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2014-12-30

五十鈴川だより、を読んでくださった皆様、今年一年大変お世話になりました。

30日の朝です。昨日で年内の仕事が終わりました。27日から人間6人犬猫各一匹の暮らしとなり、にわかに我が家はににぎやかな声が飛び交っています。

それもこれも、やはり一家の影の大黒柱、母がしっかりと見守ってくれているからなのだということが、身にしみてわかる年齢をようやくにして私も迎えています。

寄る歳波は、いかんともしがたいと母はのたまいます。ガタがあちこちに来ているとも。でも私から見ると、こんな風に歳を重ねられたら、いうことはないと思えるほどにいまだしっかりとしています。

昨夜も、夕食後全員でカードをして遊んだのですが、ばっちりと遊べるのには感心してしまいました。きっと幼少のころから体を動かし続けてきたからなのでしょう、いまだ体と意識がしっかりと動くことには驚かされます。

まさに、どんなことでも続けてきたからこそだ、と私には思われます。物事すべて、どんな些細なことであれ、継続あらばこそ、小さき花も咲かせることができるのでしょう。

そういうわけで、我が家はつましきなかに、全員がおかげさまで健康な年の瀬を迎えています。今日は全員で午前中お墓参りにゆき、お正月のお飾りを手作りし、それからは、おのおの個人的な用事を済ませることになっています。

私は、新しいパソコンを買うことにしているのですが、心強き怜君が付き合ってくれるそうです。多分年明けから、写真入りのブログが書けるようになると思います。

私は、文章が書きたくてパソコンを始めました。インターネットができて、写真が入れられて、文章が書ければ、ほとんど私にはほかの必要はないとさえ言えるくらいの、簡素なパソコンで十分なので、きっと怜君が私に合ったパソコンを選んでくれるでしょう。

長年使ってきたこのパソコンには、十分愛着があるのですが、いかんせん写真が載せられないのが。でも長きにわたって、写真がない我が文字だけのブログを読んでくださった方達には感謝の言葉しかありません。

慌ただしき日々の中で、私が毎日のように開いて読みたくなるのは藤原新也さんのブログくらいしかありません。ことほど左様に、私にとっての現実時間は有限なのだという思いを意識せざるを得ない年齢、可能な時間を自分らしく過ごせればと思います。

もっと書けば、藤原さんの文章を読むと、その意識の若々しさにこちらもすごくみずみずしくなる(なれるような)のです。

ともあれ、明日は大みそか、おそらく今日が年内最後のブログになるかも知れません。五十鈴川だよりを、読んでくださった方々、本当に心からありがたく思っています、ありがとうございました。良いお年を。

2014-12-27

師走の寒い朝、気づくことの感覚を深めてゆく。

私ごときでも何かと忙しい師走を送っていますが、先日の上京師走旅は、世間とは間逆の時間が過ごせた、まさに忙中閑ありの気ままな旅を送り、ことのほか充実したいつもとは異なる時間が流れました。

そのことに関しては、また大みそかまでに書きたいと今は考えています。実は今日先日会ったばかりの娘夫婦が飛行機で帰省してくるので、岡山空港まで迎えに行かなくてはならないのです。

ところで4日休んで、おとといから仕事をしています。仕事から帰って干し柿や、海の牡蠣を夕方友人知人に送ったりしているのですが、まさに流れるように時間が流れてゆきます。

干し柿は、母や妻のおかげでそれなりの干し柿をつくることができました。これまでの人生でいろんな方々にお世話になり、今の自分があるのを感謝し、これからは何か自分で手をくわえて送る楽しみみたいなことを、普段から深めてゆきたいと思う私です。

今年もあとわずかとなりました。本当は私も今日からお正月休みの予定だったのですが、急な仕事(ありがたいことです)が入り、休日返上でもう数日仕事に出ることになりました。

そういうわけで今日は、お休みに入った妻や家族とともに終日過ごそうと思います。母がお正月だけは我が家で過ごすので、普段3人で過ごすには広い家なのですが、大みそかからしばし6人での生活になるので、にぎやかになります。

母は柿と牡蠣が好物なのです。昨夜は夕飯時、薪ストーブで牡蠣を蒸して食したのですが、大変喜んで(82歳ですが)、しっかりと健啖家ぶりをいまだ発揮し、お酒も少し飲んで結局泊まりまして、今上でやすんでいます。

毎年思うことですが、なにはともあれ家族が健康に生活でき、仲良く日々が送れることのなんたる平凡の極みというしかない当たり前なことが、実はまったく当たり前ではないのだということへの深遠なる気づきは、歳とともに深まってゆく私です。

気づきが深まれば、感謝する気持ちもおのずと深まり、物事は良き方向へと好転してゆくのだという気が、最近ことのほかにします。そういう方向に自分で自分を運んでゆくと言いますか、自分で自分をのせてゆくという感覚。

言葉にすれば、遊ぶという感覚が私にはいちばんしっくりきます。整理整頓、掃除やお料理あらゆる手間のかかる年末雑事の数々を、感謝の気づきで遊んでこなしてゆくことが、肝心だと小生思います。

すっきりした部屋に(花一輪)いると、心がおだやかになります。そういう気持ちになれるのは、すべて身体が健やかに動けるからなのです。一事が万事、そうなのだと確信します。十分寝て朝起きて、すっきりとブログが書ける、仕事に行ける、アクションが起こせる。

ということが、私の場合今の暮らしで一番大切にしていることです。最近珈琲も(大好きなので)少し控えるようになってきましたし、玄米(8割くらい)と野菜中心の食生活に替えたこともあるかもしれないのですが、ことのほかに体が軽く調子がいいのです。

食べ物は、命の源、いのちについての考えを(これまであまりにも考えが足りなかった、考えてこなかった)これからは深めてゆきたいと思います。気づく感覚を深めれば、もっともっとこれからが面白くなるそんな予感がします、、後は気づいたら実践する。(そこがちょっとむつかしいかな)




2014-12-20

一度部屋を暖め、ストーブを消し、厚着をし昔ヒトになった気持ちで、なんとか書きました。

こんなにも落ち着いた静かな歳のせは、岡山にやってきて初めてではないかという気がしている。

それから、企画をするということを一度もしなかったということにおいても、やはり何かが終わって自分の人生の中での何かが変わり始めたのだということが、実感として表れ始めた年、という気もしている。

企画をするということは、自分の時間が限りなくなくなる。くどく書くことは控える。ようするに手間暇、お金がかかるということに尽きる。そのような中、40歳から61歳まで、大中小(企画の)良くも悪くも、家族には多くの迷惑を書けながらも続けられたことには、まことに幸福なことであった。

過去形にしたのは、一つの区切り。今はまだ何の実績もないし、農業も初めてようやく一年をわずかに過ぎたばかりだから、夢は広がっても今しばらくは静かに土に親しむ時間が、私には必要なのである。

話は変わるが、このところのたて続きの寒波で、サンナンの畑が大きな打撃をこうむった。詳細は省く。専務も気象のことだけになすすべがない。それでも、ユーモアをもって、我々に接してくれているのは突き抜けた、神経の持ち主というしかない。

使われいる側の我が身としては、その心中は察するに余りある。ヒトはいざとなった時に、その真価が問われる。サンナンのわずかな人数の農のチームは素人にけがはえたようなメンバーだが、皆心やさしき人たちばかりである。

アベノミクスの恩恵を被らない、(ニュースではほとんど報じられないが)中小企業の円安による資材の高騰は、金属部門には大きな負担らしい。大きな会社のベースアップなどが報じられるが、真実の実態はほとんど報じられない現実には、多くの庶民が年の瀬の寒さとともに、嘘寒さを感じているのではないかという気がする。

さて、そこでどうするかである。短き朝ブログでは伝えきらないものの、最小のお金をうまく使い、企画を続けてきた経験から思うことは、何をするにも無理は禁物という、鉄則である。

そういう時は、時は金なり、静かに学ぶ時間にあてる、それしかない。18歳から、夢的時間を追求する人生を送ってきたがために、仇やおろそかには無駄遣いをしなかったからこそ、私は今を何とか生きていられる、という実感がある。

ここはしのいで、なんとかギリギリのところでと、専務はもちろん、私もほかの面々も考えている。しばし、会社の労働時間を削りながら(自分の農の時間はへらさない)サンナンの農の灯をと考る。

安全な空気、水や食べ物在っての、経済(人生)ではないかと愚直に私は考える。何より家族が安心して暮せ、そして、その上での文化的な暮らしが、ささやかに営める社会こそが豊かなのだ。根のない暮らしは空しい。

ともあれ、身の丈に合った暮らしを持続しながら、希望の持てる農や文化的な暮らしが、可能かどうか、今しばらく身体が動く限り私は考え続ける。

来年のことを考えると鬼が笑うというけれど、土があれば作物は育つ、自由な時間、サンナンの日高畑で修行しながらいろんな根菜類なんかをメインに植えて、無農薬、無化学肥料で育てた(少々やせていびつでも)作物を、、直接買ってくださる方々に販売するつもりである。

そうやって、もし利潤が出たら、私はその利潤で再出発企画を打ちたく思っている、お百姓企画。お野菜のおまけがある、相互交流映画会とか、何かつつましく暮らしている方が、元気になるような企画が育めれば、私は楽しい。

小さくとも、暮らしに根を張る消費文化ではないものを、老春企画したいものです。

ところで、明日から水曜日まで上京、老春旅します。親友に会い、畑から飛び出し、未知の人に会います。

2014-12-18

最近野菜そばにはまっています。

師走半ば、北海道を中心になにやらすごい寒気団が日本列島をすっぽりと覆っています。今朝は我が部屋もかなり冷えて、頭髪が限りなく薄い我が頭が冷えて目が覚め、いつもより一時間早く床を抜け出して、台所でおやつの玄米お結びを仕込んだりしながら、一通り身支度を済ませ、おもむろにパソコンに向かっています。

ところで、最近と言ってもまだ一月にも満たないのですが、家族との兼ね合いの中で、おもに主食を玄米に切り替え、食事も限りなく野菜に替え、脂っこいものは遠ざけるように心懸けています。

この内的な変化は、ドレスデンから帰ってきてからなのですが、風邪はひいたもののきわめて体調が良くなってきているのを、実感しています。体重も数十年ぶりに60キロを切り、現在59キロと、60キロを行ったり来たり繰り返しています。

このくらいの体重が、私にはベストという感じが最近しています。農の仕事を始める前までは、64キロくらいありましたから、明らかに身体が軽くなってきた実感があります。

和食が最近限りなく見直されてくる前から、私は日本食が大好きなので、基本的には事もなしなのですが、やはりこの半世紀の限りなき、歯止めな洋風化の食生活が我が家の食卓にも押し寄せてきていたのです。

農の仕事を始めてから、食べ物に関して一層心を配るようになってきました。スーパーの買い物も
注意深くするよになりました。田中愛子先生(91歳、お元気です)の本を読んでからの影響がじんわりと私の中で起こってきつつあります。やはり、その年齢にならないと分からないことがあるのですね。

歳とともに体は変化しますから、おのずと食生活も変化してゆくのが当たり前、何よりもあらゆる動植物の命を頂き、人間は生きているのですから、私自身もっともっと食べ物に関して学ばなければいけないと、反省しているのです。

やはり寄る歳波のせいもあるかと思いますが、限りなく小さいころに食べていたものがあれば、もうほかに要らないというくらい、急に体が変化してきたのを感じています。

意識が変われば、やはり体が変わるということだと思います。小さいころの、粗食の影響かもしれないのですが、痩せの多食い的なところがあったのですが、何事も過ぎたるは、ということではと反省しきりの、このころなのです。

何回か、リセットをしているということを、書いたかと思うのですが、反省する、見直す、あらためる、そのことを、実践する。言うは易しですが、実践しないことには意味がないのですから、何事も気づきから。

生きていればこその気づきなのですから、これはと感じる体心(からだこころ)があれば、こともなげに、最近はやれる自分が育ってきました。

ところで、最近私は昼食は乾麺のそばを湯で、野菜そばを自己流でつくることが多いのですが、これがおいしいのです。サンナンの畑の空き地で、専務が植えた無農薬のにんじんをたくさん入れた、シンブルそのものの野菜そば。

日によって我が家の春菊や、母に頂いた小松菜、大根、いろんな在り合わせの野菜を、最低3種類は組み合わせます。

出汁は市販のものを半分、半分は先日高知で買ってきたカツオぶし。自分でちょっと工夫すれば驚くほどおいしい年齢にあった昼食をつくることができます。おまけに食費が安上がりになりますし、いうことなしです。仕事で冷えたからだも温まります。

料理というほど、改まったものではなく、めざしを焼いたり、のりをまいたり、冷蔵庫にあるものを、手早く、さっと一工夫するだけの、まったくの手抜き昔風小さいころの母のやっていたのを、そのままやっています。

ぐるぐるめが回るような料理ではなく、限りなくシンプル安上がり、同じようなものを中心にちょっと変化をつければ、毎日おいしく、私は頂けます。一番大切なことは、感謝して頂く、これに尽きます。

2014-12-15

冬の朝、のらりくらりと、ブログ書き。

春の海、ひねもすのたり、のたりかな、というあまりにも有名な句があるが、冬やすみ、ひねもすのたり、のたりかな、といった心持ちの今朝の気分。

冬の朝、身がきりりと引き締まり、意識がしゃんとしているのが確認できると、にわかに何か書きつづりたくなるのが、休日の一日の事始めという感じに最近なりつつある。

寒い中、その寒さの感覚をどこか遠くに感じながら、珈琲をいれ、いの一番リビングの薪ストーブに火を入れる。火が起きたのを確認して、パソコンの部屋に戻り、ちいさな灯油ストーブにも火をともし、部屋が暖まったら、そのストーブを消し、静かな中で意識を徐々に集中しながら、頭に浮かぶよしなしごとを、書きつづる。

書きながら、さあ今日はどのような一日を過ごそうかと、書きつつ考えているしばしの時間が、事のほかに大好きになってきた。(ようにおもう)

ゆらりゆらりとたゆたう意識が、何やらとしっかりと定着してくる感じで、つまりは気持ちが安定し夕方までにやることが、おのずと決まってくるのである。

月曜日は、カルチャーでのレッスンが(生徒さんは一人ですがこれが楽しいのです。生徒さん次第です)あるので午前中は決まっているのですが、午後は何をしようかなんてことを、考えるのは、本当にこの年齢なればこその,いわくいいがたい悦楽的な余裕時間なのです。

何事かに追いかけられることのない一日。まったく一日を思うがままに不安なく過ごせるなんて、ありがたきかな、というしかないのです。母曰く、健康なればこそなのだ、との重みが、身にしみて分かります。

身体が動き、ブログが書け、家族が元気である安心感。やりたいことが、次々に湧きおこってくる今の暮らし向き。地に足をつけて充足しながらの静かな生活。

あんなにも若いころ右往左往していたのが、我がことながら嘘のようです。これが歳を重ねるということなのかもしれません。世はまさに、インターネット、グローバル化大変動時代の(私もその恩恵を頂いています、絶対矛盾を生きながら)まっただ中。

高みの見物という言葉があります。私にはとてもそのようなことができませんが、限りなく土に近い、低みの見物で、時代の推移を見守るしかない、といった心持ち。

地下水のように流れ、地下生活者的気分で、普遍的な根のある暮らしを見つめ続けるいとなみを、継続する。

ということで、総選挙翌日のあさブログは、これでお開き。みなさん年の瀬風邪にご注意、私もようやく回復してきましが、身体がだるく喉に来てしつこいですから。

2014-12-14

久しぶりの体調回復、師走半ばの朝ブログです。

先週の水曜日の夜、父の弟、つまり私の伯父が亡くなったという知らせが届き、急きょ宮崎の故郷にお葬式に帰ることになり、かなりハードな日々を過ごし、それと寒波が重なり、体調を崩していたのだが、なんとか、身体がブログを書くところまで回復してきた。

小さいころの元気なころの伯父さんの記憶しかないのですが、これまでの生きてきた中で、最も余裕がある私の今の暮らしなので、お別れに足を運べたことがつくずくよかったと、今私は思っています。

父が亡くなった時にも思ったのですが、確実にやってくるこの最後の時、という時間にたどり着くまで、(とくに私の場合ですが、還暦を過ぎて後)いかように生きていったらいいのかということを、時折ヒトは元気に生きているうちに、しっかりと確認する、そのことの大切さを改めて思い知らされました。

お葬式のお別れの時間の儀式というものは、死者と対話をするという意味で、この旅の思わぬ帰省時間は、慌ただしき師走の最中に、何か重要ないい時間が私の中で流れました。

何十年振りかで、いとこや親せきの顔に接したりすることもできた。諸行無常の感の中に、皆おのおのしっかりと生きてきたのだという、思わぬ再会の喜びなんかもあったりして、ヒトはやはりいざという時の、態度や振る舞いに、その人なりの生きて歩んできた何かが、如実に表れるものだということも再確認しました。

初めて独りで車で、四国は八幡浜から大分の臼杵にフェリーで渡り、そこから兄の家まで、木曜日西大寺を午後一時半に出て、夜の十時過ぎに着きました。金曜日がお葬式、翌土曜日逆コースをたどり西大寺に帰ってきたのですが、土曜日何と八幡浜に着いたら雪でこれには参りました。

時間があったのでもうこんなことはなかなかないということもあり、車でのお遍路気分がてら反対方向に車をむけ、宇和島から高知周りで倍の時間をかけて、独り車旅をすることができました。

まだ師走も半ば、一年を振り返るにはまだ早すぎますが、本当に一瞬先は何事が起こるかはまったく予期できません。これだけのハイテクノロジーの時代ではありますが、ヒトは未だ彷徨い歩くしかない哀しき器、というのが偽らざる私の認識です。だからこそ面白く生きる。

逆説めきますが、ヒトはその悲しき器を、精一杯生きることが悦びにつながるような生き方を、探すしかないというのが、現時点での私の認識です。以前も書いたと思います。世の中に絶望したりするまえに、自分に絶望せず自分の中に希望を見つけてゆく。

そこにこそ、生きてゆく妙味が無限に展開される、突き抜けた者にのみ新たな景色が広がっているのではないかという気が、私は最近します。昔はいろんなすぐれた人に憧れたりしたものですが、還暦を過ぎてからこちらは、そのようなことは日増しに(なくなりはしないのですが)少なくなってきました。

私自身、何度も希望を見失いかけたのですが、(運が良かったというしかないのですが)いろんな方々のお導きの上に、ささやかに現在を生きています。おそらく全人類のすべての方々が、きっとすれすれのところを、自覚無自覚はともあれ、生きているのではないかと。

霜に覆われた葱畑、寒気団のなか、朝陽が刺し貫いてきます。夜が明け、私もまた再生する。その永久の繰り返し。永遠に一日を、ヒトは生きるしかない。私の姓名には日が高いという文字が入っていまして、地名や町名、川の名前なんかもあるのですが、私はお陽様を信じています。どんな雨や嵐の日も、お陽様は出ています。

お陽様と私は、一喜一憂しながら、つながっているこの安心感は、私の中では絶対的なものです。だからなのだと思います、私がほんのちょっぴリノー天気なのは。

ともあれ、久しぶりのブログ、指の動く通り、ここらあたりでお開きですが、今日は選挙の日。もうなにがあっても驚かない年齢です、が、ああ、この国民の選択が大きな歴史の禍根にならないように祈りながら、私は選挙にゆき、自分自身の希望は自分で見つけようと思案します。



2014-12-02

師走、最初の真冬の寒波の朝に思う。

昨日から、早師走、選挙戦も本格的に始まり,何かとせわしなき感が漂うが、どんな日も一日は一日である。自分の一日の暮らしをまずはしっかりと過ごす、その点畑は一日一日微妙に変化するのでいやでも、いろんな意味で新鮮に向かいあうことを余儀なくされる。

だから私は、地のヒトとなって、働く日はあらゆるお天気(同じ日は二度とはない、毎日が歴史的に初めての日)に左右されながら、一喜一憂しながら畑時間を、自分なりのリズムで過ごす。その天とつながったアウトドアライフが、私には事のほかにあっている。

よもやまさか、晩年にこのような時間が過ごせる職場に巡り合うとは思いもしなかった。これで家族がおだやかに、つましく糊口をしのげれば、もうなにもいらない、といったいささか達観したような心持にもなろうかという風情。

が現実は、ますますもって厳しい農の仕事なのだが、五十鈴川だよりは、自分の中にささやかな希望を探し、見つけてゆくことを第一義にしている、個人的なわがまま(あるがまま)ブログなので、自分が大変な状況に遭った場合は速やかに、一時中断し、七転び八起きの体でまた再開したいと考える。

18歳から世の中に出て、つまずきながらも、なんとか生き延びられたのは、いろんな巡り合いの中で、あらゆる方々のお世話になったからだ。そのことは夢夢忘れてはならない。

さて、話は変わる。陽の出が遅くなってきたのにつれて、今日から出勤時間が30分遅くなった。だからいささか余裕のある朝時間なのである。季節に合わせて出勤タイムが変化する、なんて農の仕事だからこそである。夏と違って体力も消耗しないし、ブログを書く回数が冬場は増えるような予感がする。まあ、力まず騒がず流れのままに。

ところで、今日から一転真冬のような寒波がやってきているとのこと。今日の畑はきっと冷えることだろう、だから私は昨夜のうちに、軽くて暖かい手足対策、日高式防寒具を身につけて、畑に向かおうと考えている。どんな状況でも遊び心で、立ち向かう。

どんな嵐も、時間とともに過ぎてゆき終わり、又始まる。その往復運動のはざまに、いわばオーバーに言えば、人生が横たわっているのだ、と私は考えている。まさに物は考えようである、というしかない。

またもや話は変わる。今度の選挙の結果で、国の行く末がおそらく大転換するように思う。老若男女選挙権のある方々は、ぜひともなんとか足を運んでほしいと、思わずにはいられない。私自身のことですが、ボケるまではごまめの歯ぎしりであれ何であれ、選挙に足を運びたい。

そうしないと、あらゆるご先祖様に顔向けができないのである。だって、死者たち(歴史の上の、報われなかった無数の方々の、現代もだが)のおかげで、現在の平和な時代がやっと訪れているのだから。

私なんかの世代は、日本の歴史始まって以来の、平和で贅沢な時代を生きさせてもらっていると言っても過言ではない、といった認識が私にはある。

ときおり、両親と姉兄弟5人で幼かりしころの食卓を思い出す。思えば、なんとまあ、変化したことか。精神のぜい肉をそぎ落とし、考えることを遊びながらやりながら、選挙にゆくくらいで、投票する人が増えれば、とまあ再びごまめの歯ぎしり。

あきらめたり、絶望するのは、やはりおろか者であるとのとの立場に私は立つ。愚者ではあるが、選挙にはゆける。暴力ではなく、民主選挙を私は願う、というところで今朝はお開き。



2014-12-01

先週、日高怜君が里帰りしました。

先週末二日間、正式に我が家の一員となった娘婿、怜君が日高怜となって岡山仕事のついでに、里帰りした。娘は逆に札幌仕事で、怜君は単身で帰ってきた。怜君は、水質や土壌の専門家なのである。

今年は、フィリピンに何度も仕事で出かけていて、先月は3週間も滞在していた。世界が水をめぐって、経済闘争に入っているこの時代。企業にとって、安全で潤沢な水の確保は死活問題なのである。

私は初めて外国に出た25歳の時、パリで、一番安いワインが水よりも安かったことに驚いたが、日本でも自動販売機で、やがて水が買われることになる時代が来ようとは、当時は思いも及ばなかった。

日本では、飲める水をトイレでも流しているが、そのような極楽とんぼの国は日本を置いてほかにはないのではないかと思う。大陸、コンチネンタルと島国の相違、というにとどまらず、日本の多様な風土、地理的特殊性はいかんともしがたく、良し悪しは置くとして、日本人の精神性に多大な影響を与え続けている、と言わざるえない。

とまれ、なにやら深い話題に入ってゆきそうな我がブログだが、今日は午前中レッスンがあるので深入りしている時間がない。ごめんなさい。

さて怜君、すっかり我が家の一員になってきた感あり。そのことは、私にとっても、家族にとっても大きな悦びをもたらしてくれる存在となった。とくに、下の娘が怜君を初めてできた兄のように慕っていて、その影響のせいのようにも思えるが、この10月から、岡山は弓の町にある、怜君と同じ徳山道場の門下生となり、学び始めたのである。

これは父親の私にとって、事のほかに嬉しい最近の出来事なのである。次女はあらゆることに、のんびりした穏やかな性格なので、厳しい世の中に出て、きちんと世の荒波を乗り越えてゆくことができるのか、親としてははなはだ心配をしていたのだが、怜君をいろんな意味で頼りにしているのがうれしい。世代が近いのがいいのだ。

我が家に、私以外の頼りになる、若き男性が加わると、かくも我が家の女性陣が生き生きとしてくるものかと、私は驚く。おばあちゃんも生き生きしている。東京の怜君たちに食べてほしいのだと、新米をはじめ荷物になるのも構わず、持たせていた。

ともあれ、娘が異国の男性と新生活を始めたおかげで、我が家にも本格的に新しい風が吹き始めた。私の中にもなにやら言うに言えぬ、ありがたきかな、というしかない感情が芽生え始めていている。

時間の流れとともに、いやでも暮らしは変わってゆく。その中で、最も大切な愛情や、こまやかな思いやりを見失わない生活を心懸けたいと、母を見倣いながらおもう。ようようにして、一めぐり若い人たちの新しき生活のお役にたてるような、晩年ライフが送りたいものだと思う。

そのためには、これから何に重きを置いて日々を新たに送ってゆけばいいのか、ということを五十鈴川だよりで、迷いながらも書きつづりたい。