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2014-11-17

時折、畑で王兵(ワンビン)監督のフィルムのシーンが回ります。

先日、王兵(ワンビン)監督の、三姉妹~雲南の子供、を見たことを書きました。以来、畑で働いていると、時折、フィルムのシーンシーンが脳裡の片隅で蘇ります。一度しか見ていなくても(一度で十分という気もします)です。(すぐれたフィルムはシーンが心に刻まれます)

ひたすら、理屈ではなく生きて食ってゆくために、かくも過酷な労働を、子供たちが支え合って、現代中国の、広い雲南地方の高度3200メートルの小さな村で生きているという事実、現実が、62歳の今を生きる私の暮らしを、みつめなおす、力を持つ、ということ。

手元にあるパンフレットの中に書かれている監督の言葉を、今初めてじっくりと読んでブログを書き始めました。

監督は、初めてこの村で暮らす、生きる子供たちが育ってきた信じがたいほどの困難な状況に胸を打たれ、貧しい農村の、この子供たちの現実を証言したいと思った、とあります。(きっと、ワンビン監督の中に、琴線の響き合う灯がともったのだと思います)

フィルムを見たもの(私が見た日は、20名くらいの方がみていたと思います)として、私自身普段の暮らしの中で、(流されながらも)ふと考えるのです。

利便性のモノにあふれた現代人の一人としての私の暮らしは、はたして心を豊かにするのかについては、はなはだ懐疑的であるという認識です。

経済発展という、美辞麗句や、消費活動に火をつける、あらゆるCM,コピーの裏で、かくも貧しき暮らしを強いられている、幼い子供たちの現実と、年収何億円という、言葉にいならないくらいの、ますますひどくなる経済格差は、どういった構造からなされるのかということについて、考える力(想像力)のない大人にはなりたくないものです。

労働の尊さとか、人間の尊厳とか、あらゆる美辞麗句が、新聞や多くのメディアで報じられます。あるいは政治家の言葉で。言葉に血が通わない、浮いた痩せた言葉が主にTVから垂れ流しのように氾濫する時代(今も変わらない)の渦中をこの40年生きてきた実感が、私にはあります。

その功罪を含めて、画面を眺め続けてているうちに、肉体(精神の血が流れるような企画にこそ、出会いたい)を見失ったのではないかという、哀しき思い、に至ります。

私がこの歳になって、畑で土(地面)に惹かれるのは、その失いつつある感覚を、ほんの少しでも取り戻したいという情動かも知れません。逆説ですが、雲南のワンビン監督の映像画面からは、あらゆる音(主に風)や、ジャガイモの土の匂い、血の通った寒さ、真実の思いやりが、ふつふつと伝わってきました。

じっと、漏れる光の中、土間にしゃがんでいる少女、かごいっぱい収穫した松の実を、背中にしょい大地をゆく少女、妹たちの虱を潰してやる少女、たたずんでいる風の中の少女は、次元の違う崇高な世界にぽっかりと浮かんでいるかのようでした。

私の記憶の中の、小さいころの貧しさの比ではありません、衣食足りて礼節を知る、と言いますが、そうはすんなりとゆかないところが人間の悲しい性、とも言えるかもしれません。

監督は、人間性とは何でしょうと、フィルムの向こう側から、問いを投げかけています。その答えは、フィルムを見た一人ひとりが考えるしかないと思います。

私も、畑で体を動かしながら、元気な間は私自身の哀しい性についても考え続けたいと思います。

ところで、王兵監督のプロフィールを読んでいたら、今日11月7日が(1967年)お誕生日とあります、街で生まれたのですが、飢饉のため幼少期を農村で過ごしたとも。14歳で父親をなくされ、父が働いていた職場で、14歳から24歳まで働き、魯迅美術学院写真学科に入ります。(後は省略)

こんな監督の略歴だからこそ、このようなフィルムが撮れたのだと【奇跡的な出会いというしかない】思います。




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