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2015-01-16

サンナンの農の灯を消さない、そのことを静かに考える。

何やらこの数年自分が静かに暮らしている間に、ヘイトスピーチをはじめ、閉塞感ここに極まる、何とも表現しがたい、余裕なき感情の発露が主に都市部で他者に向かっている、そのような不穏な時代がひたひたと迫っているかのようにメディアが伝えている。

ただ確かに、人間 の本質が私ごときが思う常識とは、かなりずれ始めていることはいかんともしがたく感受している。が、ずれを楽しむくらいの余裕がないと、やはりまずい。

いたずらに付和雷同することを私自身はやんわりと恐れる。臆面もなく、よくもまあ、実体のない概念に向かって、おぞましき言葉が口をついて出てくるものだとただ個人的には呆れる。

発言には、可能な限り冷静で、慎重でありたいと自戒する。言葉は恐ろしい、使い方一つで 、いたずらに摩擦が生じる。まして攻撃的な発言や言動には。

ささやかな、わがブログであれ、少しは冷静に言葉を選んでいるつもりである。何度も書いているが責任世代は,自律(立)して個人個人の頭で考えてゆく持続力を身につけてゆく、訓練のようなことを、意識的にやらないと、何やらワーッと見えない何者かにとかっさらわれてゆく、恐ろしさ。

そういう意味では、私と同世代の人たちの魅力の欠如(私にとってです)はいかんともしがたく(ごめんなさい自分のことは棚においといて) 進んでいるように思えてならない。話に夢があまりにも少なすぎる、と感じてしまう。

一言でいえば思考が老けすぎている。私の頭髪のようになんとも寂しき感、が否めない。

話を変える 。実はサンナンの農の部門、よくもまあ、この一年をしのいできたものだと、働かせていただいている私自身が率直に驚いている。くどくどとは書かない。

私自身こんなに楽しく働いたのは初めてではないかと思えるくらいに今も働かせていただいているのだが 、現代の経営という意味ではとうに終わっていても不思議ではない。

A専務の悩める健全な人力、目指す理念あればこそしのいできた。私財をなげうってまで,雑草まみれの土地で安全な野菜を作り続けて、いまも苦闘中だが、専務の顔に悲壮感はない。

何故か、心からやりたいことをやっているからである。冬、農閑期である。売っても利潤のでない、素晴らしい無農薬のネギが、いまも畑にはある。

きれいに処理していると人件費が出ない、採算が取れない、現代の構造的仕組み、だが直販して、どこかの誰かがネギの価値を認め買ってくだされば、商いは成立する。

そこに踏み出してまで売る勇気があるか、要は自分たちで植えた愛着のあるおいしい安全なネギを 、顔の見える消費者に直接売る。単純にシンプルにアフリカの人のように。

私を含めた現代人は、思考のドグマにからめとられていて、身動きが取おれなくなっているのではないか、心にこびりついたドグマを祓い、洗い、原点に戻って売る。だって素晴らしいネギが我々の畑には在るのだから。

思考というのは、あくまでも自由にはばたくために思考するのであって、コップのなかの嵐や、重箱の隅をつつくような、ちまちましたことでは、らちが明(開)かない。

 未知との出会い。いろんな道があるのではないか、いろいろ万策尽きるまではやらないと、私には悔いが残る。何よりも青々とした我々のネギが私に一歩踏み出す勇気を与えてくれる。

たまたま、出会ったサンナンの農の灯、専務の目指す世界を末端で共有したい思いは、関わってわずか一年と少々だが深まる。

それにしても、なぜ人は生きて働くのか、その根源的な問いを今の時代ほどかみしめてみる必要がある、と私は畑で個人的に 考え続けている。ヘイトスピーチより、人を愛する努力をすべきだ。






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