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2014-11-30

雨上がり、畑での紅葉感覚を慈しむ。

昨日の朝の雨の中のネギ刈りのことなども含め、少し書きたい。

家を出るときは雨が上がっていたので、普段通り出かけ、k君(10月から、半年研修にきている19歳の青年)とともに畑に向かうころから、にわかに雨が降り始めたので、まず倉庫で雨合羽に着変えネギを刈り始めたのだが、雨が激しくなりぬかるみ、思うように手足が動かせなくなるなか、まるで修業僧のような気分で、黙々と身体を動かした。

K君も苦労しているのがわかる。このようなことは年に数回はかならずあるのだが、しんどい作業の時にこそ、人間の底力が問われるし、試される。私とてもなかなかに辛い状況ではあるのだが、とりあえず今日出荷する分のネギはどんなことがあっても刈らねばならない。

若いK君には私が刈ったネギを、ひたすらかごに入れ車に運んでもらい、私は刈ることに専念した。その間約一時間半、なんとか10かご刈り、8時には工場まで運ぶことができた。刈り終わるころには雨が上がっていた。

幸い終日降ることがなく、事なきを得たのだが、若いK君との思わぬ共同作業が私には楽しかった。これが一人ならしんどさは倍加したかもしれないのだが、研修中、悪戦苦闘する彼がいたおかげで、無心で刈れた。

こんな作業を、この年齢で苦もなくできる自分の現在の体は、やはり若いころからのあらゆる体験が、根底にあるからこそなのだと、つくずくありがたく思う。もっと書けば、今やれるうちに、どれだけのことが可能かというチャレンジの精神が、年齢を忘れさせて湧いてくるのだ。ネギ刈りトレーニング。

雨水が合羽から沁み、肌着が濡れて気持ちが悪かったが、着変えてさっぱりするとひと汗かいた身体が軽くなり、なんとも気持ちがよく、その後は雨上がりの青空のもと、気持ちよく仕事ができた。

ところで、紅葉の季節もほぼ終わりだが、私は畑へのゆき帰りや、畑から望める周辺の樹木の紅葉を今も楽しんでいる。畑に通じる農道には落ち葉がたまる。ひらひら舞い降りる落ち葉を、車から眺めながら走るのは、いとおかしき風情の極みである。

雨の後陽光に照らされた樹木の葉の美しさは、まさに沁みる。鮮やかさの極み、それも長くは続かず、神の摂理地面に還る。まさに日本の風土は循環芸術とさえ思える。

雨あがりの中腰を伸ばしながら、青空と雲の流れを望みながら、時折雑草も含めた周辺j樹木の色合いの変化を、足元、天空、日ごと愛で慈しむ。心に感じ入ることが多く味わえる職場である。

ことさらに、有名な景勝地にゆかずとも(ゆけなくとも)紅葉の晩秋は足元のそこかしこに在る。すぐ足もとに微妙な味わいとともに多元的豊穣な、豊かというしかない植物世界が広がっている。

ようようにして、それら畑周辺の植物世界と私自身の生がつながっていることが、かそけきなかにも感じられる歳になってきた。

生きていればこその、世界を見つける秋。畑の近くの家に大きな銀杏の樹があり、その家の小屋の屋根に一面びっしりと銀杏の葉が敷き詰められていたのを、先日見た。自然の織りなす美。

人間がこざかしくアートだなんだと(ごめんなさい、言葉が過ぎました)かまびしきご時世だが、じっとしていても、世界は実に多様で千変万化動いている、そのことを感知する感性を、元気な間は修行し、磨かなくてはと自戒する。

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