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2017-02-28

感動3泊4日・65歳人生一区切り上京旅。

パソコンに向かうのは5日ぶり、木曜日から日曜日まで上京していた。正直少し疲れている。
息子に頂いた本(すばらしい)

23日木曜日は帝国ホテルで行われた芥川賞・直木賞受賞パーティに出席し、富良野塾二期生山下澄人氏と閉塾式以来の再会をし、氏の芥川賞受賞をお祝いした。岡山からかけつけた私を、氏は照れながら喜んでくれた。初めて山下氏と二人での記念撮影もできた。

このような晴れやかなパーティに初めて参加したが(600名くらいはいたのでは) 会場は祝福の関係者であふれていた。いってよかった。会費なしの御招待、会場で飲食したすべてのお料理がすべておいしかった。空腹で駆けつけた私は、山下氏と言葉を交わした後は、ひたすら食べておいしいワインをいただいた。
レイさんのお父さんからいただいた65歳のお祝のお手紙

パーティは18時から20時まで。その後参加していた富良野塾の同期 の面々と六本木で2次会。
 話に花が咲き、結局終電近くで娘のところにたどり着き世話になった。

よく金曜日はフリー。仕事に出かけた娘の家で午前中のんびりし、銀座でレオナルドダヴィンチのフィルムを見て、この日は赤坂のホテルに15時にチェックイン。18時親友のK氏と田町で待ち合わせ、二人で22時過ぎまで飲んで語り合い赤坂のホテルへ。

土曜日はゆっくりとチェックアウトし神楽坂へ。上京したとき3年間通った 演劇学校の先輩であり、今は劇団民芸にいて多方面で活躍している佐々木梅治氏にお昼をご馳走になり、久々2時間ほど語り合う。

そのあと中野に移動。いまもシェイクスピアシアター主催者である出口典雄氏と34年ぶりの再会。出口さんは私よりも一回り年長。透析を週に三回打ちながらも劇団を続けておられるので、悔いの残らないうちに、逢っておかねばとの念でお訪ねした。

往年の、私がしごかれたころの面影はすでになかったが、電話した私のことをよく覚えていてくれたのには感動した。シェイクスピアシアターでの3年間がなかったら、私の遊声塾は存在しない。

遊声塾のことを話したら、喜んでくれた。訪ねてよかった。これから稽古だという出口さんのところを辞し、その足で笹塚に移動。

18時過ぎから、笹塚にある雰囲気のいいエスニックな多国籍人がフリーセッション しながらお酒も飲める、お店でS女史と久しぶりの語らいタイム、初めてご主人ともお会いすることができた。

彼女とは波長が合い、夢が原で私が企画したイベントに何度も足を運んでくれたので、私も上京したらなるべく会うようにしているのである。

そこに、これまた34年ぶり、シェイクスピアシアター時代世話になったU氏から電話が入り、娘の住む稲城駅で急きょ会うことになり、21時に稲城に移動し感動の再会。

結局娘とレイさんの許可をもらい、私が泊まる彼らのマンションに移動。レイさんがお酒もワインもサラミほかのつまみもあるので自由に飲んで食べて語らってくださいとのメール。(娘とレイさんはレイトショウに出掛けていた)

34年ぶりの再会、U氏は出口さんほど変わっておらず、今も演劇活動を元気にやっているとのことで、もっぱら私は珍しくお話を拝聴する側ではあったが、シアターを後にして富良野に向かい、その後岡山で元気に生きている私のことを、暖かく喜んでくれた。

U氏はレイさんのサラミと最高級のスコッチウイスキーを、これはうまいと 喜び、ご満悦。愉快な34年ぶりの再会時間は瞬く間に過ぎまた岡山で会おうと(氏は鳥取の出身)約束し、23時近く闇の中に消えゆく氏を見送った。

その日私が寝入ったころ、娘たちは終電で帰宅した。そして翌日曜日9時、娘とレイさんと3人で初めてゆっくり朝食をしながら語らって、お昼上野に移動。

上野の森美術館の地下講堂で、親友K氏が(氏は還暦前から忽然と演技の勉強を始めた、2013年から)主演する短編フィルムを氏の奥様と3人で見る。ホームレス役の氏は随分と落ち着いて演技をしていた、何事も最低3年は時間がかかる。奥様もそこはかとなく嬉しそうだった。
弓を手にしたK氏ご夫妻

見終えて、3人で早咲きの桜を見物 氏ながらアメ横商店街に移動して、そこで軽く一杯やりながら昼食。氏の妻のT子さんとは初めてお酒を飲んだ。

とここまで書いて、いよいよ今回のいろんな方との、再会旅のビッグプレゼントを私はK氏からいただいた。なんとそれは、彼のおじが昔使っていたという弓(矢も5本)である。

その弓は、その日の朝奥様が急いで縫ったという、素敵な模様の布にくるまれていたのだ(次回写真にアップします)。

私は、この弓は65年間何とか生き延びてきた ご褒美、彼との26歳のロンドン以来のお付き合いの、40年近い交友関係の帰結の記念品としてありがたくいただくことにした。

私がこの年齢から、弓を始めたことにたいするお祝というに止まらず、これからも元気に楽しくやろうという激励の品なのだと。

しかし、何という価値のある一品、まだ弓を初めて昨夜で3回目なのだが、この弓を手にするたびに、きっとわが体にエネルギーが吹き込まれることは間違いない。

スケッチ風に今回の旅を、日ごとに簡略に記した。65歳になったばかりだが、なんだかなんだかとてもうれしい、感動的な再会が随所に現れるまさに一区切りの、意義深い旅となった。

とくにK氏とは、またふらりと旅に出て示し合わせてどこかで落ち合うような、粋な旅をしたいと思うのだ。

今現在を、こころから寿げるような友にわが人生で出会えたことは、どのような成功や名声よりも私にとっては、貴重なものである。

わが五十鈴川だよりに、K氏ご夫妻に対する感謝を記し、本日はこれにて。


2017-02-22

佐藤優さんの御本から学び続ける。

体と心に余裕があるときにしか私の五十鈴川だよりはなかなかに書けない。この歳でいまだいろいろとやりたいこともあり、動き回りながら、週にに三回五十鈴川だよりをかけるいまの暮らしをことのほか私は楽しめている。

S氏が撮ってくれた竹韻庵での私と相棒メル


物事は始めたら必ず終わりが来る。必死という言葉がそれを端的に示している。おぎゃーとこの世に生を受け、やがてお迎えがくるまで、この世という舞台を、意識を持った人という生き物は右往左往と生きるしかない。

朝から何やら意味深ですが、私の脳は朝が一番物事を考えるのにはいいのでいたしかたない。とはいうものの、何事もあまり深刻には考えられない能天気な日向人なので、 ちょっとした食い物とお天道様があれば、なんとかなるといった塩梅でこの年齢までをしのいできた、ように思う。

もうこれからは悩みつつも(悩むことも人生の楽しみの一つである)、苦しむことはほどほどにして、ひたすら今日という日を在り難く過ごす、という一点に絞って歩めれば、と現時点で考える私だ。

書くことは考えることだと、頭のいい方がおっしゃっていらっしゃる。尊敬する井上ひさし大先生は、すべてのエッセイは自慢話だともおっしゃっていらっしゃる。まことに持って至言。

まあ、私の拙文などは単なる自己満足的、いい気なブログに過ぎないが、私にとっては自己管理、自己調整的な意味合いをもつ、いまや大切ないっときになっていることは自分が一番承知している。
孤軍奮闘するかのごときお仕事ぶりには驚嘆する

ところで何回か書いているかもしれないが、佐藤優さんという、私にとっては先生と呼びたいほどに、端倪すべからざる、いろんな知らないことを教えてくださる外交官から作家になられたかたの御著書を、2006年からなるべく読むように(羅針盤のように)こころかけている。

ちてきインテリジェンスにあふれ、視野が広く、その該博的な知識に裏打ちされた論の進め方、考察は、ちょっと群を抜いていて、この方のものの考えをかなり私は参考にしている。

でないと私のような単細胞は、すぐにあらぬ方向に持って行かれそうな不安を覚えるからである。複眼的な思考を持ち、我が身を懐疑的に生きる癖をつけないとまずいと、佐藤優さん(とても近しく感じるのだ)の御本を手にするたびに反省しきりの私だ。

芸術もそうだが、世界はあまりにも広く、学ぶことは無限にあり、人生は移ろいやすく気づいた時にはあまりにも短かし、といった気がする。

でもまあ、謙虚に物事を知る、学ぶということは大いなる楽しみ のひとつである。限られた時間のこれからを、佐藤優さんの御本から少しでも学びたいと思う私である。

ところで、明日から富良野塾2期生、山下澄人氏の芥川賞パーティに参加するため上京しますので、四日ほどパソコンを離れます。

2017-02-21

昨日は竹韻庵から戻って、春の雨音を聴きながら家ですごしました。

昨日朝一番竹韻庵にゆき、わずかですがつるはしを振るってから、もどってほかの用事をあれやこれややっていると雨が本降りになりだして、予定を変え結局昨日は午後から終日家の中で過ごした。

若いころと違って、すべてがゆっくりとした動きで何事もするようになってしまっているので、まあそのように過ごしているわけなのです。

午後おもになにをやっていたかといえば、発表会のチラシの折り込みとあて名書き、新聞をじっくりと読む、恋の骨折り損の王様のセリフの声出し、最後に読書などをしていたら妻が帰ってくる時間となる。

雨の日は、洗濯物を家の中の中の二階に干し、下で薪ストーブを焚くと暖かい空気が二階に流れ乾きが早いし、誰もいない家でこまごまとしたことをやりながら、ストーブのそばで過ごすのは私の冬の楽しみの一つ。

そのための薪づくりの労働は、身体が動く限り続けたいと願っている。それから昼食を気ままに一人で作って食べることも楽しんでいる。
今は亡きこの方の本愛読しています

昨日は、竹韻庵で私が種から育てたわずかなネギを 、イノシシが踏み荒らして、無残な姿をさらして放置されていたネギを持ち帰り、よく洗って、ホウレン草や、てんぷらの残りのほか、冷蔵庫のありあわせ具材を入れ、煮込みうどんを作って食べた。

最近は煮干しとかつお節できちんと出汁をとって作る様にしている。

これが塩、しょうゆ、みりん、お酒などの塩梅で、びみょうに味が変わるし、ときに削り昆布も入れたりすると、抜群の味になり、時間があるからできることを楽しんでいる。

何事もまずは、楽しめる心と体がないことには始まらないという大前提があるのは言うまでもない。使ったお鍋や食器をきちんと洗って、片付けをしてお茶をして午後の時間に向かうのだ。

基本的に朝が早い私は夕方6時以降は、頭を使う仕事はほとんどしない。体を休ませる。夜、週に二日の声出しレッスン日と、土曜日の弓道日は(まだ2回しか行っていないが、すごく新鮮)はこうはいかないが、基本的に夜はひたすら体を休める。

休まない体からは、何事も生まれてこないのだ、特に私の場合は。テレビもよほどのことがない限り見たくても観ない。体を休ませることを優先する。

睡眠が満ち足りれば、おのずと目は覚め、身体がその日の過ごし方を決めてくれるのである。私の精神は、身体が気持ちのいい方向に導いてくれるのである。

体や気持ちが欲しないことをいくら頑張っても致し方なく、65歳を過ぎ、いよいよこれからは 体や心にできるだけ忠実に過ごしたいと思う私だ。

いたずらに体を甘やかさず、少々の無理をしつつしっかりと体をいたわる暮らしを心かけたくおもうのです。時間は有限であります。もうすぐ春、今日も雨上がりの土の匂いを嗅ぎにメルと共にちょっと竹韻庵にゆき、夕方までの過ごし方が決まったところで、本日の五十鈴川はこれにてお開き。

2017-02-18

妄想を刺激する孟宗竹の根。

雨上がりの朝一番に竹韻庵にゆき先ほど帰ってきて、五十鈴川だよりを書いている。

今年に入って、竹韻庵の道に根を張っている孟宗竹の根を少しずつ採る根気のいる労働を続けているのだが、その根が山になってきたので、濡れていて火事の心配がないので燃やした。

二時間ほどいて燃やしたのだがとても短時間では燃やしきれなかったが、半分近くは燃やすことができた。

根を採るのは大変だが燃やすのは簡単である。あれほどふてぶてしいまでに、私の全身に負担をかける孟宗竹の根も、乾いて水分がなくなるといとも簡単には灰になってしまう。


私だって干からびて、燃えてしまえば孟宗竹の根と大して変わらないということである。話があらぬ方向にそれるので止す。


竹韻庵の敷地には一体全体どれほどの根が縦横無尽に張っているのか、空恐ろしく感じてしまう。笹野根も含めれば、きっと私が生きている間に果敢に、根と 格闘してもおのずと勝負は見えている。

見えないからこそ、いくばくかの時間を根と格闘できるが、見えたらきっと戦意喪失してしまうに違いない。

がしかし北海道の開拓民に想いを馳せるまでもないが、世界中で人類は先ずは手と道具で、根と格闘しながら、田畑を広げてきたのだろう。
そのことを想像すると、人間という存在が良くも悪くも 不気味な存在であるような気がしてきてしまう。自分たちの都合のいいように大地を変えてきたのだ。

また、話があらぬ方に流れるので止すが、何事もほどほどにしないとやがてはとんでもないことになる。

竹韻庵で根が燃え、煙が空に吸い込まれてゆくのを眺めながら、ほどほどに在らぬことに想いを馳せる気まま時間は、なにものにも代えがたい。

まさに徒労のように、寒い冬場、根と過ごす竹韻庵時間は、この年齢だからこそ味わえる老春タイムとしては、はなはだ貴重な時間である。

もしや、孟宗の根と出合わなければ、私の妄想も育みようがないわけで、つるはしを振るうことで、私の脳裡の奥深くの毛細血管が刺激されるのであろう。

つるはしを振るうことは(声を出すこともそうだが)まさに体との対話なのである、と最近とみに実感する。

一日でも長くつるはしを振るえる体をキープしながら、自分自身と対話したいものだ。

2017-02-15

U・Kさんから思いもかけぬチョコレートが送られてきました、そして思う。

昨日はバレンタインデーであった。家族以外からのチョコをいただけるなんてのは私には無縁だと思い込んでいたが、思いもかけない意外性の極みのような方から小包のチョコが届いた。

出会ったときは83歳、今現在86歳になられ、厳冬期のいまはカルチャー教室のレッスンをお休みしているUさんからであった。

カルチャー教室での最初の2年間、二人きりでずっとシェイクスピアを読んでいて、きっとこのままでは生徒さんはUさんがレッスンに来れなくなったら、教室は閉じることになるのだろうとの覚悟をしていたのだが、そこに忽然と、昨年春の発表会に来られたMさんが、私もシェイクスピアを声に出して読みたいとやってこられた。(やはり希望は持つもの、そして作るものである)

生徒さんがもう一人増えたことを最も喜んでくださったのがuさんであった。ほぼ9カ月昨年暮れまで、3人でのシェイクスピア遊読が淡々と続いていたのだが、厳冬期の今uさんは安心してお休みをしているのである。

以前、Uさんのことは五十鈴川だりに書いた。自分がいつまでシェイクスピアを声に出して読めるのかはわからないが、Uさんには決して無理をしないようにと、いつも言っていたのである。

それにしても、私はいたく感動する自分がいる。あのご年齢でシェイクスピアを声に出して読もうと思うだけでも、大変なことである。

遊声塾もそうだが、カルチャー教室の講師を依頼されたり、私塾を立ち上げたりしなかったら、Uさんにはお会いすることはなかったであろう。

Uさんは今の時代の限られた私の生活範囲で、毅然と、私が憧れるお手本の高齢者生活を 送っておられる貴重な方である。

頑固なまでに、おのれのライフスタイルをキープする矜持をお持ちの方である。安きに流れることがほとんどのわが周囲の(そのことに気づいてさえいない)ご高齢者たちとは一線を画している。

Mさんが参加されるまでの2年間、一人の生徒さんとのシェイクスピアを読む時間は 本当に私にとっては大切な時間であった。(Mさんは春から遊声塾にも参加される)

Uさんが春から復帰してくるまで、Mさんと二人だけでの【リア王】遊読を続けているのだが、0と1の違いをいつも私は深く受け止める時間を生きている。

数では量れない、他者との、熱い言葉の交換は、なんと現在の自分を奮い立たせるものであるかということを、UさんやMさんから教えられるのある。(他者と名セリフを歌うように声を出すことのなんという喜び)

ところで、【リア王】はリアの最晩年を描いた、文句なしの大傑作である。声が出る間に何とかして発表会をしたいと思っている。




2017-02-13

おかげさまで65歳を迎えることができました。

昨日妻と勝山まで久方ぶりのロングドライブをし、倉本先生の最後の舞台といわれている【走る】を見てきた。

82歳の先生の渾身の舞台作品をとにもかくにも、妻と二人で見ておきたいと思ったのだ。舞台に関する感想を書くことは控えるが、とにもかくにも富良野塾一期生として先生の想いをきちんと見届けることができた。そのことを五十鈴川だよりにきちんと書いておきたい。

さて、勝山の少し手前の久世町にはY子さんという私の同じ年の友人が住んでいる。この方は私の夢が原時代に企画した数々のイベントに遠方から見に来てくれた大切な方。

めったに勝山までゆくことはないし、この年齢になると、会える時に会っておいた方がいいという個人的な思いがあって連絡を取り合って、久世で昼食を共にとりわずかなひと時の再会を果たすことができた。

この歳になると、一期一会という思いがしきりに深まる。多くは語らずとも縁あって出逢い、たまさかの人生のゆきずりで、良き時間を過ごすことができ、やがてはまた会えなくなるのだが、記憶の底に深く印象に残っていて、普段は忘れていてもふと思い出し逢いたい人。

久方の再会が実現してとてもよかった。手作りのお結びや 落合名物羊羹などを持参して会いに来てくださった。

佐藤優さんの本は面白い
ほとんど会えないのだが、これまでの私の人生の折折を彩ってくださった、ときおりふっと会いたくなる方が私にはいる。

とくに、私の不遇な人生時間を暖かく見守って支えてくださった方々のことは、なかなかに会えないにもせよ、私の心から消えることはない。

今後、これから私の人生時間の元気な間は、この方々との再会時間を持ちたいと切に願う私である。昨年も何回か旧友再会を果たすことができたし、今年の一番目がY子さんになった。

来週は山下澄人氏の芥川賞受賞パーティで、また十数年ぶりに富良野塾一期生の何人かにも会えるし、元気で生きていればこその再会時間。会える時に会っておかねばとの私の思いは意味もなく深まる。

有名無名関係なし、私の会いたい人と会っておきたいのである。私は野に咲く花のような存在の人に限りなく惹かれる。無名だが魅力的な人にこれまでの人生出会えたことは至福である。

さて、いよいよこれから私にどのような人生が 出会いがあるのかないのかは皆目わからないが、これまでの人生で出会えた素敵な方々と、晩年再び会えることをこころから願う私である。
 
今日は私の65歳の生誕の日。何やらやはり節目の日という感じがしてしまうが、取り立てての感慨は特にないが、おかげさまで健康にこの年齢を迎えることができたことに感謝している。

可能なら今年は少し遠方への旅をしたいとの思いがあるのだが果たしてどうなりますか。若かりし頃ロンドンで暮らした街を再び訪ねたいのだ。




2017-02-12

レイとの機縁で徳山道場に入門することになり、初日の稽古をしました。

今日はこれから勝山まで倉本先生の【走る】を見に出かける。だがちょっとだけ五十鈴川だよりを書いておきたい。

昨日建国記念日 を朝から薪づくり、午後はちょっと竹韻庵で過ごし、夜2時間初めて徳山道場におもむき、人生で初めての弓の入門稽古をした。
チェーンソーで伐った薪を妻と母がきれいに積んでくれた

そのことをほんの少し、五十鈴川だよりに書いておきたいのだ。寒げいこというしかない、深々と冷える環境での稽古、空には満月。

詳細は省くが、道場主が弓のつくりから、徳山道場に伝わる古式の作法に ついての説明がなされたのち、弓は持たず構えから弓を放つまでの型を、途中休憩を挟んで指導していただいた。

まったく白紙からのスタート。ひたすら先生の言われる通り取り組んだ。何ももっていないで、型通りにやろうと思うのだが、身体は全く思うようには動いてはくれない。

これから、毎週一回弓を持たずに型の習得に励むことになるのだが、初日の稽古を終えて思うことは、65歳(明日)にしてまた何やら 励みになる目的ができたことがうれしいのだ。

弓道はシェイクスピアの言葉を声に出して読み続けてゆきたい私としては、土を耕すことも含めて、あきらかに私のこれからの生活に良い影響をあたえてくれそうな予感が持てた、(だから始める)寒の入門稽古となった。

昨日は結構ハードな一日だったので、つい先ほどまで寝ていたのだが、弓道はこれまでの人生では使ったことがない部分の筋肉を使うのだろう、身体のいたるところの筋肉が気持ちよく、痛い。

痛いということは、まだ使っていない私の体の筋肉がいたく刺激されたからだろう。体というものは年齢と共に老いてゆくものではあるにせよ、そのわが体をいたわりながらも、甘やかさず、何か真摯に自分と向かい合える時間を大切にしたいと、切に願う自分がまだ存在する。

思いついたらまずは吉日、とにもかくにもまずは続ける気持ちが深まった初日の稽古となった。

私のほかに若い女性が(私より半年くらい先輩)一人いて、先生が二人で指導するという贅沢さでの稽古であった。弓の世界を通して、いまどき珍しい風趣のある子弟関係性が垣間見え、厳しき中に居心地が良かった。

 昔から師を選べというが、岡山の地にこのような由緒ある道場があるなんてまったく知らなかった。日本人の一人として面目ない思いにとらわれる。

それもこれも 娘婿のれい君が、徳山道場の門下生であることがなかったら、おそらく私は生涯日本の弓の世界に触れることはなかったかもしれない。

そのことの不思議さに思いをいたしながら、冷え切った体を温めるべく厳冬の満月下をあるいた。


2017-02-10

山下澄人氏の芥川賞受賞パーティーにお招きが来ました、そして思う。

先週に引き続き富良野塾がらみのことをほんの少し書きたい。先日見事な筆書きで私の名前が書かれた楷書の封書が我が家に届いた。

開けてびっくりしたのは、芥川賞、直木賞の受賞パーティーに御参加依頼の封書であった。

富良野塾の一期後輩である山下澄人氏が、芥川賞を受賞したことは、ニュースでは知っていたが、よもやまさか、岡山で静かに暮らしている私に、帝国ホテルでの受賞パーティーにお招きが来るとは、つゆほども思わなかったからである。(ほとぼりがさめたら、お祝の葉書をだすつもりでいた)

私と山下澄人氏は、一年間だけあの谷で暮らした。私は一期生で彼は2期生。出会ったとき私は32歳、彼は高校を卒業したばかりではなかったろうか。年齢が一回り離れていることもあるが、ほとんどさしで話した記憶はない。

記憶はないが、彼の眼と、大きな体を窮屈そうに引きずって歩いていた姿は 、鮮明に記憶している。、もうあれから33年の歳月が流れたのだ。

十数年前、富良野塾閉塾式でも寸暇、言葉を交わした。その彼が大きなニュースになる文学賞を受賞したのである。

受賞作を先ず読みたいと思う。理屈抜き、あの谷で苦楽を共にした仲間は、たとえそんなに話をしなかったにせよ、私にとってはかけがえのない仲間なのである。

これを機に、普通に話ができるような関係性が再び育める、人生の季節が晩年に訪れたのである。出席の葉書を今日投函するつもりだ。

卒塾して30数年書き続けてきてつかんだ 名のある賞、こころから祝福したい。人間が多面的に成長するのは(自分のことです)本当に時間がかかるし、まして他者にその存在力を知らしめるのには、(評価されるのには)どのような世界であれ半端な努力なしではなしえぬ、地道な少数者がしのぎをけずる世界での快挙である。

その受賞者が富良野塾から出たこと、富良野塾一期生としてこんなにうれしいことはない。彼の受賞は現在の私自身にも大きな刺激を与えている。

きっといよいよこれから、富良野塾出身者の活躍が、たとえマスコミに取り上げられなくても、多分野に熟成して出てくるような気がする。これは富良野塾一期生として本当に誇らしいことである。

今私が岡山の地で、ささやかに根を伸ばし、生きていられるのは富良野での生活で根底から心身を鍛える機会が持てたからである。まさに鉄は熱いうちに打て、ぎりぎり間に合ったような気がしている。

2017-02-08

NHKで倉本聰先生のプロフェッショナルを見る、そして思う。

NHKのプロフェッショナルという番組で、倉本聰先生が取り上げられていた。この時間帯はまず起きていないので録画して昨夜妻と共に二人でゆっくりと視た。

妻と私が出会ったのは富良野塾卒塾後、当時私は34歳になっていたし、妻は演劇や文化的なことにはほとんど接することなく育ってきた、私にしてみればこれまで出会ったことのないタイプのきわめて普通極まる女性であった。(それが私にはとてつもなく新鮮であった)

それまで私がどのような人生を 歩んできたのかにもほとんど知らなかったし、知ろうともしなかった。妻は私と違って口数の少ない女性である。その妻がしっかりと番組を見ていた。

長くなるので話を端折るが、倉本先生の番組を見ながら、富良野での足掛け3年に及ぶ青春の最後を過ごせた時間の重みを感じた。あの富良野は麓郷の谷で過ごした記憶が(封印していた)まざまざと蘇ってきた。

間違いなくあの富良野での生活が、私自身のその後の生き方をまったく変えてしまったのだということが、改めて自覚できた。

人生の座標軸の価値観がまったく変わってしまって、都会では生きられない体になってしまったのである。

ただただ体を動かして知恵を働かし、何とかして精神のバランスをとっていたあの谷での生活は、まっとうに生きることの大切さ、面白さを私に知らしめたのだ。

苦しいといえば、あらゆる意味で、あれほどに追い込まれた経験はないのだが、今はただただあの塾を卒塾できたことが、ささやかな私の青春時代の誇りである。

倉本先生は私と同じような年ごろ、東京から富良野に移住しているが、考えると私も40歳で岡山に移住している。

大先生と比較するのもおこがましいが、何かを捨てた果てに何かと出合うという人生の妙。何かに導かれるということがある、と折々私は感じている。

昨年暮れ、岡山で倉本先生の講演会があり、卒塾式以来お目にかかって、(10年ぶりくらい)ほんの少しお話ができたのは本当に良かった。そのことを今五十鈴川だよりに書けることがうれしい。

今の私の生活をお話したら、それなりに受け止めて喜んでくださった。もうそうはお目にかかる機会もないだろうから、何としても元気に生活している私の姿を見てもらいたかったのである。

人間は自分自身という、(自分で創ったものではない気づいたらいるのが自分という存在だ)存在から逃げることはできない。

いやでも応でも逃げられない、あの谷で過ごし自分と向かい合った時間は、とてつもなくかけがえのない時間であった。

卒塾して31年、いまなお元気に生きられる知恵や工夫はあの谷で培われたのである。



2017-02-06

遠出散歩の果て、徳山道場に入門することにしました。

父の命日出会った昨日、午後から本を手に持って散歩に出た。

家から大多羅まで自転車と歩行者専用道路を歩き、そこから百間川まで自動車の走らない路を歩いて、初めて土手に登り川沿いに原尾島の近くまで歩いて土手を降り、交差点に出ると、歩道橋に岡山駅まで4キロの表示が見えた。

出来心で駅まで歩くことにした。岡山駅から我が家までは中世夢が原を辞めたときに一度歩いたことがあるのだが、逆に歩いてみたくなったのである。原尾島からまっすぐ歩き、旭川を わたり私の足は、何故か弓ノ町にむかった。

義理の息子の怜君が(帰ると必ず稽古に通う)在籍している徳山道場をのぞくことにしたのだ。ゆくと外国人らしき女性と日本の男性、それにドレスデンでの結婚式にわざわざ参加してくださった、見覚えのある徳山道場の主の方がおられて、稽古をなさっていた。

思いもかけず私は挨拶がてら、道場主にこの年からでも入門可能でしょうかと問うた。主は60歳から始めた方もおられますよ、とのご返答。

もうすぐ私は切りのいい65歳、何か新しいことを始めようとの思いが、忽然とこみあげてきて入門しますと答えていた。

かくして私は来週の土曜日から徳山道場に通うことになった。よもやまさかとは思うが、父の命日に徳山道場に入門することになってしまったのもなにがしかの、目に見えない力が働いたような気がするのは、気のせいだろうか。

ともあれ、義理の息子である 怜君が弓の世界に打ち込んでいる姿を間近に知らなかったら、このような偶発的な入門ということはありえなかったかもしれない。

結果、私は来週の土曜日から徳山道場の門下生になることになった。まったく予期せぬことがやはり人生には起こりうる、そのことをあらためて感じた遠出散歩となった。

2017-02-05

2017年、父の命日の朝に思う。

もう何年も書いているので、ひょっとしたらまたかと思われても致し方ないのだが、今日は亡き父の命日である。

2000年に他界したので17年目、時折お線香を手向けるが、もちろん命日には欠かしたことがない。歳を重ねるにつけ、亡き父の声が私自身の体に響くようになってきた。

私は幼少年期、あまりにも怖かった父から逃げたくて逃げたくてしようがなかったが、いまはあの父の息子に生まれてきてよかったと、こころから思える自分がいる。

厳格といえば、もうこのころはそのような父親は皆無であるように思える。良し悪しではなく、頑固なまでの、理解されなくても自分の雰囲気を醸し出す大正男の存在感。

私は自分でいうのもなんだが、あの苦手だった父親に、自分がだんだんと近づきつつあるようなきがしてきている。
竹韻庵で焚火をする私

教職リタイア後は、碁を打つことと旅をすること、庭いじり以外は何もしないで、人生に幕を下ろした大正生まれの父。

戦後生まれで、日本の歴史始まって以来(かもしれない)というチャラチャラと浮かれた、戦後民主主義教育を受けた私は、思春期からことごとく父と、男4兄弟の中で一番対立した。

いまはそのことが遠い日の出来事であったかのように、懐かしく面出されるのはなぜなのだろう。

 単に私が老いたということではないように思うのだが、このことに関しては今はブログで書くのは控える。

ともあれ、目の前に父はいないがいまだ父や母は私の中に、脈々と息づいているのだ。最近はあまり顔を出さないにもせよ、悩んだりしたときにはそっと父親の顔を浮かべたりする、父ならどうするかと。

最後まで父親の威厳を保ち、亡くなる半年まできちんと文章も書いていて、頭はしっかりしていた。何事につけ単純明快、豪放磊落、かといって繊細で、男は潔く在れと、私に訓示した。

また、男子たるもの一度決めたら死すとも不帰の気概でもって生きてゆけと、上京する放蕩息子 に言い放った。

そのように生きてきたわけでは全然ないひ弱な私だが、最後の最後になると父親のいろんな言葉が脳裏で響いたことは確かである。

親は選べず、至言である。強さとやさしさをバランスよく併せ持つということはまことにもって難しい。

時代の行く末は、全く予断を許さないほどに 混沌化しているが、あの両親が生きたように、おそらく私も歩んでゆくのではないかという気がする。


2017-02-01

弱肉強食でいいのか、いけないのか、五十鈴川だよりを書き続けられる平和をかみしめ思う。

今日から2月である。数えたら一月は11回五十鈴川だよりを書いている。
みごとにまるまる花

これくらいのペースで書き続けていられるのはきっと書きたいとがあるからなのだ。

いい意味での煩悩を抱えて今月もなにがしか、自分と対話するように書くという落ち着いた夜明けの朝時間をたいせつにしたい。

ところで、このところトランプ大統領に関する話題がニュースに取り上げられない日はない。

この世の中に生きている以上、社会の動向に関していくばくかの関心はわたくしごと気でも ささやかに持ち続けている。だがささくれだったこの世相、心が穏やかになるようなニュースがあまりに乏しい。

安全保障法案なども、多数決の論理がこうまでなし崩しにまかり通ってしまうと、まさに民主主義って何なのかと、問わずにはいられない。

正直、政治的な事柄や 事件や、あまたの私の常識的な感覚から程遠い、これでもかと報道される編集されたニュース映像にはうんざりしてしまう。(目と耳を閉じたいほどに)NHKのニュースはラジオの方が聞きがいがある。骨のあるジャーナリストはどこへ消えたのか。

時代のトレンドを、ようやく冷静に眺められるような年齢と身分を手に入れた私は、ささやかに身の丈に合う範囲で、懐疑的に観察したいと思わずにはいられない。

幸福感や平和 という感覚は、各人千差万別だとは思うが、大方の人間は食べて寝るところがあって、ささやかな家族的な営みと希望が保たれれば、満足感には遠くても生きられるのではないかと思う。
青木理著(この方のおかげでいろんなことをしることができた)

それが、ひたひたとそうはゆかない時代の足音を、かなりの人たちが敏感に、潜在的に本能的に不安をもっているのではないかと推察する。

私など世の中に出てから、嫌というほど弱者の側に身を置いてきたので、食うものがないという恐怖にも近い感覚は、戦前の方たちとは比較にならないにもせよ、かなり持っているつもりである。

私がささやかに母のような菜園場だけでも確保したいと思うのは、その表れといっても過言ではない。いざとなったら我が身は我が身で守るしかないというのが、自然界の法、掟であるのかもしれない。

がしかし、弱肉強食が自然界の掟であるのなら、人類の少数者は、おごる力強きものに対して、死を賭してまで、どうして哲学、芸術や芸能やあらゆる文化という英知を綿々と紡ぎ続けてきたのだろうか。

いつの時代も芸術家は少数者である。私も含めた庶民大衆は、もっともっと少数者の声に耳を傾ける、穏やかな根性を身に着けねばとおもう。

TO BE OR OR NOT TB THAT IS THE QUESTION 私に言わせれば弱肉強食でいいのか、いけないのか、考え続ける勇気を持たねばならない、という気が個人的にする。

こ難しい議論は置く。その日一日働いて、ささやかに家族(独身であれ)と夕食を共にできるくらいの、つましい暮らしの確保,他者の(他国の)存在を尊重する理念が掲げられる憲法を持つ国でありたいものだ。私が能天気に 五十鈴川だよりを書き続けられるのも平和であるからだ。