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2019-11-27

今後は、ますます死者との対話で今を生きる情熱を持続したい。

昨日から午前中のアルバイトがないので、あれやこれやゆっくりと、身辺の生きていればいやでもたまってゆく、衣類ほかの整理を午前中意を決して処分した。とくに衣類、この5年以上袖を通していないものなどもかなり思い切って。

私は性格上、思い出に耽る情緒性が 強いので、なかなか捨てられないのだが、もうそろそろいいだろうというという年齢になってきたのである。執着心が薄まってきたともいえる。この数十年体形がほとんど変わっていないので、ジーパンなどは十年以上はいているものが何本もあるし、基本的に物のない幼少期を過ごしているのでなかなかに捨てられないのである。(いつ何時どんなことが起こるのかわからないのが人生である)

でも、人間関係もそうだが、移り変わってゆく中で、おのずと 古い自分とおさらばして、いつまでも同じ関係性に固執せず、新しい関係性へと移行してゆくのが、私の場合は当たり前自然だという気がしている。変わってゆく自分に素直でありたいのである。それとやはり孫に恵まれたことで、いやでも自分自身を見つめなおさざるを得ないほどに、いい意味での一人の時間を過ごせるようになってきたのも、最近の微妙な変化である。

本当に必要な厭きないほどほどのものに、つつまれて過ごすために身軽になりたい、そして老いてもやれる、やりたいことにこれからの大切な時間を使いたいのである。もう余分なものはいらない。そういう意味では、もう私の意識は相当に死者の側に行っているような感覚が芽生えている。

このようなことを書くと、あらぬ誤解を招きそうだから補足するが、残り火の情念のようにシェイクスピア 作品を音読したり、書をしたためたり(新たな情熱が湧いてきている)弓の巻き藁をする時間が、以前にもまして楽しくなってきているのだ。読書も。
きちんと生きた人の言葉は限りなく説得力がある


話は変わる。私の好きな女優、市原悦子さんが亡くなったのは今年の一月である。樹木希林さん、八千草薫さんと、次々と黄泉の国に旅立たれる。お会いしたことがなくても、何か一方的ではあるが、近しく感じられる方の死は、私にとって肉親とはまた違って大きいのである。

以前も書いたが、今後はあの世に召された方々の好きな御本や、今までに撃たれた映像作品、などとの対話的なひとり時間を持ちたいと想う、そのことはきっと私のこれからの人生時間を豊かにしてくれるという確信のようなものがある。

今後の、予断を許さない人生行路を導いてくれそうな気がするのである。私の両親も見えない世界に行ってしまってはいるが、あの世の両親とは私が歳を重ねるにつけ対話的な感覚は深まっている。

老いるにつけ、足が故郷に向かうのは、きっと両親が眠っている土地に立つことで、全身が理屈なく安心し、無言の対話ができエネルギーがいただけるからである。だから年内最後、明日から日曜日まで帰省する。



2019-11-26

先週末、束の間孫のノア君と、愉しい時間を過ごすことができました。

ほぼ10日ぶりの五十鈴川だよりである。このような頻度でつづれば、やがては月に数回程度の五十鈴川だよりになってゆくのだとの、老いの自覚がある。(それで足りてきた)

老い老いと書くと、老いが無残なまでにと思えるほどに、置き去りにされてゆくかのような時代の趨勢、そしていつまでもの若さを求め、あられもなくありがたがるかのような浮世の流れ(にくみしない私)である。

だが思うのだ、老いなかったら、川が逆行するようなもの、老いない人なんかいない。テレビやほかのメディアが高齢でお元気なお年寄りをやたら取り上げ、もてはやすのも困りものである。ヒトの生きようは千差万別である。私などは数字などには惑わされない。要はいかに生きて、生をまっとうするかである。
ふるさとの海を眺める私、急に週末帰ることにしました

万別の持ち時間で生を終え息を引き取った時が、きっとその人の寿命なのである。それはどんなに長生きの方にだってやがては訪れる。来年私は68歳を迎えるが、とくに孫に恵まれてから、愛と死ではなく、老いと死を(本質的には同じ)以前にもまして、頭ではなく体全部で考えるようになってきつつある。

いわば、そのための覚悟の準備時間にいよいよ入ってきたのだという自覚がこのところの私に芽生えている。だからといってことさらに何か日々の暮らしが、変わるはずのものでもない。ただ淡々と今日の命の日々をささやかに感謝して生きていくくらいの当たり前さである。
この方についての御本、この方の本をきちんと読みたい

ただいえるのは、時間の過ごし方が以前にもまして、生活がシンプルになり限りなく時間を大切に 過ごすようになってきた。以前のようには俊敏に体が動かなくなってきたので、あらゆることをゆっくりにしかできないし、そのゆっくり感を楽しむように過ごす、つまりは丁寧に過ごすようになってきたのである。

そのことが一番大事だという当たり前さのありがたき気づきの重さは 、秋の夕暮れの中ぽつねんと深まるのである。

話は変わる。週末長女の家族全員、つまり孫の望晃(ノア)くん、レイさんが帰ってきて、3日間ノア君中心の時間をおばあちゃん含めての楽しい時間を持てた。ノア君にはひと月前に会ったばかりなのであるが、このひと月間に驚くほどに言葉を発するようになっていて、私を驚かし続けた。

これ以上綴るのは爺バカのそしり、控える。早い話誤解を恐れずに言えば、こういう有難き感情は老いて孫に恵まれたからこそ味わえた感覚、我が身に起きた 現実に、私は素直に天に感謝した、
そして想ったのである。安心して老いてゆきつつ孫の成長を静かに見守る、見守れるおじじになりたいと。

日曜日午後岡山駅の近くで、1歳8か月のノア君とお別れしたのだが、涙をためて見送ってくれたその姿は、おじじの胸を撃った。ノア君と長女家族年末ドレスデンで過ごすために日本にはいないので、ノア君にはしばしの間会えないのが残念であるが、岡山で束の間愉しい時間が過ごせたこと、家族全員で帰ってきてくれたことががうれしかった。

2019-11-17

3度目、昨日アーサー・ビナードさんのお話を聴きました、そして想う。

昨日午後、被爆2世・3世交流と連帯のつどい実行委員会が主催する【この世はぜ~んぶ紙芝居】というタイトルの詩人アーサー・ビナードさんのお話を、岡山県立図書館内のホールで聴いた。

アーサー・ビナードさんのお話を聴くのは3回目である。最初は2年前福山で、2回目は昨年天神山で、そして今年と。この回岡山の知人が郵送のチラシで知らせてくださった。(この場を借りて感謝)もし知らせてくださらなかったら、きっと聞くチャンスを逃していたかもしれない。縁がある。

本当に最近の私は情報音痴だし、不必要な情報は可能な限り取り込まないようにしているし、(もう十分に情報は入っている)、これまでの人生で得た貴重な御本ほかを、これからの時間で繰り返し反復するだけで(味読する)足りている今なのである。この間も書いたが、ルーティン、紋切型ライフ、まるで引きこもりのような最近の 生活なのである。

(これはゆかねばと思えるお知らせほかは、数少ない友人知人が知らせてくれるし、自分なりに探してもいる)

だが、じっとはしているものの、頭の中は絶えず回転しているという自覚がある。そのような暮らしの中に飛び込んできたアーサー・ビナードさんのお話会のお知らせ。いざという時には、さっと動く。

2年前アーサーさんのお話を福山で聴いた時の衝撃は、探せばきちんと五十鈴川だよりに書いているはずである。だから重複は避けるが、私が生まれて初めて詩人の生のライブ話を聴いたのがアーサー・ビナードさんなのである。

アーサー・ビナードという名の詩人が強く私の脳裡に刻まれたのは東京の第五福竜丸の展示場で求めた一冊の絵本、ベン・シャーんの第五福竜丸という絵本である。(絵がベン・シャーン、構成と文章がアーサー・ビナード)

長くなるので簡略に記すが、このようないまだアメリカ国籍(であるとおっしゃっていた)の方が、立派な日本語で詩やエッセイを書かれている事実にまず驚嘆したのが、アーサービナードという存在を認識した最初。日本人以上に日本語が堪能であり、トランスナショナルな方(存在)である。

だから2年前福山で講演会があると知った時に、すぐ行くことにした。お話が始まり、あまりの速射砲のように繰り出される驚愕の真実に、私は驚き打たれたのである。そして自分の無知を思い知らされたのである。

わけても驚いたのは、広島、長崎に落とされた核爆弾のウランとプルトニウムの種類の違いから、虎視眈々と秘密裏に続けられてきた広島への各爆弾投下のアメリカのマンハッタン戦争軍需産業戦略、そして広島に落とされた核爆弾が人類初ではなく2番目であったという事実など、コトバに敏感な詩人は、世界を動かす偽の言葉の言説を、空恐ろしいほどの言語嗅覚をもって真実をあぶりだしてゆくのを語ったのである。

そして昨日の講演会で私が感じたこと、人間を操るのは為政者の(その手先は電通?博報堂?)言葉であり、またその操る言葉の欺瞞を見破るのも、(は)詩人の嗅覚を持った一人の人間であるということである。まずお話の最初、日本人は線引きが大好きな民族であるという鋭い指摘から入り、コトバの不思議な恐ろしさ、古い漢字で廣島、今の漢字で広島、カタカナでヒロシマ、ひらがなでひろしま、このニュアンスの微妙な違いを詩人の言語感覚は見逃さない。(おぞけを振るうような惨劇が74年前、広島長崎東京他日本各地のいたるところで岡山でもあったのだ、その事実に目をそらしていると、忘れていると、またもや為政者の思うつぼなのである、だから真の言葉を見抜ける詩人の眼が必要不可欠なのである。でないと私のような輩はすぐ騙されるのである)

とにかく今回もとても私の五十鈴川だより程度の一文では、そのさわりくらいしか伝えられないが、チャンスを作ってぜひともアーサーさんのお話をできれば直接聴いてほしいし、動画他バーチャルででもなんでもいいからと、願わずにはいられない。

私などの常識的な普通の感覚では、一歩間違えば、福島の原発事故、チェルノブイリ原発事故(もう何度も現実に起こっているし汚染水は止まらない)これ以上はないと思えるほどの不条理で悲惨極まる出来事が起こりうる現代という底知れぬ不安を抱えた、グローバル現代社会の闇に向かって、アーサーさんは語りつづける。
ちっちゃいこえの紙芝居・私も購入しどこかで声に出したくおもう

聴いていると喉が傷まないかと思えるほどに、舌鋒鋭く詩人は鵺のような闇の正体をこれでもかと赤裸々に暴いてゆく。私は反省する、事実を知り見つめ考える勇気が必要である。長いものに巻かれろ、見て見ぬふり、我関せずではきっとやがて自分にも、ある日突然自分の大切な家族の上にも、降りかかってくるのである。放射能は匂いもしないし、見えもしない。

それにしても人間はなんてものを作って、それを広い意味での同胞人類の上に落として、正義面をしていられる神経、その感覚が不思議だし、汚染された食べ物はやがて巡り巡って自分の口にだって家族にだって入るのである。

アーサーさんは人類的な見地から絶望を辞めようと語りかける。ユーモアがあるから聴くことができるが、想像力のある人間には身の毛もよだつ在り様である。だがあくまで詩人の感性は冷静で柔らかい。だから初老の私にも人間としての言葉が届く。

大学生のころに、アーサーさんはエリザベス朝時代の文学を勉強しシェイクスピアも学んでいたそうである。私は日本語のシェイクスピアだが、何か接点があるような気がしてうれしかった。私は広島に住むアーサーさんを年内に訪ねてゆく約束をした。

最後に、今声出ししている夏の夜の夢の妖精パックの台詞【人間てなんてばかなんでしょう】とある。ハムレットの台詞で締め、核とおさらばするのかしないのか、人類はこの命題からは逃げられないと、私はアーサーさんのお話を聴いて想った。


2019-11-12

闇夜に浮かぶ月を眺めながら声を出す、そして想う。

昨日に続いてのいつにも増しての早起き、昨夜9時過ぎ床に就き、一度も目覚めず6時間熟睡したらすきっと目が覚めた。昨夜夕飯前の一時、暗い中声出し散歩に出かけた時、ほぼ満月の月が東の空に浮かんでいたのが、今は西の空に移動している。

月の後光にあやかるのが私は大好きである。いよいよこれからは、月を眺めに行く旅などもやがてはしたいと思う私である。肌寒いが着こめば気持ちの良い夜散歩が、月が出ていればする気になる。

来年の、夏の夜の夢の発表会で私が声を出す侯爵の台詞を、このところ諳んじる努力をしているのだが、月明かりの中でひとりぶつぶつと声を出しながらのお散歩は初老男を別世界へといざなう。

時に自分はいったい何をやっているのだろうと思わぬでもないが、いいのである。いろんなお散歩スタイルがあっていいのだ、と思う。話は変わるがこの年齢になると若いころと違って、当たり前だがセリフ覚えが悪くなっている。だが、2年前のリア王から意識的になるべく覚えようとしないで、自然に繰り返し声に出すことで記憶化されるように愉しく努力しているのである。
この御本にいきなり須賀敦子さんのことが書かれていた

声を出すことが、声が出せるという当たり前のことが、実はまったく当たり前ではない(歩けることも含め全く体は精妙にできているのである)のだという自覚が深まるにつけ、声を出し、いまだ台詞を記憶できる体がある今を生きられているという嬉しさが私を包む。

意味もなく、月に向かって感謝するのである。月とまるで対話でもしているかのように、月に向かってぶつぶつと反復稽古を繰り返す。言葉が詰まって出てこない時はあきらめる。家に戻って出てこなかった個所を確認する事の繰り返し。本に頼らない、身体に頼る。

喉頭がんになり声が出なくなってしまった音楽家の方々の無念は察するに余りある。もし自分がそうなったら、と想像する。だから、単に歩ける、動ける、働ける、声が出せる、弓が引ける、等々健康に今が生活できる、そしておなかがすいたら食物があり、家族がいて、とりあえず暖をとる着るものがあり、ゆっくりと休めるスペースがあれば、もうそれで十分なのである。

リア王の登場人物グロスターのセリフ、【目が見えた時はよくつまずいたものだ】いまだつまずき続けている私であるが、見えない世界、聞こえない世界の音に耳を澄ます、訓練をしないといけないと最近とみに感じ始めている。

表面には見えない、言葉の奥底の人間の感情の襞を探り当てるためには、反復集中稽古しか私には方法がない。闇夜に浮かび姿を変える月、姿を見せない時も目に見えずとも、絶えず月は光芒を放っている。


2019-11-11

静かに秋の夜長、灯火親しむ読書時間を過ごす、そして想う。

いつにもまして早く目覚めた、天気予報では雨マークなのであるが、外に出ても雨は落ちていないので、五十鈴川だよりを綴ることにした。

時は金なり、を自覚している私としては、何かせざるを得ないという貧乏性であるが、何度もいやというほど書いているように、いつ何時何が起こるかわからないので、書けるときに、書きたい気分の時に、一気にわが体から思い湧き出流ことを、書くのである。

男は格好をつける。たぶん私もそのような煩悩がいまだ抜け切れてはいないと思うが、でも十分にいい歳である。枯れてきて当然なのである。枯れ木も山の賑わいというが、まさに枯れてゆきつつある今を、初めて経験するいよいよこれからのゾーンをこそ、可能なら意識的につづりながら、老いのなんちゃら、格好をつけたいという自意識過剰を生きるのである。

話を変える。灯火親しむ秋というが、以前にもまして身の丈に合う読書が愉しい。どこにも出かけなくて足りているのは、本があるからである。弓の巻き藁も部屋でできるし、声出しは運動公園でできるし、本は部屋でも図書館でも読めるというわけで、結果遠出しない、引きこもりであるかのような初老時間を過ごすことになるのである。

さて、先日読んでいた【須賀敦子さんの御本・塩一トンの読書】を読み終えた。もう図書館に返したが、手元に置きたく入手するつもりである。読んでこの本は手元に置いておきたいと思えるような本に巡り合うために、いよいよこれから私はますます本を読む時間を大事にしたいと思っている。
妻の最愛の花、必ず五十鈴川だよりを書いているとやってくる

本格的に本を手にするようになったのは18歳から。世の中に出て演劇学校に入っていやというほど、満座の中で恥をかいてきたからである。あのいたたまれないような恥ずかしい、井の中の蛙的な感覚は、この歳になっても忘れられるものではない。

自意識過剰の少年は、この年齢になってもあの時のトラウマがいい意味で抜けきれていない、自覚がある。でも思う、あそこから真の意味で、自分は生きることに、よたよたしながら歩み始めたように、今は思える。

高校で演劇部に入って居場所を見つけ、上京後右往左往しながら20代かろうじて演劇を学び続け、その学び続けた経験が生きて、40歳で定職につくことができ、家族ができ、今こうして元気に生活できていることのすべては、本を手放すことなく演劇的な思考を持続してきたからではないかと想える。

本はせまい思考に陥りそうになる自分に新鮮な酸素を吹き込んで再生してくれる。ときに酸欠になりそうな体は、居ながらにして蘇る。(ようになる)不思議というほかはない、それはまだかろうじて想像力があり生きているからである。たぶん想像力がなかったら本は読めないのでは、と思う。実人生で会える人の数は限られているが、本は無限である。

先日も畏敬する知性的怪物お二人、佐藤優氏と松岡正剛氏の対談本を読んだのだが、一言まさに圧倒された。だが以前よりも動じなくなってきたのである。それはなぜなのかは今はまだよくはわからない。がしかしお二人をはじめとして、信頼するに足る現役の私にとっての、この人は信じられるというような、自分の無知を照らしてくれるような水先案内人的存在に出遭えたのは、本を読み続けてきたからである。

ささやかな独学、読書である。年上、年下に関係なく、本を読んでいると何と素晴らしい人がこの世にはいるのかと知らされる。須賀敦子先生もそのお一人となった。私にとって先生と呼べる方は知識人ばかりではない、多分野に存在する。素晴らしき本をほとんど読まないが私を魅了する労働者も存在する。私は静かに反省する。もっともっと静かに生活しながら、素晴らしきお仕事をなさっている、私の無知を照らす方々の御本を読みたい、耽耽溺したいと念う秋である







2019-11-10

ささやかにお芋を収穫し秋の実りを体感、そして想う。

いきなりだが、一昨日の金曜日午前中のアルバイトを終えたのち、そのバイト先の敷地内にある畳8畳くらいのスペースがあり、そこを好きに使っていいという許可をいただき、サツマイモを植えていたのだが、その収穫をした。

ほとんどほったらかしにしていたスペースを、一人でほッ繰り返しお芋を収穫したのだが、粒は小さいもののまあまあのお芋が収穫できた。

小さくても十分に食べられる、私としては植えっ放しでほとんど何もしていないにもかかわらず、形は不ぞろいではあるが十分に食べられるほどのサツマイモが、ひとりでに成っていることがうれしかった。

さらにれしかったのは、わずか2個ではあるが、思わぬ予期せぬ大きさの芋が土の中から出てきた時には、なんとも言えない収穫感が体を襲った。芋の蔓を鎌で切り集め、マルチをはがし、こんもりとした土の山をスコップや三本ぐわで芋が傷つかないように、注意深く掘り起し、約2時間近くかかったのだが、十分に収穫の喜びを味会うことができた。

光と土と水のおかげで作物は育つ、人間にできることは雑草をぬいたりのわずかな手間しかやっていないにもかかわらず、食べられるお芋が十分にできるということの恵み、実りの秋というが、超ささやかな秋の恵みのサツマイモは私を幸福感に導いた。

スーパーなどではほとんどお目にかからない、小粒なものがほとんどなのだが食べるのにはなんらししょうはない。今はまだ土と向かい合う時間がなかなか取れない私だが、いずれの行く末はささやかに土と向かい合いあいたいと思う。
根を張るお芋を食べ私も見えない世界に根を伸ばしたい

四季が移り変わり、多くの多様な自然の恵みを与えてくれるこのような日本という風土に生まれた我が身の幸福を、老いと共に実感する私である。

話は変わる、このところ急に秋らしくなり列島各地は冷え込み、各地で初冠雪のたよりも届くこの頃だが、私はまだこたつも出していないし、薪ストーブも焚いていない。そろそろとは考えているが、果たしていつになるか。

紅葉のたよりも北の方から、あるいは高地にある山々から届いている。どこにも出かけていない私だが、よくゆく運動公園のメープルリーフ、モミジ、桜、銀杏、プラタナス、ほかいろんな樹木が色づいてきた。身近な近所でも散歩がてら色づく燃える秋を感じることができる。

だが、一人山里を訪ね孤愁の秋の風情を堪能するのも一興ではないかとは考えている。孤独な秋もいいものである。先人たちは万人に等しく訪れる秋を、憂いをたたえながらも楽しんでいたのに違いない。凡夫の私でさえ風情あるこの日本列島の尽きぬ興趣には老いと共にますます、刻々と変容する色移りのあでやかさに感嘆してしまう。

これからしばしの間、葉が落ちるまで、木の葉に朝日が当たるいっときを愛でるひと時を、大事に味わいたいと思う。

2019-11-09

晩秋の日の出、日没、月の輝きの中でひとり想う。

夜明けとほぼ同時に家を出て、休日のほぼルーティン的日課である声出しを約一時間ほど済ませ、朝食を終えての五十鈴川だよりタイム、立冬を過ぎ穏やかな秋の陽ざしが二階のわが部屋に差し込んでいる。

さっと新聞に目を通したが、私のような凡庸な頭では、理解に程遠い紙面を埋める記事が、文字が、言葉が飛び込んでくるが、関心のない記事にはほとんど目がゆかないし、脳が閉じたままである。

それでも老いゆく今にまるであらがうかのように、目が留まる記事を探す自分がかろうじている。そして見つける。たとへば、昨日の紙面からでは、福岡工業大学研究チームが確認した、空気中にもマイクロプラスチック、の記事。
CW・ニコルさん尊敬している

また、発言の欄ではノンフィクションライターの岩本宣明氏の一文、日本から科学者が消える日などは、切り抜いてゆっくりと読む。定年退職してから一番うれしいのは、やはり時間的にゆっくりと物事に余裕をもって取り組めることである。

朝日を浴びながら、時間を気にせず新聞を読めたり本を読めたり、さわやかな秋の空に向かってなんの束縛もなく声を出せるいっときが、コトバにならない足りている今を実感、何もない我が身一つのシンプル健やかさを感じ感謝するのである。

もう十分に、あくせく否応の人生を送ってきた自分を顧み反省し、もうそういうこれまでの自分とは限りなくおさらばしたいという自分がいる。三つ子の魂はいまだ健在ではあるものの、なんだが本当に家から(近所から)出掛けなくなったし、わずかしかお酒も飲まなくなった。まるで引きこもり老人である。

それでも十分に満ち足りた日々を、ようやくにして送っている自覚がある。やりたいことの焦点を絞り、微妙にうすい薄い自分の殻をむき続けることを継続持続する喜びの時間をこそ、これからは大切にしたいのである。

弓の巻き藁の稽古も、時に指が痛く気分がふさぎこみがちに(人間ですから)なったりもするのだが、そういうときにもひいていると、ふさぎの殻が吹き飛ぶことをすでに身体が知っているのであえてやる、(いかに人間の心が体に左右されるのかがわかる)

気分がふさぐ記事があまりにも多い昨今だが惑わされない。そのような紙面の中に人間へのゆるぎない信頼と希望の記事を見つけながら、なにはともあれ自分が変化する可能性をささやかに掘り続けたいと、きれいな秋の月を眺めながら初老男は想うのである。

2019-11-05

秋の夕暮れ、つれづれなるままに。

秋の夕日、つるべ落としとは昔の人は実に表現に生活感があふれている。とはいってももうほとんどの若い世代はつるべなどといっても見たことも触ったこともないだろう。

小学生のころ電気でポンプアップするまで、我が家は井戸からつるべで水を汲んでいた。私もよく水くみをやらされたものである。だから今は亡き生家の、小学生のころの近所の風景は、いまだはっきりと記憶の底にある。

そのようなことを、浦島太郎のように、いまだ思い出せ、このように秋の夕暮れの一時につづれることが、ナルシスティックであろうが、初老男はうれしいのである。思い出に浸れる余裕時間があり、そのことが自分の中に明日の活力を生むのである。

窓からは見事な半月の月が見える。湯を浴びてさっぱり気分で、暑くもなく寒くもなく、夕飯前のまさにささやか至福の夕刻の一時である。(ビールを我慢して書いている)

【とりたてて・書くこともなし、秋の夕暮れ】といった体なのだが、書いていると体が勝手に一文を運んでくれるかのような気分に陥るのも、これまたナルシスティックなのである。(自分で自分を大事にしない人が私は苦手である)

このように、厚顔無恥に気ままに綴れることこそが、老い力なのかもしれないと、もういい方向にしか考えないのである。起きてから陽が沈むまで今日一日も何とはなしに無事に穏やかに、ささやかな充実感をもって過ごせたことに対する有難さが、能天気な戯れ文を書かせるのである。
いつかゆっくりと読みたいと思っていた方の御本

今年も残すところあと2カ月だが、無事是名馬というではないか、体調がすぐれなかったら、旅もできないし、つまりはあらゆることに支障がきたすわけであるから、老いてきてますます今日一日元気に過ごせたことの感謝の念が深くなってきた私である。

きっとこの感覚は、歳を重ねるにつけ深まり続けるだろう。先日上京した際、わずかな時間ではあったが孫の望晃(ノア)くんと遊んだ時に見た笑顔と声としぐさに、コトバにならない名状しがたい感情、幸福感につつまれたのである。

このようなことを書き綴ると、あきらかに爺バカのそしりを免れないのでもうよすが、孫は刻一刻と精妙に変化しつつ成長する。果たして私は思うのである。孫にとって面白いおじじになろうというくらいにしか、今は言葉にできないが、面白いおじじになるにはどうしたらいいのか、考えるのである。

早い話、孫のおかげでうかうかできないテーマが、にわかに湧いてきているのである。孫の存在は行く末の老い先を照らしてくれそうなのである。

有名な俳句に習っていえば、【見渡せば・老い先照らす・孫光】お粗末。

2019-11-03

2泊3日上京旅・その2。

昨日の続きを書いておかねばと思う文化の日の朝である。約一時間夜明けの公園で声出し(夏の夜の夢のいろんな登場人物の長いセリフの)を終えて帰ってきたばかり、この一文を書いている2階の窓にまばゆいばかりの朝陽が差し込んでいる。

さて、月曜日夕方の新幹線までの間どう過ごそうかと考えながらホテルを7時半過ぎにチェックアウト、月曜の朝なのでこの時間帯、地下鉄は出勤のサラリーマンで混んでいるし、しばし思案し思い切って有楽町まで歩くことにした。

思えば上京したてのころ、貧しく、そして少年期から青年期へと向かっていた私は、底知れぬこれからの未知の人生に対する不安を抱えながら、未知の東京のあちらこちらを、さ迷い歩いたものである。未来に対する不安と、矛盾する未来に対する得体のしれぬきたいと渇望。

あれから半世紀、老いつつあるわが体で、都心部をもう一度歩けるうちに歩いてみようとのおもいが忽然と湧いたのである。まず溜池まで出て、虎ノ門、新橋、霞が関から日比谷公園と抜け、皇居の見事な松を眺め9時過ぎに有楽町についた。背中に荷物を背負っていたのだが、お天気も良く散歩がてら気持ちよく歩くことができた。

思いのほか自転車や、歩いて諸官庁(このエリアは国の中枢の官庁がひしめいている)に吸い込まれてゆく人々を多く見かけた。私とは異次元の世界で生きている方々の生態を観察しながらの散歩は楽しかった。この朝のウォーキングは今後上京する際の楽しみの一つにしたいと思わせるほどの充実感が私の中に広がった。

世はまさに高齢化いかんにかかわらず、巡礼地をめぐったりと歩くことが大はやりだが、私の場合は、半世紀を起点にして第二のふるさとともいえる、メガテクノポリス東京を老いゆく身体で歩けるうちに歩いてみたいとの気持ちが湧いてきたのである。ふるさと五十鈴川を歩くのと、東京ウォークの両極を歩く、歩けるうちに。

話を変える。有楽町についた私は荷物をコインロッカーに入れ(すっかりデジタル化されているが慣れてきた)身軽になって銀座をぶらぶらする、このぶらぶら感がたまらなく自由でいいのである。


本は帰りの新幹線で読み終えた

足はよく通った界隈の映画館へ、驚いた。よく見た好きな映画館スバル座が閉館していたのである。ちょっぴりセンチになった。おなかがすいたので、スバル座のビルの地下にある昔風の喫茶店でかろうじてのモーニングタイム。今はすっかりカフェスタイルが多くなったが、まだかろうじて昭和の雰囲気を残しているお店があるのが東京の良さである。

中年の女性の方が一人で営んでおられた。そこそこの大都市の値段で全く驚かなかったが、とーストもコーヒーもおいしく、ミルクも生であった。店内には私の好きな落ち着いたジャズが流れていて数人しかお客がいなかったので、ゆっくりと時間を過ごさせてもらった。

午後、私の足はこれまた昔よく通った映画館シネスイッチ銀座で上映されているドキュメンタリー映画【樹木希林を生きる】を観に向かった。今回の旅の最後にこのドキュメンタリーフィルムを見ることができて本当に良かった。見終えて私は早めに東京駅に向かい遅い昼食を済ませ、新幹線に乗り岡山に帰った。実りの多い旅となった。

2019-11-02

先週の上京2泊3日の旅、その1。

一週間ぶりの五十鈴川だよりである。先週土曜日から二泊三日で上京してきたことを身体が新鮮なうちに書いておきたい。

スケッチ風に。まず土曜日は着いて赤坂のホテルに荷物を預け、18歳の時から半世紀にも及ぶ交友が続いている、最初に私が上京してすぐ入った演劇学校、貝谷芸術学院で知己を得た先輩、佐々木梅治氏の演劇人生50周年自主企画、井上ひさし作【父と暮せば】を午後3時から見る。

佐々木梅治氏の、企画・構成・演出・出演の芝居一人語りである。氏は2003年からこの芝居の一人語りに取り組み、上演回数200回の記念公演。場所は浅草の木馬亭。金曜日から火曜日までの毎日一回、公園は五日間行われ私は公演二日目の午後3時からの公演を見届けた。上演時間は一時間20分。

また、氏についてはゆっくりといずれ書くことがあると思うが、18歳からの3年間かなり密に公私ともに過ごした(1970年から72年)ので、その時代の空気感の中、多様な影響を受けた先輩の一人なのである。

一言半世紀というが、その時の演劇学校で知り合った仲間の一人はすでになくなっていたりもしているし、信念を貫き、現役で自主公演までやり続けながら、演劇人生を持続している先輩は氏一人になってしまった。めでたい私にとっての慶賀な出来事というほかない。

舞台を拝見しながら、様々な思いが去来したが、【父と暮せば】になぜかくも氏が情熱を傾注して持続公演を重ねているのかは謎だが、この芝居の何かが、氏の琴線をとらえて離さないのだろう。この一人語り、企画者時代岡山でも2度ほど私が自主企画でをやっている。(名作は古びない)

今回見るのは本当に久しぶりなのだが、以前見た時よりも深く心にしみた(泣けた)のは、私がおそらく老いつつ、娘二人を無事に育て嫁がせ、何とか父として多少の役割を何とか終えることができたことに由来している。(気がした)

ともあれ、出会いから間もなく50年、人生はまさに偶然なのか必然なのか不思議というほかはない。公演後奥様中心に近親者での当日打ち上げに飛び入り参加させていただき、一次会(佐々木氏は明日の公演があるので途中で退座)二次会まで浅草の夜をはじめてであった方々と楽しく過ごし、赤坂のホテルに。

翌日曜日朝早くホテルを出て、8時過ぎに稲城に住む長女のところに。孫の望晃(ノア)君は早起きすでに朝食を済ませていた。私が玄関でおいでというと、久しぶりなのに物おじしない、すぐ私の胸に飛び込んできた。これ以上綴ると爺バカになるので控えるが、言葉がないほどに可愛く、好奇心満々で日々成長している。一歳と間もなく8か月、言葉への理解力、反応が速い。

しばし遊んでいると、次女がやってきた。レイさんはその日友人たちが午後やってくるので、昼食の準備に取り組んでいたので、娘二人とノア君の4人で気持ちのいいお天気の中、近所に買い物がてらお散歩、途中に遊具があったのでノア君はしばし滑り台などの遊具に夢中、爺も少し持ち上げたりして手助けなどしながらともに遊ぶ。

ノア君はとにかく一時もじっとしていない、ホモルーデンスとは?走りたいのだろう、歩くというよりは、気持ち走っている感じで移動する。動ける自分が面白いのだろう、その姿がなんとも言えない。とある遮断された(新しく作る住宅地を整地しているパワーシャベルが置いて在っては入れない)金網のところで転び瞬間べそをかきそうになったが、立ち直りが早い。
天使を肩車、爺は身体を鍛えて遊ぶのだ

見たこともない虫と出会って、いきなり顔が引きつったりして泣き出す。うーむ、孫は日々新しく世界と向き合って森羅万象を体得している。これから会うたびに男同士いろんな体験をするのが楽しみである。孫のおかげで爺も何か新しい自分が生まれるかもしれない。

その日は、お昼前に次女と共に長女のところを辞し、夜次女夫婦と赤坂のホテルの近くで待ち合わせ夕食。(その間私は神田界隈でひとり時間を過ごし、早めにホテルに戻って待機していた)

待ち合わせたのは夕闇迫る5時20分。ホテルから歩いて15分くらいのところにある赤坂見附の近くの、とある関西風のおでんと和食のお店、次女が予約してくれていた。次女は2か月前結婚したばかりである。二人目の義理の息子がレイさんに続いてできた。名前は周平さん(書いてもいいよね)これも親ばかになるので控えるが、好青年である。

3人での穏やかで楽しい語らいの夕食が進み、私が周さんに頼んでいた、イラスト入りの素晴らしい名刺が出来上がっていて渡された。大満足の仕上がり、名刺を作る気になったのは、また別の時に書きたい。周さんという息子がレイさんに続いて、娘たちの結婚のおかげで、忽然と私にできた不思議感を何と言葉にできよう。

周さん、シェイクスピア遊声塾これでエンジンが入る、感謝。
これまた、偶然か必然化、人生はまさに予期せぬことの連続の連鎖の上に刻々と刻まれてゆくのである。名刺のお礼に私がご馳走しなければいけないのに何と周さんがご飯代まで支払ってくれていた。たいして飲んでもいないのにいい気持になり、初老男は幸福であった。

周さんはお酒をたしなまないので食事を終え、偶然見つけたアラビアコーヒーの一家言ある主が営んでいるこだわりの茶房でコーヒータイム。値段は秘す、野暮は苦手である。人生忘れられない思い出がいかほどできるか。良き記憶は財産である。(やがては忘れゆくも、だからこそ今を切なくも大切に生きるのである)

平坦な人生などあるはずもない、力を合わせ乗り切っていってほしい。二組の娘たち夫婦に対して不即不離の関係で、おじじとして迷惑をなるべくかけないように見守ってゆくべく、私もいよいよこれからが、正念場である。(続きは明日書きます)