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2019-03-31

次女の婚約昼食会を終えて、ささやかに想う。

朝がきて、今日で3月も終わり、五十鈴川だよりを書いているわが二階の部屋からは、うら寂しい春の風の音が今も時折聞こえているが、東の空からはあさのひかりがまぶしく我が家の屋根を照らしている。

さて、昨日岡山のとあるホテルで、両家の婚約昼食会が、終始穏やかな雰囲気の中で進み、滞りなく済んだ。始まった時には降っていた雨も終えるころには上がって、桜も咲き始めて二人を祝福しているかのようだった 。

妻はさみし気で、うれし気で、安堵の表情をしていたが、きっと向こうのお母さんも、どこか母親にしか感知しえない(千差万別の)共通のおもいを体感されていたのだと思えた。

昨日も書いたが、その点は男親というものは、どこか所在が薄く頼りなげにその場に居合わせるといった体だが、やはり厳かなけじめというか、儀式というものの、長きにわたって続いて(時代の表面的な事がらがいくら変わろうと)きたことの重みを感じた。
周さんがプレゼントしてくれた手作りお湯のみ(彼はクリエーターである)

何より、二人が嬉しそうにしていたこと、そして双方の親に対しての配慮が、きちんとできる男性を娘が選んだことに対して、私としてはひたすら安堵しうれしかった。安心した。

さて、儀式を終えいったん家に戻りしばらく休んだのち、母と妻娘私の4人で夕方から市内の温泉に行き、しばしの3世代、くつろぎ時間を過ごし、夕飯は娘の提案で岡山駅の近くのいい感じのお蕎麦屋さんで済ませた。

次女のことを、自分の娘のように接し育ててきたという自覚の深い母は、昼間の昼食会の話を聞きながら、ことのほかご満悦で、めったにきたこともない本格的なお蕎麦屋さんのおそばを、おいしいおいしいと食し、私が注いだビールを一気に笑顔で飲み干した。

このようなあわただしき世相の中、スマホも何もしない母ではあるが、肝心なことだけは今もきちんとすべて一人でこなしているのが、我が家の一番のつつましき穏やかな安定感に寄与している。

つくづく思うことだが、健康であるからこその他者への思いやりが可能なのである。若き二人には何はともあれ、健康に日々を過ごしてほしい。

そして思うことだが、親としての一つ役割を終えたのではあるが、老いゆく中での家族の行く末を、ほんのちょっとでも見守りたく、母のような存在力をキープしてゆくための生き方を模索したく考える殊勝な私である。


2019-03-30

両家での婚約昼食会の日の朝に想う。

3月30日、今日は我が家にとってめでたい日である。昨日次女が東京から戻り、今日お昼婚約昼食会が、ささやかに両家で開かれる。

今夏の北海道での挙式をもって、親としての務めをほぼ何とか終えることになりそうである。私みたいな不安定な生き方を選択したものが、妻との出会いでごく普通の暮らしを得た中で、二人の娘が育ち、次女も新たな門出を迎える。

ふつつかな親としては、名状しがたい気分になるのも、いささか仕方なしである。親は無くとも子は育つというが、妻と異なり男親の私はほとんど何もしてないのに、娘たちはきちんと成長してくれていたことに、ただただ安堵するばかりである。

この10数年家族の崩壊や、家庭の多様な子育て環境の問題、 学校でのいじめ、引きこもりほか等々が、ニュースにならない日はないといっても過言ではない。

時代の先行きは全く持って、予断を許さないような世相の中、次女なりに人生の同伴者を見つけて、この数年静かに交際してきたことを、私も妻も知っている。

娘の選んだ男性に初めて会った時のあいさつの印象を私ははっきりと覚えている。ともあれ、交際の結果を私も妻も母も心から喜んでいる。

いよいよ、これから大変な時代の渦中を生きてゆかねばならないが、 目線を低くして、小事を大事にして、二人して健康に力を合わせれば、とただ願うばかりである。

見知らぬ者同士が、出逢って結ばれる。この歳になってようやく、夫婦という感情が 以前にも増してきたことを時折実感する。

妻を見ていると、無償の愛、母という存在の大きさを垣間見る。男親の私には理解するのが及ばぬ、といった体である。

娘たちのおかげで、私に二人の息子が忽然とできた。そのことが私にはまた喜びである。神聖な儀式を通じて肉親となる。男同士で酒が飲めたり、次女のパートナーとはコーヒーを飲みながら、話ができる。

ともあれ、環境の異なる中で育ったもの同士が、長きにわたって同じ船に乗り続けるのは難しいが、荒波を乗り越えた後には二人にしか感知しえない何かが残るものと信ずる。幸を祈念するのみである。

2019-03-28

5月わが故郷五十鈴川のほとりで、桑江良健氏と語り合いたい。

遊声塾のレッスンの夜だけは寝るのが遅くなりしたがって朝も遅い。起きると、仕事に出かける前、妻が私が友人に送るためのキンカンの発送の準備万端を整えてくれていたので、遠方のキンカンが育たない、沖縄と北海道と栃木県の3人の大切な方に、一文を書いて同封し、歩いて郵便局まで出しに行った後の五十鈴川だよりタイム。

沖縄の二人のわが友人は、画家の桑江良健(沖縄の歴史に残る画家だと思う)・純子(沖縄人形劇の第一人者、人形も作られる、とにかくすごいご夫妻)夫妻である。

5月初旬良健さんが岡山にやってくるので我が家にとまりたい、そして一晩語り合いたいとのお葉書をいただいていたので、昨日昼、私の方から歓迎の旨を留守電メッセージに入れておいたら、レッスン中にお電話いただき、あらためてゆっくりとこちらから電話を入れた。
粒は小さいが変な甘さがなく天然の味がする

私は考えた、氏は岡山の前に大分に所用で来られるとのことなので、可能なら隣の県のわが故郷で一晩ゆっくりと語り合い、わが故郷を案内したい旨を伝えたのである。

このような機会はもうこれからそうはたびたび訪れないのであるから、良健さんにわずかでもいいから、わが故郷五十鈴川のほとりで、人生を語りあいたいと思ったのである。

遊声塾のレッスンを一日休んでも、私は体を空けて氏と語り合いたい、私にとっては、沖縄の魂で画業と取り組んで居る稀な大切な友人なのである。

レッスンはいつでもできるが、氏との語らいはそうはたびたび持てない。この年齢になると、あらゆる人生のお荷物を下ろし、整理し、それでも手放しきれない、いまだ全身での対話が持てる関係性の友人などは、そうは持てるものではない。

直観的な出会いから数十年のお付き合いだが、あまりにも私が沖縄の歴史に関して無知で、冷や汗を何度もかいたこと数知れず。だが氏は暖かい包容力で私を包み関係性が切れることはなかった。

氏は夢が原での私の企画、アフリカほか、いわゆる俗にいう西洋帝国主義上から目線の、 後進国扱いの、未知の国々の民族音楽企画をことのほか評価してくれた最初の方である。

小さな国にも、人々のかけがえのない暮らし、その歴史の上に築かれた無二の言語や、文化が存在することの素晴らしさを、私は 20代から30代にかけて未訪の国々、いわゆる非西欧文化圏を旅することで、肌で感じ取った。

その時の体験があったからこそ、氏とは多岐にわたる会話が何とか今も成立しているのだと思う。沖縄のことをわずかでも感じたり知ろうと思うのなら、一人でもいいから友人を持つことだと思う。

それはお隣の韓国であろうとどこの国であろうと、自分にとっての大事なひとが持てるか持てないかにかかってのいるではないかと、小生など は考える。

いずれにせよ、変化し続けてゆく時代のさなかでの、友人知人との長きにわたっての関係性の持続は、お互いに何か目に見えない問題意識のようなものがないと、はなはだ難しい。

桑江良健、純子さんご夫妻は、私に沖縄の芸術や文化の素晴らしさを、日本の(大和)の私に最初に知らしめた人である。

五十鈴川のほとりでの語らい。実現することを切に私は望んでいる。


2019-03-27

塾生Nさんのラインでのリスポンスに感動した私。

朝運動公園に少し声出しに行き、戻ってメルの散歩を済ませ、軽く朝食の後、我が家のキンカンの最後の収穫終え、お茶の時間と共に五十鈴川だよりタイム。

夜はレッスンなので、やらねばならぬことがあるにせよ、忙中閑ありの、ぼーっするいっときが絶対的に私には必要である。

若くはないのだ、と自分に言い聞かせ、えねるぎーを放出した後は、とにかく身をいたわるようになってきた私である。見たい番組などがあって もうほとんど見なくなった、録画しておいてもほとんど見る時間がとれないので、よほどのことがない限り録画もしない。

オーバーではなく、一日一日こそが一期一会なのであるから、優先事項に沿って時間を有意義に過ごす、いい意味で頑固でありたい私なのである。

インプットとアウトプットのバランスという意味では、現代のはやりの事象、出来事や文化的な事からは、限りなく遠くの所にいて、もっぱら限りなく過ぎ去った出来事、過去の歴史’(とくに現代史)や、わが国の古典的な名作にこそ、もっと触れる時間を大切にしたい。

だから、何回か書いたかもしれないが、今後はますますもって不義理を重ね、頑固に自分時間を生きてゆくことになるだろう。

話を変える。私はパソコンもスマホも、あらゆる利便性の極致的ツールにあまり頼った生活を 心かけていない。

家族も含め、近しい方々のみとの、最低ITライフである。誤解しないでほしいのは、デジタル世界の素晴らしさも私は十分に認識している。

デジタル、インターネットなくして五十鈴川だよりは成り立たない。だが、上手くは言えないが、これで安易に私の思いが伝わるとは思えないの(思わないの)だ 。

絶対矛盾を抱えながら、書かずにはいられない自分がいるし、きちんと読まれて身に余るコメントをいただいたりもするので、書いているといった按配(発信と受信の双方向的やり取りの交歓が、共同体が解体されたばらばら現代でははなはだ難しい、だがそこをなんとかしたい)。



ラインという便利この上ない、ツールも最低しかしないが、塾生のラインにわずかな輪読会の報告を送ったところ、去年のリア王から遊声塾に参加されている塾生のNさんから、うれしい返信が届いた。

要は、デジタルであろうとアナログであろうと、内容中身、コンテンツ、その人の考え、生き方、等々が交差する、リスポンス反応がNさんなのである。

このような人が、私の小さな塾に来られたこと、いることが私をしてまたささやかに活性化させる。Nさんはピアノが堪能で、朗読(私は朗読をやったことがない)を10年以上やられている、その方が先日大阪までとある朗読会に行かれ、心底感動したとの思いがつづられている、文面。

 その感動が、30行以上、スマホ画面につづられていたのである。所用で第一回輪読会には来られなかったのだが、Nさんとのこれからの切磋琢磨声出し時間が楽しみである。


2019-03-26

第一回シェイクスピア作品輪読会【間違いの喜劇】を終え、そして想う。

歳を重ね、身体が変わるともちろん意識も変わる。肉親ほか近しい方、あったことがなくても、同時代を生き、影響を受けた方がお亡くなりになると、いやでも私自身のお迎えを、考えてしまう。

私がつたなき五十鈴川だよりを書き続けるのは、多分、いい意味でメメントモリ、死を想像することで、いま生きている生を充実して生きることに、ほんのちょっとでも、プラスになりはしないかとの、煩悩ともいうしかない淡い願望が、あるゆえではないかと、考える。

五十鈴川だよりを書き綴って8年目に入るが、8年前のおのれとは確実に変化し続けている。長女は大学生だったし、シェイクスピア遊声塾もなかった。世は常ならず、先のことは、私自身にもわからないのである。

さて、これから8年後を想像してもせんないことである。そのようなことを考えてしまうのが、現代人である私のいわば宿業のようなものなのかもしれない。(今日の新聞に先日お亡くなりになった市原悦子さんにお別れの言葉を渡邊美佐子さんがお書きになっていた、ヒトは、見えなくなるのである)

さていつものように、話題を変える。第一回のシェイクスピア輪読会を何とか終えることができた。そのことを何としても、五十鈴川だよりにわずかでも記しておきたい。

男性3人(私を入れ4人)女性4人計7名の方が、わずかな情報(チラシや新聞で)で参加してくださった。たまたま3月24日はシェイクスピアの命日であった。(いい時間が流れました参加してくださった方々心より感謝します。皆さん素晴らしかったです)

間違いの喜劇は、シェイクスピアの作品の中では最も短い。私はシェイクスピアがこのような作品を書いていたのを知ったのは、25歳の時に初めて海を渡り、自費英国留学を一年半していた時のことである。

ロンドンでは演劇観劇三昧、夜ごとRSCの劇場の出掛け(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)そこで【間違いの喜劇】を見た時である。演出はトレバーナン、(すごい演出家)ミュージカル仕立てに演出されたその作品の愉しかったこと、2度私はみた。

帰国後、私は27歳になっていたが文学座の養成所を最年長で受かり、その一年後シェイクスピアシアターに入り、文学座の養成所で講義を受けた小田島雄志先生の翻訳の間違いの喜劇が出版され、何と私が父親役イージオンを演ずることになろうとは、もちろん思いもしなかかった。運命は流浪変転する。

書き出せば切りのないくらいくらい、思い出深い芝居、間違いの喜劇は私にとってはかけがえのない青春時代のシェイクスピア作品、そして愉しい観劇体験のベストスリーに入る作品である。ストーリーはシンプル。

幼少期船が難破、父と母双子の息子と二人の召使が生き別れになり、やがて成人となり弟とその召使が兄探しの旅に出たまま7年も帰らず、父親が息子を探しに諸国遍歴、とある国交を断絶した国にたどり着き、双子の取り違えで面白く劇が展開、最後は一族再会、めでたしめでたしの、シンプルこの上ない劇というより、お芝居である。
人間は間違う器である

だが、この短い初期の(処女作ともいわれている)作品には、その後もっともっと人間の実在の根源に 向かう天才シェイクスピアの本領の萌芽が随所にみられる。

愛と嫉妬・誤解・家族・孤独・人間の存在の在り様の危うさ等々、考えようによっては深刻な問題が、限りなく豊かな言葉使いで(シェイクスピアが創った文体・言葉の表現力)魔法のように愉しい物語の中であっという間に展開して、終わるのである。

長くなるので端折るが、シェイクスピアほど、【生と死】をお芝居という嘘、枠組みの中で、かくも 楽しく、かくも時に残酷にその実在を刻んだ劇作家を私はほかに知らない。

この年齢でなぜ輪読会をやろうと思ったのかはよくはわからないが、間違いの喜劇の父親のイージオンのように、悔いなく命を生ききろうとするエネルギーにどこか私もあやかりたいのである。

そのような、私とどこか思いを共有できるできるような方とシェイクスピア作品の輪読を通じて、出遭いたいとの内なる希望がいまだ澎湃とわいてくるのである。

ともあれ、思い付きで第一回は無事に終わった。いつまでできるかわからないが、とにかく第二回は4月28日である。

有限なる時間、これからは再び焦点を絞って少しでも深くシェイクスピア作品を味会う時間を大切にしたいと念う、そのことを五十鈴川だよりに書いておく。







2019-03-23

3月9日の五十鈴川だよりの続き。

春の長い風邪の症状の中、いまひとつ体調が思わしくない中でも、しのいで五十鈴川だよりを書くことで日々の営みを継続し、数日前から本来の体調に戻ってきている。

だが明らかに、数年前とは体力が確実に低下してきているのだという、自覚の深まりがある。このようなことを書くと何やら寂しげだが、老いてゆくということは、どこかもののあわれを、体感してゆく。日本人である私は四季と共に移ろいゆく摂理を感受する。

こればかりは、自分の体を通じてしか知るよしのない、初めての未知のゾーンに 入ってゆくのだという自覚をもって、個人的に五十鈴川だよりを書きつつ、老いを見つめてゆく覚悟を深めてゆければとの、念いである。

さて、明るい話題へ。先に書いた3月9日の五十鈴川だよりの続き。福山で外科医をしておられるT氏のことをちょっと書きたい。

T氏とは、私が岡山に移住し、 そんなに間もないころ当時岡山市役所の近くのとあるビルが、取り壊されることになり工事に入るまでの間、持ち主がその建物をアーティストに【自由工場】として開放していた。(たぶん一年以上)

そこで、私に何か企画しないかという話が持ち込まれ、私はやる気満々、一時間のドキュメンタリーフランス映画【ジャンベフォラ】(ジャンベという太鼓の名人ママディケイタが亡命先のベルギーから故郷に凱旋する度胆を抜かれるほどに素晴らしいドキュメント)というフィルムを一日だけ機材を持ち込み、4回上映したことがあるのだが、その上映会にT氏は来られたのだ。

何しろもう四半世紀前のことである。その後たまあに、電車の中でお見掛けしたりして、会釈をする程度のことはあったのだが、言葉を交わすようになったのは、私が夢が原を退職してから後である。
28歳、(39年前)私が出演演出したチラシ。

とくにこの数年、よく岡山駅で偶然出会う中で自然に言葉を交わすようになり、現在はシェイクスピア遊声塾 をやっていると話すと、見学したいとのことでリア王の見学に来られたのである。

氏はいたく感動され、過分な言葉をいただき、発表会にもテキスト持参で(おそらく事前にも何度も読まれていた)来られ、打ち上げにも飛び入り参加され、何と2次会の勘定を持ってくださったのである。

このような方、パトロンはそうはいない。人間当たり前であるが、自分が情熱を傾けてやっていることが褒められたり、評価されたりすると うれしいものである。

特に私の場合は、あまり褒められたりすることのない人生を思春期あたりから生きてきて、現在もあたふたと生きているものにとっては、量ではなくKさんとかTさんのように、長きにわたって私のやっていることを、遠巻きにきちんと自分の価値判断で物事をとらえる感性をお持ちの方にほめられると、うれしい、のである。まして、岡山では。

氏は医師であり、そして画家である(そのことを私は先日知った)。そのような方が、私が先日送った輪読会のチラシをカバンの中から取り出し、いきなり参加したいと口から発したのだ。

輪読会を思いついたことで、Kさん、T氏とシェイクスピア作品を通じて、同じ土俵で時間を 共有できることになったのである。一念を持続していると、意外なことが起こる。

遊声塾をはじめて7年目の春、昨年孫が生まれ、リア王を終え、正直 ここらでとの思いもかすかによぎらないではなかったが、輪読会を始めることでまた新しい何かが(苦楽が)始まりそうな気配、人生の最後は、五十鈴川のほとりで迎えたいとの希望を持つ小生だが、まだまだ先のことになりそうである。





2019-03-21

春分の日の朝に想う。

春分の日の朝、雨である。昨夜はいつものように遊声塾のレッスン、ようやく体調も元に戻りつあり、充実したレッスンをすることができた。

春は何かと忙しい季節、来られた塾生は3名で、全体レッスンとは異なる個人レッスンをやっていたら、H君が9時近く風邪で熱のある体を運びわざわざやってきた。

情熱には打たれたが、早く休むよう言い聞かせ帰ってもらった。いくら心がはやっても、焦っての稽古は禁物である。人間が歩くことができるのは、いつも踏み出していない方の足が休んでいるからだ、との言を読んだことがある。ロミオとジュリエットのロレンス神父の言うように、はやるとつまずくのである。

よく休んで、気力が充実した体からしか声は出ないのである。とくにシェイクスピアの言葉は。でも、熱があっても仕事を終えた体で、教室までやってくる 生徒さんがいる私の塾、果報者というほかはない。

現在6名、私を入れて7名で、6月の発表会ロミオとジュリエットに向かっている。主な役だけでも20名以上を7名で音読する。ロミオとジュリエットは一役なので、まるで落語のように瞬時に変身、一人が何役も音読することになるので、聴いている方は面食らうかもしれないが、これは遊声塾の宿命である。(と受けとめている)
第二回輪読会のチラシ、塾生Nさんがあっという間に作ってくれた

話は変わる、昨夜のレッスンに私の年齢より少し上の女性の見学者がこられた 。24日の輪読会に来られる方である。

シェイクスピアなど読んだこともない方であったがだんだんレッスンに引き込まれた様子で、9時半近く、レッスン最後までいてくださった。

教室の後片付けまで手伝ってくださってことにちょっと驚いた。なんの先入観がなくても、いきなり来られても、きちんと音読された言葉は伝わる人には、何かが伝わるのだとの安堵が、私の中に広がった。

塾生の数が増えなくても、これからは縁があった方は、どんどん見学に来てもらいたいと私は考えている。一人でも多くの方にシェイクスピア遊声塾の存在と、シェイクスピア作品の面白さを知ってもらいたいからである。(私の人生の余白時間は有限である)

24日の輪読会には、今のところ6名の希望者がありそのうち塾生はひとり、ほかは 初めての方ばかりである。どのような輪読会になるのか今から楽しみである。

2019-03-19

ライン友達E子さま、ご心配ありがとう、元気になりました。

雨の朝、五十鈴川が書ける。わずか二日書いていないだけなのに、ずいぶんと書いていない気がする。熱は平熱になり鼻水も収まったが、本調子にはどこかとおい。だが五十鈴川だよりが書けるということが、書く時間が、意欲があるということが、ただ嬉しい。

世の中には、私などの想像の遠く及ばぬところで、あらゆる苛酷な人生を、いやがおうにも歩まねばならぬ方々が、大勢存在することを私は知っている。だからこうやって、つましく五十鈴川だよりが書ける、わが暮らしを虚心坦懐に幸せに思う。

さて、横になって身体をいたわりながら、眼を閉じていない時にはずっと本を読んで過ごしていた。佐藤優氏の【プラハの憂鬱】(すがすがしく素晴らしい)を読み終え、佐藤優氏と 池上彰氏の対談本【知らなきゃよかった】(読まなきゃよかったと思えるほどに世界は恐ろしく混沌化しつつある)を読み終え、続いてこれまた佐藤優氏と手嶋龍一との対談本【知の武装】を今読んでいる。

新書版の対談本なら、横になっていても軽くて十分に読めるから、まったくありがたい時間を過ごすことができた。佐藤優氏はとにかく対談相手が幅広い。(左とか右とか超越している、カテゴリーの枠に収まらない)読んでいる分野の本も多岐にわたっている。好奇心が半端ではない。私は佐藤優氏が選んだ相手なのだから、信頼して読んでいる。

対談相手によって(きっと編集者も素晴らしいのだろう)私の知らないことばかりが、話題に上り、縦横無尽に語りつくされ、分析されてゆく。その様はまるで第一級の知的サスペンスを読んでいるかの如くである。知る悦び、まずは知らねばならない。(知らぬが仏という言葉もあるが、私は知る仏の側に立つ)

発熱せず、横になっていなかったら、きっとほかのことをしていたであろうから、年に数回発熱し、横になっての新書版読書はこれからの私の思わぬ熱を帯びた、愉しみの時間とかすやも。



妻が丹精に育てた今朝の雨にうなだれる我が家のクリスマスローズ
冗談も書けるほどに、つまり私は元気に回復している。十分に休んだ体はどこか新鮮である。話は忽然と変わるが、わがご先祖の地で、先の帰省で忽然と知己を得た(きっと宇納間の地蔵様のおかげで)E子さんから、ラインで暖かいご心配の一文をいただいた。

この方は、ちゃきちゃきと精神が実に若々しく、したがって文章も若々しく、ITにも堪能で、地元に根を張って子供たちに読み聞かせや、ちょっとしたお芝居作りなどもされている、実にはつらつと生活に根のある老い時間を迎え撃っておられる、敬服する先輩である。

そのような方から、心配してもらえる私は果報者、これもまた五十鈴川のおかげである。遠隔のわが故郷の地に、わたくしごときを案じてくれる人がいてくれるなんて、なにおかいわんや。

春、桜が散るころ、そっとわが故郷に帰りたく思う私がいる。幸い姉兄たちが健在なればこそ、帰る意欲もわく、がいなくなったら。

そのようなことを考えるのはよそう、今は姉も兄も義兄も幸いなことに元気なのだから、帰れるうちに何度も帰り、温故知新を繰り返そう。

最後に、E子さんご心配ありがとう。この場を借りてお礼を伝えます。またお手製のお茶を五十鈴川源流のお水でいただきたく、願う私です。

2019-03-16

鼻水を抱えながら五十鈴川だよりを書く、春の嵐の風の音色を聴きながら。

熱は平熱に近くなったが、鼻水が止まず、幸い土日に入りゆっくり休めるのでありがたい土曜日の朝である。

声も出さず、弓の素引きも全くしない日が何日も続くようなことは、体調がいい時には考えられないが、まだ少し微熱がある。万全な体調にはない。

だから、2階の部屋で一人静かに 、微熱と鼻水が止まるまでじっとしている。布団から抜け出て、十鈴川だよりを書いたりすると、本当は妻に叱られるのだが、これくらいは勘弁してほしい私である。このような体調ではあるにしても、五十鈴川だよりを書きたくなる自分がいる。


毎日リンゴは欠かさない私。

3月も半ばを過ぎ、春の嵐のような日々が続いているが、ちらほらと桜の開花情報も寄せられてきそうな時候の中、鼻水垂らして一人部屋にこもっている自分が少し情けないが、これもまた致し方なし、充電思考時間と自分を慰めている。

遠くで何やらひっきりなしにサイレンの音が聞こえるが、春の嵐の火事などでなければいいが、二階の部屋には風の音色がまるで音楽のように途切れない。そこはかと寂しげな風の音。昨日も書いたが、こういう日はやり過ごす、じっとしているにしくはなしである。

無理は禁物、義理の兄が自宅の庭で採取して、先の帰省で私にくれた 貴重なはちみつがたっぷりと入った甘酒や紅茶でも飲んで、猫のようにじっとわが体をいたわろう。

そして、我が家の八朔を食べ、身体を冷やさないようにしながら布団の中で本を読んで過ごそう。読みたい本には事欠かない初老生活、幸いである。

母がよく言っていた、風は万病のもとだから軽く考えてはいけないと。その言葉を噛みしめて自分をいたわろう。鼻水が止まるまで五十鈴川だよりを書くのも控えよう、と思うが果たして。


2019-03-15

熱がひいた体で佐藤優氏の御本【プラハの憂鬱】を読む。

この数日風の強いが続き、午前中風の中での仕事をしていたのが、たたったのか喉が少し腫れ、微熱が一昨日の夕方から出た。

おとといは遊声塾のレッスンだったのだが、早めにレッスンを切り上げ、帰って栄養だけは取り、妻が湯たんぽを入れておいてくれた布団にすぐもぐりこんだ。一晩ぐっすり寝て汗をかいたら、喉の痛みがかなりやわらぎ、熱も引いていた。

世の中に出るまで、私は今より8キロくらい痩せていて (いまでも60キロくらいしかない)季節の変わり目には必ず扁桃腺を腫らし、熱が出るという虚弱な体質であった。

そのころに比べたら、本当に自分でも自賛したいくらいに、私は健康になった。それでも本質的に 頑健というよりはひ弱な体質である。それを少しずつ矯正しつつ今も何とかしのいでいるといった按配なのである。

だからこのように体がオーバーワークで不調を知らせると、何はともあれ栄養を取ってすぐに休むようにしている。幸い私は寝るのが好きなので、ただただ寝る。

わが体は正直である。先のふるさとへの帰省から、少々オーバーワークがやはり過ぎたのである。年相応という言葉をすぐ忘れる欠点がある。でもまあ、自分を慰めるわけでもないが、年齢を忘れてしまうほどに、やりたいことが減らないということは幸せなことだと思う。

五十鈴川だよりを書けることの、健康に日々が過ごせるということの有難さ、たまに発熱するということは、自分へのご褒美、何かが休みなさいといってくれてるのだと思うことにしている。

さて熱がひいた昨日から、佐藤優氏の【プラハの憂鬱】という本を 読み始めた。半分ほど読み進んだが、すこぶる面白い。

氏の博覧強記が成す多種類の専門的な本には理解が及ばぬことも多いわが頭なのだが、外務省に入ってすぐ、英国の陸軍学校での語学研修生時代の出来事に端を発する、半自伝的なこの本は私の頭でもぐいぐい引き込まれる。

やはり佐藤優氏は、読むたびに思うことだが異能の人、このような多面的な思考ができる人というのははなはだもって私のような安きに流れ、騙されやすいタイプの人間には貴重な作家であると痛感させられる。

何よりもその事実認識、冷静さ、ぶれなさ、自分自身のキリスト教徒としての誠実さにびっくりさせられる。朝の五十鈴川だより時間で、氏の膨大な多岐にわたる仕事への言及は控える。

2005年くらいから、氏の本をたまたま手にし、以来この方から勝手に学びたいといつも思わせられる信頼できる作家である。(どのようにしてこのような方が出顕したのか、両親がこれまたすごい)

学者であり、ジャーナリストであり、分析官であり、そのしたたかな胆力は実際の体験に裏打ちされている。実践と行動力、文武両道の達人である。(と勝手に思っている)

512日間拘置所で読まれた本のリストには驚愕した。ほとんど私が手にしたことないような御本ばかりであった(読んでもわからない)。キリスト教徒であり、思想家である。そして、愛国者である。

佐藤優氏が書かれた本は、繰り返し読むに堪える、知的水先案内に満ちている。日本人がこれから先、いやでも相手にしなければならない未知の国々の民族や歴史にこれほど通暁していて、それをわかりやすく教えてくれる存在をほかに知らない。このような方が今現在の日本にいる、私にとってははなはだ心強い。


2019-03-13

望晃くんの一歳のお誕生日の朝に想う。

二日も五十鈴川だよりを書かないと、随分書いていない気がするほど、このと頃の私は五十鈴川だよりを書いている。

毎日が日曜日で、書きたいという情熱があれば 、きっと毎日書けるのでは中というくらいであるが、幸い今はまだほかにやりたいこと、やらねばならぬことがあって、そうは五十鈴川だよりを落ち着いて書けないので、もし万が一開いてくださって、何も書いていないと落胆される方がいたら、平にご容赦願いたい。

さて、今日は爺バカの日。つまり望晃(のあ)くんの誕生日である。ささやかに先日筆で一文を書いて、妻と共にお祝い品を送った。

いつぞやも書いたが、長女が結婚して 5年でわが家族に初めての孫ができ、何かが私の中でやんわりと変化し続けている。

難しいことは置いといて、戦後生まれ、良きにつけ悪しきにつけ、日本的な共同体家族というものが、崩壊してゆかざるを得ないほどの、多分歴史的な大転換の中を何とか生きている渦中、という認識が私にはとても強い。だが本質的に普遍的な事はそうは変わらない。

大昔から人は子供を産み育てる。演劇などという極めて生活が不安定な世界で、青春時代のほとんどを費やし、30代も半ば近く一人の女性と巡り合い、奇蹟的に37歳で父親になった時(させてもらった)、いわば劇的に私の人生は変わった。

オーバーではなく、赤ちゃんの後光で私はあらゆる蒙が晴れたのである。それからは二人の娘が社会的に巣立つまで、ただただ単純に働き育てた。それがまた楽しかった。

仕事に恵まれたこともあるが、以後還暦を過ぎて下の娘も巣立ち、一応親の役目は終わった。老いることも含め、ヒトは経験しないことには、あらゆることが自分のこととして、実感して分からないものである。

筆文字でのお祝い

私などその最たる生き物ではないかというどこか忸怩たる思いがぬぐえない。他者の経験しえないような痛みや、幸不幸をニュースで知るにしても、体験していないことに関しては、沈黙をするほかになすすべがない。

世界で初めて不条理な芝居を書いた、アイルランドのサミュエル・ベケットという劇作家の言葉だったと思うが、世界の涙の量は一定だ、誰かが泣けば誰かが泣きやむと。

いつ何時、経験したこともないような世界に人間は投げだされるかわからない、人間はそのような歴史を歩んできて、おそらく初めてといっていいほどの、平和な時代を、たまたま我々の世代は享受することができているのであることを知ったのは、 私が40過ぎてからである。

これから先、どのような時代がやってくるのか、皆目予想だにできないが、望晃くんの成長を遠くから静かに眺めながら、おじじとしての役割を、ほんの少しでも果たしながら老いてゆきたいと思う殊勝な今朝のわたしである。

2019-03-10

2019年3月10日、母の命日の朝に想う。

3月10日、母の命日である。敗戦の年の東京大空襲の日でもある。そして明日は東北津波原発大震災の日である。

いくら忘れやすいといわれる日本人の 一人のわたしであっても、ボケない限り決して忘れることはない。私にとっての身近な死者はやはり両親の死である。

父が2000年、母は1998年に亡くなった。歳を重ねるとともに、両親のことに想いが及ぶようになってきつつあるのは、五十鈴川だよりをひも解けば自明だろう。父のことはたびたび触れているが、母のことに関してはあまり触れていない気がする。

何故だかはわからない、が今後は折々母のことも書きたいと、思うようになってきた。何度書いた記憶があるが私は鬼のように怖い厳格な父と、慈母観音のような母との間に育ったのだなあ、といましみじみ感じる。

だから平衡感覚が保たれ、変な道に染まることもなく、何とか生き延びて 来られたのだと思える。

私は母に叱られた記憶がほとんどない、小言なども。父と母は今の北朝鮮の平壌の近くの新義州で二人して小学校の先生をしていた。突然の敗戦、ロシア兵にすべて奪われ、3歳の姉と生後半年の兄を連れて、命からがら引き上げてきた。

帰国後母は専業主婦となり、その後3人の子供を産み、5人の子供をきちんと育てた。宮崎市内の大きな旅館の長女として生まれ、実母は母が幼いころに他界、その後妻が 入った。詳細を生きているときにもっともっと聞いておくべきだった、と今にして思うが、かなわなかった。
後列左から2番目が父

ただ、育ちが良かったっことは、何枚かの遺された幼いころの写真を見てよく分かった。日曜学校にも通っていて、よく讃美歌を口ずさんだ。粗野で貧しい育ちの父とはまるで違って、精神的な事はともかく、経済的な苦労はほとんどしないで、当時の高等女学校を出ている。

ほんわかのんびり、お嬢さん育ちの雰囲気はいくら貧しくても生涯きえることはなかった。

苦学して、日本が統治していたソウル師範学校を出た父と縁あって写真見合い、結婚して北朝鮮で二人して教師をしていたのである。教えていた子供のほとんどは朝鮮の子供たちである。

きっと、両親が教えた 子供たちは北朝鮮のどこかで、今も生きているはずである。先日の帰省で、次兄から貴重な北朝鮮時代、父が務めていた昌城公立普通学校の、昭和13年3月の卒業アルバムを、お前が持っていろと手渡された。

職員、先生13名のうち日本の男性が6名、朝鮮の男性が5名、女性2人である。その中に若き日の父の姿がある。父が結婚する前だから母の姿はまだない。昭和13年、敗戦の7年前だから運動会や遠足も、まだどこかのんびりしていて、たのし気な様子がうかがわれる。

朝鮮の先生や子供たちとも穏やかに生活して居た様子がわかるが、あきらかに異国の子供に日本の教育をしていたことが見て取れる。

父はその後母と結婚、束の間ではあれ、夫婦二人して異国で天国のような、日本を離れての新婚生活ができたのであろうことが想像できる。

だが敗戦と共に、地獄のような引揚体験と共に、戦後の苦難の生活を必死で生き抜き、見事に5人の子供を育て上げたのである。

入院先からもらった母からの最期の葉書
お棺の中に白髪で安らかに眠る 母の一枚の写真がある。美しい。晩年病に冒され点滴を打ちながら、私に宛てられた一枚のはがきがある。

今読むと一段と感動する。このような母を持てたことが私の宝である。



2019-03-09

Kさんとの再会の夜、しみじみシェイクスピアの輪読会をやろうと思った、念いが満たされました。

一昨日のお昼過ぎ、珍しく私の携帯が鳴った。出ると思わぬ毎日新聞支局からである。私が持って行った輪読会のチラシに興味を持ってくださり、記事にし、ついては顔写真がほしいとのこと。たまたま弓道の稽古に行く予定だったので、夕方支局におもむく旨を伝え電話を終えた。

終えた後、先月の五十鈴川帰省から帰ったら、一度会おうと話をしていたKさん(女性)に電話を入れたら、夕方なら大丈夫とのことでスムースに思わぬ約束が成立した。

午後3時過ぎ電車で岡山へ、弓の稽古、支局での写真取りを済ませ、午後6時過ぎに久しぶりにKさんと直接会った。

Kさんと初めて会ったのは、彼女がまだ岡山大学の学生だった頃である。おそらく面識を得てから、20数年の時が流れているはずである。

最初に私が彼女の存在を意識したのは、私が椎名誠さんの映画を野外で上映するイベントに彼女がほとんど足を運んできてくださったころからである。その後、シーナさんではない私の企画にも、都合のつく限りほとんど来てくださった方である。

今に至るも本当のシーナファンでとにかく一途な方であり、異性であるにもかかわらず世代もおそらく二回り以上は離れているにもかかわらず、私のやることに一貫して関心を持ち続けていていてくださる、ひっそりと闇に潜む、私にとっては得難き見者(賢者)なのである。

彼女の魅力、小さな自分の世界を一途に生きておられる(要するに自分の感覚に正直に自立して生きている)方と勝手に思っている私なのである。

とくに私がうれしいのは、企画の仕事から一転、シェイクスピア遊声塾を立ち上げ、その第一回から連続6回、昨年のリア王まで欠かさず来てくださっていることである。

このような奇特な方は、我妻以外にはいない。だから私にとっては、家族とも呼べるほどの大事な方なのである。なかなかに会えないのだが、直接会いたくなったのは、輪読会のチラシを送ったところ、興味があるとの思わぬお葉書をいただいたからである。

このお葉書をいただいた時に、輪読会をやろうと思った初老男の思いは、にわかに達成されたといっても過言ではない。(長い交流の方たちとの、思わぬシェイクスピアを通しての再会と、まったくの新しい出会い)

話は変わるが、これまでのわが人生を振り返ると、思いつくことができたからこその急展開、企画をするにも塾を立ち上げることも、弓を始めることも何もかもが、ある種の内なる情熱の 発露のゆえなのである。(その根拠はわたしにもわからない)

カッコつければ、私にとって情熱の発露があればこそ、生き延びることができたのだなあ、企画もなったのだと、今思うのである。

話を戻す。 久方ぶりに再会した私たちは、岡山駅の近くの路地の小さな老夫婦の中華の店で、ささやかにつましい(彼女がご馳走してくれた)食事をビールを飲みながら歓談した。

ほとんど私がしゃべり、彼女は相づちを打つのみ(ごめんなさい)。出会った時からそのままの印象、彼女は仕事でひと月とか、ふた月とか長期の海外滞在仕事(世界は本当に広い)が多い。

2015年夏Kさんから送られてきた、倉本聰さんの連載記事
中国はもとより、マレーシア、ロシアのモスクワから2時間くらい離れた、タタール人が多く住む町などにも。だからなのだろう、どこか日々の暮らしの中でも、冷静な生活ができ、曇らない目線で、日常を送ることができ、どこか遠くを見つめることができるのだろう(と、かってに思っている)。

私は、企画したイベントには必ずアンケートを取るが、きちんとした彼女の視点がとても参考になる。いわゆる彼女の 正直な反応が、的確にのべられていて、しかも暖かいのである。(文字も丹精である)

そのような彼女と、輪読会のおかげで、同じ土俵で声を出しあえることができるなんて、このような味な出来事、誰が20数年前に予測し得よう 。(だから人生は素晴らしい、と思える側に私は立つ、ヒトは夢を追う、生きる器である)

食事の後、場所を変え私はビールやハイボールを飲み、彼女はコーヒー、で9時半過ぎまで歓談、私にとってはこの上ない愉しいひと時を過ごし、10時の電車で帰ろうと思った矢先、また新たな出来事が。

リア王の打ち上げで大変お世話になったドクターがT氏が、勤務先の福山から新幹線の改札口からでてきて、ばったりと再会。T氏とは何故かこの数年偶然よく岡山駅で出会う。

kさんとお別れしたのち、私はこれも成り行き、ご縁神様のおぼしめしと、一本電車を伸ばし、わずかな時間T氏と飲むことにした。

この続きは次回の五十鈴川だよりで。


2019-03-07

職場で出会ったTさんとクローバーの根を採る、そして思う。

春のお天気は変わりやすい。起きたら雨が上がっていたので、フリーター仕事に出掛けたのだが、天候の急変であっさりと引き上げてきた。ちょっと時間ができたので五十鈴川だよりタイム。

この間のふるさと帰省から、何かが一気に私の中で変化し、余分な邪念や力が抜け、手の届く日常生活を(それで十分である)記すように、ほぼ毎日書いている自分がいる。

普段ほとんど忘れているか、意識していないが、毎日新しい日々を生きているわけなので(歴史的に)、可能なら無理をしないで、老いてゆく下り坂の日々を、昔のどなたかの小説の題名のように、されど老いゆく私の日々なるものを、つづりたく思うのである。

さて昨日、最近はまっているクローバーの雑草取りに集中していたら、機械のメンテナンスが主な仕事のTさんがやってきて、一緒にクローバーの根を採り始めた。

天気もよく、二人で雑談しながら気持ちよく手を動かし続け、やはり二人仕事、ずいぶんとはかどった。愉しく働くとはかどるのである。

T氏は70代半ばだが、気持ちが若くお元気で、何よりも仕事に誇りをもってあらゆることに今も挑戦し続けている、これまでの人生で私が出会ったことのないタイプである。

とにかく多種類の機械に関するメンテナンスを一手に引き受けていて、後期高齢者ゾーンに入っているとは思えない、私もかくありたいと、同性として一目置ける、ナイスガイである。

人間の存在感、魅力というものの奥深さを、老いつつますます知り、自分の狭い世界を思い知る私である。夢が原退職後 、まるで18歳に帰ったかのような、また再びの前期高齢者でのフリーター生活。
良い香りの我が家のくちなしの花

異なるのは、あれから半世紀が過ぎ、そして、あのころより 格段に愉しいフリーター生活が送れているという事実である。

物は考えよう、アクション行動を起こさない限り異分野の生きた魅力的な人間との新たな出会いというものは、この年齢になると難しい。

ある人のお誘いで始めたこの仕事だが、私より ずっといろんな経験をされた魅力的に老いておられる先輩Tさんとの、たまさかのコンビ仕事は、刺激を受け愉しい。

先日わがルーツ細宇納間でいきなり出会った日高正俊さんも、75歳でお元気でかくしゃくとしておられ、手に人生が感じられた。つまりカッコイイ後期高齢者とこのところ私は立て続けに出会っているのである。

私にとってカッコイイ人というのは、大地の上で身体をフルに使って物事を前向きに考えられる方である。世界の片隅にそっと存在するかっこいい同性から、ささやかに学びたい、春である。



2019-03-06

次女が夏の終わりに結婚式をあげることになり、そして想う。

次女が可愛がっていた猫の花が、最近私になついて、いま私の膝の上にのっかっている。その重さと暖かさを感じながら書いている。

さて、今年の夏の終わり次女が結婚することになった。交際3年近くで、このお正月相手の男性が我が家にやってこられ、その旨を告げられた。
朝は私のストーブのそばを離れない花

昨年晩秋上京した際、その男性と娘と3人で夕食を共にし(その方にお寿司をご馳走していただいた)その時の雰囲気がとてもよかったので、いずれはとは感じていたが、想っていたより急な展開で、私も妻も安堵した次第である。

その相手の男性とは、そんなに頻繁にお話したこともないのだが、初対面から私は好ましい印象を持っていた。自分のこともさることながら、娘をいたわってくれそうな感じが見受けられ、何よりも冷静沈着に物事を考えられる、私とは異なる理知的なタイプに思えたのである。

でも一番は娘の気持ちである。五年前長女が結婚、昨年望晃くん生誕、今年は次女の結婚と、我が家族も増えてゆく。縁によって新しく家族となる。不思議な、聖なる儀式が結婚式である。

長女の結婚式はドイツのドレスデンで行われた。(素敵な結婚式だった)次女たちは北海道でするとのこと。わずか5年前まで、わが家族は5人だったのに 8人になる。

老いてゆく中での感慨の一つ、知らぬ間に娘たちは成長し、それぞれの伴侶を自分で見つけて、新たな家族を紡いでゆく。

ともあれ、我が家にとっては今年もまたちょっとおめでたいことが続くことを有難く思う。




2019-03-05

望晃くんが間もなく1歳になる、朝に想う。

これまで何度となく書き、これからも五十鈴川だよりを書ける間は、きっと繰り返し書くことになるだろうが、夜明け前の、起きてさほど時間のたっていない胡乱な状態が、私はことのほか好きである。

傍には、いっぱいのコーヒー、静寂そのもの、これが唯我独尊的にたまらない。静かにパソコンのキィをたたいていると、なにがしかの一文がつづりたくなってくるのは、つまりは生きているからである。

話を変える。もうあと一週間もすれば、初孫の望晃くんが1歳になる。私と望晃くんの年齢さが縮まることはない。昨年生まれて間もない3月下旬、東京は稲城に住む娘たちのところで、しばしの滞在をした。

早朝、毎日のように咲き始めた稲城の見事な桜並木の下を、リア王の本を片手に歩いた日々を思い出す。望晃くんが生まれてから、自分の中での何かが必然的に変容した一年間であった。
デュランれい子さんの御本初めて読んでいる・面白い

というのは、どこかにこれからはずっとおじじとして(の役割をどこかに持って)生きてゆくのだという意識が芽生えたからだろう。

5年もたつと、私は古希を超え、10年経つと77歳、15年後は83歳である。父が亡くなった年齢を超えることになる。

だから、五十鈴川だよりを書くのである(という気がする)、見えない何かに向かって。漸く年相応に私も落ち着き、時代の動きやはやり、ほかのことに 左右されず迎合せず、肝心なことにのみ、焦点を絞って生きてゆこうと決めたのである。

望晃くんや、家族ほかの大切な人たちの未来を見据え、長いスパンで、物事を地面の近くから 、おじじとしてのこれからを考え巡らしながら、生きてゆきたいと殊勝に思うのである。

娘たちが、私を親にしたように、望晃くんが私をおじじ意識に変えたのである。私のささやかな当面の夢は、望晃くんがもうちょっと大ききなったら、故郷の五十鈴川で遊ぶことである。

そのためには、おじじは何としても健康であらねばならない。そのために、これまでの自分の生活をよりシンプルにし、よりいい意味でストイックに生きねばならない。

若いころのようには動けない身体を、ゆっくりと動かしながら、静かに天の下地面の上での時間を大切にしたいと、想う。

2019-03-04

部屋の一角に巻き藁を据え付けました。

節句も過ぎ早4日、雨音を聞きつついつもよりゆっくりとおきた。土曜日曜は基本的に妻との時間を優先するように心かけている私であるが、我妻は家の中でのあれやこれや時間が好きで、あまり出掛けたがらない。(犬の散歩と買い物はかならず行く)

だからかなりの時間を二人して家の中で過ごす時間が多い。したがってそれぞれの部屋で過ごすことになり、私は個人的にやりたいことがかなりできる。

大事なことは、そばにいて声を掛け合える距離での時間を共に過ごすことが肝要なのである。娘たちに八朔を送るために、一文を記した手紙を共に書き、一緒に郵便局まで出しにゆくとか、朝昼夜共にご飯を食べ(昼食は母も)ること、極めて当たり前のことが、大事なのだと知る、小生である。だから、土日は努めて家にいることにした。(例外はあるが)


岡山市内にある弓の道場まで往復運転して、それなりに集中しての自主稽古をしようと思うと、それなりの時間がいる。そこで、平日週に一回か、可能なら2回道場時間を見つけようと考えている。

的前に立つことは道場に行かないと無理だが、基本動作の素引きや巻き藁の稽古は 2回の自分の部屋(娘たちが使っていた広い部屋が今役に立っている)でできるので、身体に無理のない可能な範囲でやることにし、昨日午後部屋にいい感じで巻き藁を据え付けることができた。

息子のレイさんにもらった巻き藁
何事も、余裕をもって取り組まないと、あれもこれもは私の場合絶対無理である。シェイクスピアの言葉を 声に出して読むことは、今しばらく何としても続けたい。(いまやシェイクスピアの声出しと弓の稽古は、私にとっての大事である)

今日は、妻が仕事に出かけた後一人なので、まったくの自由時間を、雨の中の声出し散歩、家の中での体動かし、素引きや読書、家事雑事をして過ごそう。




2019-03-03

副島隆彦氏と佐藤優氏の対談本を読みそしておもう。

バカの壁ではないが、人間の脳は偏った見方や、好きなもののみに偏向しがちなものであることを思い知らされた、というのは一昨日から時間を見つけて、副島隆彦氏と佐藤優氏の、対談本【暴走する国家・恐慌化する世界】という本を読み終えたからである。

以前私は、このような本や、ある種の偏見が私の中に在って、副島隆彦氏の本などはあまり進んで読もうとはしていなかった。手にしたのは、対談相手が佐藤優氏であったからである。(佐藤優氏には、右とか左とかの偏屈な思考のかたより、色分けがない、ニュートラルである)

佐藤優氏の 書かれた本の前書きを読んで、読む気になったのである。私の読書は偏っていて、苦手の分野、特に経済や政治、理系に関する読書は50歳になるころまでほとんどしたことがなかった。

9年前に出版された本だが知らないことが詰まっている
がしかし、佐藤優氏の(信頼できる)御本を手にするようになってから、(10数年前から)ゆるやかにわずかではあるが これまであまり手にすることのなかった本を読み始めたいきさつがある。

佐藤優氏の真の意味での知識人としての、その膨大な身を賭して得た体験に裏打ちされた、見識と発言、そのあまりに該博な知識に、これまた裏打ちされた、論理的な見立てに、いつも感服してきたからである。

このような思考を持つ、いわゆる異能の 真の意味での誠実な知識人が我が国に存在することに驚き、どこかこのような方が現代日本に存在することに、ほっとしてしまうのである。

今から9年前に発行された本なのであるが、対談の内容が赤裸々に書かれている、(ときに恐ろしいほどに)古くなっている個所もあるが、いま読んでも、世界の民族、宗教、歴史、地政学的な視野のあまりの広さには驚愕させられるほどの内容が、この対談には詰まっている。教えられる。

それにしても、お二人の世界情勢の情報分析、丁々発止の本音のやり取りに引き込まれ、全5章まで一気に読み終えたが、特に中東情勢の核の問題はじめ、世界情勢の目まぐるしい推移(覇権争い)は不気味さが増しているのがよくわかる本である。

五十鈴川だよりでは、深い内容は記せないが関心を持たれた方は、読むことをお勧めする。金正恩との対談を終えたばかりのトランプ大統領は、宇宙軍を設立すると発言しているが、今の国際情勢を真摯に分析し、庶民に知らせようとし、このような本が出版されて、手にできるというのは、平和な国である今のところの証左である。

2019-03-02

絶対矛盾を往復する初老の私

あっという間に土曜日の朝がきて、昨日夕方五十鈴川だよりを書いたばかりだというのに、一晩寝たら新鮮にパソコンに向かう自分がいる。

オーバーだが書くことで、なにがしかの心身の調節を図りながら、一日一日を過ごしてゆきたいという、ささやかな初老男の揺らぎの顕れと、いうしかない。

一日に一回自転する惑星に生きられる、ありがたき感覚を、朝の時間帯は体が特に持っているような気がするから、私はほとんどの五十鈴川だよりを午前中書いているのだと思う。

ところで、家から歩いて約15分くらいのところに、図書館と運動公園があり週に2,3回運動公園に愛犬メルを連れて、それ以外にも本を片手に散歩に出かけるのだが、五十鈴川だよりを書いたら出かけようと思っている。

その公園に鉄棒があり、ゆけば必ずぶら下がるのだが、還暦を超えてから、ぶら下がってからの私の一番苦手な懸垂というものをやっていなかったのだが、弓のために、筋力の持続のために、この2年近く毎日ではないが続けている。

回数は5,6回にとどめ、無理せず持続することを心がけている。ほかにもおまじない、ささやかな儀式的なトレーニングを自分に課している。持続するコツは無理をしないということである。
妻が誕生日にプレゼントしてくれたペンケースと愛用の万年筆

以前も書いた、村上春樹さんにとって走ることは悪魔祓いだと書いておられたが、比するもおこがましいが、何事かに向かう時のささやかなおまじない的、所作である。

人間は(特に私は)怠惰な (年相応どこかにそれを肯定する自分もいる)惰眠をむさぼりがちな(眠ることが好きであり)生き物であるが、シェイクスピアの言葉を声に出すには、どうしても体力がいる。でないと気力も生まれえない。

だから、絶対矛盾を抱えながら深呼吸しながら鉄棒にぶら下がり、公園を歩きながらぶつぶつ声を出し続けるのである。

集中して30分も声を出し続けると、何やら体のどこかが覚醒して、身体が生き生きしてくるのがわかる。だからこの感覚がある間は声が出せるのではないかとの淡い願望がある。

日々細胞更新的に流れる、五十鈴川だよりでありたいし、どのような時代も、故郷の地を絶えず静かに流れる五十鈴川に、今日もあやかる私である。

2019-03-01

大人(たいじん)の趣のある方とたまたま路上で再再会、縁とは不思議である。

今日から3月、実は今日はフルタイムで肉体労働の後、家に戻って気分転換のささやかな儀式をして、五十鈴川だよりタイム。

どういうわけであろうか、今年になってずいぶんと、五十鈴川だよりに以前にもまして勤しみたい自分がいるが、流れるように流れる五十鈴川である。

細宇納間のあの集落のたたずまい、わけても日高ご夫妻が暮らしていらっしゃる、あの私にとってのご先祖の 何かが、私に老いらくの元気をもたらしているのは、どこか目には見えない何かが後押ししているとしか思えない。

さていつものように、忽然と話は変わる。昨日午後雨上がりの夕方、遊読輪読会のPRのため、チラシを配布に岡山市内のギャラリーやチラシを置いてくださるようなカフェなどに、飛び込みで動いたのだがおおよそ一時間で、150枚ほどのチラシがはけた。

チラシを自ら配布するなんてことは6年ぶりくらいなのだが、かって何十年もやった経験を、やはり体が覚えていて、ありがたいことにこれはと思うお店すべてが、好意的にいいですよ、と置いてくださった。

で帰ろうと、車を置いたパーキングに向かって歩いていると、向こうから自転車に乗った見覚えのある顔が。向こうも気づいて、やあと相成ったのだが、この方のことはいつの日にか時間をとってゆっくり書きたいのだが、今日は簡潔に。

この方は、昨年私のことが掲載されたA新聞を勤め上げ、その傍ら英語を大学で非常勤講師をなさったりしていた博識な方で、シェイクスピアを原文で読み、もちろんシェイクスピアが大好きな、お年は私より一回り以上上の方。(おそらく80の坂を超えていらっしゃる)

ともかく私の記事を読み突然電話を下さり、 お近くに住んでおられたこともあって、自転車で天神山に、私のレッスンを見学に来られた方だったのである。(私は誰が来ようとなりふり構わずレッスンはする)
突然いただいたローレンスオリビエのヘンリー5世のDVD・素晴らしい

あれ以来、この方のことが気にはなっていて、なかなか再会がかなわなかったのだが先日ようやく、短い時間ではあったのだが(それでも一時間以上)再会を果たし話が盛り上がり、ちか直またゆっくりと語り合いましょうと、別れて間もない路上再再会となったのである。

この方は、私のやっている翻訳シェイクスピアの塾のことを過分に評価してくださり、恐縮至極の体ではあるのだが、人間(特に私は)やはり褒められるとうれしいもの、そういったことも影響しているのだろう、塾と並行して遊読輪読会なんてことを始めるのも 。

ともあれ、近直一献とお約束してお別れしたのだが、シェイクスピアの塾などに、情熱を傾けている、初老の私の生活のことなどまで心配してくださり、大陸引揚者(私の父が引揚者なので、私は引揚者の方に強いシンパシーを持つ)でもある苦労人大先輩は、夕飯時間、奥様が待っているからと、夕闇の迫る雑踏の中悠然と自転車で去っていったのである。

人との出会いとは 奇妙奇天烈というほかはない。何せ話し方に人生が詰まっている、味がある。この方との縁を大切にしたい。