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2014-10-19

ドレスデンへの旅・6・【結婚式当日に思ったこと】

今日は10月18日、ちょうど娘の結婚式から一月がたったが、未だあの日の出来事は、鮮やかに記憶の中で蘇る。

式は公的機関の、村の役所が持つ古い由緒ある建物で、つつましやかに行われた。参加者は、親族と友人のみで厳粛に進み行われた。

娘のドレスアップした、花嫁姿を見たときには率直に美しいと思った、友人のチェンバロ奏者、新谷さんのCDの曲で入場してきた二人を見たときには、ジーン胸が熱くなった。

式進行をつかさどる女性が美しいドイツ語で語る言葉の数々を、怜君の大学時代の友人のT氏が見事に通訳してくれるので、すべてが理解できたし、簡素で充実この上ない儀式を私も妻もしっかりと眼に焼き付けた。

式を終え外に出ると、この地方での結婚式には欠かせない、手なずけられた白いハト(7羽くらい)が花嫁花婿を祝福する、いわば幸せの伝道師的芸の名人が待機していた。思いもかけぬ余興を全員で楽しんだ後、近くのカフェレストランに移動して、かるいランチをしながら、初めて会う方達とご挨拶款談。通訳のT氏がついていてくれたので、、まったく問題なく嬉しく。そして助かった。

午後2時半、場所を移動。エルベ川が眼の前の素敵なレストランで総勢60名に及ぶ結婚披露パーティが始まった。、それはそれは、用意周到に準備され、楽しく構成演出されたパーティで、あらためて、怜君の人間力が多面的に発揮された見事なパーティでした。

パーティは、それぞれの両親のお祝いの言葉で粛々と始まり、(私もスピーチをしました)参加者全員の人柄がわかるゲーム、自由に席を行き来しながらの、ケーキのティータイム款談、夕方1時間半のエルベ川散策オフタイム。

このオフタイムが、ことのほか印象深く残っています。おのおのビールやワインを抱えて、初めて会う方達と、記念写真を撮ったり、言葉を交わしたのですが、私は最年長の怜君のおばあさんと款談しました。

若いころからの、たいへんな時代を生きたお話に聞き入りました。ドレスデンの最も激しい空爆が、2月の13日だったのを聴いたときには思わず驚きました。私の誕生日だったからです。ますます、私はドレスデンに、何やらわからない近しさを覚えました。通訳はすべてT氏がしてくれました。

話は余談ですが、3月10日、母の命日ですが、東京大空襲の日です。今もシリアや、イラクや、パレスチナやアフガニスタンで、空爆が行われ、ややもすると遠い異国の出来事と、無関心になりがちですが、落とす側と、落とされる側では、天国と地獄です。(最低の世界の非常時に耳を澄ます想像力は、元気な間は見失いたくはないものです)

話を戻して、それを終えてから、ディナータイム、子供たちへのプレゼントタイム、そしてケーキカットへと続き、ごご10時過ぎからは、多国籍参加者の若者たちで選抜された奇抜な椅子取りゲーム。

司会進行、曲の選択は弟のマーカスが担当、兄貴のお祝いの式を存分に盛り上げていました。そしていよいよは、最後は子供、(この子供たちが日本に来たら、我が家にホームステイしてもらいます)老いも若きも入り乱れてのダンスタイムへと、時は流れてゆきました。

夜も更けたパーティ会場には、外に焚火が灯されていました。私は踊らずに、しばし火のそばで夢のようなパーティ時間の余韻にひたりながら、娘が異国の男性と結ばれることで、このような未知の時間が流れることの不思議さに思いをはせました。

午前〇時過ぎ、パーティはまだ続いていましたが、お母さんやお父さんたちとハグして別れ、椎谷の曲がりくねったドレスデンの街を、タクシーでホテルに向かいました。

娘が生まれて25年の歳月。私の人生再出発は、37歳、娘の誕生とともに始まりました。そして今娘とのいい意味でのお別れの日がやってきたのです。私は焚火を眺めながら、いよいよもって自律した晩年を、元気な間は深く意識して生きることに、決めました。

ドレスデンへの旅は、いくらつたなくても何らかの形で、今の思いを記しておかねばという想いが書かせています。この結婚式は、怜君と娘が私たち夫婦にプレゼントしてくれた旅です。この場を借りて、娘が選んだ男性、そして日本名まで名乗ってくれる日高怜君に心から、義理の父親として感謝します。



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