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2017-04-22

徳山道場に入門して春に思う。

今夜は弓の稽古のある日である。弓を始めたことで、何やら微妙な変化がわが内なる心と体に起こっているような気が最近している。

まだまだ始めて2か月ちょっとであるにもかかわらず、である。端折って書くことにするが、それはいろんなことが考えられるが、おおよそ二つのことが考えられる。

それは、徳山道場の先生方や、門下生の方たちが、私が これまでの人生で出遭ってきたことがない雰囲気というか、オーラを放っているからである。

まぎれもなく現代人には違いないのだが、その内面性に、長きにわたって培われてきた、弓道世界の伝統的精神性が、色濃く感じられるのだ。

触れたばかりの弓の世界、その所作、作法を学ぶに、わが65歳の体は悲鳴をあげながらも、新鮮な気持ちを味わっている。

大変な世界に足を踏み入れたという思いと、いやあ、始めてよかったという思いが、やんわりと交差するのである。

還暦を過ぎ、弓を始める前から、とくに土いじりやシェイクスピア遊声塾を始めたことで、体をいたわる生活を心かけているつもりなのであるが、弓を始めたことで一段と体をいたわる生活を心かけないと、という思いが深まってきた。

声を出すのとはまた違って、弓を引くにはかなりの基本的な体力がないといけないということが分かってきたからである。 余計な力を入れず、しかし弓を引くにはそれなりの、弓を遠くに飛ばす力が必要なのである。

山下澄人氏より送られてきたおせんべい。私にとっての新世界は弓のせかいである

いまからその体力をつけるにはどうしたらいいのか、いまのところ私に考えられるのは、とにかく弓を繰り返し引くことなのである。その中で、この年齢でも筋肉が自然についてくるのを願うしかない、といった気持ちなのである。

弓に打ち込む娘婿れい君との共有世界を、少しでも深めたいという思いから始めた、徳山道場入門なのであるが、その思わぬ選択はなにやら思わぬ世界に私を導いてゆきそうな気配なのである。

もう一つは徳山道場の昭和の面影を宿す素晴らしさである。戦後建て替えられたという吹き抜けの道場からは空が見える。道場はお稽古日以外でも出入り自由である。

今の季節、ときおり自主稽古をしていると実に気持ちがいい。雨もまたよし、午前中などたまに一人で道場にいると、岡山のど真ん中の静かな弓の聖地にでもいるかのような気分になる。

天神山ではシェイクスピアを 声に出し、まさにすぐそばの弓之町で弓の稽古ができるのだ。聖地が一つ増えたのである。弓の稽古と声出しとでは意識のベクトルがまったく異なるのであるが、一つ共通していることは、集中力を深める反復繰り返しである。

なにやら、いよいよ晩年の過ごし方の3つの時間が、ますますもって大切になってきた。動ける間は動き、静と動を往還したい。



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