ページ

2014-07-28

真夏の真夜中、ささやかに五十鈴川だよりは思案します。

もうすぐ日付が変わりそうな真夜中の時間帯、この数日では最も涼しい夜です。だからなのでしょう目が覚めて気分がいいので、なにやら綴りたくなりました。

もう間もなく、ブログを書き始めてから、5年近くなるのですが、この間に書いたつたなき我がブログには、ほんのかすかにではあれ、時代の空気感のようなものが、映っているかもしれない、なんてことを、思います。

国内外、この5年間で起こったこと、そして今も日々起こるあらゆる、事故事件、天変地異。自然災害は置くとして、もはや言葉なき感や、ある種のやるせなき無力感に襲われることの、なんとまあ、多き時代を生きていることかと、暗澹とします。

いちいちのことに関しては、私自身もうかなり鈍感になってきていて、小市民的な自己保身的な生き方を、否応なく生きているのではないかという感、無きにしも非ずです。なにしろ、こうもあらゆる情報が錯綜すると、真実は藪の中、大多数の私をはじめとする庶民は、途方に暮れてしまいます。

しかし、あらゆる絶対矛盾を抱え込みながら、出来ることなら時代の行く末を、可能な限り自分の眼で見届ける、気力のようなものは見失いたくはないと、おもう私です。

そのためには、日々をどのように生きればいいのか、五十鈴川だよりは思案するのです。もちろん私ごときの頭では、いかんともしがたいことは重々承知しながらも、知らないでは済まされない世界の真実を知る努力は、蟻の歩みのように継続しないことには、思考は停止してしまいます。

娘が秋には結婚します。孫が生まれたら、私はお爺さんになります。ピンとは来ないのですが、そうなります。シリアでも、ガザでも、眼をそむけたくなるような、子供たちの映像や、写真、文章が、私の眼に飛び込んできます。

もしこれが、私の孫であったらと想像すると、阿鼻叫喚、気も狂わんばかりの感情におちいるでしょう。自分とは関係ない、という一言では済まされないと、私は思います。無関心ということが、一番いけないことではないかと、思います。

おぞましき出来事に、無関心でいると、それはやがて、巡り巡って、やがては自分たちの世界ににも、対岸の火事ではなくなってくる、というのが、このグローバル時代の末恐ろしさではないかという気が私個人はしてしまいます。

弱者が、弱者を陥れ、強者がのうのうと生き延びる、このような構造の真実がどうもあまねく世界を覆いつつあるよな時代の匂いを感じます。

ガザやシリアで使われる、武器弾薬は、いったい誰が作ってどこのだれが提供しているのでしょうか、そのようなニュ―スには、お目にかかった記憶がありません。

第一次大戦から100年、先の大戦の敗戦から来年で70年、強者は生き延び、弱者は絶えず世界でなくなる。この構造は、どこのだれが仕組んでいるのでしょうか。もし神様がいらっしゃるのなら、伺いたいものです。

2014-07-27

熱中症対策は、何かに熱中することで乗り切る。

猛暑が続いていますね。私の場合とにかく朝早く起きて涼しいうちにやれるだけのことをやり、午後から夜にかけては、つとめてなにもせず、怠け者のようにすごしながら、体調を管理しなんとかこの暑さを乗り切りたく、休日の今朝も午前3時半から、あれやこれやを済ませてから、おもむろにブログを書いています。

一階の和室を主に私は使っているのですが、妻が日よけに朝がおを育ててくれていまして、気分が実に涼やかになります。蝉もようやくガンガンと鳴き出し、ようやく夏らしくなってきました。

暑さはこの歳になるとたしかにこたえますが、これも自然の摂理、なんとか知恵を絞って乗り切りたいと、あれやこれやと考えるのが、頭にはいいのではないかと思う私です。

私の夏の乗り切り方を少し書いてみましょうか。

仕事は別にして、日中はなるべく外に出ない。夏野菜を十分にとり、とにかく睡眠を良くとる。朝、昼夜を問わず、気持ち悪い汗をかいたら、すぐ水を浴びる。

暑さをしばし忘れるくらい、熱中して過ごし、好きなことに没我する。本を読んだり、声を出したり、日没後裸足で、グラウンドを散歩したり、新聞を切り抜いたり、などなど。

仕事から帰った後、午後一番風が流れる部屋で昼寝をする。その前に時折、家で採れた夏野菜、トマト、ナス、おくら、ゴーや、ししとう、ピーマン、キューリ、などをふんだんに使って、スパゲッティや、炒め物や、スープを作ったりの料理をたまにする。

なあんてことくらいでしょうか、私はクーラーの冷気は、あまり気持ちよくないので、可能な限り家族と過ごすとき以外は、使わないようにしています。吹き出てくる汗と上手に付き合うように、心懸けています。

話は忽然と変わりますが、仕事の日は午後一時まで畑で過ごすことが多いのですが、申すまでもなく連日の暑さは、我が年齢の肉体に容赦なく迫り、この数年来、熱中症という言葉を耳にしない日はないという感じです。

昨日も、畑でネギを植えたり、植えたネギを補植したり、草を刈ったり、トラクターに乗ったりしたのですが、仕事中の暑さ対策は、水分をまめにとることと、休憩の度にトマトをたべたり、糖分を少し食べたりするくらいです。

それから、私の場合ですが、何よりも楽しく熱中して眼の前の仕事に集中する。それが一番の暑さ対策になっているように思えます。

要は、なるべく自然に逆らわず、上手に付き合う方法を各人が知恵を絞って、お金を使わず先人たちの、過ぎし来し方に学ぶのが一番です。

生きているからこそ、感じる夏を過ごせるわけで、62歳の夏を楽しまない手はありません。動かず騒がずじっと夏を楽しむくらいの余裕を持ちたいものです。

アサガオに・心涼やか・今朝の夏。

2014-07-25

クレイジーケンバンドの・スパークだ・という歌が気に入りました。

少し時間があるので、畑に向かう前になにかさあ綴ろう、なんて気もちになったので、妻の作り置きの温かいお味噌汁を(これが夏バテを防ぐ)をのみながら、パソコンを開きました。

ところで、パソコンの調子が時折悪いなか、なんとかブログを書いているのですが、近いうちに新しいのに買い替えるつもりです。その間はブログがしばし中断しますが、ご容赦ください。

さて、いきなりですが、NHKのみんなの歌で流れている、クレイジーケンバンドの【スパークだ】という歌をご存じでしょうか。まだ2回ほどしか聴いたことがないのですが、最近この歌にはまっています。

こんなことは、数十年間なかったことなので、自分でもちょっと驚いているのですが、歌詞の内容と、メロディが今の自分の心境にぴったりとくるのです。何とはなしに口ずさみたくなってくるのです。

声を出すということにはかなり熱心なわたしですが、歌を歌うということには、どこかしらひいてしまうところがあるのですが、自分でもよくは分からないのですが、この歌は歌いたい、といまかなり本気で思っています。

還暦を過ぎた今、何でもリセットという心境が、一段と加速しているのかもしれません。スパークだ、は昭和の少年期を過ごした自分には、限りなくジャストフィット、だがただ、なつかしんでいるのではなく、今を歌っているところが、素晴らしいのです。

ともあれ、クレイジーケンバンド、初めてその名前を知りましたが、クレイジーというのが、いいですね。今の時代は、ある面クレイジーでないと、正気を保てないという、逆説的な時代だという認識が私にはとてもします。

言葉遊びではなく、クレイジーに正気な農業をやらないと、農薬漬けの見かけだけいい野菜なんかとても売れるものではありません。知らぬが仏で、マクドナルドのナゲットなどをほうばっている方々に、なんとか安全な食物を見分ける眼力を身につけて、ほしいものだと、仏にも祈りたい私です。

だます方が悪い、だまされる方が悪い、というへんてこりんな議論がありますが、悪の論理に騙される暇はありません。かけがえのない自分の身体は、哀しいのですが、自分で守るしかありません。

食べ物だけではなく、あらゆる精神に害を及ぼすような、製品や情報が、日々満載の垂れ流し時代です。ここはひとつ、地に足をつけて、自分の眼力を地道に養うしかありません。幸い若い世代に、賢くタフで、まともな人たちが現れているのが救いです。

なにやら、みんなの歌から、話があらぬ方向に飛んでしまいましたが、畑にゆかなければないませんので、今朝はこれくらいで。クレイジーに夏を乗り切りましょう。

2014-07-24

A専務の金属溶接姿に、男心を感じました。

本格的な夏の到来です。今まだ午前6時前ですが、すでに蝉の声が我が家の近所では鳴り響いています。

暑さには、いよいよもってこたえる年齢の渦中を生きているのですが、夏はせわしなく蝉の声が響かないと、私の場合日本の夏という気がしないのです。

ところで今日は、仕事に出かける時間が遅くなり急にブログを書く余裕ができたので書いてます。こうも暑いと、とてもではないのですが、とくに私の場合は朝以外の時間には、書く気持ちにならないのです。

だから、やはり今朝は嬉しいですね。ブログ書き、心整え、さあ畑にい行こう、ってな感じがいいのはもちろんなのですが、農作業はそうはゆかないのです。

夏は、午前中くらいしかとてもではないのですが、午後は畑には居られません。ブログでは、あまり畑のことには触れていませんが、A専務のもとわずかなスタッフで、思考錯誤の農を過ごしています。

ひとことで言えば、限りなく良心的な農を目指しながら、なおかつそれで生計を立てるというのは、限りなく難しいという一言です。

でも、A専務は、一路不退転の覚悟で、がんじがらめの現代農のおかしさに、異を唱えるのではなく、安心して食べていただける、野菜作りを単純に目指しています。

その、限りなき遊び心を失わない、高貴な精神性に、私はいたく共鳴してしまうのです。お互いの中に似たような波動を感じてしまうのです。

このような人物に出会えたことは、私のこれからの晩年ライフがどのようになるのか、新たな未知との遭遇の連続になる予感がして、毎日が年齢を忘れてとても楽しき日々を過ごさせて頂いています。

ギリギリのところで踏ん張って、新たな途を模索するそのあきらめない姿勢は、男心に響いてくるのです。

よもやまさか、夢が原退職後、このようなドンキホーテ的傑物に出会うことになろうとは、思いもしませんでした。だからこそ人生は面白いというしかありません。

A専務の中には、このような夢も希望も限りなく乏しくなりつつ現代人の暮らしの中に、畑で農作物を育てる中で、本来人間が持っていた豊かな精神性を再発見してゆきたいという、見果てぬ夢が感じられるのです。

昨日も、古いトラクターに日よけをつけるために、自ら金属を溶接して私を驚かせましたが、私が苦手な世界の人生経験をふんだんに積んでこられているので、おそらく面白いのだと、自分では感じています。

ともあれ、今日もこれから畑に向かうのですが、これまでの人生で仕事に向かうのが、こんなにも苦にならない職場は初めてです。中高年が生き生きと働けないような社会は、きっと日本の将来を限りなく暗くすることになる、そんな気がしてなりません。

老いも若きも、笑みがこぼれる社会こそが望ましいのに、なぜそうはならないのか、とくと思案に値するテーマであると、私個人は思います。

蝉の声に耳をすまし、そのエネルギーを甘受し、今日も一日汗を流し、畑時間を過ごすことこそが、今のところ、昼の時間の醍醐味です。

【今日の写真は、先日横浜でK氏に連れてゆかれた、古い古い食堂の壁に掛けられていた、爬虫類、横浜に行ったら、必ず立ち寄りたいと思わせる素敵なお店でした】


2014-07-22

横浜、ジャック&ベティという映画館で親友K氏の出演するフィルムを見ました。

親友K氏の短編映画を見に上京してきました。

横浜のジャック&ベティという、世界の個性的なあまり上映されないフィルムを普段から上映している映画館で行われた、横浜キネマ・カーにバルの全24作品(19日から8月1日までの夜に日替わりで上映される)の中の一編で、谷坪明英監督のONE・NIGHTという作品にK氏が出演していました。

普段は普通に働いているK氏が仲間うちで出資しながらも映画作りに参加した、還暦直前の一念発起の心意気に、私はある種の感動を覚えながら画面に見入りました。

氏とは26歳からの古い付き合い、私の青春時代を知る今となっては貴重な友人の一人です。ファンタジックな大人の童話のようなフィルムで、映画として十分私は楽しめました。

氏はこれからの人生を映画俳優として、新たな人生をこの作品を機に出発してゆくのではないかとさえ思えるほどに、健闘しながら役作りをしている様が、十分に伝わってきました。

ともあれ、K氏の勇気のある人生の選択をこの目でしっかりと確認することができたこと、五十鈴川だよりにしっかりと書きとめておきたく思います。

これまで、私が企画した野外での大きなイベントには、欠かさず手弁当でぼランティアしてくれたK氏の映画初出演を、友としてお祝いすることができたこと、誠に持って慶賀すべき、ある夜の出来事となりました。

持つべきは友、なんてことを言いますが、私と違って用意周到冷静沈着な氏の思わぬ大胆な、一発大逆転的な行動には、大いなる心地いい刺激を受けました。

このような友人に我が人生で出会えたことは、限りなく我が人生の救いです。そしてまた人生は流れてゆくのですが、お互い良き最後まで、人生をプレイしようとその夜は午前2時過ぎまで、映画館の近くの日ノ出町のホテルの部屋で語り合いました。

ヒトは人生でどれだけの大切な友に巡り合えるのでしょうか、ロンドンのユースホステルで出会って以来の時間の流れの中で、お恥ずかしきことの数々も含めて、共有しながら、何故か縁が切れることなく続いている我が良き友の快挙を心から祝福せずには居られません。

我々の、一回こっきりの人生旅も、そしてまたこれから緩やかに流れてゆきます。お互い緩やかに枯れてゆくなかで、きらりと光る何かを見つけてゆきたいものだと、思うのです。




2014-07-19

親友が初めて出演した短編フィルムを見にお祝いを兼ねて上京します。

蝉が鳴き出し、しばらくブログを書いていない間に、夏が一気にやってきた感じです。

親友のK氏が、短編映画に初めて出るので、退職祝いを兼ねて、急きょ上京することにしました。

目的は、K氏のフィルムを見ることだけです。のんびり汽車の旅、車中は静かな独り時間をすごします。

3連休を利用しての旅、このような時間は、はなはだ気ままな読書旅が、自分には一番合っています。

このところ、暑いさなかの農の仕事が続いていましたので、お盆を迎える前のぶらり旅、K氏のおかげで、思わぬいつもと違う時間が過ごせるのは、ありがたいことです。

出かける前の、久しぶりの朝早起きブログ、旅支度を整えた後、車中で読む本を、3冊バッグに詰めました。

旅には本が欠かせません。あと何回このような旅が可能なのかは、誰にもわかりません。K氏と今回も、一期一会の時間を気楽に楽しむこと、以外何も望まない私です。

浮世のあらゆる俗世しがらみからの解放感が旅のだいご味ですが、普段の充実生活ががあればこそです。

世の中は相も変わらず、次々に大事が起こる世相ですが、こんな時は静かに地に足をつけて、日本の風景を眺めながら、静かに過ごすべく五十鈴川だよりは流れたく思います。

五十鈴川だよりを読んでくださる方々に、心から暑中お見舞い申し上げます。又書きます。




2014-07-13

A専務の農に賭ける夢を共有できる幸せを思う日々。

二日間、かなりの暑さの中、この年齢の自分としては、ギリギリまで身体を動かした。農の仕事に必要な、苗の置き場を確保するために借りた、荒れた土地の整地と、そこに在った樹齢30年以上の大きな桐の樹を切り倒し、その木の枝葉をかたずけたのだ。

A専務が率先垂範動いた。上司というものは、こうでなくてはいけない。部下をやる気にさせる能力なくしてはとてもではないが、上司は務まらない。

切り倒した後は、N氏と二人でもくもくとかたずけた。正直かなり肉体が悲鳴をあげそうに何回かなったが、そんな今現在の自分の身体の動きのチェックも兼ねて気合を入れた。

このように書くと、何やら、悲壮感が漂いますが、十二分に楽しんで仕事ができる環境を、A専務が与えてくださっているので、私はささやかに役に立っている充実感もあって、ことのほか作業を楽しめてやれる、自分の体を楽しんでいる。

何度も書いているが、生きていることの一番の嬉しきことの一つは、意識と身体がそれなりの年齢なりに、自由自在に動けるということだと思うからである。この感覚は若い時にはわからなかったが、今は身にしみてわかる。

使った道具は、鎌、鍬、草刈り機、ほうき、フォーク、ジョレン、チェーンソウ、バンジなど。限られた仲間と、これだけの道具で、わずか3日で見違えるほどに、荒れ地が整地された。人間は、やる気になると、信じられないほどのことが可能である。

要は、いかに一回こっきりの、老いてゆく晩年、何を持って情熱を持続させることが可能なのかということが、定年退職後の、私にとっての大きな課題であったが、A専務の掲げる農の世界は、私に年齢を忘れさせるくらいに、情熱の持続を今のところ私に与えてくれている。

一日、今日も心から働いたという気持ちのいい充実感が在る職場など、そうはあるものではない。現実は厳しい。赤字続きの中、A専務は限りなき悩みの中、ひょうひょうと農の夢の実現に向かっている。

このような、見果てぬかのような夢を持続するヒトと出会えたこと、そんな上司とともに働ける幸せを感じながら、今現在の日々を過ごせることのなんたる幸運。その深い自覚は、感じる私にしか分からないものである。

夕方妻とともに、再び頂いた桐の木の枝や幹を薪にする作業をした。考えてみると、子供に恵まれてからは、家と職場でほとんどの時間を過ごし人生は過ぎてゆく。

このほとんどを過ごす時間が、限りなく充実して愉しく過ごせれば、これに勝る幸せはないと思う。自分の人生は、自分で考えて切り開いてゆくところにこそ、そのだいご味があるのではないかという気が、私はする。

【今日は、カメラとパソコンのコネクションが悪く、写真アップすることができません、ご容赦ください、娘の婚約者のレイ君が仕事で、たまたま帰ってきていたので、なんとかしてくれそうです】





















2014-07-10

晴耕雨読の晩年ライフの渦中、親友K氏よりメロン届く。

台風のため急きょ仕事がお休みになり(私の住むエリアではほとんど影響がなかった)、私は終日本を読んで静かに過ごした。

各地ではいろんなところで、人災も含めた被害が起きていることが報じられている。この歳になると、何事もなく日々平安のうちに過ごせることの、ありがたさがしみる。

朝、多少風と雨が台風の影響を感じさせたが、ほとんど雨も降らなかった。夕方図書館にゆき2時間ほどすごしたのち、閉館後となりの公園でしばし、なまった体を動かし、空を眺めながら広場を歩いた。

最近私は、裸足で歩くことをこころかけている。というのは、足の裏がひ弱になっているのをとみに感じたからだ。当たり前だと思う。靴をはき始めてから、外で裸足になることはほとんどないのだから。

裸足で歩いたのち、家に帰って足の裏をきれいに洗ったらなんとも言えず気持ちがいいのだ。本を読んだり、文章を書いたりする習慣が長いので、いかんせん私は肩がこる、だから肩こり対策も兼ねての。裸足歩きと、我流ストレッチとを心懸けているのだ。

その成果は簡単には出ないが、少しでも和らげる意味で、持続してみたい。若返ることもないし、酷使してきた我が体を、少しでもいたわってなるべく心身の風通しを良くしたいとの、切なる思いの発露なのである。

体調が良くないと、とてもブログは書けない。今日は思わぬ時間のおかげで、夜なのにゆったりとした気分で書ける、うれしい。そうだ、ささやかとてもにうれしいことが、昨日あった。仕事から帰ると、親友のK氏からなんと、三浦特産の見事なメロンが届いていたのだ。

こんな高価な果物を私に送ってくれる友のありがたさ、まさに再びしみる。

26日には氏の出演している、短編フィルムを見るために上京予定、会いたいと思っている。

その前に私のつたなきブログを欠かさず読んでくれているので、この場を借りてお礼を伝えたい。(13日、よく冷やしていただきます、母にもあげました、多謝)

ところで私、肩こり以外は実に健康、充実した日々を送っています。本を買うお金が多少あれば、もうほかにはほとんどなにも不要な、我が晩年ライフ、後は騒がず、静かに流れてゆきたい五十鈴川だより。

だが、我がそんな思いとは裏腹の絶対矛盾、日本のこれからはなどと考えると、自分の無知を謙虚に省み青息吐息、生きているのも正直なところ。でも以前の暮らしに比べたら落ち着いて、不安なく本を読める時間が増えただけでも、ありがたき日々。

つましき日々の中に、書物を通して人間を見つめる時間を平日は大切に送る、晴耕雨読の日々である。

2014-07-07

伊藤比呂美著【木霊草霊】の書評を読んで考える。

雨音で休日なのにいつもの時間に眼が覚めた。台風が近づいていて、梅雨前線が刺激され、昨夜からかなり激しい雨が降り続いている。今週は雨マークが続いていて、いささか雨量が気になる私である。

我が故郷のある、九州一帯はすごいことになっている。一気に増える水かさは、この数十年の開発で、水路を超えて都市部に流入してくる。私が住んでいるこの家の近辺だって、砂川が決壊したら水没の危機にさらされるだろう。

まとまった雨量が一週間も降り続いたらと想像すると、天変地異の恐ろしさの前に、小さき我が身は、ほどほどの加減でと、祈るしかない。

ところで昨日書評を読んでいたら、伊藤比呂美さんという詩人が書かれた、木霊草霊(こだまくさだま)という本を持田叙子さんが取り上げておられた。

2014-07-06

このままでいいのか、いけないのか、戦争をしいてもいいのかいけないのか、思考する。

7月になって初めてのブログである。もう言わずもがなのことであるが、7月1日に、集団的自衛権が閣議決定された。

憲法を一方的に解釈しての、今回の決定に関して私は反対であるということにはすでに、以前ブログで触れた。憲法論議を時間をかけて尽くし、国民の間に広く中身を浸透させたのち、選挙で持って、国民にその覚悟を問うてからでもいいのではないか。何故そんなに急ぐのか、腑に落ちない。

このような、法案を通した議員一人一人を選んだ審判は、哀しくも又国民が負わねばならないのは、自明の理である。多数決の論理、というものが、いまだに私には空しく、時折感じられる。

ともかくも、日本人一人一人に血を流す覚悟があるのか問われている。国防とは何か、他国と交戦するとはどういうことか、おびただしい流血が、またもや我が国土で流れ、他国の人間もまた同様の死屍累々の戦場と化す、事が起こりうる。

訳知り顔のことは、まったくもって書く気が起きない。人間の本質だから仕方がない、ヒトは人を殺す、攻められたら戦う、復讐する生き物。亡き父も書いている、領土問題、宗教問題、民族問題、貧困問題、人類が抱えている問題が、解決されない限り、戦争はなくならないと。

果たしてそうか、このままでいいのか、いけないのか、この謎のような深い命題から、未来に希望を持つ人は眼をそむけてはならないと、考える。人間は葦のように揺れながら考えることをあきらめてはいけないと思う。

人類のおそらく多数は平和を望んでいる。大事な大切な人が、血を流して死んでゆく(殺される)ことに関して、賛成の人はいないのではないかという側に、(シンプルな思考に)私はたどり着く。でも世界は、そのような方向には向かわない。

何故か。とくと考えたい。

残念ではあるがそのような人間ばかりではない、という矛盾した認識も私は持つ。

何故か、とくと考えたい。

世界では毎日のように、流血の惨事がやむことなく伝えられ、いささか感覚がマヒしたかのような我が国の世相を感じてしまうのは私だけだろうか。いざとなったら、私の中の狂気も目覚めるかもしれない。そのようなことにならないように、平時にこそ責任世代はとくに、考えを詰めておく訓練をしないと、たいへんなことになる、と私は考える。

日々、グローバル経済戦争の渦中に投げ込まれているかのような認識が私にはある。そのような構造は、いったいどこのだれが仕組んでいるのかを、ノー天気な私でもいかんともしがたく、時折考える。

日々のニュースや、メディアの情報は、いったい誰が編集して流しているのかを、感覚を研ぎ澄まして、思考しないと、憎しみを植え付けられ、またもや同じ愚を人類は繰り返すことになるのではないか、だからこそ我が身の問題として、簡単に結論を出すべきではなく、あらゆる角度からの、議論をすべきだし、まず自分自身の胸に手を当てて、考える。

先の大戦で核爆弾を落とされた国の人間として、よその国にも自分の国にも、もうそのような無残極まる大惨事は、人類が英知を絞って回避するべく、努力を惜しまない人間が全地球的規模でわんさか出てくることを、私個人はあきらめず、希望する。