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2019-05-31

五月末日、日々ありがたやありがたやと感じる。

早起きのわたしだが、いつにもまして早く起きたので、五十鈴川だよりタイム。毎度のことだが、ほとんどなにを書くのかは明確には決めていない、事の方が多い。

うすらぼんやりと、あのことはは書いておかなくては思うことはあるが、起きたばかりの今朝などは、何も考えてはいない。

書いているうちに、何やらが動き出し始める、まったくわがままな五十鈴川だよりである。猫の花がすり寄ってきて、ゴロゴロと喉を鳴らす音を聞きながら、静かなる夜明け前のいっときを 、初老男はコーヒーを飲みながら、いいなあ、とのたまうのである。

わずかの一時がいいのである。今日一日の大まかな、やらねばならぬことなどを、考えたりしながら、その前の余裕の一時。

何事も余裕がないと、どうも私は不安というとオーバーだが、ダメなタイプである。五十鈴川だよりを書きながら、不安解消に相務めているといった按配なのかもしれない。

五十鈴川だよりを書くことは、自己セラピーである。第4次産業革命の渦中のこの十数年を何とか生き延び、今初老の人生時間を歩んでいる私にとって、そのあまりにというしかない、デジタルハイテクノロジーのすさまじさに、わが老いゆく肉体は翻弄されるばかりである。

ではどうするか、出来る限りそういう場所には近づかないようにして、私のノスタルジーを包んでくれそうな場所で、努めて静かに思索しながら過ごすようにすることである。

だから、この十数年毎年故郷を往還することで、心身の機能調節を図りながら日々を生きているといった体なのである。

だが、このようなあまりにも寄る辺ない、茫漠たる不安を抱えている 私と同世代人は多いのではないかと想像する。いや、それは私たちだけの世代だけではなく、多くの現代人に通底するとらえどころのない闇の深さなのでは、などと凡夫の私でさえ思うのである。

自分でも制御不可能な、得体のしれないかのような闇を抱え込んでいる現代人が、世界中に 跋扈し始めている、といった気がしてならない。
母が植えた蔓バラ、妻が十数年手入れ、今年も愛でることができた。

次々と起こる一昔前までは(テロも含め)思いも及ばないような事件の 連鎖は、何を暗示しているのか、凡夫の初老男の感知しうるところではないが、私のような単細胞生物は、できるだけ生活をシンプルにし、かけがえのない内なる体が喜ぶようなことにこそ、今を生きる情熱の残り火を、と考えるくらいしか思い及ばぬのだが。

ともあれ、今朝の五十鈴川だよりはこのような流れになってしまった。昔には帰れないが、青い空、曇り空、雨の日、花や、植物、動物他、私という存在は宇宙という自然界に存在している。

光、酸素と水なくして一日足りと存在できない。ありがたや、ありがたやである。









2019-05-29

ロミオとジュリエットの発表会までストイックに日々を過ごす。

五月とは思えぬ熱波の日本列島、そのさなかにトランプ大統領のらいにちメディアフィーバー、そして川崎での陰惨な事件等、、、。

五十鈴川だよりを書く気が萎える、無関心というわけではないのだが、こうも煽り立てるかのような、紋切型の 繰り返しメディア報道にはいささかうんざりである。(肝心なことはやぶの中、ならぬ闇の底深くに在りそうである)

だから、余計なことを書くのは控える。できるだけ感性がささくれ立たないように、穏やかに過ごすために、気持ちの良い時間の過ごし方を心がけるにしくはなし。

とりあえず、6月22日のロミオとジュリエットの発表会に向けて、GW明けから私の生活は、そのための声出し朗誦時間をキープすることを中心に流れている。
もう終わりの我が家の蔓バラ、塾生にも少しおすそ分けしたい。

なにしろ、大公、ジュリエットの父親、ロミオに殺されるティボルト、五幕の薬屋、小姓、乳母の小姓のピーター、などを音読するので、なかなかに骨が折れる、(苦楽)でも声が出せる今こそがすべてだと、自分に言い聞かせる。(声が出る幸福を)

朝夕のどちらか毎日 音読する日が続く。集中力と持続力がすべてなので、初老の自分の体と向かい合いながら、一定のコンディションが保てるように、稽古を重ねている。

とにかくよく休まないと、私は声が出ない。細い体なのでなかなか深みのある声が出ないのだ。食も細いので、栄養があり、消化の良いものを採る様に心がけ、できるだけ本番をベストコンディションにと願うばかり、怠惰を返上、ストイックな日々を過ごしている。

私のコンディション が悪かったら、まずレッスンに響く、塾生すべてに迷惑が及ぶ。ささやかな塾の長としては、まずは己を厳しく律する、当たり前のことである。

今夜、5月最後のレッスン 。残すところ3週間と4日、悔いなく塾生共々本番に臨みたい。

2019-05-25

白む月を眺めながら想う今朝の五十鈴川だより。

窓から、半月の月が見える。偏愛的に私は月を愛でる。そういえば昨日の夕日もすごかった。刻々と日の出が近づく、すでに夜が白み始めている。

この静けき いっとき、精神のニュウートラル状態、起きたばかりの胡乱な時間帯が、ことのほか私は好きである。このようなことは五十鈴川だよりに、たぶん何十回も書いているだろうし、今後もきっと繰り返し、変奏曲のように書くのだろう。

太陽と違って、月は内省的におのれを導いてくれるような気がする。陽が沈み闇が濃くなると、おのれの体も微妙に変化するように、自然の摂理とおのれの体は、女性ならずとも、男性も密接であることを感じる。

幼少期、思春期、青年期、壮年期、そして今は初老期だろうか、時の移ろい、季節の移ろいの中で、はなはだ今もって揺れる(いい意味で)おのれを生きている。

このようなことを書くのは以前ははなはだ気恥ずかしかったが、やはり年のせいか厚顔になってきつつある。


話を変える。昨日カラー印刷のロミオとジュリエットのチラシができ、夕刻Nさんと待ち合わせ、200枚ほど受け取った。今手元にある。

7年目にして初めてのカラー印刷の、発表会のチラシ。塾を立ち上げた時よもやまさかこのような形で発表会ができるとは、予想だにしなかった。

私も含め、わずか7名でロミオとジュリエットの発表会ができるようになるなんて。すべては、このような時代のさなか飽くことなく、口を動かし続けている塾生たちの努力の賜物である。

ことをやれる面々が自分たちの発表会に足を運んでもらうべく、自主的に行動実践している。そのことが私にはうれしい。

そして、塾生がゆっくりと成長(多面的に)してゆく様を、ことのほか今年は実感している。昨年塾に加入、今年初めて発表会 に臨むOさん、チラシ創り、音作りと、フル稼働のNさん、会場の予約折衝などのMさん他、自主的に動いている。

今まさに生きている、という実感が乏しいと、なかなかにシェイクスピアのコトバは絵に描いた餅のような、血の通わない台詞になってしまいがちである。

台詞の躍動感、ダイナミックに奔流のようにほとばしる情熱がないと、シェイクスピアのコトバは立ち上がってこない。とくにロミオとジュリエットは青春の愛と死の劇だからである。

ロミオとジュリエットは青春残酷物語である。


2019-05-22

第7回、6月22日(土曜日)シェイクスピア遊声塾発表会【ロミオとジュリエット】の第一弾、25通を郵送しました。

5月22日の五十鈴川だより。一月後の6月22日が、シェイクスピア遊声塾の第7回目の【ロミオとジュリエット】の 発表会である。

塾生も私も、仕事そのほかいろんな今を生きる多忙を抱えながら、本番に向けて稽古を積み重ねている。

生活を抱えながら、その中で時間を縫うように、あの膨大なセリフを朗誦することの困難さを体感しながら、それでも果敢に情熱を持続している塾生たち を見ていると、いやがうえにも、そのエネルギーが私にも乗り移ってくる。

私も含め、7名であの多くの登場人物を朗誦することは、やってみればわかるが、それはそれは大変なことなのである。我ながら無謀な塾ではあると認識しているが、賽は投げられているのである。
来週カラー版もアップします、取り急ぎ白黒で。

7年目、とてもいいチームワークで稽古が行われている。昨年から加入されたNさんが素晴らしいチラシを作ってくれ、いやがうえにも士気が上がっている。

チラシができたことで、あとは私としてはひとりでも多くの方に、シンフォニーホールのイベントホールに、足を運んでいただけるようにPRするだけである。

というわけで朝からチラシを折り込み、あて名書き、一筆入れ、先ほど第一弾25通をポストインしてきた。

この歳で、企画者時代に還ったかのように、あて名書きをしている自分がいる。何やらおかしい、このでデジタル時代に。でもまあいいのだ、私は昭和男子、アナログ手書きがをこそ愛する、融通の利かない時代遅れも甚だしき、絶滅危惧種を自認している。

そのような絶滅危惧種男の塾に、デジタル世代の塾生が、新しい感覚で新しい風を吹き込んでいる。そのことが私には新鮮である。

2019-05-18

昨夜、天童大人詩の朗読パーマンスを体感しました(そして思う)。

岡山のギャラリー、テトラへドロンで白石斉(古い文字がパソコンでは出ないご容赦を)・孝子、ご夫妻では初めての【陶】と【絵画】二人展が、15日から20日まで行われている。
素敵なご夫婦であられる(お招きに感謝)

その二人展の会場で、午後6時から、天童大人氏による現代詩朗読パフォーマンス がおこなわれ、案内をいただき、これはゆかねばと直観、体感した。(ご夫婦のプロデュース)

結果、まさに思わぬ聲の響きがわが体に、まさに矢のように、聲のつぶてが飛んできた。つたなきわが一文でその礫の凄さを 表すのは至難、よってこれ以上書くことは控えるが、それでも、わが五十鈴川打だよりに、日常生活の在り様の奥深さに日々気づく暮らしを堪能しながらも、やはり出かけてよかったと思わせるに十分な、出来事であったことを、きちんと書いておきたい。

これまで、私は詩の朗読会なるものに、何回かは出かけた記憶があるのだが、このように自分が書いた、叙事詩的詩を自らの声で、何かがとりつき舞い降りてでもきたかのように聲を発する詩人の姿を、はじめて目の当たりにした。

振り返れば人生折々、私ごとき凡夫でも あの日の出来事が、その後の日々に忘れえぬ何かを、刻み付けることがあるが、昨夜の出来事もその一つに入るだろう。

縁あって、唯一無比の詩人の雄たけびにも似た、朗読パフォーマンスに聴き入ったのは十数人。終えて立食のパーティ、約一時間出会えた方々と歓談することができた。

多士済々、ユニークな方々ばかりだった。白石ご夫妻とのご縁は、岡山に私が移住したのと同じころ、ご夫妻も岡山の赤磐市の山中にアトリエと家を構えられ東京から移住。

私がアフリカのイベントを企画して動き回っているころに出会い、イベントにも足を運んでくださった。

聲の摩訶不思議・検索してどこかで氏の聲を体感してほしい

昨年、シェイクスピア遊声塾のリア王の発表会にご夫婦で来てくださって、お褒めの言葉をいただき、今回丁寧なご案内をいただき思わぬ出来事の夜となった。

いきなりだが、私の好きな演出家の一人(まだご存命だと思う)木村光一氏が詩は書けなくても、詩人はいるとおっしゃったことを、私は 若いころ文学座のアトリエで聴いたことがある。

私が、シェイクスピア作品に惹かれるのは、やはり劇詩人と呼ぶほかない言葉の魔術師だからだろう。コトバ・ことば・言葉(とハムレットは言う)そのあまりの人間存在の謎、精神の奥深き律動・発動、言葉の輝きは私を 詩的(とよぶほかない)飛翔想像世界へといざなう。言葉を発しないと精神が澱む(気がするのである)。

厚顔にも書こう、シェイクスピアの万分の一、くらいの詩的感性があればこそ、シェイクスピアの劇詩人としてのコトバ宇宙に、揺蕩いたいと音読したいと、初老男は夢見るのである。

2019-05-15

わが故郷にあった、幸節館という弓の道場の主、I先生との出会い。

先のGWの帰省ではちょっと驚いた出来事が、出会いがわが故郷で起きた。あれからかなり時間が経ったが、わずかではあれ五十鈴川だよりに、きちんと書いておきたい。

65歳で、弓の稽古を始めたことに関しては、特に始めたころはたびたび五十鈴川だよりに書いていたと記憶するが、このところはほとんど書いていない。

理由に関しては自分でもよくはわからない。ただいえるのは、弓の稽古は細々とではあるが続いている。

素引きをしないと、すぐに体の感覚がダメになるので、門川(わが故郷、五十鈴川が流れている)に弓と素引き用の矢を一本持参した。

射る矢を持参しなかったのは、門川に道場がまさかあるとは思いもしなかったからである。ところが、まさかとの思いで、姉に門川に弓を射る道場はないかと尋ねたところ、行ったことはないけれど、道場があるとのうわさを聞いたことがあるから、行ってみるかというではないか。
幸節館道場

さっそく二人して、その場所を車で訪ねると、通りからちょっと入った住宅街の一角に、いきなり幸節館と書かれた立派な道場が目に入った。3人が射ることができ、28メートルの距離には玉砂利が敷き詰められていて、手入れが行き届いていて草一本生えていない。

とにかく立派な道場であることに驚いた。そこに道場の主であられる風格のあるご年配がおられたので、恐る恐る巻き藁をさせていただけないかとお願いすると、いいですよとのお返事。

中に入って再び驚いた。 その道場の主は教士の資格をお持ちの(七段、すべて一回の試験で合格されたとのことに驚嘆した)方だったのである。御年82歳であられるI氏との出会いとなった。

先生(とかってに呼ばせていただく)は矢があれば射ることができると言ってくださった。たまたま、道場に、延岡市にある日高弓具店 という私と同姓のお店の住所と電話番号があったので、兄に運転してもらって、名前にも惹かれてその弓具店を訪ねた。

そこで、またまた驚くべきことが起こった。何と日高弓具店は、先祖が私と同じ宇納間の方だったのである。

御主人に先立たれたのち、以来女手一つで何とかお店を守っておられる方で、ご年齢は81歳とのことであったが、お元気であった。ご先祖が同じということで気心が瞬時に通い合い、私は矢を買った。

そして翌日道場におもむき、的前に立たせていただいた。岡山以外の地で的前に立ったのはもちろん初めてである。
岡山に帰る前の朝記念撮影(弓をされるお孫さん撮影)

I先生が後ろで私の射を厳しく見ている。緊張したが、何故か気持ちよかった。流派が異なるものの、そのあまりの的確な指示に驚嘆した。

結局、時間は短かったが午前中3日間、的前に立たせていただいた。先生は14キロの稽古用の弓を買いなさいとおっしゃった。私は岡山に帰る前日、再び日高弓具店に行き、14キロがなかったので注文した。

これからは帰省の度に、幸節館で弓が引ける、うれしい。先生は今現在はあまり弓は引かれていないが、私の前で射をされた。私は82歳の方が引く姿を初めて目の当たりにした。

いきなりの射で、4本の矢を引かれ3本的中、4本目も的をかすった。言葉がなかった。 先生は毎朝、道場の草を抜いたり、水を打ったり植物を育てたりしながら静かに過ごされている。その物言いと姿が、頭に焼き付いている。またお会いしたい。

2019-05-12

桑江良健(画伯)氏が我が家に来られ、旧交を温めました。

10日夕刻、岡山に桑江良健氏(沖縄が生んだ畏怖する画家、私の友人である)が来られた。

氏に会うのは、2年前我が家でやったミニの展覧会 以来である。岡山駅で待ち合わせ、いつもの私の愛する、路地奥の小さな中華の店で軽く夕食をして、近くの居酒屋で九時過ぎまで、旧交を温め歓談した。

氏は私より3歳年上、 氏の長き足跡は端折るが、青年期建築の仕事を忽然と辞め、日本を脱出、行き着いたパリで画家を志す。パリのルーブルほかの美術館で先人たちの画業を長年にわたって独自に研究、当時としては極めて珍しいルートで北アフリカ、アラブ諸国を旅しながら、イランからアフガニスタンのカイバル峠を超え、アジアへ入り、陸路で数十年ぶりに沖縄に帰国、腰を据えて画業に取り組んでおられ、今年古希を迎えられた独自、無比の画家である。

出会いは、奥様の沖縄の人形劇キジムナーを、中世夢が原で企画したことによる。奥様の純子さんは若き日、台湾の人間国宝に弟子入りし、指人形を習い、沖縄に戻って地元に伝わる民話から物語を創作、人形作りから企画演出まですべてをこなし、良健さんは、画業の傍ら指人形の相方を務めていたのである。

桑江良健さんが娘にプレゼントしてくれた絵
以来つかず離れず、 20年以上の交友が続いている。なぜ交友が切れないのかは、判然としないが、沖縄人としての矜持、アイデンティティーをゆるぎなく絵の中に込めておられる、そのエネルギーの純粋さが、私に伝わるからである。

それは、まったく奥様の純子さんにも言える。ともあれわが拙き五十鈴川だよりにご夫妻のことを、わずかでもつづれるなんてことは、禍福である。

沖縄の名護市、済井出に住むお二人の住居は個人美術館でもあり、氏の絵と純子さんが作られた、人形が常設展示されている。

我が家に泊まり、昨日は午前中ずっと多岐にわたって話に花が咲いた。昼食は外で穏やかな陽光の中、八朔の樹の下で妻と3人でとり、良き思い出ができた。

それと何としても記しておきたい。氏はこの夏結婚 する次女のお祝に一枚の絵を下さった。人との縁、出会いのありがたき不思議さに感謝するばかりである。

2019-05-07

前回の帰省で出会った日高ご夫妻に再会できました。

ふるさとから帰ってきました。今日から普段通りの日々が始まります。わずか4日間の滞在でしたが、今回もまたありがたき再会、新しい出会いがあり、極めて充実した回帰旅となりました。

まずは何と言っても前回の帰省で、ご先祖の地でたまたまお会いして 意気投合した、日高ご夫妻に再会したこと、できたことが大きなありがたき出来事でした。
ごめんなさい。写真アップしました。

今日は先ずそのことだけを書きたく思います。帰り着いてすぐ電話を入れ、4日の昼前にうかがえる約束が成立、当日はお酒が入るので、バスでゆくことにしたのですが、わずかしかないわがご先祖に通じるバスが、休日は運航せず、急きょ兄が運転して行ってくれました。

この季節、農家の方は田植えの準備他で大変お忙しい時節の中、ご夫妻は私と兄を、大歓待してくださいました。

ついてすぐ、ほんの少しご先祖の地を散策したのですが、まさに新緑が沁みるこの季節、お天気は最高で、身も心も緩み、ほけたように歩いていると、向こうから田仕事をしていたご主人がトラクターで手をあげて帰ってこられ、すぐに歓迎昼食会と、相成りました。



真心がこもったお料理
兄は運転でのまず、ご主人も仕事中で飲まず、私だけががぶがぶとビールを飲んだのですが、お料理上手のE夫人の作られた、すべて地場産の郷土料理に、私の体の奥深くが緩みました。

まるで、ご先祖からの贈り物であるかのように、受け継がれたその地の手料理が、まさに大地の恵み、宇納間の自然からの 恵みが、テーブルの上に並び置かれていたのです。

ワラビ、ぜんまい、タケノコ、シイタケ、厚揚げの煮しめ、ゆずの千切り(漬物風味)、しょうがのみそ漬け、 等々。薄い味付けの甘いいなり寿司、前回いただいて感激した栗おはぎ等々が、もちろん食べきれないほどにズラリ。

質実剛健なご主人と、読書や芸事がが大好きな夫人は対照的でありながら、実にお似合いの、まさに一昔前の理想の日本の夫婦像をほうふつとさせる、ベストカップルです。

愉しい語らい再会昼食のひと時は、あっという間に過ぎお別れ時間となりましたが、この同姓ご夫婦とは、君子の交わりで、帰省の度にお会いしたいものとの、一念をいよいよ深くしました。

今回もまた、たくさんの心づくしのお土産をいただきました。このつたなき五十鈴川だよりで深く感謝をお伝えします。


2019-05-02

ふるさとをを目指す回帰旅の朝に想う。

令和が始まり、昨夜初めてのシェイクスピア遊声塾のレッスンを私も含め、3人でいつもとはちょっと異なる充実したレッスンを普段通りの時間まで行うことができた。

遅く寝たのだがすっきりと起きた、故郷を目指す前の、ちょっとの五十鈴川だよりタイムである。3泊になるか、4泊するかまだ決めていないが、その間五十鈴川だよりはオフである。
ますます亡き父に似てきた私である(DNAか)
 すっかり静かな暮らしが板につきそうな私なのであるが、故郷への個人的な小さな往還旅は、おそらく最後まで続くだろう。(そう望みたい)

ふるさとへの往還を繰り返しながら、今を生きる己を静かに見つめなおす。見つめなおす最適な場所が 、私の場合ご先祖に直結する五十鈴川なのである。

生理的に身体の奥が、いまだ疼くのであるから しようがない。川の流れではないが、おのれの流れにゆだねるしかないではないか。自然に身をゆだね、あるがままに、ゆく川の流れは絶えずして、もとの水にあらずと、という心境。

昔からすぐれた諸行無常感を、先人がこのように書いておられるのに、いたく感心し、まさにその通り。すべては一所不定、移り変わり行き、久しくとどまりたるためしなしである。だが、目には見えないが、その中に普遍の何かをとらえ、見ようとする魂が感じられる。

同じように毎年帰省しながら、何かが微妙に推移、老いつつもなおオーバーだがどこか生まれ変わるかのような感覚にとらわれる、(すがる)ありがたい私の回帰旅である。


2019-05-01

令和の始まりの朝の、五十鈴川だより。

令和最初の五十鈴川だより、である。私はどこから来て、結局どこへ向かって(生きて)ゆくのか、などと、柄にもなくこのところ真面目なことを考える時間が減らず、老いが深まってゆくにつれて、老いゆく思索をつづる、五十鈴川だよりに今後ますますなってゆく我である。(当たり前死に向かって生きてゆくのである)

それもこれも、生きてゆく中で日々細胞が生まれ変わる様に、おのれの在り様も不確かながら、確実になにがしかの変容を生きている(いきてゆかざるをえない)からに違いない。
 おのれの寿命などというものなどは確実に不確かであるが、昭和に生まれ、平成を生き、子育てを終え、これからの令和の時代をどのように、あらためて日々生きてゆこうかと考えてしまう。(いまはただ思い考え、つたなき一文を綴れることが、どこか愉しい)
先日の輪読会でI先生に頂いた坪内逍遥訳のシェイクスピア研究のしおり

とまれ、昨日の今日、だが何かが微妙に、書いていて変わったのだという気がするのはなぜなのだろう。たまたまGWと重なり、仕事がないせいか毎日のように五十鈴川だよりを書いているが、書くことで、内からコトバが湧いてくる、そのことにどこかしら、つたなき恥ずかしさも覚えながらも、厚顔につづる我がいる。

話を変える、昨日妻と次女が帰ってきた。妻を迎えに夕方岡山へ行き、そのまま岡山市内の、とある中華のお店で、母と妻と次女4人で平成最後の夕食を共にした。母は昭和8年生まれ、元気に令和の時代を迎えることができたこと、我が家にとってはささやかにおめでたくもうれしい夕食となった。

わずか4日間のひとり時間はあっという間に過ぎたが、妻の不在で改めて妻の存在の大きな有難さを感じ、いよいよこれからの夫婦時間というものを、いかにともに生きてゆくのか、を考える良き時間ともなった。

さて、今日は夜GWにもかかわらず、参加する塾生がいるのでレッスンする。たまたま令和の始まり初日が、レッスン日と重なったのも、私の中ではこじつけでも意味を成す。GWのさなか、声を出す塾生がいるという有難さを感じる。

大変貴重なものもっと歳を重ねたらゆっくりと読みたい

そして、明日からは私ひとり故郷へ里帰りする。老いが深まがりゆく中 、わが心はなぜ故郷を目指すのか、私にもわからない。

数日過ごしてまた帰ってくるのであるが、折々足がどうしても故郷を目指す。身体が動くうちは年に数回は、これからもふるさとの空気を吸いに帰り、五十鈴川がある限り、そのほとりに立つだろう。

妻に今はまだそのようなことは、考えなくていいと叱られるが、(考えるのである)人生の最後は五十鈴川の近くで、終えたいと願い、思うのである。

だがその時までは、一日でも長く五十鈴川だよりを綴るためにも、孫の望晃くんと五十鈴川で遊ぶためにも、与えられた令和時代時間をしっかりと生きるおじじでありたく、思う。