打つことしかできなかったのだが、気がつくと随分と両手で打てるようになっている自分がいる。自分でも驚くほどにキィが早く打てるようになってきた。緩やかに人間は変化する。

 

妻には毎回けっこう長く書いているのが、不思議に思えるらしいのだが、おおよその文字数が決まってきつつあるように思える。何度も書いているが、書くのも読むのも私自身はそんなに早くはない、と思っている。他の方のことは知らないので、比較のしようもないのだが。

しかし、読むことに関しても、書くことに関しても、3年前に比べれば格段に早くなっているのを自分でも最近感じるようになってきた。やはり何かが、おそらく意識(脳内シナプス)が以前より余裕ができてきて、集中力がまし、好循環が持続し、一日の過ごし方のスタイルが安定しているからなのではないかと思う。

 

還暦になっても、人間の身体と心は、意識の持ち方で微妙に変化することを感じながらブログを書いているのだが、変化している自分を感じられなくなったら、ブログを書く元気のようなものは、おそらく失われるのではないかという気がする。がしかし、今はそんなことを考えても仕方がないほどに、元気な自分生きられるということは、幸せなことだ。

 

現代社会の中で、おおよその人にとって、働くこと以外に、本を読んだり、自由な文章を書いたりする時間を持つということは、そういうことが好きな人はともかく、やはりなかなかに難しいから、そこのところをどのように生きるかということが、大切な思案のしどころではないかという気がする。厄介な自分と向き合うのは、大切なことだ。

 

若いころ、(10代の終わり)生きる糧を得るのに精いっぱいのフリーター、あたふた生活の中、初めて見つけた演劇学校の面々があまりにも私の知らない本を読んでいるので、びっくりし、随分と背伸びし、難解な本を、意味もわからず随分と乏しいお小遣いの中から買った本が、今も私の書棚にある。

 

何故か、ドストエフスキーの全集を買っている。遅くはない、本はそこで静かにひもとかれるのを待っている。本を読むのに必要なのは、読む意識と時間だけである。

 

 

 

 

2012-11-15

遊心塾・ささやかに熱く始まっています

妻が作ったガーデンの椅子とテーブル

また陽が登りお休みの朝です。昨日夕方、土取さんから電話があり、いよいよ11日後に迫った、邦楽番外地に関することで、最終的な確認の打ち合わせをしました。土取さんは前日の24日(土曜)から岡山にやってきます。本番の前日のわずかな時間ではありますが、共に夕食をします。もしこのブログを読んでいてくださる方で参加したい方がいれば、20日までに連絡ください。先着5名まで受け付けます。電話でも、メールでもかまいません。

 

さて、このところ、遊心塾に関して全く書いていませんが、ささやかに続けています。ほとんど宣伝していないのですが(私の案内で参加を希望された)今生徒さんが二人(女性)いまして、12月まで、毎週木曜日の午後2時から、玉島まで出かけて教えています。シェイクスピアの間違いの喜劇の、登上人物の台詞を声に出して読む訓練を繰り返して読むことを、集中してやっています。

 

思い切って参加されたIさんは、どんなことをやるのかいささか不安だった様子でしたが、10月から、熱心に来られています。私も30年ぶりくらいに声を本格的に出しています。少人数なので、共に声を出すのです。普段の生活の中では先ず出すことはないような台詞を声に出すのですから、それもあたかも自分が、その人物になりかわった気持ちで、その感情の襞を、探求しながら声を出すということは、初めての方にとってはかなりの冒険です。

 

私の指示で、同じシーンを繰り返し声に出すのですが、少しずつ声が体と心をほぐし、出なかった声が徐々に出てくるようになってきます。これが人間の不思議なところで、自分で自分の中に眠っている思わぬ自分の声に気づくようになってくるのです。

 

声に出すという行為と、黙読という行為は、全く異なります。ましてセリフを声に出すということは、初心者にとっては大冒険であると思います。私が遊心塾をやりたい一番の理由は、無心に声を出すということの喜び、快感を(可能なら10人くらいで)知ってほしいからなのです。自分の身体が声を出す楽器であるということを、自分の身体を通して感じて、いま現在の生を、輝かせてほしいということに尽きます。

 

私が演劇的な、つまりライブ感に限りなくこだわるのは、一回性のその瞬間だけの、その人に与えられた生の時間を、限りなく全意識を集中するからこそ出てくる声というものがあるわけで、その時間を、共に共有する豊かさを(自分の身体さえあれば出来るのです)、これまでの経験で学んできたからなのです。

 

今日も3人で声を出します。全ては生徒さんの魅力に、指導する私は左右されます。さあ、今日はどのような声が出てくるのか、その時間は、未知の時間です。

 

 

 

 

2012-11-12

平凡な暮らしに非日常を見つける喜び


ふと気づけば、毎日ではないにもせよ、3年以上ブログを書きつづける自分がいます。晩節になって新しい楽しみを見つけられたことは、ことのほかに書きつづけられている自分にしかわからない、ささやかな自己満足的な喜びがあります。

 

小さいころからじっとしていることが出来ない子供だったので、父親は中学の3年間、自ら剣道の竹刀を持って、少しは落ち着くようにと私を鍛えてくれました。その経験は、いまだ私の心の奥底に素晴らしい経験をさせてもらった時間として残っていますが、まさか父親も晩年の私の姿は、想像もしていないかもしれません。だんだん父に似てきている私がいます。

 

最近じっとしている(精神は活発に動いている)ということの喜びというようなことが、かすかに感じられるようになってきたのが不思議です。もちろん若くはないのですから、身体が動かなくなっているということも物理的な事実としてあるでしょうが、そういうことではなく、動いてはいるのですが、動く範囲が極めて狭い中を、過ごすということです。

 

PRとか、人に会うとか、教えるとか必要最低限動いたら、ほとんどの時間を家か、図書館か、本屋か、電車の中で過しています。今の生活の中での自由な時間の7割は学ぶということにあてているのが、この数年の私の生活です。それくらい私は、自分のあまりの無知ということに対しての気づきがありまして、知るということの悦びは、何事にもまして今の私の生活の中では優先しているのです。

 

フルに働く仕事をやめる決心の一番は、やはり時間です。ご飯を食べるように、書物に触れる時間というものは、人間らしい精神生活を営む上では、私にとっては手軽でもっとも不可欠のものであるという結論に達したのです。

 

私は、しゃべるほどには書くことも読むことも遅いのですが、これまでは読むのが億劫であったような書物が(難解な語彙に満ちた哲学書や、特に時代の中で読まれ続けてきた古典)ようやくにして宝物のように感じられるのです。

 

宝物なのですから、ぶつかって味わいつくさなくては、もったいない。松岡正剛先生も、同じ本を繰り返し読むことを薦めておられます。汲めどもつくせぬ枯れない永遠の真実が、古典にはぎっしりあるということで、そういう意味で、若かりし頃ウイリアムシェイクスピアに、巡り合った私は、幸せだったと思います。

 

じっとしていることにつかれると、犬のメルと散歩にでかけ、ついでに身体を動かします。
下の娘が作ってくれたローストビーフとニンジンのスープ

2012-11-11

雨の日曜日の秋の朝に思う


だれにも邪魔されずに、朝起きてそんなにたっていない、いわば胡乱な意識の状態の身体の心で、思いつくよしなしごとを綴れる今この時間を、ことのほか私は楽しんでいます。

 

雨を見にちょっと外に出た時は真っ暗でしたが、ようやっと空が白んできました。雨音を聴きながら静かな時間を楽しんでいます。一日での、朝の数時間は還暦の私には、まさに黄金の時間なのです。

 

雨にもあたらず、そんなに寒くもなく、自分の部屋に暖かいお茶があり、穏やかに自由に慎ましく暮らせること、(方丈記を読んでいるからでしょうか)のありがたさをしみじみ感じる、晩秋の日曜日の朝です。

 

ボーっとするということのできる時間というものが、如何に身体と精神に大切かを思い知ります。そのようなことが生きるがために、なかなかにままならぬ一回限りの人生の時間の、大半を過してきたという思いが私の中にはあります。が、そのことを後悔は全くしてはいません。その中で何とか、肉体と精神が摩耗せずに生きて来られたことを、素直に感謝できる自分がいます。

 

来年4月からは、最低生活さえできれば、限りなく身体を使った仕事に従事し、平均して一日に5時間くらい書いたり読んだりすることに時間を有効に使える人生を過したいと、夢見る私です。還暦を機に緩やかにこれまでの生活を、可能な限りリストラクションしたいのです。本の整理や、あらゆる見直しを、やれる時間がようやっと訪れるわけですからやりたく思います。

 

ままよ、自分というものは実に思い通りにはならず、自分で自分を持てあます、絶対矛盾を抱え込んだ不思議な存在ですが、いたし方ありません、自分という存在は自分だけの存在ではないのですから。そのような感覚がようやっとしみいる年齢となりました。人生とはほんとうに奥が深いものだということに、思い至ります。だからこそ、晩節の未知に分け入ってみたいと思うのです。

 

奥の細道、未知(道)の奥。世界中の歴史上の(歴史下の)人々がおそらく分け入ったであろう、晩節の世界のたどり方を知る(知りたい)方法は、書物の中にこそ、豊かに息づいているのだということが還暦を機に、より一層知りました。

 

文字や言葉は、立ちあがって今を生きる私に、栄養を与えてくれるのです。例えば・創造するということは、忘れていたことを思い出すということだ(ロジャーペンローズ)。

 

 

 

 

 

 
燃える秋・夢が原屋敷のもみじ

2012-11-09

邦楽番外地、足をお運びいただきますように、願います

晩秋に咲く一輪の妻が育てている黄色いバラ

邦楽番外地まであと2週間ちょっとになりましたが、なかなかに反応が少ないのが、正直苦しいのですが、そんな時こそ深い呼吸をし、青空を見つめ、天にまたたく星空を眺め、生きているから企画できる、今の自分を慰めています。

 

のっけから、このようなことを書くと秋風が沁みる感じがいたしますが、これもまた、時の流れ時代の趨勢なのか、あがらうのか、流されるのか、そこが思案のしどころだと、60歳のハムレットのような心境です。

 

でもまだ小生はあきらめないのです。一人でも多くの方に邦楽番外地の世界を堪能してもらいたく、また土取利行という、稀代の異能の音楽家の存在を聴いて、知ってほしく、微力を尽くします。企画者は、考えることと動くことが、全てです。

 

自分が企画したものには、年齢を忘れ、エネルギーが注げるのが、我ながら不思議です。このはらはらドキドキ感も、生きていればこそなのですから、今まで企画したいろんな思い出とともに、後年邦楽番外地は、どのような記憶として思い出すになるのでしょうか。

 

ギリギリのところを、踏ん張れるか踏ん張れないのか、そこがプロとアマの差なのではないかと思う私としては、このような時代に、このようなある意味で時代とずれた企画を打たずにはいられない、企画させてしまう、眼に見えない力に後押しされながら、残り2週間にかけたく思います。

 

明治という時代をたくましく生きて、庶民の側に立ち、大多数の人たちになりかわり、その心情を歌にし、発禁もなんのその、路上で人々に唄を伝え、歌に殉じた添田唖蝉坊。また息子としてその世界をきちんと記録し唄い伝えた、知道。親子二代の世界を、あの当時女性でありながら、知道氏から直にならって、伝えようとした桃山晴衣という存在。

 

パートナーの桃山さんがお亡くなりになり、その意思を受け継ぎ、パーカッショ二ストの土取さんがまるで憑依したかのように、唄いはじめました。その世界は企画者の私の無知を知らしめ、刺激するのに充分でした。知らない世界こそ企画したいというのが、企画者としての私の原点なのですから、永遠の原点ということで、私の内的な何かを、琴線を打つのです。

 

このブログを読まれた方は、何度も書いていますが、是非ユーチューブで土取さんの唄の世界を聴いてから、足を運んでいただきたいと、願うのみです。

 

2012-11-05

結婚25周年に思う

妻が育てている雨のなかのバラの花

妻と結婚して25年が過ぎました。妻のことはほとんどこのブログで書いたことはありません。とうに青春の終わりも過ぎようとしていた、33歳の途方に暮れていたあの頃、妻と出会いました。あの日のことは鮮明に覚えています。娘たちにその日の出来事の一部始終を、いつの日にか、書いておきたいという気持ちも少しあります。が今はまだ恥ずかしくて、とても書く気が起きないというのが正直なところです。

 

妻と出会って、私の人生は決定的に変化したと思います。異性として初めて、心からの安ど感に包まれたからです。妻は私の人生にいつも希望の日を灯し続けてくれている、無二の人です。もし妻と出会わなかったら、おそらく私には、その後の今に至る27年間、このようなある種満たされた人生の時間は、永遠に訪れなかったのではないかとさえ思います。

 

妻は、私より8歳年下です。私とは正反対といっても過言ではないほどに、あらゆる意味で、(私は今でも驚くのですが)異なっています。冷静沈着、私の欠点を補って余りある、湖のように穏やかな性格の持ち主です。生きてきた環境も、趣味や好きなことなんかも、共通点はそんなに多くはありません。しかし、ひとつ屋根の下で、なにはともあれ25年も過すことができたのは、やはり妻の器量の大きさが、あったればこそなのだと素直に感謝するしかない私です。

 

書きながら、いま思うのは子供たちが独り立ちし、これからの晩年を夫婦で穏やかに過ごすためには、私が相当に変わらなければいけないのではないかということです。一言でいえば、これまでのように、妻には私が何かをすることのよっての、心労も含めた一切の負担をかけたくはないということです。

 

企画をするということは、家族と共に過ごす時間が限りなく少なくなるということですし、あらゆる経済的なリスクが伴いますから、妻の側からすると、いろんな思いが去来してきたことは、想像に難くありません。還暦を機にして、ようやっとそんな妻に対して、私も少し思いやれるようにはなってきつつあるのを、ゆるやかに自覚します。

 

最近妻は、仕事のかたわらガーデニングにいそしんでいるのですが、そのことに打ち込む熱さは、まるで妻の意外な面を垣間見るかのようで、私を驚かせています。ヒトは変わる。人間は年齢を重ねるにつけ、長年共に暮らしてはいても、意外な世界を見つけて日々慎ましくも、いきいきしている妻を見るのは、つれあいとして、これ以上の喜びはありません。

 

また、一年前から我が家の家族の一員になった愛犬メルに接する妻の態度は、またもや私に妻の新しい側面を見るのに充分でした。

 

妻との共通の楽しみの時間をこれからは見つけてゆきたいという思いが、膨らんできているのです。それはこの21年間岡山にやってきて過した時間が、もうこれ以上には望めないほどに、ある種自分の限界を超えるくらいに完全燃焼できたという思いにも、満たされているからだとも思います。