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2014-04-09

思わぬお葉書をU女子から頂いて、オシャレについて考える。

カルチャープラザで、たった一人の貴重というしかない生徒さんU女子からお葉書をいただいた。

こないだのレッスン風をひかれて、お休みを初めてされたので、心配していたのだ。端正な文字で書かれたお葉書で、少し安心した。何せ、高齢なので、こじらせないように、と願うしかない。

私が軽井沢に、姪の結婚式にゆくので、良きご旅行をと添え書きがあった。消費税分の2円の切手が張られた葉書。

繰り返し、3度ほど読んだ。今も手元の置いてブログを書いている。この5カ月、毎週月曜日午前、二人だけのレッスンを続けているが、この二人だけのレッスンは、私にとっては、とても大切な楽しみの時間となっている。

逆になって考える。もし自分が彼女の年齢で、あれほどきちんと一人で矜持を持って、端然と生きられるだろうかと、私はUさんを見ながら、自問自答する。

ヒトはどんな人間も老いてゆく。いま超高齢化社会が訪れているが、私は母と、Uさんから可能な限り、いろんなことを学びながら、老いに向かい合いたいという気持ちをもって生きている。

どうしたらあのようになれるのかを、ささやかに自問自答するしかない。二人に共通するのは、好きな世界を持っているということと、本質的にユーモア感覚が在る、それからオシャレである。

こんなことを、書くのはいささか恥ずかしいのだが、上の娘が巣立ち、私が再び働き始め、数十年ぶりおこずかいが増えた。そこで、男の私ではあるが、還暦も過ぎたのだし、これからは少しオシャレというものに、関心を向けてみたいというか、着るものに関して、少しこだわってみたいという
感覚が芽生えつつある。

オシャレと、一言でいうが、その人らしいオシャレだなあ、と私が感心するようなオシャレをしている方は、さほど多くは見当たらないというのが、正直な私の印象だ。

ぼろっちい、着古したものを着ていても、その人の何かが備わっていれば、かっこいいと、私は感じる。私の尊敬する、中村哲先生は、いつも同じような背広姿だが、もうほかの服を着ている姿が想像できないくらい、私からすればかっこいいのである。アフガニスタンで重機をあやつる先生はサイコーにカッコイイ。

話を戻す。一口にオシャレというが、本当に奥が深い。イギリスの劇作家、オスカーワイルドは、衣装は肉体の一部だと、言っている。

刑事コロンボの衣装も、車も、コロンボ警部にはぴったりである。内面は外面に出るとは、シェイクスピアの言葉。ことほど左様に、衣服を含め、外面を覆いかざるものは、見る人が見ればすべては、さらけ出してもいるというわけで、恐ろしいことこの上ない。

ヒトは生きてゆく術として、あらゆる仮面を情況に応じて、身につけねばならないという宿命があるとはいえ、老いてゆくことの中で、その仮面を一枚一枚はがしてゆくオシャレを、ひそかに楽しめたら、これもまたいとおかし、と私は考える。

お金のあるなしに関わらず、何かを工夫して楽しむ知恵のかたまりのような時代が1万数千年の遥か昔、縄文時代には、文字や紙すらなかったのに、高度で豊かな文明があったということをわずかだが知るにつれ、今我々が過ごしている時代のなんたる画一的面白みの少なさには、いささかまいる。

ともあれあ、朝から思わぬ流れになってしまったが、もし私らしくオシャレができるものなら、ささやかに、追求してみたい。


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