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2014-08-03

雑草との対話の中で、自分自身の原風景がにわかに立ち上る畑時間。

雨音を聴きながら書いている。昨日も雨であったが午前中なんとか仕事ができたので畑に行った。器具の点検を始め、農の仕事は普段なかなか目が行き届かないことを確認実行するためにも、畑にとっても恵みの雨となった。

幸いN氏が機械をいじったリすることに強く、相棒としては誠に持って頼もしい。氏とは別に私は雨が激しくなる前まで、ネギの補植と雑草取りの仕事を繰り返した。

更地の1号地の葱畑にとっては、なんといっても手ごわいのは雑草である。ネギが伸びるに従って、それを追い越すように伸びてくる。しかもこの草は棘のある、一筋縄ではゆかない、私が出会った中の雑草で最も手ごわい草である。

おそらく、私がサンナンでん農の仕事を続ける限り、この草となんとかして、農薬を使用せず共存しなければならない。そのためにはどうしたらいいのか、このところない頭で考えている。

結論はとてもではないが、根まで取っている時間はないので、手がつけられなくなる前になんとか、あらゆる道具を使って削り取る、根気のいる作業を自分に課すしかないということに落ち着いた。

時間を見つけて、とにもかくにも雑草をやれる限り削り取る作業を、繰り返すしかない。こういう風に書くと、なにやら悲壮感が漂うが、書いている本人はなるべく楽しんで雑草と格闘している。

身体が動くからこそ、雑草と格闘することがきるわけで、雑草の前で降参ではなく、格闘する気力体力が、一日でも長く持続するようにはどうしたらいいのかを、歳とともに以前にもまして考えるようになってきた。

以前から何度も書いているように、私は雑草取りを心身のトレーニングのために、つとめて楽しんでやれるように心懸けている。草が伸びる、それを刈る。又伸びる、それの繰り返しなのだが、一時ではあれ、手入れが行き届ききれいになった畑は、見ていて実に気持ちがいい。

部屋の掃除や洗濯、おさんどんも同じである。時の流れの中で、ヒトは日々の暮らしの中でのほとんどの事を、繰り返す。

その繰り返す行為を、いかほどに意識し楽しめるか、楽しめないかで、オーバーではなくその人の人生は、大きく変わってくるに違いない。

自分で書くのもなんだが、私はいま畑で働くのがじつに気持ちがよく楽しい。なぜなのか、自分ではなんとはなしに理解できるような気がしている。それは限りなく、畑では自分に正直に生きられるからである。

まっとうに生きる、自分に嘘や言い訳をしないで、無心に生きる、遊ぶということは、実に気持ちがいい。複雑な思考が苦手な単細胞の私には、まさに小さいころの泥んこ遊びをほうふつとさせる畑時間なのである。

いい歳をしばし忘れさせ、こんなことを書くのはいささか恥ずかしき感無きにしも非ずだが、幼き黄金時代にタイムスリップしたかのような心持になり、久方記憶のかなたに置き忘れていた、心象風景や原風景が蘇ってくる。

蒼穹のもと、鍬を振りかざし、草と格闘しながら汗を流し、私は動ける自分自身と遊べる幸福感に包まれる。

【N氏が持っているのが、私を鍛える草、既にとげがあり人間の背丈くらいになる。その生命力はたとえようもない。せめて10センチくらいで削り取らないと、たいへんなことになる】

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