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2014-09-09

中秋の名月の朝に、思う。

すっかり朝夕は涼しくなり、虫のすだきが今もかまびすしい。昨夜は下の娘も不在で、夫婦二人での時間を夕方から夜にかけて過ごした。

妻は犬のメルとの散歩をほとんど欠かさない、時折私がゆく運動公園に一緒にゆくことが最近増えてきた。

メルは、怖がりで人見知り、独りでの散歩は極端に嫌がる繊細な犬である。私には妻のようにあれほどまでに、犬を思いやれる繊細な感覚が欠落していて、妻のメルに対するこまやかな愛情を見ていると、時折不思議な心持におちいる。

だが、やはり長く共に一つ屋根で生活を共にしていると、自分のなかにもゆるやかに愛情のような感覚が育ってきているのが、わかる。人間はかすかに微妙に変化し続ける。

話は変わるが、西の空に今も煌々と月が輝いている。昨日も月の出を、運動公園で眺めるためもあって、いつもより遅く出かけたのだが、ささやかに身体を動かしながら、陽が落ちてゆくと一段と輝きを増す月を、ただただ眺めた。

いよいよ今夜は最高の月を拝むことになる。さいわい、お天気がいいので今から楽しみである。二階のベランダかもしくは近くの小高い所から、月の出を眺めに行こうかと考えている。

月の満ち欠けに、あやしく私の心はざわめく。現代に生きている私であるが、時折どうしようもなく今という時代との、祖語のようなものを感じる。

そのいたしかたない何かをおだやかにしてくれるものが、月の輝きのなかに私はかんじる。大いなる宇宙的感覚の中に、身を任せているときのなんとも言えない安ど感は、言葉にはできないものである。

その原初的大いなる感覚は、これから向かう夜明け前の畑でもいかんともしがたく感じる。特に今の季節の、夜明け前は謙虚このうえもない感覚に身体が研ぎ澄まされる。

お陽様が昇ってくる直前の、神々しいというしかない、ほんのわずかな時間の推移の、刻一刻と移り変わる様に身を置いていると、しばし古代人的な感覚が、にわか現代人の私の中にも蘇る気がする。

N氏と二人、その感覚を共有しながら始動するのだが、今を生きる悦びというしかない。

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