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2015-11-30

いろんな方と再会でき、心に残る上京旅となりました。

4日間充実した東京旅を終え昨夜帰ってきました。まだ身体は幾分旅の余韻が残っています。が頭の中を切り替えて西大寺日々の暮らしに向かう今朝の朝ブログです。
昨年のドレスデンでのわが家族です

さて東京では、26日ブルックの演劇に触れたり、18歳から3年間通った小さな演劇教習所で同期で先日亡くなったM氏のお宅に43年ぶりに伺い線香を手向けたり、先輩でありいまは文学座で活躍しているT氏と数十年ぶりにお会いし、文学座の養成所の近くの四谷でお酒をごちそうになりました。

27日は結婚する前の一時期、アルバイトをしていた築地を親友のK氏と訪ね お世話になったお店に挨拶(築地は来年移転する)、その後岩波ホールでピロスマニのフィルムを見て(1969年の作、よかった)古書店巡り、最後K氏に三田でご馳走になりました。

28日は、新宿の平和記念資料館を訪ね引揚者展にゆき、2本のDVDを見て3時間近く過ごし(私の両親は北朝鮮からの引揚者なので)夕方5時半娘と怜君と落合、渋谷でゆっくりと夕食を共にしました。

そして昨日は、K氏の家神奈川県の三崎口に在る家に招かれ、久しぶりに奥様のおいしい料理数々に舌鼓を打ち、暖かい気持ちで充実した旅を終えることができました。

年齢的に、もうこういう一期一会的な時間がとても大切であるということを、帰省の旅と今回の上京旅で思い知りました。

また、ゆっくり書くこともあるかと思いますが、私にとっての大切な方とは、逢える時にきちんとあっておいた方がいいということを再認識しました。

いわゆる流れで、小さな演劇養成所の先輩であるT氏と今回会えたことは感慨深かった。お互い年齢を重ね、いい感じで再会、若き日のあれやこれやを語り合いながらお酒を飲めるなんて夢のようでした。

一気に時間が戻るのですから、不思議でした 。そして最後の日、たまたまK氏の家族のお誕生会に飛び込み参加。K氏は3人の成長したお嬢さんと奥様に囲まれて、満面の笑みで幸せを絵に描いたようでした。

朝10時三浦の駅に着き、二人で富士山を眺めながら一時間以上散歩海からの富士山の眺めは格別でした 。

26歳の時出会って以来、K氏とは不思議な機縁で結ばれています。今回の旅で最後に彼の家族と共にした時間は、私に今後の人生時間の行く末の大事を暗示しているかのようにさえ感じています。

今回の上京でもいろいろとお世話いただいたK氏にこの場を借りて深く感謝します。今朝はこれくらいで。


2015-11-26

上京前のあわただしき朝ブログ。

塗った部分がお判りでしょうか
今日はこれから久しぶりに東京にゆきます。一番の目的はピーターブルックの演劇を観に行くことです。(他にもいろいろと用事が)

というわけで前回に続いてあわただしき朝ブログですが、無事に五十鈴川だよりは五十鈴川から帰ってきておりますので。

さて、日曜日最終電車で帰ってきて、翌朝起きてすぐ竹韻庵に玉ねぎを植え、その日は午後長年パリで舞踏をやられておられたかたが、着岡山し、その方と3時間近くお話をしました。

火曜日は、近所の農家の方から手に入れたもみ殻を竹韻庵に運び植えた玉ねぎほかの野菜の根元に撒きまして、戻ってから早めに昼食。

其の後暗くなるまで家の北面のペンキを暗くなるまで塗りました。昨日は引き続き雨が降る前までの午前中引き続きペンキを塗りほぼ手の届く範囲の一階部分を塗り終えることができました(ほっとしています、安心して上京できます)

午後は遊声塾のレッスンの予習とたまった新聞を通読、5時半には家を出てレッスンを済ませて戻ってきたのが10時過ぎ。

そしていま、ブログを書いている次第。そう、私はとても元気だというただそれだけの朝ブログなのです。

五十鈴川参りにゆくと、にわかにやはりいろんな意味で心身がリフレッシュされるのが不思議です。また今回も帰って本当に良かったと思っております。

もうあと何回帰れるかはわかりません、姉や兄たちとももうあと何回元気に食事をしたりできるかと考えると、齢を重ねるとますます貴重な一期一会の帰京旅になるのだということを、あらためてしみじみ感じ入った旅となりました。

でも今はまだみんな元気で今回も兄に珍しいところに連れて行ってもらい楽しい旅でした。一番苦しい経済状況を共に幼いころ過ごした仲なので、けんかもたくさんしましたが、いざとなると仲良くまとまるのが不思議です。

五十鈴川参りは、時折立ち止まって物事を冷静に考える場所として、私のような粗忽物には安全安心安上り、故郷の山に向かいていうことなしなのです。

ということで行ってきます。戻りは日曜日夜です。娘のところにも一泊はお世話になる予定です。東京は第二の故郷です。漸く冬らしくなってきました。

2015-11-20

帰省前のちょっとあわただしき朝ブログ。

日の出が遅いこの季節、まだ暗き早朝である。五十鈴川だよりを書いている私は、年に最低2回は故郷の五十鈴川のほとりに立たないと精神のバランスが悪くなる。

両親のお墓のある場所から五十鈴川まで一キロくらいなので、私の中では五十鈴川参りなのである。この年齢になってもというか、齢を重ねるにしたがって故郷の匂いはますます私に足を向けさせる。

報道は先進国のテロに関する ニュースであふれている。アナログ初老男の私は、かまびすしいメディアの洪水には一歩距離をおいているが、こうも テロが頻発すると一方的な強者の側からの報道には冷静であらねばとの思いにかられる。

かられたところで、致し方ないとの思いも同時に起こるのだが、何気ない日常の暮らしの中にも、とんでもないことが起こりかねないとでもいったような空気感が、にわかに湧き上がってきたかのような不気味さを感じる。

毎回同じようなことしか書けない五十鈴川だが、話を変える。昨日夕方かなり冷える中、洗濯物を干す東面の壁を2時間ほど白い塗料をわが人生で初めて塗った。

内側で見えないのだが一番カビがひどいところ。どのような具合になるのか、とにかく色味もかねてほんの少しでも帰省前に塗ってみたかったのである。

何せ初めて塗るので緊張したのだが何とか塗れた、やればできるのだ。北面は足場を組んでもらい時間を見つけてコツコツと塗ってゆくつもりだ。何とか年内には塗り終えたいと思う。

ところで昨日、竹韻庵に記念樹の西条柿を植えた。暗いニュースにはますますもって事欠かない時代のすう勢だが、五十鈴川はノー天気に気ままに自分の中に、ささやかな希望を見つけるべく今しばらくは流れてゆきたい。
竹韻庵は落ち葉の季節

幸い双方の両親が、かく生きるべくお手本を示してくれたので(母は今も元気に私にいろんなことを教えてくれる)いまはただ安心してそちら側の方に流れてゆきたいと私は思っている。

昨日はまた、思いもかけない方から素敵な人を紹介してくださるお手紙をいただいたりして、その件も落ち着いて書きたいのだがそろそろ出発の時間。

それは戻ってきてから書くことにします。では行ってきます。

 

2015-11-18

おいゆく中で、お金を生かしての生活を心かけながら考える。

今年は戦後70年ということで、M新聞も【千の証言】という特集を組み、定期的に掲載している。それ以外にも、【平和を訪ねて】とか、【被爆者の証言】とかを掲載しているので、時間に余裕ができた今の暮らしの中で、努めてきちんと読むように心かけている。
ときおり切り抜いてじっくりと読む

特に高齢の80歳以上の方々の証言や、死を前にしてどうしても語っておきたいご自身の体験などを読むと、齢63歳にして、私は戦場におもむいた悲惨というしかない出来事の重さに言葉を失う。

戦後生まれの私は、戦前時代を生き延びた人々のあまりのそれぞれの人生の過酷さに 、首を垂れる。

あらためて注意深く、多様な記事を読んで受け止めるべき感覚をなくしてはならないと、私は個人的に思う。

わたくしごときでも書いていて思うことだが、きわめて個人的なつらい体験などは、かくも書きづらく、語りづらいものである。(人間存在の闇の部分)

今もテロを含め戦場の火はやまず、ある意味でこれまでの歴史では経験したことのない、不健康極まる武器による相手の姿の見えない戦争時代が来ている不気味さ。(その武器使用による人体汚染、環境破壊資本主義の行く末、人体の健康な感覚が破壊される恐怖)

安全保障法案の行く末次第では、再び我が国民も戦場にかり出される可能性が出てきてしまいそうな時代の趨勢の中、18歳以上の選挙権を持つ国民は、この国の目指すべき在り方を、各々がきちんと普段から考える力を養わないと危ない。

愛国心、国を守る、お国のためとは果たしてどのような感覚なのであろうか、と、ぼんくらなりに五十鈴川は考える。大義とは何か。

いろいろ足りない頭で考えた末、現在私が心かけていることは、できるだけお金に振り回されない足りる暮らしを心かけること、画面からの人間界からの情報ではなく地面からの、自然からの情報に耳を澄ますこと。なによりも有難いことは我が国土は作物が育つ。

7年以上ブログを書き続けてきてもうほとんど書き尽くした感が時折私を襲うのだが、 まずは自分の日々の自分を検証するためにも今しばらくは書き続けたいと思う。

でないと、自分自身も大きな時代の渦の中に巻き込まれてしまうのではないかという危うさが私にはあるからである。

明後日から3日ほどお墓参りに帰省する。今は亡き両親に手を合わせないと どうも落ち着かないのだ。時代はいよいよもってカオス化しつつある。煽り立てるあらゆる刺激情報には、絶えず五十鈴川は、一歩距離をおきたい。

話は忽然と変わる。アメリカでプラスティックの砕かれた微粒子の海洋汚染の、深刻さのリポートを先日ラジオで聞いた。生態系に与える影響の深刻さは、温暖化も含めひたひたと我々の暮らしに及びつつある気がしてならない。あらためて、感動のない、金が万能化した資本主義の行く末を想像する。

あらゆるパッケージスーパー食品がゴミ化する。TPPとか避けられないグローバル化の波の中で、果たして私のような中高年はどのような生き方を心かければいいのかを、書ける間は老いを受け入れながら五十鈴川だよりは考えたい。






2015-11-15

パリで起きた報復のテロのあまりの不気味さに慄然とする。

穏やかな日常生活をこよなく愛し、雨音を聴きながら植えた作物の生育具合におもいを馳せられるる、今の暮らしに飛び込んでくる、いきなりのパリの同時多発テロのニュース。

真実がかくも情報操作されやすい時代においては、五十鈴川だよりごときは、軽々には何も書きたくはない。

ただ単に思うことは、世界は豊かに暮らせる人たちと、かくも貧しい人たちの暮らしににかくも分断されているといった 、まごうことなき私が感じる世界の真実である。
根付くチシャトウ、命の野菜

それは遠い世界のことではなく、このバブル以後の日本でもにわかに起こっていること。

というのが今現在を生きていて思うことである。

非正規社員が4割近くもいるこの国、シングルマザーや、マタハラや、いじめ問題がやまないこの国、

介護での陰惨なニュースがやまない国、偽装問題がやまない国、経済大国でありながら子供の貧困率がかくも高いこの国、あれやこれや書き出したら暗澹たる思いにかられる。

この年でさえも、世界のあまりの不条理には時折怒りの感情が湧いてくるのに、世界の過酷な現実を生きている多くの国の鋭敏な若者たちが、なにがしかの反応をするのは自然ではないかと、五十鈴川は感じる。

だが、断固として卑劣な無辜の民を巻き込む爆撃や、報復のテロは、どのような大義があっても許されることではないと思う。絶対矛盾。

今のところ安全なところから、対岸の火事のように無責任に一庶民として思うことは、世界は今や完全なグローバル化とバーチャル化された世界を冷静に生きてゆかざるを得ないという、かくも厳しい現実である。

それはとくに、これから家庭を持ち未来を生きてゆく若い世代のみならず、年齢に関係なく生存感覚を研ぎ澄まして、不正や不条理に対して一人の人間として目をそらしてはならないと思う。

暴力の復讐の連鎖を断ち切るためにはどうしたらいいのか、臭いものには蓋、長いものには巻かれろもまた、弱い人間の一面の真理ではあるかのしれないが、ほかに方法がなければ救いがない。

五十鈴川は日々流れながら、個人として、野菜を育てながら、安全や家族の平和について、ささやかに極端に走らない方法を思考停止にならないように、お気軽であれ我が身のこととして考える。

人間の存在や、命がかくも軽々に爆弾や銃で亡くなる事件や戦争が、日常的にバーチャルに画面を通じて垂れ流されると、身体感覚がかくも麻痺するという恐ろしさ、慣れることの不気味さ。

血が流れる、痛いという身体感覚的な想像力、他人(他国の他者の人間の叫び)の痛みへの欠如が失われゆくことの恐ろしさ、平和時間が続く中で、感性のアンテナがさびないようにするには果たしてどう生きればいいのか、考える。

2015-11-13

土取利行さんからピーターブルックの最新作【バトルフィールド】のチラシが送られてきました。

お墓参りに帰ろうと思い、チケットを予約したのだが、土取さんからピーターブルックの最新作【バトルフィールド】の東京公演のチラシが送られてきた。
写真が横になっていてすみません

ピーターブルックは、私がかってに影響を受けた、尊敬するというか、畏敬する演出家である。

二十歳の時、ブルックの演出作品【夏の夜の夢】を見た時の衝撃は私の芝居に対する見方(生き方も)を変えた。

いま振り返ると、私の生き方に大きな影響をあたえたのだということがわかる。

ブルックの舞台に出会わなかったら、おそらく無知蒙昧なる単なる田舎者が、英国に自費留学をするという、私にとっての夢のような想いは湧いてこなかっただろう。

純粋な若い時にしか反応しない感性のばねのようなもの、タイミングがあり、ブルックの奇蹟の舞台で、私は遥かなる見果てぬ世界に連れてゆかれたのである。

狭い島国のこんなところでくすぶっていてはいけない、今この時期を逃したらきっとのちに後悔すると、若い私はおもったのだ。

大いなる不安を抱えながらも、とにもかくにも広い日本以外の世界を、若いうちに体感したかったのである。絶対矛盾を抱えながらの青春時代。

父は繰り返し言っていた、若いうちの苦労は買ってでもしろ。この言葉はとくに若い時に私の頭の中で何度も響いた。何度も挫折したのだが、何とか生き延びている。

振り返ると綱渡りのように、時代も運も味方してくれたのだということを、いましみじみ感じいる。

高齢にもかかわらず、今も現役でみずみずしい舞台を創造し続けるピーターブルックには、驚嘆する。あれから40数年の歳月が流れたが、新作をなんとか観にゆこうと思っている。

この舞台の音楽監督であり、演奏者である土取利行さんにもブルックの舞台作品を通じてであった。この方からも私は多大な影響を受けた。そしてそれは今も続いている。

本質的な人間存在の真の意味を問い続ける、ピーターブルックの劇的想像力の舞台世界を、観ておかねば、きっと悔いが残る。

2015-11-12

遊声塾、昨夜は7名の塾生が参加、熱いレッスンが出来ました。

昨夜遊声塾から帰って、床に就いたのが12時近く、週に一回は寝るのが遅くなる。がおきるのはほとんど変わらない。

もう少し休もうかと思ったが、朝のひと時をことのほか 大切にしている私は起きてしまう。今日は午後も珍しく用事があってお昼寝もできそうにない。

でも疲れてはいるものの、身体の意識はは何やらさわやかな 感覚につつまれている。というのは昨夜の、遊声塾のレッスンがことのほか充実していたせいだろうと思う。

おくれてやってきた人も含め、昨夜は7名の塾生が参加、皆空恐ろしいほどの現代生活を抱えながらも、私の塾に参加しているので、なかなか全員がそろうのは珍しいのである。

だが、やはりこれくらいの参加人数だと、俄然レッスンに活気がみなぎってくる。無意識にも私の方も塾生の真剣さが伝わってきて、身体が熱を帯びることになる。

朝であるのに、いまだにレッスンの余韻が残っている。晩年ライフ全身で打ち込める時間が持てるとは、よもや思いもしなかった。このような無謀ともいえる塾に参加してくださる方々の存在は私を俄然元気にするのである。ただただうれしい。

だから私は万全の体調でレッスンに臨むように心かけている。塾を始めて以前よりはるかに体の手入れをするようになってきた。

それは食も含めて、身体のコンディショニングに留意するようになってきたのである。今日はこれから竹韻庵にゆかねばならないので、いささか余裕なき朝ブログではあるのだが書かずにはいられないのである。

家族以外に、私にとって塾生はかけがえのない存在である。責任を持ってきちんと関係性を育ててゆきたいと私は思っている。

たまたま出会った、世代の異なる男女の声がレッスンの場に相響き合い、日本語によるシェイクスピアの群読がおこなわれることの、妙味楽しさはを、3年目の半ばにしてようやく実現している。

やはり、石の上にも三年というのは、限りなく真実に近いというしかない。ともあれ今年も残すところが少なくなってきたが、遊声塾を通じて出会えた方々と、情熱の火花を共有する無心の声出し時間を大切にしたい。

2015-11-10

遊声塾塾生と全身で声を出し今を生きる。

11月に入って時間に余裕ができたせいでもないのだが、ずいぶんとブログを書いている。ときに呆れながらも、書き続けることは私にとっては生活の中の一部となりつつある。

無理してでも書きたいときは書き、書きたいことがあっても余裕なき時には書かないというのが、このところの五十鈴川だよりである。

最近、遊声塾のことをほとんど書いていないが、月に一度しか参加できない人、月に2日しか参加できない人も含めると、現在塾生は8名ほどいる。

正直、塾を始めるときに、これほど人が私の塾に参加してくれる人がいるとは思いもしなかった。とにかくまずやろうと 、ひとりでも参加してくれる人がいたら、続けようというくらいで始めた。

まずは、自分自身が声を出すことの中から、ようやく手にしたセカンドライフ、限りなき自由時間を、経済観念に侵されることのない無心状態に解き放ちたいと思ったのである。

あれから二年半が過ぎて、最近塾がにわかに活気づいてきた。適度な人数による充実したレッスンがようやくにして可能になってきたように思える。

何より私自身が、始めたころよりも声を出すのが愉しくなってきたのである。
翻訳者の素晴らしい日本語に打たれる

始めた当初は何しろ30数年シェイクスピア作品を声に出して読んでいなかったので、身体がずいぶんさび付いていて、

勘がなかなかも戻らなかったのだが、若いころのようなわけにはゆかない面ももちろんあるが、若いころにはできなかった表現が歳を重ねたことで可能になった面もあり、つまり愉しいのだ。

これは私が独自に始めた方法なのだが、

輪読といってどんな登場人物も年齢、男女の区別なく 読んでゆくスタイルを塾生と共に、時に私も参加して実践している。

一人で声を出し続けて読むのはなかなかに大変だが、4~5人で読むと実に面白いのである。

Y氏が女性のセリフを読んだりすると、にわかには信じられないような表現がおきたりして、まさに意外性の嘘の極致というしかなく、 面白いのだ。

10月末、Y氏の中学生のときの同級生(同じクラスにはなったことはなくが同窓会で再会されたとのと、50数年ぶり?)の女性がレッスンを見学に来られた。

たまたまその日は参加者が少なかったので、私も含め3人で間違いの喜劇を読んだのだが、ずっと3人が読むのを聞いていた女性が、我々が読み終えると拍手してくださり、自分もこの塾に参加したいといってくださったのである。うれしかった。

先日、この方も初めて輪読に参加したのだが、おそらく清水の舞台から飛び降りるような気持ちで参加されたのではないかと推測する。案ずるよりもである。

とまれ、いったいいつまで続けられるかは塾長である私も皆目わからないが、愉しくレッスンができる仲間に今のところ囲まれている私は果報者である。私は愉しく笑える塾を目指す。

そのようなわけで、遊声塾 の参加者が急に増え、私としては望外のこころもちの日々を毎週二回過ごしているのである。現在、間違いの喜劇と夏の夜の夢、カルチャーでは、お気に召すまま、を読んでいる。

奇想天外の、まさに途方もない言葉の洪水は、息の浅くなった現代人の初老の私の肉体には 、手ごわいなんてものではなく、時に遭難しそうになるが、かろうじて声が出せる間は、塾生共々、そびえ立つシェイクスピア作品群に挑戦し続けたいものだ。



2015-11-08

ペンキ塗りしながらら、母の育てた野菜を食べながら、いかに生きるか考える。

昨日は、午前中車庫の上の二階の屋根に上り、つまり瓦を踏みながら、万一のために腰にロープを巻き、そのロープの先は部屋の柱に巻きつけて二階部分の外壁の縦柱や横柱ほか、木部のペンキ塗りをした。

よもやまさか、ここまで自力では無理だろうと思っていた部分まで塗ることができて、私はいたく満足した。妻がお休みだったので、あれやこれや協力作業ができて、また一つ思い出ができた。

外壁の柱部分はほぼ9割近く塗ることができた。やればできる、為さねばならぬ何事もだ。外壁塗装も勉強しながら、 手の届く範囲は自力で塗り、手の届かないところは二段梯子を借りて一度やってみて、無理なら業者に足場だけ組んでもらい、あくまで自力で、と考えている。

液が垂れたりして、ああ、とは思うが、刷毛の使い方もかなり慣れてきた。痛い思いの中から、失敗しながら何事も学ぶ、それが一番確実だし、やり遂げると自信がつく。

自分に自信がつくということが、一番肝要なことだ。生きてゆくことにまったく自信がなく18歳からスタートした私だが、あらゆるお恥ずかしき失敗、自己嫌悪の果てに、漸くにして人並み程度の大人になるのに、大いなる時間を 費やしたという思いに至る。

ブログでは、まだ気恥ずかしくて書けないが、きっとこれからはささやかな自信に支えられ、愉快な日々が、世の中が平和であれば続けられそうな予感がしている。絶望から希望へ。

それには、健康に体が動く日々を今しばらく持続するために、食と命の循環には鋭敏でありたいと私は考える。

一ページ一ページが沁みる
今だからこそやれること、起きてから陽が沈むまでの時間を、まず第一義に、

わずかな夜時間は、明日への英気を養えることに重きを置いた時間の過ごし方を心かけたく思う。

母がお昼を共にするために野菜を抱えてやってきて、3人で昼食。

小松菜の間引いたサラダ、ほうれん草のお浸し、いずれも母の畑で育てた野菜。このようなベイビー野菜はスーパーにはない。

成長しきった野菜ばかりである。

実はベイビー野菜の栄養価は格段に高いらしい。やわらかくていくらでも食べられる。自分で育てた野菜を自分で調理し食べる。こんな贅沢ほかにない。

高価なレストランにはゆけずとも、安価で豊かな食はやりよう次第でいくらでも可能なのだ 。動ける身体と数人の中高年の愉しい妻も含めた仲間があればいいのだから。

今年は久方ぶりに、遊声塾の忘年会を我が家でやることにした。娘たちも巣立ち(下の娘も就職が決まった)あらゆる意味での感謝をこめ、これまでとは異なる新しい再出発を寿ぎたい心境なのだ。

話は変わる。実は、18歳から20歳まで私は小さな演劇学校に通っていたのだが、その間、同じ年齢でともに学んだT氏が(その後は音信が途絶えていた)風の便りで亡くなったという連絡が、先日夜突然はいった。

私と同じ年、あまりに早い。私は多様な思いにとらわれる。命の有限性とあまりのはかなさ。私の脳裏には、青春時代の彼の記憶しかない。

いかにして死を迎えるか、そのためにはいかに生きるのか、哲学的な命題は永遠だが、私なりの人生のもの語りを、紡いでゆくことの中にしかない、との思いにかられる。

2015-11-07

S氏からコメントをいただきました、感謝。

竹韻庵のオーナーであるS氏から昨日のブログに対してコメントが寄せられている。

私は可能な範囲で、日々揺れ動く己の動的平衡感覚を(かなり自己愛的に)確認するために、五十鈴川だよりを書いている。(自分で自分を奮い立たせるかのような面持ちで)

五十鈴川だよりは、夢が原退職後から書き始めた。コメントの少なさ 、開いてブログを読んでくださっている方はいるものの、その顔が見えないことに関して時折ある種の虚しさを覚えないでもなかった。

が、たった一人であれきちんと読んでくださり、接点のあるかのような部分だけでも、なにがしかの反応があると、(以前も書いたが)うれしいものである。

どんなに蟄居しているかのような暮らしではあれ、人は人あればこそ世界とつながって存在している。そのことに関する気づきと感謝は年々私の場合深まっている。

私の下の娘が、お父さんは夢が原を やめて変わったよね、との直接コメントを誕生日に文字でもらった。(大切に書評ノートに張り付けた)そのことが私には最近の暮らしの中では、特筆に値するくらいうれしかった。

話はあれこれするが、遊声塾を立ち上げたのも、きっとこれまでの岡山にやってきて身についた、勤続疲労のようなものを洗い落としたいという 衝動に駆られたからに他ならない。

畑だってそうである。土に触るリアルな手ごたえは、バーチャルリアリティーではなく、リアル感覚そのものである。あらゆる微生物と共に土は生きている、その生命力が野菜に変身する。万物流転。

声もただ出すのではなく、相手の体に触れるかのように出す。口で言うのはたやすいのだが、全身で土を耕すかのように、身体の意識を研ぎ澄まし、今を生きている声を、シェイクスピアの翻訳日本語に吹き込むのである。
作業靴を洗って干す


そのような私塾に参加して継続するのは、バーチャルな暮らしが当たり前になってきた都市型ライフ住民にははなはだ難しいだろうと、私も思う。

だが私は自分の中に希望というか、可能性がある間、動けて声が出る間は塾を続け、土を耕すことと並行して声を出し続けるだろうと、今は考えている。

老いは気づきの加速度を増すように思う。若い時には全然気づかないからこそまたそれはそれで素晴らしい。

若い時には若い時にやれることに全力でいそしみ 、歳を重ねたらまたそれなりの気づきの楽しみを、神様は用意してくださっていると、私は感じる。

きちんと勇気をもってぶつからないと与えてはくださらないのだと思い知る。喜びは腰の痛さと表裏である。





2015-11-06

燃える秋をささやかに生きる、今。

10月は本当によく働いたという気が個人的にしている。それはこの年齢ではよく動けたという意味で。

だからあっという間に過ぎたので、11月はできるだけ家で静かに暮らしたいと考えている。とはいうものの、手の届く範囲の外壁の柱はほとんど塗ったので、手の届かない二階の部分の柱と、北側の壁を塗るという、我が家にとっての主としての、大きな仕事がある。

業者に頼めば、私の現在の年収くらいは飛んでしまうので、これまで歩んできた中で身につけた、自分の現在の体の動きで、やれるところまで挑戦するという山登りのような楽しみが。

だからといって焦っているわけではない。来年の梅雨が来る前までにやれればそれでいいのだから、参謀の妻と共にあれやこれや、自身を活性化するためにも楽しみたいのである。

素人がわずか10日、柱や車庫玄関ほかを塗っただけで、かなりいい感じになったのが見た目ではっきりとわかるので、単純にうれしいのである。
昨日撮った竹韻庵のハゼの樹の紅葉

野菜を育てるのもそうであるが、何事も自分でやれる範囲からスタートするしかないし、なにより一番肝心なことは、思いついたら実践するということしか、私には方法がない。

若いころからさんざん失敗(果たして成功とは何か)してきたからこそ、もっと言うなら失敗の中からかろうじて何かを掴み取ってきたからこそ、多分現在も生き延びていられるのだと私は考えている。

そういう意味では、人間はつくづく自分に正直に謙虚であらねばならないと思う。

娘の通っている大学の渡辺和子先生の言葉ではないが、おかれたところの今を、いかに生きるかにしか、私にとっての世界、人生はないのである。
3号地の畑に柵をS氏と作る

人と比較するなんてまったくもって意味をなさない。自分を楽しむしか私にはほかに方法がない。人は生涯自分と付き合ってゆくしかない、揺れる存在なのだから。

話を戻す。いよいよもってこれから歳を重ねるににつれ家で過ごす時間は増えてゆくに違いない。だからこれから先、まずは家を居心地よくしたいのである。(そこに人を招きたいのだ)

何度も書いているように、やがてはできなくなるのなら、今できるときに悔いなくやっておきたいという、ただ単純な思いなのである。

あれこれ迷うとき、これまで私は困難な道を選んできた。あえて楽な方は選ばなかったということが今となってはよかったのだ、と痛切に感じている。

重い荷物を背負い大変な思いもするのだが、やり遂げた時のささやかな喜びこそが宝である。やがてはゆっくりと下るためにも、今しばらくはささやかであれ荷物が背負える間は、私の場合はそれを背負える日々を、生活全般の中で見つけてゆきたいと思うのである。

私が尊敬し敬愛する 方々は、全員やっておられることは別にせよ、恬淡と生を生きておられる。勇気をもって生きておられる。

2015-11-03

Y氏のおかげで、今年も干し柿をつるすことができました

昨日カルチャーでのレッスンを終え、家に戻って昼食を済ませたのち日暮れまでかかって、平均15個くらいの干し柿を何とか6列吊るすことができた。

干し柿を食べることも、もちろん大好きではあるのだが、吊るしたばかりの柿が、陽光に映える様はなんとも言えない、いわば日本の秋の一つの風物詩である。
そろそろ今朝の朝陽が当たる前

私が干し柿作りが好きになったのは、やはり夢が原で秋になると柿をつるしたからである。

ほかにも薪割とか、畑仕事とか、いわゆる退職後始めたことのことごとくは、夢が原で学んだことがかくも大きいことを知らされる。

日本人が日本列島の気候風土の中で育んできた伝統的なあれやこれやを、ほんのわずかでもわが娘たちには伝えてゆきたいと、思わずにはいられない初老の私である。

たまたま柿をむき始めた時間に、辰巳よし子先生のドキュメンタリー映画・天のしずく・が放映されていたので、それを眺めながらひたすら柿をむいた。

先日の、柳田邦夫先生のお話といい、辰巳よし子先生の穏やかな日本語は私の中に、子守唄のようにしみいった。

ああ、こういった営々と名もなき庶民が紡いできた伝統的な、日本の自然に寄り添うような生き方を、今後、私もわずかでも学びながら続けたいと思う。

夢が原退職後、間もなく3年の月日が瞬く間に過ぎようとしているが、この3年の時間は新しいことを次々に始めたので、本当に充実した時間が流れているという気がしている。退職してよかった。何事も手放さないと、新しい自分には出会えない。

経済的なことはともかく、声を出すことにしろ、畑仕事をするにせよ、それなりのリスクを覚悟しながらの晩年ライフは、覚悟といささかの勇気をともなうのである。

家族の理解あればこそだが、その点私は実に恵まれている。だからこそ踏ん張れるのだと思う。母や妻が土に触れることが大好きであるし、イベントを企画するリスクとは比べようもない低リスクである。

しかも喜びは、大地から直に私の体に伝わる。辰巳先生もおっしゃっていたが、土に触れるとは、直に宇宙に触れること、宇宙を手でわしづかみにすることだと。

土・水・光なくば、私自身は存在しないのである。日々命の元である、生命力あふるる野菜を可能な範囲で自分で育てることができるなんて、幸福以外の何物でもない。それを身近な方たちとシェアしたい。

それで生かされながら、一年でも声を出し続けられたら、それこそ、私が現在望むものである。つつましくもおいしくいただけ、声を出せる精神と体を日々過ごせたら、あとは感謝し寝る。シンプル、単純。

いまだ、生きているが故の悲しみもときおり丸ごと受け入れながら、下り坂を夫婦共々歩む、いまである。

2015-11-02

晩秋の一日、遊声塾のY氏の実家で、終日を過ごす。

起きたら雨で、晴耕雨読今日は家の中でのんびりと過ごせそうなので何やらちょっとうれしい。

昨日は遊声塾のY氏の高梁の実家である、築100年以上は建つであろう旧家にお邪魔して干し柿用の西条柿をたくさん収穫、いただいてきた。

朝一番、竹韻庵で50本マッハという種類の玉ねぎとブロッコリーを植え一仕事して、8時半に竹韻庵を出発、Y氏の家には9時半に着いた。

Y氏の家に行くのは3度目、初めて一人で家までたどり着くことができた。予定より早く着いたのが氏はいつも通りの泰然自若で温かく迎えてくださった。

メイン道路から急に細くなった山道をわずかに入っただけなのだが、そこは森閑とした山の中の斜面に、3段の石を築きご先祖が開いて作った見事な家が目に入る。

其の3段の傾斜地には、Y氏が退職後家の管理をしながら丹精している10数種類の秋冬野菜が見事に整然と植えられている。

縁側の庭先には松やモミジやナンテンや、ほかの広葉樹、家の裏や家と同じ面積地には、ゆずや柿が、かなりの敷地にバランスよく植えられていて、一言見事に手入れされている。

氏が子供のころから、このような柿の木の 曲がり具合だったという甘い小さな実をつける柿の木は、今年も鈴なりに実をつけていた。

着いてすぐその柿の実を、皮ごとかじって食べたのだが、ちぎってすぐ口に入れるとやはり子供時代にいざなわれる。こんな味の柿は売っていない。均一化されていない味。

今やY氏は単に塾生ではなく、ひとりの先輩の友人として大切な人になってしまった。久しぶりに訪ねたので、まずゆっくりと庭や畑地を眺めてから、氏と二人で西条柿を収穫した。

氏がハサミで高いところの柿を枝ごと切り落とし、私が下で拾って剪定しかごに入れた。熟柿も入れて120個くらい収穫した。

中高年二人の子供に還った柿の収穫はただ愉しかった。収穫作業が済み、いずれ竹韻庵でシイタケを育ててみたいと思っていると氏に話すと、ななんと氏は、敷地内のシイタケ用の樹木を伐りましょうというではないか。

氏はチェーンソー、二種類の鉈、ロープを用意、広い敷地の林の中に在るころ合いの樹にロープを巻き付け、倒す方向を定め、私はロープを引っ張る。
鈴なりの古い柿の木の残りはカラスが食べる

物の数分後、樹は目指す方向に見事に倒れた。あっという間に倒れた木から10数ほんの シイタケの原木が調達できた。

この原木を来年2月まで森の中に寝かせておいてから、シイタケの菌を打ち込むのだという。来年の2月がいまから楽しみになってきた。

そうこうするうちお昼タイムが近づき、氏が準備している間自然光の中で新聞を読んで待つ。

出来ましたーという氏の声。家の中に入ると暖かく、いい匂いが充満していて、私は言われるままにY氏が整えてくださったイノシシ鍋にかぶりついた。
実家の庭や畑の管理をするY氏の姿

一句【シシ鍋が・いにしみわたる友の味・去りゆく秋の・一期一会の】

氏の、みそ仕立てシシ鍋をいただくのは2回目、贅沢な昼食となり、肉、白菜、ネギ、ゴボウ、豆腐、糸こんにゃく、空腹には答えられない味が冷えた体に沁みいった。

いつもの倍くらいの量のごはんもいただいた。最後のクレソンのお漬物が絶品だった。

氏は準備、後片付けも含め実にまめに体が動く、そうでなければこれほどの広さの敷地の管理などできるわけがない。老いに向かってまさに自立している。こうでなくては。

久しぶり、満腹になるまで食べる。あっという間に睡魔がやってくる。氏は私を午睡の間に導く。約一時間熟睡する、午睡から覚めると午後の3時、音楽を聴きながらのコーヒータイムとしばしの雑談。

午後4時にもなると、氏の家の周りは晩秋の秋の夕暮れが都会より早くにやってくる。西条柿、甘い柿、2種類、初めて収穫した白菜までいただき、恐縮至極、 思わぬ愉快な一日を感謝した。

氏に見送られて旧家を後に、家路へのドライブ。帰宅したら妻が妻がたいそう悦び、すぐ柿をむいて口に入れた。


2015-11-01

昨日午後、娘の通う大学が主催する、柳田邦夫氏の講演会を聴きに行った。

ご本を以前から読んでいたので何としてもご本人の生の声を聴いておきたかったのである。

一言私は感銘を受けた。多くを語りたいのだが、朝一番ではその時間もないし、その必要もない気がする。

ただただ、こういう地味な人間の存在の奥深さ、深遠を、声を発するのがままならない側に置かれた 人たち(少数者)に替わって、媒介してくださる、感じ取れる作家のすごさを、声の中に私は感じ取った。

たたずまい、歩き方、声に、私は感銘を受けた。意味のある結婚記念日となった。これから私たちが晩年生活にいよいよ向かうにあたって、貴重な教えをいただいたようにさえ感じている。

ある種の苦しみの中からこそ、気づきや、他者への思いやりが生まれてくるといった、こころの闇の輝き。

昨日メモした、素晴らしき言葉の数々はきっとこれから私の生活の中で繰り返し反芻されるだろう。

講演の締めくくりの絵本の朗読は、柳田邦夫氏の静かな愛の思いの深さに、打たれた。声はその人の、これまでの全人生を映し出す。

本当に私にとっては素晴らしい講演会だった。妻も感動していた。帰り、久方ぶりに妻とお酒を飲み、外食をし、とっぷりと日の落ちた闇の中家路に着いた。

たまにだからこそ、こういう夫婦時間が必要だと私は思う。人生のパートナーとして、たまたま巡り合った妻の顔を久しぶりとくと眺めた。

帰って薪ストーブに火を入れ、しばしゆっくりとしてすごしたら、朝の早い私に瞬く間に穏やかな眠りの時がやってきた。