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2021-12-31

2021年最後の五十鈴川だより。

 2021年大晦日である。家族全員での朝食を済ませ、わが書斎にこもって寸暇五十鈴川だよりを打たずにはいられない、おじじである。

にぎやかという言葉があるが、27日午後次女家族と、長女が合流してから一気にこの2年分のうっ憤が晴れるかのような、にぎやかさ、にぎにぎしさ、老いも若きも各々の地声の言葉言葉言葉が家の中に満ちる。一番小さな命、葉君。次にちょっとお兄ちゃんになり、自在に言葉を操り始めた望晃くんを中心にして、多声な声が家の中に響き渡る。

直島のオブジェの中でくつろぐ長女家族

長老の母も、静かに存在感を示して言葉数は少ないものの、嬉しそうにしている。4世代揃っての大晦日は無論初めてである。年の瀬、このように能天気に五十鈴川だよりを 打てる、ささやかな多幸感は、わが人生で初めて経験する出来事である。

老いてみてこそ、でないと感じられない類のまさに出来事である、ということをいま、この時にしっかりと刻み付けたいのである。葉君や、望晃君の天然自然が放つまさに後光が刺すような、しぐさや動き、ほほえみ、泣き声、嬌声、眠りの妖精のような顔は、老い心を潤してやまないのである。こればかりは老てみないと。老いの幸徳というほかはないのである。

娘たち夫婦のむつまじさも、親としては他に何も言うことはない、いわばこれ以上何も望まない果報を、私と妻にもたらしてくれている年の瀬時間の在り難さである。

これ以上打つと親ばかを通り越してしまうので控えるが、古希をまじかに控えて、半世紀前のおのれを振り返り、このような半世紀後を迎えている現実、まるで夢の世の如しと、いうほかはないが、これは夢ではなく事実である。 何を目指して一回限りの人生を歩むのかを今後も繰り返し自問自答したいのだ。もし自問自答しなければ、おそらくこのような今を迎えることは、きっとかなわなかったのではなかろうかとおもう。

18歳の時に、幸福になりたいという漠然たる夢を描いてバッグひとつで上京し演劇を学び、艱難辛苦十数余年、挫折を重ね紆余曲折。思考錯誤の果ての今である。演劇を学んだことで生き延びることができた、のだと思う。演劇を学ぶことは生きる方法を学ぶこと、永遠の終わりなき哲学である。シェイクスピア作品で学んだ哲学思考。半世紀後、気づけば夢がかなったということをしっかりと五十鈴川だよりに打っておく。

人生谷あり山あり、今後も試練は続く。五十鈴川だよりは蛇行しながら流れてゆく。逃げ場はない、立ち向かうだけである。

 

 

2021-12-30

2021年の年の瀬を、家族全員で過ごすスナップショット、五十鈴川だより。


家族全員そろっての、2021年の年の瀬を過ごしている。

瞬く間に4日目の朝、寸暇を見つけて書斎にこもって書いている。たぶん五十鈴川だよりを打ち始めて最も短い拙文になるはずである。そして、いままでで最も写真が入った五十鈴川だよりになるはずである。昨日家族全員で直島を日帰り旅したので、スナップショットを長女の夫のレイさんがたくさん撮ってくれたので、あっぷし記録とする。
 

一番目の写真、義理の息子二人。次女の夫が関西風お好み焼きを作っている。二番目の写真は妻と母と次女、ミルクを飲んでいるのは、五カ月の葉君。3番目は母(90歳)の車いすを押す、長女の息子の望晃くんと夫のレイさん。4番目も同じ、5番目は母、望晃くん、葉君。6番目は砂浜で遊ぶ私と望晃君。7番目は言わずと知れた直島の有名なカボチャのオブジェに収まる家族全員のショット。


あわただしい年の瀬を避けて、直島での日帰り旅は、家族にとってきっと思い出に残る一日となったことを記念してわずかではあれ、拙文を打たずにはいられないほどに、良き年の瀬時間を過ごせたことの、記録を残す。パソコンを不自由にしか操れない私だが、すばらしき義理の息子二人のおかげで何とかアップすることができた。(長女の姿がないが、後日承諾を得てアップしたい)






2021-12-27

ダブルスタンダードを生きる宿命の望晃君のこれからを見据え、役に立つおじじを目指す覚悟を育む。

 すうねんぶり、いやもっと前から使っていない部屋である書斎で、五十鈴川だよりを打っている。北向きの一番寒い部屋である。冷たい冬の風の音がひゅーひゅーと聞こえる。だが打っている私の心は温かい。

長女の夫のレイさんと孫の望晃くんが一足早く我が家に帰省してきたからである。わずか一晩で、我が家の空気は一変した。そのこまごまを記し打つ時間はないのだが、爺バカは承知の上だが、3歳9か月の望晃くんの初々しい声が我が家に響き渡り、家がまるで生き返ったかのように、まさに感じられるのだ。

いま、望晃くんはおとうさんといっしょに私が普段使っている部屋で、朝食後のルーティンワークをやっているので、私も寸暇を見つけて五十鈴川だよりを打っているというわけである。先ほど次女家族と長女がすでに新幹線に乗ったとの知らせがあったので、今日はまた午後迎えに岡山に向かうことになる。

というわけで、午後からは一気ににぎやかなことこの上なし状態になるわけだが、これから新しい年までの年の瀬が団欒の、我が家のまさに小さなお祭りと化すのが、この上なく楽しみな私であり、妻はおそらく私以上の喜びで胸の内があ触れているのに違いない。

すっかり我が家になじんでいなければ、このような行動はなかなかにとれないであろうから、私も妻もこのような彼の自然な行動を、心から有難く思わなくてはいられないし、五十鈴川だよりに打たずにはいられないのである。

ともあれ、老夫婦二人だけの静かな家での暮らしに、いっきに灯が灯ったというほかない孫の存在感の不思議なオーラに、私も妻もいわばとろけてしまっているのである。

リヴィングで冬の陽ざしを浴びる望晃君

それにしてもなんともいえない成長した望晃のしぐさや、聲が我が家に響き渡る様は、オーバーではなくコロナ下、待ちに待ち望んでいたので、うれしさも格別なのである。老いゆく中で、娘たち夫婦の役に立つ、おじじ、おばばであることを、私も妻も願っているので、老いてゆく中での喜びとは、こういうまさに一瞬の中にこそ、在るのだということを、五十鈴川だよりに刻み付けたいのである。千差万別の各々の家族の在り様を、我が家の家族の今現在を。

加齢と共に、うきうきすることは現実的には減ってゆくことが摂理ではあるが、新しい生命の輝きの役に立つことこそが、これからの大きな時間の使い方になるのは自明である。孫の記憶に残るおじじでありたいと、願わずにはいられない私だが、そのためにはどうしたらいいのか、思案する。そのことがきっと私を活性化させるのは、まず間違いない。

私の老いらくの声が出る間は、要望に応えられる間は、日本語の読み聞かせをしたいと思う。ドイツ語の音読は父親であるレイさんがしっかりやる。望晃はいやでもダブルスタンダードを生きる宿命である。そのためにおじじとしてできることを私は思案し続ける覚悟を、望晃の声を聴きながら育むつもりである。


2021-12-26

師走の朝日を浴びる今朝の五十鈴川だより。

 今日も打ちます五十鈴川だより。今日は長女の夫レイさんと 最初の孫、望晃くん(3歳9か月)が午後帰ってくる。だからそこはかとなくうれしい。今私がパソコンを打っている2階の一番日の当たる部屋は彼らが使うので、しばし本来の私の書斎である狭い部屋で明日からは、すごすことになる。

昨年までは存在していなかった葉君も明日は帰ってくる し、いったいどのようなお正月になるのか、いずれにせよにぎやかなお正月になるのは確実なので愉しみである。

とはいうものの、暗い話題の世相を照らすかのような報道が多いさなか、事わが家族に至っては明るい話題が、このように 能天気に打てることがあり難いとは思うものの、私のような能天気に生きていられる環境には程遠い暮らしを余儀なくされた、あるいは余技なくされている多くの方々のことを勘案するときに、しばし打つのをためらうことがあるということも打っておく。

とくにこのコロナ下のこの2年間は、いうに言えないような私の想像の及ばない切迫した状況下を生きておられる方が多くおられるのではと想うと、いくら能天気な私でも、打つ気持ちが萎えたりすることもあるのだ。

朝日を浴びるわが部屋

しかし思うのだ、あるいはどこか八方ふさがりのような出口が見えなくてもどこかに明るい触角を伸ばして、打開策を見つけてゆかなければ、哀しいかな人生はままならなく立ち行かなくなる。厳しいのである。私の家族にだっていつそのような苛酷な状況が訪れないとは限らない。いかに平和的に生き延び新しい年を迎えるのかは、全人類の普遍的テーマである。

まさに一歩間違えば、人生にはいつだって断崖が待ち受けているといった方が正鵠を得ているお思う。だから父や母が常々口が酸っぱくなるほど、繰り返し語り続けたように、地道に一歩ずつ歩を進めるにしくはなし、なのだと想うのである。

幸い、娘たち2家族このコロナ下を東京の地で元気に乗り越え、帰省してくるという事実、次女はこの夏まさにコロナ下の夏葉君に恵まれた、そのことをこそ、私は平凡な慶賀と受けとめとりあえず家族全員でお正月を迎えることができそうなので、単純にうれしいのである。

まずは足元の平凡な、だが非凡でもあるのだということの自覚の上に、今この現在の家族全員でのお正月を寿ぎたい、ただそれだけなのである。

私の両親も、妻の両親も華美な生活には程遠く、質素極まる単純を絵に描いたような暮らしの中で子供たちを育て、人生を穏やかにまっとうしたのだが、まったくわたしもそのようにありたいと、つくづく願っているのである。【単細胞・単純に生き・こともなし】である。


2021-12-25

吉本隆明氏のお言葉をいただき【自己慰安】的に五十鈴川だよりを打ち続けたく思う師走の朝。

 静かな夜から静かな朝へ、私の住んでいるところは住宅街なので、静かなる環境で朝一番に五十鈴川だよりが打てるのは、もう何にもましてうれしい。かすかに赤穂線の電車の音が聞こえる。

さて今朝は土曜日、 年内肉体労働アルバイトは昨日で終えた。このアルバイトをはじめて3年5カ月が経つ。そのうちの2年間はコロナ下である。この年齢でつくづく天の下での労働アルバイトに 巡り合えた幸運に私は感謝しないではいられない。得意なことで役に立つ体で居られる今が。

おもえば文章を打つことも、本を読むことも、肉労働をすることも、世の中に出るまではまったく苦手であった、ということがにわかには信じられないくらいの変化を、私はし続けながら今を生きている。変化し続ける意識と体、不思議な器、面白がれるか面白がれないのか、そこが思案のしどころだ。思案を止めないただ流れる、そこが大事と定めている。

生きているという生活実感を(ささやかな幸福感を)、どこかしらに 感じていなければ<このように能天気な五十鈴川だよりが打てるはずもない。地球の自転の上の乗っかっていられ、今日もまた新しい夜明けを、生きられていられる今を、超ささやかに五十鈴川だよりに籠める、自己慰安時間はたとえようもない安らぎを私にもたらす。

もう何度も五十鈴川だよりに打っているし、これからも永遠の繰り返し、さざ波のように似たようなくりごとを綴り打つ五十鈴川だよりになることを、どこかで自覚しながらも、昨日と今日の躰意識は、コトバで表すことが不可能なほどに、あきらかに異なるのである。

だから昨日打った一文とは、異なる一文が顕れてくるのである。そのことがいやまさに生きているということなのであろうから、私は昨日を忘れて新しい今日を生きることができるのである。昨日までは木にしがみついていた枯れ葉が今日は地に落ちているように、目にはさやかに見えねども、確実に万物は変化し続け、ある日突然宇宙に帰還するのである。

妻が近所の山で見つけてきた裏白

だから、宇宙の摂理に従って生きる。五十鈴川だよりで在りたいと、いうことをこれから折々しっかりと打っておきたいのである。先年高齢でお亡くなりになった畏敬すべき学者であられた外山滋比古先生が、特に晩年忘れることの効用を説いておられたが、まったく同感する。

古希を過ぎたら、以前にもましてできるだけ他者の手を煩わせずに、勝手気ままに風のように生きてゆきたいという思いが、自由自在という言葉が沁みてくるのである。 

話は忽然といつものように変わるが、昨日の写真にアップした吉本隆明氏がなぜ言葉で思考し、詩や評論他多面的な哲学的思考を膨大な著作で(言語で)なされているのかを問われた際に応えられていたのが、非常に印象的で私にもすごく響いてきたのは、【自己慰安】のためですというご返事のお言葉だった。

この言葉に出会った時から、私は【自己慰安】という言葉を五十鈴川だよりでも使うようになってしまったが、比較するのもおこがましいが、五十鈴川だよりもどこかしら 自己慰安的に打っているからなのである。


2021-12-24

師走、掃除他生活雑事全般を超スロウなダンスをするかのように楽しんで事に当たる。

 クリスマスイブの朝である。といっても特段なことはほとんどしない老夫婦二人の生活暮らしである。だが、もしここに孫がいたら、多分、まったく異なるイブの日になるのだろう。ともあれ、夫婦二人の静かこの上ない師走の日々が流れ、続き、今年もあとわずかである。(なんてことを五十鈴川だよりを打ち始めてずっと書いているような気もするが)

サイレントな日々が、夜が、今の私には似つかわしいのである。年寄りは静かにしかしどこかで熾火のように熱く生きるのである。

オミクロン株報道(他にも)にはそれなりに目を向けながらも、内心はどこか遠くの国の出来事を眺めているかのような、 現在生活の師走時間を私は生きている。世間とのあまりのずれを、(まるで老いの無感覚状態を)楽しんで生きているかのような自覚があるのである。そのようなズレを、私はどこかで 意識的に、老いの道楽として楽しもうとしているのである。

てきぱきとは動けなくなりつつある体を引きずりながらも、やれることをあだやおろそかにはせず、ゆっくりとを愉しみながら、ゆるやかに動く身体を、まるで超スロウなダンスでもするかのようなあんばいで動かしながら、あらゆる動きを努めて楽しむように、心かけるようにしているのである。(ネガティブな紋切型一面的な報道ほかはシャットダウン、空を眺めていた方がはるかに気持ちがいい)

話は突然変わるが、吉本隆明という知的巨人、思想家でさえ、体が思うように動かせなくなって老いを痛感するようになったと書かれているのを読んで、ハタと安堵したのだが、こればかりは老いてみないとやはりわからないのだから、分かったというか老いを自覚した時点で、いかに思考しつつ老いを受け入れるのか、いかに計らうのかにおいて、いつの時も人は試練にさらされるのだと、おもうのである。

というわけで 、超スロウなダンスをするかのようにあらゆる動きの、生きて活動するのに当たり前の立ったり座ったりの基本動作からのすべての動きを、可能な範囲で、スロウではあるが確実丁寧に行うように、相務めるというのが最近の私の日々の変化、愉しみなのである。

年寄りの繰り言の繰り返し、おそらく多分、もうほかに打つことはないのかといわれても、きっと私は初めて経験する未体験ゾーン、老いゆくゾーンを、五十鈴川だよりに打つ続けてゆくのに違いなと、どうもそんな予感がするのである。

師走良き本に巡り合えている

老いない人はいないのだから、これからの初体験ゾーンを いかに生きてゆけるのかいけないのかに、焦点を絞っていけたら、と思案するのである。愉しみはお金要らずに見つける、のだ。

ということで先日も打ったが、娘たち家族が明後日には帰ってくるので、部屋の片づけや掃除に取り組んでいるのだが、雑巾がけ他ありとあらゆる生活してゆく上での事細かな生活する上での必要な諸事万端を、老いの道楽と位置づけダンスするかのような心持で取り組むのである。

運転他、とにかく反射神経他(音読他生きてことを為すすべての諸器官の体の動き)緩やかに下ってゆく機能に逆らわず。それを可能な限り楽しむように心かける。とまあ、そのような感じで事に当たるのである。ゆっくりを生きるのである。

そのようなおもいに至ったのは、やはり私にとっては初春の手術という個人的な体験が、命の重さを、生と死の分かれ目は実にすぐそばに在るということへの気づきが、そうさせているのだと想う。

手術以前と以後で、あきらかに私の中で何かが変異したのは、まず間違いない。50年近く飲んできたお酒を断っただけでも、大変身といわねばならない。意識が変わると体も変わる。身体が変わると、同じ本でもまったく初めて読んだのではないかと、おもえるほどに新鮮に読めるのはなぜなのだろう。不思議というほかはない。 

人生の持ち時間が少なくなるにつれて、老いの思索の深まりがつづれるように在りたいと思う私であるが、凡夫なりに日々を丁寧に生きてゆくほかには妙案はないと老いの身に言い聞かせる私である。


2021-12-21

冬至間近、一人夕方薪割をする。

新聞を取りにゆくと3日連続して夜明け前の月が浮かんでいた。寒いのでちらと眺める程度だが、このような寒さの中でもきちんと、こんなにも早くすでに新聞が届いている。

ささやかにすでに1日を始動している人のいることの平凡さに、どこかしら自分もまた今日1日が始まるのだとの、当たり前なことに思いをいたしながら、すでに落ちている暖かいコーヒーのある台所へと向かい、一息入れおもむろにパソコンに向かう。

早寝早起きだから、よほどのことがない限り21時時以降に 何かを為すということはしない。その代わりといっては何だが、起きてから午前中の7~8時間はエネルギー全開でいまだ過ごすことができるわが体があるということの喜びは、加齢と共に深まる。

文章を打つことも含め、本を読むことの殆ども午前中か、午後の午睡の後か、夕方ひと風呂浴びてのちの夕飯前の 一時しか本は読まない。とくに音読するための本や、集中力を要する類の本は、午前中よく休んだ体で読むことにしている。(ノート片手に、すぐ忘れるので)

疲れ切った身体での読書は、この歳になるとなんの意味も持たない。決して無理なく自然にやがては枯れてゆく五十鈴川でありたいと、最近はとみにそういう感慨がわいてくるのである。

天空土光、雨を風を感じる。

だが、とはいうもののほかの方はいざ知らず、この冬の季節、さあ今日も働こうという気力が満ちてくる体があるということ、在り難きかなである。ありがたやと日々何度もつぶやき、深呼吸する私である。誰もいない冬の青い空の元、我ひとり草とたわむる、なんていいではないかと自己慰安するのである。

話変わり、アルバイトしているところで直径30センチくらいの丸太が手に入ったので、昨日の夕方薪にするために、チェーンソーである程度の長さに切り、斧で 割木にした。おおよそ一時間半で作業を終え、結構な薪ができた。

この年齢での薪割は、年々しんどくなってくるのだが、休んで息を整えては挑む。私は軽いジョギングくらいの気持ちで、冬場の作業と割り切って 、どこか楽しんでいる。夢が原時代も含めれば、30年近く続けていることになる。

午後3時過ぎくらいから作業を始めたのだが、割った薪を車に積み込むころには西の空に真っ赤な日没が。朝日を浴び、夕日を眺めいる。贅沢な時間である。

だが、あっという間に暗くなる冬至間近。家に戻って暗い中妻も手伝ってくれ、薪を積んだ。家に入ると、すでに妻がストーブに火をつけてくれていた。

2021-12-19

夜明け前・寒月眺めて・五十鈴川。

 昨日のM新聞の書評に、私の好きな佐藤優さん(気やすく打たせていただきます)が田原総一朗氏の【堂々と老いる】という新刊本を取り上げている。田原さんは現在87歳でこの本を書いている。。

詳細は省くが、こころに迫る書評であったので、五十鈴川だよりに、切り抜いたことも打って、すこしだけ感じたことを打っておきたい。 田原氏は私よりははるかに高齢であり、その生き方には、潔さが(書評によれば)横溢していて、来年古希を迎える私としては、大いに田原大先輩の生き方を学びたいものであるとの認識をもった。

田原さんは加齢と共に訪れる記憶力、気力体力根気他、若い時にはなんともなくできた体全般の機能がが減退するのにあらがわず、それは仕方がないことと現実的に受け止め、対処することを勧めておられるといい、死についてあれやこれや考えるのはやめて、ひたすら生きることを選択していると書かれておられた。まったく同感する。

来年古希を迎える私だが、大いに共鳴するのである。もうこの年齢になったら、死について想いを巡らす暇があったら(若い時にこそよく考えるべきである)、いかに今日一日を過ごすかということに想いを行き渡らせ、身体が喜ぶことに、気持ちのいいことに情熱を 費やしたいと心底思うのである。

ようやく手元に届きました。音読し続けます。

この書評を読んで、もう一つ私が打たれたのは、書評をしている佐藤優さん自身が、現在前立腺がん、末期腎不全と闘病中であることを、告白しておられたからである。

人生の持ち時間が限られてくる中で、このような書評が書ける、佐藤さんの思想というしかない根拠の 奥底の胆力にはびっくりさせられる。ただ一言、凄いヒトというのは存在するのだと、教えられる。

何度かは修羅場を潜り抜けておられる方でないと、このような一文は書けないのではないかと、思わせられる。佐藤優さんはは1960年のお生まれだから、私などよりはずっとお若いのに、このようなある種突き抜けた透明感のある、氏にしては珍しく平明で分かりやすい書評を書かれていることに、驚いてしまった。

田原氏も佐藤氏も、学生時代の友情を限りなく大切にしていることが触れられている。然りと私も膝を打つのである。姉兄弟含め 、社会に出てから出逢って、若いころに苦楽を共にした仲間や友人はまさに宝であると、加齢と共に痛感する。

先の五十鈴川だよりでもふれ、きっとこれからも加齢が進むにつれて触れることが多くなると思うが、同時代を熱く生きた仲間たちとの時間をこれからは大事に、大切に生きたいとの思いは、深まるばかりである。

PS 蛇足だが、佐藤優さんは最後こう触れている。不調ががあれば怖がらず、病院で診察を受け、毎日の生活のリズムを整え、神や死について実証できない面倒なことには考えないのが、田原式老後術の秘訣だ、とある。かく在りたい。


2021-12-18

娘たちの帰省を迎える準備を妻と共に整える。師走の土曜日の朝に想う。

家を建て替えて22年目の冬を迎えている。今朝は今年一番の寒さである。昨日は午前中肉体労働アルバイトをし、午後電動チェーンソウと斧で薪づくりに精を出した。妻がそばで細かなことを手伝ってくれる。我が家の冬の恒例行事である。

薪ストーブの薪づくりをもう22年もやっている。一口に22年といえばもう十分にふた昔以上だ。たぶんいつまでもは、薪づくりはできなくなり、やがては薪を買うことになったりもするのかもしれないが、いつものようにそのようなことを考えるのは、私の性格としては良しとしない。

その時はその時である。とにもかくにも今はまだ、斧を振り下ろす気力体力があり、夫婦そろっての体動かしができる今をこそ、在り難くいつくしみたいという思いなのである。灯油ストーブ他の 暖房器具もあるのだが、薪ストーブに魅せられた私としては冬の季節を過ごすのには決してなくてはならない、必須アイテムである。

北海道は富良野で体感した薪ストーブの暖かさを、私は死ぬまで忘れることはないだろう。家を建て替えるときに絶対欲しいもの、それは薪ストーブであった。よもやまさか薪ストーブのある家に住めるようになるなどとは思いもしなかったが、40代の終わりに夢がかなったときの嬉しさは感慨深く、まさに夢のような個人的出来事であった。

妻もすっかり薪ストーブの魅力にはまり、薪づくりに関しては全く労を惜しまないので、その点本当に夫婦間の潤滑油のような作用もあって火の効用のすごさに脱帽するばかりである。

話は逸脱するが、娘たちが何はなくとも極めて常識的な、普通人として生活を営んでくれていること、また思春期他の誰でもが通過する難しい時期、そんなに大過なく(はたからはわからないにせよ)成長してくれたのには、この冬の季節の薪ストーブの効用が大きく作用しているのではないかと、私は考えている。

冬の朝陽を浴びるわが寝室(しばし長女家族の部屋になる)

もうあと一週間もすれば、娘たち家族が帰省してくる、次女の葉君は初めての里帰り、母も含めて一気に9人での大所帯になる。妻はそのために男の私には到底思いも及ばない準備を細部に至って考え尽くしているかのように、あれやこれやと知恵を絞っている。

今私が五十鈴川だよりを打っている部屋は長女家族が使うことになり、先日妻主導で、私は指示に従い、本その他の品々を主に私の書斎に移動し、机も移動し、余分なものは捨て、すっきりと片付けたのだが、実に快適な空間に変貌した。妻はカーテンも買い替えたりして娘たちの帰省を愉しみ待っている。

コロナ下で孫たちに頻繁に会えないので、この度の正月帰省をどれだけ妻が楽しみに待っているのかが私に伝わる。母親の、男親とは全く異なるとしか言いようがないほどの、細部を詰める能力の発露には、驚きを通り越して月並みだが感動を覚える。

普段暮らしているのには大きすぎる気がしないでもない家だが、何とか母の部屋も含め、全員がそれぞれの部屋で収まり年越しができる。家の中心部分に薪ストーブの炎が団欒を促す。

コロナ下での、葉くん初めて参加の家族全員そろってのお正月。今の私の暮らしが時折夢ように思えるが、夢ではない。見渡せば心寒々としたニュース報道が引きも切らないが、(しばしそのことは心に留め置き)つましくもささやかに、娘たち家族を迎える、足元を温める準備を妻としたいと想う朝である。

 

 


2021-12-14

2021年12月12日。ヌーヴォーシルクジャポンを高松城玉藻公園 披雲閣で体感しました。I氏のお招きに感謝します。

 コロナ下のこの2年、普段はほとんどルーティンな日々なのだが(それを最近は楽しめている)先週土日2度も瀬戸大橋を渡り、徳島と高松に出掛け、昨日はルーティンの肉体労働をこなし、やはりどこかしら意外な良き刺激と、電車の往復時間が長かった事で、年齢を感じた。昨夜はなんもする気がおきず、夕飯後すぐに横になった。(でもすぐれて良き疲れなのである)

だがこの二日間のちょっと年齢的に、すこし無謀とも思える二日間連続日帰り旅は、まったく異なる世界へ今の私をいざない、導いてくれたという意味で、五十鈴川だよりをやはり打たずにはいられないという気にさせてしまう。わずかであれ日記風に打っておきたいのである。

賀川豊彦記念館を訪ねた翌日、私は 午後2時過ぎのマリンライナーで高松に向かい駅のスタバで、ご招待いただいたI氏とほぼ4年ぶりに再会し、すこしおしゃべり個人的なDVDを渡し再会を喜び合った。

ついでに、こういう時間はめったなことでは訪れないので、私は香川で土取さんのサヌカイトの野外公演イベント実現に向けて熱い情熱を持続しているOさんを、I氏に紹介することにしていたのだが、わずかな時間ではあったが、お互い面識を交わすことができ、私としてはうれしかった。

そのスタバに一本遅れのマリンライナーで、I氏のお招きイベントに私がお誘いしたNさんもついて、駅から歩いて600メートルの会場に4時過ぎに向かった。会場は史跡高松城跡玉藻公園内 重要無形文化財【披雲閣】。


イベント名は ヌーヴォーシルク ジャポン(フランス語である)IN玉藻公園 披雲閣とある。私はほとんど何も知らず、先入観も何も持たず、このお招きにあずかったのだが、一言でいえば、めったなことでは味わえない、まさに異次元の世界へいざなわれるかのような、いつものルーティンの日々では決して味わえない時間を過ごしたことだけは、五十鈴川だよりにしっかと留め置きたい。

高松城の史跡 披雲閣 の場が生み出す、で行われる、お能、琵琶、笛、(古楽器)謡、オブジェ、明かり、そして初めてみた瀬戸内(現代)サーカスとの調和融合、そして能の羽衣に沿ってヌーヴォーな試みの時間が進行する。

コロナ下の閉塞逼塞状況下、眼福聴福(笛の音・琵琶の音・謡、そして瀬戸内サーカスのしなやかな鍛えこまれた体の動きのさなかにも、遠く記憶の底を呼び覚ますかのような音色の響きがどこからともなくかすかに聞こえる)良きものに触れ、見ることができた喜びを再び打っておきたい。(生者だけがこの世に在るのではない死者たちと共に現世は在るのだ)

それにしても、お能の衣裳(あのような衣装を生み出したお能の美、花伝書をまとめた世阿弥のすごさには震撼とした、世界の乱世を鎮めるにはお能は最適な芸術と私には思える)をまとった演者が顕れた時のあのたたずまいの静謐なる存在感には、まさに幽玄としかたとえようなない霊が舞い降りてきたかのような、心持に陥った。嘘の仕掛けの圧倒的リアル。

まったく突拍子もないことだが、前日訪れた賀川豊彦氏が能の衣裳をまとって現れたのではと、錯覚するほどのあらぬ妄念が湧いてきたのも、この試みのなせる何かが、羽衣のように私の中にも舞い上がるのではなく、舞い降りてきたのである。一言、良き正夢をみた。

PS I氏は開演前総合プロデューサーのTさんを私にご紹介してくださった。


2021-12-12

昨日、日帰りで賀川豊彦記念館を訪ねました。そして想う。

昨日五十鈴川だよりを打ち終えた後、思い立って徳島県の鳴門の近くにある、賀川豊彦記念館に日帰りで行ってきた。賀川豊彦氏のことを私に教えれくれたのは、音楽家の土取利行さんである。

手術後の今年の春、新緑の美しい岐阜県郡上八幡の立光学舎に一人暮らす土取さんを訪ねた時のことである。土取さんとお目にかかることは、頻繁ではなく稀なのであるが、お会いするたびに、いやでも新たな世界の、あたかも扉が開くかのような、私にとっては未知なるお話の数々を淡々と、しかしその底流には、語りつくせぬ熱い情熱が灯り続けていることが、凡人の私にも、かすかにだが伝わってくる、いわば稀人である。

氏のおかげで、賀川豊彦の代表的な著作の一つ、書かれた当時400万部も売れたという【死線を超えて】を何とか図書館で探し、分厚い上下巻を読んでキリスト者として、まるでキリストが乗り移ったのではないかと思えるほどの、真摯極まる生き方に、凡人の私は圧倒され 、賀川豊彦記念館には必ずゆきたいとは思っていたのだ。

賀川豊彦は明治21年父の事業の関係で神戸で生まれているが、ルーツは徳島県、まさに数奇極まれる人生を歩み、一言ではとてもくくれるほどではないほどの、多岐にわたるまさに革命的というほかないほどの、先見性に満ちたその時代としては画期的な思想を多岐にわたって探究模索し続け、思春期にプロテスタントに入信、その後キリスト者として超人的に生きて実践活動した方である。

自ら当時の神戸の貧民街に住み込み、布教活度と共に貧しい人々と共に、命がけで生活し、なおかつどうしたら、この社会的目に余る不平等の、不条理の貧困窮に対して、嘆くのみではなく、根本的な救済活度に従事してゆき、あらゆることを学んでゆく様は、まさに常軌を逸したかのような、超人としかい言えないほどのものである。このような人間が日本にいたのである。

コロナ下の今の時代、いわば忘れられているかのような偉人の存在を、土取さんは何故か私に熱く語られたのである。そのことがずっと気になってはいたのだが、昨日年内に行くことがかなって、私は叶ったことだけを簡略に五十鈴川だよりに打っておきたいだけなのだが、もう少し打ちたい。

一番札所 霊山寺

西大寺を9時過ぎの電車で出発、徳島に12時過ぎに着き、ローカル線で板野 に向かう。スマホでそこから歩いて20分とあったのでゆこうと駅にいた方に道を訪ねると、とてもではないが歩いてはゆけない車でも10分以上かかるくらいの距離とのこと。

だが、姓を書かせていただくが、橋口さんという、私と同年代の方。お嬢さんが私と同じ電車に乗っていたお父さんを迎えに来ていたのだが、その方に道を訪ねたのである。この親子本当に親切というほかはない奇特な方で、なんとそのまま賀川豊彦記念館まで私を車に乗せて運んでくださったのである。この現代において、このような親切を受けたことの喜びを、何としても五十鈴川だよりに打っておかねばならない。何やらのお導きと思わないではいられない気がした。

まさに途方に暮れかけていた私の気持ちが、一瞬にして晴れやかになったことは言うまでもない。橋口さんには名刺を渡したので、きっと五十鈴川だよりを読んでくださると思う。この場をかりて厚くお礼を申し上げます。(このような方がまだ住んでおられるのだ、さすがお遍路の地である)

さて、賀川豊彦記念館はアクセスはともかく、とても良いところにあって一人記念館で一時間以上の時間を過ごし来てよかったと思った。帰りは賀川豊彦記念館から歩いて20分のところにある坂東駅から電車に乗ったのだが、なんと賀川豊彦記念館は、四国霊場一番札所、霊山寺のそばだったのである。

坂東駅の近くには、第一次大戦でのドイツ人の捕虜収容所があったところなのでもあった。周辺の風景の中、賀川豊彦は4歳で両親と死別、その後父の本家に引きとられ、17歳までを鳴門大麻町で過ごしている。いわばこの地の周辺大地を踏みしめて育ったのである。わずかではあるが、私も同じ大地を歩いたのだ。また再び今度は元気なうちに車出来たいと思った。

坂東駅から、徳島に出て遅い昼食を済ませ、4時46分の岡山行きにのり、西大寺駅に降りた。午後7時半、賀川豊彦記念館を詣でる日帰り旅を終えた。空には半月が浮かんでいた。

 

 


2021-12-11

古希目前の師走の土曜日の朝に想う。

うれしい 土曜日がきた、と毎週同じようなことを打っているが、いいのである。年が明けてもまもなく70歳の生誕がやってくる。別に開き直っているのではなく、(いやどこか開き直っているかな)還暦を迎えた時にも思ったことだが、老いてゆくこれからのあたえられた時間を、できるだけあるがまま、わがまま、正直に自分の体が喜ぶことをやろうと決めて、早10年が経つ。五十鈴川は流れる。感慨深い。

長女はまだ結婚もしていなかったし、次女は大学生であった。当たり前だが今は二人となった孫もこの世に存在していなかった。 来年の生誕日にはまた似たようなことを綴るのかもしれないが、あきらかに老いるにしたがって妻も、おばあちゃんも、家族の在り様も変化し、私自身もいまだ変化し続けていることを、実感しながら五十鈴川だよりを打っている。

いわく言い難い日々揺れ動く内なる思いを 、いわばとらえどころのない老年期、遊行期のつれづれを、さあ、これからいつまで打てるのかは、私自身にも覚そくないが、打ちたいという思いがわきあがる間はこれからもうちつづけたい。

とくに今も続くコロナ渦中の2年間の五十鈴川だよりは、極めて個人的な事にせよ、やがては宇宙の彼方のちりと化す我が身にせよ、いつの日にか娘たちや孫が、おじじのつれづれとしていくばくかでも目にしてくれたら本望だし、よしんば目に触れることがなくともいいのである、との軽い気持ちで、しかし当人はいたって真面目に打っていることを、しっかと打っておきたい。

このような作家がいると安堵する

さて、そしてこれから10年後私が生きていて、もし五十鈴川だよりを打つづづけていたら、果たして家族は、世界は世の中はいかなる変貌を遂げているであろうか、とまあこのようなことをおもうと、妄想老人としてはどこか安らぐのである。

日々の足元の生活を限りなく大事に、大切しながらも、どこか遠く遠くを展望しながら、生きる老いてゆく時間を、ささやかに五十鈴川だよりに込めたいとの淡いおもいは、死が近づくにしたがって深まってゆくように思える。

自己愛ここに極まれりである。どこかはかなくとも、今は見えなくなってしまった死者たちと共に、老いゆく日々をしっかと見、刻み続けたいと想うのである。

還暦の時には、まだまだやりたいことのエネルギーが勝っていたのだが、いよいよの70代は、まさに下ってゆく最中での、だがまだやりたいことが湧いてくるからだに、天然にすがりたいとの思いが静かに湧いてくる、師走の土曜日の朝である。

2021-12-09

12日I氏の御招待で瀬戸内サーカスを観にゆくことになりました。そして想う。

 3日も五十鈴川だよりを打っていないと、何やらどこかちょっと打ちたくなるから、10年近く毎日ではなくとも打ち続けていると、常態化している というほかはない。そのことがそこはかとなくうれしい。

12月も早9日だが、淡々とルーティンワークをこなしながらも、どこかいい感じで、師走の日々が送れている。12月3日の五十鈴川だよりで打ったように、I氏の突然の来訪、関係性の新たな復活が一抹の新たな喜びを加えているのも、あると想う。生きてればこそいいことが舞い降りてくる。どうすれば舞い降りるのかは各々考えるにしくはない。

この12日には、氏が理事を務める瀬戸内サーカスの香川の庭園美術館で行われる公演にご招待を受けている。もちろんご招待にあずかることにした。ひさかたの再会が実に楽しみである。

幼少のころより落ち着きがなく、軽佻浮薄、粗忽者であったがために、今は亡き父親に糸の切れた凧、どこかふわふわしているの で風船玉などと呼ばれたこともある私である。これでよくこの年齢まで生き延びてきたものだと、自分でも呆れるくらいである。

でももうよろしいのである。バカは何とか言うし、こういうままならない自分 をどこか引きずりながら、流れ流れてゆくしかない五十鈴川、といい意味でのあきらめの境地の昨今である。ふわふわ生きてきたからこそ、アフリカ音楽の豊かさが企画できたのだから。

もって生まれた器、生れ落ちた場所の問題で、今となってはこういうふうにしか生きてこれなかったのだとの、(苦い経験も多々しながら)おもいしかない。今、現在地で冬の夜明け前、こうして五十鈴川だよりを打てる幸福を天に向かって感謝している。 

冬の旅で静かに読みたい

話は変わるが、安田登氏の書かれた【三流のすすめ】という本を読んでいたく同感し、私のような飽きあっぽく、気移りのする輩には大いなる味方というしかない本に出合って、そうか私だけではないのだと(才能の差は置くとして、そもそも才能なんて何だろう)大いに得心安堵した。本当に生きてゆく勇気をいただける御本、お薦めです。

さて、何度でも繰り言五十鈴川だより、人生は過ぎゆく、一回限り。ならば、いかに生きたらいいのかを自分の頭で考え歩んでゆくしかない。セーヌ川であろうが五十鈴川であろうが、川は流れとどまらない。だが人は死ぬのだ。

話を元に戻す。とういうわけでI氏との旧交を温める結果になり、電車に乗ればればすぐにも会える距離にI氏がいるということが、なにゃらうれしいのである。この2年にも及ぶそして今も続く、コロナの出口の見えない不透明極まるパンデミック渦中の中での、きわめて私にとってはあかるい話題なのである。

またひさかたの再会については、五十鈴川だよりに是非書きたいし、わが体に新鮮な風が吹き抜けるような関係性が、老いゆく中で再びともる予感がしている冬の朝である。




2021-12-05

師走の一日、山里高梁のY氏の古い日本家屋の屋敷で、お鍋料理を美味しく頂きました。そして想う。

 高梁の山里にひとりかくしゃくと暮らしておられる。旧遊声塾生Y氏の生家にお招きにあずかり、師走の一日、この上なく粋で、私にとっては記憶に残る良き時間を過ごすことができた。そのことをわずかでも、五十鈴川だよりに打ち綴りたい。

昨夜は私にしては珍しく、いろいろな意味で刺激を受けたことであたまがさえ、全身疲れているのに眠りに落ちるのが遅くなったが、気持ちよく目覚めた。私の筆力では、一日の細部を事細かに記すことは不可能にもせよ、 記さずにはいられないのだ。

I子さんが9時きっかりに迎えに来てくれ、穏やかに晴れた冬空の元、彼女の運転に身をまかせ、私は傍らで聴き上手なI子さんに、即興あれやこれやを語り続けながら、高梁に向かった。おおよそ1時間半で少し最後迷ったが、無事にY邸に着いた。

Nさんは所用でおくれてくることになり、二人での意外なドライブをI子さんはともかく、私自身は娘に語り掛けるかのように気楽に、一方的に多くのことを語り続けられた。このような時間は、めったなことではありえないので 、運転しながら聞いていたI子さんはさぞかし疲れたことと思う。この場をかりて(ありがとね、I子さん)とおつたえしておきたい。

さて、Y氏はまったく以前と変わらず、良き暮らし、生活をされていることがたたずまいからわかった。おおよそ2年ぶりとは思えぬさわやかな笑顔の自然体で迎えてくださった。私はその瞬間に来てよかったとの思いに満たされ、私にとっては大兄のような氏に、すぐに焚火がしたいとわがままを申し出た。

氏は不肖な私の申し出に、すぐに焚火の用意をしてくださり、3人で火の周りに集まり、焚火に打ち興じた。年齢を忘れ、しばし童心に還る。火は内なるざわつく心を鎮めてくれ、油断するとすぐにたまってしまう心の雑念や煩悩をはらってくれる、私にとっては魔法の杖のような遊び心儀式、いわばひさかたのお招き再会の始まりには、必須だったのである。

焚火さえあれば、私はどなたとでも打ち解け合える。遅れてやってくるNさんが到着するまで焚火を続ける。3人でモミジの枯れ葉や小枝を集めては 弱火の焚火遊びをしていると、Nさんが到着した。わずかな時間ではあったが4人で良き焚火時間を過ごすことができた。

焚火を終え、Y氏が用意万端準備整えてくれたシシ鍋を食す暖かい部屋に移動し、鍋奉行のY氏にお任せする。みそ風味のだし汁の入った黒い鍋がすでに煮立っている。最初まず近所で捕れたイノシシの肉をふんだんに放り込み煮込む、イノシシの肉は煮込むほどに柔らかくなると知った。

写真はY氏から送られてきた一枚です。

そこに火の入るのが遅い野菜を順番に入れ、白いふたをししばし煮込む。(鍋は黒ふたは白である)火が通り、いただきますと我々3人は、ただしばし黙々といただいた。すぐに体がポカポカ、温風ヒーターを消し、口数少なくただいただいた。

とてもおいしく一人ではない昼食を、こんなに多くの量をただいたのは手術後初めてである。初老男の胃袋に高梁の大地の恵みがしみたことの有難さを、五十鈴川だよりにきちんと打っておきたい。

ともに食していると穏やかな時間が流れ、ずいぶんあっていなかった空隙を埋めるかのように、会話も自然と流れて、コトバは不要の心地いいとしか言いようがない、いつもとは異なる眼には見えない山里の神が、しばしわが体に取りついたかのようなこころもち、身体は山の神、自然と一体化つながっている。

我々3人はふんだんにY氏の畑地が生み出した幸、白菜、ネギ、ニンジン、大根、春菊、水菜、ゴボウ、(豆腐、こんにゃくなど以外のすべて)をいただいた。おいしく、ただ在り難く舌鼓をうった。

おなか一杯になり、別室で音楽を聴きながらコーヒータイムと団欒タイム。氏のコレクションの中から、Nさんが選曲、バッハのシャコンヌ(聴いたことがあるが曲名は知らなかった)。そしてピアノが堪能なNさんがいま取り組んでいる、展覧会の絵の曲(ムソルグスキーだったか、間違っているかもしれない)を聴いたりしながら、何とはなしに会話は自然に流れた。このコロナ下Yし邸で、このメンバーでたまたま過ごしているこのいっときが、やはり何かのお導きのようにわたしには思えたことも、打っておこう。

師走の山里の日暮れは早い、あっというまに時は流れる。最後氏が新疆ウイグル自治区への旅で求めたという、珍しいお茶をふるまってお開きとなった、なるはずだったのだが、今ニュースになることが多い、新疆ウイグル自治区への旅で、たまたま見知った氏の直接体験リポートのお話は、私にとっては意外な展開のお開きとなり、束の間の夢の時間から、反転して現実の世界が抱えている問題へと頭のスイッチがきりかえった。

明日から、これからをいかに生きてゆくかについての現実世界へと還ってゆくのには、ウイグル自治区のお茶と、初めて耳にする氏の旅の話は、私と氏との関係性により一層の色どりを加えたことも、打っておきたい。

遊声塾ではやれなかったことをこそ、これからやりたいがためにこそ、音読自在塾に始めた私には、世界の不条理に置かれているあまたの国々の、国家のことではなく、民族の民の声にこそ耳を傾ける一歩として、一人ででも音読自在塾をやりたいし、もし賛同してくれる方がいたら、自在に思考しながら、これまで出会えた方々や、そしてこれからの未知の方々とも連動したいのである。

社会的な不条理 、国家的な弾圧、ジェノサイドの隠蔽、あまりにも常軌を逸した人民弾圧、行き過ぎた暴力、差別や偏見や力と金での権力行使に関しては、初老凡夫、五十鈴川だよりでごまめの歯ぎしりであれ、勇気をもって発言したい。

もうほとんど失うものはな年齢である。楽なところにいてであれ、おかしく感じることには、勇気をもって発言する五十鈴川だよりでありたい。(もうすでに書いているが)

PS 氏は最後我々3人にお土産に焼き芋(これが素晴らしくうまいのだ)をくださった。帰路私はめったにない機会だと思ったので、よろしければとNさんを我が家のお茶に誘った。即オーケーとなり、意外な展開は流れ続き、はじめてNさんのお話も直接お話を聴くことができて、お茶に誘ってよかったことも、きちんと打って起きたい。時計は夜の9時を回り、おおよそ12時間にわたる、Y氏の住む高梁への旅をつつがなく終えることができたことの慶賀、往ってよかった。しっかと五十鈴川だよりに打っておく。


2021-12-04

旧遊声塾に最初から最後まで参加してくださったY氏の生家にお招きにあずかる日の朝に想う。

 コロナ下ということは差し引いても、この年齢になると、朝がやってきて来て五十鈴川だよりを打とうという気がおきることが、生きていることの確認、生へのきわめてわがままな自己愛的執着、その自覚が私にはある。(何やら打つことが、書くことが好きになりつつある)

夜露をしのぐ身に余る部屋があり、食べ物衣服があり、何よりも家族や大切な方々が健康であり、私自身の心が平安であるということの自覚がなければ、能天気に五十鈴川だよりなど打てるはずもない。

私にとっては生まれて初めての大きな手術体験が、性格はともかく、何か新しい世界をもたらしてくれたことは、術後9か月の今、まず間違いない。その新しい世界がどのようなものであるのかは、まだようとしてわからないのだが、老いつつある中での、いわく言い難いおもいは、手術しなければけっしてこのような気持ち生まれてくることはなかったであろう。

さて、今日は旧遊声塾生、Y氏の高梁の生家にお招きにあずかる日の朝である。このコロナ下、Y氏にはなんどもお声掛けをいただき、ようやっと実現の運びとなった。結果集うのは私を含め3人、Y氏を入れて4人となった。



旧塾生I子さんが運転をしてくださることになり、我が家まで朝お迎えに来てくれ、NさんをピックアップしY邸までゆくことになっている。

師走のこの時期、コロナ下で遊声塾継続をあきらめた私としては、何とも言葉になしえない思いを抱いての参加なのだが、決めたのは旧遊声塾 に最初から最後まで参加し続けてくださったY氏に直接お礼と、感謝を伝えたかったからである。

コロナ渦が収まり、世の中も私自身にも平安が来たら、いずれは個人的にお会いするつもりではいたのだが、氏の旧遊声塾(生)に対するおもいの深さに感動したからである。それに全員ではなくても、今日集う旧塾生に直接私の思いが些少でも伝えられればと。(願うのである)

遊声塾を手放し、コロナが終息したら一人で始めようと思っていた音読自在塾、終息しないうちに見切り発車をしてしまったが。不甲斐ない塾長としては慙愧にたえない、制御しがたい自分という存在を、さらしたいのである。

ともあれ、ごちゃごちゃ言っても始まらない。潔く在りたい、気持ちよく在りたいというのが、正直な私の気持ちなのである。だから、今日はどこかすっきりとどこかうれしいのである。機を逃したら取り返しがつかないことが、人生には多々ある。

これまでの人生で何度かそういう経験をしてきた私である。ヒトは別れと出会いを繰り返す生き物である。別れは出会いを促す。だが、Y氏とは今後もずっと友人で居たい。そのことをただ、伝えたいのである。

I子さん、Nさんとの高梁横山邸お招き師走旅は、どのような旅になるのか、一期一会の山里旅、初冬の静けさを愛し、旧交を温め未来を見つめる老いる旅にしたい朝である。

PS 今朝の写真は、先月県立美術館の星野道夫展で求めた写真集。11月はユージンスミスの写真展も見ることがかなった。写真集も求めた。タイプは全くといっていいほど異なるが、人類の行く末に危機感を持ち続け、偉大なお仕事をされた写真家なのだということを、痛感した。

 

2021-12-03

I氏の突然の予告なしの我が家への来訪、ほのぼのと私はうれしく、再び新たな関係性を深めたく思う師走の朝。

 人が人の家を突然訪ねてゆくなどということは、電話がなかった時代を知る私としては、そんなに不自然ではなく、今となってはそのような行為が、懐かしいというよりは、ほんまありがたい、意外性に満ちた出来事として、記憶に残るしうれしいのである。

そのような出来事が昨日起こった。元アサヒビールで管理職まで経験をされ、今は企業の診断士として第2の人生を歩まれているI氏が突然夕刻、私も妻も不在の我が家に来られたのである。

不在だったので氏は玄関わきに、新しい名刺と短い文章と、とある有名な淡路島の名産を置き土産にし、まさに風のように去ってゆかれたのだった。妻は買い物、私は仕事帰り図書館で本を読んでいてあいにくの不在、面会は叶わなかったものの、コロナ下、一陣のさわやかな風が吹き抜けたかのような心持に私はなった。

氏との交友については、多分この五十鈴川だよりでも打っていると思うので、繰り返しては打たないが、出逢ってから26年は経っているかと思う。

今の時代、と人との縁が浅いというか、あまりにも複雑化された現代社会、一言でいえば本人の意志とは無関係に、分断かが進んでゆかざるを得ないような時代状況下、I氏との関係性が君子の交わりのように、続いていることが、はなはだもって奇跡のように私には思えるのである。

氏の置き土産の淡路の特産玉ねぎ

ともあれ、一足早く帰った妻から事の次第を知らされ、自室で本当に何年ぶりかで電話を通して旧交を温めることができた事の嬉しさを五十鈴川だよりに打たずにはいられない私なのである。

一口に26年、関係性が切れずに続いているということの重みは、来年古希を迎える私にははなはだもって希少価値というほかはないほどに、こころに迫りくるものがある。とくにI氏とは私が企画者としてガンガンやりたいことが湧いてきて、次々とそれが実現していた40代に出会えた幸運が。

企画者として絶えずお金の工面に頭を悩ませていた時に、アサヒビールがビッグスポンサーになってくれたことで、どれだけ助けられたか計り知れない。(インターネット以前、とにかく私は動き回ってヒトに会いに行ってスポンサーのお願いをしていた。ああ、懐かしさに打ち震える)

事お金だけのことではない、中世夢が原のあのような場所でのリスクの多い野外音楽会、それも当時としてはあまり集客の望めない企画を上司にお伺いを立ててまで、応援してくださったその先見性に私は驚かされ、まったく利害がない関係性が世代を超えてつづいている。そのしなやかな柔らかい物腰と思慮の深さは、まったく私にはないものである。

その後、私は企画をひき、シェイクスピア作品を音読する塾を始めたのだが、我々の関係性は 続き、氏がアサヒビール高松支店長時代には瀬戸大橋から月に何度か遊声塾のレッスンにも参加してくれ、(言葉数は少ないがここ一番では勇気、好奇心があるのだ)なんと発表会にも 参加したことがある奇特な方なのである。

その後、博多支店に転勤され、ともにの声出しレッスンは途絶え、そうこうしているうちにコロナというわけで、本当に数年ぶりの電話ではあったが、あっという間に音声での関係性復活がかなったというわけである。(氏も病を経験され、今後は茶飲み話相手になれる)

私には数年ぶりであろうとすぐに打ち解け合える、まさに同時代を熱く生きた空気感を共有できる、得難い友人知人が(会えなくてもどうしているかしらと気になる方が)10人くらいいる。そのことが私の全財産といってもいい。(ことがあったら駆けつける) 

コロナ下、時代の先行きは不透明だが、健康でありさえすれば、少なくとも私の周りはささやかであれ希望の明かりがともっている。香川在住となったI氏との再会は、ひょっとしなくても腹が決まれば、何か明るい企画(生き方)ができる予感がする。予告なき来訪、映画のようなタイトル。意外性のない人生なんて私には、ああ、わからないしつまらないというほかはない。




2021-12-01

師走寒風一番、朝の風の音に耳を済ませ、初老の体に活を入れる、五十鈴川だより。

 起きてメルや花にえさを与え、コーヒーを淹れ新聞を取りにゆくと、雨は上がり星が瞬いていた。さて、今日から師走である、とはいってもたぶん私の師走の日々は特段な変化はない。(ような気がする)

五十鈴川が、暑さ寒さに関係なく流れているように流れてゆくだけである。万物流転の法則にのっとって流れ流されてゆく。まだ目を通していないが今朝の新聞の一面の見出しは、オミクロン株国内初感染である。

この2年近いコロナ禍報道で、いささかどころか、おおいに私の感性感覚は鈍ってきているのをどこかで感じながらも、基本的なウイルス対策を自分なりに考え、とにかく 静かなルーティン一日を可能な限り充実して過ごが都がせるように、五十鈴川だよりを打ちながら、自問自答する。

幸いというほかはないが、以前も書いたけれど、コロナ以前あれほど人との交流時間を過ごしてきたわが人生なのに、コロナ禍でいい意味で鍛えられたのか、すっかり今のところひとり時間の過ごし方のような暮らしが、苦にならなくなってきている。

とはいっても本来のもって生まれた性格のようなものはいかんともしがたく治らなまま残っているので、コロナが収束したら、また元の木阿弥になるかもしれないとも思いつつ。

ただいまは、自分との根気比べのように、自分の無知なる世界を少しでも広げたく、読書音読労働に、勤しんでいる。努めて日々好日時間を、一日を新鮮に感じる生き方ができないものかと、思案模索探究瞑想深呼吸し、青空を眺めるのである。

このような戯言遊びを打っていると、老いの体にいまだかすかに血が全身にゆきわたり、今日やりたいことが、やれることが定まってくるのである。

古い本を読み英気をいただく

耳を澄ますと夜明け前、木枯らし風の音が聞こえてくる。まさに冬を告げる、風の音色である。昔だったら、冬、古希が近い体での外での労働などは、ネガティブでしかなかったはずなのに、いまはどういうわけなのかは、わからないが、とくにコロナ禍中生活になって、いちだんと、肉体労働が苦にならなくなってきたのが自分でも不思議である。

おそらくは、フルタイムではないからなのだということは承知しているが、日々是だけの労働に、自分の体は十分に耐えられているということの確認をしながら動く。働きたいという意欲がまったく今のところ(先のことは分からないし考えない、今日一日を緩やかにしのぐ)衰えず、慶び以外の言葉がないのである。(動けるということの何たる在り難さを、私は手術入院で思い知った、そのことは決して忘れたくない)

多分、この2年間もし外での肉体労働がなかったら、私は頭でっかちな自分でも嫌な初老凡夫に成り下がっていたのではないかとさえ思えるのである。

養老孟司先生はとにかく自然の中に身を置けとおっしゃっている。防寒対策栄養補給をしっかりとしながら、身体を広大無辺の冬の空の下にさらして動ける自分を確認しながら動かしていると、身体が生き生きと動き始め温まってくる。

けっして無理せず、登山感覚で体と対話しながらの労働の喜びというものを、このコロナ渦中で、日々私は学ばせていただいている。とくに手術後8か月、今のところかすかなめまいはあるものの(今のところ労働には全く支障はない)生活できているのは、完全にアウトドア労働のおかげなのである。

午後はまったく別のことに時間を過ごし、夜はひたすら動いてくれた体を休める。すっきり目覚める。そのあまりのシンプルさが、遊行期を生きる今の私にはぴったりなのである。

さあ、寒風に身をさらして今を生きている、あまたの労働者たちのことを想像し、先人たちの労働に想いをはせ、私自身も働くのである。