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2014-10-27

ドレスデンへの旅を書き終え、思うこと。

読み返してみると、誤字や、日にちの間違い、変換ミスが多くなんともお恥ずかしくはあれど、ほぼひと月以上かかって、お休みの日に体調を整え集中してなんとか終えることができた・ドレスデンへの旅。読み返すともっと書いておきたいことが、次々に起こってくるのだが、その時に即興的に浮かんできた、ライブブログ文章なので、そのままでいい、と思う。

書き終えて思うことは、あらためて体力気力、それにやはりこれが一番肝心なことなのだが、素直に、無心になれる時間がないと、つたなくはあれ、文章は紡げないということである。でも、今回は何としても書いておきたいという、内なる思いが強く、正直書き終えてほっとしている。

人間同時に二つのことは、とくに私のような単細胞はなかなかにできない。頭のスイッチを切り替えることが、なかなかに難しいのである。仕事をしながら、日々なにがしかのことを抱えながら、でも個人にとっての大切なことを、きちんと整理しておくことは、やはり肝要なことではないかと思う。

人間は忘れゆく生き物である。だからこそ新鮮に生きられる、とも思う。だが、瞬間どうしても忘れたくはないというような切実な出来事は、書いておくにこしたことはないと、最近歳を重ねるに従って思うようになってきつつある。

人生には締め切りがあるということ、このことだけは元気なあいだ、考えることができる間は、夢夢忘れてはならないことだと思う。だから、今日も私は書いているのかもしれない。若い時にはそんなことは考えもしなかったが、若い時には若い時にしかできないことを、やればいいのだから。

実は今朝眼が覚めて、夜明け前の暗い中、所々昨夜の雨で水たまりができている運動公園にゆき、散歩がてら軽い運動をして、もどって残り湯を沸かし、さっぱりしてから書き始めたのだが、体調がいい。気分がいい、前向きになれる。

これまで、ブログは起きて間もない時間に書くことがほとんどだったのだが、それを止め、休日のブログは朝の散歩の後に書くことにした。休日の朝をメインに週に2,3回貝つづることができたら、と考える。平日は畑仕事と、わずかな読書タイムでほとんどが過ぎてゆくので、そうは書けない。

これからは、書くための体力の維持が(なにをするにおいてもなのだが)、ことのほか重要、との自覚が私の中に、目覚めてきた。特にドレスデンから帰ってきてからは。食生活も含めて、何かを変えたいという、にわかな思いが強まってきたのである。

若い時には体力に無自覚だが、この歳になると足が上がらなくなったり、筋力の衰えなんかをあちらこちら自覚するようになる。だから、自覚があるうちに、なんとか衰えゆく、我が肉体を少しでも刺激し、そのための工夫に対してより自覚を深めないと、といわば考え始めたのである。

でもつらいことはしたくはないし、無理もしたくはないので、愉しい範囲での無理を、いわば心懸ける、といったたぐいの努力を自分に課すことにした。努力ということをほとんどしない人生を自分は歩んできたし、今更できないことは承知しているので、遊ぶ程度の。

遊ぶということが、人間にとって最も大切なことだという認識が私にはある。自分が遊ぶためには少々のおカネが必要、だから、知恵を絞る。私の旅は最低限のお金がいる。だが、旅をしない時、私が遊ぶのにはほとん度お金が不要である。

古いぼろい服を着てても、清潔に洗濯してあれば、、十分にトレーニングできるし、普段の暮らしは、次の旅への愉しい節約ライフでもある。目的があれば、日々の暮らしが、必然的に充実してくる。工夫を凝らすことで、脳のシナプスも活性化するようなライフうスタイルを、心懸けたい。

つつましやかに暮らしながら、時折ちょっぴりの自分らしいぜいたくを実行する。人と比較しない、しえない、なぜなら人は、それぞれ異なる固有の個体だからである。参考にはなっても(しても)、自分はあくまでも自分でしかない、自分というくびきからは逃れようもない。

だから私は還暦退職を機に、可能な限りのあらゆるリセットをこの数年遅々と進めている、つもり(あまりはかどってはいませんが)なのだが、娘が嫁いだことでなにやら、ゆるやかな自覚的変化がより訪れてきたように思える。


























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