ページ

2014-10-26

ドレスデンへの旅・8・【最終回】

プラハの空港を発つのは午後4時半だったので、ホテルで目覚めてすぐ朝のホテル界隈を3人で散歩した。最高の場所にホテルは位置していた。。昨夜の小雨は上がっていて抜けるような青空。娘がおいしいコーヒーを飲みたいというので、すぐ近くのプラハのスターバックスに入った。

ケバい看板がなく、石畳の街並みにまったく違和感なく、溶け込んでるお店づくりで、その点はまったく感心した。かなり高めの値段なのだが、それなりにはやっていたのは、やはり観光客が多いからなのだろう。

早朝はさすがに人気も少なく、昨夜はあんなににぎわっていた、レストランやお土産売りのお店なんかはまだ閉まっていて、のんびりと散策するにはもってこいだった。娘は一足早くホテルに戻ったが、ひんやり秋の気温が心地いい。私と妻は中心市街をそぞろ歩いた。

ホテルの小窓から、人が昇っている姿が望めた、きっと有名な時計台がある塔が、9時からエレベーターが動き登れたので、中心部の高いところから、これもプラハの思い出にと、二人で上った。もちろん入場料がいる。

上って本当によかった。朝日に照らされた、快晴の市の中心部からの旧市街の眺めは、今も眼底に焼き付いている。オレンジの色の屋根また屋根が、なんとも見事にひしめいていて、カレル橋や昨日散策した、教会も対岸に見える。

塔は四角形で、360度歩け、すべて見渡せる。遠くにしかビルディングが見えない。見知らぬ若いアジア系の女性に写真を撮ってくださいと頼まれたので、もちろん撮ってあげたのだが、欧米系始め中国や台湾、韓国、日本の観光客が多い。

わずかの滞在だったが、あらためてプラハという街の人気がうかがえた、その人気の秘密は何かにわかに知りたくなったが、ドレスデンにしかないなにか、プラハにしかない何か、ベルリンにしかない何か、がきっと旅人をひきつけるのだろう。

妻とヨーロッパの街を二人して歩いたのは、34歳の新婚旅行以来、もちろん東欧の街を旅したのは初めて、繰り返すが娘が異国の男性と結ばれなかったら、おそらくこのような番外の旅は我々には訪れなかったかもしれない。

たんなる観光の旅はできたかもしれないが、今回のような意外性の連続の旅は、まず不可能ではないかと思う。人知の及ばぬ、何かのお導きというしかない、生涯にそうは何度も訪れない類の旅だというしかない。

話は変わるが、父は晩年、散々苦労をかけた母と、国内外どこへゆくにも二人で出かけた。昔気質丸出しの、無骨極まりない、大正男児そのものというしかないくらい、生き方が直線的な父だったが、最近感じるのはその父に自分が限りなく近づきつつあるという、ちょっと困ったなあ、というほろ苦い認識である。

だがしかし、あの両親のDNAを色濃く受け継ぎ、この世に生を受け、その後の時代環境の中で育まれた厄介な自分の性格を引きずりながら、生き恥さらして今後も生きるほかはないことは、自明の理なれど、今回の思わぬ旅は、晩年のこれからをいかに生きてゆくかの、大きなターニングポイントの旅であったことは、間違いない。

だからなのかもしれない、ドレスデンへの旅を、このようなかたちで綴りたくなるなんてことは考えもしなかったが、とにもかくにも、なんとか8回書くことができたことは、何とはなしにうれしい。

最後、プラハの塔から眺めた時、今回の旅はこれで終わりという感慨がにわかにわき起こってきた。頭の切り替えができ日本に帰るぞと思った。最後のクローネの小銭で、思い出に数枚の絵ハガキを買った。その塔の絵ハガキは妻が我が家の階段に飾った、懐かしい。

話は戻り、古い螺旋階段ホテルに戻って荷造りしチェックアウト、苦労して何とかたどり着いたこのホテルのことは忘れない。チャンスがあったら次回は一階に泊まってみたい。ワゴンタクシーでほかの客と乗り合わせ、一週間前着いたプラハの空港に余裕を持って向かった。

空港では待ち時間がたっぷり合ったので、この一週間の印象的な出来事をメモしているうちに、帰国のフライトタイムとなった。プラハの空港は広々としていて清潔で、余計なお店が少なくさっぱりしていて落ち着けたた。

入管検査では、入国も出国も一切手荷持元検査がなかったことにも驚いた。ソウル・インチョンとのあまりの違い。時代は変わるのだということの認識を新たにした。

行きはインチョンから大韓空港でプラハへ。帰りはチェコの航空会社でインチョンに向かった。インチョンから関西空港へ、旅は終わった。


0 件のコメント:

コメントを投稿