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2016-05-31

5月28日、禁酒会館で行われた公開インタヴューに来られた方から身に余る激励メールをいただきました。

何やら久しぶりの五十鈴川だより、明日からは6月である。なにか書きたい、だが何を?

前回も書いたが、ブログを書き始めてこんなに間があいたことは、いまだかってなかった。だが最近ほとんど書いていないのにはきっと何かわけがあるに違いないのだが、いちいちそのことを書いて説明するのがはなはだ億劫なのである。

老害ではないと思いたいのだが、ブログを書かずともほかのことで充足する老春的感覚が、にわかに出来し、この数十年絶望的な情熱を根拠にいろんなじたばた動きをしていたのだが、わが体にいい意味での異変が起こってきているというあんばいは確かだ。

ようやくロバの夢決定台本が完成、参加者も二人増え、踊りのレッスンとセリフのレッスンはしばらく別々での稽古が行われる。今日は午後私のレッスンが(ほぼ週一で)行われた。

取り立ててことさらに書くこともないのだが、なんか久方ぶりに歳を忘れ、昔に還ったかのような感のある稽古ができて(まだまだ入口)苦しきなかに何か、面白いことが64歳のわが体に起こりそうなかすかな手ごたえのようなものを感じている。

できるできないはともかく、挑戦する。自分の中の何かと格闘しないと出てこない大きなイメージをS女史の台本から鍛えられている。いわば苦楽、実に畑開墾作業と通ずるものがある。

稽古というものは、無になってぶつからないと何も生まれないのである。ひーひー言いながら汗を書きながら、夏の昼汗をかき、あとおおよそ2か月、私は7月29日の【ろばの夢】の夏の夜に向かう、何が起こるかわからない、ただただ逃げず立ち向かうつもりである。

話は変わる。28日岡山の禁酒会館で、私はこれまでの自分の人生のお恥ずかしき半生をインタヴューされる、またとない経験をしたのだが、その会場に来られていた一人の女性から、本当に在り難きうれしいメールを昨日いただいた。

ブログのコメントでもこのようなうれしいコメントはいただいた記憶がない。何かを共有できる感性の出会いというものは、そうはめったに人生には訪れないものである。

禁酒会館での一匹オオカミ(私の性格はオオカミにはほどとおいが)公開インタヴュー企画は、実にユニークでいつもとは違う感覚につつまれ、熱い来場者との一期一会のライブインタヴューとなった。その直観的決断は吉と出たように私には思える。(企画をされたO氏に心から感謝している)

当たり前のことだが、安全紋切型人生ではあかんのである。無理するというのではなく 、自然に冒険できる一隅のチャンスが訪れたら、そのチャンスを逃さない勇気がないと、とやはりだめなのだと痛切に思わされた。

ある種のライブ幸福感に体が満たされるのは、いい言葉が浮かばないが、たまたま居合わせ、出遭えた芸術的な瞬間時間としか呼べない類の何かである、というしかない。

愛情あふるる激励メールをいただき、五十鈴川だよりで深く感謝の気持ちをお伝えします。K・Iさん、お会いできて言葉を交わせて心よりうれしかった、ありがとうございました。

2016-05-21

蜷川さんがお亡くなりになり9日目の朝に思う。

蜷川幸雄さんが、12日にお亡くなりになってから9日目の朝である。80歳で冥界へと逝かれた。見事な死というしかない。蜷川さんの死は今を生きる私にあらゆる示唆を喚起させる。
私は1970年、18歳で上京してから25歳で英国に旅立つまでに、蜷川さんの演出作品を思い出すだけで7本見ている。

とくに商業演劇以前、いわゆるアングラといわれた時代の、清水邦夫作の2本、【鴉よおれたちは弾を込める】【泣かないのか、泣かないのか1973年のために】と唐十郎作【盲導犬】の3作品。私が二十歳までに見た無名時代の蜷川演出作品は、強烈に今も脳裏に焼き付いている。

田舎から上京して、あっぷあっぷ暮らしていた私は、とにかくお金の許す限り、劇場めぐりをしていたのだが、振り返ると、蜷川さんのこの3作品 を若き日に観たことは、今となっては返す返すも幸運なことであったと思う。

蜷川さんは私より16歳年長だから、あのころすでに30代半ば、すごいというしかない演出力(お金がなかった中で)で、観客の度胆をぬいていた。若かった私はただただ圧倒された記憶がある。

無名時代の蜷川演出作品に出会えたことは、やはりいまだ大きい。特にこの3作品は映画館で、映画が終わった後、9時過ぎから今は亡き新宿のアートシアターギルド(いわゆるATG)で上演された、今となっては伝説の舞台作品。

これを私はみているのだ。あの当時の新宿の雑踏感、猥雑感、1970年代の数年間はまさに田舎者の私には、何かが怒涛のように押し寄せた時代だった。

いまだ、あの青春時代の残滓が私の中にかすかに、だが色濃く残っているのを感じる。蜷川さんはお亡くなりになったが、あの当時映画館の通路にへたり込んでいた蜷川さんの若き日の無名の姿は強烈に今も私の脳裏に焼き付いている。カッコよかった。

あのまま、その後世界の蜷川と呼ばれても、倒れるまで時代の中を疾走し続けた(戦い続けた、見えないものに向かって)希代の演出家として記憶に刻まれるお仕事をされたのだ。

自分は回遊魚で、立ち止まったら死んでしまうと語られている。

きっとこれから蜷川さんに関する本が次々に出版されるだろうが、間接的に同時代を生きて生で氏の演出作品に出会えたことは幸運であったことを、ほんのわずかでも五十鈴川だよりに記しておきたい。

シェイクスピアであれ何であれ、自分が自分にびっくりするような演出を絶えず追求し続け、その世界に殉じた見事というしかない生き方をされた、あの時代が 生んだ稀な演出家だと思う。

きっと私が東京に住んでいたら、蜷川さんの老人劇団のオーディションを受けていただろうと思う。そして私は思う。今岡山の地でささやかにまだじたばたと生きているが、私が蜷川さんの年齢まで生きるとしたら、どのようなことをしながら死を迎えたいのかと。能力の問題ではない。

こ難しいことはさておき、夢が原退職後の3年間はあっという間に過ぎた。きっとおそらく私の死も今私が感じているより人生時間はすぐに終わりを迎えるのだろうと思う。だからこういうことがきちんと考えられるうちに、蜷川さんの逝き方を前に爪の垢でも何かを感じ取りたいのだ。

まさに死に向かって、青年のまま蜷川さんは、ライブ感覚で、時代をどこか遠くから眺めながら正直に満身創痍、疾走 し続け、真の意味で舞台人として生きられたのだ。尊敬する。





2016-05-09

にわかプレミアリーグレスターファンになった私は、ささやかに思考する。

昨日深夜ブログを書いてから、特別の理由がない限り、サッカーを見ない私なのだが、岡崎慎司選手の所属するレスターの最終戦を見届けてから床に就いた。

たまたまレスターというイングランドの地方都市のチームを知り、130数年ぶりの初の歴史的な快挙 に湧くスタジアムの、チームとファンの一体感の感動のいっときに、わたしもバーチャルに参加したかったのである。

予期もしなかった奇蹟がこのチームに訪れたのには、きっと様々な要因があるに違いないが、そのような意外なことが、起こることこそがまさに人生の醍醐味というしかない。ましてやその現場に居合わせた、3世代にもわたるサポーターの末裔たちの積年の思いはいかばかりか、その心中は察するに余りある。

やはり当たり前のことなのだが、お金では買えない感動というものを、このチームとファンは私にあらためて知らしめてくれた。そのチームに日本人である岡崎慎司選手が参加してくれていたことが、ことのほか私にはうれしかった。
 

オリンピックや、プロ野球や、企業や、今のスポーツ界(にとどまらないが)に、繰り返される無感動的紋切型イベントに、私はすっかり嫌気がさしてしまっていたのだが 、このレスターというチームには、久しぶりに感動を覚えた。
わずか7株だが生まれて初めて育てている白菜

芯から感動したりすることが、老いるにしたがって少なくなってきつつあるのをわが体を、いささかさみしがっていたのだが、久しぶりに わが体は感動した。作られた小手先イベントにはわが体は反応しないのだ。

私のようなタイプは、小さき喜びや感動というものが、時折の生活の中に在るとなしではまったく異なる。ましてや還暦を過ぎてからは、再び恥も外聞もなく、遊びをせんとや生まれけん、の世界に回帰したくなっている。

日々穏やかに身過ぎ世過ぎできれば、大げさなことではなくとも感動生活を送ることこそが、いわばこれからの本格的な晩年生活に最も不可決な 要素であると認識している。

その感動が生まれてくるような暮らしはいかようにしたらなるのかは、私にもきちんと言葉では説明できないし、そのようなことを書いてもしょせん詮無いのだ。

ただ自分の体は自分で運び、自分の体で痛みを伴いつつも思考し続けない限り、見つけられない類の何かでは ないかというのが、現時点の私の思いだ。

ことさらに芸術や文化の追っかけをしなくとも日々の暮らしの中での充実こそが私には肝要なのである。

五月晴れのようにはゆかない世の中をつましく五十鈴川は流れる。

5月に入って2回目の五十鈴川だよりだ。こんなに書いていないのは、ブログを書き始めて初めてではないか、という気がする。

これから、【ロバの夢】という33年ぶりのルネスでの舞台を終えるまであまりブログを書く気がおきないのではないか、開いてくださる方にはご容赦をというしかない。

それと、雨天ではない限りこのところ起きてすぐ身支度を整えたら竹韻庵に向かっているので、ほとんどのブログを朝書いてきた私は、ブログを書く気が失せてしまうのである。

これほどの世界の大変さの前では、何やらのんべんだらりとした五十鈴川だよりは書けないような心境に 、正直おちいるといったことも作用している。

書いても何やら個人的に落ち着かないといった方が、正鵠を得ているか。したがって今も書きながら書きあぐねている、という絶対矛盾。

明日は雨の予報なので、何やら久しぶりに 書こうかなあ、といったきわめて消極的な情熱で、珍しく夜中書いている。

まあ、単細胞の私なのであれやこれやのことが、できないだけのことなのだ。こんなことを書くと、どこか具合でも悪いのはないかという気がする方もおられるかもしれないが、まったく逆で、私自身は穏やかに身過ぎ世過ぎができている現在の暮らしを、これまでの人生で最も在りがたい日々をすごさせていただいている。

もっと書けば、ことさら五十鈴川だよりを書かなくても、何とはなしに 過ごせるようになってきたのかもしれない。以前は五十鈴川だよりを書かないと何やら落ち着かないような感じもあったのだが、何やら寄りかからなくても日々を過ごせている自分が増えてきたのだ。

それは、なにに起因しているのかは自分では上手くは書けないが、いつも書いているように、五十鈴川は、流れるようにしか流れないのである。

気が重い、気まぐれ、気の向くまま、在るがまま、ある日突然、何かは始まり、そして終わる。でもまだ私の人生は緩やかに流れている。ささやかにささやかにこれからもたぶん五十鈴川は流れてゆく。

ところでいま、【外山滋比古著思考力の方法】という本をゆっくり読んでいる。耳に関する本、これが実に面白い。

時折目からうろこのように面白いというか、へえーっという、身体が活性化する本に出合う。

この感覚が持てる間は、きっと五十鈴川だよりを書き続けられるのではないかという気がする。書く回数は減っても、時折忽然と流れる五十鈴川だよりでありたいと、愚考する。

外山滋比古先生は1923年生まれ、2015年の御本だから93歳にしての、この思考の柔軟さは驚嘆というしかない。

こういう長生きはまさに理想である。それにしても学ぶということの奥深さを知らされる。学校生活が苦手だった私だが、学ぶということに関しては、どこでだってできる。

遅きに失した感は否めないが、これからも怠惰な私だが、すごいと思える先生たちから素直に学びたい。

2016-05-01

【クニ子おばばと山の暮ら】、を読み実践する。

早くも5月、GWはいよいよ佳境だが私はこの数十年のなかで、おそらくもっとも静かなGWを過ごしている。

今夜妻と娘が東京の娘夫婦のところから帰ってくるが、先週木曜日からひとりでの生活をしていた。わずか三泊4日だが。

たまにはこういう時間もいいものだと考えたりしている、今夜からは普段の暮らしに帰る。いつもは当たり前のようにいる妻や娘がいないと、家の中は急にがらんとしてしまうことが実によくわかった。

幸い犬のメルと猫の花がいるがために、えさをやったり散歩に連れ出したり、その世話も含め自分の食事を3回作るのだって、掃除だって買いものだって、なにやかや生きているということは、丸ごと全部時間がかかるということが実によくわかる。

そういうことを私はなるべく楽しんで過ごそうと相務めているのである。ところでいきなり話は変わるが、わが故郷に椎葉村というところがある。

わがご先祖の山一つ越えたところに在る、半世紀までは宮崎の秘境であったところである。その地で今はたった一軒だけになってしまった、5500年前から続く焼き畑農業を今もやられている、椎葉クニ子さんの本を、偶然イオンの本屋さんで見つけ、すぐ買って読んだ。

ほんの表紙の当時89歳写真の笑顔が素晴らしい。この本はきっとこれからの私の手元にずっと留め置く。たまたまNHKで数年前、このクニ子おばばの素敵な番組を見ていた記憶があったので、引き寄せられるように棚に在った背表紙に手が伸びたのは、やはり縁である。

おばばの本関心のある方には推薦したい。内容はシンプルで高貴で究極の天然エコライフを実践している稀な世界ヒト遺産にしたいような、高地に咲いた御女性である。

またもや話は変わる。間もなく竹韻庵に通い始めて10カ月になる。五十鈴川だよりを読み続けている方は、夢が原退職後の私の動向、生き方の右往左往じたばたぶりはよくご存じだと思うが、竹韻庵にゆくようになってから、生まれて初めて経験することがこのところやんわりと増えている。

まず何といっても竹や笹野根の開墾作業や植えたことのない野菜を植えること。そのことはまた機会があったら別の機会に書きたいと思っているが、 今日書きたいのは食に関してのことなのである。

先日私は竹韻庵に群生しているフキで生まれて初めてキャラフキを自分で作ったのだ。剥いてあくを抜き、しょうゆ・砂糖・お酒・鷹の爪で我流で味付けをしたのだがこれが自分でいうのもなんだがうまいのだ。
生まれて初めて作ったキャラフキ

これに、あったかいご飯がればもう何もいらないくらいである。数時間前に採ってきたものだから鮮度がまるで違う、歯ごたえが柔らかくキャラフキってこんなにうまかったのかと初めて知った。

この後にクニ子おばばの本に巡り合うのも 必然のように思える。さっそく遊声塾のY氏にいただいた山ウドがあったので、これもさっとゆでておばばの言うとおりに三杯酢にしたところ、これまたなんとも言えない歯ごたえ。

まったく老いて知る、味わいの奥深さというほかはない。これから私は山野草の魅力を追求したいという思いが格段と深まってきた。保存がきくので私のような横着な人間にはもってこいなのである。

とくにこの3日間はひとりだったので、勝手気ままのありあわせ我流創作メニュウで乗り切った。麺類が好きなので、そば、うどん、パスタ、なんでもござれ竹韻庵の野菜、セロリ、ブロッコリー(保存していた)玉ねぎ、ネギ、春菊、それに少々のお肉があれば、何とかなる。セロリのうどんなんて、葉っぱの部分からのエキスがなんとも言えなかった。微妙な味が絡まる手ごたえ。

なんでも楽しんで挑戦工夫すればあとは未知の味との遭遇である 。今日もお昼冷蔵庫にトマトとキャベツが余っていたので、母に頂いたさやえんどう、新玉ねぎ、とベーコンを黒コショウとオリーブオイルで炒めイランの塩で炒め、カレー粉少々で不思議なおいしさのパスタができた。

それから竹韻庵にはヨモギがたくさん自生しているのでおばばの影響でたくさん積んできて今干しているのだが、薬草風呂とヨモギ茶にするつもりでいる。

自然が与えてくれる恵みの何という在り難さ、何やらどこかに出かけずとも我流GWを楽しめそうな気配である。