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2021-12-31

2021年最後の五十鈴川だより。

 2021年大晦日である。家族全員での朝食を済ませ、わが書斎にこもって寸暇五十鈴川だよりを打たずにはいられない、おじじである。

にぎやかという言葉があるが、27日午後次女家族と、長女が合流してから一気にこの2年分のうっ憤が晴れるかのような、にぎやかさ、にぎにぎしさ、老いも若きも各々の地声の言葉言葉言葉が家の中に満ちる。一番小さな命、葉君。次にちょっとお兄ちゃんになり、自在に言葉を操り始めた望晃くんを中心にして、多声な声が家の中に響き渡る。

直島のオブジェの中でくつろぐ長女家族

長老の母も、静かに存在感を示して言葉数は少ないものの、嬉しそうにしている。4世代揃っての大晦日は無論初めてである。年の瀬、このように能天気に五十鈴川だよりを 打てる、ささやかな多幸感は、わが人生で初めて経験する出来事である。

老いてみてこそ、でないと感じられない類のまさに出来事である、ということをいま、この時にしっかりと刻み付けたいのである。葉君や、望晃君の天然自然が放つまさに後光が刺すような、しぐさや動き、ほほえみ、泣き声、嬌声、眠りの妖精のような顔は、老い心を潤してやまないのである。こればかりは老てみないと。老いの幸徳というほかはないのである。

娘たち夫婦のむつまじさも、親としては他に何も言うことはない、いわばこれ以上何も望まない果報を、私と妻にもたらしてくれている年の瀬時間の在り難さである。

これ以上打つと親ばかを通り越してしまうので控えるが、古希をまじかに控えて、半世紀前のおのれを振り返り、このような半世紀後を迎えている現実、まるで夢の世の如しと、いうほかはないが、これは夢ではなく事実である。 何を目指して一回限りの人生を歩むのかを今後も繰り返し自問自答したいのだ。もし自問自答しなければ、おそらくこのような今を迎えることは、きっとかなわなかったのではなかろうかとおもう。

18歳の時に、幸福になりたいという漠然たる夢を描いてバッグひとつで上京し演劇を学び、艱難辛苦十数余年、挫折を重ね紆余曲折。思考錯誤の果ての今である。演劇を学んだことで生き延びることができた、のだと思う。演劇を学ぶことは生きる方法を学ぶこと、永遠の終わりなき哲学である。シェイクスピア作品で学んだ哲学思考。半世紀後、気づけば夢がかなったということをしっかりと五十鈴川だよりに打っておく。

人生谷あり山あり、今後も試練は続く。五十鈴川だよりは蛇行しながら流れてゆく。逃げ場はない、立ち向かうだけである。

 

 

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