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2014-09-10

畑で二日続けてスーパームーンを見る幸せを思う。

疲れているはずなのに、眼が覚めたので思い切って起きた。昨夜から煌々と輝く月をまず眺め、珍しく自分でお味噌汁を作り、コーヒーを入れパソコンに向かっている。

ほとんどの世の中の人が眠っている時間帯に起きているというのは、なにやら妙な感じもしないではないが、ともあれぐっすりとやすんだ身体は、意識がニュ―トラルで、ことのほか邪心がない。

すっかり朝にしか、物事や文章が思考できない身体になってしまったような我が身である。さて又また月の話で恐縮だが、昨日も運動公園で月の出を待った。雲が在ったがためにすぐには顔を出さなかったが、7時10分前くらいに、雲間からスーパームーンが姿を現した。

ところで話変わり、昨日の朝畑から西の空に消えゆく赤い満月を見ることができた、朝日が昇り、代わりに消えてゆく月を眺める事ができたのは、幸運だった。昇る太陽と、消えゆく月に自分自身がその中間にいる、ある、瞬間の幸福感を緩やかに感じた。

単細胞の私だ、今日も一日動き働けるという悦びが身体の奥底から、ほんのり静かにいつもより強く湧きあがってきたのである。こんな希少な感覚に身体が研ぎ澄まされるのも、畑で働けるからだと、何かに感謝する。

生き物が、生き延びてゆくために、絶対要素、酸素と水、をことごとく脅かす、現代消費所有物質文明に対して、あらためて自分自身は今後どのように生きてゆけばいいのかを、ぼんやり月を眺めながら、おじさんは静かに物思い考える。

ときおり、詮無い思い、徒労感にとらわれることも、正直なくはないのだが、そのような思いを打ち消す、何やら無数のおびただしい今はなきご先祖の声なき声が、かすかに私のうちに歳とともに響くようになってきたのである。

ともあれ、今朝も昨日に続いて西に消えゆくスーパームーンを眺められるかと思うと、元気が湧いてくる。まさにお天気次第ではあるのだが、こんなにも安心して、月を眺められたのは久しぶりのことだ。

時折、浮世の渦のなかから、身も心も解き放ち、大いなるものに身をゆだねながら、物思う感性を取り戻さないと、私の場合はどうにも駄目である。

裸足で土に触れ、多様な植物の生命力にじかに触れないと、私自身の命が先枯れてゆくかのような不安な心持になる。だから私は今しばらく畑から世界を眺めたいと、つよくおもう。








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