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2014-08-01

ささやかに畑で幸福感について思う。

網戸からようやく涼しい風が流れてくるのが感じられる。それでもおそらく熱帯夜だ、夏独特のまとわりつくような暑さは、日付が変わっても続いている。夕食後、ぶっ倒れるように、横になって休んでいたのだが眼が覚めたので、いつものように本を読むのではなく、ブログタイムとなった。

とりたてて書きたいこともないのだが、やはり書きたいという絶対矛盾の私だ。この一月間のサンナンの農業システムは、A専務主導となり、もっぱら私とN氏は、その主導のもと一号地の畑で働いている。

A専務自らトラクターをかけ、率先垂範動いてくださり、のうに賭ける情熱がじかに伝わってくるので、猛暑ではあるが、私自身はそれをしばし忘れるくらい、楽しく働かせて頂いている。まったく無知蒙昧で飛び込んだ農の世界だが、ようやく入り口に立ったかのような、実感が私を襲っている。

いま、更地になった一号地にネギを新たに植え始めているのだが、A専務の指導のもとでの、初めてのネギ栽培は、気分一新すべて新鮮に取り組めている。N氏と私の二人にかなり任されているので、一段と責任を持って取り組む姿勢が自分の中に生まれてきているのである。

とくに植えたネギが、大地にきちんと根付くまでは水やりが重要なので、このところ夕方再び、散歩がてら水やりにゆきたくなる自分がいる。生き物を育てるのには、人間であれ何であれ、愛情が最も大切であるというこは、論を待たないという気が、私はする。

話は変わる、ゆうべ夕食時に見ていたNHKで、働き盛りの日本人男性の7割以上が幸福感を持てないまま、日々を働いているという特集をやっていたが、(女性は6割5分)私はそのデータにしばし、唖然とした。

どこかそうだろうとは思いもしたが、こうまで高い数字には正直あきれ果てた。幸福感を持てないまま、何故人はかくも働くのか、今一度であれ、何度であれ、ヒトはなぜ働くのかという根本を、問い詰めて考えないと、消費文明で働く男女は幸福感を持てぬまま、廃人かしてゆくのではないかという危惧を持ってしまった。

幸福感を持てない夫婦のもとに、生まれた子供はどうなるのか、教育の再生とかまことしやかな議論飛び交うが、その実態はなんともはや嘘寒いというしかない。薄気味の悪い事件も、この数十年あとを絶たないが、すべては人間の心を、お金の論理が支配してしまったからのような気が、個人的にはしてならない。(お金は、幸福追求にこそつかうべきではないか)

だからどうしたらいいのか、ということを、ない頭でこの数十年子育てをしながら考えてきたが、考えなかったら、どうなっていたか、想うだにゾッとする。このブログでも何度も書いているが、人間は考える葦である。どんなにささやかではあれ、人間は考えないとそこで止まってしまう。

枯れながらも持続する。持続する志の中にこそ、時折なんかが降りてくる気が私はする。

本を読んだり、ヒトと話したり、旅をしたり、芸術や、あらゆる美や音、まあとにかくいろんな人間の素晴らしさに触れる時間を何とか見つけ、自分自身を磨く意識を持続しないと、気が付いたら何が何だかわからない世界に放り込まれてしまうのではないかという危機感が私にはかろうじてある。

そのかろうじて感じる感覚に、なんとかしがみついて、よたよたと今も日々を生きているというのが正直なところである。この歳になると加速度的に、自分の体に正直に生きたいという気持ちを私の場合抑えることができない。

話は畑に戻る。畑にいると、なにもない、なにもいらない幸福感に包まれる。大地の恵みを頂き、家族が幸福感を持って生きられれば、それで十分ではないかと、夏の雲を眺めながら五十鈴川だよりは考える。

【左がA専務、右がN氏、3人畑時間は限りなく愉快に時が流れます】

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