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2020-04-30

緊急事態生活、初老凡夫は想う。

起きたばかりでまだ身体は胡乱な状態であるが、何か書きたくなる。新聞が届いていて一面に緊急事態宣言延期へ、とある。

主に3月中旬あたりから万人に与え続けている精神的、心理的不安激震は今も続いていて、今後どのような形での推移してゆくのかさえ定かではない状況を、オーバーではなく世界中の人々が生きている。

もう、いわばかなりの人生の季節を終えた初老凡夫の私でさえ、孫たちの行く末の未来を案じるのだから、突然降ってわいたような生活窮乏に陥られた方々の境遇を想像すると、まさに言葉を失う。


もし自分がそのような立場になったら、どのような言葉も心に落ちなくなるのは必定である。五十鈴川だよりではこれ以上の言葉をつづるのは控えるが、人生は不条理、非情であるというこれまでの歴史(現在もだが)を鑑みると、無常観すら漂う。

初老凡夫の語ることではないにもせよ、傍らに死屍累々のさなかでも、人類はその悲惨さの中から何かを学んで、今現在の世界的な問題山積の混沌の渦中を生きているのだと、知る。

話を変えるが、このひと月コロナ報道に埋め尽くされているかのような、メディア報道や新聞をかなり真面目に読み続けて、ずいぶんと感染症というものの恐ろしさや歴史を知ることができた。

時間があるおかげで、へーっと学んだいくばくかの記事を切り抜いて、ノートに貼りつけたりして、私なりに緊急事態生活をささやかにしのいでいる。だってこのようなことは、わが人生で初めてのことなのであるから、禍を転じて生きるにしくはなしとの、ごまめの歯ぎしりである。


いただいた白いチューリップと友人が作った流木オブジェ

そのような日々の中、一昨日霊長類研究所の雄、京大の山極寿一学長がM新聞に寄稿した【シリーズ疫病と人間の第一回】じっくりと読んだ。興味のある方はウェブサイトを検索して読まれるのをお薦めする。

長くなるので五十鈴川だよりではこれ以上の言及は避ける。ビフォーコロナ、アフターコロナ、わが初老凡夫生活もささやかに変容を迫られそうな気配である。

普段からの、これまでどおりの、ささやかつましやかな生活の充実を実践するくらいしか、私にはこれといった特効薬は見当たらないが、わが国の良寛禅師の生き方他、こういう時にこそ座右において、範を示してくださる先人たちの姿から学ばねばと初老凡夫は反省する。

2020-04-26

こういう時はただじっと天を仰いで、大地を眺めて過ごす。

珍しく兄からメールが届いて、著名人の死にショックを受けた内容がつづられていた。私から兄にメールを送ることはあっても、兄の方からのメールは、たまさかのことなので、珍しく私もちょっと長めのメールを返信した。

先週18日以来なので、ほぼ一週間ぶりの五十鈴川だよりである。誤解なきように書くが、私自身の日々の暮らしは、毎週7年間以上続けていた、シェイクスピア遊声塾のレッスンに、夜出かけなくなったくらいで、生活にはさほどの大きな変化も支障も今のところはない。有難いというほかない。

が、都市部や盛り場観光地ほか、ヒトの気配が消えたかのような映像を見ると、いかにこの新型ウイルスが多面的に経済他社会的に影響を与えているか、心理的に不穏な圧迫、予測の立たない状況下に、日本列島、世界各地の人々が置かされているのかが、身につまされる。

きっと私のような、凡夫の想像力を凌駕するような事態が、頻発していることは想像に余りある。だからといって、何ができるのか、何をしたらいいのかは、悲しいほど各々で考え耐えるしかない。
あまりにも赤裸々な人生が豪放磊落に綴られていて打たれた

NHKのメインのニュースなどはほとんど見ないが、珍しく東北原発事故津波災害以来、私にしては珍しくインターネット上での様々な情報を、たまにだが開いている。まさに時間がいくらあっても足りないほどに、情報があふれかえっている。

こういう時にこそ、自分の体で物事を冷静沈着に考える力のようなことが試される。インターネットのおかげで、明るくなる話題や勇気をいただける個人発信の人間力あふれる方々の、多数の存在を知ることができるのは、デジタル時代の良き面であるとは想う。

私のような時代に即応できかねる、ついてゆく気のない初老男にとっても、表裏があっても良き面をあらためて、認識しなおしている。要は情報をかみ砕く己の良識次第である。

さて、見通しの立たない日々だが時間は過ぎゆく。日々人は亡くなり、新しい生命はこの渦中でも生まれてくる。どのような悲惨な歴史も、人類は破滅せず何とかしのいできた歴史を、遅まきながら改めて知る時間に充てている。

私の個人史の時間の中でも、東北の原発事故以来の大事件になりそうなパニック化もやぶさかではないコロナウイルスの猛威が、終息するのを祈るしかない。やがてこのコロナウイルス終息後の世界が、どうなるのか、ならないのか、私が元気であれば、是非見届けたいところである。

根本的なパラダイムシフトの変換が、起きてゆく方にじんるいの英知の結集を初老凡夫と しては、願わずにはいられない。

東京一極集中のみならず、大きな都市に人間が過密に暮らす街づくりを根本から見直さないと、ウイルス感染は今後もたびたび猛威を繰り返すのではとの杞憂である。私の生まれた五十鈴川の流れる小さな町には今のところ、まだ一人もコロナの感染者が出ていない。

限界集落に近い姉兄たちの暮らす小さい街と、 テクノポリスとの感染者のあまりの格差は何を暗示しているのか、凡夫の私でさえ恐怖を覚える未来図、考えたくはない。私は限界集落で、金に振り回されず、五十鈴川を眺めて魚釣りでもして、焚火などしながら暮らしたい。

遺伝子の組み換えはじめ、優性思想、俗に世の中を支配しようとする側の人間たちは、人間には制御しえない世界が、宇宙の摂理、神の領域があることに鈍感である、とおもわざるを 得ない。

コロナ新型ウイルスの不気味さは、人間の存在の在り方を直撃しているかのように、私には思える。でくの坊という存在に初老凡夫は限りなく憧れる。



2020-04-18

コロナウイルスの猛威の中、手の届く範囲での生活を今一度見つめなおす。

起きたら雨が上がっていた。今週は外での一人体動かしアルバイトが恬淡と続いているおかげで、今のところ私の体調はコロナウイルス騒動以前とほとんど変わらない。

だが国内はもとより、この世界的なコロナの危機は、今しばらくというか、画期的なワクチンや薬でも開発されない限り、長期戦の覚悟をすべての国民が覚悟するしか方図がなさそうな雲ゆきである。ゆめゆめ油断は禁物である。このウイルスは変幻自在、神出鬼没である。

春爛漫の最高の時節のいい季節に、自室からあまり出ないような自粛生活はことのほかの禁欲的なストレスをもたらすが、致し方ない、 耐えるしかないい。

この数十年、必ずGWは故郷に帰って、英気を養い、穏やかな故郷時間を楽しんでいたのがまるでかなわぬ事態になったことに、いささか呆然自失の体である。あと一週間もすれば故郷の空気の中に居られたのに、かなわぬことになってしまった。(本音を言えば、だれとも接触をせず、五十鈴川にたたずみ春の陽光に身をさらしたい)
万分の一でもこの方のように老いてゆきたい

したがって、私はGwを人とは会わず、主に家の中で過ごすことにし、気分転換には近所のお散歩、この際簡単な料理などにも挑戦したりして、なるべく気分がふさぎがちになるのを防ぐためのあれやこれやの対策を立てようととかんがえている。(誰もいないところで、距離を保ち、マスクをして無言の焚火なんていかがだろう?誰もいない海に向かってシェイクスピア作品のコトバを大声で胎の底から出すなんてのもいい)

薫風と新緑が目にも鮮やかなこの季節、コロナウイルスのパンデミック狂騒がなければ、年に一度の日本人にとって天国のようなGWであったはずが、身動きの取れないあらゆる意味で不自由な生活を余儀なくされようなどとは、いったい誰が想像しえたろうか。

事程左様に、まさに一寸先のことは予知しえないということを、あらためてウイルスという目に見えない感染の恐ろしさを、凡夫の私はようやくにして、お恥ずかしながら実感している。今はただ、識者たちの言に従い、ヒトとの接触を避けての生活を営むほかはない。

信頼できる山中伸弥先生の言説や、本庶佑先生などの意見に深くうなずきながら、普段できない手の届く範囲でやれることの中に、新たな喜びを見つけたい。非常事態をいかに生き延びるかの知恵を養うたまさかな時間だ、くらいに考えたい。 そして、医療従事者はじめ、多大の犠牲を払いながらお仕事に従事されているあらゆる職種の方々のことを、こころの片隅で想う。


2020-04-12

コロナウイルスの脅威に雨音を聴きつつ凡夫は想う。

小さな温帯的圧程度の認識であったコロナウイルスが、凡夫のはるかに及ばない、想像を絶する超大型台風並みの感染爆発が、わが国でも大都市ばかりではなく、地方にまで及びそうな気配である。

もう何度もかいているから重複は避けるが、この3週間、特に4月に入ってからは不要な外出はしていない。アルバイトには出かけているが、ひとり野外での仕事なので 仕事中はマスクもしていない。

先のことは、ゆめゆめ予断を許さないが心身ともにおかげさまで今までとほとんど変わらない生活ができている。都会をはじめ盛り場からは閑古鳥が鳴いているかのようにヒトの気配が消えている。極端に人影が消えている。(ようである)

私を含めた多くの人が自宅で過ごしているのだろう。自由気ままに行動できないということが、ヒトに(特に動き回るのが大切な子どもに)これほどの負荷を心理的な抑圧を与えるのかは、個人差が大きいとはいえ、狭い団地やアパートで過ごさなくてはならない状況下に置かれている方々の、やり場のない閉塞感は想像に余りある。
軽くて最高、希望のマスクである

話を変える。一人一人が嵐の過ぎ去る方図を試行錯誤するしか、今のところ対策特効薬はないと覚悟するしかない。妻は手作りのマスクを作っている。だから私はマスクを買っていない。東京の娘たちにも送るそうだ。

心ある企業人たちが消毒液を寄付したり、国内外善意の支援を差し伸べたりしている方々のニュース映像も目にしている。方や便乗悪徳の輩のニュースも。人間というものは(私自身も含む)実に厄介至極である。

ヒトはそれぞれの置かれた状況を生き延びるしかない、というのが冷静な私の認識である。だから余裕のあるうちはきれいごとが書けても、いざとなったらわからないくらいの自己懐疑力は持っていた方がいい、と思う。

とはいうものの、できる限りギリギリまでは付和雷同しないための力を養っておきたいと念う 。いざという時、危機に人間の本質が図らずも露呈する。他人れんさのごとではなく、自分が感染した時にどうするのか、どうなるのかを考えてどうにもならないにもせよ、考えねばならない、いよいよのこれからのひと月のゾーンに入ってきたかの認識を持っている。

まったく他人ごとではない、自分自身のこととして考え行動し、生活し、大切な命と日々向かい合わなくてはならない。オーバーではなく覚悟がいる。



全編日本語で書かれている(外来語はカタカナのルビ、すばらしい)
さしあたって、生活の些事を丁寧に行い、これまでとほとんど変わらない静かな暮らしを今のところ続けられているのは、身体が動いてくれるおかげである。コロナウイルスは当たり前のように生きて動ける根源的な喜びの何気ない有難さを、知らしめる。

 欲望の肥大化した便利快適、グローバル人類都市化社会に、コロナウイルスは変幻自在に姿を変異し忍び込む。脅威である。文明の恩恵を被って生きていられる私自身の生活の今を、根底からコロナウイルスが脅かす。

足るを知らない、消費資本主義グローバル化社会の行く末、近いうちにコロナウイルスがもし終息したとしても、未来、果たして今後どのようなウイルスの新たな脅威にさらされるのか。コロナウイルスは前代未聞の問いを人類社会に向かって投げかけているのではと、蒼穹の下春の訪れを告げる草花を眺めながら凡夫は想う。

2020-04-09

夕方月を眺め、明け方再び同じ月を眺められる今に感謝する私。

起きて新聞を取りに行ったら西の空に美しい満月が残っていた。昨日夕方用事があり先月の遊声塾のレッスン以来久しぶりに岡山に出掛けたのだが、その帰り東の空にぽっかりとオレンジ色の満月が姿を現し、月の大好きな私は車窓から月と満開の桜を車を運転しながら、しばしコロナウイルスのことを忘れ、お月見とお花見を一人で楽しんだ。
東京の娘たちに贈ることができる

この調子では塾が再開できるのは先のことになりそうではあるが、生来の宮崎人的なのんびり屋でもある私の一面は、なる様にしかならないいわば危機のようなことが出来すると(個人的ではなく、これほどの社会的な危機はわが人生で初めてである)じっと嵐が過ぎるのを待つだけである。

できるだけ危機的状況を、そのさなかにあってもできうる限りの範囲で、なせることを淡々と生活するだけである。昨日は肉体訓練労働アルバイトがお休みだったので、午前中はキンカンの収穫や、午後はバイト先で借りている個人的な小さい菜園場に植えていたネギを収穫したりした。

それ以外にも声出し、弓などのルーティンワークがいろいろあるし、掃除やメルの散歩や買い物など、日々の暮らしのこまごまとしたいわば生活がいわば私の場合基本なので、その基本を先ずは押さえたうえでの、生きがい的な趣味、それがかなわぬ時はあくまであきらめるにしくはなし、といった心境なのである。
このところ普段はあまり読まない小説を読むのが愉しい

世界の非常事態地のあまりの急激な感染拡大で生じている惨場、遺体が放置されている映像などを見ると言葉を失う。関東大震災やおそらく戦中戦後の庶民の暮らしなども、簡単に比較することはできないが、もっともっとすさまじかったはずであるし、早い話人類は幾度もこのような危機を潜り抜けてきたのであろう。

ウイルスの災厄が自分のこととして 、親族、家族や友人に及ばない限り、悲しいかな人間は受け止める想像力の限界を生きるしかないにもせよ、この未曽有のわが人生に訪れた突然の危機を、一庶民の日本人の一人として落ち着いた行動をしながら、日々の暮らしの生きられるありがたさや、当たり前に桜や月を愛でられる今に感謝する私である。

何はなくとも月は出て、花は咲く。食いものさえあれば、命がつなげる。命が在っての仕事である。先人たちは乗り越えてきた、そのことから学ぶ、そのことを私は肝に銘じるつもりである。


2020-04-05

CW・ニコルさんがお亡くなりになった、そして想う。

昨日CW・ニコルさんの訃報に接ししばし言葉を失った。いつも思う、亡くなられていかに自分がその方から影響を受けていたのかがわかるのである。

20代のころ、氏の書かれた小説を数冊読んだ。 今も手元にそれらの本がある。自然を破壊して突き進む経済優先資本主義の行く末に、絶えず警鐘を鳴らし続け、こよなくこの水の惑星の素晴らしさを教え続けてくださった、稀有の畏敬するナチュラリストであられた。行動し体感し発言し文章で伝える、文武両道の達人であられた。

お目にかかることは かなわなかったが、いつか氏が心血を注がれた晩年のお仕事、長野黒姫山のアファンの森を訪ねたく念っていた。年のせいだと思うが、年々私の自然回帰、ふるさと回帰志向は深まるが、やはり心の片隅のどこかに氏の存在が自分の中に生き続けているのを感じる。

M新聞にカントリージェントルマンを不定期だが連載しておられ、時折切り抜いたりしていて、お亡くなりになられる4月2日(木曜)も掲載が続いていたし、よもやまさかその2日後に訃報を聞くとは思いもしなかった。

カントリージェントルマンは直腸がんに侵され、入退院を繰り返しながら書かれたのであることを知らされる。そのいちいちの文章の重みをしっかりと受けとめなくてはならないと、ぼんくらの私は感じいる。

朝一番新聞を手にした、短い評伝を書かれた萩尾信也氏の一文にこうある【 人間は、大自然の恵みへの感謝と共生のすべてを忘れてしまった。この星はいったいどこに向かっているのだろう】と。

33年前、35歳の時に読んだ長編あらためてもう一度読みたい

コロナウイルスのまん延に、カントリージェントルマンの一文で、ゆきすぎた経済発展幻想文明に 病床から警鐘を鳴らし憂いておられた【新型コロナウイルスは、今後、我々を襲うであろう災厄の先駆けに過ぎない】と。

わたくしごときの頭でこれ以上の拙文を弄することは控えるが、昨年暮れに亡くなられた中村哲先生も長きにわたって、行き過ぎた文明の作りだした温暖化をことあるごとに危惧しておられた、終わりの始まりを。クラスター爆弾や レジ―カッターほかの、おぞましい新たな生物を使う人間に(兵器の殺傷能力、いつも無辜の民が犠牲になる不条理に暗然たる怒りがにじんでいた)絶望しておられた。

中村先生のいいしれぬ深い憂鬱とCW・ニコルさんの底しれぬ苦悩は、方やアフガニスタンの緑の用水路となり、方やアファンの森となったのだと、今にしてわかる。

お二人に共通して言える偉大さは、絶望を希望に変えたまれな行動力と具体的に具現化する根性を伴った頭を併せ持っていた。傑物というほかはない。

コロナが落ち着いたら、アファン の森を訪ねたく思う。心からご冥福を祈る。


2020-04-02

シェイクスピア遊声塾しばし閉塾、そして想う朝。

4月が始まったが、全世界がコロナウイルスショックの渦中にあり、燎原の火のように広がり不気味である。わが国でも集団的な感染が地方でも起きる可能性は否定できない。

シェイクスピア作品の音読をまる7年にわたって続けてきた(これた)遊声塾のレッスンも昨夜からコロナウイルスが収まるまで、無期限のお休みとすることにした。

この7年間、数回お休みしたことはあるが、ほとんど毎週水曜日の夜はレッスンをしていた。だから昨夜は家にいるのがどこか奇妙な感じであった。昔から事実は小説より奇なりというが、まさにそのような感じ。

ハムレットは言う。この天と地の間には哲学など及びもつかぬことがあると。ロミオは言う、哲学でジュリエットがつくれますかと。私に言わせれば、コトバなどではとてもではないが、今わが人生で起こりつつある出来事の推移の懸念を言い表しうる術はない。

が、悲しいかな私の場合考える葦、心身機能を整える大部は、コトバにすがって日々をしのぐ。もうあらかた人生を過ごすことができた初老男なのではあるが、いまだ経験したことがない出来事が起こっている。(起こりつつある)いままさに非常事態かせんと、迫る状況下にある。
こういう時にこそ普段手にしない本を読んで過ごしたい

戦前戦後のあまりの過酷さを生きられた多くの諸先輩方は、あまたの艱難辛苦を潜り抜けてこられておられるから、耐性があるかもしれないが、我々の世代以降は食うに困らぬ世の中しかいわば知らないので、この状況が長引けば書きたくはないほどの事態が出来するのでは、との懸念はつのる。

とはいうものの、スーパーマーケットにはまだ食い物もあるし、戦前戦後のあの悲惨さとは比較しようがないほどの状況下ではある今、想うことは何度もかいているが浮き足立たない、じっと嵐が過ぎ去るまで静かに耐えることである。

耐えつつ考える力を持つということである。感染された方々や、医療従事者、物流で動いておられるかた、つまりはこの社会を底辺で最前線で支えてくださっておられる方々への感謝と、寛容の精神を見失わない努力が大切である。

ユウチューブなどで、気詰まり感を払拭するために、いろんな方々が希望を失わない試みをなさっている。若い方々はやはり素晴らしい。こういう時にこそITライフが有効なのだと思い知る。 五十鈴川だよりを書けるひとときが、どれほどわが一日にとってありがたいかがあらためてわかる。

当たり前の日常がこんなにありがたいとは。好きなもの同士集まって音読ができることがこんなにもありがたいとは。平凡の非凡さ、をこそ思い知る初老男である。